睡眠夫妻

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梗 概

睡眠夫妻

経過時間:一週間

千波冬人は、激務で名をはせる国際検疫センター外来生物対策部防疫課に勤務する四十五歳の独身。外来生物の侵入が疑われる事象が発生し、寝る間も惜しんで仕事をしている。そんな中、事前選考を三度目の挑戦でパスし、念願の第十八回大森望SF創作講座の受講生になった。睡眠を削ってなんとか課題をこなしていたが、職場での昇進により、超激務となる。千波の睡眠負債は債務超過の状況に陥った。

休日返上で迎えた月曜日の朝、部下の大竹夏海が元気な顔で出社してきた。「究極のタイムマネジメント協会」提供『睡眠夫妻(S夫妻)』を利用し始めたという。夫婦で住み込み、家事や雑用をこなすサービスだ。千波は早速、一週間のお試しを申し込んだ。

深夜に帰宅すると、リオのカーニバルから抜け出してきたようなラテンなS夫妻が到着していた。千波の睡眠中に家事全てをするという。千波は疲れた体をベッドに投げ出して、泥のように眠る。

火曜日。千波の出勤中にS夫妻は睡眠をとる。お試し期間の唯一の条件は、留守の間の寝室の提供。千波は許可して出勤する。深夜に帰宅した時には、夕食と久しぶりの風呂が準備されていた。

水曜日。朝の目覚めはすこぶる良い。気力が充実していて、早朝出勤。仕事も効率よく済み、帰宅すると、早くもSF創作講座の次の課題に取り掛かる。

木曜日。SF創作講座後の深夜の飲み会。始発まで語り明かしても全く疲れない。若い受講生たちの称賛の声を聞きながら、いい気分でそのまま出社。

金曜日。寝室にS妻が入ってきて、添い寝をするという。それもサービスの一環かと、遠慮せずにお願いする。

土曜日の朝。部屋中がジャングルと見まごうばかりに模様替えされている。S夫妻がお試し後の本契約を勧めてきた。条件は、千波が使用しない昼間に、寝室をS夫妻に提供すること。でも、決して中を覗いてはいけない。

日曜日。一日中、精力的に執筆と仕事の段取りをする。S夫妻は寝ている。ふと、「覗いてはいけない」という言葉が脳裏をよぎった。そっとドアを開ける。部屋は大きなクモの巣のようになり、緑の巨大イモムシ様生物が二体、絡まるように寝ていた。覗き込む千波に気づき、S夫妻の顔をしたイモムシが言う。すでに千波の身体には卵を植え付けた、と。それはヒトを幼生の栄養として繁殖する、捕食寄生型の地球外生物であった。

とたんに、千波は身体がマヒして動かなくなる――はずが、何も起こらない。

なぜマヒ毒が効かないのか、と問うS妻に、千波は腕の皮膚をつまんで見せる。日本が世界に誇る超うすうす高分子化合物の膜が千波の身を包んで、S妻の産卵を防いだ。

千波と夏海は、外来生物対策部防疫課のおとり捜査官。夏海がその地球外生物の体液を採取し、解析。細胞接着分子を分解、生物の身体自体を崩壊させる薬を突貫で試作していた。千波の前で崩れ落ちていく地球外生物。またひとつ、地球の危機が去っていった。

 

 

文字数:1197

内容に関するアピール

寝ている間に小人が出てきて、仕事を片っ端から片付けてくれる。
そんな夢みたいなサービスがあったら、ぜひお願いしたい。
一週間もあれば、性能は見極められるはず、と想定し、経過時間が決まりました。

もともと、虫は嫌いです。
なのに、なぜか、思いつくのは虫のようなものが出てくる話ばかり。
そういえば、寄生虫は好きだったかも、と最近思い出しました。
地球外生命体がそういう姿をしていたら、絶対打ち解けられないとは思いますが。

ちなみに、千波の身を守った高分子化合物の膜は医療機器で、この時代には、全身用が発売されています。
有効期限があります。使用の際には、念のため、ご確認をお願いします。

 

