マリオネット俳優

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梗 概

マリオネット俳優

経過時間:劇場用映画本編尺(90分)

 ロサンゼルス南部の海辺の町マリナ・デル・レイにあるVFX会社ヒューズ・プロダクションに作られた特設ステージで、ハリウッド映画界の巨匠、デビッド・イーストン監督の新作映画の撮影が始まった。舞台化もされたサミュエル・フクヤマの小説をもとにした映画で、ハリウッドの一線で活躍していた俳優が、カンザスの田舎から出てきた天真爛漫なヒロインとの共演をきっかけに演技への自信を喪失し、日本でバラエティタレントとして生きる道を選ぶというコメディである。主役を演じるのは28歳の日本人俳優、本田圭太郎。

 本田は日本の大学在学中に演劇の魅力に取りつかれ、大学を中退してニューヨークに渡って、数々の名優を送り出したアクターズスタジオで演技の原則やメソードを学んだ。才能に恵まれなかった彼は、俳優という職業をロマンチックな芸術家でなく、技芸を持つロジカルな専門技術者と見なし、日夜、体を自在にコントロールするためのトレーニングに勤しんだ。やがて本田のメリハリのある表情の変化と、誇張された身のこなしは、多くの観客の間で話題になり始める。

 役者の演技は、表情半分、体の動き半分と言われる。「あまりにリアルすぎる」と言われるアクターズスタジオ出身俳優のなかで、彼の演技が独自だったのは、カメラから見た身体のシルエットや動きのタイミングが計算され尽くされ、まるでアニメーションのようなスタイリッシュな動きを自分の体を作って表現したからだ。評論家たちはその新規性を絶賛し、圧巻の演技と褒め称えた。

 翌年、彼はハリウッド映画デビュー作でいきなりアカデミー助演男優賞を受賞し、一躍トップ俳優の仲間入りをする。ほとんど無名に近い存在だった本田は、年上の人妻に憧れるアジア人青年を瑞々しく演じ、まさに彗星のごとく登場した新人となった。その演技はアメリカのみならず、世界中の映画ファンを釘付けにした。そして、巨匠イーストン監督の目に留まり、新作の主役に抜擢されたのだった。

 しかし、その演技には秘密があった。

 映画もテレビドラマも、映像メディアは私たちが肉眼で見ている世界を、四角いスクリーンの中で再現する。ただし、映像は技術的に静止画(フレーム)の連続に過ぎない。映画では1秒間に24フレームを、テレビでは30フレーム(実際には60フィールド)をパラパラマンガの要領で連続的に表示することで、視聴者はそれを動いていると感じる。

 本田の演技は彼自身が生み出したものではなかった。彼がバイト先で出会ったアニメオタクで身長20センチほどの小さな生き物が、30分の1秒未満の高速で移動してポーズを付け、まるで人形遣いがマリオネットを操るように、本田の表情や体のポーズを作っていた。小さいものの移動時間は、1コマ未満なので、動画に記録されることはない。本田は自分の中に衝動も感動もないまま、あたかもそう感じたように振舞っているだけだった。

 映画の撮影がスタートして1ヶ月後、ヒロインの登場シーンとなった。ところが少女を演じる新人女優は、抜きん出た動体視力の持ち主だった。人間にも、まれに1秒50枚くらいの速度で再生される静止画を認識できる人がいると言われるが、彼女には高速で移動する小さいものが見えたのだ。

 少女は本田の周囲にまとわりついている小さいものとコミュニケーションを取るようになる。一方、本田は、自分の演技がメディアの中でのみ輝くまやかしであると見抜かれることを恐れ、少女の演技を批判し、なんとか彼女との共演を避けようとする。しかしそんな本田の腹汚い姿を見た小さいものたちは、本田から離れていく。まるで映画のシナリオと同じように、本田の演技派俳優としての力は失われてしまう。当初、監督やスタッフたちは、ストーリーにあわせて本田がわざと下手な芝居をしているのだと思ったが、そうではなかった。本田は自分の俳優としての技術を信じられなくなる。

 映画の撮影は、クライマックスであるバラエティ番組のシーンを残すのみとなった。撮影は東京のテレビ局で行われた。本番が刻一刻と迫るなか、このままではインチキがばれ、スタッフの笑いものになってしまうと、すっかり意気消沈する本田。そこへ少女は、「大根役者で実力もないくせに、尊大で腹黒い…そんな本田自身を出せば大丈夫」と、救いの手を差しのべる。彼は小さいものに頼り切っていた意識から抜け出して、役の体験を示すのではなく、自分自身の体験を表現する。その瞬間、彼自身の動機と役の行動が融合し、本田は自分自身を演じるのだ。

 映画が公開されるや、本田が演じたキャラは評判となり、映画前半のスタイリッシュな演技と、後半のリアルな演技が人気を呼んで、本田はアカデミー主演男優賞を、少女は助演女優賞を獲得した。

 授賞式当日、2人は揃ってレッドカーペットを歩きながら、少女は本田に伝える。3年前、田舎町でハリウッドに憧れていた頃、本田のデビュー作の1コマに映っていた小さいものを発見したこと。それから本田の出演作を徹底的に見直して、その演技は小さいものの力によるものだという確信を得ると、本田の演技を研究し、共演者のオーディションを受け、こうして成功を掴み取ったことを。スポットライトを浴びる彼女の周囲で小さいものたちが駆け回っている。本田は、この映画を最後に小さいものたちに別れを告げた。

文字数:2201

内容に関するアピール

 映画は1秒24コマで、テレビは1秒30コマのコマ送り画像、いわゆるパラパラマンガです。

 なぜ連続した静止画が動いて見えるのかという理由は、心理学的には「仮現運動」で説明されます。それは「脳の働きがコマ送りを実際の運動画像に再現する」神秘的な現象と考えられているのですが、明確な理屈があるわけではなく、なんで動いて見えるのか、実はまだよくわからないのです。人間の視覚は一般的には30Hz程度から静止画が連続した動画に見えますが、中には50Hz程度でも静止画を見分けられる人もいます。

 今回は、時間の制約が展開に深く関わるように、人間が動きを知覚できる限界の時間、つまり映画のフレームの間にある僅かな時間をめぐるストーリーにしました。90分の映画の進行にあわせて、外面的な手段に頼っている主人公が、その武器を奪われ、共演者の助けによって俳優としての技量が目覚める過程を描きたいと思います。

文字数:393

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マリオネット俳優

 軽やかなテンポのスネアドラムが響き、派手やかなファンファーレに迎え入れられるように、夜空を照らすサーチライトと立体ロゴが、スクリーンに映し出される。背景はネオン輝くロサンゼルスの夕景色だ。映画の本編の開始を告げるわずか9小節の曲が、劇場内の観客の期待感を一気に高めていく。スクリーンはいったん黒味に落ちて、映画のメインタイトル『マリオネット・アクター』がゆっくりとフェードインし、続いて主人公のディーン・ハヤカワを演じる主演俳優、ケイタロウ・ホンダの名前がクレジットされた。

*

 ロサンゼルスから高速道路を西へ30分あまり、マリナ・デル・レイは映画の特撮会社最大手のヒューズ・プロダクションがあることで知られている海辺の町である。8つの入江を持つヨットハーバーを望む高台にある敷地には、ヒューズ・プロダクションの20を超える撮影ステージが並んでいる。なかでも最大の広さを誇り、映画『マリオネット・アクター』の撮影が行われている第6ステージの通用口に、ひとりの日本人が立っていた。
 2つボタンのノッチラペルの黒いタキシードに身を包み、定番の白のチーフできめた本田圭太郎は、自分の足元に視線を落として「さあ、行こう」と独り言を言った。吹き抜ける海風は心地よく、カリフォルニアの強烈な日射は、彼のゆらゆらとした影を地面に焼き付けている。本田はステージへの道を引き返し、本番中を知らせる暗赤色のランプが灯る重い鉄の扉を引いて、中からドアを閉めた。

