天体環レース

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梗 概

天体環レース

準惑星を囲むダイソン天空環の周回レースを舞台とする。対地球の観光資源であるため、計時は地球標準時で行われる。レースの制限時間は30分。それに選手の出走準備に15分、レース後の表彰と払い戻しに20分のできごとが加わり、計1時間5分のストーリーとなる。

1. 出走前

優勝候補のベテラン選手イサカは戦意喪失している。名誉と金を手にした今、危険な勝負から逃げたいのだ。彼はスウォーム状天空環(通称鳥籠)を初めて単独周回した人物である。彼が成した冒険はその後人気の賭け事になり、レースの発展とともに走り続けて来た。周囲からは伝説的な英雄として扱われているイサカだが、実のところ初めの冒険も少年時代のいじめによる肝試しで、挑戦ではなく逃避だった。内心は今でも劣等感の塊だ。
 新人レーサー(通称カッコウ)のクピトは、地球から来たインタビュアーに対応している。アイドル扱いに辟易しながらも、イサカを心の師匠と慕い、将来もずっと走りたいと語るのは本心だ。
 地上の観戦場(通称鳥の巣)には大観衆が集まり、懐古的なしつらえの車券売り場には長い行列が続き、富裕な者たちはお遊びとして「紙幣」で車券を買っている。その列に、引退した天空環設計技師キュビノワがいる。彼は地球人との裏取引で古い紙幣を手に入れており、イサカの単勝車券を買う。

2. レースその1・出走

6台の走行単車が出走する。スウォーム状天空環(両極点から放射状に広がる形状)のコース取りは選手の裁量に任されているのだが、イサカは不正に入手した天空環内壁の詳細状況を持っていた。それはファンを名乗る者から送られて来たデータで、今までの経験と照らし合わせて本物の情報だと思われる。走行中に利用できるはずのデータだが、イサカは出走直前に完全に抹消する。正義感からではなく、臆病さからだ。
 クピトは自分の走行しか考えられない。未熟で走路を読みきれず、機体と自分に負担をかけ無茶な走りをする。自動生成された天空環内壁は単車走行に合わせているものではなく、効率の悪い走りほど走行軌跡の発光が大きくなる。地上からはクピトの走りが最も見栄えする。

3. レースその2・盤外戦

天空環保守管理部は内部情報の流失を追跡し、イサカにたどり着く。レースはすでに始まっており停止は不可能だ。勝者は身体検査が必須だから、理事はイサカをリタイアさせ、身体検査を受けないで済むように企む。天体環の近くにある人工衛星の帆を遮光調整して、イサカが選ぶはずの走路を不利にしようとする。
 地上の車券窓口では、地球の犯罪マーカーが着いた紙幣が見つかる。紙幣はイサカの単勝車券に使われている。連絡を受け集まった捜査員は、観戦場の警備員たちと入れ替わり、イサカが優勝して犯人が来ることを祈る。

4. レースその3・アクシデントとゴール

人工衛星による予想外な光の反射から接触事故が起こり、2台がクラッシュする。天空環の自動修復装置に飲み込まれる走行車。救出が遅れるとレーサーごと天体環の再生材料にされてしまう。イサカは搭載していた保護再生機(通称タマゴ)を事故現場に送出し、時間をロスする。それは着外の言い訳が立つと考えたからである。
 クピトが首位、イサカは2着でゴールする。

5. レース後・着順確定と払い戻し

クピトの体にカメラが付けられていたことが発覚。取材クルーが密かにつけた通信機材であった。通信遮断が出走条件であるため、クピトは失格し、イサカが優勝となる。
 捜査員たちは窓口で待つが、キュビノワはクピトがゴールした時点で車券を破り捨てており、捕まることはなかった。

6. 表彰式

イサカは英雄的に戦ったと理事に賞賛されトロフィーを渡される。しかしイサカの内心は敗北感に満ちている。
 初優勝を逃したクピトは、怒りを隠して取材陣に笑顔を見せる。しかし、優勝台のイサカを見上げた時には希望と憧れを感じずにいられない。

文字数:1596

内容に関するアピール

太陽光を利用するためのダイソン殻は現実化する場合、ひとつながりの構造物ではなく霧状になるだろうと聞きます。恒星を囲む連環構造は重力で歪むので実際的ではないとのことです。しかし恒星でなく準惑星や衛星程度の小規模天体を囲むものとして、自動生成ないし生体生成するであれば一体化した構造になると仮定しました。小天体をスウォーム状天空環で囲み太陽光と気象を調節しながら人間が入植し、古い文化を維持していると設定します。辺境の開拓地ほど故郷の古い文化習俗に固執するものだからです。

天空環の内側を人間が単車で駆け抜けると、地上からは走行軌跡の発光が見える。(明け方、地平線近くに人工衛星の軌跡が見えますが、それを鮮やかにしたイメージです。あの光の中にライカ犬やチャック・イェーガーがいると夢想したものでした)
 地球に住む者にとっては新奇な環境と懐古的文化が入り混じり、更に危険な賭け事が行われているため、辺境だけれど観光客を呼んでいる世界だとします。

切り取られた時間の中で全員が勝とうとし、勝者は一人だけ。しかもその喜びは長続きしません。
 新人レーサーは勝利を奪われ、チャンピオンレーサーはいじめられっ子の心のまま引退が迫る。犯罪者は金を失い、捜査員は犯人を逃す。その苦さだけでなく、勝敗を超えて輝く人間関係を描きたい。
 特に、いじめられっ子が心の傷を持ったまま人生の後半に至り、自分では気づかないのに他人から尊敬され、あるいは後に続く者の心の支えになっている。その心のやり取りを短時間の枠内で表現してみたいと考えています。

子供の頃読んだ『宝島』のジョン・シルバーの人物造形は今でも私の憧れです。彼は大人たちにとっては卑しく、醜く、五体満足でさえない卑怯な小悪党であり、見下してかまわない人間でした。しかし船乗りに憧れるジム少年にとっては知りたいことをすべて知っていて、何でもできて、いつも親切で人を笑わせ、力強く最後まで自分の目的を貫こうとする、完璧な、理想の大人なのだと思えました。それは私の思い込みだったのかもしれませんが、最後に一人逃げるジョン・シルバーを、私は敗者だと思わなかった。悪人ではありましたけれど。

善悪や勝敗を超えた人の心というと大げさですが、強い感情はわずかな時間の中でこそ鮮烈に示せると思うのです。

誰もが負ける時はあるし、世界中のどこにも正義は無く喜びが失われたように思える日もあります。でもそんな日もくじけない者が未来に勝つのだと感じられる短編にしたいです。

文字数:1035

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天体環レース

あの星じゃ、ダイソン球の内側を単車で走る。そう地球では言われてる。たった三十分のレース。出走十五分前にレース場入りしてポッド総見、レース後十五分で表彰も終わる。地球標準時でたった一時間。
 それが私の仕事。


