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テン年代の身体と二筋のパンプアップ –または表皮の破裂に向けて−

 

 

 

 

『桐島、部活やめるってよ』、『魔法少女まどか☆マギカ』、『進撃の巨人』、『カメラを止めるな!』、2010年代の日本サブカルチャーにはゾンビが頻繁に現れる。

SF・文芸評論家の藤田直哉は、テン年代のゾンビを、身体性の回帰の文脈に繋げ分析している。彼によればゾンビとは、情報の時代を経たあとで再発見された身体(ポスト情報化時代の身体)である。『新世紀ゾンビ論』の中でも述べられているように、日本において身体を軽視するか重視するかということは、時代の感性と共に10年周期でシーソーのように動いてきた。まずは以下に1980年代からの展開をまとめてみる。

大塚英志の『おたくの精神史−一九八◯年代論』では、80年代に記号消費の時代が訪れ、90年代には身体の叛乱が起こったのだと示唆されている。80年代は、好景気を背景にポストモダンと呼ばれる思想が流行した時期だ。当時は「現実」や「肉体」、「土着性」や「生活」などを忌避して生きようとするメンタリティが大衆化していった。記号消費はシュミレーションや「虚構」を求める感性に近くなる。

しかしながら、90年代に入ると、援助交際やリストカット少女などが社会問題となったように、身体性への希求が再び生じた。記号消費の時代に希薄化していた現実、身体、死のリアリティも前景化してくる。90年代に起きた阪神・淡路大震災、オウム真理教の地下鉄サリン事件などは、忘れられつつあった身体の現実を激しく突きつけた。

そしてゼロ年代に入ると、インターネットの急速な普及やオタク・カルチャーの大衆化と足並みを揃えるようにして、再び身体を忌避する社会的風潮が強まっていく。東浩紀の『動物化するポストモダン』は、80年代の虚構に伴う「浮遊感」が、ゼロ年代のオタク・カルチャーの中に例外的な仕方で生き残っていたことに言及している。東によれば、「オタク系文化はこのように、シュミラークルの全面化と大きな物語の機能不全という二点において、ポストモダンの社会構造をきれいに反映」[i]するのである。

ゼロ年代の主体とはどのようなものであったのか、もう少し補足しておきたい。東によれば、それはデータベースモデルが優勢となった時代における「解離的」な主体である。ポストモダンの時代においては、革命などの「大きな物語」は消失し、フィクションの中にある「小さな物語」と、例えば萌え要素をみれば反射的に萌えの感情が生じる「データベース消費」が成り立つ。主体はその「小さな物語」と「データベース消費」の間にある齟齬をもはや気にしない。そのような状況を指して東は「解離的」と呼んだわけである。

そして、「身体」が後景化し、「見えないもの」とされていくことにも理由があった。視覚とインターフェースを中心に行われる主体化の過程で、身体は抜け落ちるものでありながらも、まさに不可視な場所から「脅かしてくる」ものとして逆説的にその存在を浮かび上がらせる。ゼロ年代においては、このような仕方において、身体性を否認する身振りが取られたのだ。

 

テン年代、ではどのようにして身体性が回帰したと藤田は考えるのか。ましてやなぜ「ゾンビ」なのか。藤田は、「情報環境の変化や、新自由主義化、グローバル化などによって、身体がデータ化され、断片化され、流動化していき、かつてあったとされる身体の『一貫性』や『根(現実世界や大地、自然などと自己が結びついていると感じる感覚)』の機能がなくなっていく際の不安と恐怖がゾンビには投影されています。」[ii]と述べながら、現代におけるゾンビ表象が、身体性をめぐる闘争の場なのだと指摘している。つまりゾンビという表象が流行する原因は、人々の身体イメージの変化にある。「流動化した身体」という身体イメージを人々が持ち始めていることが、ゾンビの流行を生む一因となっているわけだ。

そしてここで重要となるのは、「流動化する身体」を統合する役割を持った「残余としての身体」の存在である。藤田は2011年に発売されたゲーム『デッドアイランド』のプレイ経験をもとに、ゾンビゲームが担う機能を分析している。ちなみに同作は、FPS(ファーストパーソンシューティング)のような仕方で、敵であるゾンビを鈍器などで殴っていくゲームである。一人称の視点から、プレイヤー「リアルでグロテスクな身体欠損の描写」を目の当たりにすることになる。少し長くなるが引用する。

