白虎夜

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梗 概

白虎夜

「睡眠時間とは一頭のトラである」

これは小説家ではなく科学者の言葉だ。

 ホワイトタイガーのハリマヲは、終電を過ぎた京王線新宿駅のプラットフォームのベンチに寝転ぶ酔っ払いの睡眠を貪っている最中に、向かいのホームでうなだれている大学生の眠りに同じようにかじりついていたメスの虎ティグリスと出会う。滅多に会うことができない同胞との邂逅に喜んだハリマヲは夜の街を歩き、彼女に身の丈を語る。

 ハリマヲは元々、都内の私立校に通う高校生胤井三久から生まれた。女が眠りに着くと同時に彼女の体から目覚め、夜な夜なこっそり食料となる他人の睡眠を求めて歩き回っていたが、ある日授業中に三久がうたた寝したせいで学校の教室に出現したせいで、大学の実験室に運び込まれる。そして彼は自然現象の一部だと判明する。

 一般的に人間は体表と体深部の温度差が縮むことが知られているが、三久のように特殊な体質を持つ人間は体表から放出した熱を極めて高度に濃縮させ、熱を持った水蒸気の塊で一頭の虎を作り出す。驚くべきことに世界中にこの体質を持った人間は数百人確認されており、ロシア東部の沿海州シホテアリン山脈にかつて存在した少数民族には、眠っている間に生じたトラ同士を戦わせる風習さえあった。三久の祖父は赤ん坊の頃に満州から復員してきた経験があり、彼女はどうやら隔世遺伝でこの民族の体質を受け継いでいたようだ。

 三久の同級生がハリマヲを撮影した動画をSNSに投稿したことをきっかけに、彼はテレビ番組に呼ばれるようになり、自分が食った睡眠からエネルギーと記憶を蓄えるこの虎はウィットに富んだかユーモラスな話術で一躍お茶の間の人気者となる。

 しかしすぐに、虎たちのもう一つの正体が暴かれる。さるロシアの寝具会社はシホテアリン山脈周辺に工場を経営し、そこで雇った地元の住人に給料を与えて四六時中眠らせ、彼らが先祖代々受け継いだ特殊体質によって形成する熱でできた虎によって「15分の仮眠を一晩の熟睡に変えるマットレス」を製造していたことが報道された。ニュースが知れ渡ると、彼らが強制労働を強いている「工場睡眠者」の家族が企業を訴え始めた。

 騒動のあおりで、一転、お茶の間の人気者だったハリマヲは、搾取の象徴として非難の的となり、人間の眠りを食い物にする害悪としてネット上で誹謗中傷の書き込みがされたり、駅前でデモが行われるようになる。

 三久に迷惑をかけまいと、ハリマヲは、自らを葬るための冷房装置を購入しようと、アルバイトを始める。自身の熱を生かして、彼はEVスタンドや発電所で働き始めるが、実はそれほど大きなエネルギーを持っているわけではないことが判明し、自動車一台にエネルギーを吸い取られ気絶する。仕事終わりに腹をすかして、駅のプラットフォームで居眠りしている男を見つけたときに、彼はティグリスに出会った。

 同社のマットレスを愛用するオランダ人医師の元で暮らすティグリスは、彼の観光に伴って日本を訪問していた。ティグリスは、毎晩老人ホームや病院を回って弱った老人たちの睡眠を喰らい、ときには体力を奪われた老人が冬の朝にそのせいで命を落とす。「私と一緒にアムステルダムに来れば、誰にも迷惑をかけずに食事ができる。老人が死んでも誰も不思議に思わない」と、都心のネットカフェでの睡眠ディナー中にティグリスに持ちかけられ、ハリマヲも心が揺らぐが、突然時差ボケでオランダ人医師が目覚めたためにティグリスが目の前から急に消えてしまう。

 彼女との突然の別れを受けて、自分もまた三久から離れられないのだと悟ったハリマヲは、彼女が目覚める前に帰らねばと、夜明け前の東京を歩いて自宅に急ぐ。

文字数:1509

内容に関するアピール

設定した時間は一晩。そして睡眠時間としての一頭の虎です。

時間を虎に例えたのは、ボルヘスの「Labirinths」にある「Time……is a tiger which destroys me, but I am the tiger」というフレーズに由来します。

梗概は設定を書いたらいっぱいになってしまったので、実作ではハリマヲとティグリスのやりとりと、どういう経路で夜の街を散歩するのかについて書き足していきたいと思っています。

同時に、虎を生み出す人間と虎自体とのペア関係についても納得のいく解決を補います。

文字数:243

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イキワカレノイモウト

今回の実作は進藤尚典さんの梗概をもとに書きました。

****

 

