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共同体幸福論―変態する坂口恭平

第一部:トランス共同体

1-1. 我々と私

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

1898年、フランスの画家ポール・ゴーギャンはその絵画を遺書として描き上げた後、自殺を図った。彼の活動拠点であったタヒチ島の首都パペーテやプナアウイアは現在ではリゾート地として知られているが、この絵画全体を覆い尽くす陰鬱で青暗い画面からはその面影すら見えない。画面の右側から左側にかけて流れる三つの時間軸と人物群。これらは当時彼の体を蝕んでいた病と入り交じり、誕生、老い、死といった苦しみ、言い換えれば釈迦が四門出遊で遭遇する四苦に通底する世界観を描いているように見える。それらの逃れられない苦と対面した結果、釈迦は出家を選び、ゴーギャンは自殺を選んだ。

「どこから来たのか」、「何者か」、「どこへ行くのか」。これらの問いはゴーギャンが幼少期に教わったキリスト教のカテキズム、つまり教理問答と呼ばれる信仰教育に由来すると言われている。ここで彼のキリスト教への反発と執着、仏教への興味と関心がこれらの問いと絵画の内容に表現されていると解釈することもできるが、本論考で注目したいのはむしろ「我々」についてである。釈迦は家族を捨てた後に出家を志し、ゴーギャンはパリや家族といったコミュニティから阻害された後に自殺未遂に走った。つまり出家を仮に「生きながら死ぬこと」と捉えるのならば、ここで本来問われるべきなのは抽象的な存在論ではなく、極めて具体的な「我々」の共同体と「私」の自殺の問題と言えるのではないだろうか。

そんなゴーギャンによる問いが発されてから80年、日本の熊本にある男が誕生した。彼の名を坂口恭平という。彼は祖母サイの第一案では真理夫と名付けられる予定だったが、母睦美によって却下された結果、第二案である恭平と名付けられた。「私」が分裂し、「我々」として同時に存在しているような想像力。彼の活動の特徴は躁鬱病と統合失調症を病気ではなく有効活用することにあるが、そのような想像力の起源はこの命名の起源にまで遡ることができる。平成が終わろうとしている2019年、私たちはゴーギャンの問いに対する一つ可能性として坂口恭平に出会うことになる。

1-2. 共同体と自殺

本論考の第一部では現代の日本における共同体と自殺の問題について考えてみたい。しかしそれ以前にそもそも共同体とは一体何なのか。共同体と自殺には一体どのような関連性があるのか。現代の日本においてそれらを論じる必然性はどこにあるのか。ひとまずはそのようなことについて考えてみる必要があるだろう。

『サピエンス全史』シリーズにおいてユヴァル・ノア・ハラリは虚構や共同幻想が人類の集団形成や進化の起源となっていることを指摘した。実はこのような指摘は決して珍しいものではない。少なくとも吉本隆明『共同幻想論』やベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』は似たような指摘と前提の元に共同体に関する議論を展開している。よってむしろ現代において注目すべきは家族、学校、会社、国家といった近代的な共同体が機能不全の危機に瀕していることだ。これはつまり近代的な共同幻想が軒並み消滅し、共有不可能になっていることを意味する。であるならば、現代の私たちに足りないのは新しい共同幻想である。このような前提の元、テクノロジーの観点から提出された共同幻想が落合陽一『デジタルネイチャー』における「デジタルネイチャー」であり、哲学の観点から提出された共同幻想が東浩紀『ゲンロン0』における「観光客」である。

これらの共同体論の是非に関しては歴史が証明していくとして、仮にこれらの議論から抜け落ちている観点があるとすれば、それは自殺についてである。共同体が共同幻想によって成立しているのならば、その幻想を共有できない、もしくはその幻想以外の現実が存在しないと思い込んだ時、人々は阻害される。そして共同体からの阻害の行き着く先は、究極的に言えば自殺である。厚生労働省による『平成29年中における自殺の概要』を参照すると、統計上日本人の自殺者は減少傾向にあるものの、職業別自殺者数では無職者が5割以上を占め、原因・動機別自殺者数の上位には健康問題、経済問題、家庭問題、勤務問題といった問題が並んでいる。健康問題においては精神疾患が主因であることを考えれば、これらの統計から自殺の問題は共同体からの阻害の問題と地続きであることが一目瞭然である。

共同体は阻害による自殺を引き起こす。それでも人々は共同幻想による共同体を欲望する。このジレンマが共同体と自殺にまつわる現代的な未解決問題である。これはまた以下のように言い換えることもできる。現代において共同体について考えることは自殺について考えることであり、自殺について考えることは共同体について考えることである、と。であるならば、現代の日本において新しい共同幻想による共同体を立ち上げながら、同時に自殺を防ぐことは可能か。可能であるならば、それはどのようにして可能になるのか。このような疑問に思い至った時、私たちは遂に坂口恭平を受け入れる準備が整ったことになる。

1-3. 崩壊する共同体と都市の幸

「もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔をした。崩壊は至るところで進んでいて、わたしは一人で気づいて、どうにか崩落するものに布なんかをかけようと探してみたが何もない。隣にいる者に声をかけてみたが、男は一切しゃべらず、それ以外にもまだたくさんの人間たちがいた。」(坂口, 2018b, p.4)

「目をさますと、私は死にたくなっていた。妻のフーが言うところによると、そのとき私はまったくの別人になっていて、否定的なささやきなど聞こえていないはずなのに、二十四時間、耳元で鳴っていると嘆いているそうだ。そのため他者に会うと、みんなが私を指差して嘲笑しているように感じてしまい、ついには外出することもできなくなってしまう。」(坂口, 2015c, p.8)

