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青春のごたまぜ

■はじめに-青春が青い理由

青春が青い理由を知らない僕らはまだ青い。
青年は自分の年齢を確認することで、青春が青い理由を知る。

明晰な思考の結末が、生きるちからを奪っていく。でたらめな空想だけが君のまいにちを美しくする。あらゆる<理念>の成就が長続きしないように、ひとは「概念」の海に溺れて生きる。ひどい思考停止であれ、明晰な思考の結末であれ、時間が僕たちにあたえることは「死ぬか/死んだように生きるか」でしかない。これが人間存在をめぐる理性の限界である。理性の限界のまえで芸術家が果たすべきひとつの使命は、時間のちから[あるいは青春のちから]を作為的/独善的に悪用することで、僕たちの生を輝かせること、 僕たちが<僕たちの神>に遭遇することにほかならない。愛や青春が事後的に顕現するように、あらゆる感情は時間によって流転する。<潔癖的性格>というべき感情をめぐる文化状況がひどく漂白される時代のなかで、僕たちの<性格>もまた漂白されている。いわば[ひとがひとである根源]は<感情と時間>がごたまぜになった<性格>なのであって、ひとびとの愛すべき関係を回復させるためには、「神」ではなく、過ぎ去った<時間と関係>を流入させるしかない。それこそが僕たちが遭遇すべき<僕たちの神[青春が青い理由]>なのだ。芸術家の運命は、みずからの人間性をキャンバスにこすりつけることで、ひとがひとであることを手放すことで、みずからに<神>を流入させる、幸か不幸か、そういった宿命的事実に耐えうる者こそが芸術家なのだ。それゆえここで記したいのは<僕たちの神>の降ろし方である。それは(本当は実在しない僕/彼/彼女の過去/歴史だったとしても)あったはずの強い感情や強烈な思考を伝達させ体験させることだ、そこで僕たちは<僕たちの神>をみる。存在が許される場所は-そこにある。<青春が青い理由>を開示すること、君が君の<性格>を思い出すこと、それが自画像作家の賭けなのだ。

僕たちはどう生きるか、最後にひとつの方向性を記したい。僕たちの青春や人生を構成するものは、ある種の信念というよりはむしろ、時には不毛にも思える時間と関係をめぐる小さな事実の積み重ねに過ぎない。だからこそ、たとえすべてが不毛なのだとしても多くを生きることが試されている。虚構であれ、恋愛であれ、宗教であれ、僕たちはある種の幻想に没入することで、自ら軽い罠に嵌ることで、社会の複雑さ/自由から生じる孤独や不安を縮減してきた。もちろん芸術もまたひとつの幻想に過ぎないのだけれど、忘れてはならない大切なことは、そこには愛すべき時間と関係があったということだ。それゆえ、僕たちは狂おしいときに出会い、狂おしいことをした。今日という日がいつか振り返ったときに、そんな1日であることを願っています。

人は反復によって慰み、回顧によって救済されうる。

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上記の文章は、昨年、2018年3月に開催された新芸術校最終成果展「サードパーティ」で配布した僕の作品群に関する覚え書きである。およそ僕が青春において獲得した哲学的直観のすべてと受け売りが乱雑に記載されている。本論で記述することは、これらの反復と注釈に過ぎない。

人格、幻想、時間意識。人間存在の本質を構成するものは、のっぴきならない人格と幻想と時間意識がごたまぜになったものだと僕は思うのだけれど、それらを個別に直接的に記述することはむずかしい。なので、断片的な批評文を配置することにした。それは遠回りで(ときに混濁した)僕の個人的な思考形態の追走を一緒にやっていただくことでもあるのだけれど、人間存在を語る術を僕はそれしか知らないのだ。

ひとが歴史や思い出を語るとき、それは慰めに過ぎないと指摘する思い出の批判者が現れるけれど、観念的な生を否定することは、概念に溺れて生きるか、自殺するかの残酷な選択を迫ることになる。もっぱら僕の希望的な目論見は、歴史はともあれ思い出の価値を少しばかり高めることにある。個人的な過去の記憶を擁護することは無益だと思われるかもしれないが、思い出がなければ、ひとは死者を埋葬することもなかったし、芸術が誕生することもなかっただろう。喪失と記憶をめぐる問題から生と文化を考えてみたいのだ。それゆえ唐突ではあるけれど、生と文化を考える準備としての何冊かの書評から本論をはじめたい。

■[書評]NEVER KNOWS BEST/現代の批判

1.社会生活に疲れたあなたに

理性は自殺を否定しない。ならば、どうしてひとは理性によって必ずしも自殺をしないのか?それは人格/幻想/時間意識の書き換えが生じるからで、そのゆらぎが死を忘れさせる、それゆえ、せいぜい数十年の人生で適度に変質することでひとは生きることが許されている、それが僕が語りうる理性の限界である。どうしてそんなことを語るのかといえば、資本主義が宗教の代用品になってから、ひとびとの不安や鬱屈を鎮めるちからは減退しつつあり、システムがそれを調達することは考えにくいからだ。ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』は、そんな時代を生きるわれわれに<善く生きる>ための指針を与えてくれる一冊になるだろう。ひとが歴史や古典を学ぶひとつの意義は、世の摂理やパターンを知ることで、運と気質が人生を大きく左右するといえど、社会のなかで「自動人形」にならずに済む手がかりを見つけることにある。もちろん、凡庸さを積み重ねる毎日に愛着を覚える生存作法を否定するわけではないけれど、「生存のために存在を放棄している」と感じるあなたには「群衆心理」を考察する意義はあるはずだ。「迷いも疑いもせぬものは早く埋葬されたほうがいい」と時代の教養人はよく言うけれど、「迷いも疑いもせぬうちにできるだけ多くを生きたほうがいい」と僕はつくづく思うわけで、布施明の歌謡曲よろしく「だました男がだまされる時、はじめて女を知るのか」と、明晰な思考の結末に絶望しないだけの、支離滅裂な愛すべき生のタフネスを思い出してほしい。「書を捨てて、町に出よ」と書を持たない俗物に理性が混ざることの厄介はあるにしても、高潔であるがゆえに早く埋葬されそうなひとびとに、愚が愚なりに持つ偏食的なちからを獲得するのはどうだろうか、と「ペニーレインでバーボン」を飲みながら僕はいいたいのだ。