7月28日

 イモウトの看板を初めて見た。黄色いひし形のよくある道路標識だが、真ん中には学校や幼稚園が近くにあることを示す学童のシルエットの女の子の方だけが描かれ、その下に白バックに黒字で「動物注意」と書かれた別の看板がもう一つ付いていた。貴章に、あれ、何だろう、いたずらかな、とその場で聞いてみたが彼はその看板の異様さにさえ気づいていなかった。子どもの絵柄に「動物注意」なのだからいたずらに決まっているし、そうであればすぐに撤去されるだろう。そのときの私は「イモウト」という生き物を知らなかったのでそれが当然だと思った。

 

 そもそも、なんで紀伊半島に行くことになったのか。今年の正月に中学校の同級生だった貴章と会った。中学の頃の友達はそんなに多くない。貴章と真一ぐらいだ。その頃から貴章は、親が不動産をたくさん持っている金持ちだったので、彼の大きな屋敷になんども遊びに行った。卒業した後も貴章とは何度も会っていたが、真一とは連絡を取っていない。そのとき貴章と会うのは確か三年ぶりだった。貴章は四年ぶりだったと言っていたから本当は四年ぶりかもしれない。真一とはずっと会っていない。紀伊半島に行くことになったのは、小さいけどプライベートビーチのある別荘を親父が買ったから遊びに行かないかと彼が誘ったからで、それだけのことだった。

 真一が和歌山に住んでいることを俺は知らなかったが、そのときすでに貴章は知っていた。俺が結婚したこと、相手が高校の同級生であることを伝えると一緒に来いよと言った。その話をすると妻も乗り気になったが、夏休みのスケジュールの都合で8月に入ってから合流するということになった。貴章は好きなだけいていいと言っていた。彼自身働いていないので、そこにはいくらでもいることができたし、それでもだいたい一週間くらいは滞在するつもりだった。

 新宮駅までは貴章が迎えに来てくれて、そこから車で四〇分くらいかけて別荘に着いた。実際には別荘というよりも寮のような3階建てのコンクリートの建物で、1階には襖で仕切れる畳の大部屋が二つと共同風呂、キッチン、2階と3階にビジネスホテルみたい個室部屋が計6部屋あった。大部屋はユースホステルのように使っていて外国人のバックパッカーとか、大学生のサークル合宿が利用していた。施設は雇われで地元のおばさんが一人で管理している。白髪混じりのボサボサの頭にいつも同じ色のあせた茜色のエプロンをした小柄なおばさん、叫ぶような話し方をするので雑談をするようなことはほとんど想像がつかなかった。施設中にコピー用紙にマーカーで注意がきを書いたのを張り巡らしていて、その決まりを破るとものすごく叱られた。

 俺と妻には204号室をあてがわれた。貴章は306号室を自分の部屋にしていた。確かに建物の入り口と反対側が小さな砂浜のついた入江になっていてプライベートビーチとして利用できたが、水着で遊んでいる大学生の横で同じようにはしゃぐのは気恥ずかしい気もした。

 別荘から15分くらい歩くと、観光用のもっと大きなビーチにたどり着く。その周辺には規模の様々な多くの宿泊施設と、宿泊客でなくても入浴できるもっとたくさんの温泉があり、回数券を買えば銭湯のように利用できた。

 夜は貴章と二人で、近所の居酒屋で刺身を食べた。昼と夜の計2回、別々の温泉に一人で入って、22時半にはぐったり眠った。

 

7月29日

 真一とばったり会った。スーパー、というよりもそこを結局俺たちはスーパーとして使うようになったが、場所の半分は土産物屋として機能していた。そのときの真一は一人だった。先に声をかけて来たのは向こうだった。高校を卒業して十年以上会っていないのだ。そのときの真一はランニング用のスニーカーに、紺色のジャージを穿いて、上は真っ白なシャツ、首には手ぬぐいを巻き、顎から頰にかけてヒゲが少し青くなり始めていた。真一は元々一七〇センチあるかないかの身長で、細身だったが、そこで会ったときの彼はかなり胸板が厚くがっしりした体型になっていて、彼が彼だと気づけなかった。「おー」と、歓喜の声をあげて近づいてきて「浩太じゃん」と言ったとき、こちらもやっと確信が持てた。話しているうちに、確かに真一はこういう話し方をしていたとも思い出したし、それにしても年を取ったからやはり自分も相手も高校生ではないんだとも感じた。俺は、観光で来ているし、貴章も近くにいると伝えると、彼は自分は少し離れたところだが近くに住んでいると答えた。詳しい話は長くなるので、飲みにでも行こうということになった。貴章にも連絡したが、連絡がつかなかった。それはよくあることだった。

