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『コンビニ人間』は「”脱”被害者文学」となりうるか?

【1】「”脱”被害者文学」としての恵子≒村田沙耶香の試み

〔1−1〕恵子、無感情・無反応な主人公

『コンビニ人間』の主人公、古倉恵子は、アンドロイドが制服を着ているような人だ。大学一年生のときから始めたコンビニのアルバイトで18年働き、36歳になった。将来を心配する家族や、客にストーカーまがいの行為をしてクビになった元同僚の男、白羽からの影響を受けて「変わりたい」と思うのだが、それは自分が周囲との軋轢を解消して、心穏やかに暮らすためである。物語の最後において、恵子はコンビニに再び楽園を見出して、活き活きと見違えるように復活する。

この物語の重要な脇役である白羽は、自らの境遇に恨みを抱き、周りの人間に対して呪詛を吐き続けている人間だ。彼は現代の格差社会に対して、「なぜ社会には恵まれない階層が存在するのか?」と問いただすような人物だ。つまり同時代的な課題に対峙している。だがそのような糾弾が有効な形で社会の中の具体的な誰か・何かに対して、発せられることはない。
 2016年に刊行された『コンビニ人間』の時代設定は現代である。36歳の恵子と35歳の白羽が対峙する経済格差の問題は、バブル経済の崩壊と、それに引き続く長い不況に起因している。
 バブル崩壊の後の「失われた20年」の間に社会状況が変化し、こうした声はますます発しにくくなっている。この期間において、どのような変化が起こったのだろうか。

これに対して、恵子の人物描写はたいそう風変わりである。妙齢の女性として、様々な社会的拘束に満ちた偏見の眼差しを浴び、残酷な言葉を投げつけられても、何も反応しない。それどころか、冷静に相手を観察し、気まずい状況をやり過ごすためにはどのようにすれば良いか、と言葉を選んで相手に優しく話しかける。このような「思いやりに満ちた気遣い」を与えられた相手は、戸惑い、困惑し、時には怒りにかられることにもなる。

ただし、恵子は幼少の頃から、こうした周りの人々の困惑したような視線に対して徐々に自覚的になっていった。それは物語の始まりの部分において語られるエピソードにおいても、明らかである。恵子は幼稚園の時に、公園で死んでいる小鳥を見つけると、悲しくて泣いている他の子供らの目の前で「お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」と言って、母親を絶句させた。小学校に上がると、取っ組み合いのけんかをする男子の側で「誰か止めて!」という悲鳴を聞くと、スコップで男子の頭を殴って、見守る女子たちを泣かせてしまった。

こうした他人に対する共感に欠ける人格設定は、突き詰めていけば反社会的な性格を帯びることになりかねない。『殺人出産』(2014)は、女性が子供を10人産んだら、代わりに他の人間を1人殺すことができるという「殺人出産システム」が成り立つ世の中で生きる、姉妹の物語だった。村田作品のサイエンス・フィクションに近い環境設定、また登場する人物の冷徹にも見える性格描写は、登場人物、そして作者も無自覚なうちに「一線を超えてしまう」ことになりかねないのではないか、という危惧を、読者に抱かせるのに十分な根拠を持っている。

『タダイマトビラ』(2012)の文庫本解説を書いた樋口毅宏は「村田さんに小説を書く才能がなかったら、(神戸連続児童殺傷事件の)少年Aのようになっていたと思いますか?」と村田に直接聞いた、と述べている。恵子は、人を殺したりすることはないだろう。ただし、もし仮にそうした考えを頭に思い浮かべる機会が与えられれば、一時期マスメデイアにおいて流行した、次の問いを発している可能性はある。「なぜ人を殺してはいけないか?」

つまり、恵子は世の中の規範を自明のこととしない、物の考え方をする人物なのだ。ただし作者村田の関心は、反社会的な行為それ自体に向かっているのではない。芥川賞受賞後の又吉直樹との対談においても「(『コンビニ人間』を)書いていて、普通の人がすごく怖い感じがしてきました」(1)と話しているとおり、「普通/異常」という境界線を引く世の中の人々に対して、怯えにも似た感覚を持っていると言える。

『コンビニ人間』においても、恵子は、体面上は「普通」とういう世間の基準を尊重していること、自分はその基準から外れるかもしれないけれど、少なくとも「普通」を擬態する覚悟はある、という意味を含んだセリフを発している。

「つまり、皆の中にある『普通』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」(2)

「なぜ人を殺してはいけないか?」も「普通が怖い」も、既存の社会的規範に対して疑問を投げかける行為である。だが、かつて様々なところで論じられた前者の問いに比べて、現在は、後者の「普通が怖い」と怯える登場人物の方が、現実味を帯びているのだ。
 神戸連続児童殺傷事件が起きたのは1997年のことだった。「失われた20年」の中で何かが変化して、後者の台詞の方に、より切迫した現実性が与えられることになったのではないか?

 

〔1−2〕作中の加虐的ないし被虐的な描写について

作中人物の描写と、作者がインタビューの中で語っている考えを、安易に結びつけることは慎まなければならない。しかし、村田本人がコンビニでアルバイトしているという経歴を持つため、作中人物に作者を重ね合わせることは、いささか性急すぎるとしても、そこに何らかの人生観や社会に対する考え方が、極端な形にデフォルメされて作品に反映されているのではないか、と仮定して検討してみることは、何かしらの意義をもつのではないか。

『コンビニ人間』は私小説ではない。確かに、小説の背景には、やや作者と似たような状況が反映されているかもしれないし、登場人物の造形には、作者の世界観が込められているかもしれない。だがこの作品の焦点は、主人公の異様な性格に照らし合わせて、社会のいびつな形態を描写することに置かれている。

だが日本の文学の伝統の中において、私小説と呼ばれるものの特徴の一つをあげるとすれば、自分をいかに客観的に観察して、自らの暗黒の内面を書き出すか、ということに労力が注がれてきたと言ってよい。その描写が過激になると、自分を露悪的に描くために、加虐的(もしくはその反転として被虐的)になっていく。

これに対して、一般的な読者を広く獲得する作品には、人々の共感を呼ぶものが圧倒的に多い。いわゆる読者の涙を誘う、という事態である。こうした作品は、主人公などの登場人物が「受難する」「被害者的な側面を持つ」ような設定を与えられることが多い。簡単な方法としては、主人公の敵役に加虐的な性格を与えて、主人公に苦難を与える、といったやり方があげられる。

