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新しい笑い論のために

 

 

笑いは人間特有のものである。犬や猫は喜んでも笑わない。でも、人間は喜ぶと笑う。赤ん坊に微笑みかけると微笑みを返してくれる。赤ん坊はまだ感情というものをはっきり理解していないにも関わらず笑う。笑いは人間に生得的に備わっている。人間の条件の一つと言ってもいいかもしれない。

実際、長い歴史の中で多くの人が笑いについて考えてきた。人は他者に優越を示すために笑う、また人が笑うのは2つの価値観が対立しているからだ、あるいは人はエネルギーを放出するために笑うなどなど。いずれも、一部の笑いの心的メカニズムを説明するものであるが、笑いを包括的に説明できてはいない。笑いに関しての議論は難題である。

この難題に対して、果敢に取り組んだ本がある。それこそ又吉直樹『火花』である。『火花』は売れない芸人「僕」の視点から書かれた小説だ。「僕」が師匠として仰ぐ先輩芸人の神谷との芸人生活が描かれている。芸人のリアルな生活や葛藤を文学的に表現することに成功したことから、その功績が高く評価され2015年に芥川賞を受賞した。

しかし、その評価は賛否両論であり、芥川賞がタレント化していると批判を受けた。お笑い芸人が小説を書いたというだけの人気取りであり、文学的に高く評価できないというわけである。実際、選考委員の中でも『火花』の文学性に疑問を呈す意見もある。例えば、奥泉光は「典型的な青春小説」と評し、「方法的にみるべきものはない」とまで言っている。ただ、ここで注目すべきなのは又吉の受賞に反対した奥泉が、「笑芸への思索」を評価し、「楽しく読んでいける」と述べていることである。つまり、奥泉は文学作品としてはともかく、笑い論としては認めてはいる。また、島田雅彦も『火花』は「優れたエンターテインメント論」であり、「コミュニケーション論にもなっている」と、文学的な価値とは違う部分で評価をしている。

今までの『火花』に関する議論は、その文学的な価値を見極めたり、芥川賞にふさわしいのかという論点が多くを占めていた。それどころか、もはや『火花』は又吉フィーバーという一回性の出来事として人々の記憶から忘れ去られつつある。しかし、奥泉と島田の選評からわかることは『火花』を一種の笑い論として読み直せることである。後で詳しく見るように、『火花』は笑いを囲む条件への視点も含みながら、笑う/笑わせる図式を超えた笑い論を展開している。したがって、本稿の目的は『火花』から又吉の笑い論を取り出すことである。そうすることで、現代における新しい笑い論への道を切り拓ければ幸いである。又吉は『火花』でどのような笑いを世に打ち出したのか。この文章を貫く主題はこの点に限る。このことは、笑いを囲む様々な条件をめぐることでたどり着けるものであろう。そのために大きな回り道をする。まずは、笑いとコミュニケーションの関係を見ていこう。

 

 

 

最近刊行された、いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』(2019)の帯文には、平成の「笑い」論決定版!と書かれている。これは大げさすぎるだろう。決定版!と言いつつも、笑いに関する包括的な議論を提出できていない。この本はいとうが笑いに詳しい6人との対談を通じて、笑いの特徴を箇条書き風にまとめていったものである。タイトル通り、笑いの数を数えるように様々な笑いの側面を取り扱うにとどまっている。笑いの難題性を考えればしょうがないことではある。

だが、この本には帯文を裏切ってしまいかねない大きな欠点がある。それはプロの視点からしか笑いを語れていないことである。この本で展開される笑い論は、芸人がどのように笑わせているのかというテクニカルな記述にとどまる。もちろん、人はどのようなときに笑うのかを考えるにあたって、笑わせ方は重要な着眼点ではある。しかし、「平成の」笑い論を銘打つならば、プロの視点から笑いを考えるのみでは不十分であろう。なぜならば、お笑いは人々の間で身近なものとなり、笑う/笑わせるという図式を超えて社会の中で重要度を増しているからである。たとえば、物語評論家・さやわかは『一〇年代文化論』において、2010年代の文化を「残念」という言葉の意味合いの変化でまとめているが、その変化の源流の一つとしてお笑い芸人の「残念」の語用に見ている。

社会の人々と笑いの距離が近づいたのは、日本の笑いを担うお笑い芸人のおかげであろう。いまやお笑い芸人の文化的な影響力は強まり、歌手、俳優、芸術家など様々なジャンルに進出している。この状況を単なる社会的な流行だとみなし、取るに足らないと鼻で笑う人もいるだろう。しかし、状況は笑って済ませられるほど軽くはない。今や、お笑い芸人は教育にまで浸食してきている。大学でお笑い芸人が教育に関する講義をし、単位化を進める大学も現れているのだ。社会の構成員を送り出す教育という、社会の基幹部分までお笑いは影響力を強めてきている。