 

7月30日

 次の朝は別荘管理のおばちゃんに叩き起こされた。目が覚めると、別荘の2階と3階の間の階段で眠っていたので真一と二人でものすごく怒られた。二人でキッチンに降りて行って水を飲んだ。何軒か飲み歩いた後、タクシーがつかまらなかったし、真一ももう帰る手段がなかったので、別荘まで歩いて帰って泊まったはずだ。すでに深夜零時をとっくにまわって、おばちゃんが施設の鍵を締めてしまった後だったので、臨時のときのために貴章から預かっていた鍵を使って中に入った。そこまでは覚えているが、きっとその後に部屋に着くまでに力尽きて眠ってしまったのだ。真一から普段から、こんなにだらしないのかと聞かれて、こんなのは学生のとき以来だと答えると、そうか、俺は大学行ってねえからな、と少し寂しそうに言って、それからすぐに帰った。

 シャワーを浴びて眠り直し、真一の話を思い出そうとした。そのときは日記を書くなんて少しも考えていなかったので、ただ財布の中に溜まっていたレシートの裏をメモ代わりにしてばらばらと、書いた。

 野々村真一は大学受験に落ちた後、遠い親戚の誘いで未経験者用の林業雇用プログラムについた。受けた大学を一通りに落ちてしまい、最初は浪人するつもりでいたのが、高校を卒業した後、無気力状態だった彼を見かねて両親が親戚に相談してまわっていたことを彼は後から知った。合わなかったらやめたらいいし、大学受験はその後でもできる、そんなんではどうせ来年も受からんだろうと母親に言われて1年間の研修に応募した。研修施設での座学を終えて、この近くの区域ーと言っても車で2時間くらいはかかる場所だがーにトライアル雇用で住み込みで働いた。それが終わる頃には、どうしてもこの場所が気に入り、また戻ってくるために仕事を続けることにした。今の職場では働き始めて、三年になるということだった。男臭くて、一見乱暴な人たちばかりなので、最初は馴染めるか不安だったが、彼らも言葉がぶっきらぼうなだけで、情に深い人ばかりで、今はもう自分もその一員だと話した。

 日が暮れそうになっていた。昼まで寝ていたので、このままでは夜になっても眠れないと思い、別荘裏のビーチに泳ぎに行って、クタクタになるまで泳いで、シャワーを浴びて、ビールをたくさん飲んで眠った。

 

7月31日

 妻と電話で話した。翌日にはここに来ることになっていたが、やはり3日に延ばしたいという連絡だった。ちょうど、貴章が施設の宿泊受付の待合室にあるソファに寝転んでビールを飲んでいた。妻が到着するのが3日になると伝えると、まったく構わないと言われた。隣で、家族連れがおばちゃんにチェックアウトの支払いをしていた。客の前で寝転ぶなと、おばちゃんは貴章に言い、彼も少し悪びれて謝った。

 真一と会ったことを話すと貴章が、じゃあ奥さんも来ないし、あいつのとこに行くかと言った。貴章が真一と連絡を取り、すぐにOKになった。貴章は、前から真一が近くに住んでいるのを知っているようだった。昼食を食べると、貴章は酒が飲みたくなるな、と飲めないことを悔やんで少しだらだら過ごした後、昼過ぎに彼の中古のセレナで真一の家に向かった。文句を言ってはいたが、貴章はかなり車の運転が好きだった。確かに真一の住んでいるところまでは2時間以上かかった。山道を1時間も走ると道路はアスファルトでなくなり、土と落ち葉とを平らにならしただけの道をがたがたと走った。1時間半くらいそういう道を走ったが、車の揺れが木になるせいで3時間くらいに感じた。貴章は、先週出席した姉の結婚式の話をその間ずっとしていた。

 鬱蒼とした新緑のトンネルをくぐり抜けるようにして、山間の集落にたどり着いた。斜面は決して平らでなく、それでも家が建てられるようにしてなんとか段々になった土地に、比較的大きな民家がポツンポツンと並んでいる。道沿いには大きなヤギを連れて歩いているおばあさんや、屋外で集ってボロを着たまま麻雀をしているおじいさんたち、大音量で競馬の中継をラジオで聞いているおじさんがいて、貴章があれだ、と言って指をさすと、それが真一の家だということだった。

 真一の家は庭付き二階建ての一軒家で、賃貸だという話だったがそれは一人で住むにはかなり大きな家だった。インターホンを押すと、この前と大差ないジャージとTシャツとという格好の真一が出てきた。「明日はいいけど、明後日は俺仕事だから」と言われた。建物を見渡して、「お前独身だろ、すごいな一人でこんな家に住んで」と言うと。「立地がこれだからな。それに妹と一緒に住んでる」と答えた。妹? 知っている限り、高校のときにこいつには兄貴しかいなかったはずだ。