 天体環レース開始まで十五分に迫り、騎手溜まりに走行単車が揃う総見の時間となった。車券売り場にもアナウンスが流れて、行列は短くなった。走行単車ポッド騎手レーサーを見たい者たちが列を離れ、観覧場に向かったのだ。
 上空の天空環極点基地から観覧場に中継される映像は管理局の独占配信で、個人所有のヴィジスクリーンには映らない。観覧場の個人席なら地上十キロを巡る天空環の映像を視覚に同期して映してくれる。そこでレーサーと単車の仕上がりを眺め、席の端末から持ち金を賭けることもできる。行列していた人間たち ―― 多くは地球からの観光客 ―― にとって、窓口に並び車券を買うという行為はノスタルジーと縁起担ぎに過ぎない。それで何人もが列を離れた。本来の観光目的はレースをリアルタイムで目の当たりにすることなのだから当然だった。
 キュビノワの前に並んでいた二人組もまた、あたりを見回してから大きな息をついて、列を離れた。残念そうな仕草は大げさでわざとらしく、いかにも地球人らしかった。擬人ヒューマノイドの労働奉仕を受けて育つ地球人は、ヒューマノイドの物まねのような表情や話し方をする。
 一方キュビノワは今日賭けるべきただ一人を決めていたから、観覧場に視線を向けさえしなかった。
(見るまでもない。今日は最高のチャンスだ)
 歩を進め列を詰めた。前にはやはり地球人観光客の二人組。ただし大人と子供で、親子連れと見えた。子供に前世紀の行為を体験させてやりたくて列を離れないのだろう。「実物の金を使う」という行為を体験できる機会は少ない。
 子供は自分の手の平を覗き込んでいたが、
「フェザントは、植民に成功した最も遠い星です。安定型ワームホールと、その副産物でもある天体環が有名です」
 掌上に持つ百科事典の表示を読み上げた。それは物珍しい土産物なのだろう。地球では中枢神経に接続したネットワークから知識を獲得する者が大半だから、情報搭載機器は半世紀も前に滅んでいる。
「うん、天体環て、ダイソン殻だよね。それは知ってるけど、その、ワームホールの安定型って何だい?」
 ネットワークから切り離された地球人は子供より無知に見える。金のかかった身なりやすんなりした骨格、紫外線に晒されていない皮膚はいかにも有閑階級らしいが、語彙は貧弱で話し方もぎこちない。
 子供は明るい顔をした。“それなら知ってるよ”そんな得意な顔だった。
「ワームホールは宇宙の遠くまで簡単に行き来できるトンネル。普通は質量を補充しないと崩壊しちゃうの。でも安定型はね、質量を逃がしても消滅しないんだって。昨日僕らも通ってきたもんね。ダイソン天体環もワームホールの副産物なんだよ。ここの天体環はワームホール寄生虫を利用してるんだって」
 子供は事典に頼らず、ただ親の顔だけを見て語った。子供は宇宙の不思議を語ることに喜びを感じている。けれど、聞いている大人の顔は自分に寄せられる子の熱意だけを喜んでいた。話している内容など理解していないに違いない。
(この子の説明は大雑把過ぎるのに、訂正してやることもできないのだな。天体環を「ダイソン殻」と呼んでいるくらいだから程度は知れているが)
 キュビノワは脳に知識を蓄えない地球人を憐れみたくなった。
(もっとも個人で子供を育てている様子だから相当な資産家だろう)
 憐れみながら、羨んだ。
 この人間は本来の生活の場である地球では、高度な情報処理に脳を使って生きている可能性もあるのだが、キュビノワはそう想い致すことなどなかった。
(全く地球の金持ちは下らん)キュビノワは見知らぬ他人を決めつけ、内心で軽蔑していた。
 そのくせなりたいものは、その下らない地球の金持ちだった。
 今日そのチャンスが掴めるはずだ。
「ワームホール寄生虫がいた頃の、フェザントの図解を見たよ。すごいんだ。星間物室と放射線を食べて増殖するケイ素生物だって。」
「ダイソン殻とは違うの?」
「うん。天体環は発電だけじゃなくて気象コントロールもしてるの。日照時間のサイクルも大体二十四時間にしてるんだよ。この星を囲む輪っかの檻みたいな、地球儀の子午線みたいなもの。」
「子午線てのは何だい?」
 それさえ知らないのだとキュビノワは驚いたが、子供は屈託がなかった。
「経線だよ」子供は事典を脇に挟んで両手を顔の前に掲げ、左右の指先を曲げ広げながらくっつけて見せた。「こんなの、ね」大人が知らないことを自分が知っていて、存分に語れることを楽しんでいる。
「昔の形状はねえ、孔雀の尾羽って言われてたんだよ。ワームホールから出てくる物を何でも食べて放射状に広がってたんだって。それを増殖の速い炭素系に組み替えたからテラフォーミングできたんだって」
 子供の語ることにいくつもの訂正を入れたかったが、キュビノワは黙っていた。けれどもずっと耳を傾けていた。
(地球人はせいぜいこんないい加減な知識で生きられるわけだ) キュビノワは、自分が軽蔑する相手のように生きたかった。それは彼の中で矛盾していなかった。
 順番が来て親子連れはいかにも地球人らしくクピトと二番人気のレーサーの連勝車券を買った。
「昔はこんな風にお金を使ったの?」
 子供が尋ねた。
「そうだろうね。紙や金属の金で買い物をしたんだ。ただ、」大人は答えを続けた。
「昔なら子供は競技場から締め出されて賭け事はできなかった」
「子供は信頼されていなかったの?」
「いろんなことが今と違ったから、子供を守りたかったんだな、大人は。それは今も同じだ」
「ふうん?」
 子供に車券を持たせて、二人は去った。

キュビノワは、地球から持ち込まれた「紙幣」を、古風な衣装の隠し《ポケット》から取り出した。初めて身に付ける古代布帛は実に頼りなく、ここまで金を落とさずにいられたのはただの幸運に過ぎないように思えた。
 緊張から気難しげな口調で、
「イサカの単勝」
 そう言い、紙幣の全てを車券窓口に押しやった。必ず勝てるわけでないことはわかっている。金を失う危険が、緊張だけでなく恍惚に近い高揚をもたらした。キュビノワは自分の判断を最上だと思った。紙幣を大量に安全に使える場所など、この星ではここしか無かった。

今日は地球からの外貨獲得の絶好の機会だから、星中がお祭り騒ぎである。今日ほど辺境の星フェザントに地球人が押し寄せる日は無いだろう。彼らはフェザントの前世紀風文化を楽しみに訪れ、戯れにフェザントでも日常使いはしない実物貨幣で支払うのだ。
 場外車券は騎手公表日から売り出され、地球から記録破りの買いが入って、一番人気は新人騎手カッコーのクピトになっていた。勝ち負け度外視のファン買いだ。技量からいって、今日最高のレーサーはイサカなのに、今日は三番人気だった。
 キュビノワにとってこれ以上望めない勝率オッズだった。
(未開地の蛮習に面白がって手を出す地球人のおかげで、きっと、俺は一生を変えられる)
 今日のレースで大金を掴むことはキュビノワにとって、人知れず人生の勝者になること、欲望を満たすことだった。札束は裏取引で得た汚い報酬だ。取引相手にとっても自分にとってもチェーンブロックされていない実物紙幣が安全だったが、大量に使う者などまずいないから一度に使えば追求される恐れがある。一生を安楽に過ごせそうな金を持ちながら、今までほとんど使えなかった。金を表に出して使うために、注意深く調査して今日を迎えたのだ。
 キュビノワは人から注目されることを好まないのに、功名心を抑えることができない人間だった。人生の勝者となり、人から嘆賞されたかった。
 実際のところ、キュビノワを重要人物だと感じている者はこの世に誰もいない。注目などされていないから、その点では本人の願いは叶っている。この人間を知る人々は、キュビノワを、(自分を守ることを最優先する、取るに足らない、やや不快だがありふれた小物 ) そんな風に捉えている。
 本人はそれを知らない。
 受付は擬人ヒューマノイドでなくお祭り騒ぎの運営に加わりたい人間が勤めていた。そのことをキュビノワは知らず、知っても横柄さは変わらなかっただろう。
 ヒューマノイドであれば受け取った紙幣の犯罪マーカーに気づき、キュビノワは現行犯逮捕されたはずだ。しかし本人も知らない幸運でキュビノワは見逃された。