坂口恭平『建設現場』はいきなり崩壊する場面から始まる。『家族の哲学』も同様に自らの自殺を示唆するような場面から始まる。これらはつまり坂口の書く世界において共同体は既に崩壊していることを示唆する。そこがスタート地点なのである。このような不吉な始まり方は、坂口が書く小説の冒頭部分に共通する特徴でもある。例えば『しみ』ではいきなりシミが死んでおり、『家の中で迷子』ではタイトル通り家の中で迷子になっており、『徘徊タクシー』では祖父の危篤を知らせる電話から始まっている。

このように崩壊する共同体を前提としている坂口は、既存の共同体から零れ落ちた余剰に注目する。その余剰が結晶化した一例としては「都市の幸」が挙げられるだろう。彼の提唱する「都市の幸」とは要するに都市にとって不必要になったゴミのことだ。ゴミは不必要なので当然捨てられる。しかし彼はそこに共同体の原点を見出だしている。例えば『0円ハウス』において撮影されている巣としての家は、そのほとんどが「都市の幸」の寄せ集めによって建てられたものだ。既存の共同体から零れ落ちた余剰がそのまま共同体を形成しているような現実。彼はそのような現象に注目する。

ところでレヴィ=ストロースはありあわせの、限定された資源で生活する人のことを「ブリコルール」と呼んだ。坂口は一般的にホームレスと呼ばれ、路上生活者として生きる人々の中に現代の生きた「ブリコルール」を見出だす。しかしここで「都市の幸」をことさら賞賛するわけにはいかない。何故ならそれはゴミの多い都市でしか成立しないスタイルであり、『TOKYO 0円ハウス 0円生活』や『隅田川のエジソン』に登場する鈴木さん(硯木正一)のように「都市の幸」を適切に見出し、「ブリコルール」で柔軟に生き延びることが可能な人物は稀であるからだ。彼らは弱者ではなく、賢い強者である。つまり最終的には「都市の幸」という富を持ってしても、私たちは自殺という現実と向き合わざるを得ない。

1-4. 新政府いのちの電話/草餅の電話/いのっちの電話

090-8106-4666

この番号は坂口恭平の携帯電話に直通している。これはいのちの電話/草餅の電話/いのっちの電話(以下いのっちの電話)とも呼ばれ、基本的には希死念慮や自殺願望に苛まれた人が相談するためのホットラインである。過去に本家であるいのちの電話から商標登録侵害で訴えられたため、娘アオの考案により草餅の電話となるが、最終的に井ノ原快彦の愛称を取って現在ではいのっちの電話と呼ばれている。

坂口は目標として自殺者ゼロを掲げてはいるものの、いのっちの電話の本質は救済にあるわけではない。共同体から零れ落ちた余剰の一部を自殺志願者とするならば、いのっちの電話とは既存の共同体に関する定点観測装置である。また「都市の幸」と同様、いのっちの電話にかけてくる人物は宝である可能性が高い。であるならば、いのっちの電話の本質は坂口を中心とする宝の巣のネットワーク生成にある。

坂口は東日本大震災をきっかけに新政府を立ち上げ、新政府内閣総理大臣に就任した。いのっちの電話はその活動の一環でもある。既存の共同体が自殺の問題を上手く扱えない、もしくはその存在自体が自殺を誘発してしまう理由は、絶対的な他者が不在であるからだ。家族に相談するにしても学校に相談するにしても、他者としての距離が近すぎる。その上にいのちの電話は滅多に繋がらない。

そこで絶対的に自分と無関係な他者である坂口恭平が、100%繋がるホットラインを用意する。そのことによって相談者は日常的に抑圧してきた声を解き放つことが可能になる。つまりここにあるのは博愛主義なのではなく、むしろ博愛主義では救われないものに対する眼差しである。共同体とは他者について考えることである。この前提に立つならば、新政府といのっちの電話は別々の機能であるわけではなく、表裏一体セットでしか存在し得ない。

1-5. 加速する描写

「捌くには時折、気まぐれな風が吹いた。その風がどこからきたのか誰も知らなかった。そもそも誰もそこにはいなかった。人間がいなくなってかなり月日が経っていた。風がまた吹いた。砂は退屈そうにまたがると、地表の上それそれを回転しながら流れて行く。」(坂口, 2016, p3)

「おれはドゥルーズだ。どう考えてもそうだ。見た目も知らなければ、彼がいつ死んだかも知らない。死んでいないかもしれない。しかし、明白なことがある。それはおれがドゥルーズであるということで、つまり死んだ男が、今ここにいるのだ。」(坂口, 2017b, p3)

これらの記述はヴィッパッサナー瞑想である。ヴィッパッサナー瞑想とは仏教において、現実を徹底的に観察することで、現実を認識する解像度を上げる修行のことだ。しかし『現実宿り』と『けものになること』が通常のヴィッパッサナー瞑想と違う部分は、小説の形を取って書かれていることである。彼が書いているのが現実だと仮定するならば、書くという行為を通して彼はもう一つの現実を建築し続けている。そこにはフィクションとノンフィクションの区別は消失している。

『現実宿り』では主体が高速で入れ替わり続ける。時にそれは砂であったり、鳥であったり、人間であったり、単数であったり、複数であったりする。村上春樹の小説は比喩表現の巧みさで有名だが、坂口が書いているものは比喩ではない。徹底した描写である。一方で『けものになること』は『現実宿り』の続編として読むことが可能だが、記述の速度が加速している。『けものになること』では固有名を中心とした概念全てを対象にしているかのような描写がなされるが、それは高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を思わせる。しかし『さようなら、ギャングたち』が現代詩の雰囲気を纏っていることに対して、『けものになること』は本の最初から最後まで一筆書きで書いたような勢いと速度だけがある。