文字数:284

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睡眠夫妻

【Day-1:月曜日】

職場に着き、真っ先にシャワー室に向かった。
 通勤だけで汗だく。脱水状態一歩手前だ。シャワー室から出たオレの手には、一枚のしなびた透明なモノが。コイツのせいで、今朝の出勤は地獄だった。
 くそ暑い、休日返上で迎えた月曜の朝。満員電車の中で、ひたすら重力を頼りに踏ん張っていた。オレの前には、涼しい顔でスマホに目をやる若い女性がいて、ふと目が合った。とたんに、さっと目をそらされた。
 原因は明白だ。満員でも、車内は冷房がそこそこ快適に効いている。そこに、体が触れんばかりの距離で、こめかみから、首筋から、滝のような汗が流れている、オレ。気持ちが悪い変なやつにしか、見えない。
「千波さん、おはようございます」
 苦い思いをかみしめて歩いていると、高井草之丞が後ろから声をかけてきた。
「あ、それ! さっそく試してもらったんですね。どうです? 最先端技術を駆使した超うすうす全身用コンド……」
 公衆の面前で、言うか、その製品名を!
 目にもとまらぬ速さで口をふさぎ、引きずりながらオフィスに入った。
「ひどいです~。なんですか、今の~?」
 涙目で抗議する草之丞に、透明なブツを投げるように手渡した。
「最悪だ。脱水症状寸前。全身あせもが出たらどうする?」
「通気性を犠牲にしても、守りたいものがある! それが、製品開発者の心意気ってもんです」
「それ以前に、誰も使わないだろ。 生きた心地が……」
「おはようございます!!!」
 オレの言葉をさえぎって、元気よくオフィスのドアが開いた。
 大竹夏海が、真夏に咲くひまわりのように、さわやかな笑顔を振りまいてそこにいた。この土日は一緒に休日出勤をしたはずなのに、この違いはなんだ。
「夏海さん! いいところに。ぼくの試作品、使ってもらえました? どうでした?」
「あ、あー、あれね、使ったよ、使った。えーっと、特に問題ないと思うけど?」
 ……このわざとらしさは、問題だろ。
「ですよね~。ですよね~。全然問題ないですよね~」
 マジか。
「夏海。お前……」
 言いかけたオレの目の前に、夏海がビニールに入った薄緑色のゼリー状物体を掲げた。
「ちゃんと使いましたってば。ご心配なく。そして、ほら。検体採取、成功!」
「おおー。夏海さん、素晴らしい! さっそく解析に回します。あ、千波さんの使用済みも、回収させてもらいますね~」
 右手に緑ゼリー入りビニール袋、左手にオレの抜け殻を持って、草之丞の背中はいそいそと検査室に消えた。夏海は、というと、得意げな顔をして斜に構えている。
「お前、ほんとに大丈夫なんだろうな。まさかとは思うが……」
「心配ありませんって。BOSS」
「BOSSって呼ぶな」
「えー、だって、念願の昇進ですよ。四五歳独身にして、初の!」
「何かと余計。……その昇進のおかげで、どれだけ苦労していることか」
 たかだか一万五千円の手当ぐらいじゃ、割に合わない。夏海と草之丞がオレの部下になった途端、新たな外来生物の侵入が後を絶たない。対策チームに任命され続け、心も体も休まる時がない。残業に次ぐ残業。終電に間に合わないと言っては泊まり、間に合えば間に合ったで、自宅に持ち帰る仕事の山。睡眠負債がたまる一方だ。債務超過で人生破綻も間近か……。
「あれ~、BOSS。目の下に大きなクマさんが……」
 夏海がにこにこしながら、のぞきこんでくる。
「昨日も千波さんのお仕事、あんなに手伝ったじゃないですかぁ。一緒に休日出勤してあげたのに、なんでそんななんですかぁ?」
 それは確かにその通り。なんでこいつだけ。
「なーんちゃって。いひひ~。なんで私だけ元気かって思ってんでしょ? へへへぇ。あれですよ。あれ。す・い・み・ん・ふ・さ・い」
「睡眠負債?」
「あれ? 漢字、間違ってないですか? ふさい、夫婦の夫妻ですよ」
「……それは、お前の方が間違ってるだろ。何えらそーに」
「違うんですってば。もう。BOSSってば、流行に乗り遅れちゃってますよ」
 流行を追ってる暇が、どこにある。
「そして、それはぁ。ちょっとぉ、お仕事的にもどうかなぁって」
「仕事ぉ? お前に偉そうに言われる筋合いはない!」
 睡眠不足の朝に、いちいち気に障る。いい加減、振り切って仕事をせねば。背中を向けたオレの腕を、夏海が後ろからつかんだ。
「違いますって。例の敵、ちょっといい所もあってですね。家事全般すべて引き受けますサービス、してるんですよ。その名も『睡眠夫妻』」
「睡眠夫妻?」
「そうなんです。『究極のタイムマネジメント協会』っていうところが提供しているんですけど、これが、なかなかすぐれものなんです。はじめ、半信半疑だったんですよ。でも、もうすごいんです。痛いところに手が届くっていうかぁ。あ、かゆいところですか。すみません。どっちにしてもですね。一度試すともう手放したくないって思うぐらい。睡眠不足なんて、即解消ですから。千波さんも、ぜひ! 一週間無料体験受付中ですから!」
 一気にまくしたてたかと思うと、オレの手に極彩色のチラシを握らせ、夏海は涼しい顔で自席に向かっていた。いったい、いつ、やつらの宣伝係と化した? まさか、心まで譲り渡してはいないだろうな。
 丸めて捨てようと、手にしたチラシに目をやった。「あなたに極上の睡眠を。睡眠夫妻が睡眠不足解消を保証します」という大見出し。
 朦朧とした頭を金槌で殴られたかのような衝撃。睡眠不足解消、という言葉が、オレの胸ぐらをつかんで離さない。震度7もかくや、という激しさで心を揺さぶる。
 ――睡眠夫妻、か。
 立場的にまずいだろ、と、オレの正義感は苦しんでいる。葛藤している。が、それも一瞬にして、ねじ伏せられた。「敵」を知らないことには対策も何もないよなぁ。と、かなり説得力のない言い訳が。さらに、一週間だけだし、という甘い言葉が背中を押した。オレは「お試しはこちら」のQRコードを読み取っていた。