では、なぜこれほどまでにお笑い芸人の影響力が強まってきているのか。社会学者・太田省一は『芸人最強社会ニッポン』(2016)の中で次のように分析する。

 

結論から言えば、芸人がこのようなある種の万能性を獲得するに至ったのは、芸人がもつコミュニケーション能力の高さもさることながら、誰に対してもあらゆる局面においてコミュニケーション能力の高さを過剰に求める社会的要請のほうに原因があると私は見ている。

 

まず、太田の言う「芸人が持つコミュニケーション能力の高さ」とは何を指すのか確認しておく。太田はそれを芸人のキャラクター性に見ている。○○芸人として、状況に見合ったキャラクターを演じわけることが「コミュニケーション能力の高さ」と名指されている。太田によれば、社会はお笑い芸人をコミュニケーションという次元で求めており、その本質をキャラクター性に見ているという。

ここで問題になるのは、社会の方がコミュニケーション能力やキャラクター化を過剰に求めていることである。この傾向は、臨床心理学的な視点からも指摘されている。例えば、斎藤環は21世紀に入ってから、コミュニケーション能力というものにその人の資質が求められるようになり、コミュニケーション能力に応じてキャラクター化が進んでいったと診断する。斎藤は、時代に蔓延るこのような風潮をコミュニケーション偏重主義と呼ぶ。その結果、2010年には「キャラ 演じ疲れた」という見出し記事が朝日新聞に掲載されることになる。

なぜ過剰なコミュニケーションやキャラクター化が進んだのかについては、これまで多くのことが語られてきたので、ここでは確認に留めておく。日本の批評でお馴染みなのは、「大きな物語」が衰退し、アイデンティティの基盤を失った人々は「小さな物語」で埋め合わせるというものである。その「小さな物語」こそキャラクターであり、確固たるものに支えられていない実存の基盤はその都度の具体的なコミュニケーションで補っていくしかない。これはもはや使い古された議論であり、社会がコミュニケーションやキャラクターを過剰に求めていることは今更注目に値しない。

したがってより重要なのは、そのような状況の中で、コミュニケーションにおけるお笑い芸人の存在感が増してきているということである。その典型的な例が「笑育」である。笑育とは、先ほども少し触れたが、大手芸能プロダクションである松竹芸能が大学と連携して進める教育プロジェクトである。笑育に関するホームページには、「笑いで育む。発想力とコミュニケーション力。」と大きく掲げられており、「「笑育(わらいく)」は、笑いの仕組みを学び、漫才づくりを通して発想力、コミュニケーション力などを身につけるプログラムです。」と説明されている。

これは高度なお笑いパフォーマンスかと思いきや、既に全国50以上の保育園や小中学校、高校、大学など教育機関のほか、企業などでも実践されてきた実績を持つ。2019年には東京理科大学で単位化も目指されているらしい。このような笑育の需要から言えるのは、コミュニケーションにおけるお笑い芸人の地位が著しく上がっているということだ。教育への実装がなされるとするならば、コミュニケーションにおけるお笑い芸人の重要性はますます高まる可能性がある。

そして、臨床心理士・信田さよ子の証言によれば、具体的なコミュニケーションの場において笑いの地位上昇は既に起きているという。信田は「笑い」が人間関係構築の核となっていることを指摘しながら、芸人たちが日本人のコミュニケーションモデルとなっている可能性を示唆する。「若い人たちの痛々しいほどの「笑い」の充満やお笑い番組の隆盛は、このようなコミュニケーションの過剰さに対する反応」であり、「芸人は子どもたちにサバイバルスキルを与えているのかもしれない」。

太田省一は、このようなコミュニケーションにおけるお笑い芸人の地位向上を、経済的な要因と結びつけて分析している。バブル崩壊と小泉内閣の構造改革によって中間共同体が消失し、格差社会が進行した現代において、人々は個人の力で生き抜くしかない。このとき、自己の能力や存在を社会に訴えかけていくことが必要になり、お笑い芸人のトークスキルとコミュニケーション能力が求められたという。

太田のこの説明には論理の飛躍がある。バブル崩壊後の格差社会化が正しいにしても、そこで生き抜くためのスキルをなぜお笑い芸人に求めるのかがわからない。しかし、実際にはコミュニケーションにおけるお笑い芸人の地位は高まっている。とするならば、次に考えるべきなのは、なぜお笑い芸人的なコミュニケーションが強い力を持つのかということになろう。

 

 

神ならぬ自身とそのコミュニケーションによる救済のあらんことを!