2.アドルノ/ベンヤミン読者のあなたに

マーティン・ジェイは、圧倒的な学識と魅惑的すぎる記述力で散らばった現代思想を暴力的に繋ぎ合わせ、ひとつの思想からは汲み取ることのできない、思想史だからこそ可能な独特で軽妙で一風変わった<力の場>を形成している。もちろん、それが何をもたらすかはわからないが、愛すべき作家のひとりである。ひとが古典や歴史を学ぶのは、世の摂理やパターンを知ることの処世訓的な意味もあるけれど、本当に大事なのは死んだ人間のやり残した仕事を片付けることにあって、その仕事を見つけることが生きている人間の務めだともいえるし、そういう意味では生きる価値はどこにでもころがっている。それを思い出させてくれるのが、マーティン・ジェイ『力の場』だ。「力の場」はアドルノが用いる「過去と現在のあいだの緊張にみちた相互作用」を暗喩する観念であるが、批評態度それ自体は、ベンヤミン「破壊的性格」「文学史と文芸学」よろしく、思想状況を使い勝手もよいものにして流動化させつつ、言い換えれば、博物館的性格を放棄した思想史によって、現代社会の相貌を示している。もちろん「真の哲学とは平易な言い換えに抵抗する思想なのだ」というアドルノの主張も存分に継承されており、軽妙で溌溂な文体とは裏腹に、読解は容易ではない。それは<芸術のための芸術>が俗物から芸術を守る最後の<理念>であるように、<力の場>は「肉の値段」を量るみたいに、誰もが彼が<哲学>を簡単に値踏みできない磁場を放っている。そういった難解さは特定のひとびとを解放するというよりはむしろ束縛するのであって、支離滅裂な湧き上がる感情をひとは理性で抑えることはできない。僕たちはそんな彼を愛さずにはいられないのではないだろうか。

3.21世紀を生きるあなたに

水平性は悪であり、垂直性こそが善である。10代の終わりにそんな霊感を与えたのがキルケゴール「現代の批判」だった。教養がもたらすひとつの(一時的)弊害があるとすれば、社会や大衆が嫌になることで、それはキルケゴールにおいても否定できない。なかでも時代を診断する「沖合の薄い氷上にある宝石をめぐる冒険」というべき寓話は見事で、いまなお説得力を持っている。宝石を取りに行く勇者はもはやおらず、氷が割れるギリギリのところでターンする名人芸に-分別顔した観衆が喝采し、互いの賢明さを称賛しあう。そんな話である。換言すれば、過剰な反省のもたらす無性格な妬みとメディアの変容によって出現した抽象的な公衆の幻想的なちからが、個人の存在を損なわせた。それを時代の病「水平化」と批判しているのである。キルケゴールが実存主義の元祖といわれるのは、そういった時代精神のなかで、もっぱら合理的体系によって主観的直接性を排除するヘーゲルに対抗して、主観的直接性および飛躍(垂直性)を擁護したからだ。さて、20世紀の実存主義を大雑把にみれば、必ず訪れる死の未来を覚悟することで現在の生を漲らせるハイデガーと未規定な過去と現在の緊張関係に救済を追い求めたベンヤミンがその継承といえる。20世紀は資本主義の宗教化と心理学の進展を背景に、両者には時間意識が通底している。もし現代における「水平性」がなにかといえば、時間意識ではないかと僕は思うのだ。「人生は短い」と口走ることが幸か不幸かわからないけれど、21世紀を生きるわれわれにとって、ハイデガーはもちろんベンヤミンもまた巨大な壁となる日が近いのではないだろうか。それゆえ、唐突ではあるけれど、実存主義はキルケゴールよりむかし、脱時間性による神の流入、すなわち「離脱」を説いたエックハルトに遡るのが、21世紀を生きるわれわれにとって突破口になりうるのではないだろうかと提言したい。

4.過去も未来も忘れたあなたに

神を愛するのではなく、神に私を愛させるのだ。荒唐無稽にも思われる話だが、孤独死や疎外や倦怠を身近に感じる現代人にとって、通常の社会通念のなかでは遭遇できない(実存主義とは別の)生の指針が必要なときもあるだろう。

田島照久編訳『エックハルト説教集』収録の論述「離脱について」は、神と人間の転倒した関係、すなわち「自由とはなにか」が記されている。『エックハルト説教集』収録の説教の数々は、キリスト教に詳しくない読者には難解に思われる点もあるが、論述「離脱について」は宗教的背景を抜きにしても明快で親切な記述がなされている。(たとえば、時間と感情に縛られるのが実存的人間だとすれば)愛や謙虚や哀れみよりも「離脱」に生きることが最高の徳なのだとエックハルトは説く。手短に言えば、離脱とは人間を捨てて神になることだ。人間として生きる苦しみよりも、神として生きる苦しみを覚えよ。離脱は不動の精神に至る自己放棄なのだ。それが大筋の主張である。仮に実存主義が死を自覚することで直線的な時間を苛烈に生きることを善しとするならば、離脱は(死を自覚しつつも)時間意識を遠くに飛ばして穏やかに内的に生きることを推奨している。もちろん、実存主義が悲惨な戦争時代を生きるひとびとの糧と指針になったことは否定しない。水平的で没個性的な情報化社会を生きるわれわれにとって、もはや(意識的な)理性だけでは耐えがたい現実がある。実存的であればあるほど空回りするのだ。別の見方をすれば、意志の神話が老朽化/崩壊しつつあるなかで、過去の記憶の根源に潜水する方法もあるといえど、(水平的な時間を多く生きることになる)現代-未来人にとって過去をめぐる冒険は海底の深さを約束しないように思うのだ。ひとびとの記憶が外部化される監視社会が実現しつつあるなかで、いま/ここを内的に生きる記憶のちからが弱まっている。そのうち過去も未来も捨てた人間も現れるだろう。それゆえ、水平性を極める(がゆえに垂直性を泰然とする)「離脱」をありうる現代的な生の指針のひとつに温故知新するのはどうだろうかと僕は思うのだ。もうひと言だけいえば、実存主義に疲れたと感じるあなたには、岩波文庫『サキャ格言集』も併読することで、きっとなにか新鮮な含蓄を得られるだろうと思うのだ。