深夜の帰宅。持ち帰ってきた書類がパンパンに詰まったカバンを、いつ倒れてもおかしくない身体が運んでいる。機能停止寸前のオレの目が、何かをとらえた。部屋の前に誰かが立っている。それも、二人。オレを、待っていたのか?
 恐る恐る声をかける。
「あの……」
「あ、千波サンデスね?」
 女の声が答えた。
「どちら様でしょう?」
「失礼しました。本日お申し込みをいただいた、睡眠夫妻です」
 男が答えた。
「睡眠、夫妻……」
 思い出した! 誘惑に負けて、ぽちっとしてしまった、あの!
「ハイ。今日も遅くまでお疲れサマデス」
 どことなく、違和感のある言葉の抑揚も、睡魔に襲われている頭はスルーする。ドアを開け、二人を招き入れた。
「あとは、ワタシタチに任せて、まずはお休みクダサイ」
 明るい部屋の中で見れば、二人はリオのカーニバルから抜け出してきたようないでたち。よく日焼けした肌が、てらてらと光を反射する。無駄が一切ない筋肉質の身体を、派手な水着状物質で最低限の面積だけ隠している。
「お休みの間に、お片付けとお掃除、シテオキマス。明日の朝食も準備してオキマスから」
「よろしくお願いします」
「ハイ。オヤスミナサーイ」
 ああ、ありがたい。判断力ナッシング状態のオレは、何一つ疑問に思うことなく、そのままベッドに直行して泥のように眠った。

【Day-2:火曜日】

カーテンのすき間から、まぶしい朝日が差し込む。
 よく寝たなぁ。久しぶりに、すっきりだ。ゆっくり伸びをする。目覚ましで起こされないって、こんなにも快適だったんだ……。
「しまった!!!」
 オレは飛び起きた。
 なんてこった。今朝が期限の決裁書類、持ち帰ったのに、何もせずに寝てしまった! まずい、まずい、まずいぞ!
 大慌てで部屋のドアを開けたオレの目の前に、――何これ?
 こぎれいにセッティングされたテーブルに、味噌汁が湯気を立てている。白いご飯と焼き魚に小鉢まで。ザ・日本の朝ごはんがそこにあった。
 ま、まさか、寝ている間に小人さんが??? わなわなと感動に打ち震える。ぎこちなく歩み寄り、椅子に手をかけた。
「ご主人様、オハヨゴザイマース」
 後ろから声がかかった。振り返ると、キッチンから湯呑みの乗った盆を手に、女が歩み寄ってきた。フリルのついたかわいいエプロンを身につけてはいるが、なんですか、その、はしたない……いや、たしか夕べもこんな恰好をしていた女がいたような……。
「よいお目覚めデスカ?」
「は、はぁ」
 ――思い出した! 睡眠夫妻だ。もとい、家事サービスを隠れ蓑に、この世界に侵入を企てる、危険な外来生物。不覚にも、昨晩は寝落ち同然でわが家への侵入を許してしまったが、睡眠負債を返却した今となっては、こいつらのいいようにはさせない。覚悟しろ! オレは、国際検疫センター外来生物対策部防疫課の……
「ご主人様? 何、考えているンデスカ? 冷めてシマイマース。早く召シ上ガレ♡」
「あ、はい。いただきます」
 朝食をとってからでも遅くはなかろう。腹が減っては戦も何とか。オレは、素直に本能に従った。両手を合わせて、ザ・日本の朝ごはんに「いただきます」と一声、味噌汁をすすった。
 ――うっまいっ!
 おふくろの味、完っ敗! 生きててよかった~。
「ご主人様、お口に合いマスカ?」
 感涙に(心の中で)むせぶオレに、女が問う。返事ももどかしく、うん、うん、とうなずいた。
「ご主人様、昨晩お話しそびれてシマッタのですケド、一週間のお試しに、ひとつ条件がアリマース」
 何? そのまま続けて、とオレはご飯をかきこみながら、顎をしゃくって先を促した。
「ご主人様のお留守の間、ワタシタチ、休息を取りマース。ご主人様の寝室を、お借りシマース」
 そんなこと? 問題ない。まーったく問題ない。オレはぶんぶんと頭を縦に振って、許可を与えた。
「ありがとゴザイマース!」
 小躍りしてキッチンに向かう女の後ろ姿は、やっぱり羽飾りの欠けたリオのカーニバル。それを横目で見ながら、オレは朝食をすべて平らげた。アツアツのほうじ茶をふぅふぅし、――はて? 何か、重要なことを決心したような気がするが、忘れてしまったなぁ。まあ、いいか~。こんな満ち足りた朝に、思い出すのも野暮というものよ――と、穏やかな朝のひと時を過ごしていた。
何一つ手を付けていなかった決裁書類の束は、出がけに玄関先で男から渡された。驚いたことに、完璧に処理されていた。礼を言うと男は少しはにかんだが、南米の太陽のように陽気な笑顔と白い歯で、オレを送り出した。

