青の時間、星の時間

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梗 概

青の時間、星の時間

彼の心は怒りと屈辱に満ちていた。彼は思う。若い頃は、歳を食えば、感情的にならず、何事もありのままに受け入れることができるものだと思っていた。しかし人間は―果たして今の彼は人間なのかどうかも分からないが―そんな単純なものではない、と。

 

 

彼は自分の生涯を思い返す。彼はシベリアよりさらに北の村に生まれた。父は日本人だったが、戦争に負けたために捕らえられ、シベリアで抑留されていた。父の戦友のほとんどは強制労働に従事している内に死んでしまったが、父は監視兵の眼をかいくぐって脱走し、収容所から離れた村に匿ってもらった。

その村では一日中、太陽が地平線上にあり、昼も夜も無い村だった。村は常に青色に染まっており、近くには昼の動物も夜の動物もいなかったため、村人が話をしなければ何の物音もしなかった。彼は成長するにつれて、村の人々は不死だということを知るようになった。彼が父の子でなければ、そもそも死と不死の違いなんて分からなかっただろう。しかし村の人々―その中には彼の母も含まれる―と違って、日本人である彼の父は、彼が成長するにつれて老いていき、彼が二十歳の時に死んだ。

父の死んだ後、彼は村のおさに相談した。俺は死んだ父と不死の母の血を引いている。俺は一体、死ぬ定めにあるのか、それともそうではないのか、と。長は答えてくれた。遥か昔にも、村の外の男が村の娘と結ばれて子を成したことがあった。その子は他の村人と同じように成人したが、村人が成人後は老いることが無いのと異なり、徐々に老いていき、醜くなった。そして生れてから二百年か三百年がたったころ、自分の醜さに嫌気がさし、村の外に出て行方が知れなくなってしまったということだった。我々のように不死の人々は、この時間を甘受しなければならない。ただ一つこの時間から逃れるには、村の外で「星の時間」と言われる<その者の生涯の最良の瞬間>を得なければならない、「星の時間」を得れば死ぬことが出来る、と。

そして彼は村を出て、南に降りながら、「星の時間」を探し求めた。それから五十年以上の時が経つ。彼はシベリア地方で働いたことも、北海道で働いたこともあった。そしてこの東京へ流れ着いた時から数えても、もう十年以上が経つ。

 

彼は東京ではホテルの清掃スタッフを行っていた。申し訳ないが、誰でも出来る汚れ仕事だ。そこで彼は十九歳のはなを見染めた。 

華はモデルとして十二歳でデビューした。それからモデルのみならず女優、歌手としても日本中を席巻するまでに五年とかからなかった。しかし十八歳の時に、舞台俳優以外のすべての仕事から引退すると発表して、今は彼が働くホテルに隣接する劇場で演技をする以外の仕事はしていない。彼が華を初めて見たのは、公演の打ち上げで行われるホテルのパーティー会場でのことだった。華はパーティーの中心にいて、かれは会場でモップをかける老人。彼と華は、父と娘どころか、祖父と孫娘ほどの年の差だということは、彼が一番よくわかっていた。

 

事件は一週間ほど前に起こった、ある公演の千秋楽が終わり、公演の打ち上げがいつものように彼の働いているホテルで行われていた。いつもは取り巻きが周囲にいる華。しかし、一瞬だけ華の周囲に誰もいない時が生じた。グラス片手に手持ち無沙汰にしている華に彼は近づき、愛の告白をする。その声は極めて澄んで大きかったから、彼の告白は会場中に聞こえた。

一瞬会場の全員が沈黙する。そして起こる大きな笑い声。パーティーに参加している全員が、老人の滑稽さに耐えられず、爆笑しているのだった。それは華も例外ではない。華はグラスの中のシャンパンがこぼれてしまうぐらい、腹を捩って笑っていた。

彼は気づいた時にはホテルの屋上に立っていた。こんな屈辱と絶望にまみれたとき、人は高い所から飛び降りるらしい。彼は地面へと体を降下させた。

それから一週間の間、そのホテル近辺では幽霊が出る、お化けが出るとの噂で持ち切りとなっていた。もちろん彼のことだ。不死の人は身体が破壊されても精神は生き続ける。

 

 

そして12月22日午前。華は一週間ぶりにそのホテルに来た。冬至のパーティーに出席するためだ。冬至のパーティーは午前零時から日の出の直前、午前四時過ぎまで行われる。そしてパーティーが終わってすぐ、夜と昼の境目の時間に彼は現れた、まっすぐ華の方を目がけて。亡霊が出てきて驚き悲鳴を上げ、四散する華の取り巻き達。しかし華だけは澄ました顔で亡霊を直視する。まるで「まるで私に何か用?」とでも言っている風情で。

 彼は怒りに歪んだ表情で華を見つめながら、華の首を両手で絞め始めた。それからどれくらいの時間が経っただろう、彼は力を込めて首を絞め続けたが、華はピクリともしなかった。そして華は話し始めた。

「「青の時間」はご存知ですか?夜と昼の境目の時間、夜の動物は鳴き止んでしまったけれど、まだ昼の動物が鳴き始める前の一分間を「青の時間」というそうです。その青の時間に思いの通じた二人が同時に立ち会えば、時間は無限になる」

彼は動揺した。「思いの通じた二人」だって?華は彼の思いを悟ったかのように、ニコリと彼に向ってほほ笑んだ。

 その瞬間が彼にとっての「星の時間」だった。彼の精神は金色の光を帯び始めると上方に向って散って消えてしまった。

彼が死んでしまってすぐ、それまで時間が停まっていたためマネキンのようになっていた華の周囲の人々が動き始める。何もなかったかのように、華に向って無内容な会話を始める取り巻き達。華は最後に独り言を言う。「また一人になってしまった」。