5.文化の功罪を考えたいあなたに

長引く経済不況と少子高齢化が深刻化した平成末期を生きるひとびとにとって、正体不明の厭世観とも虚無主義ともいうべき閉塞感が漂っている。結婚式よりも葬式に出席することの増えた昨今の多死社会の現実は「今日よりひどい明日が続く」不気味な予感を払拭しきれない。なぜこうした社会状況があるのか。文明の停滞と内側への引きこもり、過度な社交的欲求が厭世気分に転化することを1890年刊行『模倣の法則』の結びにガブリエル・タルドは予測していたが、半世紀以上まえにも到来する時代状況を説明しようとした知識人たちがいた。20世紀を代表する物理学者アインシュタインと精神分析学者フロイトである。A・アインシュタイン/S・フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』は、ひとびとの攻撃本能を分析すると同時に、文化がどんな状況をもたらすのかを示唆する往復書簡が収められた一冊である。手短に言えば、文化が発展するにつれ、知性が強まり、人間が持つ攻撃性は内に向かう。また、性的退却も進み、人類が消滅する危険性がある。良くも悪くも文化は人間を高めると同時に人間を悩ませてきた。とはいえ、文化の発展によって戦争を拒絶する平和主義的な精神も育みつつあるとフロイトは指摘しているのだ。現代の状況を鑑みるに鬱屈を抱えるひとは(可視化され)多くなったといえど、SNS上などで他者を攻撃する人は少なくない。人間の攻撃性はなくならないと言われるが、戦争以外の発散方法を模索する先にある情報社会の現状は、人間の変わらなさを思わせる。表現規制問題など、他者にも清廉潔癖であることを要求する潔癖的性格は(良くも悪くも)知性の歪みのように思われる。僕が思うに、『ゴッドファーザー』であれ『ファイトクラブ』であれ、種的関係であれ、類的関係であれ、一歩間違えば集団は激化すると言えど、血縁集団によらない類的関係のほうが複数所属できるぶん、情動の発散には向いているように思うのだ。浮気は文化だと言わないまでも。

【書籍情報】
1.ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)
2.マーティン・ジェイ『力の場 思想史と文化批判のあいだ』(法政大学出版局)
3.キルケゴール『死にいたる病 現代の批判』(中公クラシックス)
4.田島照久編訳『エックハルト説教集』(岩波文庫)
5.A・アインシュタイン/S・フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫)

■空が空に浮遊するーWhy don’t you love?

青春は誰かが死ぬことで完成する。園氏温監督『気球クラブ、その後』(2006年公開)は、青春がなんであるかを開示した青春群像劇である。トラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』(2010年公開)も同様に、青春を生きた若者の群像が強く描かれている。若者が死ぬことがどちらの作品にも共通している。

青春は誰かが死ぬことで完成する。僕が青春に煩った命題でもあった。園氏温監督『気球クラブ、その後』は、かつての「気球クラブ うわの空」のリーダー・村上が交通事故死をすることで物語がはじまる。本作の命脈は冒頭、5年前に解散した気球クラブの仲間が病院に駆けつけ村上の死を見届けたあと、「おれがさ、あの、言いたいのはさ、あいつはすごい生きたってことなんだよ!」と病院に向かう途中の仲間に電話で伝える場面に集約されている。それ以上の追悼の言葉はないだろう。村上は気球が飛ぶ空ではなく交通事故で死んだのである。そこから先は、気球には全く興味がなかったものの1ヵ月だけ気球クラブに顔を出していたジロウの視点を中心に物語はまわる。村上をしのぶ会が半分、回想場面が半分である。率直にいえば、『ノルウェイの森』と比べると駄作かもしれない予感がとめどなく漂っている。けれども、青春はダサさがほとんどなのである。いわば青春は駄作なのである。美化されつつも生乾きの記憶の回想が胸に沁みるのは、ひとが生きた感覚が曖昧な温度として伝達されるからであろう。ジロウの回想場面のなかで村上が「夢のない人生なんてクソだ!そのクソにへばりついているやつはもっとクソだ!生きているかぎり、空高く飛び、夢を持て!それが生きている証拠だ!」とビール缶片手に気球のなかで大声をあげて叫ぶ姿はひたすら懐かしさが漂う。そんな村上の言葉を思い出しながらも「手遅れ」になったと知るジロウは「社会人になりすまして」生きることを決意し、物語は終わる。

書くべきことは別にあったような気がする。青春を語るのがむずかしいのは、青春の残滓が細部に散らばるのを眺めることでしか把握できないことにあるのだろう。愛が明確な対象を持つとすれば、青春は明確な対象を持ちえないのである。主題歌「翳りゆく部屋」のなかで「運命は 愛を遠ざけたの 輝きは戻らない わたしが いま 死んでも」と荒井由実が歌うのは、愛も青春も喪失することで事後的に顕現することを思わせる。愛ははじまることがあろうとも、青春には終わりしかないのである。そんなことを青春の終わりに思うのであった。

■暑中見舞い

またひとつ季節が死んだ。と友人からの知らせが届き、すっかり春になってしまったことをぼんやりと後悔したのだけれど、たとえばもう一度だけ季節をやり直せるとして、僕がなにをすべきだったのか、そういう振り返ってみてもわからないことが僕たちの人生の一部を構成しているのかもしれない。ずいぶん遅くなってしまったけれど、暑中見舞いの返事をしたためようと思う。多少の加筆修正はあるといえども。

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どんなに熱いお湯をバスタブに注いだところで、翌朝には冷たくなった水があるだけだ。

「世界に浮かんでいるだけのクズになってしまった。バスタブの栓を引っこ抜くみたいにすべてが綺麗に洗い流されたらとおもう」という君の言葉を思い出したのは、コンビニ帰りの深夜に「誰かおれを殺してくれよ」と酔っぱらったサラリーマンが橋のうえで叫んでいるのをみたときだった。長いあいだ返事が書けなかったのも、正直に告白すれば、君の生活世界の表現に見合うだけの言葉を僕が持っていなかったからで、本当に申し訳なくおもう。