「BOSS、どうでした? どうでした~?」
 出勤早々、夏海が飛んできた。
「あ、あぁ、まぁ、よく寝た、かな?」
 こいつの言った通りだったと認めたくはない。
「でしょ、でしょ~。ほんっとにいいでしょ?」
 ぐいぐいと迫ってくる夏海の顔。
「どんなカップルでした?」
「あー、なんかラテンな……」
「ラテン!? 千波さんって、そういう趣味だったんですか」
「趣味?」
「そうなんです。いろいろ聞き取り調査をしてみると、どうも契約者の好みのタイプが割り振られているみたいなんですねー。癒し効果を提供しているっていうことかなぁ」
 あごに人差し指をつけ、上目遣いで探るようにオレを見る。妙な勘繰りをされているような気がしなくもない。
「好みのタイプ、ね……。お前には、どんなのが来た?」
「私ですか? それはもう、ジェントルマンが来たんです~。王子様みたいな。もう優しくって、お願いを何でもかなえてくれて、もうどうしよ~って感じ」
 言いながら、夏海の目が夢見る乙女のそれになった。だいぶ、入れ込んでるな。
「王子様なら、お姫様付きだろ?」
「それが~、奥さんの方は家政婦みたいなんです。あの、シンデレラの変身前みたいな。そして、王子様は私だけを大切にしてくれるの♪」
 勝手にしゃべりながら、きゃ~~~、と照れる夏海。コイツの変態加減は底知れない。
「で、ですね、私、もうすぐお試し終わっちゃうから、本契約、しちゃうかもしれないです~」
「いや、お前、それはまずいだろ。あれ、オレたちの敵だから。駆除対象だから」
「そう、ですよね……。残念だなぁ」
 こいつは。本気で肩を落としていやがる。甘いんだよ。まだまだだ。国際検疫センター外来生物対策部防疫課のプロとして、これからオレが鍛えて……
「あ!」
 うつむいた拍子に、机の上の書類を見つけた夏海が声をあげた。
「あ~、千波さん。お仕事できたんだぁ。あの様子だったら無理だろうと思ってたんだけど……。あれ? あれ、あれ~? あら、やーだ。これ、睡眠夫妻にお手伝いしてもらったでしょ~?」
 なんだと? ……なぜ、わかる?
「だめですよ~、隠したって。ほらほら、ここ。うす~く“S”マークが入ってるでしょ」
「ってことは、お前も……」
「あ! ばれたかぁ。でも、内緒ですよ。だってほら。ここお役所だから。BOSSだって守秘義務違反……」
 シーっと人差し指を口に当てて、にやにやしながら夏海が立ち去った。
 ――嵌められた。へなへなと椅子に座りこんだ。
 まずい。あの野郎、敵にいいように使われて。そのうえ、オレまで巻き込むか。
 懲戒免職の文字が脳裏をよぎった。――良くてあの外来生物と刺し違え、悪ければオレだけが懲戒免職……。
 考えただけでも恐ろしい。――解決策を! なんとか、解決策を考えねばならない。

一日が、終わった。
 仕事に忙殺されて、解決策の一つも思いつかなかった。唯一の救いは、気力が充実していた分、早く仕事が終わって帰宅できたことぐらいだ。しかし、部屋には敵がいる。対応策もないまま、果たして今夜を乗り切れるのだろうか。
重い足取りで部屋の前に立つ。ドアを開けようかどうか逡巡していると、肩に力強い腕が回された。
「旦那様、お帰りなさい」
 男が、白い歯を見せて笑っていた。

【Day-3:水曜日】

昨夜は、何も起こらなかった。
 感動的なまでの夕食に加え、暖かい風呂が準備されていた。風呂に入ったのは何か月ぶりだろうか。身体の芯からくつろいだ。
 寝室も睡眠夫妻が休んだ形跡は一切なく、きれいに整えられていた。寝室だけではない。部屋中が新築と見まごうばかりの清潔さだった。脱ぎっぱなしで椅子に掛けておいたシャツさえも、パリッと糊が利いて、クローゼットにつるされていた。
 朝の目覚めも最高だった。鼻腔をくすぐるコーヒーの香りで目覚め、新聞を読みながら、ゆっくりと朝食をとった。部屋の片隅に置かれた観葉植物に、差し込んだ朝日があたってまぶしい。気力が充実してくると、こうも余裕が出るものなのか。二日前のオレとは別人のような朝だ。
 にこやかな睡眠夫妻に見送られ、オレはいつもより一時間も早く家を出た。身体が軽い。頭もすっきりしている。オフィスに着いてからの段取りを考えながら、電車に乗る。空席もあるが、立ったまま、早朝の景色を眺めていた。
 今日も仕事を早く終わらせて帰ろう。そう、当たり前のように考えている自分に驚いた。
 あの睡眠夫妻は、本当に敵なのか? うちに帰れば、暖かいご飯と清潔な部屋が待っている。彼らが来る前と比較すれば、気力も体力も見違えるほど回復しているのは一目瞭然だ。果たして、人類に挑み、この世界に侵入しようとしている敵のすることだろうか? まだ、実害の報告もない。このまま、共存の可能性を模索できないのか。
 下車する駅名が告げられ、オレははっとする。この思考こそ、奴らに操られ始めている証拠じゃないのか……。