 

8月1日

 翌日早くに目が覚めて、朝焼けと言わずとも、午前の早い時間の澄み渡った空気を通る光の揺らぎが綺麗なので、そのどこもかしこもなだらかでない道を散歩していると、腰の曲がっていないしゃんしゃんと歩く婆さんが、じっとこっちを見て「お前、誰や」といきなり話しかけてくる。ぎょっとして後ずさるが、向こうも踏み込む。

「ああ、あれか真一くんの友達か、昨日来とるって言うとったな。おはようさん。こんなとこで一人でなにしとる」

「ええ、どちらさまですか」

「どちらさまって、坪井のばあさんやわ」

「はあ」

「あんたに言ってもわからんか。まあ、ええわ。あんた、真一くんの友達なんやろ」

「さっきも言いましたよね」

「わかっとるわ。まだぼけとらんぞ。あんた頼むで、あの子んとこの猿、追い払ってくれ」

「猿ですか? 動物の」

「ほかに何があんの。昔っから組合長さんとこ行って追い払ってくれってクレームっちゅうやつずっとだしててん。ほんでも、実害があるわけやないからあかんって、駆除できへんの。なに考えとるんやろうな。ほんなの、せっかく若い子に来てもらってもお嫁さんもらう気ないなら後継者もできへんのやから、それが実害やって言ってるんやん。まあ、聞かへんわ、あれもあかん」

「ちょっと話がわからないんですけど」

「あんた、あれか。頭、ぱあか」

「いやあ」

「まあええわ、猿や。おったらわかるで、ほんでな猿、見たら追っ払ってくれ。おばちゃんのお願い。ほれだけ。覚えといて」

 坪井のばあさんというのと別れた後に、真一の家に帰ると、キッチンで貴章と真一と見知らぬ女の子がいた。見たところ高校生ぐらいで、顔立ちは端正だが鼻と顎の角度が全体のバランスを崩していた。しかしそれは醜いのではなく、未熟さの、そしてあどけなさしるしであった。Tシャツにショートパンツ、壁にもたれてスマートフォンをいじりながら気だるそうに、まっすぐに白い太ももを伸ばした素足を先っぽのほうで組み替えた。こちらをちらっと見たが、愛想はなく、また画面に目を戻す。

「真一、この子、誰?」

「お兄ちゃん、この人誰?」

「浩太、岬って言うんだって。二人でここに暮らしてるって。」

 貴章が朝食を温め直して食事をした。貴章はまるで全く最初からあたりまえにその子がいたかのように振舞っていた。岬は真一に、おにいちゃん、おにいちゃんと言って話しかけ、俺や貴章にはとにかく愛想がない。真一にしたって、岬にはこちらが見たこともないようなでれでれした顔をして受けごたえをしていた。妹がいたなんて、やはり聞いたことがないのだ。そう言うと、真一は、

「訪ねてきたんだ。生き別れだったんだよ」と答えた。

 

8月2日

 その日は雨が降っていた。貴章も真一も家からいなくなってしまって、岬と二人で過ごした。二人と言っても会話はなかった。空が曇っていたが、それ以上に朝から気圧が低いので頭痛がした。今にも雨が降りそうなまま、一滴も降らないで正午を過ぎた。6畳の小さな居間には小さな卓袱台。壁沿いに真一の小さな本棚があった。岬がそこから聞いたことのない作家の推理小説を出してきて、一人で読んでした。それが本を読むことに俺は少し驚いた。昨日とは別のTシャツを着ただけで、似たような格好をしていた。ライムグリーンのショートパンツを履いて、壁にもたれたり、うつ伏せになったりして足をもぞもぞと動かす。

 君、いくつ? いつから真一と住んでんの? 学校は行ってるの? 勉強、教えてあげようか、友達は? いくつ質問をしても岬は答えなかった。 真一がいないと会話にも応じてくれなかった。キッチンの椅子に座って自宅から持ってきた本を読んでいる俺を一度きっ、と睨むとどたどたと、梯子型の階段を登って二階に上がり、スマートフォンにイヤホンをつけて戻ってきて、これ見よがしに会話を拒絶した。