 無造作に箱馬が積まれた倉庫の横にある暗い通路を進むと、高さ30mほどはあろうかという一面緑色の壁面が目の前に迫ってくる。映画の撮影と言っても、建物や小道具の多くはCGで作られるので、俳優はクロマキーと呼ばれる緑色のシートの前で演技をするのが一般的だ。緑は人間の肌色と補色関係にあるので、俳優が映っていない部分に別の映像をはめ込みやすい。最近の映画は、最初にこのグリーンバックの前で俳優の演技だけを撮影し、後から背景が合成されて完成する。

 今やSFのみならず、日常生活を描く現代劇でさえ、VFXと呼ばれる視覚効果が不可欠なので、ジャンルを問わずこうしたスタジオでの撮影が行われるようになった。カメラが映すエリアが広くなればなるほど、広い面積をスクリーンで覆う必要があり、ヒューズ・プロダクションの第6ステージはカメラの可動範囲が広い合成専用スタジオとしても有名だった。

 実写映画といっても、もはやカメラで撮影される部分はごく一部に過ぎない。それは一部に実写の素材を使う、リアルなCGアニメーションといってもいい。だからアニメと同じように、撮影するカットや、カメラの動き、レイアウト、カットの長さなどは、撮影が始まる前に決定され、ストーリーリールと呼ばれるビデオコンテが作られる。スタッフもキャストも、最終的な映画と同尺のストーリーリールを見てから撮影に参加するので、現場は設計図であるコンテ通りに整然と撮影が進行する。

「ホンダさん、シーン1からお願いします」
 チーフ助監督は本田圭太郎を、緑一色のステージ中央に設置された階段の前に招きいれた。階段は、洞窟(ケーブ)のように上下左右が緑の壁で囲まれている。ステージ中央に立った本田は、そのケーブの外側に並んでいる撮影機器に視線を移した。目につくだけで少なくとも3箇所に100インチ以上の巨大なモニターが配置され、フルジップ・パーカを着込んだ撮影監督のザック・ポープがモニターの前にかがみこんで、バーチャルカメラの設定を続けている。バーチャルカメラで撮影された俳優の映像に、リアルタイムで背景が合成され、巨大モニターに表示される仕組みらしい。既にモニターには、アカデミー賞授賞式が開かれるドルビーシアターとその前に立つ本田の合成映像が映し出されていた。これから、ドルビーシアターが舞台となるシーンを撮影するのだ。合成用の撮影といえば、かつては緑一色の空間で、俳優自ら完成後の映像をイメージして演技しなければならなかったが、コンピューターの描画性能が飛躍的に向上したおかげで、今では演技している背景をその場で確認しながら撮影を進めることができる。

 背景に映っているドルビーシアターの画像は、カメラの位置や回転、ズーム情報を検出して描画されるリアルタイムCGである。本田はモニターに目を凝らした。一昔前のCGといえば、テクスチャーも粗く影も単調だが、リアルタイムだというのに建物や機械などの表現は実写に見紛うばかりのクオリティだ。最終的には歩行者の群衆アニメーションも、AIで作られて背景に組み込まれる。
 本田は撮影現場の急速なデジタル化に感心しながら、ザックにカメラマンの仕事もずいぶん変わっただろうと尋ねた。
 ザックは、レイアウトを決める撮影の仕事内容は変わらないよと答え、「いや、しかし、世界を四角い枠で切り取るってことが、もう古くなってるからね」と付け足した。
「ああ、たしかにそうらしい。そのうちにカメラは360度カメラが普通になるかもしれない」と本田。

 しばらくして、サンタクロースのような白髭をたくわえた巨漢が、お馴染みの太鼓腹を揺らしながら満面の笑顔で歩み寄ってきた。ハリウッド映画界の巨匠、デビッド・イーストン監督だ。
「ケイ、ケイと呼んでもいいかな?」監督はあらたまった口調で話しかけた。
本田は笑顔で言った。「ええ、もちろん」
「私はケイのファンなんだ。やっと一緒に仕事が出来てうれしく思っている」
「ありがとうございます。私も監督の映画に出演できて光栄です」と、本田は答えた。
 今回の映画は、ロンドンのギャリック劇場で舞台化もされたサミュエル・フクヤマの小説をもとにした物語で、ハリウッドの一線で活躍していた俳優が、カンザスの田舎から出てきた天真爛漫なヒロインとの共演をきっかけに演技への自信を喪失し、日本でバラエティタレントとして生きる道を選ぶという物語である。

「実は」とイーストン監督が言った。「君のデビュー作は3回見たんだ。正直、ショックを受けたよ」
 そのとき唐突に頭上のスピーカーにスイッチが入って、ヒロイン役の女優の声が響いてきた。撮影部のスタッフが慌しく動き回り、スタジオの片隅に組まれたラックに収まったコンピューターが排気音を響かせている。リアルタイム合成システムとバーチャルカメラのテストが始まったのだろう。先ほど本田の姿を映していたモニターには、最近撮影されたらしいヒロインのシーンが何度も再生されている。監督は雑音を気にもせずに話を続けた。
「たとえば登場人物が、まもなくアカデミー賞の授賞式が始まるドルビーシアターの前に立ち、はやる気持ちを抑えて、入口に続く階段を上るタイミングを計っていたとする。普通の俳優なら、どんな方法で上りましょうかと監督にきくはずだ」
「ええ」と本田。
「どうしてだと思う?」監督は尋ねた。
「俳優は監督のイメージする世界を完成させようとするから、ですか?」
「ケイ、その通りなんだが、実はどんなふうに階段を上るかは大した問題じゃない。俳優にとって重要なのは、会場に向かいたい、しかしなかなかその一歩が踏み出せずに逡巡する部分だ」監督は続けた。「私はその俳優に、階段の上り方じゃなくて、上りたいが素直に上れない心の葛藤を見せてくれ、と注文するだろう」
「なるほど」と本田は相槌を打った。
「しかし、ケイはその素晴らしい演技で、人物の内面だけでなく、動きやポーズもまた大切だと言うことを私に気付かせてくれた。私のこれまでの演出は俳優の感情というものを重視しすぎていたのかもしれない。ケイの演技については何も言うことはない。ただ、私がよーいスタートと合図をするから、自由にやってくれ。この映画はケイのための映画なんだ」監督はそう言うと、太い腕でばんばんと本田の肩を叩き、軽快な足取りでステージを降りていった。

「ずいぶん、買いかぶられたものだ」本田はひとりごとのようにつぶやくと「さあてと、準備はいいか?」と他人事のような言葉を口にした。すると背後から「了解、まかせてくれ」と、本田にしか聞こえないような小さな、しかしよく通る声が聞こえてきた。

*

 映画は、アカデミー賞の会場となるドルビーシアターの入口に続く階段を上る本田演じるディーン・ハヤカワを映し出している。カメラはレッドカーペットから舞い上がる埃さえ映像に映りこむほど地面スレスレの高さを維持しながら、ディーンと並走して階段上を滑っていく。ディーンが履いているスタッズ入りの革靴が、カメラの超広角レンズを蹴るか蹴らないかというギリギリの場所を行き来する。強いパースのついた画面構成と、本田の完璧にコントロールされた足の運びが見たことのない映像を生み出していた。
 高いフェンスに囲まれたレッドカーペットはビルの壁面に並んだスポットライトに照らされ、あちらこちらでレポーターが通りがかりの俳優たちに声をかけている。しばらく前まで流行していた黒いドレスコードは鳴りを潜め、女優たちは華やかなグリッターのグラマラスなドレスを身にまとって、さながら有名ブランドのショウのようだ。
「ミスターハヤカワ!」ABC放送の記者がディーンに声をかけた。「アカデミー賞の会場は2度目ですが、感想を一言お願いします。今回の演技には満足していますか?」
 ディーンはピタリと立ち止まり、カメラがクイックズームした文句なしのタイミングで左の口角を上げ、わずかに白い歯を輝かせて微笑んだ。
「役の人物というのは、物語に出てくる場面を生きてるだけで、実際には存在しません。ボクの仕事はそんな人物に命を与えることだけど、観客のみなさんが、その人物に魅力を感じてくれたとしたらとても嬉しい」
 階段を上りきったディーンは、そそり立つ10mのオスカー像を見上げた。ダークブラウンの瞳の中に金色のオスカー像が映っている。カメラが目のクローズアップからゆっくりとトラックバックを始めると、右手の指がカメラのレンズをかすめるように、ディーンはオスカー像に向かって腕を伸ばす。カメラはそのまま、オスカー像の周囲をらせん状に回りながら劇場の上空まで上昇していった。