出勤が一時間違うだけなのに、オフィスに人の気配はなかった。
 すがすがしい朝の気配を感じながら、PCを立ち上げる。ほかのメンバーが出勤してくる前に、一仕事済ましてしまおう。と、手を動かしたとき、オフィス横のラボにつながるドアが開いて、白衣姿の草之丞が顔を出した。なにか、見てはいけないものを見たかのように目を瞬かせる草之丞。
「おおっと、びっくりした~。誰かと思いましたよ」
「どうした。徹夜か?」
「やだなぁ、千波さん。いつものことですよ。ぼく、解析担当ですからね。うちに帰ってる暇なんてないんすよ。最近の培養液は栄養たっぷりで、二、三時間見ないでいると、あふれるぐらいに育っちゃいますからね」
 草之丞がにやにやと笑いながら手招きをする。
「千波さん、見てくださいよ。活きのいい細胞たち」
 草之丞に促され、ラボに向かう。狭い通路の両脇には、細胞培養用のディッシュやミリセル、ピペット等が乱雑に置かれた実験台。多種多様な培地に試薬。整理整頓という言葉とは無縁な、物置小屋のような部屋の入り口で足を止め、実験台からはみ出て重ねられている本に手を伸ばした。手でも当たれば、崩れて通路が通行不能になりそうだ。だが、積み上げられた本の重さで、なかなか動かない。
 そうこうしているうちに、奥から細胞培養用ディッシュを重ねて持ち、草之丞が出てきた。
「そういえば、わかってきましたよ。敵さんの手口が。今朝の会議で報告があると思うんですけど」
「何か、被害報告でもあったのか?」
「ありましたよ。しかも、最悪のやつ」
 最悪? まさか。死亡例か――。冷たい手で心臓がきゅっと握られたような、息苦しさがオレを襲う。体中に冷や汗がにじむ。
「こん睡状態で発見されたケースが三件。どの被害者も一人暮らしで、睡眠夫妻のサービスを受け始めてから連絡が取れなくなっていたようです。それで、おかしいと思った家族や友人が訪問して発覚。まぁ、氷山の一角でしょうね」
「睡眠夫妻の訪問から、どのぐらいに時間が立っていたか、わかっているのか?」
「おそらく、最短のケースで五日と言ったところでしょうか」
 五日、か。オレは三日目だ。だが。
「……夏海からは何か連絡があったか?」
「夏海さんは、今朝はお休みするって連絡がありましたけど」
「なに!?」
 血相を変えたオレの顔をちらっと見て、草之丞はからからと笑った。
「大丈夫ですってば。夏海さんは、第一級のおとり捜査官ですよ。そんなへまはしませんって」
「い、いや。なんとなくなんだが、どうも危ないような気がして……」
 うろたえた姿を草之丞に見せたくはなかった。下を向き、ごにょごにょと口を濁す。そんなオレとは対照的に、
「敵を欺くのには、まずは味方から、ってことですよ」
 と、草之丞はあっけらかんと言い放った。夏海と草之丞は同期だ。おそらく、間違いはないのだろう。だが、いつものことだが、根拠があるわけでもない。甚だ心もとない。
「そう、……かなぁ」
「やだなぁ、千波さんは。ぼくたちがヘマしたこと、ありましたっけ?」
 まあ、確かにないかもしれない。どちらかというと、俺より十も年下のこいつらのほうが、なんというか、ある意味、かなりしっかりしているというか……。
 四の五の考えるオレに付き合いきれなくなったか、
「夏海さんは大丈夫ですって。それより、これ見てくださいよ。夏海さんの取ってきた検体、培養したら、こんなに」
 と、草之丞は培養ディッシュのふたを開けて、緑色のぐじゃぐじゃしたものをオレに差し出した。ぎょっとして、不覚にも少し後ずさってしまった。情けない上司の姿を一向に気にすることなく、嬉々として細胞を眺める草之丞。
 朝日に透かした内容物が、みずみずしく光る。ところが、室内灯に当てると、一転、細胞のかたまりは表面が透明なゼリーのようになり、あたかも消えてしまったかのようだ。
「ほら、見てくださいよ。千波さん。この細胞、面白いんですってば。室内の照明のような、特有の波長にあたると、消えちゃうんですよ」
 そう言いながら、草之丞はディッシュ上の細胞のかたまりを指で突っつく。むにむにと弾力がある何かを押しているのは分かるが、そこには何も見えない。
「すごいですよ。こんな細胞、初めてです。しかも、この手触り。ひんやり冷たくって、かといってべたべたするわけではなく、なぜかサラサラと心地いい……」
 草之丞は恍惚の表情を浮かべて、そこにあるはずの細胞塊をなでまわした。
 ――オレはひそかに疑いの目を向けていた。こいつも夏海も、本当に大丈夫なのか。もしかして、こいつらと組んでいるオレ。オレが一番危ないんじゃないか……。

あとになって考えてみれば、不思議なことだった。
 職場では、あれほど警戒心でいっぱいなのに、なぜか自宅に入った途端、忘れてしまう。いや、正確に言えば、玄関前までは躊躇しているのに、睡眠夫がどこからかあらわれて、オレの肩に手を回すのだ。夕方といえども、真夏。それなのに、汗だくになっているオレの肩に触れる男の腕は、ひんやりサラサラ。日に焼け、てらてらと脂ぎった筋肉質な男の腕とは、とても思えない。
 その快適な腕の感触に身体を預けて部屋に入れば、南国の、そう、まるでジャングルのようになった室内。どう考えてもオレの部屋じゃないだろ! という突込みはなく、ああ、やっと帰ってきた、心地よいわが家に……としみじみと思う。あたりを見回すと、隅々まで草木で埋め尽くされた部屋の、濃い緑の葉影にしつらえたテーブル。その上には、今日もおいしそうな夕食が……。
 ああ、これを幸福と呼ばずに何と呼ぼうか。口福? コウフク? ――降伏、か。それもいい。
 睡眠妻が恭しく引くイスに、ゆっくりと腰を下ろす。膝の上にナプキンを広げ、スープを口にした。オレの思考能力は、停止したまま。