 雨の匂いがして、結局それが降ってきた。

 岬が急いで外に走り出すまで、洗濯物が中庭に干してあることさえ俺は知らなかった。なんで今日のような日に限って干して行ったのだろう。気づいて、岬がそれを取り込むのを手伝おうと、外に出たシーツをひっつかんで駆け込んできた岬が俺にぶつかるかたちになり、思わず受け止めた。なにも言わずに向こうは振り払った。鼻の前を腐る前の果実の香りが掠めた。片付けが終わると勝手に着替えを持って風呂場に入っていった。さっきまで岬がいた空間が空っぽになると、調子が狂って落ち着かなくなった俺の頭に本の内容は一切入らず、シャワーの音だけを聞いていた。真一と貴章が帰ってきたのはだいぶ後になってからだった。

 

8月3日

 妻が到着する日だった。朝食のときに車がないと別荘まで帰れないので、貴章に車を出してくれと頼むが彼は拒んだ。真一もその日から仕事に行ってしまったので、他に頼む相手もいなかった。

「なんでだよ。景子が来るのは言ってあったよな」妻は景子と言う名前だった。

「気分じゃないんだよ。仕方ないだろ」

「じゃあ、どうやって帰れって言うんだよ」

「なんでも俺に頼むなよ」

 貴章は基本的には楽天家で陽気なやつだが、マイペースでときに、傍迷惑な気分屋になり、面倒なことにひどく頑固でもあった。口論の途中で、こいつはキレるとものを壊し始めるというのを思い出した。岬が横で薄ら笑いを浮かべているのに気が付いた。俺が彼女のほうを見ると、

「おじさんたち、うるさい」と答えた。俺と貴章が言い争っているうちも真一はへらへら笑っていたが、昼過ぎに組合長の奥さんのみのりさんという人が街に買い物に行くので乗せて行ってくれることになった。みのりさんは「あんた、どこの人?」と聞かれたので、家は名古屋にあると答えた。「名古屋の人やのに、車、運転せえへんのか」と言われた。俺はみのりさんに岬のことを尋ねたが、

「あんた、そんなことも知らんで来たの?」と呆れられた。

「イキワカレノイモウトってね、十年くらい前かにテレビで話題になったの見いへんかった? 東京からもワイドショーの人とか来てたの」

 最初はなんの話をしているのかわからなかった。彼女は突然、食べ物を求めて山から食べ物を求めて降りて来る猿の話をしていた。人里にやって来る猿というのは概ねオスで、山に残っているメスや子どもに食料を分け与えるのだという。確かに帰りの山道には時々、黄色いひし形の看板があり、猿のイラストとともに動物注意と書かれていた。それからあの登下校の女の子のシルエットに「動物注意」という、初日に見たのと同じ看板も見つかった。あれがなんなのかみのりさんに聞くと、それが結局その今話した猿の話だということだった。猿はまず最初に人間の若い男の家に来て、自分が「イキワカレノイモウト」だと名乗って媚びを売るのだそうだ。

「わからん人やね、その女の子が猿なの。しかもオスの」

 そうして至った結論はにわかには信じがたいことだったので、俺は到着するまでに彼女に三回も同じ説明をさせた。つまり十代の人間の女の子そっくりに化けるオスの猿というのがいて、人間に寄生し食料や金銭を奪っていったり、人間のお金で買い物をして勝手に食事を作ったりするということだった。そして、その猿というのが真一の家にいたあの岬という娘のことだった。

「あ、」と声に出し、俺は坪井の婆さんがしていた話を思い出した。その話を、みのりさんにすると、あの婆さんは有名なイモウト駆除派の住人らしく、若い男がイモウトに寄生されるのをとにかく害悪と捉えていて、その理由は昔旦那がイモウトに入れ込んで家を出ていった過去があるからと言う話もあった。組合の中にも真一の他に何人かイモウトに寄生されているものがおり、基本的に害と言ったものもないのだが、ごく稀にその猿に入れ込んで、仕事に来なくなってしまうものがあるということだった。

「真一はそのことを知ってるんでしょうか」

「なんのこと」

「あれが猿で、妹でも人間でもないということを」

「もちろん。真一くんなんか、研修生の時からあれに入れ込んどったでね」

「一〇年以上もですか」

「まさか。今住んどるのはそのときとは別の猿」

「それは……なんというか、ごっこ遊びのようなものなんでしょうか」

「なにが?」

「だって人間でも妹でもないんですよね」

「そうかもしれんけど、そんなこと言ったら怒るやろうな」

 観光街に着いたあと、ビーチの前の道路沿いに立っている、ギンガムチェックのシャツにデニムのワイドパンツ、サンダルを履いて、白いロープの生えたハンドバッグを両手で大事そうに持つ短く髪を切りそろえた妻の姿を久しぶりに確認した。サングラス越しでも彼女だとわかったし、向こうも俺に気づいた印にそれをはずしてフレームの上からこちらを覗いた。彼女と予約していた近くの旅館にある料亭で和食のコースを食べた後、海辺を散歩してからタクシーで帰り、シャワーを浴びて二回、性交した。