物語が過剰なまでに加虐的、あるいは被虐的な描写を含むとき、何が読者の情動に訴えかけるのかについて、少し詳しく検討をしていく必要がある。『コンビニ人間』において、不遇な身の上を嘆く白羽は、つい先日知り合った他人である恵子に対して、ありえないほどの暴言を吐く。それに対応する恵子は、白羽の発言に全く動揺せず、冷静に状況を分析する。

「古倉さんは、何でそんなに平然としているんですか。自分が恥ずかしくないんですか?」
「え、何でですか?」
「バイトのまま、ババアになってもう嫁の貰い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い。縄文時代だったら、子供も産めない年増の女が、結婚もせずムラをうろうろしているようなものですよ。ムラのお荷物でしかない。俺は男だからまだ盛り返せるけれど、古倉さんはもうどうしようもないじゃないですか」
 さっきまで文句をつけられて腹をたてていたのに、自分を苦しめているのと同じ価値観の理屈で私に文句を垂れ流す白羽さんは支離滅裂だと思ったが、自分の人生を強姦されていると思っている人は、他人の人生を同じように攻撃すると、少し気が晴れるのかもしれなかった。(3)

白羽のサディスティックな発言も衝撃的ではあるが、それに続く恵子の平然とした内面描写も、目を見張らせるものがある。通常の対応ではないからだ。「怒りという感情はほとんどない」という恵子だが、「店長がムカつくとか、夜勤の誰それがサボっているとか、怒りが持ち上がったときに協調すると、不思議な連帯感が生まれて、皆が私の怒りを喜んでくれる」ということだけは理解できる。だがこうした「怒るフリをする」ことに終始配慮をするような人物に対して、読者が共感することは稀なのではないか。自分が「フリをしているだけ」でしかないことに対する、葛藤といったものを感じることができないからだ。

加虐的ないし被虐的な描写が、物語において展開される場合、「ある極限的な状況において対処を迫られるときに、露呈される人間の本性」といったものが、読んでいる者に衝撃を与えるのではなかったか。もしそうだとするなら、『コンビニ人間』において繰り広げられる衝撃的な会話の数々には、従来の「被害者的な側面を持つ」書き方ではない、かといって、露悪的な描写で「人間の本性を暴露する」のでもない、別のやり方によって、読者の胸に感慨を呼び起こさせる、何かがあるとみなしてよいのではないか。

 

〔1−3〕『コンビニ人間』は「”脱”被害者文学」の試みか?

そこで本稿においては、『コンビニ人間』という作品は、広く共感を呼ぶ「受難の物語」でもなく、かといって、露悪的なまでに「人間の本性を詳述する」のでもない、「”脱”被害者文学」の試みであると仮定してみる。そしてこの試みが最終的に、この作品において、どこまで有効に機能しえたかを考察してみたい。

前述したように、かつて社会規範に疑問を抱くものは、「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いを発し、それは一時的にせよ、広く受け入れられることになった。それは猟奇的な殺人事件とその実行犯の少年Aの言動を知って、テレビの討論番組でふと呟かれた疑問が、そのまま無視されることなく社会的な問題として伝播していったということである。

また、格差社会に反対する意見表明などの同時代的な課題についても、以前ほど糾弾の声が上がることはなくなってきた。突き詰めていけば「自分が行動を起こしたところで、社会は変わらないのではないか」といった無力感が蔓延するように、時代は推移した。「失われた20年」で、状況はどのように変化したのか。それを探る試みとは、ある一つの作品において、どのような人物造形が、リアリティを持つものとして描写されうるのか、という疑問にも応答することになるだろう。

さしあたっての課題は二つある。「失われた20年」において、耐え難い困難な状況に対峙したとき、それらと向き合う人々の心性に、どのような変化が訪れたのか。そして、かつては社会規範に対して、根底から疑問を抱くような問いが発せられていたのに、どうして現在では社会規範に対して「怯え」の態度をとることの方に、親和性の高さを見出してしまうのか。

言い換えれば、『コンビニ人間』の読者は、作中の主人公に感情移入することには困難を感じるのだが、作中に描写されていることに対しては、かなり現実的なことが描写されている、という実感を持つことができるのだ。それは、まるで自我など失ってしまったかのように見える、主人公の描写にも現れている。同時代を生きる女性であれば、また男性であっても、少なからず憤りを感じてしまうような白羽の発言に対して、恵子がここまで無反応でいることは、作品において、少なからず効果をあげている。

確かに、恵子は周囲の人間に対しては、一応気を遣っている素振りを見せる。ただし、そのことが読者に判明されるのは、この小説が、恵子の視点による一人称小説であることに依拠している。つまり、恵子の内心の言葉が、地の文で明らかにされるため、彼女が暴力的な発言の数々を聞いても、全く平静な心を保っていることが分かるのだ。

これに対して作中の登場人物、それは白羽であったり、恵子の未来を案ずる妹のミホであったりするのだが、彼らに恵子の心の中の独白が明示されることはない。つまり、全く感情的な様子を示さない恵子に対応する、その他の登場人物たちは、いわば恵子に「素通りされて」いるのだ。極端に言えば、自分の本気の感情が、相手によって無視されている、自分は人間として扱われていないのではないか、という疑問が生じてもおかしくはない。

作者村田は、社会的に必ずしも強者でない人物を被害者として描かないために、このような空虚な内面の持ち主を、主人公として設定することが必要だったのだろうか。もしくはコンビニ店員という、作者とかなり似た境遇の人物を自身とはかけ離れた人物として描くことで、普段は心の中で感じていても直接発言をするには躊躇してしまうような言動を、小説の中に描くことが可能になったのだろうか。いずれにせよ、ここで検討していくのは、作者の胸中を推測することではない。時代状況に照らし合わせて、困難や疑問と向き合う人々の心性がどのように変化していったのか、そしてその課題に『コンビニ人間』がどこまで応答することができたのかについて、検討していくことが問題なのだ。

 

 

【2】日本における「失われた20年(1991-2011)」

〔2−1〕「ロスジェネ世代」の背景

「失われた20年」の経済的・社会的な影響を最も直接的に受けたのは、就職氷河期世代だと言われている。1991年から1993年にかけて起こったバブル経済崩壊の余波に伴い、有効求人倍率が下降してゆき、完全失業率が上昇していった。この世代は就職後においても、消費活動や結婚、子育てに対して消極的、もしくは消極的であらざるを得ない生活を送っていることが、特徴的とされている。『コンビニ人間』の作者村田沙耶香および筆者は、この世代に属している。彼ら(そして私)は、いつしか「ロスジェネ世代」と呼ばれるようになっていた。