*

 緑一色の第6ステージの中央で、本田はクレーンアップするカメラに向かって、右手を伸ばし、天井にぶら下がったライトを浴びていた。
「カーット!」イーストン監督の太いだみ声がスタジオじゅうに響き渡った。
 本田はうなずいて、監督に視線を向けた。
「すばらしい。すばらしいよ、ケイ」と監督。「プレイバックしてみよう」
 即座に収録された映像が再生され、ドルビーシアター前のシーンが巨大モニターに映し出される。画面の周辺には、刻々と変化するカメラ情報とタイムコードが表示されている。
「よし、止めていい」イーストン監督は上機嫌で言った。「OKだ。セットチェンジしよう」
 その言葉を確認すると、本田はステージを降り、談笑しているスタッフを置いて控室に向かった。

 スタジオの控室は、俳優のランクによって部屋のグレードが異なっている。主役級ともなれば、四つ星ホテルのスイートルームに匹敵する内装の控室が与えられた。メイク室やシャワー室はもちろん、キッチンまでついていて、シェフを呼んで調理してもらうことも可能だ。部屋に入った本田は、テレビの前のソファに腰を下ろして咳払いした。
「ミスター・シェパード!」本田は周囲を見渡して、もう一度言った。「ミスター・シェパード!」
 するとソファの前のガラステーブルに身長20cmほどのずんぐりした、髭面の男が現れた。日本人が祭りのときに着るハッピのような緑色の服を着ている。その姿を確認すると、本田はなにごともなかったかのように口を開いた。
「なあ、あの笑顔はちょっとカッコ付けすぎじゃないか?」
「いや、あのくらいやったほうがいいんだよ」ミスター・シェパードと呼ばれた小男は、微笑を浮かべながら言った。「そもそもあのシーンは、主役のディーン・ハヤカワがハリウッドで成功した日系の俳優だって説明するところだろ。ケイタロウがレッドカーペットを歩くだけで、ストーリーに必要な情報は観客に全部伝わっている。俳優としてはできるだけ観客の印象に残るような、普通のパターンにないような演技をしたほうがいいと思う」
 本田はうなずいた。「それもそうだな。でも、急に顔をいじられて、面食らったよ。そう来ると思ってなかったから」
 ミスター・シェパードは、かすかに眉をひそめた。「それは悪かった。カメラが予想以上にアップだったから、このタイミングでいい表情が欲しいと思ったんだ。アニメなら、ここ一番の決めポーズに、歯が輝くエフェクトとか入れることあるからね」
「ああ、わかる」
「だから、演技中はどんな動きにも対応できるように、顔も体も力を抜いてリラックスしといてくれよ。そうじゃないと、ポーズが作りにくいからさ」
「そうする」と本田は言った。

 ミスター・シェパードは本田の顔をまじまじと見つめた。「しかし、まさかケイタロウにトップ俳優という役が回ってくるとはね」
「俳優っていうのは」と本田が言った。「自己表現の欲求がことさら強い人種だろ。そういう俳優役を演じるにあたっては、関係者はみんな “すぐれた俳優には内側からあふれる興奮がなければならない”てなことを言うんだ。俳優自身の内に秘めた強い動機こそ、登場人物を行動に駆り立てるエンジンだっていうのが常識だから」
 ミスター・シェパードはこんな話が大好きで、にわかに興奮の色を示してきた。「だから世界中どこに言っても、俳優は同じような演技をするわけだ」
「そう、登場人物にはみんな強い動機と目的がある」と本田が言った。「だから、俳優の内面と関係ない、悲しそうな顔をするとか、頭にきて眉間にしわを寄せるとか…表面的な演技は、レベルが低いって言われてしまう。俳優の養成所でも、豊かな感受性と激しい衝動こそ、登場人物に個性をもたらすって教えてるし」
「でもそんなふうに演技するつもりはないんだろ」ミスター・シェパードはきいた。
「俺も昔は、演技はリアリズムで、そのために感情を養うことが大切だって考えていた。今だって、多くの俳優はそういうアプローチで役づくりをしてる。でも俺はもう、そういう俳優じゃない」
「感情よりも外見が大事って言うんだろ」ミスター・シェパードは断言した。
「そういうこと」本田は人差し指を突き出して言った。「内面なんか関係ない、アニメみたいにポーズでキャラを表現するんだっていう俺たちが、ディーンを演じるなんて、皮肉だよね」
「ケイタロウは俳優というより、感情をロジカルに表現する技術者だな」ミスター・シェパードは言った。
「ふつう、俳優はロマンチックなアーティストだって思われてるけどね」
 本田は、技術者と言われてご満悦だった。彼は演技は芸術ではなく、技術だと考えていた。

*

 日本の大学在学中に演劇の魅力に取りつかれた本田は、大学を中退してニューヨークに渡り、数々の名優を送り出したアクターズスタジオの門を叩いた。小さい頃から学校でドラマの授業を履修する欧米の俳優に比べ、演劇の歴史もろくに知らない本田は4回連続で入所オーディションに落ちたが、5度目のチャレンジで運良く入所することができた。ただそれも、審査員の一人に日本演劇を高く評価する俳優がいて、偶然、大学時代に能サークルで観世流の能をかじった経験が活きたからだ。入所後は、演技の原則やメソードを学んだが、世界中から集まった才能あふれる俳優の卵たちの表現力に、舌を巻くしかなかった。ミスター・シェパードに出会ったのはそんなときだ。

 アメリカに来て以来、本田はグランド・セントラル駅近くの居酒屋「ひさぎ」でアルバイトを続けていた。週6日働いて、客足が落ちる火曜日は客として来店し、人目につかないカウンターの端で、焼き鳥を注文するのがお決まりのパターンだった。居酒屋のカウンターに腰掛けて、お猪口でちびちびやっていると、ここがニューヨークであることなど忘れてしまいそうになる。この店はなんといっても日本酒の種類が豊富で、〆のサンマのおにぎりが絶品なのだ。
 その火曜日は日本から酒蔵が来て、お店の半分を使って新しいブランドのお披露目イベントが開かれていた。店内はイベント目的で来ている客がほとんどで、カウンターはガランとして店員もやってくることもない。そんな時、カウンター前に並んだ日本酒の一升瓶の間に、ミスター・シェパードが立っていた。