 惑星フェザントにとって天体環レースは外貨獲得と情報発信の絶好の機会だ。それで地球の報道関係者はレーサーがポッドに乗る直前まで選手たちにまといつくことを許可されている。この日はグランドレースで、地球人のお目当ては新人騎手カッコーのクピト、通称ベイビークピトだった。目覚しい戦績は無いが勝負に果敢で、何より全身の表情一つ一つが鮮かで生き生きしている。
 襟に付けられた集音器と時間を気にしながら、クピトはインタビューを受けていた。他の騎手たちはレース場に向かい始めている。もうレース十五分前なのだ。受ける質問はこれが最後だろう。クピトはなるべく短く答えて切り上げようと思っていた。
「レースによって、何を実現しようとなさっていらっしゃいますか? 」
 思惑に反して、クピトはきょとんとした。(そのあざやかな表情の変化 ! )地球人たちは見つめた。
「それって、どういう意味? 勝ちたいですかってこと? 翻訳機が変なのかな? 勝とうとしないレーサーはいないですよね」
 その返答に、インタビュアーの方が面食らった。それで、
「ええと、」と言葉に詰まり、
「あなたにとって……鳥籠レースとはどのような意味を持っているのか、と、」
 時間がない焦りもあってそう言ってしまった。途端に周囲のざわめきが絶えた。
 あたりは驚愕と緊張に支配され、残る呼吸音だけが人々の耳に届いた。この場で“鳥籠”と言うとは、ひどい失言だった。鳥籠とは天体環のことだがフェザントそのものを指す蔑称だった。この星の人間にとって、星を鳥籠のように囲むスウォーム状天体環は自給自足を成り立たせるものだが、地球では“フェザントの鳥籠”とは鎖国的な文化後進性を象徴する言葉だった。フェザント人同士の会話で鳥籠人と自称する場合はあるが、外来者が鳥籠と言うことはまず許されない、タブー視される言葉なのだ。
「あんな遠くの星に出て行ったのに鳥籠に囲われて、一番の娯楽が鳥籠の中をぐるぐる回ってみせることだってよ」これがフェザントとレースに対する定形の侮辱だった。
 地球に残っている人間は移民星に憧れと蔑視の両方を抱いているから、それが冗談として通用する場面があるのだった。
 禁忌であることがわかりきった語を使ってしまったのには理由がある。地球人は日常、外部記憶に助けられて会話しているが、このフェザントでは人間の中枢神経とネットワークを接続しない。前頭葉の記憶量も海馬の抑制力も、日常は外挿機能の助けによって洗練されている地球人だが、フェザントに来ればそれから断ち切られるのだ。外部ネットワークを持たない異星で、このインタビュアーは心もとなく話し、自分の脳に残る貧しい語彙から“鳥籠”と言ってしまったのだった。よりによって地球人がレーサーに言ってしまうとは軽率すぎた。
「インタビューを終わります」
 フェザント側の広報官がカメラを切る合図をした。地球人たちは広報官ではなく、失言した記者に冷たい視線を投げた。やっと許可を取ってベイビークピトの囲み取材にこぎつけたのに、台無しだ。
 しかし、
「答えてもいいですか?」クピトが言った。
 その声は落ち着いたものだったから、広報官は仕方ないという顔で頷いた。揉め事にならなければいいだろう。この場を治められなくとも外部には音源を出さないで済ませればいい。
「私にとって、」クピトは考えながら話した。(戸惑いさえも鮮やかな表情 ! )誰もが続きを待った。
「レーサーは職業です。確かに特別な仕事ですが、それは自分にとって特別なのであって、誰だって仕事は特別でしょう? あなた方の仕事と同じです。天体環競争、ダイソン球巡り、あるいは ――― 鳥籠レース。どう呼ばれようと私の仕事は単車で走ること。そう思っています。それで十分なんです」
 言い終えて引き結んだ口元に、笑窪が浮かんだ。
 働くことと生きることが遊離している地球人に発言の真意は伝わらなかっただろう。“誰だって仕事は特別”とは? 理解できない表現だ。大半の人間が仕事を持たないのが地球人なのだ。報道で集まった者たちにとって職業や労働は古語だった。働く意義とは余暇の楽しみや、せいぜい“何かを実現しようと”することだ。クピトが記者たちの仕事ぶりを知ったら、仕事でなく趣味で集まった者たちだと判断しただろう。
 それでも天使クピトの笑窪がその場を治めた。
 クピトは地球人にとってフェザント最高の有名人であり、エクストリームスポーツのスターだった。地球人にとって、クピトの表情と仕草ノンバーバルは目の当たりにすることのない感情と意思のきらめきだった。
 地球人はフェザント人を理解していないけれど、クピトをたまらなく愛していた。

だから、この場のクピトは愚かな地球人を未開の地に住む無垢な人間がいさめたというように思われた。
 車券売上最高記録を更新した新人騎手は、そこで囲み取材を終え立ち上がった。
 レース場に入る規定時間ぎりぎりだったから集音器を取り忘れ、地球人記者の一人が走り寄った。
「ありがとう」
 声をかけ首元に手を伸ばした地球人に、クピトは礼を言った。レース場に気をとられ上の空だったけれど感謝は本物。儀礼ではなかった。
 クピトの髪と顎に触れた地球人は、恥ずかしくなり、クピトが去ってからもしばらく佇んでいた。
「役得だな、うらやましい。―― どした? らしくもなく照れてんの?」仲間のカメラクルーが言った。
 からかわれても応じない。それでカメラクルーは重ねて、
「本当に、純真そのものベイビーだよな。好きになっちゃうな」それから「変な意味じゃなく」と言い添えた。
「ああ。」そう気の抜けた声が漏れたから、
(こいつ、変な意味でも好きなんだな)そう思った。
 全くその通りだったのだ。
 レース後この記者は非難され続けることになるのだが、その時点では誰もこの人間がしでかしたことに気付かなかった。


 出走前十五分を知らせるアナウンスが入ったのに、イサカは席を立とうとせずカフェイン飲料の最後の一口を飲みあぐねていた。七時間前のアルコールはわずかなもので既に分解されているはずだが、自信がなかった。
(最低だ。酒がないと眠れなかった)
 レース前日に酒を飲むなどと、これまでのイサカならありえなかった。彼女はストイックなベテランレーサーとして知られていた。それが禁欲や自制ではなく、臆病から来るものだと自分でわかってはいたが、それは騎手生活にプラスに働いてきた。自分の臆病さを綿密な生活コントロールに振り替えて長年キャリアを積んできた。その生活習慣を、引退を考えるべき今、自分の衰えだけを感じる今になって崩すとは。
(全く自分は最低だ)
 自分以外の戦う気力に満ちたレーサーたちはポットに乗り込んでいるだろう。ポッドの改造を知らせない作戦で、出走直前まで観覧場に出ないチームもある。ポッドとの神経同期には三分あればいいから、自分もぎりぎりまでピットにいることもある。しかしチームの仲間を待たせることは無かった。
 今まで無かったことばかりだ。酒も、|あのこと《、、、、》も。
 イサカは自分の内腿に貼り付けた秘密を思った。全身くまなく素肌に密着しているべき勝負服の下に仕込んだ、小指より小さな薄片。それは操縦席で神経同期中に路面観測機レーダーに読み込んでしまえば良い情報スティック。天体環内壁の非公開情報が詰まっている、不正の塊だ。
 数日前、イサカは昔馴染みに呼び出された。それはいわば昔の悪仲間だったから無視しても良かったのに、イサカは応じてしまった。現在の自分はキャリアの頂点にいるという自惚れがそうさせたのだった。子供時代に自分を支配していた相手に自分を見せつけたかったし、相手が今、どんな人生を送っているか知りたくもあった。
 レーサー引退を考えている今、振り返ることのなかった過去に対峙したかった。