文字数:2290

内容に関するアピール

「時間」がテーマということで、ベタかもしれませんが、「永遠」と「一瞬」の対立を基軸としました。「永遠」の側である「青の時間」は、エリック・ロメールの同名短編映画より、「一瞬」の側である「星の時間」はシュテファン・ツヴァイクの『人類の星の時間』から、です。

不死の人が死を求めて旅に出るというモチーフは無論ボルヘス「不死の人」より、悪女に振られた男の復讐譚という骨子はバラード「コーラルDの雲の彫刻師」、及び三島由紀夫「綾の鼓」です。

 

設定は12月22日土曜日、午前4時25分00秒~59秒の間。

夜には夜の動物の鳴き声で世界は覆われ、そして昼には昼の動物の鳴き声で世界は覆われている。しかし夜と昼の境目の一分間、夜の動物は鳴き止んでしまったけれど、まだ昼の動物が鳴き始める前の一分間だけ、世界は静寂に包まれ、そして無限が現れる。そんな時間を「青の時間」というそうです。これはそんな青の時間の物語。

文字数:395

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青の時間、星の時間

今でも思い出す、<協和ホテル>で起こった様々な出来事を。

退職してもう数年になるのに、夜なかなか寝付けないとき、休日音楽を聴いているとき、もしくは食事をして或る味覚に出会ったとき、私の頭の中は協和ホテルの記憶で、特にあの冬至の日に起こった事件についての記憶で充満してしまい、他のことが何も考えられなくなってしまう。逆に今の仕事に就いて以降のことは何も記憶の中に蘇って来ることは無い。それほど協和ホテルでのこと、そしていわという今では死んでしまった老人と、行方不明になった女優のはなに関する出来事は私にとって強烈だったということなのだと思う。

決して良い思い出では無い、むしろ人に心的外傷を負わせるような事件であったにも関わらず、私の脳内でその複雑な出自を持つ老人と狂気をはらんだ美女の記憶が蘇って来るとき、痛烈な懐かしさに囚われてしまい、自分はこのままこの懐かしさに包まれて死ぬのか、と思ったりする。

 

 

私が表層の社会ではなく闇網ダークウェブの一地区、人々の間では<昭和>と呼ばれていた領域で働かざるを得なくなったのは、何も不思議なことではない。学生時代に勢いに任せて起業してみたはいいが、九十九パーセントの起業がそうであるように、数年で経営が行き詰まり、顧問弁護士の勧めもあって会社の破産手続きを行い、同時に銀行からの借入時に連帯保証人になっていた私自身も自己破産を行った。そこまでは想定の範囲内だったのだが、会社の清算手続きを完了し、一からやり直そうと人材紹介会社に登録して様々な求人に応募してみたが、全て求人企業に書類を送った段階で不合格となってしまった。人材紹介エージェントにも良い人がいる。なぜ全く書類選考に通過しないのかをこっそりと教えてくれた。

「加代子さんの会社がお金を借りていた銀行ありますよね。あそこ評判悪いんですよ。何しろそこからお金を借りてて、その借金が返せなくなった客が自己破産しようとしたら、客に対して、自己破産なんかして借金をチャラにしようとしたらあんたの情報を「反社会的勢力」のデータベースに乗っけるぞ、って脅して、何としてでも破産させずに金を返させるようにするって噂ですよ」

そう、私はいつの間にか「反社会的勢力」―極めて曖昧な概念―になっていたのだ。今どきの法令遵守コンプライアンスに縛られた会社であれば、人事部門が採用活動を行う際はまず応募者の名前をデータベースで検索し、その氏名が「反社会的勢力」に該当すれば、その瞬間に履歴書は中身を見ずともゴミ箱フォルダ行きとなる。そのエージェントによれば、少なくとも向こう五年間は私が表層で活動を行っている企業で働くことが出来る見込みは限りなく低い、とのことだった。とはいえ、今更―私は二十代後半になっていた―田舎の両親に喰わせてもらう訳にもいかない。

私には闇網で働くしか選択肢が無かった。

 

 闇網で働こうとする者は余りいない。そもそもGoldberg社を始めとする表層社会を牛耳るプラットフォームの運営者によって覆われた空間でこそ、検索機関や装置デバイスを介して発信される広告を通じて始めて商品の情報を知覚することが出来、それによって経済活動を行うことが可能となる。だからそのような広告から疎外されている闇網では経済活動が成り立たないため、わざわざ働こうとする奇特な者など殆どいない、というのが一般的な理解だろう。それはその通りなのだが、一般論には常に例外が存在する。例えば私のように。

 私のように脛に傷を持つ者、表層の社会では活動できない者は、必然的に深層の社会―それこそが闇網と呼ばれる―で生きていかねばならない。そして脛に傷を持つ者だけでも人類全体を対象にすれば、一つのみならず複数の経済圏を成立させるぐらいの規模になるのだ。私が闇網の中でも特に<昭和>と呼ばれる地区で働くようになった理由は特に無い。単に、私が求職中に<昭和>領域で運営されている協和ホテルで「未経験者歓迎」と付記されて掃除士の募集がなされていたため、それに応募したら採用通知が来たというだけだった。

 

 今眼を閉じても、あたかも協和ホテルが眼前にあるように、その細部に至るまで思い出すことが出来る。そこまで職場に思い入れが・・・というよりも冷静に考えれば単に職場で長時間働かされていただけなのだが。人工知能の発達により二十世紀までの花形職業は概ね機械に代替されてしまい、人間が寄与できる職業といったら清掃員や大工くらいだ。表層社会も闇網もその点において違いは無い。あるのはただ、労働環境の違いだけだ。その頃の私は平均終業時間は午前一時、遅いと完徹で―つまり二十四時間連続で―働くこともあり、どんなに早くとも仕事は午後十時にならないと終わらなかった。休日は協和ホテルが全館休業となる水曜日のみ。無論、表層では労働法違反となる労働時間だ。しかし闇網では表層の労働法も知的財産法も適用されない。だからこそ、当時の私のような者も職にありつき、賃金を得ることが出来たのだった。今、体を壊したりしてはいないからそう思えるのかもしれないが、その限りにおいては闇網に、そして私を雇用してくれた協和ホテルに感謝している。