「あんたは役者だって聞いたけど、そうなのか?」ミスター・シェパードはきいてきた。
 本田は声のする方向をちらっと見てから、手に持ったお猪口に目をやり、また声の主に目を戻した。それからゆっくりお猪口を白木カウンターに置いて、目を瞬いた。酒瓶の間から小男の姿は消えていた。
「それに一人でこの店にいるってことは日本人か?」声をする方に振り向くと、いつの間にか小男は徳利にもたれかかっていた。
「そうだけど、あなたは?」と本田はきいた。
「オレはミスター・シェパード」
 本田は椅子を座りなおし、首を横に振った。「すみません、もう一度いいですか?」
「ミスター・シェパードだ。日本人の役者に会ったら、一度ききたいと思っていたんだ。」
「そうですか」本田は不信の目をして答えた。
「オレはアニメの大ファンでね。ダイナミックなカメラワークとかキレッキレの動きとか大好きなの。それからオレ、毎日絵を描いててね、あんたにぜひ見てほしいんだ。アニメみたいな絵を描きたいんだよ」
 最初は自分の目がおかしくなったのかと思ったけれど、本田は徐々に落ち着きを取り戻してきていた。
「ボクは俳優だからアニメのことはわからないよ。絵も描かないし」
「あんた、アニメ見ないの?」
「全然見ない」と本田。
「なんだ、日本人のくせにつまらないな」ミスター・シェパードは、明らかに落胆していた。「役者ならキャラの動きとか詳しいのかと思ったよ…ま、いいや。もともと絵を見てもらいたいわけじゃない。どんな演技をさせるのがいいのかアドバイスしてほしいんだ」
「演技?」
「そう。ほら、実写は俳優がした演技をカメラを撮影するだろ。アニメはアニメーターが描いたキャラクターのポーズを撮影する。そのポーズでキャラクターの気持ちを表現するんだけど、どんな感情を抱いたときにどんなポーズをさせたらいいのか、いつも悩みながら描いてるわけ」
「なるほど、そりゃ確かに演技だ。でもアニメーターはキャラクターの感情になって絵を描いたりするわけ? 悲しいシーンでは泣いたり、腹が立つシーンでは顔を紅潮させるとか?」
「そんなことするわけない。演技を作るのはアニメーターだけど、映像に映るのは描いた絵だもの。キャラはポーズはするけど、そういう感情を抱いてるわけじゃない」
「感情ないのに演技してるの?」
「当たり前じゃん」
「信じられない!」本田は指を鳴らした。「そいつはすごい」
 ミスター・シェパードは意外そうな顔をした。「だから、機会があったらプロの俳優に演技の方法を教えてもらおうと思ってたんだよ」
 そこまで聞いて、頭もはっきりしてきた本田は言った。
「そんなこと考えたこともなかった。アニメの演技っていうのは、ある種の様式があるよね。すごく誇張されてるとか、動きの節目節目に決めポーズを入れるとか」
「アニメは1枚1枚、手で描かなきゃならないからだよ。できるだけ描く枚数を減らしたほうが安上がりだから、枚数を少なくして、動きを印象づけるポーズを描くようになった」
「なるほどね」本田は言った。「でも残念だけど、俳優は自分のポーズを見ながら演技したりしないんだよ。だからあなたの力にはなれそうもない」
「日本人ってのは、実写の役者も、なんていうか、アニメみたいなクールな動きをしないのか?」
 本田はあごをしゃくった。「しないね。俳優の動きはアメリカも日本も変わりないよ。みんなリアルな演技を心がけてる。でも、そういうアプローチもあっていいかもしれないね」
 ミスター・シェパードは、ニヤリと笑った。「それ面白そうだな、やってみようじゃないか」
「やってみるって?」
「あんたは俳優なんだろ? その身体をアニメみたいに動かして、今までになかったスタイルを作り上げるんだよ」
「俺がアニメみたいな動きをするって?」
「そういうこと」
「そんなことできないよ。カメラに映る自分のポーズを決めるなんてことは俳優にはできない。そんな訓練したこともないし」
「ケイはやらなくていい。オレがやるから」
「やるって、どうやって?」
「前々からそういうアニメみたいな芝居をさ、オレは見たいと思ってたんだ。『時空警察キュアマン』みたいなやつ」

 ふたりは顔を見合わせた。ちょっと間をおいてから、本田が口を開いた。
「それ、ヒーローモノか何か?」
「赤い広つばのハットに赤い全身スーツを着た男が、タイムトラベルして、歴史を変えてくアニメ。知らないの? とにかくキャラのアクションが痺れるわけ。超カッコいい。ハリウッドで早く実写化してほしいけど、ああいう動きは生の俳優にはできないから無理かもしれない」
「どんな動き?」
「日本のアニメって1秒でせいぜい8コマしか動かさない。でも映画は1秒24コマある。てことは残りの16コマの絵は止まってるわけ。キャラはカクカク動く。でも、キャラの動きを印象付けなきゃいけないから、いちいちポーズがカッコいい」
「そりゃそうかもしれないけど」本田はため息をついた。「1秒で8回ポーズを意識的に作るなんて、生身の人間には不可能だよ」
「どうして?」
「1秒に8回とか、そんな速さで体を動かすことはできない。操り人形にでもならなきゃ無理だね」
「そりゃあ、いいアイデアだな」とミスター・シェパード。
「何が?」本田は眉をしかめた。
「操り人形だよ。オレがあんたを操って、ポーズをつければいいわけだろ?」
「どうやって?」と本田が言った。「1秒の間に8回だぜ」
「なんてことはない」突然、声がやんで、静寂が訪れた。本田が見ると、ミスター・シェパードの姿が忽然と消えていた。
「オレは人の目に見えない速さで移動することが出来る」今度は耳元で大きな声がした。ミスター・シェパードはいつの間にか本田の肩の上に立っていた。「だから」再びミスター・シェパードが消えた。
「今度はどこだ?」本田は肩をすくめた。
「ここだよ」彼は料理皿の隣にあぐらをかいて、口をもぐもぐさせながら砂肝をほおばっている。
「信じられない」本田はそう言った後、突然口をつぐんだ。それから椅子の背に体重をもたせかけて言った。「あんたが俺のアニメーターになるっていうのか…」いや、できるかもしれない、と彼は思った。
「人間のアニメーターか、気に入った」そう言い捨てて、その日、ミスター・シェパードは姿を消した。

*

 本田がイーストン監督に名前を知られるような俳優として、メディアに取り上げられるようになったのは、ミスター・シェパードと一緒に演技するようになってからだ。
 ニューヨークの居酒屋「ひさぎ」でミスター・シェパードと出会った本田は、翌日も、その翌日も彼と呑み、その妄想を語って聞かせた。翌週からは実際に自分のアパートメントで、スマホで自分の体を使った演技を録画した。彼の目標は“アニメキャラのようなポーズを、1秒間に8回のペースで、自分の体でつくる”ことだった。本田自身はできるだけ関節を自由に動かせるようにして、ミスター・シェパードが高速で移動しながら、マリオネットのように本田のポーズを変えていく。

 ミスター・シェパードが最初に動かすのは、人間の重心でもある腰の位置と回転だ。腰の移動は身長20cmの彼にとっては重労働なので、体ごと体当りすることもしばしばだった。そのおかげで、本田の腰は痣だらけになった。続いて足の地面との接地場所を確定して、下半身にとりかかる。腰の高さを固定すれば膝の角度は決まるので、変えるのは膝の向いている方向だ。上半身はというと、まず胸の位置と回転を確定させる。続いて手首の位置と回転。手首が決まれば、膝のときと同じように肘の方向付けをして、最後に両手の指の形とつま先の回転だ。指は10本もあっていちいち角度を変えるのは面倒だが、動いていないと不自然になるので手は抜けない。
「肩や肘より先に手首を動かした方がいいの?」と本田がきいた。
「そうだ」とミスター・シェパードは息を弾ませながら言った。「最近のアニメはキャラも3Dで作られてるんだけど、肩から肘、手首と言った具合に上の関節から順番に角度を決めるより、先に足首や手首などの先端の場所を決めるインバース・キネマティクスを使ったほうが効率的にポーズを付けられるんだよ」
「へえ」本田は感心した。流石に最近のアニメ事情に詳しいミスター・シェパードだけのことはある。

 これまで、演技のトレーニングのときには必ず、リアリティを探求するためにシーンを客観的に分析したり、役の人物の動機を確認することが大事だって言われてきた。確かに、人間は実生活で動き、なにかしらの身振りをする。喋るときには唇を動かし、歩くときには足を交互に前に振り出して前進し、手や頭を振ったりする。でも単純な動作一つ取ってみても、みんな違う喋り方や歩き方をするものだ。だから俳優が、いざ映画の役になって喋ったり歩いたりしようというとき、悩んだり、尻込みしたりすることが多い。心の問題ばかり気にして、身体でポーズを作ることを軽視しているから。ミスター・シェパードは、「役者のやっているのは結局、体の動きと変形だろ」と身もふたもないことを言う。でも言われてみれば、アニメはキャラの形を描くことで立派に演技をさせている。本田は躊躇なく言った。
「ミスター・シェパード、俺はアニメキャラのように演技する俳優になることにするよ」

 本田とミスター・シェパードは、日夜、身体を自在に動かすためのトレーニングに勤しんだ。アニメがその外見によって官能を描くように、俳優がポーズを作ることでキャラを表現する。あえてアメリカの商業演劇が、“紋切り型”とか、“見せかけ”と批判してきた、外見を重視する演技スタイルに取り組んだのだ。本田が稽古している姿を見た俳優仲間は口々にいった。
「そんなのが演技だって言うのか?」
「これまでアクターズ・スタジオでそんなふうに演じたものはない」
「気が触れたか、あるいはスタジオへの冒涜だと思われるぞ」と。