「ロスジェネ」とは、「ロストジェネレーション」の略語である。元はアメリカ文学史において、第一次世界大戦前後に青年期を送った世代が、旧来の伝統的な価値観から切り離され、目指すあてのないまま、さまよっていく様子を表したものだった。普通は、1920年から1930年あたりに活躍したアメリカの小説家たちを指す。ガートルード・スタインがヘミングウェイに投げかけた「あなたたちは皆、失われた世代なのよ」という言葉が『日はまた昇る』(1926)の冒頭に引用したことから、広く知られるようになった。この言葉は、2012年の新訳においては「あなた方はあてどない世代ね」(4)と多少変わったニュアンスになっている。

ただし、「失われた世代」と「ロスジェネ」の間には、やや意味合いが異なる部分がある。「失われた世代」に属する人々は、初の世界大戦という破局の後の、非常に不安定な状態にありながら、経済的には余裕のある状態にあったと言えるため、やがて起こる世界恐慌までの間、束の間の小康状態を虚ろに過ごしていたことになる。

対して「ロスジェネ」世代においては、経済的にひっ迫した状況に投げ込まれていたため、前者に比較すると、余裕の無い心境に追い込まれていたと言えるだろう。しかし日本型終身雇用と称されてきた、社会の枠組みが崩れつつあったこの時期において、従前の価値観の揺らぎを体感してきたという意味においては、「あてどなくさまよう」不安を共有していたという「ロスジェネ」の命名は、そんなに的外れとは言い難い。

この「失われた20年」において、人々の心性はどう変わったのだろうか。それを探るためには、災難に見舞われた際に、人々がどのような態度でそれに応じてきたのかを、見ておく必要がある。具体的に言えば、どのようにして、困難な出来事に対して意味を見出し、乗り越えていこうとしたのか。あるいは、人は災難に見舞われた際に、苦しみに意味を見出さずにはいられないのだろうか。そして苦しみに意味を見いださなければ耐えることのできないほどの苦境に陥った人間に対して、どのような態度で向かい合わなければならないのか、といった視点が必要なのではないか。

 

〔2−2〕「意味のある」苦しみとは?

だが少し考えれば、「意味のない苦しみ」など存在するのか、という疑問が湧いてくるはずだ。こう言い換えたほうが通じるかもしれない。ある困難な出来事に遭遇した際に、人々が「原因を探ろうとする」という限りにおいての、意味のある苦しみがある。それに対して、そもそも「原因を追求できない」という限りにおいて、意味を見出すことが出来ない苦しみがあるのではないか、ということだ。

第一次世界大戦は現代における未曾有の災害であったが、それを経験した世代および後続する世代は、事後的にその原因・責任を問い直していくことが可能であり、またそうしなければならなかった。つまり、壊滅的な惨害を風化させないためにも、今後も引き続き「原因を探ろうとする」ことが要求されていると言える。

これに対して、例えば同時期の日本においては、関東大震災という災禍に見舞われた。こちらはどうだろうか。今後似たような事例が発生した場合に、被害を最小限に食い止めるための予防策は必要だろう。しかし、起こってしまった災害に対して、科学的な探索以外に「なぜ」と原因を追求し続けることは、虚しい行為に終わってしまうのではないか。もしそうであるならば、天災によって降りかかった苦しみとは「原因を追求できない」災いである、と見切る態度が、時には要求されているのかもしれない。そうした態度を選択することによって、事件は風化されることなく伝えられていくのではないか。

なぜこのような区別が必要なのだろう。それは「失われた20年」の最中に起こったいくつかの事件や災禍に対して、人々がどのように向き合ってきたのかを、分析しなければならないからである。オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995)、神戸連続児童殺傷事件(1997)、秋葉原通り魔事件(2008)、福島第一原発における放射能の漏洩事故(2011)。「失われた20年」の間に起こったこれらの惨事については、今後も繰り返し立ち返り、「原因を探ろうとする」姿勢が要求されている。これらの事件から、引き出すべき教訓はまだ残っている。

他方、阪神淡路大震災(1995)や東日本大震災(2011)といった天災に対しては、上述した事件とは別の向き合い方が必要なのではないだろうか。震災については、これまで多くの体験が綴られ、教訓が引き出されてきた。しかしあと少しで震災から10年になろうとする現在、「震災という災禍を生き延びた人々」という安心した「物語」の枠組みができつつあるように思えてならない。なぜなら、そこで生産される「物語」とは、紋切り型の「意味」が再解釈されていることが多いように思えるからだ。原発事故による放射能漏洩や、それによって引き起こされた風評被害など、多くの問題が未解決のまま、美しいがどこかで聞いたような「物語」が消費されていく。

ただし、人災のみが、事後も引き続き「原因を探ろうと」していくことが必要で、天災によって引き起こされた苦しみは「原因を追求できない」のだと早合点してはいけない。バブル崩壊、リーマンショックといった経済問題および不況や格差問題にしても、マクロ経済的に「原因を探ろうと」することはできても、それに付随して起こった個々の困難は一向に解決されることはない。
 ただ私たちは、さしあたり原因がわからない問題に出会ったときでも、それを乗り越えていかなければならない。バブルが崩壊した後も、なぜこんなにも長い間、就職難が続いてしまったのか分からない。それでも、ただじっとしているわけにはいかない。

『コンビニ人間』に登場する恵子の妹ミホとその友人は、恵子が将来のことを何も考えていないのではないか、と心配している。恵子も、妹たちが悪気を持って自分に接しているのではないことは、理解できる。しかし妹たちからの指摘を、心の底から信じ、自らの危機として捉えていないところが、肝心な点である。
 恵子の側にも全く問題なしとは言えないのだが、妹もその友人も、性格的に少し尋常ではない姉に対して、実現不可能な「あるべき姿」を押し付けている、ということと大いに関係があるのではないのだろうか?