二〇〇八年七月某日

 

10年前に書かれた、このはつらつとした文章を、今でも覚えている人がいるかもしれない。宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(2008年)の「後記」における最後の文である。共同体の中でどのようなコミュニケーションが可能であるかを見極めて、キャラクターを「変身」させていくこと。このような実存の基盤の脆弱さを逆手にとって、汎コミュニケーション社会を生き抜けとメッセージを送っていた。この本、というより宇野は、コミュニケーションが僕たちの実存を肯定することを期待していたのだ。

 

しかし、「キャラ 演じ疲れた」という記事が出たのはこの2年後のことである。コミュニケーションは人々を自由にはしなかった。宇野の見当違いは、お笑い芸人的コミュニケーションを考えるうえで見過ごせないものである。結論を先取りして言えば、お笑い芸人的なコミュニケーションには人間の根本条件を規定するメカニズムが現れている。だからこそ、キャラクターを自由に「変身」させるコミュニケーションは困難だという事実に行き着くことになる。しかし、それはコミュニケーションに関するいくつかの議論を経たうえで見えてくるものであろう。ここではまず、宇野がコミュニケーションについての何を見落としたのかを確認していきたい。

端的に言えば、宇野はコミュニケーションとキャラクターの関係を見誤った。宇野はコミュニケーションによってキャラクターを書き換えることに可能性を見出していた。実存の基盤を「~である」という状態への意識から「~した」という行為への意識に切り替えることによって、実存を自由に書き換えていけると述べていた。コミュニケーションとキャラクターの能動性を前面に押し出していたのだ。

ここで宇野が想定していたコミュニケーションモデルは二つである。すなわち、キャラクター的実存とモバイル的実存。前者のキャラクター的実存は「オタク消費者」に多くみられるらしく、自分のキャラクターを暴力的に押し付けて自己承認を図るものである。対して、後者のモバイル的実存は、実際のコミュニケーションの中で齟齬が生じない範囲でできることを能動的に選択し、その行為によって様々にキャラクター化していくものである。そうして、共同体内での相対的位置を能動的に得ることができるとする。

しかし、現実はそこまで甘くない。もちろん、コミュニケーションにおいて能動的な働きかけは大きな役割を持つが、能動の水準だけでは成り立っていない。コミュニケーションには受動の水準も存在する。この当たり前の事実を斎藤環は、キャラクターは「自発的に「演ずる」というより」コミュニケーション空間の中で「「自認させられ」、「演じさせられる」ものなのである」と指摘している。こうしてなされるキャラクター化の原因は、コミュニケーションの円滑化、コミュニケーション効率の最大化にある。キャラクターはコミュニケーションの都合上、選択させられることが往々にしてある。

以上述べた、宇野と斎藤の議論はなんら難しいことはない。コミュニケーションにおいて、自分からキャラクターを演じることもあれば、演じさせられることもある。このような経験的に明らかな事実をわかってくれればよい。わざわざややこしく書いたのは、コミュニケーションにおける能動と受動の水準を取り出すためである。宇野は能動の水準でコミュニケーションを語り、斎藤は受動の水準でコミュニケーションを語る。

そして、ここで問い直さなければならないのは、コミュニケーションにおける能動/受動という水準は的確かどうかということである。たとえば、実際のコミュニケーションにおいて「私がいじられキャラになります」という宣言=能動的な選択は行われない。逆も同様に、「お前がいじられキャラである」という宣告=受動的な選択も行われない。キャラクターというのは、なんとなくの雰囲気で、その場のノリで、空気を読んで定着する。能動/受動という水準では語りえないのだ。だからこそ、キャラクターの能動的な書き換えは困難であり、受動から能動への切り替えも困難になる。その結果、「キャラ 演じ疲れた」ということが起こる。

確認するが、先ほどから当たり前のことしか言ってはいない。一言で言えば、コミュニケーションは両義性をはらむということに尽きる。そして、この事実を露呈させるコミュニケーションがお笑い芸人の間には存在する。それがダチョウ倶楽部による「どうぞどうぞ」である。ダチョウ倶楽部は 肥後克広、寺門ジモン、上島竜兵からなるお笑いトリオだ。彼らのテッパンネタが「どうぞどうぞ」であり、その流れは以下のように構成されている。

 