 しかし、本田はその演技に固執して、自分だけのスタイルで役を演じ続けた。本田とミスター・シェパードの共同作業は、程なく披露の機会がやってきた。ソーホー地区の小劇場で行うストレートプレイだ。ミスター・シェパードは観客に見つかることなく、舞台上の本田をマリオネットのように操ることに成功した。こうした出演を続けているうちに、本田のメリハリのある表情の変化と、誇張された身のこなしは、多くの観客の間で話題になっていった。
役者の演技は、表情半分、体の動き半分と言われる。「あまりにリアルすぎる」と言われるアクターズスタジオ出身俳優のなかで、本田の演技が独自だったのは、カメラから見た身体のシルエットや動きのタイミングが計算され尽くされ、まるでアニメのようなスタイリッシュな動きを自分の体を作って表現したからだ。評論家たちはその新規性を絶賛し、圧巻の演技と褒め称えるものまで出始めた。

 翌年、彼の噂を聞きつけたプロデューサーから声がかかり、本田はハリウッド映画デビュー作でいきなりアカデミー助演男優賞を受賞し、一躍トップ俳優の仲間入りをした。ほとんど無名に近い存在だった本田は、年上の人妻に憧れるアジア人青年を瑞々しく演じ、まさに彗星のごとく登場した新人となった。その演技はアメリカのみならず、世界中の映画ファンを釘付けにした。そして、巨匠イーストン監督の目に留まり、新作の主役に抜擢されたのだった。

映画もテレビドラマも、映像メディアは私たちが肉眼で見ている世界を、四角いスクリーンの中で再現する。ただし、映像は技術的に静止画(フレーム)の連続に過ぎない。映画では1秒間に24フレームを、テレビでは30フレームから60フレームをパラパラマンガの要領で連続的に表示することで、視聴者はそれを動いていると感じる。ミスター・シェパードの移動時間は、1コマ未満なので、動画に記録されることはない。本田は自分の中に衝動も感動もないまま、あたかもそう感じたように振舞い、トップ俳優への道を駆け上がろうとしていた。

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 俳優の内実を描く映画『マリオネット・アクター』は中盤の盛り上がり、ミッドポイントに差し掛かっていた。映画は40分が過ぎ、ヒロイン登場の場面を迎えた。プロデューサーや監督などのメインスタッフと、主役を始めとするオールキャストが制作会社の会議室に集まってする新作映画の顔見世シーンだ。
 四角く配置されたテーブルの上座に座ったプロデューサーが、マイクを取り上げた。「こちらがディーン・ハヤカワさん。本作のヒーローを演じていただきます」
 ディーンはプロデューサーに視線を向け、すっくと立ち上がった。いったん両手をズボンにこすりつけてから、手のひらをテーブルにつき、肘を伸ばしてキャストの顔をゆっくりと眺めた。その時、垂れた前髪がなびいて左目を隠した。「素晴らしい作品に出会えて光栄です」彼は緊張した声で言った。「ディーン・ハヤカワです。よろしくお願いします」
 ついでプロデューサーは体を前に乗り出し、この映画がデビュー作となる新人女優を紹介した。
 ディーンの隣にうつむき加減に座っていた女優は、小さくうなずいて、唾を飲み込んだ。「マチルダ・クリストファーです。最初に出演する作品がこの映画で、私はとてもラッキーだし、とても興奮しています。皆さんの期待に答えられるように全力でがんばります」
 「よろしくね」ディーンは余裕綽々で右手を差し出し、微笑してみせた。
 マチルダは一瞬びっくりしたようだったが、がっちりと強い握力でディーンの手を握り返した。心配で気を揉んでいたのはマチルダではなく、ディーンの方だった。ディーンは咳払いをして、椅子の上で身じろぎしたが、何も言わずに黙っていた。

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 新人女優のマチルダを演じる共演者のロティ・ショートは天賦の才能の持ち主だというのが、多くの評論家の一致した意見だ。彼女の名をメジャーにしたのは、2年前にグローブ座で上演されたシェイクスピアの『ハムレット』。ガーディアン紙の大物劇評家、ピーター・グリーンに「気が触れてしまったオフィーリアを演じた、若干20歳のショートの演じる狂気が、恐ろしいほどのリアリティをもって観客に迫ってくる」と評されると、その噂はまたたく間にショウビジネス界に広まった。ショートの出演する『ハムレット』は予約開始後1分以内に全席が完売する人気となり、キャンセルを待つ当日の待機行列は、テムズ川を超えて対岸のブラックフライアーズ駅に達するほどだった。
 一部からキワモノと呼ばれる本田と天才女優を主役に抜擢したイーストン監督の新作は、制作発表のときから話題を集めた。

しかしクランクイン早々、本田はロティ・ショートと控室前のロビーで向き合っていた。新人女優マチルダを演じるロティは、この作品がメジャーデビュー作で気持ちが張り詰めたからか、最初のシーンの撮影後カメラ前に出てこれなくなってしまったのだ。本田は「演技のことで相談に乗るほどの実力はない」とにべもなかったが、プロデューサーのたっての依頼で相談にのることになった。本田は気が重かった。俺は共演者に過ぎないのに。
「ああ、全然駄目、もう腹が立つくらい」と、ロティは小さくかぶりを振った。「すみません、ホンダさん。このマチルダって役を、少し下品に演じすぎてしまって…」
 本田はたずねた。「どこが駄目だって?」
「マチルダはディーンを引退に追い込むような、そんな怖さを持った女優じゃなきゃいけないのに、粗暴で、意思だけが強いつまらない人物になっているような気がします」
「そうかな、十分魅力的だったと思うけどね」本田は平板な声で言った。
ロティは本田に向き直った。「最初はそっくりだなって思っていたんです、マチルダと私。だから監督も私をキャスティングしたんだろうって」彼女はかなり不安を感じているようだった。
本田がきく。「ってことは、初めに考えていたほど自分に似ているわけじゃないってわかったってこと?」
「私はマチルダって人物が、なんでそんなことをするのかわからないんです。彼女のはっきりした目的がわからないと、私のセリフは単なる単語の羅列になってしまいます」とロティ。
「それで?」
「リアルな演技ができてる気がしないの。あいまいな人物になってしまっている感じ」声がうわずっている。
 どうやらこの新人は本田と自分の役作りについて議論したいらしい。
「いつも君はそうやって、役の人物に取り憑くようにして、キャラを作ってるの?」と本田。
「ええ。役をしっかり理解しないと、何をやっても同じ演技になるでしょ? マンネリに陥ってしまいます。自由にやるだけじゃ、異なるキャラクターを演じることができなくなる。何をやっても、役ではなく、それは私自身になってしまう」

 短い沈黙があった。
「こう考えたらどうかな」と本田は言った。「もし君がマチルダというキャラクターと同じ環境に育って、似たような経験をしていたら、役のキャラクターと同じように考えられるかもしれないけれど、それは無理だ。だから君がその人物になろうとしている姿を見せてしまえばいい」
「どういうことですか?」とロティは言った。
「自分は上品に見せたいと思っているのに、役の人物は下品になってしまうんだよね。もしそのことで苦しんでるんなら、その苦しさをそのまま役にしてしまえばいいと思う」
「そうですか…」ロティはうなずいた。
「いい?」本田はロティの顔をしげしげと眺めた。「しかし、控えめに言っても、さっきの君の演技は最高だったよ」そう言って、本田は笑いだした。
「それはとっても嬉しいですが…」とロティ。
「君はとっても優れた素質を持ってる。新人女優だっていうのに、この映画のマチルダは誰にも真似の出来ないユニークな演技になってると思う」
 ロティは頑なに言った。「でもそういう演技を続けているうちに、ただ新鮮なだけの演技しかできない俳優だと思われませんか。だから舞台の上で、よく考えて役の人物を創造しなきゃいけないと…」
「ちなみに、もしシナリオがなかったら、君はマチルダがする行動を表現することができるかい?」と本田は言った。
 ロティはきょとんとした顔をした。「いえ、できません」
「登場人物はその設定から大体のことは予想がつくものだよ。どんなコミュニティに所属していて、どのくらいの年収で、家族構成や趣味がわかれば、シナリオに書かれている出来事がなくたってキャラを創造することができる」
「本田さんは頭脳派なんですね」とロティ。
「ところで君が演じた『ハムレット』の噂は聞いた。君はどうやって狂気を演じていたわけ?」
 ロティは明るい笑顔を見せた。「みんな狂気をよくわからないものだって言うでしょ?」
「多くの人にとって、それは辻褄が合わない奇妙なことだからね」
「でも、そういう人たちだって、決して人と違うことをやりたいわけじゃないと思うんです。傍から見れば異常に見えることも、実は100%の確信を持ってやってたりする。ただ違うのは、社会の常識をもとに行動したり、判断しないってことです。だから演技の時には、自分は正しいことをやっているって信じ込むの」
 本田は頭を振り、興味を惹かれて尋ねた。
「自分が世界の中心だって思うってこと?」
「まあ、そうですね。狂気って言われるけど、自分なりに理屈は通ってるんです」
「『ハムレット』の公演中、君はオフィーリアだったわけだ。ずいぶん共感力が強いんだね」
「そうでしょうか?」
「君の演技は好きだけど、俺には真似できないアプローチだよ」