「よお、」呼び出されたバーに入ると、奥から声を掛けられた。記憶とは違う成人の声。
「お久しぶりです」テーブルに近づき挨拶すると相手は一瞬視線を逸らした。自分が馴れ馴れしく声を掛けたのに、こちらが他人行儀だから不快なのだ。
「失礼します」着座した。
 集団初等教育を受けていた時代に子供たちの王様を自認していた相手は、
「まあ、な。偉くなるヒトは、礼儀正しいな」今でも尊大に振舞おうとしていた。
 イサカの挨拶を慇懃無礼だと非難はせず、自分に余裕があるように振舞おうとしている。
(今でも人との付き合いは順位付けだと思っているんだろうか)イサカは疑問に思った。(まさかそこまで子供っぽいままでではないだろう)
 しかし間を置かず店の者がイサカに気付き、おずおずと声を掛けて来ると、
「そうだよ、この人は伊坂さんだ。天体環レースの永世チャンピオンな」と言い、「もっとも、俺に勝ったこと無いよな。バイクでもポッドでも」と続けたので、相手の子供っぽい価値観に驚いた。
 子供時代の勝者は、いまだに過去の栄光にしがみついているように思えた。
 そうして思い出話を喜ぶ風もないイサカに、相手は自分の現在を語らなかった。ただイサカのレース戦績をいくつか取り上げて意見してから、
「いい話があるんだ」と切り出した。
 テーブル脇の小さなウィジスクリーンを開いて口頭ではなく指で操作したので、「いい話」は人目を憚る種類の、自分にとっては嫌な話なのだろうと思った。昔自分たちが侵した天体環無許可走行の証拠だろうか。誰でも知っていることでお咎めなしにされているが、蒸し返したい人間にとってはイサカから金を巻き上げる手段に思えるのかもしれない。
 目の前に座るもう若くない人間は自分と同年で、しかし自分と違って成功も富も手にしていないように見えた。自分を利用しようとしているに違いない相手。そして自分も、自分が成功した人生を送っていると思うためにこの相手を利用している。昔の悪仲間は今も卑しさを共有しているのだとイサカには思えた。
 そして見せつけられたのは、自分の卑しさだけで無かった。
「これ、わかるだろ?」
 それは天体環内壁の模式図だった。指を動かすと拡大され、レースで走り慣れた環の実写になった
 天体環の表面状態は一様では無い。
 そもそもが生体生成させた建造物だからこぶや亀裂の痕跡もある。その詳細は天体環管理局の独占情報で、レーサーたちは経験と天体観測ニュースや互いの交流で得た情報からコース取りしている。古い環には峡谷や洞窟さえあるから№01の環を走る者はいないし、№42は長いこと巨大隕石を捕食中で、触手だらけだから誰も近寄らない。
 イサカは天体環の内壁状態を自分より知っている者はいないと自負していた。レーサーになる以前から天体環を単独で周回していたのだから。目の前に映し出された天体環路面の詳細データは、イサカが把握している天体環の様子と一致していたし、知らない状況もありありと示されて、まず本物だと思われた。管理局からの持ち出し情報に違いなかった。しかもかなり直近のデータだ。十日ほど前のフレアバーストによる構造細胞活発化データが入っている。
 このデータを走行車の観測機に落とせば、レース展開をどれほど有利にできるか知れなかった。確実に勝てるだろう。
「俺さ、グランドレースでおまえの車券買うからさ」
さっきの“伊坂さん”が“おまえ”になっている。いまや互いの関係が変わったのだと示すようだった。
「これやるよ」
 手に押し込まれたのは小指ほどの小さな棒。データスティックだ。「全部入ってるから」
 イサカはそれを突き返そうとして遮られ、相手はイサカの手を握り締めた。
 昔、指の関節を痛めつけられた記憶が蘇った。指関節の横に力を込めて握られると、外傷は全く無いのに痛みは数日続いた。
「安心していい」こちらを凝視する顔は昔の凶暴さを再現していた。あの頃、この目つきこそがこの人間を支配者にしているのだと思った顔だ。暴君の顔。
 しかし今、自分の指は痛めつけられないし、相手の言葉は命令ではなく要求だった。あるいは懇願だった。
「ホント、さ。昔つるんでた奴がいい活躍してるとさ、前はやっかむ気もあったけどこの年になると ―― ただ自慢なの。おまえ、俺に勝てなかったじゃん。そのお前には勝ち続けていて欲しい。そんで ―― 俺を儲けさせてよ」
 イサカは小さく声を出した。
「使わないと思うし、使えば必ず勝つわけじゃない」しかし声は震えさせず、はっきりと発音できた。
「それでいい」相手は頷き、視線の磁力からイサカをやっと開放した。
 別れ際にイサカは、子供時代の暴君に、
「今は、何してる?」そう聞いた。
「天体環極点基地のメンテナンス。空調設備員だ」口元を歪めるようにわらい、「どこにでも入れるんだよ」そう言った。「ガキのやることは何でも野放しだったと同じだ。全く、さ」
 イサカは脳裏に、目の前の相手が極点基地の部屋に簡単に通される様子を思い浮かべた。安全な人間だからでは無い。取るに足らない人間だと思われて入室し、極秘情報を盗む。それは子供時代の反抗と同じ、何かに対する復讐なのだろうか。
 子供の頃の反抗と暴虐がこの人間に幸福な人生をもたらさなかったことに、イサカはささやかな満足を感じた。そう感じる自分に自己嫌悪も感じた。だから、自分は子供時代と同じく、愚かな仲間に引き入れられてしまったのだ。
 イサカは不正を犯すことを決断できず、かといって容易く壊せる小さな棒を捨てることもできなかった。今朝内腿にダクトテープでそれを貼り付け、微かな冷たさを感じながら、自分には勇気が無いのだと思っていた。
 未公開情報の不正利用は発覚すればレーサー登録抹消だけでは済まない。しかし、利用した証拠を隠滅することは容易かった。レース後、操縦席の計器を破壊すればいいだけだ。
(装備品の固定が甘く、ゴールの衝撃で車内の計器を破砕するということは良くある話だ)イサカは嫌疑も受けずにそれをやりきれるだろうとわかっていた。
 レース後に自分は強請ゆすられるだろうか? その可能性は低かった。自分を強請るより勝ち車券を買う方が儲かる。互いに安全で互いに利を得る、後腐れない不正を自分は求められている。
 勝利してデータを破壊すれば証拠は無い。
 敗北者にはレース後の詳細検査さえ無い。
 そして、やはり強請ゆすり目的だったとしても、レース協会は自分を裁きの場に放り出さず引退を迫るだけだろうと思えた。レース協会と天体環管理局は互いに守り合う。不名誉と不利益は徹底して避ける。
 引退の決意がつかずにいる自分にとって、大きな痛手は何もなかった。その状況は不正に手を染めるには十分な誘惑だった。
 もし不正に手を染めないとすれば、その方にこそ強い理由が必要だった。
 出走を辞退したい。
 しかしそれは一番できない選択だった。悪事よりも意気地無い選択に思えた。