【Day-4:木曜日】

朝、いつものように睡眠夫妻に見送られて家を出る。
 日に日に気力体力ともに充実してきて、数日前に比べれば、三、四歳は若返った気分だ。駅に向かう足取りが軽い。ギラギラと照りだした夏の太陽に向かって、子どものように走り出してしまいそうだ。
 出勤しながら、オレはだんだん通常の意識を取り戻す。やはり、昨夜も何もなかった。警戒心が戻ってくると、自ら進んで敵の手の内に入っていく、その行動が恐ろしすぎる。
 電車の中でチェックした仕事メールには、睡眠夫妻サービスでこん睡状態に陥った被害者が、新たに、少なくとも十件報告された、とあった。まだ国際検疫センター外来生物対策部の最高機密扱いになっている。いったい上層部は何を考えているんだ。事実を隠し通せば、取り返しのつかない事態になる。さっさと公開して、注意喚起すべきじゃないか。
 ――それとも、何か。防疫課が(もしや、オレが?)どうなるか、試しているわけじゃないだろうな。最初からそれと知って睡眠夫妻とコンタクトを取った人間は、夏海とオレ。昨日、夏海は休みを取っていた。万が一、こん睡状態に陥っていたら……。
 満員電車の中で、オレの膝はがくがくと震えていた。
 今晩は、絶対に帰らない。草之丞と共に職場で夜を明かす決意だ。
 オフィスに着くと、草之丞が待ってましたとばかりにラボから顔を出した。
「千波さ~ん。早く来てください」
 培養ディッシュからあふれ出すように、さらに増殖している肉の塊が目に浮かぶ。気持ちのいいものではない。胃の内容物が上がってくるような生理的嫌悪感をぐっと押さえて、ラボのドアを開けた。
 あれ?
 狭い通路の両脇に、実験器具が山となった実験台が目に入るはずだった。そう。草之丞のラボは、雑然として、蜘蛛の巣まで張っていた、はずなのに?
 ラボの奥の窓から、真っ青な夏空を背景に、中庭の緑が見える。木の葉から漏れた朝日が差し込んでいる。きれいに整頓された実験台の上は、拭き掃除が徹底されていて、ピカピカだ。
 おお。やればできるじゃないか。実験室はこうでなければ。今まで口酸っぱく説いてきたが、やっとその効果が……。オレは感涙にむせんだ。
 ――ただし、これが平時ならば、だ。
 まずいだろう。まずいよ。絶対、まずい。「草之丞」と呼ぶオレの声が、不自然なほどかすれた。その時、
「BOSS! おはようございマ~ス」
 変な抑揚をつけた声が、オレの背中を襲った。
「夏海!?」
 無事だったのか。と、聞くべきだろうか。いつもに増して元気な夏海がそこにいた。
「びっくりしました? きれいになったでしょ~。睡眠夫妻に、ちょっとお願いしちゃいました。昨夜のうちにね。だって~、草之丞、整頓できないんだもん。せっかくの機会だから、いいでしょ。あ、私のうちはね、結構きれいにしてたから、あんまりやりがいがなかったみたい。今朝来てみたら、満足してましたよ。あ、ご心配なく。睡眠夫妻にはわが家に帰ってもらってますから」
 開いた口がふさがらないどころではない。コイツは、草之丞にまで……。オフィスにいれば安全なはずだったのに。なんてことを~~~!
 取り返しがつかないことになったと、今にも崩れ落ちそうなオレを後目に、夏海はラボを出て行った。さーて、今日もがんばりますか! と、張り切って。
 睡眠夫妻の手がかかったとわかれば、不用意な接触は避けたい。だが、精神的に痛手を負ったオレは、立っていることもままならず、近くの丸椅子にほんの少しだけ腰を掛けた。安全な場所は、どこにもない。
 そんなオレの気も知らず、草之丞は飄々とラボの準備室から透明な何かを持って出てきた。
「あの培養細胞、いろいろ解析してみたんですけどね――」

そして、その日もオレはいつも通り帰宅した。
 オフィスに残る選択肢は、失われた。唯一の救いは、玄関を入れば、即、警戒心が薄れることだけだ。敵の手にやすやすと落ちてしまったほうが、どれだけ心の平安を得られることか。
 穏やかな心持でベッドにまどろんでいると、睡眠妻がそっとドアを開けて入ってきた。相変わらずのリオのカーニバル姿(羽なし)が、所狭しと生えている熱帯雨林の木々の間をぬって近づいてくる。目が合うと、艶然と微笑んだ。
「ご主人様、毎日お勤めお疲れサマデス。私たち、ご主人様のタメにお仕事サセテいただけて、トテモうれしい」
 そういいながらベッドに近づいてきて、手をかける。
「だから、今晩は特別さーびすデ~ス」
 これが、話題の添い寝サービスか。
 するりと隣に滑り込んできた睡眠妻の身体は、睡眠夫の腕と同じように、サラサラすべすべ。一見、熱をもったような筋肉質の身体からはとても想像がつかない。
 睡眠夫は大丈夫なのか、というささやかな懸念と抵抗も、まあ、サービスなら遠慮なく、と、ほどなく消えて、オレは睡眠妻と真夏の夜の夢に落ちていった。