・熱湯風呂に誰か一人が入らなければならない

・肥後が「俺がやるよ」と手をあげる

・次に寺門が「いや、俺がやるよ」と手をあげる

・その2人を見た上島が「じゃあ俺がやるよ」と手をあげる

・すかさず肥後・ジモンが「どうぞどうぞ」と上島に譲る

 

この流れを単純に把握すれば、肥後と寺門が上島に熱湯風呂に入らせたという図式が見られる。この場合、肥後と寺門は働きかけを行った能動者であり、上島は働きかけを受けた受動者である。しかし、ことはそんなに単純ではないと生命理論学者・郡司ペギオ幸夫は言う。

郡司はこのダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」に注目して、これは能動と受動を未分化のまま考える群れの行動原理を説明しているのである。郡司は『群れは意識を持つ』(2013)において、「どうぞどうぞ」の例に従ってダチョウ倶楽部モデルというものを提出している。「どうぞどうぞ」の流れに従って郡司の説明を追っていこう。

「どうぞどうぞ」において上島は「じゃあ、俺がやるよ」と能動的に選択したものの、実際には肥後と寺門にやらされている。つまり、能動者を受動的に引き受けている。この場面において郡司は上島を「受動的能動者」と位置付ける。他方、肥後と寺門は、上島が「じゃあ、俺がやるよ」といったことで引き下がらされた。その場のノリを受けて譲らされた。しかし、上島にやらせる雰囲気を能動的に作り出したのも事実である。つまり、肥後と寺門は能動的に受動者を引き受けている。この場面における肥後と寺門を「能動的受動者」と位置付けている。

郡司はこの「ダチョウ倶楽部モデル」を生物一般に適応する。郡司が説明の引き合いに出すのは、ミナミコメツキガニの群れである。ミナミコメツキガニは東南アジア熱帯域に生息する小型のカニであり、群れをなして移動する習性がある。多くの個体が群れとして同一方向に移動することから、ミナミコメツキガニは兵隊ガニとも呼ばれている。ただ、兵隊と呼ばれているからといって全個体がきれいに列をなして動かされているわけではない。むしろ、ミナミコメツキガニの個体は自由に動き回りながらも、群れをなして一つの方向に進んでいくのである。これを個体レベルに落とし込んで観察してみたとき、ダチョウ倶楽部モデルが適応される。

例えば、二匹のミナミコメツキガニが同じ場所に行きたかったとしよう。しかし、二匹ともそこへ向かえばぶつかってしまうので、雰囲気を察知して相手をその場所に誘導して道を譲る。このとき道を譲られた個体は能動的に選択してはいるものの、道を譲られたという意味で「能動的受動者」にあたる。一方、道を譲った個体は行く手を阻まれてはいるものの、自分の道を選択したゆえの誘導だったと捉えれば「受動的能動者」にあたる。こうしてミナミコメツキガニの群れの中では、能動と受動が未分化な行為基準が立てられている。

ミナミコメツキガニの群れの特性として、妥協や譲歩をする集団貢献的な個体がいることは先に書いた。このことに加えて、もう一つの特徴がある。それはミナミコメツキガニは群れになることで、自らが不利な環境にもあえて突き進んでいくという点である。ミナミコメツキガニは一匹のときは水深の深いところに入りたがらないが、群れが大きくなると水深の深いところを突き進んでいくようになる。これはなぜなのか。このことは進化という視点を持てば説明がつく。

社会学者・真木悠介『自我の起原』を参照しよう。真木はドーキンスの利己的な遺伝子説に依拠しながら、生物の社会的な行動を説明している。利己的な遺伝子説とは、遺伝子を生き残らせるために個体が利用されている、とするものである。進化のプロセスの主体を遺伝子に見るというアクロバティックな学説だが、詳細な議論にはここでは立ち入らない。むしろ重要なのは、利己的な遺伝子説では説明がつきにくい、自己犠牲的な行動を取る個体についての真木の考察である。

生物、特に人間はしばしば自己犠牲的な行動を取る。ミナミコメツガニの道を譲る行動も、水深の深いところを突き進む行動も、個体の意思に反した自己犠牲的な行動である。しかし、個体(遺伝子)の生存を第一に考える利己的な遺伝子説に立てば、自己犠牲的な行動は説明がつかない。そこで真木が提案するのは社会・集団という階層の視点である。個体が社会・集団を作るようになる時、同形質を保持する遺伝子をより多く残すことが、遺伝子の生存戦略上有利になる。ここにおいて自己犠牲的な行動を取る余地が生まれることになる。つまり、個体が生きるために、同形質の個体が生きる社会を生き残らせるために行動するのである。ミナミコメツガニのダチョウ倶楽部的行動は遺伝子レベルで規定されているわけだ。