『デッドアイランド』には、このようなゾンビと〈流動的身体〉との関係を、徹底的に加速させて突き破るような契機がありました。現実と仮想の往還を加速させていった末に、ある「限界」を、身体と精神そのものに経験させるようなところがあったのです。/ そこで経験されるのは、〈流動的身体〉になりきれない、〈残余としての身体〉であり、疲労そのものです。/ 残余として残るのは、突き詰めて言えば、老化し、死んでいくこの「身体」の不自由そのものです。イメージではない身体の、痛みや苦しみそのものの、鈍い核のようなものに直面するのです。/ この疲労や苦痛こそが、〈流動的身体〉を持ち、人格すら流動的になってしまう時代に、人間が「自己同一性」を確保するための碇のようなものとして必要とされ、発見されてきたものなのではないでしょうか。/ 言い換えるなら、流動化した社会の中で、「情報」にもならず「流動」もしない鈍いものとして身体を再発見しなければならない状況にあるということです。そんなネガティヴなものにしか、自己を固定するポイントを発見できないような、悲しくも新しい身体観を、私は持っています。(『新世紀ゾンビ論 』p283)

藤田のゾンビ論はこのように、碇のような「残余としての身体」を発見することと、人々がゾンビゲームで身体の乖離や流動化を徹底させていることを繋げている。流動化する社会の果てに、疲労や苦痛の果ての「点」のような、流動しない「固定点」があり、テン年代の主体は無意識にそれを求めている。ゾンビとは、そのような固定的な「点」=「残余としての身体」と、「流動的な身体」の2つの性質の間を揺れ動く存在なのである。このようにして、2010年代の身体が「ゾンビ」に反映される。

 

本稿が注目するのは、藤田のゾンビ論がその射程に捉えない、もうひとつのテン年代的な身体である。身体性が回帰するということには異論はない。しかしそれは、基本的には藤田の描いたテン年代の社会を共有しながら、まったく異なる仕方で時代の裏側を反映している。藤田の「ゾンビ論」はある状況を片側からみたものである。そして逆側から眺めると、同時代に無視することは難しい身体の輪郭が現れるのではないか。

様々な状況に適応することが求められ、いくつもの場所で異なる人格(キャラ)を使い分けるような現在では、「残余としての身体」は、自己の一貫性や安定性を確認するためにも作用する。しかしながら、テン年代を生きる人々は果たして全員が「碇」とともに落ち着きたいと思っているかというと、そうではないだろう。むしろ、日常生活の中でキャラを変えられなくて困ったり、それを演じることに疲れたりする人もいる。つまり、藤田が扱うテン年代の身体とは「変わりすぎること」が導くものであり、その裏側には「変わらない(変えられない)こと」が導く身体が隠されているのである。

そして、この裏側に隠れた身体の存在を議論から欠落させないことこそ、今や重要なのではないか。なぜなら「変わらなさ」の感覚はテン年代を生きる若者にとっての避けられない問題であり続けてきたからだ。故にここで見落とされていたテン年代の身体は、平成という時代を語る上でも大きな意味を持つだろう。この平成と「変わらなさ」の問題に言及しよう。

 

 

 

平成とはどのような時代か。今を通り越して、過去や未来の日本人が平成の30年間を眺めたときに思い当たるのは、若者の文化がとりわけ波及力を持つようになったということであろう。

たとえば「大人になる装置」が失われた社会をイメージしてほしい。子ども向けに用意されたサブカルチャーを、大人までもが当然のように楽しむようになった。社会をみれば、平成期に現れた「チョイ悪オヤジ」や、幅広い年齢層の女性に対して用いられるようになった「女子」という言葉などは、まさに大人が「若者」に止まろうとする現象と言えるのではないか。それくらい、若くあることが価値を持つ時代になったのである。大人が子どもになる。幅広い年齢層の「若者」が文化を形成する。文化は、大人が教養を示すためにあるものではなくなり、「若者」が遊ぶようにして生まれるものになった。

ゆえに、平成という時代においては、若者の動向が社会に大きな影響を及ぼす。10代、20代の若者を中心に生じている文化は、彼ら彼女らより上の年齢層の人々をも巻き込んでいく。大人たちは、若者の行為に引きつけられる。若者の傾向は時代の「全体」を示すものではないが、平成の輪郭を形作る重要なファクターとなり得るのである。