 それは私が協和ホテルで働き始めてから一年ほど経ったころだった。私と同じ掃除士として、一人の老人が採用された。闇網のどの職場でも、人は大量に採用され、短期間にその殆どが退職し、そしてまた大量に採用される。だから当時の協和ホテルでの私の同僚は累計で数十―もしかしたら数百―人に達していたが、せいぜい数ヶ月の付き合いでしかなかったから、今でも名前を覚えているのは数えるほどだ。その数の中に、彼、<岩>は入っている。

 

 「岩、と申します。見ての通り、歳はいってますが、まだまだ元気ですので、よろしくお願いします」

 岩が入社して従業員の前で自己紹介の挨拶をした際に私が思ったのは、「持って二ヶ月」だった。この会社では<三ヶ月いればベテラン>と言われるように、「三ヶ月」が一つの基準となる。最初、私は彼がその基準に達しないと思ったのだ。何よりも、その年齢が気になった。明らかに七十を超えた見た目。協和ホテルのような大きな建物で清掃の仕事を行うことは明らかに向かないと思ったのだ。ただ彼の特異な瞳、右目が黒で左目がきんの瞳の色だけはとても印象的だった。

 

 闇網の一領域、<昭和>地区の中心にある<協和ホテル>。そもそもこの地区が<昭和>と名付けられたのは、この地区を創設した最初期の集団が、西暦一九五三年七月二十七日の板門店から一九六三年十一月二十二日のテキサス州ダラスの間を想起して設計したからだと伝えられている。一九五三年から一九六三年の間、つまり昭和二十八年の朝鮮戦争休戦から昭和三十八年のJFK暗殺までの十年間が、人類―ここで言う「人類」はおそらく日本人を指しているのだろうが―にとって最も至福で忘れがたい時代だったから、そのような時空間を網上で再現することを試みたのだそうだ。そして<昭和>地区が創設してからしばらく後、協和ホテルが建設される。協和ホテルは地上八階、地下四階からなり、その全体を谷口吉郎らが設計し一九六二年(昭和三十七年)に開業した「ホテルオークラ東京」を模し、地下階部分をパーティー会場、地上部分の東側を協和劇場と呼ばれる劇場、西側を客室として設計された。そして劇場内部については村野藤吾が設計し一九六二年(昭和三十七年)に竣工した「日生劇場」を模していた。このホテルは、<昭和>地区の一種の記念碑モニュメントとして建設され、そして私が勤めていた時もそのように営業されていた。

 労働環境は劣悪だったが経営者の能力はあったのだろう、協和劇場で公演がなされれば常に満員であり、公演を見に来る人々(その人々は闇網内にとどまらず、表層からわざわざやってくる者も少なからずいた)が宿泊するため、客室も何ヶ月か前に予約をしなければ取ることが出来なかった。

 

 その協和ホテルでの清掃の仕事である。朝は日が昇って来るまで続けられた地下の宴会場の片づけから始まり、昼には顧客が退館チェックアウトした部屋の清掃をし、夜は公演が終わった後の劇場の掃除で終わる。当時ギリギリ二十代であった私でもきつかった仕事だ、とてもじゃないが岩は続けられないと思った。

 しかし、岩と同時期に入社したはるかに若い従業員たちが労働環境に愚痴をこぼしながら一人辞め、二人辞め、と続いていったのに対し、岩は黙々と仕事を続けていった。

 そして岩が入社して一年ほどすると、私と岩が掃除士の中の最古参と見なされるようになり、私と岩が二人一組のペアとして重要な仕事―といってもVIPが宿泊した客室の清掃やセレブ層によるパーティーの片づけに過ぎないのだが―を任されることになった。日中、岩と協同して仕事をすることが多くなった私は、それまでほとんど岩と話をしたことが無かったが、徐々に雑談をするようになった。

「加代子さんは、すごいね。こんな地味で重労働で薄給の仕事なんて嫌だ嫌だって、若い連中、加代子さんよりも年上そうに見える奴もいますけど、愚痴ばっかりなのに、加代子さんは黙々と愚痴一つこぼさずやってて」

或る朝、<昭和>地区では名の知れた企業のオーナーが泊まった部屋のベッドの清掃をしている最中の岩の発言は確かこんな感じだった。そして私はこう返した。

「私、昔は会社の経営をしてたんです。小さい会社で、最終的には資金繰りに行き詰って、つぶしちゃいましたけど。その時の、社員の給料はどうしよう、取引先への支払はどうしようっていうことを一日中考えていた頃に比べれば、今の仕事なんて全然大したことないですよ」

「加代子さん、社長さんだったの!そいつはすごいな。俺なんてこの歳になっても、人に使われる仕事しかしたことないよ。でも、ここの仕事なんて全然大したことないっていうのは、俺もそう思うよ。俺が一番きつかったのは、<北地諸島>にいた子供の頃だよ。あそこは寒さが厳しくてね」

 <北地諸島>?聞いたことの無い固有名詞だ、闇網の領域の一つの名だろうか。単なる仕事中の雑談だと思い、その時は聞き流していた。

 

 ※

 

 岩とペアで仕事を始めてから二ヶ月ほど経った頃だろうか、華を初めて見ることになるあの日にも、私たちはいつものように夜の公演後の協和劇場の片づけを始めようとしていた。しかしいつもと違ったのは、仕事にとりかかろうと劇場に入ろうとした時に、マネージャーから「まだ、俳優さんたちが残っているから気を付けてね」と耳打ちされたことだった。私たちが掃除にとりかかろうとするとき、舞台内にスタッフがいることは良く有ることだ。なぜわざわざマネージャーが「気を付けて」何て私に伝えたのかその際は分からなかったが、劇場の扉を開いて即座にマネージャーの言わんとしたことを了解出来た。