この能動と受動の未分化な行為基準こそが、コミュニケーションとキャラクターの関係性で打ち立てられているものである。能動/受動という意思のレベルとは無関係な論理が、共同体内では働いている。そして、そこでは遺伝子レベルで規定された群れの論理によって、自己犠牲的な行為を取ることがありえる。これが演じたくないキャラクターを演じてしまうときに働く力である。それは決して論理的なものではない。コミュニケーションやキャラクター以前にある、生物としての適応戦略である。

この結論は、今までの議論をひっくり返すものである。その場に適切なノリをつかむ能力、言い換えれば適切なキャラクターを演じる能力は、お笑い芸人の特殊能力ではない。群れの論理で適応される、万人に開かれた能力である。ここから言えるのは、お笑い芸人に特殊なコミュニケーションスキルがあるというわけではないということである。キャラクターは群れの論理で生じるため、群れという場があれば発生するわけである。

つまり、コミュニケーションのモデルとしてお笑い芸人を参照することは間違っている。信田が言うように、芸人が子供たちにコミュニケーションにおけるサバイバルスキルを教え込んでいるということはない。しかし、世間では芸人のコミュニケーション能力は高く評価され、教育にまで実装されようとしている。

とするならば、次なる問題は、どうして芸人のコミュニケーション能力が優れていると認知されてしまうのか、ということになる。その幻想を支えるものは何か。太田が言うようなキャラクター的な振舞いのうまさにその核心はない。では、人々はお笑い芸人の何を見ているのだろうか。どのようにしてお笑いを受容しているのか。

 

 

 

多くの人々がお笑い芸人のコミュニケーション能力は高いと誤解している。彼らの優れているところは、笑わせるスキルの高さである。人々はそのことをコミュニケーション能力の高さとして取り違える。これはおかしなことである。実際にお笑い芸人とコミュニケーションしたわけではないのに、何をもって能力の高さを測るのか。太田はさまざまなキャラクターに適応できることにお笑い芸人のコミュニケーション能力の高さを見ていたが、同じ群れに属していないのになぜ適応力の高さを知ることができるのか。その理由は、お笑い芸人の受容のされ方にある。人々のお笑い芸人への接し方が錯覚の原因となっている。

僕たちがお笑い芸人に接するのはテレビ番組を挟んでのことである。特に、お笑い芸人がキャラクター的に振舞うことが多いのは、ひな壇バラエティや情報バラエティ番組である。そこにおいて、場のノリを共有しながらキャラクター化していく。そこで求められるのは、漫才やギャグなどの芸、パフォーマンスではなく、トークである。社会学者・水島久光は、バラエティ番組が芸やパフォーマンスから対話に主軸が置かれるようになってきた変化に注目して、「バラエティ番組そのものの本質が、内容から「タイミング」という形式に移行していることが見て取れる」と述べている。そのうえで、水島は「視聴者が自ら登場人物たちと空間を共有しうることを確認し、その場に入り込んでいく「参与契約」が」バラエティの主題となる、と指摘する。つまり、バラエティ番組は視聴者を引き込んで同じノリ、場を共有させているかのように錯覚させる。

バラエティ番組の肝は、同じノリや場を共有させることである。トークスキルなど簡単に真似できるはずがないのだから、バラエティ番組でコミュニケーションの参照項となるのはノリによるやり取りに他ならない。同じノリを共有させることで、テレビの向こう側にもコミュニケーションの回路を開く。そのため、見る視聴者/見られるお笑い芸人という境界線をなくす工夫がテレビには仕組まれている。能動と受動が未分化な状態をテレビというメディアの力を使って作り上げているのである。

その方法の一つが、画面の作りこみである。情報バラエティで多用されるブーメランテーブルは、画面に奥行きを持たせて視聴者もテーブルに座っているかのような錯覚を生み出すのに働いている。また、スタジオをリビングルームのように設計することで、視聴者の住環境との接続を図るということもなされている。

そして、より重要なのは、顔のクローズアップである。テレビは画面の大きさという技術的制約から、映画よりも顔のクローズアップが多用されるメディアである。メディア学者・西兼志によれば、顔を大きく映し出す近さゆえに「親密性に基づいた相互性、共同性の感情を醸成する」という。顔は主客未分の認知を引き起こすのに一役買うのだ。