季節は春になった。「またひとつ季節が死んだ」と君なら言うのだろうか。新しい夏が来るまえに僕はこの文章を書いている。最近、何年か前の出来事が、数か月前だったか、数十年前だったことのように変な縮尺で再生されるのだけれど、君と僕が日光を観光した帰りに「明治の館」という西洋料理店で、僕が「ポークソテー」、君が「ビーフハンバーグステーキ」を食べたことを覚えているだろうか。ピンク色の電話ボックスが墓のように建っていたあの場所である。帰り際に煙草をふかそうと灰皿を探していたときに君が見つけた、電話ボックスの抜け殻である。あれはなんだったのか。世界の終わりと交信する最後の場所だと君は言っていた気がするけれど、少女革命ウテナの最終話みたいに(そのことを)僕はすっかり忘れてしまっている。ひとは脆弱な生き物なのだ。僕は「墓」だと思ったが、君は「世界の終わりと交信する最後の場所」だと言っていた。「ポークソテー」と「ビーフハンバーグステーキ」の関係に似た(なにか)大事な差異をあのとき僕は言おうとしたのだけれど、それを思い出すことができない。思い出とは永遠の差異なのだ。サウナの後で浸かる冷水もあれば、カップ麺に注ぐ熱湯もある。何を書いても言葉遊びになってしまう。もはや僕は世界に浮かぶことさえも許されないクズになってしまったのかもしれない。君の健康と幸運を排水口から僕は祈る。

■世界の凝固-佐々木敦の場合

「画家」は世界を数えない。『群像』(2019年4月号)の連載評論で佐々木敦は”「画家」は世界を数えない”と結んでいる。この「画家」の世界に対する態度は、トーマス・ベルンハルトの長編小説『凍』に登場する画家の言説の引用から述べられるのだが、小説に登場する画家の言説は、たしかに世界の数を問題にしていないが、少なくとも(潜在的に)二元論的な世界を前提としている。思考の大いなる連鎖を語る画家の言説は、(穿った見方をすれば)単なる社交辞令のようにもみえる。この微妙な齟齬はおそらく佐々木の作為的な試みだと思われる。

全体の論旨としては、世界の複数性を語る場合に、世界は互いに干渉し合うのかどうかをめぐって脱中心的な漠然とした説明が展開されている(と同時に世界の終極をめぐる解説が平行して展開されている)。手短に言えば、人格性を抜きにした(生と魂を直接記述しない)佐々木の記述が、(ある種類の)読者には期待外れの幻滅を引き起こし、結末的には判然としないまま記述世界が凝固する。そのあまりに非情操的な記述の連続の最後に「これが世界の描写だ。これが世界の存在の描写だ。これが世界という存在の描写だ。「画家」は世界を数えない。」と(唐突に)情操的に〆られることで、もはや一枚の写真を眺めていたかのように記述された世界は固まるのである。

これまで何度か佐々木の連載評論を読むことに途中で挫折してきたが、それは単純に読み方の問題であった。文章をコピー機で印刷して机の上に水平的に並べて覗き込むようにして読むと恐ろしく読みやすくなることを(発見したことを)ここに告白しておきしたい。それは僕が個人的に苦手とする体系的な博覧強記の批評家の文章を読むときに採用しているやり方なのだが、ともあれ-記述世界を凝固させる-技芸を連載評論「全体論と有限」に目撃したのであった。それは佐々木が紹介するドン・デリーロの小説『ポイント・オメガ』に登場する絶滅の法則「オメガ・ポイント」に佐々木自身が-記述世界の只中で-到達したのかもしれない(と無理筋に空想することでもあった)。「批評は(自己)表現ではない」と語る佐々木の批評の自己完結性は、知らない場所の地図が書き込まれた小石を真冬の川底から拾い上げるような機微を必要としているのかもしれない。もちろん、拾った小石には[極東に進め]だとか[石をもとの場所に戻せ]だとかの要求は一切書かれていない。読者をどういう感情に巻き込みたいのか何も意図されていないのである。それでも僅かな直感を振り絞って言うことが許されるならば、「此の世界の存在を疑わない批評家」は-世界が複数あろうとなかろうと-世界の終極を(凍えながら)待っているように思えたのだった。世界に対する小さな自殺は(それゆえ)高潔でもあるが、最後まで自己完結性を放棄しなかったがゆえに何もないのであった。(無の境地にありながら)なぜ佐々木は批評を書くのか。無の先に獲得した使命はなんなのか。それは魔境だったのか。馬鹿と気違いは気分でしかものをみないというが、僕の読後の気分はそんな感じであった。

■虚無主義の蔓延する時代に-「喪失と記憶の問題」覚え書き

人類文明の発展をもたらしたものは【持続的な記憶】であった。持続的な記憶能力の獲得なしに、ひとびとは死んだ仲間を埋葬することもなかったし、芸術文化ならびに資本主義-経済体制の土壌は存在しえなかった。今日における人類と記憶をめぐる問題は、もっぱら水平的な情報の洪水と精神力の衰退にある。人間を人間足らしめる本懐は(内的な)記憶の持続に委ねられるのだけど、その記憶能力の外的混乱が文明社会(の記憶が持つ精神)を衰微させている。現代社会に蔓延する厭世観(ならびに虚無主義)と潔癖的性格はその象徴でもある。しかしながら、厭世観を否定することは数世紀にわたる哲学者たちの営為を無駄にすることになるだろう。人間社会は長い間、宗教的あるいは社会的偏見に侵されてきた。哲学者たちは抽象的-国家ならびに組織体が要求する(無慈悲な)自己放棄を批判してきたのである。20世紀を振り返れば、文明社会は経済合理性の名のもとに罪無きひとびとを殺してきた。同じ合理性のもとになぜひとは自殺しないのかを説いたのが、哲学者たちの人間社会に対する問いではなかっただろうか。それゆえ、虚無主義と厭世観は文明社会が構造的に多量に排出せざるを得なかった廃残者たちの尊厳を保護するための発明でもあった。21世紀の初頭においては、虚無主義が滅ぼしてきた(生存のための)種的幻想を(別の持続可能な)類的幻影に置き換える段階にあるように思われる。革命とはもっぱら野蛮状態に還ることを意味するが、情報革命の時代において記憶と人類の関係にとってなにがありうるかを考えたい。