 私たちが劇場に入った際、舞台上では一人の若い女性が苛立たし気に、舞台の端から端へ歩き回り、その女性と少しでも離れまいとするかのように、三名の男性が女性の後を追って同じように左右に動き回っていた。協和劇場の天井および内壁はその手本サンプルとなった日生劇場と同じように音響効果上、曲面で構成されており、天井には二万枚のアコヤ貝の貝殻が天空の星のように散りばめられ、内壁はガラスモザイクによって彩られている。その女性の足音と、それよりも少し小さい男性陣の足音は貝殻から反射して、一階扉の私の耳まで届いた。

 「あれが華さんだよ」いつの間にか私たちの背後に立っていたマネージャーが、ささやき声で教示してくれた。「そしてそのすぐ後ろにくっ付いているのが、秘書の金子さん。その後ろが演出家の藤間さんで、一番後ろが演劇批評家―といっても太鼓持ちしかしないが―の戸山さん」

 華、と呼ばれた若い女性は舞台の中央、やや下手側の箇所で足を止めると、にらみつける様に藤間を方へ首をひねり、こう言った。

 「オフィーリアの一番最後の台詞、『おやすみなさい』というところだけど、矢張りこの場所で言うのが一番じゃない?袖の間際で言ったら、新聞で書かれたように幕切れの台詞が聴きとれなくなるお客さんが出てくる」

「今日、私は上手側の二階桟敷で観てましたけど、華さんの台詞、最初から最後まで極めて明瞭に聞き取れましたよ。新聞に劇評を書いてる奴ですが、耳が遠くて有名で、あちこちの批評で『台詞が良く聞き取れなかった』って書いてて凄く評判が悪い奴で・・・」華をフォローするように戸山が言うが、華は譲らない。

 「昨日、帰るときにロビーを通ったら、残っていたお客さんが話していたのが聞こえたの。内容は良かったけど、台詞が聞き取りにくいところがあったって」

「しかし平岡先生の台本でも、オフィーリアは退場する間際に袖から顔だけ出した状態で最後の台詞を言う、と書いてありますから」懇願するように藤間が言うが、華の<反論>が決着を付けた。

「私、あの人嫌いだって言ってなかったっけ?」

 

 

私が華を直接見たのはその時が初めてだったが、華についての情報はふんだんに持っていた。当時十九歳の華は、その年齢にして既に神話的存在だったから。

新興財閥の創業者ファウンダーである華の父が四十二歳の時に、二十四歳のモデルである華の母と結婚したことは、それだけで一つの醜聞スキャンダルだった。だから良くも悪くも華は最初から「成功」を約束された存在であったといえるだろう。華はまず、母の後を継ぐようにモデルとして十二歳でデビューした。しかし華の例外アノマリーさは十三歳の時にフルヌードの写真集を発売した事で社会的に周知されたといえる。無論、その写真集は「児童ポルノ」としてほぼ全ての媒体で発売を禁止された。他の単なる十代のモデルであったなら、「金目当て」ということで受容はされずとも、理解されていたであろう。しかし華に限ってそれはない。しかし何のために写真集を出したかというマスコミの質問に回答する前に、まるで何もなかったかのように華はモデル以外にも女優、歌手にも進出し、成功を収めた。後代の歴史の教科書に<一つの時代精神を体現した存在>と記載されると予想しても、決して大げさではないほどの存在となるまでに五年とかからなかった。しかし私が華を目撃する約一年前、十八歳の時に彼女は全ての仕事から引退すると発表して唐突に表層社会から姿を消すこととなった。

グレイス・ケリーよりも八歳若く、山口百恵よりも三歳若い引退について、口さがないマスコミは連日新たな噂を作り出した。下劣なものでは、華は十代の少女を中心とする大規模な売春斡旋集団の総元締めであり、そのことを把握した検察が立件を見送る代わりに、華に表舞台に二度と立たないように誓約させた、という<報道>があった。上質な部類でも、華はデビュー直後から極度の不眠症であり、主治医から処方された数日分の睡眠薬を一度に飲んだ事から昏睡状態に陥ったため「引退」とせざるを得ない、というものだ。もちろん全ての報道には何の根拠エビデンスも無い。

華の露出が無ければ、誰か他の者がその穴を埋めるだけだ。引退発表から一ヶ月もすれば、あたかもこの世界に<華>という存在はあらかじめ無かったかの様だった。ただ一点、極めてマイナーな報道会社による、華が闇網で活動を再開したという報道を除いて。

そこで私はその日、協和劇場で舞台上に立つ華をみて、その無名の報道会社が他のどの大報道機関よりも正しかったということを了解するに至る。

 

 

 華たちが舞台から去った後、私と岩は舞台上の劇場客席の清掃作業を始めた。客席に今回の公演宣伝用のチラシが落ちていたようだ。清掃中にそれを発見した岩はそれを見つめながら私に話しかけた。

「『闇網一の劇作家、平岡氏が華嬢の闇網界デビュー公演のために書き下ろした新作劇、オフィーリア』だって」

「『オフィーリア』って『ハムレット』の恋人でしょ?」

「平岡って人が『華嬢を念頭において、オフィーリアを主人公にしてハムレットを再構成した』ってチラシに書いてありますよ」

「要は二次創作ってことでしょ」

 岩はまだ何か話を続けたそうだったが、私は彼に背中を向けて業務を続けた。岩の気持ちは分からないでもない。華のその美貌、そして十二歳でデビューした時点で既に持ち合わせていた三十女の様な気品に触れた者は、男も女も問わず、華の存在を無視することが出来ない。華の存在自体が人を苛立たせ、そして夢中にさせる。私は何年か前、華が表層社会できらびやかに活動しているさなか、華の熱狂的なファンが、劇場での公演中に自身の喉を刃物で切り裂き、自殺を図った事件を想起した。