*

映画はクライマックスに向かって一気に緊張感が高まりつつあった。アカデミー主演男優賞を獲得したディーンは、客が呼べる俳優として、いくつもの仕事が舞い込んできていた。彼の元にはシナリオが届けられ、周囲にごまをすったり、おべっかを使ったりする連中がまとわりついた。そのなかから、アカデミー賞受賞後初の主演作品として彼が選んだのが、映画界の内幕を描いた『マリオネット・アクター』だった。
俳優というのは、いつもよい俳優になるにはどうすればいいのかを考え続けているものだ。そして、この映画の主人公は自分の演技に満足することなく、常に「俺は、ジェームス・ディーンのように、あるいはアル・パチーノやデ・ニーロのように演じたのか?」と自問自答するような男だ。そんな人気俳優役を人気俳優のディーン・ハヤカワが演じるというのだから話題性は抜群だ。
相手役となるマチルダ・クリストファーはまだあどけなさが残る新人で、情熱的で、その姿を見た観客はみな彼女が理想の恋人と勘違いしてしまうような才能を持った女優だった。

 だが映画の中で、ディーンは思ったとおりの演技が出来ずにいらいらしていた。その一方で、若いヒロインを演じるマチルダはいきいきと、確信を持って役を演じていた。その様子を横目で見ていたディーンは、自意識と羨みで演技に集中できなかった。
 ディーンは楽屋に自分のエージェントを呼んで、苦しい心情を打ち明けた。壁にもたれかかり、苦悩のポーズをカメラに見せつける。
「あまり考えすぎず、気を楽にして演じようとすればするほど、役の人物から離れていっているように感じる。まったく達成感が得られないんだ」
 カメラはローアングルに切り替わる。床に落ちている台本を蹴り上げ、大声で「くそっ」と叫び声をあげて、キッチンの皿をカメラ位置ギリギリの壁に投げつけた。
 撮影中は気持ちを平静に保とうと努めたディーンだったが、苛立ちがつい表に出てしまう。マチルダとの2ショット撮影の合間に、ディーンは頭を抱えながら再び悪態をついた。
「大丈夫ですか?」マチルダがきいた。
 ディーンが疲れきった顔で周りを見渡すと、心配そうなマチルダの顔がディーンを見つめている。「まいったね。いや、気にしなくていい」ディーンは、言い聞かせるように弱弱しい声で言った。両目を前髪で隠し、口元だけがカメラに映っている。「まだ少し、ペースがつかめないんだ」
「ハヤカワさん」とマチルダが心配そうな声をあげた。「余計なことを言いますけど、私は辛いときは、自分が辛くなるんじゃなくて、役の人物が辛いことにしてしまいます」マチルダはディーンを凝視し続けている。
「それは君のスランプ脱出方法かい?」とディーンは言って、眉をしかめた。「新人女優に説教されるようになったら、俺もおしまいだな」ふっと口元から息を吐く。
「すみません、気分を害されたんなら。でもハヤカワさんの演技は、ご自身が判断されるほど悪くないと思います」
 なんて失礼な女だ、とディーンは思った。彼は首を横に振り、今度は大きく息を吐いた。
「今度は評論家気取りか。わかってる。俺が悩むんじゃなく、役の人物に悩ませれば、もっと複雑なキャラを表現することができるのにって、そう言いたいんだろう」
「そうです」マチルダは認めた。
「君は演技理論についても詳しいらしい。そのうち即興劇でもやろうって言い出しかねないな。その気取った態度にはうんざりするよ」ディーンは大げさに両手を広げ、天を仰いだ。
「そんな」マチルダは言った。「ただ私は、役の人物がやっているからといって、俳優が意識しすぎる必要はないって言いたかっただけです。そうすれば、ハヤカワさんも気楽になると思ったから」
「君はゲーテが俳優について語った言葉を聞いたことがあるか?」ディーンは微動だにせず、口元だけを動かしてセリフをつぶやいた。
「いいえ」
「“俳優の芸術は一人のときのみ成長する”、つまりだよ、自分自身の内面を見つめることでしか芸術は生まれない。アドバイスはありがたいが、余計なお世話なんだよ」ディーンは表情を変えることなく、単刀直入に怒りをぶつけた。
「ちょっと外の空気を吸ってきます。しゃべったら疲れてしまった」と言って、片手で頭を押さえながらその場を離れた。

*

本田が重い足取りでステージからおりたところで、監督のカットの声がかかった。「いいね、いい演技だ」
「ありがとうございます」本田が監督に微笑んで舞台を降り、控室に向かった。
 本田がロティを振り返ると、彼女は小首を傾げ、疑いの目を本田に向けている。ロティは体をねじって椅子から立ち上がり、舞台を横切って早足で本田の横までやって来た。
「あれは何です?」とロティはきいた。
「あれ?」本田は怪訝な顔をした。
「あれは何です?」ロティは繰り返した。その目は興奮に輝いている。
「何って?」本田はステージの出口に向かって歩き続けた。ロティも本田の隣にぴったり張り付いてくる。
「あの、小人ですよ。彼は何をしているんです?」
 本田はぎょっとした。彼は心の中で言った。なぜ知ってるんだ?
「あれは…」と本田は言った。
「やっと見つけたわ」ロティは笑いだした。鬼の首を取ったような高く鋭い声だった。「わかってる。彼があなたの演技の秘密でしょ」
「何を言ってるんだ?」本田は大きく目を見開いた。その息づかいは粗く、顔色も幾分青ざめているように見えた。
「本田さん、私には見えるの」
 もう駄目だ。本田は目を瞑った。人間にも、まれに1秒50枚くらいの速度で再生される静止画を認識できる人がいるということは聞いたことがあったが、まさか共演者がそれだった。彼女には高速で移動するミスター・シェパードが見えるのだ。俳優人生ももう長くないかもしれない。本田はひどく動揺し、顔には脂汗が浮かんできた。
「ふたりでひとりなんですね、ケイタロウ・ホンダっていう俳優は」ロティはそう言って笑顔を向けた。

 映画の中で、ディーンはますます演技ができなくなっていった。稽古の真っ最中、ディーンはマチルダに向かって言った。「すまない。俺は君のように、役の人物の感情を呼び覚ますことができない」その声にはすっかり生気がなくなっていた。
 マチルダは役の人物を、自分が普段生活しているのと同じように、自然に演じていた。まるで役を自分の身にまとっているようだった。優れた俳優というのは、役を意識しながら、無意識に行動するといわれるが、そののびのびと新鮮な演技がディーンの目の前で展開された。
ディーンは心の中でつぶやいた。俺は自分で一流の俳優だと思っていた。しかし、彼女の前では型にはまった演技しかできない俳優に思えてくる。最初の作品と同じパターンの演じ方を続けてきたんじゃないか。最初はそれがリアルだと思っていたけれど、それを繰り返しているうちにマンネリズムに陥っていたんだ。彼女に言われたとおり、俺は役の感情を理解する努力が足りなかったのかもしれない。