坂口がこのような一見奇妙とも暗号文とも取れるような文章を書かなければならなかった理由。これに関しては、先程の現実を認識する解像度を上げる修行、もしくはもう一つの現実を建築するためという理由が挙げられる。しかし重要な問題は、何故彼はこれ程の速度を必要とするのかだ。速度は文体と記述内容の圧倒的な不整合性が連続して押し寄せ続けることで担保されている。ただしこのようなメカニズムが判明したとしても、その理由は謎のまま取り残される。

1-6. 躁鬱病/統合失調症/ミメーシス

「記憶も一つの空間である。銭湯の絵画のように平面的なものと捉えるのではなく、深く生い茂る森の中に入り込むように、立体的に表現したい。それが僕にとっての言語化という行為である。」(坂口, 2013c, p79-80)

「現実は下書きである。現実がエスキス。現実は模型であり、建設は夢の中で行う。これが僕にとってのリアルな生活である。」(坂口, 2015b, p193)

その速度の謎を解き明かす鍵は、彼の躁鬱病、統合失調症の気質にある。思考空間とは一瞬が無限大に拡張される可能性のある空間である。速度を限りなく加速することで、坂口はその思考空間の時を止め、全てを一瞬で捉えて描写しようとする。それは現象をそのまま捉えることである。そのことによって坂口は分裂する現実をそのまま肯定する。

しかしこれは当然ながら危険性と隣り合わせの方法でもある。現実に対するリアリティが希薄になり、別の現実のリアリティに引き寄せられること。これは基本的にはカルト信者と同様の状態にあると言っても良い。しかし坂口の場合は新政府を代表として自分と他者の区別がないような共同幻想を作り上げている。このことによって宮台真司の言うところのミメーシス、感染的模倣が起こる。

そもそもミメーシスとは何か。簡単に言えばそれは人を惹きつけ、そうなりたいと感染、錯覚させる力のことである。錯覚というキーワードが出てきたことで明らかなように、ミメーシスによって共同幻想は引き起こされる。つまり共同体について考える上で、ミメーシスについて考えることは避けて通れない。ミメーシスを引き起こす条件としては、利己的であることと利他的であることが完全に一致することだ。イエス・キリストはこの代表例として良く例示されるが、坂口もまたそのような性質を持った人物であると言える。

このミメーシスの観点から言えば、坂口が単純に精神病を上手く活用してトランスするだけであるならば、共同体を喚起するような力を持たないだろう。しかし坂口は既存の共同体とそこから零れ落ちた余剰について注目する。その零れ落ちた余剰に坂口は分裂した自分を見る。その利己的=利他性な言語を駆使することで、思考の中にある現実を建築し続けることで、彼はトランスした共同体を出現させることに成功する。

1-7. トランス共同体

「僕が考える『現実脱出』とは、現実逃避のことではない。現実脱出とは、見たくない現実を見ずにすませることではない。僕はこの言葉に、『これまで蓋をしたり、存在を体感しているのに現実的ではないと切り捨ててきたことを直視してみる』という意味を込めている。」(坂口, 2014b, p.28)

ここまでの議論についてまとめる。従来の共同体論に欠けていた観点は、複数の現実性をどう扱うのかという観点であり、トランス=変性意識状態における共同幻想創出の可能性についてだ。坂口恭平『現実脱出論』では共同幻想としての現実が「現実さん」として相対化されている。「現実さん」は本来常識としての絶対唯一の現実であるはずだ。しかし彼がそれを相対化できてしまっている時点で、既にそこには複数の現実が存在していることを認めることになる。

これは「現実さん」から見れば統合失調症のような状態である。しかしこのようなトランス共同体を出現させることによってしか、自殺の問題は解決できない。何故なら現実を一つと仮定してしまった場合、そこには同化するか零れ落ちるかしか選択肢がなくなってしまうからだ。つまりここでは共同体に対しても相対化を行うこと。一旦自分と切り離してみることが必要なプロセスとなる。

問題はこのようなトランスは誰にでも習得できるものではないということだ。坂口にとっても一般的には精神病と呼ばれる特殊な状態を使用してトランスしているわけであって、そのような状態がなければ現状のようなリアリティを持って複数の現実を認識することはできないだろう。ただよく考えてみれば、日本だけでも躁鬱病、統合失調症共に数十万人の患者がいる。そのような現実に私たちはフィクションの世界を通して触れることはあっても、それを現実であると考えることはない。

しかし精神病もまた自殺同様に共同体論から除外されてきた問題である。新政府が乱立する世界があっても良いし、ヘンリー・ダーガー『非現実の王国で』が現実であるような世界があっても良い。現実は一つであるという認識から自由になることで、坂口恭平が見せる世界。時にそれはトランス共同体となって我々の現実に感染する。そのような共同体について私たちは想像し、現実を揺らがせ続けなければならない。

第二部:制作共同体

2-1. コレクティブの時代

第一部の話が終わり、ここからは第二部に突入する。

そこで話が深まる前に、一つ重要な告白をしておかなければならない。それは私がアーティストであるという事実だ。アーティストという言葉の射程が広すぎるならば、現代美術家と言い換えても良い。つまり私は常日頃から制作について思考し、作品を通して実践している作家である。であるならば、そもそも何故アーティストである私が、批評を書かなければならなかったのか。その上何故テーマを共同体論に設定しなければならなかったのか。この先に話を進めるためには、そのような疑問に対して答えておく必要があるだろう。そのためには前提として、10年代における日本現代美術の潮流について大まかに共有しておく必要がある。