■ノスタルジア、救済と慰め

a.勃起メランコリー

男は概念であり、女は自然である。ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』は、男と女の関係を容赦なく徹底的に描いた傑作である。本作の「エピローグ」を除けば、嫌になるほど、概念的な男と自然的な女の関係が執拗に反復されている。女は男を不条理に晒す存在であり、男は女をどうしても殺すことができない。布施明の歌謡曲よろしく、殺した男が殺されるときはじめて女を知るのか、というべき執念深い命題が提示されている。

冒頭、スローモーションの夫婦のSEXシーンから悲痛がはじまる。SEXに夢中になった夫婦が、息子から目を離しているうちに息子が窓から転落し、息子は死んでしまうのである。息子の死に意味はない。意味があるとすれば、夫婦に愛は無いということである。夫婦に愛がないゆえに、男と女の関係がより強調されている。あるのは支配の欲望だけだ。

息子を失った苦悩から女は精神を衰弱するのだが、男は自分のちからで女を回復させようとする。馬鹿げたはなしだ。男は試行錯誤の末、女が畏怖する森に行けば女が回復するのではないかと思い、女を連れて森に入る。物語を手短に言えば、男の試みた概念的なカウンセリングは失敗に終わり、「あなたはわたしを捨てるのね」と理性を失った女に殺されかける。身の危険を感じた男が女を殺し、「エピローグ」となる。

男の不自由さ、女の支離滅裂を、露悪的に尖鋭に容赦なく徹底して概念的に描いた本作であるが、「エピローグ」においては極めて詩的になる。森から出る途中の傷ついた男に向かって、無数の裸の女が走ってくるのだ。それは超言語的だと言っていい。それゆえ、タルコフスキーに献辞が述べられる「エピローグ」は映像的にそのまま受け取るしかない。仮に言語的説明を試みれば、①男は女に敵わない、②男は女に悩まされ続ける、③男は超自然的に女あるいは<世界>を知る、のどれか凡てが解釈の選択肢になるだろう。だが、それは僕が「男だから」でもある解釈に過ぎない。結局のところ、女がこの映画をどう読むのかわからないのだ。単なる「男の女嫌い」として受け取るのだろうか。

思えば学生時代、付き合っていた彼女とふたりで宮崎駿監督『風立ちぬ』をみて、彼女が宮崎駿の演出に怒っていたが、その理由を当時の僕はよく理解することができなかった。情けない話である。僕はよく概念的/水平的であることの悪口ばかりを書いてきたが、水平性にも現代的な価値はある。それは男根信仰の破壊である。一例をあげれば、ブータンで修行していた友人から聞いたはなしではあるが、ブータンではかつて「賢者がファルスを熱い鉄の棒に変え、女悪魔を退治した」という伝説があるらしい。それゆえ、ブータンの伝統的な家庭では男根の彫像が大切にされ、家の壁にファルスが描かれていたという。しかしながら、近年の急速な近代化がもたらしたマスメディアの情報によって、ブータン民族は男根信仰を恥だと思いはじめたらしく、ファルス像は家庭から姿を消しつつあるという。ブータンにおける文化現象の価値判断は保留するにしても、ファルス中心主義の弊害があるとすれば、過剰な競争原理と結びついたとき、男も女も殺しすぎるということだろう。それもまた男根的虚妄なのかもしれないが、『アンチクライスト』には勃起し続ける表現と病がそそり起っている。容赦ない水平性の徹底が垂直性を開示するのだ。

本筋に戻れば、「エピローグ」でわれわれが知らされるのは、男も女も100%の概念でもなければ、100%の自然でもないということである。「女は悪魔なのよ」と言って悪魔的に振舞う女は概念に溺れる存在でもあったし、女を殺す男の衝動は自然的だった。「エピローグ」における超自然的な森の存在が男と女を動物に過ぎない存在であると暴くのである。男は男に溺れ、女は女に夢中になる。手短に言えば、『アンチクライスト』とは、徹底的に概念的であることで理性の限界に挑み、「エピローグ」において理性の限界を突破した雄弁な怪作なのである。

そんなわけで、タルコフスキーに捧げた「エピローグ」を読み解くためには、タルコフスキーを参照する必要もあるだろう。それゆえ、ここではタルコフスキー『ノスタルジア』(1983年制作)を参照したい。

b.ノスタルジア、射精

なぜ『ノスタルジア』なのか。息子を失い苦悩に落ちる女の病こそが「ノスタルジア」だからである。フロイト精神医学の発展によって「ノスタルジア」は「メランコリー」の一種として処理されることになるが、精神分析によってそれを完全に癒すことはできない。これはフロイト精神分析の負の側面なのかもしれない。喪に必要なのは、分析ではなく受容だからだ。終末なき終末幻想に分析的情熱は水と油の関係にみえる。なにより分析は<世界>に対する感受性を萎えさせる。勃起し続ける社会は早死にするほかないが、勃起が不可能な社会も絶滅に向かうほかない。ベンヤミンはソクラテスを「知の勃起」だと揶揄したが、孕むことなしに受胎する純潔理念<ノスタルジア>は、射精的な哲学では破壊されるだけだろう。それは僕の記述の限界でもある。愛なき射精と勃起はひとを嫌悪させる。それは『アンチクライスト』の一般的反応でもあったのかもしれない。性器を切除する悲痛によってしか、男女は<世界>と関連できなかったのだから。悲痛によって<世界>を獲得する形式は、ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』においても同様に顕著であった。