 岩だけではない、私だってそうだ。さっき私が一階扉を開いて協和劇場内に入り、舞台に目をやった際、ほんの一瞬であるが華と眼が合ってしまった。劇場の奥から舞台までの距離でも、華のその二つの青い眼に射すくめられ、全身が硬直した。その感覚はまだ残っている。

 

 岩の様子が少しおかしくなったのは、その日からだった。仕事中、明らかに以前に比べると集中力が無く、そして劇場や公演後の宴会場の清掃の際には落ち着きなく周囲をきょろきょろと見まわしていた。たった一人の仕事の相棒ペアがこんなことでは困りものだ。ある日の業務終了後、私は率直に自身の考えを岩に告げた。

「俺だって分かってますよ。でも初めてあの方のお姿を見たあの日、あの方がお供みたいに演出家や批評家連中を連れて舞台の上を踏みしめていたあの時・・・何というのか、ロシア帽をおかぶりになり、その下の前髪が眉の上で一直線に切り揃えられて、肩下まである長く伸びたおぐし、肩までは金色でその下は緑色のお髪、そのお顔は頬の外側にほんわり色付ようにチークで彩られていて・・・。それから瞳、その青色は、俺が生まれた島の色そっくりだったんだ。あの方のお姿を目にしたとたん、あたりが朝と夜の境のように照りかがやいた。・・・そしてまるで相手にしていないという風に、男どもの言うことを撥ねつけたのを聞いた時、俺は身震いがしたんだ。・・・それからずっとこうだ」

「・・・好きになったっていうの?」

「分かりません。仕事一筋で、恋をしたことなんてありませんから」

 

 *

 

 その日はホテルの客が少なく、通常よりもかなり早く仕事を終えることが出来た日だった。仕事が終わったって特に何もやることはなし、彼の昔話を聞く時間はたっぷりあった。

「俺が<北地諸島>で生まれたって話はしましたっけ?」

「聞きましたけど、<北地諸島>って場所については何も知らなくて・・・」

 

<北地諸島>は私のいた<昭和>と同じように闇網の一領域とのことだった。<昭和>が日本の昭和期を模されて創設されたように、<北地諸島>は実在の地球に存するシベリア北部に位置するタイミル半島よりもさらに北、北極圏内にあり、その一部は北緯八十度よりも北に位置するセヴェルナヤ・ゼムリャ諸島を模して創設された。空間は特定されているが、<昭和>とは違ってある一定の時期を手本としては創られてはいない。そもそもセヴェルナヤ・ゼムリャ諸島自体が極めて厳しい寒さにさらされる場所であるため、先住民や定住者は存在せず、人類の歴史が存在しない場所だから。

彼の父は<北地諸島>とは全く関係ない国で生活を営んでいたが、その国が<北地諸島>近隣の国との戦争に負けたためにそのIDを捕らえられ、強制労働に従事させられていた。彼の戦友はその殆どが抑留されている内に死んでしまったが、父は監視兵の眼をかいくぐってウェブの深層にもぐり、たどり着いた闇網の一領域、<北地諸島>に匿ってもらった。その島では一日中、太陽が地平線上にあり、昼も夜も無い島だった。島は常に青色に染まっており、近くには昼の動物も夜の動物もいなかったため、人が話をしなければ何の物音もしなかった。

そもそも何故人の住めないセヴェルナヤ・ゼムリャ諸島を模した地区の創設なんかを行ったのか?それは<不死>のためだと島の者から彼の父は聞き、岩は父から伝え聞いた。

 

人間の意識で表象される時間は現実世界で生じる時間と一対一で対応しているわけでは無い。外界で生じた出来事を人間の五感は知覚するが、それらの知覚は脳によって編集され、脳によって演出を施された「現実」が我々の意識で上演される。塔から転落している人と安全な地面に立っている人を比較し、一瞬だけ表示される数字をどちらが良く読み取れるかを試験テストすることで、恐怖の感覚が現実よりも意識内における時間の速度を遅くすることは、実験によって既に証明されている。

そこで<北地諸島>を創設した一群はこう考えるようになった。極めて時間の流れが遅い、と脳を騙すことの出来る環境を創りあげ、その中に人間の意識を住まわせれば、そこに住む人々は事実上不死と変わらない状態になるのではないか、と。世界に日の出と日没があれば、それだけで脳は時間の経過を意識してしまう。であるならば北極点に近く常に太陽が地平線上にあり、脳が時間の経過を意識しない地域を模した領域を創りあげればいいだろう、その手本としてセヴェルナヤ・ゼムリャ諸島は好適だった。無論、北極圏にある島々を模した領域に暮らすということは、常に寒さと闘い、日没の憂鬱も日の出の歓喜とも無縁の日々を送ることとなる。<北地諸島>に住む人々は、それでも不死となりたいと願う人々が表層社会から逃れて集い、島々を造り上げたのだった。そして<北地諸島>で生まれた子は、その特異な生育環境から両眼の瞳が金色になるという。

だから、あらかじめ<北地諸島>の環境を知悉せずに流れ着いた岩の父は、規則外イレギュラーな存在だった。岩は成長するにつれて、<北地諸島>の人々は不死だということを知るようになった。彼が父の子でなければ、そもそも死と不死の違いなんて分からなかっただろう。しかし島の人々―その中には彼の母も含まれる―と違って、<北地諸島>の外である程度の年齢を重ねてしまった彼の父は、<北地諸島>に騙されることが出来ず、無限に続く<青の時間>―<北地諸島>の人々は、そこで流れる時間をそう呼んでいた―に順応できないまま、彼が成長するにつれて老いていき、彼が二十歳の時に死んだ。