黒瀬陽平『情報社会の情念』は椹木野衣『現代・日本・美術』における「悪い場所」を引き受けた上で、「運営の思想」と「制作の思想」の交差点に生じる新しいコンテンツについて述べている。「悪い場所」とは「日本現代美術史」における正史が存在しないが故に、亡霊のように「前衛」が形を変えて反復される続ける場所のことだ。その「悪い場所」を乗り越えるために考案された「運営の思想」と「制作の思想」とは言い換えればプラットフォーム側の思想とアーティスト側の思想のことであり、黒瀬は岡本太郎と寺山修司にその創発的な交差の起源を読み取る。そして今日においてその「運営の思想」と「制作の思想」の交差点は「アーティスト・コレクティブ」(以下コレクティブ)という形で継承、実践されることになる。

日本現代美術にとって10年代はコレクティブの時代であった。「カオス*ラウンジ」による「カオス*ラウンジ宣言」が行われたのが2010年。それと前後して「渋家」や「パープルーム」といったコレクティブが設立され、強い影響力を持つようになる。黒瀬によればコレクティブとは「群れる」ことである。「群れる」ことによって「欲望の交換」をする社会実験がコレクティブの意義であり、それは「前衛の再設定」という「悪い場所」を克服するための最新の処方箋として提示されることになる。それについてのステイトメントが以下だ。

「アーティストは、芸術を、社会を、政治を、概念を、感情を、自らの作品と言葉によって『再設定』してよい。いやむしろ、手持ちの表現手段のすべてを総動員して『再設定』しない限り、アーティストという存在に居場所は用意されていない。軍事用語としての『前衛』に準ずるなら、彼ら彼女らは、それぞれの『再設定』によってはじめて、自らの『戦場』を見出すのである」。(筒井, 2018, p.116)

結果として10年代にはコレクティブが乱立する。もちろん日本現代美術史にとってコレクティブの乱立とはそれ程珍しい現象ではなく、少なくとも1940年代から2010年代まで連綿と続くコレクティブの流れが途切れたことはない。例えば戦後に登場した比較的有名なコレクティブのみを挙げてみても以下のようになる。

40年代:「夜の会」

50年代:「実験工房」

60年代:「ハイレッド・センター」

70年代:「スペース・プラン」

80年代:「ダムタイプ」

90年代:「ヒロポンファクトリー」

0年代:「カオス*ラウンジ」

10年代:「パープルーム」

仮に狩野派の集団制作などもコレクティブとみなすならば、その起源を室町〜江戸時代まで遡ることも可能である。また世界に焦点を当てるならば60年代にはアンディ・ウォーホルの「ファクトリー」や「フルクサス」なども存在しており、現在も世界各地にコレクティブは点在している。

2-2. 戯れの生存戦略

「群れる」ことではなく、「戯れる」こと。これが10年代の日本現代美術におけるコレクティブの特徴である。コレクティブとなった群れ同士がさらに「戯れる」ことで、より巨大で異なる「欲望の交換」を行う。戯れの生存戦略。このコレクティブ同士が「戯れる」状態について別の言葉で表現するならば、「超個体」的と言えるかもしれない。各コレクティブが別の個体として振る舞いながら、分業するように違う鉱脈を掘り進むこと。時に情報共有を行いながら、有機的に全体として延命を図ること。このような生態系は「超個体」的と言えるだろう。黒瀬は『情報社会の情念』の中で複雑系理論における「創発」をプラットフォームの力として紹介しているが、「超個体」もまた複雑系理論を元にした創発的共同体を指すことを考えると、この帰結は意外なものではない。

しかしこのような戯れの生存戦略を取ることにより、逆に見失われてしまうものがあるのではないか。またこの流れの中で「前衛の再設定」と「悪い場所」の克服は十分になされてきたと言えるのだろうか。これらの疑問点については、十分に検討の余地が残されている。そこでまず例として10年代を代表するコレクティブである「カオス*ラウンジ」、「パープルーム」、「渋家」を通してその生態系について検討してみたい。その上でこれらの疑問について考察を進めることにする。

まず組織形態について。そのスタート地点としては金がない、つまり「貧困」であることが共通している。その状況に対して例えば「カオス*ラウンジ」はインターネットや落書きを主体とした金のかかりにくい方法、もしくは「限りなくゴミに近いマテリアル」を作品として制作費を抑えることで、「パープルーム」は相模原という家賃や物価が安い場所を活動拠点とすることで、「渋家」はシェアハウスに大人数で住むことで対処してきた。その上で「カオス*ラウンジ」と「渋家」に共通してくるのが法人化である。組織が拡大するにつれて人材や金銭管理をする必要が生じるため、コレクティブが法人化する流れは自然である。結果として「カオス*ラウンジ」からは合同会社カオスラ、「渋家」からは渋都市株式会社がそれぞれ誕生する。さらに「カオス*ラウンジ」と「パープルーム」に共通するのが「教育機関」と「ギャラリー」である。「カオス*ラウンジ」はゲンロンスクールの元に「新芸術校」を開校しており、「ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエ」を持っている。一方の「パープルーム」は元々「パープルーム予備校」として活動しており、「パープルームギャラリー」を保有している。