 これは換言すると、ある人が苦境に陥っているので、その人を助けたいと別の誰かが思った場合に、その当事者に対してどのような態度で臨めばよいのか、ということである。
 苦しみの原因を探る試みが必要であっても、あるいは苦しみの原因を追求することが虚無を呼び寄せるだけであったとしても、「このように行動すれば、あなたの苦しみは解決するかもしれない」ということを、自分以外の人間に約束するべきではない。もう少し詳しく言えば、「あなたの苦しみには、こんな意味がありました」と安易に他人に提示することは、害悪しか招かないのではないか。苦しみというのは、内的な了解を伴うことにより、本人の中で浄化される可能性はある。だがそのために、他人に手を差し伸べることが可能であると、豪語すること「だけ」はできないはずだ。

 苦しみの「原因を探ろうと」して、他者と対話をすることはできるかもしれない。苦しみの「原因を追求できない」ことに対して、他者と共感することもできるかもしれない。だが「あなたの苦しみを軽減してあげたくて」向こうから不当にも手を差し伸べてくる人間に対しては、私たちは断固としてこれを拒否しなければならない時がある。なぜなら当事者にとっての耐え難い苦しみというものは、みな不条理な出来事であり、基本的に了解不可能なものだからだ。こうした前提条件を理解せずに個人に侵犯してくる者というものは、他人を見下しているものと判断されても仕方がない場合がある。少なくとも、救いの「この手」を拒む人間に対して、それを当事者に対して強要すること、及び「この手」を拒んだことが理由で、当事者である相手を非難することは許されない。何を当たり前のことを言うのか、と驚く者は、救いの「この手」を差し延べようとする者の暴力を経験したことがない者なのであろう。

こうしたことは、「当事者」と呼ばれる経験がある者であれば、一度は頭の中をよぎる考えなのではないのだろうか?ただし、時と場合によっては、口にすることを禁じられる類の考えでもあるのだが。
 当事者たちは受難を被っているのだが、他人から「被害者」と名づけられることに対して、当事者たちが常に同じ態度で応じることはない。そして受難を被ったものが個々の状況に対峙するときの態度は、時代によって推移していく。「失われた20年」で何が変わったのだろうか?そしてそれは「”脱”被害者文学」の試みとしての『コンビニ人間』の主人公の態度と、どのような関連を持っているといえるのか?

 

〔2−3〕「なぜ人を殺してはいけないのか?」から「これは同調圧力である」へ

  「失われた20年」の間に、格差社会に対する憤りの声が、フッと日本の言論に湧き上がってきたことがあった。その一つが赤木智弘『若者を見殺しにする国』(2007)である。これは『論座』2007年1月号に掲載され、反響を呼んだ「『丸山眞男』をひっぱたきたいー三十一歳フリーター。希望は、戦争」に、さらにいくつかの論考を加えて、一冊の著作としたものである。問題となった論考では、昨今の「ワーキングプア」を報じるマスメディアの報道においては、格差社会の是正を主張すると言いつつ、その根底には「平和な社会の実現」が大前提になっているため、不平等の問題から目を背けている、という告発がなされている。

しかしこうした糾弾の声は、徐々に新たな時代の潮流によって押し流されていったように見受けられる。東日本大震災が起こった2011年に刊行された古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』(2011)において、若者は不安を将来に先送りすることによって、やがて身に降りかかるかもしれない貧困問題に対峙することを避けている、と考察されている。なぜなら、「わかりやすい貧困」が見あたらず、社会は一見豊かな印象を与えているからだ。
 だがこうした分析の他にも、こう仮定してみることができないだろうか。二つのディケイドに渡って繰り広げられた災禍や長引く不況の後で、不平等に対する戦う気力が失われて、目の前の課題を不問とする雰囲気が蔓延し、やがて人々の口が閉ざれるような方向に時代は流れていったのではないのか、と。

先ほどの区別で言えば、神戸連続児童殺傷事件が起こった90年代の時点においては、人々は未だ「原因を探ろうと」して「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うことができた。しかし数々の惨事を経た後では、「原因を追求する」力は随分と弱まってしまったのだ。

「失われた20年」が過ぎ去った後では、不透明な部分を抱える社会規範に対する、「なぜ?」という声はあげにくくなっている。その代わりに、均一な同質社会に価値観を塗り込めていこうとする時代の空気を敏感に感じ取って、「これは同調圧力である」と厭う声の方が、実感を持って受け入れられている。
 そして「これは同調圧力である」と嘆いてみせるところから、「普通が怖い」という怯える態度に対する共感は、比較的容易に導き出すことができるといえよう。

 

 

【3】「普通が怖い」という状況

〔3−1〕規範の二重性

だが、「普通が怖い」とは何を意味するのだろうか?『コンビニ人間』の作中においては、まず第一に、主人公の恵子が結婚もしくは就職などの、社会生活を営む上で提示される選択肢について、自分も皆と均一になりたいという意欲を示さないこと(=一種の不作為の「罪」)が原因で、自身が「正常」から「異常」の圏域に追いやられてしまうのではないか、という恐怖について語られている。

気が付くと、小学校のあのときのように、皆、少し遠ざかりながら私に身体を背け、それでも目だけはどこか好奇心を交えながら不気味な生き物を見るように、こちらに向けられていた。
あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。
正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。
そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。
家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。(5)

合法/違法という二項対立が成立するときに、社会秩序が成立する。だが社会においては、正義/悪、正常/狂気、普通/異常など、明文化されていない曖昧な部分も存在する。従って、恵子は、こうした見えない権力による境界確定の実践に対して、不安と恐怖を抱くのだ。
 ただし、ここで述べる権力の実践とは、具体的な対人関係における相互作用に限られることなく、集合的な作用として捉えたほうが適切である(6)。

ただし、自分の社会的実践が、明文化された規則にこそ違反はしていないが、社会規範の枠組みのどこかに引っ掛かっているらしいということに、恵子も気がづいている。規範の難しさとは、「約束事(法律・規則)としての側面」と「のぞましさ(当為・正義)としての側面」の両面があることに由来する(7)。規範の「のぞましさの側面」から眺めて、ある社会的な属性を備えていれば、このようにあるのが望ましい、という理想像(恵子の場合であれば、36歳の女性は結婚するか就職している「べき」であるということ)は、あくまで「のぞましさ」の一つのかたちでしかない。しかし、周囲からの圧迫感が強烈に感じられる場合となると、話は別である。

こうあるべきだ、というのぞましい理想像に照らし合わせて、足りないもの、もしくは標準的な同時代人と比べて、欠けているものを要求するべきであると、恵子は強要されているように日々感じていたとする。それでは彼女は、共同体の価値観と一体化して、個人としての自分が消失してしまうという恐怖を感じていた、ということだろうか。そうではない。むしろ、世間からの干渉に疲れた、と愚痴る白羽に対して、恵子は懇々と諭す。