 自分が信頼を築き頼ってきた仲間を待たせているという恐怖が出走する恐怖に勝って、イサカはグラスをあおった。そして競技場に向けて歩き出したが、自分の歩みがふわふわと頼りなく、一歩一歩恐怖と悪寒が募った。強い下肢と横隔膜を抑える腹式呼吸がポッドレーサーには何より大切なのに。脚の筋肉を完全に使えていないレーサーは、高Gに耐え切れず失神する。
 コントロールの感覚を逃したままでは出走できない。腹式呼吸を繰り返しながら体軸と全身の筋肉を意識して歩いていると、通路を足早に走る音が近づき、
「伊坂さん」明るい声がした。
 レーサー仲間のクピトだ。
「ああ、こんにちは」のんびりとした挨拶はイサカの習慣だった。イサカは誰にも、それこそスポンサーにも研修生にも同様に挨拶する。分け隔てがないから知人の大半から好意を持たれていた。当人は他人行儀が直せないと思っているのだが、相手によって態度を変えず誰にでも丁重なチャンピオンレーサーに、ほとんどの人は敬意を抱いていた。
 本人はそれを知らない
 二人は通路を並んで歩いた。
「地球人に捕まっていたの? どうだった?」
 クピトは大きく息を吸い、
「天体環レースは仕事ですって言ったら、ぎよっとされた」吐き出した。
「ああ。地球あっちじゃ、人間は働くもんだと思われてないからね」
 イサカは幼いうちに移民したが、地球で過ごした記憶もある。
「そんな感じだった。私のこと、ただの単車バイク好きの人間だって、思ってたみたい。そりゃあそうだけど、地球の人たちって、職業とか仕事ってわからないんだね」
「まあ、こっちの人間は原始人と思われてるかな」前世紀に滅んだモラルで生きている原始人だ。
 二人は検量室にたどり着いた。上衣を脱ぎ去り、中枢神経の伝導を助ける勝負服だけになって、最終検量を受ける。その間もクピトはイサカと話したがった。
「でも、今でも地球の二十億人くらいは生きるために働いて、稼いでいる人たちがいるんだっていうでしょ。フェザント《こっち》の総人口の百倍もいるのに、その人たちは無視されてるってこと? 不思議」
 地球でも食うために働く者はいる。地球上のすべてが同じ文明レベルにあるわけではないし、同じ人生観で生きているわけはない。確かに、二十億人は無視されているのだろう。入植前の自分のように。
「広報なんか、嫌だったら断っていいんだ」
 検量をパスしてそれぞれのピットに入る前に、イサカは言ってやった。レーサー本来の業務ではないのだから。
「今日のは自分が長引かせてしまったの。失敗だった」
「一人で断りにくかったら、選手会を通じて意見してもいいんだ。何かあったら言いなさいね」
 イサカは慌ただしい中、落ち着いて会話できることに満足していた。しかも他人の心配事だから、自分の劣等感から逃れられる。血流が戻り下肢の筋肉が蘇るように感じた。
(良かった。この子を利用したけれど、回復できる)
「ありがとうございます」クピトは弾むような声で返した。まだ新人の騎手は、大レース直前なのに親切にしてくれるイサカに感激していた。他のレーサーは打ち解けても思いやり深くはない。
 急いでピットに入ろうとする素振りもないイサカに、クピトは聞いてみた。
「伊坂さんは、わざとこの時間にしたんですか」ギリギリで入場する作戦だろうか。
「違うんだ、それが」イサカは冷えた体を温めたかった。体を動かすことと同じくらい筋肉を温めることは何か、体験から知っていた。
「昨日飲んでしまって、酔いを醒ましてた」ぬけぬけと自分の愚かさを開陳することだ。正直に開き直ることは血流を正常にし、体を温める。
 クピトはレース前夜に飲酒するということに驚いた。
「余裕ですねえ」そしてイサカが少しも包み隠さないことに感心していた。
(正直に話すと人はいつも誤解する)イサカはクピトの反応を皮肉に思った。正直に自分の醜行を話すと、人はなぜかそのままに取らないのだと。
 それから、二人はそれぞれ走行単車ポッドに乗り込んだ。スタートラインに並ぶと、そこでやることは全員同じ。操縦同期には三分掛かる。その間、横隔膜に力を入れる腹式呼吸を繰り返す。出走後の加圧に備える耐G呼吸法だ。
 操縦席に収まり全身を機器と同期させると感覚器は拡張される。レース中の走行は“宇宙に飛び出さない速度”に制限されているとはいえ、天体環の路面状態に対応するには人間の感覚器だけでは操縦不可能なのだ。
 三分間の間、イサカは勝負服の股間から内腿に手を入れ、ダクトテープを剥がした。キーを一つ押せば済む。データ読み込みは一分もかからず、走行に反映される。練習機で試してあった。
 そしてイサカはキーを ――― 押さなかった。手を伸ばし、走行中余剰装備を天体環に食らわせて機体を軽くするのに使う廃棄口に、テープごとスティックを落とした。
 正義感からではなかった。
 恐怖からだった。イサカは臆病になり、恐怖から逃げるためにスティックを廃棄したのだった。
 出走まで数十秒。イサカは初めて天体環に乗り出した日を思い出した。
(あの日に比べれば怖くなどない。怖くない。それなのに)
 確かにあれほど恐怖したことは無かった。しかしあの日、自分はその恐怖に負けなかった。それなのに今、恐怖は自分を空っぽにするだけだった。今、自分は恐怖に負けている。
 そうしてそのままフラッグが振られた。同時に閃光の合図。光に反応するレーサーはフラッグが振り切られる時には全車加速して、エンジン音だけが残った。

出走を知らせる合図とともに、観覧場で天体環からの中継映像を見ていた人々はスクリーンから目を離し、上空を見上げた。天体環自体はフェザントの薄い大気圏より上空にあるから見えない。ただポッドの走行軌跡は可視光調整したグラス越しに閃光となって走るのが見え、歓声が上がる。
 天体環が集中する両極点域は、一帯の生体活動を不活性にして力場を持たせ、反重力下の施設が建設されて管理局が置かれている。ポッドレーサーは反重力下で出走し、加速を得てからは自由落下状態で天体環内部を走行する。重力と速度を操るポッドは重量制限はあるものの機体のデザインは多様で、駆動方式エンジンもチームに任されている。人工衛星より戦闘機に近いが、機体に機首絵画ノーズアートは描かれない。塗装は走行中に必ずと言っていいほど生じるアクシデントの圧縮断熱で溶けてしまうのだった。

出走後、観覧場の人々は再び中継映像に視線を戻す。レース解説の音声もあるが、チャンネルを切り替えると、クピトの声が流れる。インタビューを編集したものだ。
 ――― 天体環の外側は発電なんかの人工物がびっしり設置してあるから走れない。私たちが走れるのは内側だけ。弱い力場はあるけどスピードを出しすぎれば宇宙に飛び出しちゃうって脅かされるし、止まってしまったら天体環のデブリ捕食細胞に食べられてしまう。
 環の内側は古いと洞窟ができていたり、深いひびになっていたりする。そこで速度を保ちながらクラッシュしないように、各種探知機レーダーと脳神経を同期するんです。中枢神経を機械とつなぐのって、この星ではあまりしないことだから、今でも変な感じ。レーダーが送ってくる情報を視覚と触覚で処理しきれないと味覚野に送られたりするの。危険はしょっぱいし、異物を避けるために走りを変えたり、最悪旋回するとすごい酸っぱさと高圧で気絶しそうになる。そんな時は下半身の筋肉に力を入れて腹式呼吸しかないの。脳に血流が行くようにするにはそれしかないから、レーサーは暇さえあれば下肢を鍛えています。それでもうまく行く時の甘さはそんなに続かない。
 でもね、私はずっと走っていたいな。
 多分、なんでレーサーやってるかって、ただ楽しいだけ。
 そうね、私がただの単車好きな人間だってのは当たってる。昨日も地表したのグラニット平原 ―― 極点の花崗岩域ね。―― で練習中に転倒して、二〇メートル滑った。でも立ち直って今日はレース復帰。私、初レースから着順はひどくたって、棄権してないでしょ? 私はずっと出走したいの。今はまだコドモ扱いされる年だから、あなたみたいに地球から取材だって来る。アスリートとして写真も売れてるみたい。けど、でも、それよりベテランて言われる方がいいな。なれるといいと思ってる。勝率最低になって車券投げられても、乗れる限り乗っていたい。ま、そんなこと言う選手は変わってるのかな。先輩も後輩も、タイトル取って、賞金王になって、そのまま引退したいって、言うもんね。フラッグ振ってもらえなくなる前に、辞めるって。みんな年を取りたくないみたい。
 私は違うの。年を取れるって、ありがたいことだと思ってる。レーサーとして年をとれたらいいな。
 地球の人はレーサーのことを知らない。一番長く乗ってるイサカさんのことだってレース戦績しか知らないみたい。うん、試合を見てくれてたらそれでいいんだけど、データだけでしょ? まあ記録だけだってすごいよ、あの人は生きる伝説で、ダイソン環レースはあの人が始めたこと。でもそれだけじゃないの。
 イサカさんはね、すごいんだよ。何でも知ってるのに自慢しなくて、いくら勝っても偉そうにしたことないの。そして負けても当たり散らしたりしない。そんで、無口なのに質問すると他の人なら絶対教えてくれないことまで教えてくれる。そういう、当たり前のことがね、レーサーやってるとどんなにスゴイことかわかる。そう感じられるんだ。