2-3. ポケモン化/トレーディングカードゲーム化するコレクティブ

次にコレクティブ同士の戯れ方について。コレクティブはイベントや展覧会などを通じてバトルを行う。そのバトルについて理解するためには基本ルールを押さえておく必要がある。コレクティブの観点から捉えた日本現代美術における作家、キュレーター、コレクティブの関係性はポケモンの比喩によって理解することが容易だ。作家とはポケモンのことであり、キュレーターとはポケモンマスターのことであり、コレクティブとはパーティのことだ。ポケモンマスターがポケモンを集めてパーティを組んで戦うように、キュレーターは作家を集めてコレクティブを組んで戦う。もしくはポケモンの例が分かりづらければ、トレーディングカードゲームで喩えても良い。トレーディングカードゲームにおける作家とはカードのことであり、キュレーターとはプレイヤーのことであり、コレクティブとはデッキのことである。先程と同様にプレイヤーがカードを集めてデッキを組んで戦うことは、そのままキュレーターと作家とコレクティブの関係性に当てはまる。

もちろん各コレクティブによってポケモンやカードの集め方には異なる特徴が出てくる。例えばポケモンでは能力値を決めるための要素として3値、つまり種族値、個体値、努力値といった隠し要素が存在している。例えばそれらの数値がなるべく高く、強い技を覚えるポケモンを集めようとしているのが「カオス*ラウンジ」だろう。一方でポケモンのタイプのバラエティやキャラ自体を重視し、初期段階での能力値が低いポケモンを集めようとしているのが「パープルーム」だ。この比喩で言うならば「渋家」は能力値、技、タイプ、キャラなどに関してできるだけランダム性の高いポケモンを集めようとしている。これらのポケモンの特徴をトレーディングカードゲームで言い換えるとするならば、能力値はATK、DEFなどの数値、技は効果、タイプは属性、キャラはそのままに言い換えることができる。このようにポケモンを集めたポケモンマスターがパーティを組んで戦う、もしくはカードを集めたプレイヤーがデッキを組んで戦う。これがコレクティブ同士のバトルにおける基本的なプレイのやり方になっている。

2-4. 作品の消失

「インスタレーションもキュレーションも含めたすべてを『作品である』とすることは、翻って、すべてを「作品でない」とすることと同じ意味になる。現にいま進行している事態は、違う視点から見れば『どこにも作品がない』とも言えるような事態なのだ。このように考えるとき、『作品』という概念が改めて厳しく問い直されることになるだろう。」(原田, 2018, p.43)

このように組織形態が整い、ポケモン化/トレーディングカードゲーム化したコレクティブの行き着く先とは何か。それは作品の消失である。原田裕規は「《作品の時代とは何か?》」という記事の中で、コレクティブ全盛の時代においてはインスタレーション(作品)とキュレーション(非作品)の境界が消失してしまうことを指摘する。その結果として全てが作品化すると同時に、全てが非作品化する。このような事態において彼は、作品という概念自体の問い直しが必要になると主張する。原田は作家としても活動しているが、このことから考えると彼のインスタレーション、キュレーション、批評を意図的に混在させるような振る舞いは、このような作品という概念に対する問い直しの一環であるとも考えられる。

ここまで辿り着いたことで、ようやく先程の疑問点に戻ることができる。戯れの生存戦略を取ることにより逆に見失われてしまうもの。それは作品であった。しかしだからといって、それは即座にコレクティブという共同体やキュレーションという手法を手放す理由にはならない。何故なら歴史を積み上げる上ではコレクティブによる交流やキュレーションによる企画、展示構成などの有効であることに間違いはないからだ。ただし戯れの生存戦略によって組織体系が類型化し、ポケモン化/トレーディングカードゲーム化が進むコレクティブにおいて、「前衛の再設定」の効力はもはや切れ始めているのではないか、他にも違ったやり方があるのではないか、という疑問も同時に湧いてくる。 

ここでさらに遡り、第二部冒頭の疑問に対して答える準備が整った。何故アーティストである私が、批評を書かなければならなかったのか。何故テーマを共同体論に設定しなければならなかったのか。これらに対する答えは共通であり、シンプルである。それは制作と作品について考えるためだ。作品の枠組みが崩壊し、消失してしまうようなコレクティブ全盛の時代において、制作と作品について考えるためにはただ単純に作品制作と展示を繰り返すのみでは足りない。むしろ批評という言語を通して現象を批判的に検討すること、もしくはコレクティブを含む共同体論を通して思考すること。その一見迂回しているように見える回路を通してしか、制作と作品に戻ることはできない。

ここで既に忘れ去られていたかもしれないが、第二部のタイトルは制作共同体であるということを思い起こしてもらいたい。これは制作を共にする共同体という意味ではない。かといって戯れの生存戦略を行うコレクティブという意味でもない。この意味は作品を制作することがそのまま集団形成に直結してしまうような共同体のことだ。言い換えれば「制作の思想」と「運営の思想」が完全に一致するような共同体である。そんな共同体は果たして存在し得るのだろうか。しかしそのようなラディカルな共同体について思考することこそが、本来コレクティブについて考えることではなかったか。しかも実は既にそれを実践してしまっている男がいるのである。それがこれから再び登場する坂口恭平である。

2-5. 独立国家/モバイルハウス/服/家族/料理

「プライベートパブリックという考え方を自分の実践に応用したのが、原発事故後に僕が始めた「新政府」だ。無様な公園ならまだ我慢できるが、無様な政府はまずい。ここは一つ庭師にならって、プライベートパブリックとしての政府を独自につくり、僕が勝手に楽しい政策をつくってみようと試みることにした。」(坂口, 2012, Kindle Locations 800-803)