「でも白羽さん、ついさっきまで迎合しようとしてたじゃないですか。やっぱりいざとなると難しいですか?そうですよね、真っ向から世界と戦い、自由を獲得するために一生を捧げる方が、多分苦しみに対して誠実なのだと思います」
白羽さんは言葉がない様子で、コーヒーをただ睨んでいた。
「だから、難しいなら無理することはないんです。白羽さんと違って、私はいろんなことがどうでもいいんです。特に自分の意思がないので、ムラの方針があるならそれに従うのも平気だというだけなので」
皆が不思議がる部分を、自分の人生から消去していく。それが治るということなのかもしれない。(8)

いろんなことが、彼女にとってはどうでもよかったのだ。規範(=ムラの方針)に従うのも、構わないし、皆と合わない部分は、人生から削除したっていいと思っていた。
 だが、それは実際には、不可能なことだった。白羽の勧めでコンビニを退職し、派遣の面接に出かけた恵子は、みるみるうちに生気を失い、生ける屍のようにぐったりしてしまったのだから。

物語の結末において、恵子は白羽を振り切り、コンビニ店員として復帰することを主張する。自分の目の前に立ちはだかる白羽の諫言にも反論して、「真っ向から(世界と)戦い、自由を獲得する」ことを選んだのだ。これはおそらく、恵子の今までの人生の中で、自らの意志によって初めて勝ち獲った権利なのではないだろうか。
 だからこそ、『コンビニ人間』が描く世界は、全くのディストピアであると断言することはできないのだ。

 

〔3−2〕白羽の葛藤

そこで浮かび上がってくるのが、白羽という人物である。彼は『コンビニ人間』における、悪役=一方的な加害者なのだろうか?確かに白羽の世を拗ねたような言動は、物語の登場から結末に至るまで、一貫して変化するところがない。だが彼も、弱者に対して一方的な審判を下して、事足れりとしているだけではない。彼自身が社会的な強者ではないので、その言動は葛藤と隣り合わせなのである。自分が今、あるべき世界に属していないという焦燥感から、婚活することによって人生を変えたいと願うが、その過程でコンビニの顧客の一人にストーカー行為を働き、コンビニのバイトをクビになってしまう。

「この世界は異物を認めない。僕はずっとそれに苦しんできたんだ」(9)

「僕はそれで気が付いたんだ。この世界は、縄文時代と変わってないんですよ。ムラのためにならない人間は排除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」(10)

白羽も社会規範の「のぞましさ(当為・正義)としての側面」からの圧迫に、理不尽さを感じている。「縄文時代と変わっていない」とう発言からは、規範が所与のものではなく、歴史的な経緯を持ち、また文化的な背景があることを指摘しているのであろう。
 だが、自分の社会的立場にとりあえず満足している恵子と違い、白羽はストーカーという「約束事(法律・規則)としての側面」である規範に反する行為をおこなってしまう。

従って、自分の置かれている状況に不満を抱き続ける白羽の方が、既存の社会規範によって、より強く縛られている。それに対して、現状の社会規範をとりあえず受け入れる恵子の方は、規範のくびきから、比較的に自由な状態であることが分かる。
 これは白羽が、自分自身が圧迫されている社会規範を、自分より弱者(と白羽には見える)恵子に対しても、勤務先のコンビニの店長に対しても、またストーカーの標的になるような、働く女性に対しても、同様に適用して、自分以外の相手を見下すための物差しとしていることからも判明する。

つまり白羽にとって、今あるより他の世界があることは、想定の範囲外なのだ。「世界が不完全なせいで、僕は不当な扱いを受けている」と主張し、コンビニの朝礼における接客用語の唱和を「…なんか、宗教みたいっすね」と冷めて引いた感じに見ていても、そこ以外でゲームが展開されるという可能性に、思い至ることはない。

だが、社会規範によって縛られている彼は、同時に、社会的な繋がりからほぼ完全に切り離されてしまっている。不当な扱いを受けていると分かっていても、そのことを告発する手段を手に入れる方法も、自分の不利な立場を変えていく方法も知らない。彼だけでなく、彼を取り巻く周囲の人々も、他人に構っている余裕はない。ただ、自分たちの社会にとって、結果として「異物」となってしまった者が排除されてしまうことを、知っているだけなのである。
 ゆえに、白羽は、物語中においては悪役なのかもしれないが、彼を一方的な加害者と決めつけることはできない。

 

〔3−3〕異質な人物の侵入

文学において、社会規範の「のぞましさ(当為・正義)としての側面」から、社会と個人を考察する場合、次のような問題提起がなされうるだろう。
 個人の側からの視点においては、同質性の高い社会において、どのようにして個人の価値観を維持することができるか。またどのような場合に、不当と思われる「のぞましさ」に対して異論を唱えていかなければならないのか。これらは、近代文学における主要なのテーマの一つであった。では社会の側からは?

例えばある共同体が突如、異質な人物を抱え込んでしまった場合に、その他の人間にはどのような対応が可能であるか、という状況が生じる。そのような時は、今ここにある既存の社会規範を所与のものとして受け取ることを、一旦中止の状態に置かなければならない。文学においては、異常な言動を取る人物が登場したり、もはや人間でもなくなってしまう事態が発生してしまう。

メルヴィル『バートルビー』(1853)に登場する書生バートルビーは、近代におけるその先駆的な存在だった。主人公の「私」は、事務所で働く法律家で、バートルビーは、私の部下の書生である。ある日、ちょっとした書類を点検してほしい、という指示に対して、「しないほうがいいのですが」という、バートルビーのおとなしいが、堅固な返事が返ってくる。このとき以来、彼は何を命じても「しないほうがいいのですが」としか返事をしなくなってしまう。

ジョルジュ・アガンベンは『バートルビー 偶然性について』(1993)において、「我々の伝統的な倫理における支配的な主題は、人ができることではなく、人が欲すること、人がしなければならないことである。このことは、法律家がバートルビーに絶えず喚起しているとおりである」(11)と述べている。物語においては、バートルビーの生前に、この二人の溝が埋まることはない。ただし、バートルビーが宛先不明の配達不能郵便を処理する部局に勤めていて、その後解職されていたことを知った時に、物語の登場人物である主人公=私も、バートルビーの絶望を想像することはできたのだった。

なぜならその絶望というものが、主人公である私の想像力の型にも、当てはめることが可能なものだったからである。主人公の私は、バートルビーが「できること」以外の、彼が「欲すること、しなければならないこと」を、主人公=私にとっての「のぞましい」とされる規範の中に、理解可能なかたちで収めることができたからだ。だからこそ、物語の最後において、主人公=私は、バートルビーの不運と絶望を想像して、胸が張り裂けそうな思いになるのである。