 

8月4日

 明け方にももう一度性交して、昼まで寝ていた。彼女は俺よりも早く起きて、どこかに出かけていた。きっと散歩だろう。彼女は歩くのが好きなのだ。数日ぶりだが、何ヶ月も離れていたような気がして、妻に会うとその前のことを少し忘れて落ち着いた気分になった。それでもイキワカレノイモウトのことは頭の片隅にあって、ネットでそれについて調べ始めた。

 

8月5日

 この日と翌日は一日中、妻と温泉をまわっていた。今思えば旅行中でこの時が一番楽しかった。我々が仲良くしていられるのは、妻が出張の多い仕事をしていて、週の半分は顔を合わせないでいられるからだという話になった。俺も皿洗いとゴミ出し以上のことをするように約束をさせられた。

 

8月6日

 この数日間でその生き物についていくつかのことがわかった。

 俗称「イキワカレノイモウト」と呼ばれるその猿は、学名 Hylobates homos は日本には珍しいテナガザルの一種で、原産地はインド。直接の祖先は中国に生息する亜種で、奈良時代に朝廷貴族のペットとして多く移入されたが、没落した貴族の手放したものが野生化して根付いた。古来からオスは人間の子どもに似た容姿を持っており、インドや中国でも頭以外の全身の毛を剃って服を着せて育てる風習があったという。知能はチンパンジーよりも高く、成体で10歳程度の子どもと同等であるとも言われているが、寿命は30年前後で、1970年代に人間の飼育下で50歳まで生きた個体がベルリンの動物園で確認された。長生きしたとしても10歳から30歳くらいまでが最も人間に似た容姿をしており、それを過ぎると急速に老化して腕以外はニホンザルに近いものになっていく。メスや幼少期はよりニホンザルに近い容姿をしている。

 奈良時代に野生化した世代の多くは自分で餌を取ることができず、多くが死に絶えたが、やがて人里に戻って来て人間の子どものふりをして餌を取ることを覚え、オスが率先して家族を養うようになった。

 オスの容姿や生殖器が、人間の若い女性に似ていることで、平安末期から戦前までかたちを変えながら性風俗の生業に従事させられてきたが、明治に入って法的に禁じられるようになった。976年、1342年、1798年にいずれも現在の京都府に当たる場所で、大規模な虐殺が行われており、働き盛りの男性を奪う地獄の使いとされて忌避の対象とされてきた。

 また、中国、四国北部から南部にかけて山奥で「オチゴサン」と呼ばれる民俗伝承があり、容姿の醜い子どもが生まれると山の中に投げ捨てれば、美しい子どもと入れ替わるが、その子どもは大人になる前に短命に終わると言われて来たが、これはイキワカレノイモウトに由来するものと言われている。

 名称については時代によって様々に異なり、過去には「娘」や「妾」を名乗って人間の庇護に預かろうとしてきたこともあったが、2000年代に入った後、森林伐採の影響で人里に混じって暮らす割合が高くなり、ポップカルチャーの流行などによって成人男性に生き別れた実の妹を名乗って接近するというケースが頻繁に見られるようになったという。

 

 この日の午後には妻と、近くの動物園が一体になったテーマパークに出かけた。霊長類のコーナーにイキワカレノイモウトは確かにおり、岬そっくりの、裸の人間の娘にしか見えないその猿が、その猿のメスである毛むくじゃらの猿を胸に抱いて寝転んでいた。

「なにこれ。人間にしか見えないね」と、妻が少し悲痛そうに言った。

「ああ」としか答えることができなかった。

 

8月7日

 みのりさんから電話がかかってきた。俺が山を降りてから、一度も真一が出勤して来なくなったのだが、今はもう里にもいないみたいなので、そちらに行っていないかと尋ねられた。全く心当たりはないと答えた。岬や貴章に聞くことはできないかと聞き返すと、岬の名前を出した時に、彼女は少し鼻で笑った。

「あの連れの子も一緒におらんくなった」と、おそらく貴章のことを言っていた。

 貴章には妻も会いたがっていた。その日のうちに何度か連絡してみたが、電話が通じたのは夜遅くになってからだった。いい泳ぎ場所を見つけたから、お前も泳ぎに来いと、グーグルマップの座標地図のリンクを送ってきた。

「大学生の目なんか気にせんと、子どもみたいに泳げるぞ。真一も一緒や」

 と、言っていた。真一に電話を代わってもらうまえに切れてしまった。妻と相談し、翌日はそこに行くことにしたい。

 