言い換えれば、悲痛の形式によってしか「ノスタルジア」を治癒できない困難は、現代社会に大きな影を落としている。「ノスタルジア」の鎮魂は、国民主義か実存的去勢、生殖の放棄かの選択に迫られている。仮に優生学的な種の保存を科学的に優先させれば、文化、文明、医学、公衆衛生の進展を否定しかねない皮肉な顛末が予想できる。種の原理の古典的欲望は健康と健全に夢をみたが、それは相互扶助的な共同体幻想/類的な社会の原理を破壊することを代償にするものであった。勝利と祝祭を無垢に成就できない時代の病は、自殺的な健全幻想に回帰するほかないのだろうか。

c.詩人が狂人に出会うとき

前置きは長くなったが、タルコフスキー監督『ノスタルジア』のはなしをしたい。あらゆる理念が概念に失墜する宿命を背負うなかで、<芸術のための芸術>を理念として最後まで描き切った『ノスタルジア』は、天才の息吹をわれわれに感じさせる世紀の傑作であった。天才とはなんであるか。<世界>を彼が芸術的直観によって開示する、純粋さと偉大さを持った才能の奇跡なのだろう。偉大な作品は面白い人間がつくる、<世界>を鷲掴みにして決して手放さない勇気、そんな才能の残酷を彼らは容赦なく誇示するのである。「催眠効果」が高いと言われるタルコフスキーであるが、中盤に訪れる数秒間の弛緩を除いて、高次の次元で徹底的に醒めている。

物語のあらすじを手短にいえば、望郷の念を抱えたロシアの詩人の男が放浪中のイタリアで郷愁を抱える狂人「ドメニコ」に出会う。そこで詩人は狂人の<魂>に感染する。狂人に出会うまで詩人は翻訳者の女と旅をするのだが、その愛は実らない。それゆえ彼女は詩人のもとを去ってゆく。観念世界に生きる男の宿命でもある。終末を予期する狂人は詩人に「蝋燭に火をつけ、水を渡れ。火を消すことなく温泉の広場の端から端まで渡れたら、人類は救済される」という世界救済の儀式を託し、ローマで3日間の演説を行い、焼身自殺を遂げる。ローマに旅立った翻訳者の女から電話で狂人の様子を知らされた詩人もまた、火と水の儀式に挑み、それが達成したところで、持病の心臓発作に倒れる。悲痛の形式が、理念的でありながら徹底的に貫かれている。そこでわれわれは<世界>の不条理を知るのだ。

『ノスタルジア』の見どころをひとつあげれば、崖っぷちから下を走る高速道路を眺める子供が「これが世界の終わり?」と父である狂人に尋ねる回想場面にある。森のなかを駆け抜ける自動車のスピードが現代社会の相貌を鮮やかに不気味に映し出していた。それは無垢であることの卓越でもあった。ただ決着をつけずにいる者が、理想と現実を生きることができる。

詩人が狂人に出会うとき、彼は何を獲得したのだろう。詩人は神に似た狂人に魂を売ったのか。狂人は身の丈に合った観念のなかで自殺するほかなかったのか。アルベール・カミュよろしく、哲学は自殺の問題を解決していない。絶対に向かう精神を許すのが理性だけならば、思考の結末は自殺しかありえない。合理的精神を基盤にした分析は破滅的にならざるを得ないのだ。理性はその限界で崩壊を約束されている。

狂人の演説は「語りかけるのはだれか。私の頭脳と肉体は同時には生きられない。だから一個の人格になりえない。私は同時に無限を感じることができる。」からはじまる。苦悩の告白である。

ニーチェの影響が伺える興味深い主張も続く。以下、抜粋すれば、「我々の時代の不幸は偉大な人間になれないことだ。我々の心は影に覆われている。」「無意味と思えることにも耳を傾けよう。(中略)”ピラミッドを作ろうではないか”。重要なのは完成ではない、願いを持続させることなのだ!」「もし君たちが進歩を望むなら、一つに混じりあうことだ。健全な人も病める人も手を取り合うのだ。健全な人よ、あなたの健全が何になる」「私はどこに存在するだろうか。現実にも空想にも存在しない。」「強者が滅びて弱者が生き延びるだろう。混沌とした世界を統一するのだ。」と観念的理想が声高らかに主張される。

狂人の演説の最後は「母よ、母よ、風は軽いものだ。私がほほ笑めば、風がそっと動く」で終わり、断末魔のような「歓喜の歌」が流れる炎のなかで狂人はうめき声をあげ絶命する。殺したのはだれなのか。

狂人はまた演説中に「ニーチェ」の名を口にするが、日本語字幕においては固有名が落とされている。ニーチェは芸術家ではなく、科学者だというのか。思想史家マーティン・ジェイによれば、フロイトは科学を渇望しながらも精神の習性が他律的にあり続けることによってフロイト主義にならざるを得なかったという。フロイト精神分析は、個人的救済を捨てきれず、超主体的であることを躊躇った人文科学的習性によって(あるいは狂人が母殺しをできなかったがゆえに)、「ノスタルジア」を「メランコリー」に変えてしまったのである。同様に『アンチクライスト』の「エピローグ」でわれわれが見た無数の裸の女たちは、顔なき母の亡霊だったのではないか。あるいは、母ではなく、なぜ女を愛せないのかと。いずれにせよ、母を殺そうと殺さまいとこの世は地獄の楽園である。生存する母の喪失に苦悩する狂人にも、故郷を希求する詩人にも救済はないといえど、狂人を信じる詩人には救済の細い筋がみえなくもない。それは誤りだろうか。汝、直観を愛せ。それが『ノスタルジア』における静かで絶望的な決着であったのではないか。

d.芸術の原理、慰め

『アンチクライスト』も『ノスタルジア』も<悲痛の形式>に貫かれた芸術作品であった。別の見方をすれば、前者は誇張に、後者は純化に、その優れた表現に富んでいた。動物学者デズモンド・モリスによれば、誇張と純化は、人類の(視覚)芸術の先史時代まで遡る歴史から発見できるアートの法則でもある。非日常を生み出す秘訣だとも彼は言っていた。それでも、詩人が女に言うように、すべての芸術は不可能なのだ。良くも悪くも人類の原動力は偏狭と狂信だった。「大切なのは幸福になることではないよ」とは『ノスタルジア』冒頭での「女はなぜ祈るのか」に対する教会の監視人の台詞であった。