【Day-5:金曜日】

「ご主人様、もう朝でゴザイマスよ」
 睡眠妻のささやき声で目が覚めた。ここ数日、目覚まし不要の朝が続いていただけに、ちょっと驚いた。すっかり寝過ごすところだった。
 睡眠妻の声は、まったくもって耳に心地よい。そういえば、子どものころには、結婚して、かわいい奥さんの弾くピアノに優しく起こされる朝が、普通に来ると信じていた。いつからか、そんな夢のような生活は望むべくもないと気付き、いつの間にか独り身のまま中年を迎えた。
 そうっと目を開けると、睡眠妻が優しくのぞきこんでいる。
 ああ、オレの夢はかなったのかもしれない。このまま、外来生物の餌食になっても、悔いはない……。
「ご主人様! いいかげんに起きてクダサイ。出勤のお時間デスヨ」
 いくらか厳しい口調になっても、心地よさは変わらない。もうひと眠り――。させてはもらえなかった。母親のように布団をはぎ取り、オレを朝食の席へと追い立てる睡眠妻。昨夜の、あの優しさは、なんだったんだろう?
 食事は、いつの間にか、ザ・日本の朝食ではなくなっていた。その変化に気づきながらも、特に抗うことなく口にした。だが、今朝の朝食は、これは――。明らかに練り物のようなクリーム状の物体が、皿の上に山のように盛られている。ヒトの食べ物とは思えない。が、スプーンですくい、がつがつと食べるオレがいた。
 コーヒーの代わりに、青汁が湯気を立てて運ばれてくる。満腹になっているが、気にせず流し込む。湯気の向こうには、睡眠妻の満足そうな笑顔があった。
「ご主人様。完食、素晴らしいデス。今朝の食事は、トテモ栄養価が高いモノ。ご主人様は少し細すぎデスカラ、もう少し、太ったほうがイイです。長持ちシマス」
 長持ち?
「さて、ご主人様、今朝は本契約のご相談デス。私たちのお試しサービス、いかがデシタカ? これからもご主人様のお世話をズットさせてホシイデス。ゼヒ、本契約、お願いしマース」
 いつの間にか、筋骨隆々とした睡眠夫も隣に並んでいた。表情は柔らかいが、青汁を飲み終えようというオレを、上から威嚇するような目で見ている。オレの太腿よりも太い睡眠夫の二の腕で、筋肉がゆっくりと上下した。断れると(上)思うなよ(下)。
 目の前に差し出された契約書に、血判を押した。警戒心ナッシングのオレが、ま、いっかなー、程度の軽いノリで。
「ところで、本契約の条件は何?」
 親指の血をティッシュでふきながら、契約書を嬉しそうに眺める睡眠夫妻に聞いた。
「今まで通り、ご主人様が使わない昼間に、寝室を提供してイタダケレバ、それで……」
 ただ一つだけ、条件があります。そう、睡眠夫が引き取った。
「私たちの寝ている間は、絶対に、中を覗かないでください」
 また筋肉が声なきメッセージを発していた。中を(上)覗くなよ(下)。
 うんうんと大きく首を上下に振り、オレは、約束は決して破りません、と子どものように答えた。泣きそうな顔になっていたかもしれない。そんなオレを見てか、イヒヒヒ、と薄気味悪い笑い声が、どこからか聞こえたような気がした。が、別に気にもならない。
「毎日、帰ってこずにはイラレナイお部屋にしてオキマスから」
 にこやかに睡眠妻はそう言って、出勤するオレを見送ってくれた。
 一日が過ぎ、その言葉通り、オレは家路を急いだ。睡眠夫妻の顔を、早く見たくて仕方なかった。