8月8日

 レンタカーを借りて、貴章が指定した場所に行くと、また車で2時間くらいかけて人通りのない山道を運転しなければならなかった。あのイモウトたちの標識も何度か見かけた。しかし、たどり着いた山奥の隠された半円形の入江で、小さな砂浜と濡れた斜面がきらきらと反射する美しい岸壁に囲まれていた。近くにいくつかキャンピングカーのようなものが停まっていた。水着に着替えて砂浜に降りて行くと、地元の中学生と何組かの外国人観光客、貴章と真一、それから岬、何人かの水着を着た若い女の子がいたがあれはきっと猿ではないかと思われた。

 貴章は親父さんから聞いて、その場所を知っているとのことだったが、外国人観光客が多い理由は海外の観光サイトで穴場スポットとして紹介されているらしいということだった。本来は遊泳禁止の場所であり、日本人であれば子どもでもなければこっそり立ち寄らないということだった。貴章はそういう中学生のような常識のなさがあるのだ。

 砂浜に寝転んで、少しのんびり過ごしたら、明日には仕事に戻るように真一に声をかけるはずだった。

 真一と妻が最初に顔を合わせたとき、確かに二人とも急に表情が変わったはずだった、俺は妻のそれには少し気がついたが真一のほうはわからなかった。妻が真一に声をかけて、林の奥に消えていったことも大したことだとは思っていなかった。そのときは二人に面識があるとも知らなかったので、まさか二人が揃って口裏を合わせて消えたとも思っていなかった。俺はなにも考えずに遠くで遊んでいる女の子たちを見ていた。水着ではしゃぐ女の子たちは、確かに愛らしかったが今はもうただの愛玩動物にしか見えなかった。耳の穴に息を吹きかけるように、

「いいのか」

 と、貴章が話しかけた。彼がすぐ近くに寄ってきていることにも気がついていなかった。尖った鼻、小さな顎、貴章は子どもの頃から綺麗な顔をしていたが、童顔でそれがだんだん年齢と不釣り合いになってきていたし、近くで見ると前髪も少し薄くなり始めていた。その笑顔は空元気のようなものに見えた。

「なにが?」

「お前の、かみさん、真一の元カノだぞ」

「どういう意味だよ」

「そのままさ」

「は?」

「知らなかったのか?」

「うちの奥さんが、真一の元カノ?」

「そうだよ。あいつら小学校の同級生さ。高校のときに、同じ塾に通ってたんで再会して高校三年間付き合ってた。お前が片思いして、しこってる間にだよ」

「まじっぽい冗談よせよ」

「まじだよ。お前ら、付き合い始めたのいつだ」

「成人してからだ」

「景子はその前に真一とヤってたんだ。今も茂みの中でなにしてるかわかんねえよ。感動の再会だ」

「お前、酔ってるだろ」

「酔ってねえよ。一滴も飲んでねえ」

 サングラスを投げ捨てて、こっちを見た。酒の匂いはしなかったので、酔ってはいなかった。ただ目の焦点は合っていない。彼は酒には酔ってはいないが、もっと別のものでクラクラしていた。そのまま彼は突然目の前から消え、海岸の近くの方に行って、外国人観光客に話しかけてた。しばらく眺めていると、お互いに胸を突き飛ばして、じゃれているのか、喧嘩をしているのかわからなくなった。次の瞬間に突然貴章と、輪の中にいた男の一人が海に走り出して、飛び込んだ。なんのことかわからなくて、走って追いかけた。さっきの外国人の輪の中にいた一人に事情を聞いたら、遠泳でいきなり勝負することになったと英語で説明した。車の置いてあるほうから妻と真一が歩いてこっちに来た。確かに二人は二人一緒にやって来た。

「なにがあったんだ」と神妙に尋ねてきた真一を俺は無視した。

 それからしばらくして、さっき泳いでいった外国人の男が泣きながら帰ってきた。顔に切り傷があって血を流していた。貴章に引っ掻かれたのだ。彼が帰ってくるまでの時間はおよそ15分くらいだったと思うが、それも数時間に感じられた。俺は警察を予防としたが、一緒にいた外国人たちがそれを許してくれなかった。そのまま揉め事になりそうだったので、俺たちは車に乗ってその場所を離れた。レンタカーには妻と真一と岬が乗っていた。アスファルトのある道路まで戻ってきて警察に電話をかけ、あの入江の座標の位置を伝えた。数時間警察の到着をその道の上で待ち、俺と真一が入江に戻り、妻と岬は別荘に帰った。こんなことなら、妻にイキワカレノイモウトという生き物について話しておくべきだった。彼女はきっとあれを人間だと思うだろう。