僕の友人の木工職人の言説を要約すれば、「他者に幸福を与えることはできない、ただ自分がキラキラと輝くこと、それだけが自分の周りの限定的な他者を幸福にできる」と彼はよく言っていたが、(自殺を越えて)生きる術は<救済>を放棄することにあるのかもしれない。それは「真理とは、AがAであることが、AがAでないということだ」と仏教のお坊さんに教えられた説法によく似ている。非合理そのものである。

『アンチクライスト』の「エピローグ」とは、救済を諦めた男に訪れる慰めではなかっただろうか。愛も芸術も不可能だ。裏返せば、愛とは救済を放棄した慰めにも似ている。射精とは慰めでもある。ノスタルジアに苦悩する狂人を信じた詩人が救済の鍵を握るならば、僕が語りうるのは慰めに過ぎないのだから。

■喪失と記憶の問題

生きるとは衰えることだと知りはじめたとき、ひとは時間に嫌悪する。なぜなら、ひとは永遠を生きられず、永遠でないがゆえに「歴史」や「思い出」を記憶するからだ。もちろん、「歴史」はひとつの<種>がための幻想に過ぎないし、「思い出」もまた個人が関係するひとびとや出来事との小さな<類>がための幻影に過ぎない。とはいえ、哲学や思想なしに生きることが退屈であるように、「歴史」や「思い出」といった記憶なしに人生を生き抜くことはあまりに脆いだろう。ひとは複雑な感情を記憶のなかで覚える。けれど、[多すぎても-少なすぎても][重すぎても-軽すぎても]機能不全になる記憶をめぐって、ひとがどんなふうに記憶と結ばれるかを考えることは現代における重要な課題のひとつに思える。

a.「思い出」と生活

科学技術の点から記憶を考えれば、情報メディアの発達によってひとびとは様々な記録を手軽に保存・再生・共有できるようになった。とはいえ、20世紀にアドルノが都市におけるサラリーマンの暮らしを「選択肢も記憶も欠如した生活環境」と言ったように、21世紀も相も変わらずにひとびとの記憶と生活の関係は変わっていないようにみえる。というのも先日、大学の同窓会があって友人の携帯電話の思い出写真を眺めていた時に、大学から社会人の現在に至るまでの記憶の断片が1台のデバイスに収められていることに静かに驚愕したからでもある。それは僕が学生時代から記録係なるものを勝手にやっていた性格もあって、SDカードを数ヵ月に1回交換するサイクルの不自然さに気づかなかったためでもある。もちろん、携帯電話に保存される写真だけが生活記録を構成するすべてではないにしても、写真を撮るだけの時間と関係の質量が、記憶と生活をめぐるひとつの指標になることを思わずにはいられなかったのである。「思い出」というべき<類>の記憶は、大人になればなるほど蓄積しにくいというのは社会生活的な事実のひとつだとして、大人になったわれわれはいかに<類>の記憶を保存し共有するか、また新しい「思い出」をいかに獲得するか、大雑把に言えば、そんなことをかれこれ検討するのだった。それは20歳を過ぎたあたりから大脳皮質に記憶が蓄積されにくくなるがゆえに、年齢を重ねるにつれ、時間の流れが早く感じられるという脳科学的な事実とは別に考える必要があるだろう。

b.「歴史」と多様性

保守傾向の高まりと排外主義が吹き荒れる昨今、多様性をめぐる言説が飛び交う時代になってきた。なぜ多様性が必要なのか、手短に言えば、歴史上の多くの文明がそうであったように、あるいは動植物の生態の繁栄と衰退がそうであるように、多くの種は、多様性が破壊されることで再生産力を失い、荒廃と没落を余儀なくされるからである。そんなことを100年前にガブリエル・タルドは指摘していたが、「歴史」意識の後退が、あるいは彷徨える<種>の記憶が、ひとびとの不安や鬱屈に結びついた排外主義としてあらわれはじめたようにみえる。もっぱら現代は、破滅主義的な傾向にある作家やアーティストが多様性を訴える奇妙な光景をみているともいえるし、ただ状況が表層を変えて-悲しくも懐かしくもない現在を破壊するだけ-の反復が起きているだけだとも言えなくもない。少なくとも「歴史」というべき<種>の記憶が、ひとびとの不安や鬱屈を鎮めるだけの関係を結べていないのである。必要なのは、新しい「歴史」を描き出すというよりはむしろ、複数の「歴史」観をひとつに和解させる誘惑を振り切って、それらの幻影的な作用を情動的な発作を回避しつつ方向付けることだろう。わかりやすくいえば、批評家であれば、自分の言説の機能と方向性をわきまえて、現代的なフラットな磁力に抵抗する必要があるということである。もちろん、現代的なフラットな磁力に対抗するためにこそ、新しい「歴史」の発明が必要なのかもしれないが。

c.ノスタルジーの変質

「思い出」であれ、「歴史」であれ、ひとびとを誘惑する記憶は、しばしば苦痛を伴う空間的な望郷であったり、今は亡き古き良き時代への時間的な郷愁であったりする。そうした情念と苦悩が強まり長引くと「ノスタルジア」というべき精神的な病に侵されることになる。「ノスタルジア」は17世紀末にスイスの医者、ヨハネス・ホーファーによって精神医学の概念として発見されるが、19世紀末には精神分析の発達によって精神医学の領域から姿を消すことになる。それゆえ、現代においてノスタルジーは評判の悪い概念というよりはむしろ、美学的に好ましいとされる場合も目立っている。