「モバイルハウスの設計施工の行動記録は、人々がつい忘れてしまっている『家』の根源的な在り方をもう一度考え直そうという試みだ。鳥もビーバーも山岳の民も家には誰もお金を使わない。それが地球上では自然であったときもあるし、動物たちにとっては今もそれは至極当然である。」(坂口, 2013b, p.11)

「服はいくつもの役目を持っている。一つは身を守るシェルターとして。一つは同じ共同体であることを示す記号として。一つは自分のセンスを示すイメージとして。恋人であることを他者に示すためにわざわざペアルックを着る人もいる。このように服はいくつもの役目を持っている。ただ裸を隠しているだけではないのだ。」(坂口, 2015a, p.28)

「『子どもは二人、ほしい』フーは固い意志を持っているように見えた。『子どもを作るのはいやなんだ。おれみたいな子どもが生まれると想像するだけで、頭がおかしくなりそうだよ。きっと大変な人生が待っていると思うから、やめようよ』私は不安を正直に伝えた。フーはあっけにとられたような顔をしている。『大丈夫、大丈夫。恭平が一人で育てるんじゃないんだから。二人でやっていけば何とかなるって。同じ人間が生まれるわけじゃないし、きっとその子たちは恭平を助けてくれると思うよ』」(坂口, 2015c, p.187-188)

「僕が伝えたいと思っていることは外枠の建築ではなく、その中で暮らす人々の姿、もっというと、彼らが集まり料理を一緒に食べている姿なのである〜僕は建築家というわけではなく、こういったすべての空間、時間とはなにか、そういうことを考えたいんだということが、料理をしながら理解することができた。僕は料理の素晴らしさを伝えたい。芸術の、共同体の、哲学の、あらゆる人間が行う行為のすべてのもと、起源が料理なのではないか、ということを伝えたい。」(坂口, 2018c, p.147-148)

独立国家、モバイルハウス、服(編み物)、家族、料理。坂口恭平が注目して作ってきたものは、ジャンルも素材も作り方も完全にバラバラである。これらは一見とりとめがなく、適当であるようにも見える。そしてその認識はあながち間違いではないだろう。しかしこれらにはある一つの共通点がある。それは作った瞬間に共同体を形成してしまう働きがあるということだ。

独立国家は国家であり、作った瞬間に巨大な共同体として成立する。モバイルハウスは家であり、作った瞬間に住むための場所として機能する。服は自分の身を包み込むシェルターであり、編むことで、着ることで共同体である記号としての役目を果たす。家族は人の集まりであり、家族を形成することは共同体の基本形である。料理は生きることの基本であり、作ることで他人と一緒に食べることができる。

制作することがそのまま集団形成に直結してしまうような共同体。このような想像力は坂口が元々建築家としてのバックグラウンドを持つことに由来するだろう。何故なら建築とは住処という共同体を制作することであり、制作と共同体が不可分な分野であるからだ。そしてこのような共同体は先述したコレクティブとも無関係ではない。いや無関係ではないどころか、その新しい在り方を更新する可能性を秘めていると言える。

2-6. 超アマチュアリズム

ここで改めて彼のような制作スタイルを検討してみたい。一言でまとめるならばそれは「超アマチュアリズム」と呼ぶことができる。彼は肩書きだけ見れば作家、建築家、絵描き、踊り手、歌い手、新政府内閣総理大臣となっている。しかしこのような肩書きは今後も増減が予想され、上達や完成や境界といった発想がない彼の制作スタイルはプロフェッショナリズムというよりはアマチュアリズムを継承しているように見える。実際に彼はその並べられた肩書きのどのプロフェッショナルでもない。しかしこのことは現在のコレクティブの在り方に対して強い批評性を持っている。

ポケモン化/トレーディングカードゲーム化するコレクティブを批判的に言い換えるならば、それはコレクティブ内部の人々が駒と化し、パラメーターに縛られるということだ。駒やパラメーターはヒエラルキーを形成し、ヒエラルキーは組織の統率力を増すが、逆に自由度を減らす。一方で坂口は駒化の圧力やパラメーターから自由である。競うことではなく、別のレイヤーでやること。完成という概念を放棄すること。量だけを意識すること。彼は共同体について考えながらも組織から自由であり、ポケモンやトレーディングカードゲームの比喩では捉えられない制作活動をしている。言い換えるならば、彼のこのような在り方はポケモン/カードを集めることでも、ポケモンマスター/プレイヤーになることでも、パーティ/デッキを組むことでもない新しい共同体の可能性について示唆していると言える。

坂口のこのような「超アマチュアリズム」による制作スタイルは、彼の音楽に一番良く表現されている。基本自宅での一発録りであり、生活音や雑音を特に気にせず、歌っている最中に普通に子どもが喋りかけてきたりする。音が外れていたり、楽器の演奏ミスもそのまま収録してある。つまりここにはミスという概念が存在しない。これは邪魔な音を排除して録音するプロフェッショナルな音楽の真逆をいく態度であり、音楽理論などを駆使してノイズを作り出す実験音楽よりもラディカルなノイズを奏でていると言える。「プライベートパブリック」とは私的な親密圏がそのまま公共圏となって現れている様を指す言葉であるが、彼の音楽には「プライベートパブリック」としての坂口家の日常の時間、空間がそのまま音として閉じ込められている。