 

父の死んだ後、岩は島のおさに相談した。俺は死んだ父と不死の母の血を引いている。俺は一体、死ぬさだめにあるのか、それともそうでは無いのか、と。長は答えてくれた。遥か昔にも、<北地諸島>の外の男が島の娘と結ばれて子を成したことがあった。その子は他の島の者と同じように成人したが、<北地諸島>の人々が成人後は老いることが無いのと異なり、<青の時間>と完全に同期シンクロすることの出来ないその子は徐々に老いていき、醜くなった。そして生れてから人の時間で換算して二百年か三百年がたった頃だろうか、自分の醜さに嫌気がさし、<北地諸島>の外に出て行方が知れなくなってしまったということだった。岩は「<北地諸島>の外に出た男は、その後に死ねたのだろうか?」と聞いてみると、長は首を横に振った。一度<北地諸島>によって脳を騙され、<青の時間>の影響を受けた者は、<北地諸島>の外に出てもその影響を受け続けなければならない。

ただ、と長は言った。「ただ一つこの時間から逃れる方法があると聞いたことがある。感情が極度に高ぶることよって、脳が異常をきたし発作を起こすことがあるという。その際にまれにではあるが、脳で表象された時間と現実の時間を一致させる、つまり<青の時間>を脱し、現実の時間と同期させることが出来る」、と。「感情が極度に高ぶるって?」岩は聞いてみた。「例えば、恋に落ちた相手と思いが通じた瞬間。そんな瞬間を<星の時間>と呼ぶとも聞いた」というのが回答だった。

そして岩は島を出、<北地諸島>を出て、深層・表層を問わず様々な領域を転々としながら自分が死ねるように<星の時間>を探し求めた。それから五十年以上の時が経つ。

 

 昔話を語り終わったあと、岩は最後にこう呟いた。「<あの人と一緒にいたい>。こんな感覚がもしかしたら恋に落ちるということなんじゃないか?」

 

 *

 

「最初の」事件はその年の十二月十五日に起こった。その前日は『オフィーリア』の千秋楽公演の日であり、私と岩が初めて華を見てから一ヶ月ほどが経っていた。公演が終わった後、打ち上げのパーティーが地下四階の宴会場で行われる。私たちが掃除のために、その翌朝七時に宴会場に入ると、夜を徹してのパーティーは華を含めて数名だけだが、まだ続いていた。

 

その一ヶ月の間で、私たちは何度も華を眼にした。公演後の舞台裏で、ロビーで、掃除のために客室に入った際には布団をかぶって寝ている華に追い返されたこともあった。

どうやら華は「活動を再開した」とはいえ、その活動はほぼこの協和劇場に限られているらしい。華は連日、舞台で、パーティーで、表層社会で活躍していた頃と変わりない、いや、それ以上の存在感オーラを放っていた。華の周囲には常に誰かしら人がいた。秘書は無論として、演出家が、劇作家が、批評家が、報道屋ジャーナリストが、衣装考案家ドレスデザイナーが、更には経営者が、政治家が、貴族が、いた。表層社会で引退を発表した華がなぜ闇網で活動を再開したのか、その理由はまだ何も明言されていない。しかし闇網の人々は表層社会の<女王>が表層社会から飛び出して、深層も深層の、闇網の一画を根城に活動を行っていることが嬉しくてたまらないのだ。

私たちが目撃したように、彼女が復帰した直後は、華に意見する者もいた。しかし一ヶ月の内に、状況は一変した。誰もが華の歓心を買いたくて彼女の周囲をうろうろとし、取り巻きが形成され、華が少しでも退屈そうな表情をすれば我先にとお愛想を伝えた。

 

しかしその時、つまり十二月十五日の朝七時過ぎは異なっていた。いつものように華の周囲には何人もの取り巻きがいた。しかし誰も彼も眠たそうにして、ある者はテーブルに残っている冷えた食べ残しの料理を食べ、ある者はどこかに電話をかけ・・・華の周囲に一瞬だけ隙が出来た。

その瞬間、私の横からグラス片手に手持ち無沙汰にしている華に向って、年をとった男が進んで行った。岩だ。

華の前で立ち止まり彼女と相対した岩は、その口から<ア-ナ-タ-ノ-コ-ト-ヲ-ア-イ-シ-テ-イ-マ-ス>と発声した。その声は極めて澄んで大きかったから、彼の言葉は宴会場中に反響した。

一時、会場に残った全員が沈黙する。一体何が起こったのか分からないから。そして大きな笑い声が起こる。何のことはない、掃除士の老人が、あの<華>に向って愛の告白をしているというのだ!会場に居残っていた全員が岩の滑稽さに耐えられず、爆笑しているのだった。それは華も例外ではない。華はグラスの中のシャンパンがこぼれてしまうぐらい腹を捩って笑いながら、汚いものでも現れたかの様に足を二三歩後ずさりさせていた。

岩は周囲の嘲笑に圧せられながら、しばらく呆然と華の前に立っていた。そして自分の立場を理解したのか、体を扉の方へ向けると、扉を抜けて宴会場から立ち去ってしまった。その際、私は絶望に覆われ、真っ蒼になった岩の顔を見ることになる。しかし私は・・・私は仕事を放って、岩の後を追いかけることは出来なかった。まだ笑いが止まらない華を始めとする客人たちに、相棒の掃除士が失礼なことを言って申し訳ございません、と頭を下げ続け、本来であれば二人で行うべき大宴会場の清掃を一人でこなさなければならなかった。

 

一心不乱に仕事に取り組んでいたせいだろうか。何とか予定時刻までに一人で宴会場の清掃作業を終えることが出来、次は客室の清掃にとりかからなければならないが、しかし岩はどこに行ったのだ?、もしかしたら客室も一人で行わなければならないのか、といった考えで頭がいっぱいになった私を協和ホテル一階で待ち受けていたのは、救急車のサイレンの音だった。