一例をあげれば、スタジオジブリ制作の映画『コクリコ坂から』がそのひとつだろう。『コクリコ坂から』は2011年7月に公開された1963年の高校を舞台にした恋愛&青春群像劇である。本作の見どころのひとつは、登場人物の新聞部部長の風間俊が「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!新しいものばかりに飛びついて、歴史を顧みない君たちに未来などあるか!」と演説する場面にある。それは物語の象徴的なノスタルジーの本懐を貫く主張であり、主題歌や音楽と相まって、作品全体には望郷的で郷愁的な美的雰囲気が漂っている。もちろん、名演説の言説内容を否定するわけではないが、難点としては、本作が「ノスタルジー」映画になりきれていない感じが否めないという点がある。というのも、登場人物の少年少女の苦悩が現世的な恋愛と成就に注がれている分、現世疎外的で回復不能な苦悩が後景に退き、どこか気楽で幸福な上辺だけのノスタルジーの謳歌に終始してしまったようにみえるからだ。たとえば、本作のPVをみてノスタルジー映画だと期待すると、炭酸の抜けたメロンソーダのような、なにか満足できない違和感を覚えることになる。その点、キャッチコピーの「上を向いて歩こう。」はたしかに嘘をついていない。結局のところ複雑なのは、震災以後の最初のスタジオジブリの作品となった本作で、救いのない回復不能な「ノスタルジア」を抱えて生きる少年少女を描くよりはむしろ、恋愛であれ青春であれ健全な幻想に浸って生きろというのが、大人の責務であるような気がしないでもないからである。

そんなわけで、僕が言いたいのは「ノスタルジー」の観念が現代では軽くなったというのもあるけれど、軽快な「ノスタルジー」の美しさだけでは救われない、生きている時間からの疎外がもたらす不可能な回帰への憧憬と時間に対する憎悪の入り混じった苦悩に落ちるひとびとは今も変わらず存在しているということである。戦争や災害、不慮の事故や事件、重たい病などによって、かつての生の時間を二度と生きられなくなってしまったひとびとはもちろん、「歴史」や「思い出」を形成し獲得するちからを喪失してしまったひとびとの情念の鎮魂が文化芸術の領域で必要になってきているように思われるのだ。

ひとは永遠に健康で幸福で労苦なく神々のように生きることはできない。仮に永遠でないがゆえに生じる時間意識と時間嫌悪がひとを神や動物から区別するのだとしたら、時間意識(あるいは人格)を輪郭づける記憶のなかで、「思い出」も「歴史」も欠如した生活とは別の永遠を見出すほかないのかもしれない。言い換えれば、抽象的にも主観的にも生きている時間から疎外されたひとびとが悲哀に似た記憶を最後まで手放しがたい感情に苛まれるのは、人間がそれでも人間として生きようとする運命の呪力にみえるわけで、記憶の呪縛から完全な脱出を願うことは不自然な結末を辿るほかないのかもしれない。たとえば、「失われた対象から自分自身をうまく切り離すということ、客観的に見て対象が失われたときにはそれを諦めるということが、鬱病の主体にはできないのである」といったフロイト的な精神分析を試みたところで、喪失と欠損を抱える(集団的)主体は、<類>がため/<種>がための記憶による情動的補給なしには、別の破滅的永遠に向かう情動的暴走が疑われてならないのである。それゆえ、芸術文化の領域では紋切り型の恋愛と友情以外の脱出口を用意する必要があるように思える。

d.個と集団の現実

しかし、それは何なのかと問われれば、個的に鑑みれば、愛と友情は大事だと語るほかない。仮に集団的にいえば、地域共同体が崩壊した社会のなかで、映画『ファイトクラブ』的な秘匿性を持った類的な共同体をつくるしかないのだといえど、構成人数が増えれば増えるほど、知的水準は下がり野蛮なものになる可能性を否定できない。現実的にもSNSオフ会に飛び込むかといえば、本当にろくでもないやつがいる可能性を考えたりしてひとはあまり行かないだろうし、結局のところ、1対1での関係からはじめ、ある人数に達したところで安定するほかないように思われる。可能性があるとすれば、趣味を超えたビジネス的関係で、結局のところそれは起業するしかないのだが、多くは長続きせず倒産する現実がある。むしろ恋愛が類から種的な関係にある段階で切り替わるように、なにか血なまぐさいのっぴきならない(類からはじまる)種的関係としてやっていくほかないのかもしれないが、ポリコレ的現状では望み薄である。じゃあ、結局、政治家にでもなって法制度から変えるしかないとなるのかもしれないが、1億総政治家になればよいわけでもない。結局、個人が具体的な生存戦略を立てるならば、えり好みをして現代社会と変わらない帰結が予想されてしまう。論理自体がある種の功利的な性格を持っており、理性的な説得には限界があるように思うのだ。

e.ノスタルジーと人類社会

ある考古学の研究によれば、ひとは記憶の能力が徐々に高まることで、10万年前以降には死者を埋葬することを覚え、5万年前以降には外界と自己の記憶の連関を表現する芸術を獲得したという(※歴史学者的にいえば、記憶とは心のなかに情報を蓄え、それを引き出す能力である)。言い換えれば、人類は記憶によって死と芸術を獲得したことになる。

唐突ではあるけれど、記憶と文明の展望をめぐっては、記憶こそが人間文明の源泉であったことを思いだせば、人類が記憶能力を著しく喪失/向上するか、記憶能力に代わる身体能力を開花させるなどして、文化文明の基礎形態が変容する日を待つしかないのかもしれない。たとえば、資本主義経済の土壌はおよそ新石器時代に誕生したが、ひとびとが記憶能力を劣化させれば貨幣システムは機能しない。目の前にある食糧を本能のまま食い漁る動物的な日々を送るだけである。

(大げさではあるけれど)最後にノスタルジーに関する仮説をいえば、神や芸術の観念が発生したのが持続する記憶能力の獲得に起因するものであったならば、神や芸術への欲望は、喪失した身体感覚へのノスタルジーによって引き起こされているのではないかと思うのだ。わかりやすく言えば、牛の絵を描く場合に、現代の子どもが記号化された牛の絵を描くのに対し、洞窟にいた原始人たちが視覚純然的な牛を描いていたことを思えば、そもそも長期記憶を獲得しつつあった古代人と現代人では世界の認識の仕方が身体的に異なっていたはずで、飛躍を恐れずに言えば、神や芸術が発生したのは喪失した身体感覚に依存するのではないかと推察されるのだ。
もはや便器に向日葵の種を詰め込んで糞尿だけで花を咲かせる空想と変わりはないが、芸術が存在する理由は喪失した身体感覚へのノスタルジーだったのではないかと提起するところで話を終えたいと思う。

文字数:20035

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