ところで椹木野衣は「日本・現代・美術」の中で「ジャンルの横断」について厳しく批判している。彼は欧米と日本の美術を巡る状況の差異を指摘し、大文字の「芸術」が成立せず、ジャンルが自立していない場所において「ジャンルの横断」という命がけの飛躍を想定すること自体が間違いであるとする。このような観点に立てば、一見坂口恭平の変幻自在な肩書きは「ジャンルの横断」の罠に絡め取られているようにも見える。しかし実際はそうではない。何故なら「ジャンルの横断」とは異なるジャンル同士を接続し、統合する欲望によって稼働するものだからだ。反面、坂口のそれは分裂し続けるだけで、統合を最初から拒絶している。つまり彼は「ジャンルの横断」をしているわけではなく、ジャンルという縦軸にも、横断という横軸からも無関係な立ち位置にいるということだ。これこそが椹木の言うところの『「強さ」と「弱さ」という不毛な二元論から抜け出す回路』なのかもしれない。

2-7. 制作共同体と超アマチュアリズム

ここで最後に制作共同体と「超アマチュアリズム」の話をまとめてみる。制作共同体とは制作することがそのまま集団形成に直結してしまうような共同体のことであった。一方で「超アマチュアリズム」とは上達や完成や境界を取り払い、ヒエラルキーを無効化する制作スタイルのことである。ここで何故坂口が群れているようで群れておらず、戯れているようで戯れないのかの理由が明らかになる。

坂口にとって「群れ」の「欲望の交換」の対象は人間に限定されない。何故なら彼はモバイルハウスを建てることで、服を編むことで、料理を作ることで既に「欲望の交換」を行っているからだ。人間と「群れる」ことによる組織形態の固定は彼には狭すぎる。また「戯れ」とはつまりヒエラルキーの覇権争いのことであり、それは終わりなき戦争に巻き込まれるだけだ。そうではなく制作すること。「超アマチュアリズム」を貫くこと。このような坂口恭平の在り方が彼が思考する共同体の原点にある。

「制作の思想」と「運営の思想」の両立において、それでも「運営の思想」が優位に働いてきた事実は、ポケモン化/トレーディングカードゲーム化するコレクティブを参照すれば明らかである。制作共同体はそのような流れに対して「制作の思想」の観点からの問いを突きつける。それに対して、コレクティブは応答せねばならないだろう。

第三部:認識共同体(付論)

3-1. 付論

第三部は付論である。既に言いたいことはほとんど言い尽くした。しかし本論考の最後に第一部で提唱したトランス共同体、第二部で提唱した制作共同体についてまとめる内容を書いてみたいと思った。なのでここからは余談である。簡単に言えばトランス共同体は共同体そのものについて思考しており、制作共同体は制作とコレクティブの観点から見た共同体について思考している。言い換えるならば、前者は哲学的な観点から、後者は芸術的な観点からそれぞれ共同体について思考していると言える。

これらの第一部と第二部を書き終えてみて気付いたのは、トランス共同体と制作共同体それぞれに共通する要素があるのではないかということだ。考えてみればどちらの部も坂口恭平をモデルとして共同体論を抽出しているので、これは当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれない。この共通する要素を手がかりにして、もう少しだけ論を進めてみたい。また一番最後に、ここまで書いてきたことで新しく見えてきた本論考の執筆動機について書いて終わろうと思う。

3-2. 認識共同体

「僕は、共同体を認識でやっているんですよ。僕は、共同体を造るつもりはありません。この空間の「なんかあるよね」や「しびれるよね」という“感情の共感”をただやるだけです。それを人は忘れないんですよ。すべては人と人との出会い、つまり “縁”なんです。」(M.トワコ onlinehttp://www.ajec.or.jp/category/interview2/?mypage_id=5218#container

「いまおれたちは、なぜか中から首長を選んで、中から変えようとしているけど、『つねに新しい共同体は共同体の外から生まれる』っていう、その言葉はいまだに呪文のように頭に鳴っている。」(坂口・藤村, 2015, p.28)

坂口恭平はコミュニティを作らない。にも関わらずコミュニケーションを作り出す達人である。いやコミュニティを作らないというのは言い過ぎたかもしれない。新政府や家族や彼を取り囲む人間関係はコミュニティと言えばコミュニティと言える。しかしそれでも彼にとっての共同体とはコミュニティのことではないように思える。何故か。それは偶有性と関わりがあるのではないか。

偶然性の対義語は必然性だが、偶有性の対義語は本質である。この説明が分かりにくければ偶有性=反実仮想と理解しても良い。反実仮想とは事実と反対であることを意味し、偶有性とはつまりたまたまそうなっているという意味だ。ここでたまたまそうなっているのであれば、たまたまそうなっていない可能性を常に想起させる。偶然性の導入を謳い文句にする共同体は多々存在している。しかしそれらの多くは限定された偶然性を取り込んでいるに過ぎないことが多い。しかし坂口の理想とする共同体は偶有性であり、思考の描写の解像度を限りなく上げていった結果たまたま見えてしまった、「現実さん」とは別の現実のことだ。

そしてその原点が『思考都市』の一連のドローイング群である。「Dig-Ital #4」と名付けられたそのドローイングでは、坂口恭平らしき男が部屋の壁際に立っており、その頭部は細やかなディテールで書き込まれた都市として息づいている。これは彼の考える「思考都市」そのものではないか。その他のドローイングでは様々な「思考都市」の断片が描かれ、「Depressiion in ONOMICHI」では遂に男は都市そのものと一体化することになる。だとするならば、坂口にとってのコミュニティとは思考の内部に既に存在しているのであって、外部に求めるものはコミュニケーションのみだ。その外部とのコミュニケーションによって、「思考都市」の内部も変化していく。彼はそのような共同体の在り方について思考している。