【Day-6:土曜日】

ジャングル部屋の中で、オレは快適に目が覚めた。
 今日は土曜日。一週間、効率的に働いたオレに、三か月ぶりの休日が訪れた。朝からそわそわドキドキ。待ち焦がれていた休日だ。何をしよう。まずは、仕事の段取りか。あれ? それは休日の過ごし方じゃないような……。しばらく休まないうちに、休日そのものを忘れている。
 ゆっくりと新聞だけは読み、さて、ひとつ近所を散歩でも、と立ち上がった。我ながら爺くさいことしか思い浮かばないと自虐的に思いながら、玄関に向かう。鉢植えの観葉植物が、いつの間にか、床から生えた南国の大木になっている。どうやってこんな改装を、と睡眠夫妻のラテンな姿を思い浮かべた。二人は、朝食の片づけを終えて、オレの部屋で寝ている。
 ふと、「覗いてはいけない」という言葉が脳裏をよぎった。
 してはいけない、と言われると、せずにはいられない子どもだった。それは、四五歳独身となった今でも同じ。玄関に向かう足が止まり、振り返った。オレの部屋は、すでに緑のトンネルとなった廊下の突き当たりにある。ツタが絡んでいるドアは、ぴったりと閉じられたまま。
 睡眠夫の筋骨たくましい腕が、目に浮かんだ。自分の腕をちらっと見てみる。細い。勝てない。やっぱりやめておこうかな……。
 しかし、筋金入りの好奇心は、そんな心の葛藤をよそに、オートドライブで部屋の前までオレを連れていった。ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。音をたてないように、そっとドアを開ける。
 すき間からのぞいたオレの部屋は、さながら、大きな緑のクモの巣状態だ。ほんの少しのぞく壁には、ツタが幾重にも絡まっている。
 こんな部屋、だったか?
 顔を近づけて、部屋の中を見回した。むせるような緑のなかで、オレのベッドの上に、何かがいた。睡眠夫妻だ。二人仲良く毛布を掛けて……。あれ? 緑の毛布、だったか?
 ベッドの上を凝視したオレは、この世のものとも思えない異様な存在を目にして、固まった。イモムシだ。緑色の巨大イモムシ! ヒトの体ほどあるイモムシが二体、オレのベッドの上で絡まるように寝ていた。
 悲鳴を押さえられたのは奇跡だった。
 覗いてはいけない――。睡眠夫の声が頭の中でこだまする。
 早く、この場を立ち去らねば! 気づかれないように、そーっとドアを閉める。
 カサッ。
 床に散らばった落ち葉が、閉まるドアにはさまれて、小さく音を立てた。
 うわ~~~! 心臓の鼓動が、耳元で大きく響く。お願いだから、目覚めないでくれ!
 ちらっと顔をあげて見たベッドの上では――イモムシがゆっくり身じろぎをしていた。頭部をゆっくりとこちらに向ける。そこには、睡眠夫妻の、あの、ラテンな顔がついていた。睡眠妻がにっと口角をあげて、笑った。
「ご主人様、覗いてはイケマセンって、言いましたヨネ?」
 睡眠夫が、にやにやしながら睡眠妻の顔に頬を摺り寄せた。
「ご主人様、残念です。のぞかなければ、しばらくそのまま生活できましたものを、残念です」
「ご主人様の身体に、卵を産みつけマシタ。昨夜デスヨ。仲良く、共同作業シマシタよね」
 睡眠夫妻がイヒヒ、と笑う。
 これが、こいつらの正体か。ヒトを幼生の栄養として繁殖する、捕食寄生型の地球外生物。そして、オレは、まんまと産卵された間抜けな人間、というわけか。
「サテ、ご主人様。ソウとわかれば、静かにしていてモライマスヨ。卵が無事に孵って、大きく育つマデ……」
 睡眠妻が、鎌首をもたげるようにしながら床を這い、近づいてくると、オレに生臭い息を吹きかけた。不注意にも吸い込んでしまったオレは、刺激臭に思わず咳き込んだ。咳が止まらない。半ば呼吸困難の状態になり、膝をついてあえいだ。
 オレの頭の上から、睡眠妻の勝ち誇ったような声がした。
「ご主人様、もうすぐ、動けなくナリマスカラね。もう少しの辛抱……」
 オレはゆっくり顔をあげた。睡眠妻のまんまるの目が、驚いている。そのまま立ち上がり、睡眠妻ににじり寄った。
「どういう、コトデスカ? 私の息がカカレバ、卵から分泌される物質と反応シテ、マヒ毒となるハズなのに……。なぜ、マヒ、しないのデスカ?」
 開いた口のふさがらない睡眠夫妻に、オレは大きく手足を動かして見せた。
「マヒする? 卵を産み付けた? そんなにうまくは行かないんだよ」
 睡眠夫妻の眼前に、腕を突き出した。睡眠夫のたくましさには到底かなわないが、そこには最新兵器が装備されている。オレは、ゆっくり腕をまくると、腕の皮膚をつまみ上げた。いや、正確には、オレの体を覆う透明な膜を。
「これが、日本が世界に誇る、超うすうす高分子化合物の膜。その名も全身用コンドームだ!」
 高らかに宣言し、背中を見せるとシャツを脱ぎ捨てた。
 貧相なオレの全身を覆う、透明な膜。これが、睡眠妻の産卵行動から身を守ってくれた。
「さら~に!」
 おびえる睡眠夫妻に振り向いて、二人の顔を交互に指さしながら、オレはもったいぶって言った。
「お返しに、お前たちに教えておかなければならないことがある」
 すでに、睡眠夫妻の顔は、真っ青になっている。
「素晴らしいサービスのお礼に、ベッドにプレゼントを置いておいた。楽しんでくれたかな?」
 ベッドの隅から隅まで、慌てて物を探し始める睡眠夫妻。そのイモムシ姿が、一瞬、ぶれた。
「今日のシーツは、特製だった。これと」
 全身用コンドームをつまんで見せる。
「同じ素材に、殺虫剤を仕込んでおいた。きみたちの皮膚は、オレたちとはずいぶん違ってね。効率よく効く薬の開発に、手間取ったが」
 オレを見る睡眠夫妻の顔が、張りを失って垂れてきた。
「まあ、いい部下を持ってたってことかな。突貫で開発に成功したよ」
 原形をとどめなくなった睡眠妻の口から、かすかな声が漏れた。
「オマエハ、イッタイ、ナニモノ……」
 オレは胸を張って答えた。
「国際検疫センター、外来生物対策部防疫課のおとり捜査官だ。残念だが、相手が悪かったな」
 崩れ落ちていく睡眠夫妻、もとい地球外生物を見ながら、オレは満足げにうなずいた。
 またひとつ、地球の危機が去っていった。

【Day-7:日曜日】

朝日の当たるリビングでまどろんでいると、草之丞から電話がかかって来た。
「千波さん、お休みのところすみません」
「お前もお疲れ様。大手柄だったよ」
 電話口の草之丞が、少しはにかんだ気配がした。続けて、思いつめたような声が聞こえた。
「それが、一人また犠牲者が……」
 おいおい。金曜日にすべて対応済みだったんじゃないのか。
「どういうことだ」
「あの~、夏海さんが」
「夏海?」
「連絡が取れないと思ってきてみたら、からだがマヒしたまま……」
 何かがゴソゴソいう音が聞こえる。――と、草之丞の、夏海さん、話せますか? という声に続いて、
「BOSS~~~」
 と、情けない声が。
「……夏海。どういうことだ」
「だって~。大丈夫かと思ったんです~~~」
 ほぼ、涙声。
「あんまりにも暑かったので、全身用コンドーム、使わなかったそうです」
 草之丞の呆れた声が代わりに答えた。
 おとり捜査官が、聞いてあきれる。
「草之丞。虫下し、念のために飲ませておけ。あとはしばらくそのまま放置だ」
 それだけ言うと、オレは電話を切って、ソファにもたれた。
 週明けは始末書か――。
 また睡眠不足の日々がやってくる。ほんの少しだけ、睡眠夫妻が恋しかった。

 

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