 マチルダの控室の扉の横で、ふたりは言い合いを始めていた。
「悪態をつきたい感情があるのに、どうしてそれを役の中でやらないんですか?」マチルダはきいた。
「別に反論する気はないけれど」ディーンは言った。「ずっと俳優は感情を過大評価しすぎだと思って来たんだよ。演劇に関する理論なんて、ほとんど主観的なものばっかりだし。だから、そういうあやふやなものを元に演じたくなかった」
「私は感情も合理的だって思っています。誰もが、他人のために自己犠牲となるヒーローは大好きだし、強欲な社長を嫌ってる。みんなが同じ風に感じるってことは理由があるはずでしょ」
 ディーンは偉そうに講釈を垂れるマチルダを憎んでいた。逆に自分がそんなに強い感情を抱くことに、彼自身愕然としたほどだ。
「こんなくだらない話はやめよう」
「あなただって、自分が生きていけないかもしれない恐怖に支配されたら、人を脅したりするでしょう。人は感情で行動するのよ」
 カメラを覗いていたザックがイーストン監督に目配せして、インカムで囁いた。「脅しってなんだよ。シナリオにそんなセリフはないぜ」
「即興だよ。このまま2人にやらせよう」イーストンは指をくるくる回して収録を続けるよう指示した。
「やれやれ」ディーンが言った。
「感情を重視しない人は、自分の感情も意識しないのね」とマチルダ。
「もういい加減にしてくれっ」ディーンは壁を叩いた。

 ミスター・シェパードの存在に気づいたロティは、好奇心に駆られ、自分の出番でもないのに撮影現場に姿を現しては、本田の演技をニヤニヤしながら眺めるようになった。スタッフがいなくなる瞬間があれば、「こんにちは、ミスター・シェパード」と話しかけた。
「君も暇だね」本田は呆れて言った。
「あなたたち、ホントに素敵なパートナーね」とロティはつぶやいた。
「いつまでストーカーをやれば気がすむんだ? 正直、迷惑なんだけど」本田は嘆息した。
「大丈夫。先輩の演技を勉強するってプロデューサーさんには言ってあるし。ああ、もちろんミスター・シェパードのことは内緒ね。誰にも言わないから心配しないで」
「当たり前だ」と本田は言った。「もしこのことを誰かに言ったら、どんなことをしても君を芸能界に居られないようにしてやるからな」
 ロティはひゅうと口笛を鳴らした。「わあ、こわーい」
「こわーいじゃない」本田はロティに顔をしかめてみせた。やっとの思いでハリウッドでそれなりの扱いをされるところまで這い上がってきたのだ。自分の演技がまやかしであると見抜かれることだけは避けなければならない。

*

 カリフォルニアの抜けるような青空に歓声が響き渡る。撮影が休みになったこの日、ディーンはマチルダとドジャースタジアムのVIP席に座っていた。グラウンドでは昨シーズンにシーズンMVPに輝いたエースが、2回途中から15打者連続アウトに仕留めるなど圧巻の投球を見せている。観客を盛り上げるゾンビ・ネイションの「原子力400」が聞こえてきた。
「この映画を最後に俳優を引退しようと思ってるんだ」テーブルに肘を付き、両手を組んだままディーンが言った。
マチルダははっとして息を飲んだ。「出し抜けになんです?」
「ビギナーズラックでアカデミー賞の授賞式まで行くことができたけど、やっぱり身のほどを知らないといけないと思うんだ。俺は君と違って生まれながらの役者というわけじゃない」
 相手チームにホームランが出たらしい。観客席からのブーイングが聞こえてきた。
「それ、嫌味に聞こえますけど」マチルダはムッとして言った。
「俺は人間にそれほど関心がないんだとわかったんだ」
「だからって引退するほどのことですか? ハヤカワさんは、アカデミー賞受賞俳優ですよ」
「初めて会った時、君は俺のこと頭脳派だといったよね」
「そんなこと言いました?」
 ディーンはコーラの入ったカップにストローを刺して、一口すすった。
「俳優って、常に演技においてリアルとはなんだ、とか、どうしたら物語が実在するように感じられるのかとか考えるものでしょ」
「ああ、たしかに頭脳派ですね」とマチルダ。
「リアルな演技をするには、シナリオに書かれてる人物を創らなきゃいけない。それで俳優は自然な演技をしようとするわけだけど、お客が自然な演技を求めているかはわからない」
「ええ」マチルダは同意した。
「だから俺は日常生活にないようなものを、映像の中で登場させられないかと思って演技をしてきたんだ。無駄なものを取り去った、理想的な動きができないかと思っていた」
 ディーンはため息をつき、椅子を座り直した。試合は6回まで進み、4番が勝ち越しタイムリーを決めて、ドジャースの勝利は決定的になっている。
「君の演技を見ていて、やっぱり表現を考えるよりも、自分の想像力を磨いたほうがいいと思ったね。役の人物になりきったほうが、素敵な芝居になりそうだ」

*

 本田は美術倉庫を通り過ぎると、重いドアを開けて外に出た。脇に避けて道をあけると、すぐ後ろからロティが来て本田の前に立った。
「本田さんは演技は見ていてとっても楽しいです」
 本田は答えなかった。落ち着かない様子でポケットに手を突っ込んで、ぼんやりとロティの背後を見やった。そこはステージの裏にある倉庫に続く歩道で、ココスヤシが日陰を作っている。道に沿ってオリーブの並び、あちこちから孔雀の羽のようなブルーオーツグラスが飛び出している。
「実写ともアニメとも違うし」ロティは、たいそう嬉しそうに大声を立てて笑った。
 扉が開いて、スタッフが続々と姿を表し、2人を横目で見ながら通り過ぎる。
「とにかく、場所を変えよう」本田は歩道を歩きだした。体温が1〜2度は上がったのではないかというほど顔が火照っていたが、自分のやるべきことははっきり意識していた。

 ふたりはステージの奥へ伸びる道を並んで歩いた。本田は心の中で思った。他にどんな選択肢があるだろうか? ミスター・シェパードの存在がロティにバレた。ロティはこのことを誰かに喋るだろうか、逆に何があれば喋らないでいるだろうか。実際、こいつは理屈で説得できるような相手だろうか。仮にそうだとして、対価を要求されたらどうすればいい。
 ステージ裏に立つ倉庫が見えてきた。周囲に人影はない。本田はステージの影に入ったところで立ち止まり、ロティの後ろに回って口を開いた。「君の目的は何だ?」
「目的なんてありません。ただ、小さいおじさんがあなたの演技をつけているのが面白かっただけ」
「演技指導してるわけじゃない。これは彼と俺との真剣な共同作業なんだ」本田は一瞬間をおいた。「もしかして君は俺の演技を見て笑っているのか?」
「いえ」ロティは身震いした。
「自分は天才肌だって、俺を笑うのか?」本田はステージの壁面にロティを追い詰めていた。目は充血し、怒りがこみ上げてきて、ネクタイを緩めた首の周りは汗でびっしょりだ。
「ちくしょう」本田は顔をしかめて、どなった。「もし君がこのことを広めれば、俺の演技はつまらない、見掛け倒しのものだって言われるんだ」
「やめてください、誰もそんなこと言ってない」ロティは強く言った。
 本田はロティに一歩近づき、顔をしかめた。「君は才能に恵まれなかった俳優の気持ちはわからないだろうな」
「ホンダさん、呑んでるみたい」マチルダは首筋の毛が逆立つのを感じた。「私を脅すんですか?」
 本田がロティの腕を掴んで引き寄せたとき、ミスター・シェパードの声が聞こえてきた。「もう、やめとけよ」
「ミスター・シェパード、こいつは俺たちを破滅させようとしているんだ」と本田。
 再びミスター・シェパードの声がした。「そんなに感情をむき出しにするケイタロウは初めて見た。オレは実際の俳優でアニメを作りたかっただけなのに、なぜそんなに感情を爆発させるんだ?」
「ちがう、そうじゃない。俺は俺たちの演技を守りたかったんだよ」本田は咳き込んだ。
ミスター・シェパードはいらだたしげに言った。「前にも言ったけど、アニメのキャラは、感情はないけど演技できる。それでいいじゃないか。演技に感情が必要な俳優は、そういう演技をすればいい」
「ミスター・シェパード、ちょっと姿を見せてくれないか」と本田。
「本田と演技を作ってみてわかったことは、アニメと実写はずいぶん違うってことだ」
「ちょっと待ってくれ」本田は再び叫び、パニックを起こしかけた。
「君は立派な俳優だよ。もうアニメーターは必要ない」そう言って、ミスター・シェパードはいなくなった。