そしてこのような共同体は認識共同体と呼ぶことができる。トランス共同体と制作共同体の原点には認識共同体がある。思考の上の認識を通してしか存在し得ない透明な共同体。コミュニティの重さに対する、コミュニケーションの軽さ。何時でも何処でも存在すると同時に、思考しなければ何時でも何処でも存在しない共同体。彼が本当に作り出したいのはそのようなコミュニティなきコミュニケーションの共同体なのである。

3-3. 共同体幸福論

「フーはアオの肩に手をかけた。ゲンはフーに近寄ると、腰の辺りを抱きしめている。私は、そうかそうか、ごめん、そうだよね、と何度も何度も同じような言葉を繰り返して言いながら、あいかわらず涙は止まらないまま、漢字の横に小さく『しあわせ』とルビをふった。」(坂口, 2015c, p.251)

ここまで共同体について書いてきた。しかしタイトルである共同体幸福論については一度も触れてこなかった。最後にそのことに触れて終わろうと思う。共同体について語る人は、何故か不幸に見える。勘違いかもしれないが、それが自分の正直な実感である。というより今が幸福で満足である人は、共同体について思考などしないのかもしれない。共同体について深く考えるためには、洗礼として共同体からの阻害を受ける必要があるからだ。そしてそれは共同体と自殺の項目でも述べたように、命に関わる問題である。

不能な父であることを受け入れること。それは本来であれば慰めの言葉である。しかし実際に不能な父を受け入れることができるのはむしろ強者である。というより父は何だか可哀想である。不能な父を受け入れ、父殺しをされ、それでも共同体について苦悩して考え続ける存在。そんな不能な父や父殺しをされる父すら救いたい。それが共同体幸福論を書くことに決めた動機である。

『家族の哲学』における坂口恭平は不能な父であるどころか、むしろ赤ちゃんか子どもである。受け入れ、耐える存在であるというよりは、むしろ子どもたちや妻の救助がなければ即死するようなか弱い存在である。そんな人間を通して見えてくる共同体の姿は、「現実さん」が見せているような共同体とはまた違った世界を見せてくれるに違いない。その確信の元に自分なりの共同体論を書き上げた。

坂口恭平が分裂した現実に巣を作り始める時、我々もまたその痕跡に自らの巣を見出だすのである。

主要参考文献

吉本隆明(1968)『共同幻想論』河出書房新社.

高橋源一郎(1982)『さようなら、ギャングたち』講談社.

アンダーソン, ベネディクト(1987)『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』リブロポート.

椹木野衣(1998)『日本・現代・美術』新潮社.

マグレガー, ジョン・M.(2000)『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』(小出由紀子)作品社.

川田順造ほか(2010)『レヴィ=ストロース:入門のために 神話の彼方へ』河出書房新社.

阿部学(2011)『ミメーシス概念がしめすキャリア教育の教育方法への示唆―大澤真幸・宮台真司『「正義」について論じます』をたよりに―』, <http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900081912/2011no.237_25_35.pdf>2019年3月29日アクセス.

M.トワコ(2012)『現実を目で見て、手で触れ、己が動け!』, <http://www.ajec.or.jp/category/interview2/?mypage_id=5218#container>2019年3月29日アクセス.

黒瀬陽平(2013)『情報社会の情念:クリエイティブの条件を問う』NHK出版.

坂口恭平・藤村龍至(2015)「書斎と街の往還による建築――実現すべきユートピア設計の可能性」,『ユリイカ1月臨時増刊号』青土社.

ハラリ, ノア. ユヴァル.(2016a)『サピエンス全史(上):文明の構造と人類の幸福』河出書房新社.

———(2016b)『サピエンス全史(下):文明の構造と人類の幸福』河出書房新社.

東浩紀(2017)『ゲンロン0:観光客の哲学』ゲンロン.

厚生労働省(2018)『第2章:平成29年中における自殺の概要』, <https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12200000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu/h29kakutei-03.pdf>2019年3月28日アクセス.

原田裕規(2018)「《作品の時代》とは何か?」,『美術手帖2018. 4・5合併号:アート・コレクティブが時代を拓く』美術出版社.

宇川直宏・黒瀬陽平・SIDE CORE(2018)「コレクティブはどこへ向かうのか?」,『美術手帖2018. 4・5合併号:アート・コレクティブが時代を拓く』美術出版社.

筒井宏樹(2018)「戦後日本のアート・コレクティブ史」,『美術手帖2018. 4・5合併号:アート・コレクティブが時代を拓く』美術出版社.

落合陽一(2018)『デジタルネイチャー:生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS.

坂口恭平(2008a)『TOKYO 0円ハウス 0円生活』大和書房.

———(2008b)『隅田川のエジソン』青山出版社.

———(2012)『独立国家のつくりかた』講談社.

———(2013a)『思考都市』日東書院本社.

———(2013b)『モバイルハウス:三万円で家をつくる』集英社.

———(2013c)『坂口恭平 躁鬱日記』医学書院.

———(2014a)『徘徊タクシー』新潮社.

———(2014b)『現実脱出論』講談社.

———(2015a)『ズームイン、服!』マガジンハウス.

———(2015b)『幸福な絶望』講談社.

———(2015c)『家族の哲学』毎日新聞出版.

———(2016)『現実宿り』河出書房新社.

———(2017a)『しみ』毎日新聞出版.

———(2017b)『けものになること』河出書房新社.

———(2018a)『家の中で迷子』新潮社.

———(2018b)『建設現場』みすず書房.

———(2018c)『cook』晶文社.

文字数:19585

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