人間の認知活動において顔は特権的な役割を負っていると西は言う。メディアとしての顔、すなわち〈顔〉について論じた『〈顔〉のメディア論』(2016)のなかで西は、様々な事象をあげながら〈顔〉の特殊性を人間にもともと備わった認知メカニズムの点から明らかにしている。例えば、自分と周囲の区別がつかない乳児にとって、授乳は自分の一部を受け取るような経験である。このとき、乳児が見ているのは母親の顔である。しかし、それは自分自身の顔でもある。〈顔〉は両者をつなぐ役割を担っている。だからこそ、母親が笑うと乳児も笑う。〈顔〉はコミュニケーションを駆動するメディアとして機能し、主客未分の融合的な知覚が実現している。

また、〈顔〉は赤子にとって世界の指標でもある。心理学者ジェームズ・J・ギブソンらは赤子に対して次のような実験を行った。ガラスのテーブルを用意し、ガラスの手前半分の裏側に板を取り付け、残り半分はガラス下の床に板を取り付けて奥行きを出す。その上に赤子を乗せる。奥行きを感じることができるほど発達した赤子であれば、ガラス面にきたところで進むのをためらう。そこでギブソンらは、赤子の目の前に母親を立たせてみる。すると、母親が不安な表情をしているとき、全ての赤子がガラス面を渡るのを止めた。反対に、母親が微笑みを見せると四分の三の赤子がガラス面を渡った。この結果からわかるのは、赤子にとって母親の〈顔〉のリアクションが世界認識のカギになっているということである。

認知における〈顔〉の重要性は幼児期だけに限らない。映画研究者のマルチーヌ・ジョリーとニコラ・マルクは、同じ無表情のショットに異なったカットをつけた三つのシークエンスを見せる実験を行った。その結果、〈顔〉へのクローズアップに続いて映し出された物が、その人物の記憶や夢想の内容を表しているという解釈を促した。つまり、ここから導き出される結論は、〈顔〉は無表情であっても物語を打ち立てる媒介項として機能し、見る者と見られる物の関係を打ち立てるということである。

以上のように、〈顔〉に対する認知機能は生得的に備わっている。認知科学は〈顔〉ほど視線を捉える対象はないことを教えており、人間には〈顔〉に対する認知的選好性がある。〈顔〉は見る-見られるという主客、能動受動の間に入り第三項の役割を担う。〈顔〉に対する認知的な働きは、日々メディアに接しているときにも生じている。

このような文脈を踏まえれば、バラエティ番組における顔のクローズアップが持つ効果についてわかってくる。顔は視聴者とテレビを繋ぐ第三項としてコミュニケーションの回路を開く。顔は喋るよりも先に視聴者に語りかけ、同じ場に引き込む。その極致が、バラエティ番組で多用されるワイプである。声が切り取られ、顔のみが映し出されるワイプは視聴者との共同性を作り出す。は視聴者とテレビタレントのコミュニケーション性を、タレントのリアクションに見ている。

 

発話内容はゼロの、情動のみからなった純粋な発話行為が成立している。映し出される出来事に対して、リアクションを取るタレントは視聴者と同じ位置に立ち、同一化を実現する。その意味で、「リアクション」において、テレビの理想的なコミュニケーションあるいは「関係性」が成立するのだ。

 

バラエティ番組において重要なのは顔である。顔という場においてこそ、視聴者とのコミュニケーションを開くリアクションが表出する。顔こそが視聴者を引き込み、同じ場を共有させる錯覚を呼び起こす。

 

 

 

ここまで、お笑い芸人を囲う社会的言説をもとにその実相を追ってきた。出発点としてあったのは、コミュニケーションにおけるお笑い芸人の地位が向上しているという事実である。その要因は、お笑い芸人のコミュニケーション能力の高さ、すなわちキャラクター的振舞いの妙を社会が認めていたことによる。しかし、次第に明らかになったのは、そのような認識は誤解だということだ。お笑い芸人たちのコミュニケーション能力が高いように見えるのは、その場のノリを本能的に察知できているからにすぎない。場への適応をお笑い芸人の能力の高さと錯覚されている。この錯覚を引き起こすのが、テレビの効果であり、なによりも顔であった。お笑い芸人は芸やパフォーマンスを披露することよりも、顔を大きく映し出すことを求められている。

これが、お笑い芸人を取り巻く条件である。社会はお笑い芸人的な、ノリを共有したコミュニケーションを求めてはいるが、笑いを求めてはいない。笑芸によるパフォーマンスより、顔を代表するリアクションを求められる。もはや、笑いの芸、技術なるものは二の次になっている。この視点がなければ、現在の笑いは語れない。このような条件の中で、又吉は『火花』のなかでどのような笑いを打ち出したのか。長すぎる回り道を経て、『火花』の読解に入ろう。