「飛び降り自殺だって」「お客さんかな?」「いや、うちの制服を着ていたって話だよ・・・」

受付係たちの会話が耳に入った瞬間、岩だ、と直感した。

 

 <岩という老人が協和ホテルの屋上から地面へとその身を落下させ死んだ>という報道を眼にしたのは、その日の夕方の黄色新聞イエロージャーナリズムでだった。その日は他にこれといったニュースも無かったのだろうか、紙面では大判の写真入りで岩の報道がなされている。その写真では八階建ての建物の屋上から飛び降りて破壊された、醜い老人がさらに醜くなった残骸が前景に、そして残骸の破片はその後景に写っている、協和ホテルを退出する取り巻きに囲まれた華のハイヒールにまで及んでおり、ご丁寧にも破片の一部をヒールが踏んづけていることまでもが明瞭に移されていた。華の表情に全く変化は無い。まるで私の周りでは死なんて日常茶飯事とでも主張しているように冷酷クールに見えた。

 しかし、私の感覚がそれで決着をつけられた訳では無い。<北地諸島>の出身者は、外の世界に出たとしても決して死ぬことは無いという、岩の与太話をその時までには半ば真に受けてしまっていたから。

 

 *

 

それから一週間が過ぎた。

岩の代わりに、私には入社して八ヶ月の<ベテラン>掃除士が、新しい相棒ペアとしてあてがわれ、私は以前と変わらない業務をこなしていた。しかし協和ホテルは違う。十二月も下旬だというのに、新しい人員スタッフが次々と様々な部署に入っていき、私は毎日のように新顔をホテル内で発見した。

理由はもちろん有る。『オフィーリア』の大成功を受け、年末年始の協和ホテル挙げての大興行として、華主演でジャン・ジロドゥの原作を翻案した新作劇『オンディーヌ』が急遽上演されることになったのだ。初演は冬至である十二月二十二日午前零時から始まり、途中、幕間の二回の休憩を挟んで午前六時半の日の出と共に終幕となる。『オフィーリア』と同じく脚本は平岡で、演出は藤間。早くも華-平岡-藤間の三人で<昭和>地区のみならず、闇網の演劇界最高の三角座トライアングルとでも形容されそうな勢いだった。

 

 しかしそんな煌びやかな世界のために、我々は額に汗して働かなければならない。マネージャーが過労で倒れそうになっている中、いつの間にかマネージャーに自分の片腕だと名指しされてしまった私は、通常業務に加え、有象無象の新人たちを束ねる準マネージャーのような役割を担わされていた。

 管理職マネージャーの役割は部下の愚痴や噂を収集することにもあるが、ここ闇網では老若男女問わず、新しい職場に配置された人々はすぐに噂話を始める。

「そういえば知ってます?」

「何を?」

「お化けが出るって」

「聞きました聞きました。昔から働いてる人から聞きました」

「ここ一週間毎日、日の出直前の時間に出てくるって・・・」

「なんでもあの人の幽霊だって話じゃない。先週までここで働いてた、あのお爺ちゃん。先週、ホテルの屋上から飛び降りて死んじゃった人」

「私その人、知らない。まだ入って四日目だから」

「僕は知ってますよ。そのお爺さん、何度も見かけましたし、少し話をしたこともありました。私もそう聞きました。」

噂話が厄介なのは、その中に少しの真実も含まれていることだ。私は新人たちの噂なんて何も興味が無い振りをしながら、しかし内心、極めて動揺していることを自覚した。岩が亡霊として出てくる?もしかして彼はまだこの世界を彷徨さまよっているんじゃ・・・。私は自分の頭に浮き上がった考えに注意を払わず、がむしゃらに目の前に山と積まれた仕事をこなしていくしかなかった。

 

 *

 

そして十二月二十二日午後零時がやって来る。二番目の、そしておそらくは最後の事件の日が。

開幕のたった一時間前、二十一日の午後十一時に、華は一週間ぶりに協和ホテルに顔を現した。やはり一週間前のあの事件が気になっているのだろうか、劇の稽古はずっと他の場で行っていたそうだ。相変わらず華の周りには、入れ代わり立ち代わり、常に人がいた。批評家の戸山なんて、まだ初演もされていない『オンディーヌ』を絶賛する批評文を華の目の前でかざし、華の演技を褒めちぎっていて、それをどこか憂鬱そうな顔をした華はあいまいな笑みを浮かべて聞いていた。

 

 その日、私は「人手が足りないから」というただそれだけの理由で、『オンディーヌ』の舞台美術の補助アシスタント業務を命じられていた。新人たちを組織して地下宴会場の掃除の始末をつけると、そのまま協和ホテル地上東側の協和劇場に向い、舞台の準備を行う。慣れない仕事、大変な作業。でも幕が上がり、オンディーヌの両親、オーギュストとユージェニーの掛け合い萬歳マンザイが始まるとすぐ、私の不満と緊張ストレスは治まってしまった。だって舞台袖に立っている私から観て、原作を翻案リライトした平岡の作った台詞が、藤間の演出が、<オンディーヌ>と叫ぶ合唱隊コロスの声が、それらを彩る協和劇場天井の二万枚の貝殻が、そして何より髪を振り乱して舞台に現れる<オンディーヌ>としての華がとても美しかったから。

 

 平岡の脚本は、概ねジロドゥの原作通りに進められた。田舎の農家を軸とする第一幕、それが終わるとしばらく休憩時間となり、その後に宮廷を主戦場とする第二幕が上演され、最後の休憩を挟んで最終幕、第三幕が演ぜられる。そして事件イベントは閉幕直前の時刻は午前六時半、オンディーヌが現世の記憶を全て消し去られ、白痴のようになってしまった瞬間に起きた。舞台上ではオンディーヌを除く最後の役者である水の精も、オンディーヌを引っ張りながら下手へと退場してしまい、残されているのは下手の袖ギリギリで、水の精に引かれながら、その最後の台詞、「すごい残念。ぜったい好きになったんだけど・・・」という台詞を発しているオンディーヌ=華ただ一人だけだった。