 本田の演技の魅力は失われた。監督やスタッフたちは、ストーリーにあわせて本田がわざと下手な演技をするようになったと思ったが、そうではなかった。だが彼には、まだクライマックスの撮影が残されていた。

*

 ディーン・ハヤカワとマチルダ・クリストファーはアメリカの制作プロダクションが用意した白いワゴン車で、日本のテレビ局のスタジオ横の入口に到着した。ウェストバックにガムテープを通し、インカムを首に巻いたジーンズ姿の女性が出迎えに待っている。ふたりは彼女の後について、日本国内のエージェントのデーブと一緒にエレベータに乗り、3階の控室に向かった。
 そこは都心の一等地に立つ電波塔を併設した6階建てのビルで、全部で大小5つのスタジオがあった。ディーンの出演するバラエティ番組は、その1階と2階部分を専有するGスタジオで収録が行われる。ふたりは映画のキャンペーンで日本を訪れ、1日じゅう朝から晩まで、様々なメディアの取材を受け、その最後が全国ネットのバラエティ番組への出演だった。映画ではこの出演がきっかけで、ディーンは日本の芸能界で生きていくことになるのだ。

 控室は入口で靴を脱ぐ6畳の座敷で、部屋の真ん中にちゃぶ台が置かれ、その上にお湯の入ったポットとお茶菓子が置いてあった。
「ここはヒューズスタジオの控室のシャワールームより狭いな」ディーンは軽口をたたいた。
 デーブはADから鍵を受け取ると、部屋の隅に歩きながら言った。「控室は全部このスタイルなんです」
「あっ、すみません。こちらが今日の台本になります」先程のADが顔を出し、今日の台本をデーブに手渡した。
「君は質問に答えるだけでいいんだ」とデーブ。「編集後の映像は確認することになってるから」
「どんな質問がくるの?」ディーンはデーブから台本を受け取りながらきいた。
「君はハリウッドの一流俳優だ。ウケを狙う必要はない。まあ、たまにプライベートなことを言えば、日本のファンは増えるだろうがね」
 ディーンは座布団に腰を下ろして、台本をパラパラをめくり、読み終わってから言った。「こんな馬鹿な」
「気に入らないところでも?」デーブがきいた。
「こんなことがあるかい? このわずか20ページの台本が2時間の構成台本だって」
「ああ、日本のバラエティ番組なんて、全部そうだよ。セリフは書いてない。“質問を受けて一言”ってあるだろ。そういう大雑把な段取りしか書いてない。話を決めるのは出演者の仕事なんだよ」デーブはきっぱりと言った。
「じゃあ、スタッフは何をしているんだ?」
「撮影とか音声とか照明とか?」
「いや制作だよ」
「撮った映像の編集、かな」
「何を話すのかを決めないのか?」
「だからそれは出演者の仕事なんだよ。日本のテレビはスポーツ中継みたいなものなんだ。スタッフはそこで起こった出来事を収録して放送する。起こる出来事を設計したりしない」
「マジなのか?」ディーンの口調がゆっくりになった。
「マジだよ」
「クソっ、来なけりゃよかった」ディーンは言った。
「そういうこと、事務所には連絡しといたけどね」
「聞いてないよ」ディーンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。「じゃあ、完全にアドリブでやれっていうの?」
「そこまでシビアに考えなくていい。どうせアメリカ人は誰も見ない。イメージダウンになるようなところはカットさせる。気楽に愉しめばいいさ」
 ディーンは自分がひどく緊張しているのを感じた。暗澹たる思いに陥り、すぐにでも逃げ出したいという衝動すらわいてきた。

*

 本田はロケの行われている東京のテレビ局で、すっかり脅えてしまっていた。東京ロケではテレビ局が用意した赤いベルベットに猫足の椅子に座り、ひな壇に並んだコメディアンの質問を受けることになっている。だが頼みのミスター・シェパードはもういなかった。本番が刻一刻と迫るなか、このままではインチキがばれ、スタッフの笑いものになってしまう。本田は心細さのあまり、スタジオの片隅でしゃがみ込み、ロティに言った。「君はわかるだろうが、俺はもうひとりなんだ」
ロティは「大根役者で実力もないくせに、尊大で腹黒い…そんなホンダさん自身を出せば大丈夫」と言って笑った。
「無理だよ、俺には無理だ」と本田は身をこわばらせた。
「心配いりません」ロティは静かに、本田を見守っていた。「ただし演じている、と思わないこと。そう思った瞬間に、いくら衝動もあって想像力も働かせても、つまらない演技になってしまう」
 本田は顔を背けた。
ロティはとっさに思いつきを口にした。「だとしたらディーンではなく、ケイタロウ・ホンダを演じたらどうですか?」
「自分自身を? ディーン・ハヤカワではない俺自身…」本田はよろよろと立ち上がり、ほっと肩の力を抜いた。
そうだ、ディーンはアメリカを去り、日本でタレントとして生きていくことを決めたんだ。そう思ったとたん、本田は自制を取り戻した。彼は俳優であることをやめ、自分自身を演じ始めた。

*

「カーット」イーストン監督は叫んだ。「ああ、そうだったのか。私はこのシナリオを十分理解していなかった。君たち2人が演じてくれたおかげで、はじめて登場人物が何を求めていたのかわかった気がするよ。本当に輝くばかりのすばらしい演技だった」
 監督はにっこりと笑い、スタッフに手招きして入るようにうながした。どこからともなく拍手の音がスタジオの四方から湧きおこると、本田とロティはスタッフから百合と薔薇の花束を贈られた。
「なあ、マチルダ」本田は言った。「君は魅力的な女優だね」
「そう? ご苦労さま、ディーン」ロティはそう言って、微笑んだ。

映画が公開されるや、本田が演じたキャラは評判となり、映画前半のスタイリッシュな演技と、後半の泥臭い演技が人気を呼んで、本田はアカデミー主演男優賞を、ロティは助演女優賞を獲得した。

*

アカデミー賞の授賞式当日、2人は揃ってドルビーシアターに続くレッドカーペットを歩いていた。
マチルダが言った。「今日のレッドカーペットは本物ね」
ディーンはうなずいた。「映像にしたら同じだよ。それに今日はミスター・シェパードも来てくれた」ミスター・シェパードは本田の足元を跳ね回っている。
「まさか、本当にドルビーシアターに入れるなんて思っていなかった」マチルダは赤い目をこすりながら言った。「3年前、私は田舎町でハリウッドに憧れていた頃、ハヤカワさんのデビュー作をネット配信で見たの。友達と一緒に見てたんだけど、他の誰も映像の1コマに映っていた小さい人に気付いていなかった。それからというもの、私はハヤカワさんの作品は全部、それこそ目を皿のようにして観察した」
「何か発見できた?」とディーン。
マチルダはうなずき、ためらいがちに言った。「ハヤカワさんの出演作を徹底的に見直して、その演技は小さい人と関係あるんだって確信を持つようになった。こう見えても、私もアニメファンなのよ」
「それでニューヨークに出てきたの?」
「ええ、だってハリウッドで一番の人気俳優の秘密を知ってるのよ。あなたと共演するためには何でもするわ。そして私も夢を叶えるの」
スポットライトを浴びる彼女の周囲をミスター・シェパードが駆けている。本田はミスター・シェパードを呼び、顔を近づけてその耳元にささやいた。「これまでありがとう、マチルダをよろしく」
ディーンはマチルダに別れを告げ、入口に向かう階段を上らずに、その場から立ち去った。

*

 一瞬のうちのあたりは真っ暗になり、ポップな曲調のエンディングテーマと共に、画面の下からスタッフロールがせり上がってきた。ライトが灯って試写室内が明るくなると、最前列でスクリーンを眺めていた本田圭太郎とロティ・ショートは立ち上がり、握手をした。

文字数:24077

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