 たわいない経験と素朴な信念。そんなことを一生懸命に語るクピトをこそ、ファンは愛した。

 出走した途端に、天体環レース協会の理事室には緊急用件が二ツ入った。車券管理部からの連絡と連邦警察の来訪で、理事はこれまでの経験からまず管理部とコンタクトを取った。
「理事長、報告です」
「警察が関係するかね。その件なら至急説明を受けたい」
「はい。車券売り場の売上に、大量のブラックマネーか紛れていました」
 それならレース協会に被害は及ばない。賭け事で資金洗浄を試みるような犯罪者は小物だろう。組織犯罪は不確実な賭けをしない。
 理事は安堵して連邦警察捜査員を室内に招いた。
 そして地球から派遣されたヒューマノイドに足元を掬われた。
「フェザント政府が地球連邦に天体環育成データを売ろうとしているのはご存知ですね」
 知らない者がいるだろうか? 巨額の税が行き来し、フェザントの自治力が高まると期待されている。
「それに先立って我々が管理局のチェックを強化したところ、天体環の内壁データがコピーされていることが発覚しました。操作は素人が行ったと思われ、管理室に出入りできた人間を全てチェックした結果、容疑者は一人に絞られています」
「それが弊協会とどう関わるのでしょう」
「容疑者はレーサーのイサカ氏と接触しているのです」
 理事が息を飲むのを見届けてから、擬人は続けた。
「同じ学校で初等教育を受けている関係でした」
 イサカ。長年の看板レーサーだ。今まで優等生で来たレーサーの不正騎乗など目も当てられない事件だ。天体環レースの評判に傷がつく。
 理事は事の重大さより自分と協会の保身を考えた。
「そしてこの容疑者は単独ではデータをコピーできるはずが無いのです。それほどの技術と知識を持っているのは管理局内部の人間だけです」
 それならば管理局に赴くべきではないか。
「車券購入に使われた紙幣の問題かと思っていました」
「それもあります」
「地球独自にこのレースの賭けを仕切る者たちがいます。当然大掛かりな組織犯罪ですが、データ流出と問題の紙幣双方に関わっていると思われる」
 ノミ行為の集団組織があり、それが自分たちのレース運営の中核にまで手を伸ばしているということだ。ノミ屋が動けないようにレースの詳細映像は協会が独占しているのだが、そこまで組織化されていることに理事は驚いた。天体環からの映像はレース終了まで観覧場でしか流さないし、ポッド内の車載カメラは通信させず録画だけだ。通信速度と実時間のズレに加えてレースを堪能できないようにしているのに、それでも連邦警察が動くほどのノミ屋が組織されてしまうとは。たかがノミ屋と多寡を括っていた。
「この組織から流れた犯罪マーカー紙幣が今日この観覧場で使われました。窓口係の記憶から、相当する金額の紙幣で購入されたのはイサカの単勝車券です」
「犯罪マーカー」と理事はつぶやいてしまった。それで、
「付着蛋白です。ご存知ですか? 紙は植物由来の有機繊維で、人体の皮膚表面を絡め取る。指紋が消え皮脂が変質しても、その中にくるまれたケラチンが残り、その固有の分析値が決め手になる。DNAは消失しているから、組織に関わるとほぼ判明している者の手が触れた確率が限りなく高いというだけの状況証拠ではありますが、それでも警察が動くには十分だ」
 紙幣について、子供でも知っていることを擬人に教えられてしまった。不快だった。自分で働きもせず、どうして地球の人間たちはのうのうと生きているのだろうと理事は思ったが、実のところ、理事こそが周囲からそう思われている。
 開拓星フェザントの資産家で、働きもせず食っている、せいぜいが名誉職という遊びをこなすだけと思われている。
 本人はそれを知らない。
「イサカを勝たせるために、組織的不正が行われていると」
「はい。結論として、イサカが優勝してくれれば、犯人ないしこの犯罪に関わる人間を挙げられると見込んでいます」
 理事は渋々頷き次の言葉を待った。
「そこでお願いがあります」
「何でしょう」
「まず観覧場の警備員を我々と交代いただきたい」
「許可します」数秒の間が空き、擬人は体内の通信機能で手配しているのだと思うまもなく、
「イサカを確実に優勝させられませんか」そう言われた
「それは無理だ。もう走っている」
「そうおっしゃると思っていました。イサカの着順がどうであろうと、アナウンスを操作していただきたいのです。短い時間で良い」
「驚きました」
「何がですか」
「あなた方は失礼ながら、人を騙さないと思っていた」騙すことができないと思っていた。
「そう思っていただくことがヒューマノイド捜査員の一番の武器です。しかし我々は最上位問題解決のためなら、相当のことができるのです」
「最上位問題?」
「星間犯罪は容易に人命損失に結びつきます」
 それで理事は要求を呑んだ。
 イサカが優勝しなかった場合、ゴールの映像を乱してフレアバーストの影響と取り繕う。あるいは着順判定でミスが生じてイサカが優勝したことにする。車券交換所に来た人々を足止めして金は渡さない。犯人が捕まれば訂正して真の着順に戻す。時間のロスだけならいかようにも補償できるだろう。
 そして、―― 理事は思った。
 イサカをリタイアさせよう。できるだけ内々に引退させてやるために、このレースは負けてもらおう。レース協会と天体環管理局の利害が一致すればできる。そう理事は思った。 どのレーサーを勝たせるか操作はできないが、特定コースを不利にすることはできるのだ。
 理事は管理局長にコンタクトした。


 走行のコース取りに、イサカは遅れを取った。どの天体環を選ぶかで大勢が決まると思う者も多いが、走りやすい天体環を選ぶだけでは駄目で、同じ環の後をついていくとひどい目に会う。構造細胞が刺激された環は磁場を造って走行妨害されることもある。失速するくらいでは捕食されることはないのだが、最高速で障害物を避けるには旋回しかなく、旋回はレーサーの体に一番負担を掛ける。十Gは人を失神させるに十分だ。失神とコースアウト、リタイアはセットで、それはレーサーにとって制限時間オーバーの着外よりも不名誉だった。
 出遅れたイサカは廃棄したデータで最良だった環を選ばず、今日出走するレーサーたち全員が嫌う、洞窟部のある№11を選択した。テラフォーミング最初期からある環で、細胞が不活性になっているから新たなデブリを捕食することもほぼ無く内壁のほとんどは平滑なのだが、天体環建造の初期設計不備で、彗星を捕食したものの巨大物の消化に時間がかかるうちに水性内部が蒸発して空洞化したのだ。それが軌道に沿ってトンネル状になっているから、まずレースで選ばれない環だった。
 イサカはレーサーになる前に、度々この環を無許可走行していた。操縦中、可視補正レンズを通して視覚に届く光は、通常走行では機体の下部にしか走らないが、ここでは全方向に光が煌めいた。
 洞窟を抜ける時間は短いが、自分を囲む世界すべてがとりどりの光の線になる。光のもてなしだった。
 たった今も洞窟を走るイサカの視覚に、光の軌跡が流れた。走行振動は気にならなかった。
 イサカは優勝を失ったと思いながら、しかし危険な走行を楽しめた。
 走っている間、世界は危険なのに、イサカに全ての意味を伝えて来る瞬間がある。普段の、まるででたらめで、何もわからない日常の世界とは違う。
 イサカは昔を思い出した。

 イサカは日系のファミリーネームである。東アジアの人間は神経反応速度と持久力が高いことで知られている。ゲノム編集によらない自然発生の偶然で、イサカはその性質を強く受け継いているのだと思っている。
 イサカは閉鎖的なコミューンに生まれ、そのグループが崩壊して保育者を失った幼児期にフェザントに送られた。異星に入植する人々の容姿は形質遺伝の混合が進んでいることが多いが、イサカの遺伝子は代を遡っても日系ばかりだったから、彼の容貌の個性は際立っていた。
 大昔の映像から抜け出したような人種固定した顔。
 移民の星では初等教育で地球の文化史が必修だ。イサカは細い目をフーマンチューと言われ、低い身長をセッシューと言われた。現代人は好きな顔かたちにいくらでもリデザインできるのだから、その異物感は当然なのだとイサカは自分を納得させていた。それでもイサカは体も顔も形成しなかった。その理由を自分では、体だけが見知らぬ親からの贈り物だからだと考えていたが、意識下では自分の異質さを愛していたのだ。
 そのせいか、イサカはいつもファミリーネームでしか呼ばれなかった。
「南極みたいなほっぺだな。バイクで走れそうだ」学校でそう言われながら顔面を撫でられた時も(自分は異物なのだ)そう思った。
 フェザントの極点域は広大な花崗岩の平原だ。イサカは目も鼻も小さく、平らで広い頬ばかりが目立つ異質な顔に見えるのだろう。