ところが、ついこの間まで会社員だった人間が、理解することも想像することもできないモノ、例えば巨大な昆虫に変身してしまたら…というのがカフカ『変身』(1915)の主題であった。理解不可能な状況に対して、彼の家族である両親も妹も、主人公などいなくなってしまえばいい、と願うようになってしまう。
 ただし、この物語の読者は、訳のわからない自分の状態に狼狽することしかできない、主人公の心情を理解することはできる。読者は会社員グレゴール・ザムザの味方であることが可能なのだ。物語は最初から、全く現実的な設定ではないにもかかわらず。

 だが本当は、皆うすうす気づいているのではないか?現代社会においては、状況次第で私たちの誰がいつ、バートルビーやグレゴール・ザムザの位置に置き換えられても不思議なことではないのだ、ということを。なぜなら、既存の社会規範を完璧に体現する人間など、どこにも存在せず、生きている限りにおいて、共同体の価値観と、そこからズレを生じさせる個人の価値観との折り合いについて考え続けなければならない。そうだと仮定するならば、自分がバートルビーのような心境になること、バートルビーを思って嘆く法律家の「私」のようになること、昆虫に変身してしまったグレゴール・ザムザのような心境になること、ザムザを冷たく見捨てる家族のようになること、こうしたことは、すべて「ありえない」ことではないからだ。

ただし、『コンビニ人間』の恵子のような心境になることは、ちょっと難しいのではないか。もとから自己愛・自意識が極端に少なかった恵子は、物語の結末において、通常の人間であることを放棄して、コンビニ人間として生きることを自覚的に選択するのだから。それが「ムラの掟(=社会規範)」に縛られている中で、唯一、彼女が個性を持った人格として生きていくことができる、ということなのだろうか。

 

 

【4】近代文学における「かけがえのなさ(交換不可能性)」

〔4−1〕「かけがのない個人」すなわち「他者との比較」

既存の社会規範を完璧に体現する人とは、個性を失ってしまった人間であるかのように見える。つまり、社会規範に照らし合わせて、極端に異質な人間は排除されてしまうのだが、逆に個性を失ってしまうと、機械の歯車や番号で管理されたモノであるも同然なのだ。明日ロボットやAIで置き換えられても、知らない人が見れば判別できないかもしれない。
 社会規範という見えない縛りがある中で、『コンビニ人間』の恵子のように、読者からすればまるでロボットのように見えてしまう人間になってしまわずに、個性を追求するということは、可能なのだろうか。さらに言えば、資本主義社会において個性を追求するということは、恵子の妹ミホやその友人、さらに極端になれば白羽のように、他者と同じ水準でいようとすることに汲々としつつ、他者との差異を作り出そうとすることでしかないのではないか。

論集『<かけがえのない>とはどういうことか?ー近現代ドイツ語圏文学における交換(不)可能性の主題ー』(日本独文学会)では、「まえがき」において、「<かけがえのない>個人という観念こそ、どの個人もみな等しく人間であるという等価性、その限りにおける人間の交換可能性を背景にして生まれてきたものではなかったか」(12)という問題を提示している。つまり、近代市民社会における個人尊重の倫理と、資本主義における等価交換原理は、必ずしも対立関係にあるものではない、という「かけがえのなさ(交換不可能性)」が主題となっている。

その中の一編において、由比俊行はクライストの短編『拾い子』から、<かけがえのない個>であろうとすることが、誰もが同じ人間であるという代替可能性との間に、軋轢を引き起こすことを論じている。
 由比は、独文学者トーマス・ヴェークマンの『交換関係』(2002)から、「自我は、固有なアイデンティティを模索することを求められる。しかし他者も全く同じことをしている。つまり自我は、他者との差異や他者との競い合いで自分を規定する」(13)という部分を冒頭に引用し、こうした矛盾はどこから生じたのか、またそこから抜け出す道はあるのか、という問題を『拾い子』の中に読みとっていく。

『拾い子』のあらすじは次のようなものだ。老商人ピアキは息子と共に旅行している途中、疫病に罹っている少年ニコロを、同情心から助けてしまう。ところがニコロは一命をとりとめ、反対に息子は疫病を移されて死亡する。ピアキの養子となったニコロは結婚後も放蕩癖が治らず、ピアキの後妻エルヴィーレの部屋に忍び込んでいるところをピアキに見つかり、勘当されてしまう。しかしピアキの引退前に財産の贈与を受けていたニコロは、ピアキを追い出し、後妻エルヴィーレもニコロのせいで病死してしまう。激怒したピアキはニコロを撲殺し、教会での免罪を拒んだため、司祭の付き添いなしで絞首刑にかけられて亡くなる。

『拾い子』においては、ペストに似た疫病の流行という例外状態において初めて、人の生死が根源的な偶然性に左右され、人々の間に存在的等価性が生み出された、という読み解きがなされている。少年ニコロは、あっさりとピアキの<かけがえのない>息子パオロの<代理>となることができた。ニコロはピアキの家業を任せられて、法的・社会的<代理>として、亡くなったパオロの役割を「上書き」していく。放蕩によって勘当され、再び捨て子の身となったニコロは、偶然目にした、養母エルヴィーレが大切にしている肖像画のモデルは、自分であるという確信をいだく。ニコロは自分が、彼女の<かけがえのない>存在であると思い込むが、それは全くの事実誤認であった。他者にとって<かけがえのない>存在であるか否かは、外面に現れる兆候を読解するという、間接的な方法によってしか判読できず、しかも常に誤りである可能性がある。ニコロの思い込みは、自分と肖像画との偶然性を否定しようとしたが、<かけがえのなさ>という価値は、原理的に他者にとってしか存在しない価値なのだ。ただし物語の最後、免罪を拒む瞬間のピアキは、地獄においてニコロに復讐するのだ、と断言する。皮肉なことに、ここでのニコロは、ピアキにとって<かけがえのない>存在となっていた、というのが、由比の論考の締めくくりとなっている。

『コンビニ人間』において、こうした「かけがえのなさ(交換不可能性)」についての葛藤が生じる場面が、恵子にとってのコンビニエンスストアの喪失(コンビニの退職による、恵子の無気力化)と再発見(白羽への決別とコンビニへの再就職)なのだ。