売れない芸人の「僕」はある日、先輩芸人の神谷に弟子入りをする。『火花』は「僕」の視点から語られる、神谷との青春小説である。「僕」にとって神谷は笑いの神に等しく、神谷の言葉やネタは笑いの理念そのもののように描かれる。しかし、それらはどれもどこかで聞いたことがあるようなものばかりであり、どうも古臭い。例えば、次のような言葉。

「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動はすべて漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿をさらすもんやねん。」

その他にも、神谷の漫才は「誰もが知っている言葉を用いて、想像もつかないような破壊を実践するもの」とされたり、神谷が面白いと思うのは「未だ発していない言葉」や「未だ表現していない想像」だとされる。どれも笑いの実践からは離れた理念的なものである。つまり、神谷は作中において笑いの理念を象徴する存在として描かれる。

しかし、前章までの議論を振り返れば、このような芸事としての純正な笑いは既に必要とされていない。求められているのは、キャラクター的に消費される存在なのである。この状況に対して、笑いの理念的存在である神谷は強い抵抗感を打ち出している。「僕」との会話の中で、個性を引き合いに出しながらキャラが規範のモノマネに過ぎないと語る。そして、最後に「俺はキャラっていうのに抵抗があんねん」と述べるにいたる。これは明らかに時代状況に逆行した考えであるため、神谷と「僕」は芸人として日の目を見ることがない。逆に言えば、キャラクター的に消費される芸人は小説中できちんと結果を残す。

この小説は基本的に売れない芸人の生活が描かれているのだが、鹿谷という芸人についてのみは売れっ子として描かれる。鹿谷はアクシデントが引き起こした笑いでショーレースを勝ち抜き、いわゆるいじられキャラとして活躍する。「鹿谷はネタ番組に出ると、大物MCに最高の玩具であることを瞬時に発見され、そこで開花した才能を存分に発揮し、瞬く間に時代の寵児になった。」さらに重要なのは、又吉が鹿谷を顔で笑いを取る芸人として描いている点である。「彼は端正な顔立ちをしているのだが、鼻の下だけが異様に長く、そのアンバランス加減から真顔になるだけで爆発的な笑いを巻き起こした。」時代の寵児となる芸人の特徴は、顔にあるのである。この点、又吉はお笑い芸人を取り巻く社会的状況をよく理解していることが読み取れる。お笑い芸人に求められるのは、なによりも顔なのであった。

このような状況を受けて、神谷もその影響力を無視できない。物語の中盤で、神谷はいきなり「僕」の容姿を模倣する。「神谷さんの髪の毛は綺麗な銀髪に染められており、黒のタイトなシャツに黒のスリムなパンツを身に纏い、黒のデザートブーツを履いていた。つまり、神谷さんは僕と全く同じスタイルになっていたのだ。」キャラクターはコミュニケーションの中から生じてくるものであるので、神谷による「僕」の模倣はキャラクター化とは捉えられない。しかし、神谷はキャラのことをモノマネと捉えていた。とすると、これは神谷なりのキャラクター化と考えた方がいい。裏を返せば、笑いの理念的存在である神谷にとっては、キャラクターというものがわからないのである。このことが結末での神谷の失敗に繋がる。

一向に世間に受け入れられず売れない芸人であり続けた神谷は、借金が溜まり一年間の失踪をする。そして、一年ぶりに「僕」の前に現れた神谷は豊胸手術を受けた後だった。その真意を神谷は次のように語る。「あんな、俺、ずっとキャラクターというものを否定してたけどな、それも違うと思ってん。キャラクターに負けるような面白いことは、全然面白いことじゃないねん。」

この結末は芥川賞選考委員の高樹のぶ子に酷評を受けている。高木は、この結末によって、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、言葉とは無縁の豊胸手術に脱したことで損なわれたという。高樹のこの評価は登場人物の魅力という小説上の評価基準で見たときには正当ではある。しかし、ここでは『火花』を笑い論と捉えている。この観点からして高樹の評価がなお重要なのは、神谷が言葉とは無縁の領域に脱したことである。神谷の武器はあくまでも言葉であった。言葉による笑いこそが重要な理念であった。しかし、結末において神谷は言葉を見捨て、キャラクター化のために豊胸手術に走った。笑いの理念はキャラクターに敗北したのだ。

『火花』は笑いがキャラクターに敗北する物語である。この物語の構造を把握したとき、酷評を受けた結末は違うように見えてくる。たしかに、神谷はキャラクターに負けた。しかし、又吉は神谷のキャラクター化を失敗させる。成人男性が豊胸をしたことで、世間からは完全に見放される。又吉は笑いの理念をキャラクター化に譲ろうとはしなかった。