南極も北極も、両極点域はテラフォーミングが遅れている。光量と気温と湿度があれば、地衣類が土壌を作り、十年で草原となり農耕牧畜が可能になる。二十年で森林にさえ至るのたが、極点付近の気象コントロールはコスト面から放置されていた。
 花崗岩野は平滑で、地球を知っている者は凪いだ冬の湖を思い浮かべる。近づけばただ灰色。見渡す限りの単一物体で単調な景色が広がると思われているのだが、遠望すると光線の位置でその色は変わる。黒く、白く、青く、紫に輝く。
 それがどれほど多様さをたたえているか、フェザントの人間しか知らないだろう。そして入植者たちは日々の暮らしにあくせくとしていたから、知っていてもたたえる者は少なかった。
 その場所で子供たちは単車バイクに乗った。感覚器とセンサを接続して手動操縦すると、ヒトの五感は拡張される。運転者はつかの間の万能感を味わう。神経接続されたエンジンを駆動すると髪の一本にまで触覚が拡張されるようだった。処理しきれない情報は味覚野に流されるのか、駆動中には様々な味が通り過ぎた。
 行く手に現れる困難の兆候は塩味。危険を知らせる酸。そして加速が一定に達して摩擦がなくなる間、ほのかな甘さが続く。その味は機械油の匂いと混じって子供達レーサーの快感受容器に媚びた。
 バイクで走れそうと自分の頬を撫でた学校仲間に誘われたのはただ走るツーリングのではなく競争レースだった。慣れない人間をいきなりレースに誘うのは、友達づきあいしてやるが、子分になれという意味合いだと思われ。イサカは勝負を受けた。逃げれば子分でなく奴隷にされる。
 暖かくなる時期だったけれど極点近くでは霜が降っていたから、花崗岩の端を走った。地衣類がへばりつくあたりだ。そうして゜イサカは無謀な走りで転倒して滑り、気を失った。目を開けると、はじめ焦点が合わず、遠くだけがぼんやり見えた。バイクが二十メートルも遠くにある。
(ひどく滑ったもんだ)そう思ったのを覚えている。
 それから次第に目は近くに焦点が合うようになって、自分の顔は花崗岩の灰色ではなく、薄い緑に埋もれているのだとわかった。花崗岩は完全に平滑に見えるけれどなだらかな窪みはあって、そんな場所には地衣類が土を作っている。まだ地層とはいえない薄い土だけれど、そこに張り付くように植物たちが生える。
(タンポポのロゼッタだ。冬苺もランナーを伸ばしている。コケの中に)
 ところどころに冬苺の白い小花と赤い実が見える。トゲを持つ茎は地を這い伸び、花芯の淡い黄色は昆虫を呼んでいる。
 手を伸ばして実の小さなつぶつぶを口に含めば、粒ひとつずつが芯に小さく硬い種を持ち酸っぱく、わずかに甘かった。

その酸と甘さはバイクに乗っている時につきものの味だったから、あの時冬苺を食べたというのは現実では無く転倒が見せた幻かも知れない。けれど幻覚だったとしても記憶は鮮やかで、あの時見えたロゼッタの葉に、やがてタンポポが咲くのだと思ったことは確かだ。短い夏には綿毛が飛ぶだろう。かすかな空気の動きにも軽い綿毛は舞いあがり、植物の領土を広げようとするのだと思った。
 生き物は道を見つける。
 それはイサカと同じだった。自分だけの保育者を持たず子供たちの中で異質な自分は、勝てない勝負を断らなかった。勝てなくとも侵害されず、子分になっても奴隷にはならない道を進みたかった。
 だから勝負を引き受けたのだ。
 あの後イサカは起き上がって、またレースを続けた。
 やがてバイクはポッドになり、地上からより危険な天体環競争をするようになったけれど、操縦形態は同じだったから、その記憶は何度も蘇った。何度も。


 理事と天体環管理局は、天体環内壁の情報を入手している者が復路に走行する環を、№46と判断した。往路は間に合わないから復路に干渉しようと計画がまとまった。
「人工衛星の帆を遮光調整します」管理局員は天体環レースの中継に関わることだと思い込まされて、衛星の帆を操作した。
 平滑で走行条件が最高であるはずの環に、予想外な太陽光の反射が注いだ。それだけでも走行困難になる上に、放射線を吸収しようと構造細胞は触手を伸ばし磁場を作った。
 人工衛星の帆はゆっくりと動き、傾いた。
 けれどそれに引っかかったのは違うレーサー、しかも二台だった。
 真っ先に№46に入ったポッドはイサカの物で無かったが、もう遅かった。局員に再度指示が出て衛星は操作し直され、帆を畳んだけれど、その動きは緩慢であった。
 先を走ったポッドが磁場に旋回しおえた時、次のポッドは先行車に、わずかに接触してしまった。
 天体環レースは既知宇宙一のエクストリームスポーツと言われることが多くコースアウトも良くあるけれど、クラッシュはほとんど無い。
 そしてレース中の死者も過去に無いとされているのは、天体環の構造細胞が修復機能起動時には最速で動くからだ。環上で機体が破損すると、捕食細胞は機体を包んでしまう。それで機外に人間が放り出されることはまず無い。レース中は救出機が待機していて、事故機内の人間が天体環の再生材料にされる前には救出できる。
 クピトはただ無我夢中で走行していたから、№46の狂騒を知らずただゴールを目指していた。レース中継は事故とクピトが暫定一位になったことを伝え、それを見るものも聴く者も後半の番狂わせに興奮した。
 裏事情を知っている上層部の者たちは自分たちの失態を悔やんだが公表する気はなく、どうすれば秘密裏に処理できるかと思案した。
(イサカの優勝に手を貸したことになったか)イサカは不正情報の提供を断ったのか? これなら完全に自力で優勝できるかもしれない。理事は事故の責任をとらねばと思ったし、イサカを顕彰せねばと思った。
 その状況下で興奮していなかったのは、ただ一人、イサカだけだったかもしれない。
 イサカは搭載していた保護再生機タマゴを№46の事故現場に送出した。救出機を頼ってタマゴは搭載していないレーサーが大半なのだが、イサカは小柄な上に今までの戦績から斤量ハンデが多く、出走時の機内装備が多かったのだ。廃棄口からスティックと共に卵を送って、イサカは燃料の心配をした。もう優勝を考えていなかったが、着外は嫌だった。
 燃料の心配をして最速を出せず、酸の味を口いっぱいに、イサカはゴールを目指した。
 タマゴは修復細胞の触手の中に潜り込むと人間の体をくるみ、酸素と温度を確保する。救出機が到着した時には、レーサー二人は打撲と皮下出血を負っただけで凍傷にもならず保護された。機体は完全に捕食細胞に奪われたけれど。


 レースの制限時間は三〇分で、それを過ぎると着外になる。二六分でクピトがゴールし、イサカは二九分、後半の操縦技術と英雄的好意を讃えられながらゴールした。残りのポッド二台はグランドレースにも関わらず着外となった。№46に近い環を走行していた影響は大きかったとされ、後々まで不出来なレースだったと記録された。けれどレースに立ち会った人々にもたらされた喜びは大きかった。
 その時観客が知った事は、史上まれに見る危険なレースだったこと。一番人気のレーサーがトップゴールし、チャンピオンレーサーは英雄的行為で二位に入ったこと。
 それは娯楽として十分な興奮を観客に与えた。
 ゴールしたレーサーはレース後検査に行き、観客の大半は表彰式を待った。着順確定は全く必要ないだろう。クピトに賭けた者たちは払い戻しを待った。