コップを持った手の指にも、腕にも、黒々とした毛が生えている。今までは、コンビニの為に身だしなみを整えていたが、その必要が無くなって、毛を剃る必要性も感じなくなったのだ。部屋に立てかけた鏡をみると、うっすらと髭が生えていた。
毎日通っていたコインシャワーにも、三日に一度、白羽さんに言われて渋々行くだけになっていた。
全てを、コンビニにとって合理的かどうかで判断していた私は、基準を失った状態だった。この行動が合理的か否か、何を目印に決めればいいのかわからなかった。店員になる前だって、私は合理的かどうかに従って判断していたはずなのに、そのころの自分が何を指針にしていたのか、忘れてしまっていた。(14)

「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べていけなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」
(中略)
「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいたほうが都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」
 こうして喋っている時間がもったいなかった。コンビニのために、また身体を整えないといけない。もっと早く正確に動いて、ドリンクの補充も床の掃除ももっと早くできるように、コンビニの「声」にもっと完璧に従えるように、肉体のすべてを改造していかなくてはいけないのだ。(15)

ここに出てくる「コンビニ」という単語を、「会社」や「学校」に置き換えてみれば、私たちの暮らす日常生活において、似たような光景を発見できるのではないだろうか。ならば、ここに出てくる「コンビニ」という単語を「日本という国」や「自分の家族(自分の子供)」にあてはめて、上述した引用を修正することだって、できるのではないか。自分の祖国や子供がコンビニの代替物?『コンビニ人間』の恵子にとっては、それがあてはまると言って差し支えない。コンビニは恵子にとって「かけがえのない(交換不可能な)」存在なのだから。これに対して多くの読者にとっては、「日本という国」や「自分の家族(自分の子供)」が「かけがえのない(交換不能な)」存在であることだろう。周囲の人間が何と主張しようとも、<かけがえのなさ>という価値は、原理的に他者にとってしか存在しない価値なのである。
 また恵子は、自分が優先順位として上位に置く価値を、他者との比較によって差別化する必要などない。恵子のほかに、このような考えを持つ他者を探すことは難しいからである。恵子は個性のないロボットのように見えるが、それは読者にとってそう見えるだけのことでしかない。

 

〔4−2〕恵子が加害者になるとき

では、もう何も問題はないのだろうか。私たち読者の方が、恵子という人間の価値観を理解することが困難なだけであって、恵子はロボットなどではないことが分かった。彼女は被害者ではないのだから、「あなたの苦しみを軽減してあげたい」と言って、安易に救いの手を差し伸べることは、害悪にしかならない。一度は周りの人々に合わせて自分を変えようとしたが、自分にとってかけがえのないもの=コンビニを再発見した後の恵子は、物語の最後では、再びいきいきと輝いているように見える。何か不都合なことはあるのだろうか?

物語の終盤で、恵子はコンビニという閉じた世界へ戻っていく。彼女はもう過去を振り返ることはないかもしれない。だが、一度は自分が「正常」の基準を押し付けてくる人々から、排除されることを恐れたのだ。つまり彼女は今後も、同僚に合わせて怒るフリをし、妹のミホやその友人に、自分の立場を弁明し続けなければならない。彼女は一生、演技を続ける覚悟はできているのだろうか?

また、物語では語られなかった部分もある。それは、彼女自身の境遇が、今後ある特定の基準となって、他の誰かを「正常」や「普通」から排除していくかもしれないということだ。白羽はコンビニのバイトをクビになってしまって、目下のところ再就職もままならない状況である。その一方で、恵子はとりあえずコンビニのスタッフに戻っていく。
 彼女は文句を言わずに、目の前の仕事をこなしていくだろう。そうする間にも、コンビニ業界では技能実習生などの外国人労働者が増えていく(作中でもトゥアン君というカタコトの日本語を話す新人が登場している)。外国人留学生の就労時間を増やすべきか、コンビニは今後も24時間営業を続けないと、多店舗との競争に負けてしまうか、など多くの課題が残されている。

だがそうした課題に、恵子が向き合うことはない。白羽が苦しんでいたような経済格差にまつわる社会問題は、恵子が白羽を振り切った時に、背景に後退してしまった。そのまま物語は終焉する。皆と均一にならなければならない、という意欲を示さないことによって提起された、恵子の不作為は免罪されるかもしれない。だがそもそも、なぜ皆と行動を合わせなければ、周囲の人から意欲が欠けているとみなされ、自分の行為が不作為であるとして咎められなければならないのか、その理由を根本まで詰めて考えることもない。

もちろん社会で働く人々の全員が、そうした理由を詰めて考えなければいけない訳ではない。だが、「正常」であることを求められて、なぜ自分が苦しまなければならなかったのか、自分と似た様な思いを味わった者が、他にもいるのではないか、そういった視点が恵子には欠けているのだ。白羽も社会との繋がりから切り離されているが、恵子も「コンビニ店員」という名義によって、首の皮一枚で、社会との繋がりを保っているに過ぎない。また彼女は、自分と似たような種類の他者が他にもいるのではないかと、案ずることもない。

コンビニ業界は現在、空前の人手不足であるため、恵子がいることで、例えば外国人就労者の職が一人分失われるといったことは、当面はないのかもしれない。だが現状のままでは、コンビニに従事する労働者の雇用環境が、改善される見込みも少ない。そしてその事に、恵子はまったく関心がない。そうした社会に対する無関心が、やがて発展して、自分に対して「正常であれ」「普通であれ」もしくは「皆と同じようであれ」といったような「のぞましさ(当為・正義)としての側面」としての規範に対する無関心を育み、長じて「普通が怖い」と感じるようになった原因の一因であったのではないか。社会や規範に対する自らの無知・無関心に思い至ることができれば、ここまで強烈に「普通が怖い」と感じる必要も、なかったのではないのか。

なぜ筆者がここまで厳しい所見を述べているのかというと、筆者には恵子が、感情の乏しい人間だとは思えないし、ましてやサイコパスには見えないからである。むしろ作中においては、暴言を吐かれても、不思議なほど他人の気持ちを思い計ることのできる人間として描かれていた。そのような人物が、なぜここまで怖がらなければならなかったのか。そして今後も孤立して生きていかねばならないのか。

 皆と同じようになる「べし」といったような、本当は誰も完璧に遂行することなど不可能な規範には、従わなくともよい。だが、そうした明文化されていない規範が、かつて自分を圧迫し、押しつぶそうとしたことに対しては、もっと原因を追求するべきだったのではないか。そうしなければ、将来の自分がまたいつ、こうした恐怖を味わうことになるのか、全く不明なのだから。
 また、恵子は自分と似たような境遇に陥った他者に対して、「『あなたの苦しみを助けてあげたい』と差し伸べる「救いのその手」を持つ者は、自分とは異なる「のぞましさ」を押し付けてくる者であるかもしれない。だからそうした場合には、その手を振りほどかなければならない」といった見解を述べることもできない。
 他者に対する言動に関してはともかく、少なくとも自分自身に対する無知・無関心は、将来の混乱や恐怖を未来に繰り延べしているだけだと言える。そして筆者は、こうした恵子の態度は、将来の自分に対する加害的な行為である、と主張したいのだ。