 入江に戻ると人数は減っていたが遊泳禁止の場所に溜まっていた観光客や子どもたちは警察から人払いを受けたので、彼らのうちの何人かが俺の方を睨んでいた。状況の説明が終わり、俺と真一が別荘に帰ったのは夜22時ごろだった。

 

8月9日

 真一は別荘に泊まった。朝、警察と電話をしたが、貴章は見つからないし、失踪した後の時間を考えて、見つかっても死んでいるだろうということだった。俺は真一を温泉に誘い、浴場でみのりさんから電話があったことを伝えた。真一は何かに思いつめていて、俺はもう職場に戻れないかもしれない、と言い始めた。

 別荘に戻って、貴章の言っていた通り、高校生の頃に真一と景子が付き合っていたこと、そして大学に落ちて、進学先が決まらずに、景子に振られたことが原因で林業に進むことになったこと、そんなことは10年以上も前の子どもの頃の話なので、お互いに気にはしていないが、昨日あんな場所でばったりあったことに心底驚いたということを二人の口から話を聞いた。

 真一が、最初のイキワカレノイモウトに入れ込んだのは19歳の頃だった。景子のことが忘れられなくて、何度も実家に帰りたいと思ったが、家にイモウトが住み着き、その子が彼の生きる希望になった。イモウトたちがいてくれたおかげで、彼は今まで生きてこられた。

 この話をするために俺はその猿の生態について景子に話さなければいけなかった。景子はまずいものを食べたような顔をして話をずっと聞いていた。

「高校生のころのことだし、真一くんがどうってことはなんにもないの。だけどね、それで彼がなにか人間じゃないものに道を踏み外してしまって、そのまま、ずっとそのままでいるなら私も少しは責任を感じるの」

 彼女がそう言うのを聞いて、俺も気が重くなった。しかし、真一は自分が思いつめているのは全く景子とは関係のないことで、しかしそれでも仕事には復帰できないかもしれないと言った。

 我々が話していると、岬が割り込んできた。

「おにいちゃん、ねえ一緒に寝ようよ。もうあんなつまんない人たちと話すのやめて、岬と遊ぼう。おにいちゃんだってあの人たちと話してても楽しくないでしょ。ねえ、明日も一緒に海に行こっか」

 岬に連れられて真一は俺たちの部屋から出ていった。今日も二人は別の部屋で二人っきりで寝るのだそうだ。

 貴章が帰ってこなくなって、俺はこの旅行について思い出せることをできるだけ書き留めて日記に書くことを決めた。

 

8月10日

 

 翌日、観光街の土産物屋に立ち寄るとそこには若い女の子の客しかいなかった。白い肌をして黄色い声で笑う女の子たちが甘い果実の腐る前のあの香りを漂わせながら薄ら笑いを浮かべてきゃっきゃきゃっきゃと、歩き回っていた。彼女たちが気に入った品を選ぼうと、ああでもないこうでもない話をするだけで窒息しそうになった。俺はそれをとても現実とは信じられず、走って逃げ出そうとした。

 そこで会った、その店の唯一の男性客が組合長だった。

 組合長とみのりさんに真一の状態を伝えると、それはイキワカレノイモウトのせいで仕事をやめる典型的な症例だと言われた。

「駆除しかないね」と、組合長は話し、市街地にある農協の担当員の所に行って、我々は裕福な身なりをした妙齢の上品な女性を紹介された。

 担当員は彼女が「イジワルナハハオヤ」と呼ばれるイキワカレノイモウトの遺伝子組み換えで作られた生き物であるということを知った。彼女に任せればイキワカレノイモウトは山に帰るということだった。

 

8月11日

 次の日の朝早くに真一と岬がいなくなり、イジワルナハハオヤと組合長は山奥に探しに行くことになった。景子はみのりさんの車で山に登り、真一の帰りを待つということだった。彼が職場に復帰するところを見届ける必要があると景子は言った。

 夕方になって、景子から真一が帰ってきて、明日から職場に復帰するようになったと連絡があった。それから数分後に組合長からも、イジワルナハハオヤが猿を連れて山に登っていったと連絡があった。

 同じ日の遅くに警察から、貴章の溺死体が見つかったと連絡があった。その日はいろんなことが起きて解決がつかなかったが、俺は日記を書いて落ち着こうとしていた。それでも気が休まらず、こんな日こそ一人で過ごしたくないと思って酒を飲んだ。シャワーを浴びようと席を立った時に、寝室を誰かがノックした。ドアを開けると、見知らぬ女の子が立っていた。彼女は、

「おにいちゃん、会いたかったよ」と俺に話しかけてきた。

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