 最初は協和劇場に仕掛けられた爆弾でも爆発したのかと思った。協和劇場の天井の一部が轟音を立てて弾けたからだ。天井には大きな穴が空き、そこに散りばめられていた数千枚の貝殻は客席に振り、舞台に、そして華に降りかかった。協和劇場のてっぺんに開いた大穴から、日の出の時刻に世界を満たす時特有の、あの青い光がまるで照明のように劇場全体に降り注いだ。

 

 その青い光の中で、まるで天使が降臨してくるように、男が天井の穴から舞台へとゆっくりと着地した。

 それは<岩>だった。突然の出来事に、観客席の人々だけではなく、舞台裏にいたスタッフも悲鳴をあげながらなるべく舞台から、<岩>から離れようと四散していった。舞台に残されていたのは、足がすくんで動けなかった私と・・・そして華だった。華は何も驚きもせず澄ました顔で<岩>を無言で直視していた。まるで「私に何か用?」とでも言っている風情で。

「俺が死んだと思ってたんだろ?」彼は怒りに歪んだ表情で華を見つめながら、彼女に近づき、華の首に両手をかけた。

「俺みたいな老いぼれが、あんたには相応しくないってのは、頭では分かるよ。でもあんな小馬鹿にしたように笑わなくったっていいだろ?」華はピクリとも動かない。

「あんたみたいに華やかな世界で生きてきた人には、俺の苦しみなんて分からないだろう?俺は苦しくて苦しくて、<死ぬ>っていう状態になれば楽になれるのかと思って、この建物から飛び降りてみたんだよ」<岩>は両手を徐々に絞り、華の首を絞め始める。

「でも俺は死ねないんだよ、やっぱり。変な場所で生まれちまったせいで、俺は死ぬことも許されず、ウェブ上のバグみたいになっちまった。俺が現れることが出来るのは、俺が生まれ育った島と同じ色に世界が染まるこの時間帯だけだ。だからこの一週間、あんたが現れるのを待ってたんだよ」

それからどれくらいの時間が経っただろう、彼は華の首に手をかけ続けたが、華は微動だにしなかった。そして華は話し始めた。

「あなた、<北地諸島>のお生まれですね」<岩>が、何でそんなことを知っているんだ!と発する前に、華は言葉を重ねた。

「一週間前、初めてお会いした時から分かってました。あなたのその金色の瞳、<北地諸島>生まれの者だけが持つという金色の瞳を見たときから」

「俺は・・・」華は自分の首にかけている皺くちゃの手を自身の手で話を続けた。

「<北地諸島>から来られたということは、<青の時間>を生きてらっしゃるんですよね?夜と昼の境目の時間、夜の動物は鳴き止んでしまったけれど、まだ昼の動物が鳴き始める前の一分間が無限になるというあの時間を!私を<青の時間>へ一緒に連れて行ってくださいませんか!」

華の言葉を聞いて<岩>が激しく動揺していることは、彼らから数歩離れた場所にいた私からもはっきりと分かった。

「<一緒に連れて行って>って、あんた、あの時はあんなに俺のことを馬鹿にしたように笑っていたじゃないか・・・」

「私の周りに愚かな連中がいない今だから、はっきり言えます!私を<北地諸島>へ、<青の時間>へ連れて行ってください。あなたと同調シンクロしたい、あなたと同じ時間にいたいんです」

 彼は動揺を通り越して、手足をガクガクと痙攣けいれんさせ始めた。そうしてこう叫び始めた。

「そんな、嫌だ・・・俺もあんたと一緒にいたいのに、せっかく恋した人と一緒にいられる事になったのに・・・これが<星の時間>なのか?嫌だ・・・そんな、死ぬのは嫌だ!死にたくないんだ・・・」

発作を起こし、華から離れ舞台上を叫びながらのたうち回っている<岩>を彼女は呆然と見ていたが、しかし天井から差し込んでいた光が青から朝日の色に替わり、朝日が彼の体を撫でると、ウェブ上のバグは消滅してしまった。

 

 *

 

彼がいなくなってしばらくして、それまで散り散りになっていたスタッフたちが舞台に戻って来、呆然と立ちつくす華の周りに集い始める。私はマネージャーに対し、一体何が起こったのかを説明するために別室へ移動した。ただその際、まるで事件何て何も起きなかったかのように、『オンディーヌ』での華を絶賛する取り巻き達からは目を背け「また一人になってしまった」、と呟く華の声を聞き逃すことはなかった。

 

 華が姿を消したのは、その翌日、十二月二十三日だった。もしかしたら二十二日の内に、既に姿を消していたのかもしれない。けれど少なくとも、補修工事が行われている協和劇場の天井を眺めながら、その報道を私が聴いたのは二十三日だった。最初の報道がなされた直後は、華の行方について各社から過熱した報道がなされたが、クリスマスが過ぎ、年を越して正月も終わりに近づくと、世間の相場は「やれやれ、随分と飽きっぽい女王様だな」というところに落ち着いた。

 

 華はおそらく、更に網の深層へと流れていったのだろう、と思う。それから数年経ち、私は目出度く「反社会的勢力」扱いから解除され、表層社会で活動できるようになったが、今でも深層から更に深層を経由して間違って表層に現れてしまった華とどこかの道端ですれ違い、あの<岩>という老人について二言三言でも話がいつか出来ることを楽しみにしている。 

 

*作中の『オンディーヌ』については、ジャン・ジロドゥ作、二木 麻里翻訳の光文社古典新訳文庫版『オンディーヌ』 を参考にしました。

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