では、又吉はどこに笑いを託したのか。ここで『火花』という小説の顔、すなわちタイトルを考えてみなければならない。現代の笑いは顔に宿る。なぜこの小説は『火花』と名づけられているのか。それは又吉の笑いへの価値観が反映されているためである。

又吉は芥川賞記念エッセイ「芥川龍之介への手紙」において、自身の笑いの原点について語っている。又吉は初め「線香花火」というコンビ名でデビューした。このコンビ名は中学時代に知恩院を訪れたときの思い出に由来するという。又吉は知恩院で「未完の瓦」というものを知る。その瓦は、完成されたものは滅びゆくだけなので、あえて未完にしているという。これを受けて又吉は次のように考える。

 

完成して、なお滅びないものもあり得るだろうかと、時間と価値の関係について考えるようになりました。あほなりに考えた結果、線香花火のような、小さな一瞬の輝きにこそ永遠は宿るのではないか、或いは、そのような小さな輝きを連続で起こし続けることが最善なのではないかと考えるようになりました。そこから、コンビ名は線香花火になりました。

 

一瞬の輝きに永遠を宿らせること。それを象徴するのが線香花火である。線香花火は小さな火花を連続で起こし続けて輝きを保つ。『火花』という小説も花火大会で始まり、花火大会で終わる。この小説は一瞬の輝きをもって始まり、一瞬の輝きをもって終わるのだ。『火花』という小説の顔は又吉の中にある笑いに対する信念を表していた。

しかし、この信念をもってして笑い論とするのは抽象的過ぎる。もう少し具体的なものを『火花』の中に見出さなければならない。しかし、それは神谷の言葉から単純に拾ってくることはできない。なぜなら、神谷は現代の笑いを取り囲む状況に敗北を喫しているからである。神谷の理念は今の笑いにはなりえない。

ここで再び思い出したいのが、高樹の酷評である。高樹は結末で神谷の魅力が失われたと述べていた。これは裏を返せば、結末までの一定期間において神谷は魅力を備え、そのまま終えれば美しい終わりを迎えられたということである。だが、又吉はその美しい終わりを台無しにした。この台無しの終わりにこそ又吉の笑い論が凝縮されている。又吉は台無しの終わりを用意することで、『火花』のなかに眠る笑いの核心を取り出して、読者に示したと言える。

物語中において、「僕」は神谷のようになれずに何度も自己嫌悪に陥っている。神谷が笑いの理念だと想定するならば、「僕」は笑いを掴み切れないままでいる。しかし、そんな「僕」が実践できた数少ない教えがある。それが美しい世界を台無しにすることであった。「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台無しにするかが肝心なんや」と神谷は言う。「そうすれば、おのずと現実を超越した圧倒的な世界が現れる」。なぜ台無しにするのか。それは、美しい世界を永遠に閉じ込めるためである。そのために、美しい世界は一瞬に留まらなければならない。だから、台無しにして一瞬のうちに終わらす。

「僕」はこの教えを実践することに成功する。神谷と神谷の彼女である真樹との別れの場面である。「真樹さんの想いを、神谷さんなりの下手糞な優しさを、この美しい世界を僕は台無しにしなければならない。どのような情熱からか微かに僕の股間は反応した。それを見た神谷さんが、思わず吹き出した。」すべてが調和した美しい世界を、股間という対極にあるもので台無しにし、笑いに変える。そうして美しい世界は訪れる。真樹との別れを嘆いていた神谷は、このあと美しい別れを迎えることになる。

神谷の言葉を捉え切れない「僕」が、唯一手の届いた笑いが世界を台無しにすることであった。神谷はたしかにキャラクター化に敗れたが、この教えだけは「僕」の手に守られた。又吉が決して手離さなかった笑いである。だからこそ、笑い論としての『火花』の結末は台無しにならねばならない。神谷という魅力ある笑いの理念に満たされた世界は、最後に台無しにされることで『火花』は笑いの信念を全うするのだ。

 

 

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現代の笑いは笑う/笑わせる図式では捉え切れないようになってきている。さらに厄介なことに、社会が笑いに求めるのはネタやギャグの要素を減らした、リアクションやパターンに基づく予定調和のコミュニケーションになってきている。このような状況にあっては、笑いの原理や笑わせる方法、笑いを起こすテクニックを記しても、笑い論としては不十分である。これからの笑い論は笑いを取り囲む様々な状況と知見を考慮して書かれなければならない。『火花』はこのことを踏まえたうえで書かれた、数少ない笑い論である。全ての笑い論は『火花』から出発しなければならない。新しい笑い論のために。

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