 

〔4−3〕別の方法の模索へ(サイエンス・フィクション、子供時代)

従って、『コンビニ人間』は、「”脱”被害者文学」として、一応成功しているのかもしれないが、そのことによって、主人公自身に対するいわば「加害者文学」になってしまっているというのが、本稿の冒頭の問いに対する、筆者の答えである。
 この物語の主人公の性格に、被虐的な部分はない。むしろ、被虐的であることから遠ざかり、目の前の現実に対する分厚い「無関心」の膜を張っている状態だといえる。被害者的な側面もないが、他者(白羽)の加虐的な台詞に反応して、(主人公の)人間の本性が暴かれるといったこともない。

ただし、一方で「失われた20年」の間において、無知・無関心が漸進的に蔓延していったこと、そして他方で、自らに降りかかった不合理な状況に対して、これを糾弾し、またその原因を問うことよりも、「普通が怖い」と怯える性格の持ち主の方が、小説の登場人物としてますます現実味を帯びたものとなっていることが明らかとなった点において、『コンビニ人間』は、現代社会が直面している問題の一側面を、的確に描いた作品だといえる。

思えば、村田沙耶香はデビュー作の『授乳』(2003)から、最新作の『地球星人』(2018)まで、共同体への「異質な人物の侵入」を登場させ続けていた。村田の作品の多くが、「主人公の女性=私」が物語を進行させていく「一人称小説」であることから、「異質な人物の侵入」は、やはり主人公=私に設定されていることが多い。

先述した『殺人出産』(2014)においては、「殺人出産システム」というややサイエンス・フィクションめいた世界において、物語が展開されていた。その翌年に刊行された『消滅世界』(2015)においても、セックスではなく人工授精で、子供を産むことが定着した世界を描いている。
 SF評論家の鳥居定夫(水鏡子の別ペンネーム)は、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『老いたる霊長類の星への賛歌』(1989)の文庫本解説において、「アメリカSFというのは、じつに不思議なところがあって、ジャンルのもつ形式的拘束力がめちゃくちゃ頑丈であるくせに、時代時代の政治的社会的風潮から思想状況にいたるまで、外の世界の在り様が、おどろくほどストレートに反映される。この直截性は、ミステリやファンタジイにない、そしてたぶん主流文学をもしのぐものだろう」(16)と述べている。ティプトリー・ジュニアの具体的な作品としては『愛はさだめ、さだめは死』(1987)に収められた短編「接続された女」「男たちの知らない女」、そして表題作の「愛はさだめ、さだめは死」がそうした作品に該当するのだろう。

社会規範の「のぞましさ(当為・正義)としての側面」について、それが所与のものでなく、歴史的・文化的背景を持つものである、ということを小説世界に反映させたいと望む場合、主人公を「異質な人物」として描く以外に、小説の環境設定のデフォルトの方を「異常=日常の世界とは異なるもの」にする方法がある。反実仮想的世界を構築する方法の一つとして、サイエンス・フィクションの設定があるならば、規範の所与性に疑義を呈する傾向をもつ村田の作品が、SF的手法に接近していったのは、必然的なことと言える。

また、『授乳』、『マウス』『ギンイロノウタ』(2008)、『しろいろの街の、その体温の』(2012)では、少女時代の世界が描かれているが、ここでも物語は、戻らない過去を懐かしむ郷愁的なものではなく、自意識に縛られて、周囲と調和することができない焦燥感や、苛立ちが前面に表れている。

そしてまた、あたかも自意識がなくなってしまったかのように見える『コンビニ人間』の恵子の物語も、単なる「被害者」の再生の物語ではない。様々な「のぞましさ」という規範の型に当てはめられ、理解されたつもりになっている暴力に抗い、自らの生きる道を見直していく主人公の葛藤が、ここには力強く描写されているからだ。

 

【脚注】(URLに関しては最終確認2019年3月29日)
(1)又吉直樹、村田沙耶香 芥川賞対談 文藝春秋 2016年10月号
(2)村田沙耶香『コンビニ人間』文春文庫 p.35.
(3)『コンビニ人間』 p.93.
(4)アーネスト・ヘミングウェイ 土屋政雄訳『日はまた昇る』ハヤカワ文庫
(5)『コンビニ人間』 pp.83f.
(6)橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論』勁草書房 p.144.
(7)友枝敏雄「規範の社会学(1)」『人間科学共生社会学』2巻 pp.109-124.
(8)『コンビニ人間』 pp.95f.
(9)『コンビニ人間』 p.89.
(10)『コンビニ人間』 p.92.
(11)ジョルジュ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』月曜社 p.38.
(12)『<かけがえがない>とはどういうことか?ー近現代ドイツ語圏文学における交換(不)可能性の主題』日本独文学会研究叢書128   http://www.jgg.jp/pdf/updata/SrJGG-128.pdf
(13)同上所収 由比俊行「クライスト『拾い子』における<代理>と<かけがえのなさ>」 pp.3f.
(14)『コンビニ人間』 pp.147f.
(15)『コンビニ人間』 pp.159f.
(16)ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『老いたる霊長類の星への賛歌』ハヤカワ文庫 p.460.

【参考文献】
赤木智弘『若者を見殺しにする国』朝日文庫
古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』講談社+α文庫
福嶋亮大、苅部直、吉村萬一 「創作合評第484回」 群像 2016年7月号
星野光徳「自意識の消滅について」群系 2016年秋号
佐藤優「嫉妬と自己愛の時代 第8回」 中央公論 2016年11月号
ハーマン・メルヴィル「バートルビー」(ジョルジュ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』所収)
フランツ・カフカ『変身』新潮文庫
ハインリッヒ・フォン・クライスト「拾い子」(『チリの地震 クライスト短編集』河出文庫所収)
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『愛はさだめ、さだめは死』ハヤカワ文庫
村田沙耶香『授乳』講談社文庫
     『マウス』講談社文庫
     『ギンイロノウタ』新潮文庫
     『タダイマトビラ』新潮文庫
     『しろいろの街の、その骨の体温の』朝日文庫
     『殺人出産』講談社文庫
     『消滅世界』河出文庫
                    『地球星人』新潮社

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