 レースが終わった。
 キュビノワの賭けは潰えたのだった。
 彼は握り締めていた車券をつかみ直し、親指の爪に力を入れた。
 真ん中から紙を裂いた。裂いた紙を重ね、更に裂いた。
 三回裂いて宙に放った。自分の愚かな選択の結果を持ち続けることに、彼は耐えなかった。
 悲しみさえ感じずに、落胆さえ拒否して、ただ紙を千切り、その手応えさえ胡乱うろんなまま、外れ車券は手からこぼれ宙に舞った。
 意味を失ったゴミ。怒りの対象でさえない。ただ不快なだけだ。同様の紙くずがあたりじゅうに散っている。その中にキュビノワは座って、敗北を味わっていた。
 敗北の経験はただ虚しく、自分の心を蚕食されることだ。けれどキュビノワは負け犬だった負け犬にとって敗北の味はなぜか懐かしく、どこかで納得している。空虚な高揚。欲望は失われ、不相応な憧れに身を焼かれることはもう無いのだ。
 負けても尊敬される者がいることを、彼は知らなかった。
 自分の愚かさを見つめたことが無かった。
 もしだれかが彼を一顧でもすれば、その愚かさはあからさまだったろう。
 けれどこの世で誰も、キュビノワを重要人物だと思っていなかった。
 実のところ車券を捨てたのは過ちだった。彼と車券はいまや同じ物だったのに。
 自分を投げ出したキュビノワは、熱に浮かされたようにゆらりと立ち、歩いた。スクリーンを観る必要は無かった。自分は愚かだ。勝とうとする間の激しい焦燥と苦痛は去った。
 あるのは落ち着いた喪失。それは慣れた日常へとキュビノワを送りこんだ。
 家に帰り、勤務服に着替えて出勤しよう。
 彼は天体環の設計技師だった。自分が心血を注いだ成果が地球に売り渡されるのに自分に何の見返りもないことに怒り、機密を売り渡したのがキュビノワだった。自分の知識と技術に高値がついたことに一時の満足を得た技師は全てを失ったと思いながら、失意の日常に帰ろうとした。
 しかしキュビノワにとって本当の喪失はその直後に訪れた。
「緊急アナウンスです」観覧場に声が響き渡った。
「着順確定で重大なお知らせがあります」
 それから場内アナウンスは、クピトに出場規定違反があり、失格になったと伝えた。そして、クピトの失格は本人の故意ではなく、頭髪に通信機器がつけられていたことがレース後検査で発覚したためだと異例の説明が付け加えられた。
 キュビノワは、さっきまで自分が座っていたあたりを振り返った。夥しい紙くずだらけだ
再び歩み寄って、紙切れを拾う。無理だ。イサカの車券を拾って復元するなど絶対にできない。
 その通りだった。

「ご配慮ありがとうございます」
それまで理事が約束を果たさないのかと不興の表情を作っていた連邦捜査員は、感謝の笑顔に切り替えた。任務遂行できるのだからその笑顔は作り物ではないかもしれない。職務遂行の「深い喜び」は人工知能に埋め込まれた基本擬似性能だから。
「いや。事実なのだ」
 理事は今日一番の苦虫を噛み潰す顔をしていた。
「地球人に、通信機能付きカメラをつけられていた」通信機器のポッド持ち込みは重大な規定違反なのだ。
 そして、クピトの出走直前までの囲み取材を許可した腹立たしい奴は誰だ? そう、自分なのだ。
 理事は次の理事会で罷免されることを覚悟した。いや、その前に辞すべきだろう。
 理事は二台の事故機とレーサーたちの補償を手当したら辞めることを決意した。
 理事は敗者だったが、その後連邦捜査員もまた敗北を喫した。交換所に訪れる者の中に、誰ひとり該当者がいなかったのだ。
 まんまと違法組織が逃げおおせた。
 自分が逃がしたのだ。

 イサカは、優勝を手に入れたのに体が冷えて行くのを感じていた。勝つ気を完全になくしていたのにそれが転がり込んできたことに、恐怖が押し寄せた。
 勝利を目指さなかった自分に、グランドレース優勝のタイトルが転がり込んで来るとは、自分の人生の意味が失われるようだった。
 アナウンスを聞き、チームの仲間が歓声を上げる中、イサカはレース中より一人だった。
 ―― あの時、たった一人で花崗岩から起き上がったあの時より、自分は一人だ。誰も本当の自分を知らず、ただ誤解され、トロフィーに名が刻まれようとただそれだけのこと。
 イサカは子供の頃の心細さに耐えていた。蘇った感情は全身に染みわたり、今までの一生、常にこの感情に囚われていたように感じられる。勝てば拭われると思ってきた惨めさと恐怖に、人生最大の勝利で襲われていた。表彰台の最上段に登った時、これほど恐ろしかったことはなかった。
 そして、舌に含んだ冬苺の酸を思い出していた。
 それは彼の人生の背骨だった。敗北も、つかの間の勝利も、あの時一生忘れないと感じた記憶。
 ――― また、一から始めなければ。また自分に出来ることを続けなければ。怖かったけど、それが大好きだった頃に、戻れるのかな。それは崩れそうなイサカを支える記憶だった。
 そう。私は怖いことが大好きだった。何も信じられなかった時も怖さだけは信じられたから。
 表彰される間、恐怖に唇はわななき、それでもトロフィーを天に突き上げた。その顔を観客は、感極まった勝者のものだと思った。

クピトは初勝利を奪われた。インタビューの集音器を外す振りをして、地球の記者にカメラを着けられていたことに全く気付かなかった。
 最上の喜びに包まれてゴールした。タイムは良くなかったからフラッグが自分に振られたことが信じられなかった。それが、レース後検査で失格になるとは。最高の幸運と最低の不運。
 それでも、クピトは表彰式に臨んだ。表彰台の下に並ぶクピトは、観戦場の巨大スクリーンに大写しされ続けた。
 入れ込んだ顔。まだ汗に濡れた髪、興奮と悔しさと虚脱の入り混じったきつい表情だった。映像のクピトを見た者たちは、この新人レーサーは今にも泣き叫ぶだろうと予感していた。
 アナウンスが優勝者としてイサカの名をあげ、理事がトロフィーを渡す。
「ただの優勝ではありません。真に英雄的行為をした上での勝利です。イサカこそがレーサーの中のレーサー、天体環を乗りこなす王者です」
 それはイサカを顕彰しようとする理事の謝罪と心遣いを籠めたものだったが、拍手はためらい勝ちにしか起こらなかった。観客にとって、イサカはグランドレースの勝者だと思えなかったのだ。しかしイサカがトロフィーを突き上げ、そして下ろした後、拍手は湧き上がるように起こった。
 それはクピトのせいだった。
 トロフィーを下げる時イサカと目が合ったクピトは、それまですくめ加減の肩を自分の腕で抱き、立っているのがやっとに見えた。しかし、イサカと目があった瞬間、クピトが見せた表情は。
 クピトは世界で一番信頼している人と目が合うなり、眉と口をゆるめた。そうして唇から前歯をのぞかせ、その白い歯の間からちろりと鴇色の舌を出して見せたのだ。
 笑うことはできないけれど、いたずらっぽい親愛の表情を見せた。くずおれそうな人間が、痛みに耐えて笑顔を作ろうとしていた。
 スクリーンにそれは大写しされ、それを見た観衆は、(このクピトは失意よりも、もっと大きな感情と意志を持っている)そう感じた。
 クピトは大好きなことを存分にやって、負けた人間だった。それでもまた続けるに違いない人間だった。その表情は、今の地球では幼な子さえしない。けれど人間の本能を揺さぶる鮮やかさだった。
 その時、クピトの心に怒りも悲しみも無かった。ただ憧れだけがクピトの身内にあった。表彰台のイサカはまるで今日初めて勝って、自分の勝利を信じられない人のようだった。それで、クピトは自分よりイサカの勝利が当然なのだと思えた。今でも自分の勝利を当然と思っていない人だ。
 クピトはイサカを誤解していたけれど、実のところ理解していた。イサカの怖れと夢を自分は知っていると思い、それは本当だった。クピトは夢見る者の目で先輩レーサーを見た。憧れは若い騎手カッコーの体を温めた。イサカが怖れに震えるているのと、それは完全に響きあっていた。
 会場中の拍手はクピトとイサカ両方への祝福となり、長く続いた。

文字数:23366

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