 

社会学者の古市憲寿は、『絶望の国の幸福な若者たち』の中で若者[iii]の生活満足度や幸福度を調査し、「将来に希望が描けないからこそ、今の生活に満足」しているような若者の姿を取り上げた。古市の引用する内閣府の「国民生活に関する世論調査」によれば、「二○一○の時点で二○代男子の六五・九%、二○代女子の七五・二%が現在の生活に『満足』していると答えている」[iv]。古市いわく、若者の生活満足度や幸福度はこの40年間でほぼ最高の数値を示している。格差社会だ、非正規雇用の増加だ、世代間格差だ、と言われているにもかかわらず、当の若者たちは今を「幸せ」だと感じている。一方で、生活に不安を感じている若者の数も同じくらい高い。そして社会に対する満足度や将来に対する希望を持つ若者の割合は低い。

しかしこの分析は、若者と「幸せ」の短絡的な見方を提供している。ではなぜ現代の若者のうつ病が増え続けているのか。古市の分析に対する批判は、斎藤環が行なっているように整理できる。

むしろここで重要なのは、若者が「変わるとは思えない」と考えていることの方である。つまり、政治も経済も日常生活も「変わらない、変えようがない」という確信めいた感覚が、幸福にも不幸にも影響するのである。不幸になるとも思えないから満足し、幸せになるとも思えないからうつになる。希望がないではなく、変わるとは思えない、古市が触れるべきなのはむしろそのような部分的「絶望」の状態だ。絶望の国に生きる若者は、決して幸福な者たちだけでは語れないのだから。

この「変わらなさ」の実感こそ、平成の若者の病である。そして、以上の仕方で古市の議論を引き継ぐならば、「変わらないから何もしなくていい」と考える若者だけでなく、「変わらないからこそ、その裏返しとして変えようとせずにはいられない」若者たちの存在が明らかになるはずだ。

どのように現状を変えるかを考えれば、例えばそれは古市の言うように、仲間や他者によってである。コミュニケーション偏重主義やキャラの問題に接続される。その流れはテン年代の「ゾンビ」表象にも絡んでいる。変わることの難しさを受け止めながらも、変化に向かって前進する方向性がある。

一方で、アプローチにはもう一つの道筋が存在する。何も変わらないにも関わらず、表面的にでも状況を変えたつもりになろうとする意志のベクトル。それはしばしば、困難を避けて安易に変わろうとするも失敗に終わる、自己啓発のアプローチだ。

 

自己啓発とは何か。それは自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為である。より高い能力、より大きい成功、より充実した生き方などの獲得が目指される。たとえば、自己のより良い在り方に向けて、助言し励まそうとするのが「自己啓発書」だ。もちろん自己啓発の類のものは、真摯に知性を目指す人々にとっては眉をひそめたくなるようなものでもあったりもする。疑問を感じざるを得ない仕方で、科学の見識が拡大適用されていたりするからだ。しかし残念なことに、そのような安易な変化が出回っている状況でもある。

現在、「自己啓発」なるジャンルと近い身体の表象として考えられるものはなんだろうか。それは間違いなく「筋トレ」である。自己啓発本の読み手としても書き手としても機能する「ITベンチャー企業の社長たち」が筋トレを好んで行なっていることを公言し、彼らが執筆したベストセラー本までが世に出回っている状況において、筋トレが自己啓発なるジャンルに近づいていることは明らかだろう。

哲学者の千葉雅也による「権力による身体の支配から脱すること――。哲学者千葉雅也が考える筋トレの意義」というテクストは、現在の筋トレブームをアイロニカルで懐疑的な立場から見つめたものである。グローバル資本主義の激化。人々は流動的な世界の中で確実なものを得ようとし、それを原始的に実現してくれるのが筋トレである。権力による身体の支配に対し、自己準拠的な身体を取り戻すことができていないのだと千葉は論じている。まさに自己啓発的な筋トレはこのような文脈に存在する。

とはいってもまず、筋トレが若者の文化なのだということがしっくりこないかもしれない。社会に広くその存在を知られているにも関わらず、「最近の若者の文化」としては見落とされがちなものとして筋トレ。若者の筋トレをきっかけにしてみると、平成という時代の様相は高い解像度で立ち現れる。まずはテン年代の筋トレブームの話から本稿を展開してみたい。

 

 

 

まずはじめに、言うまでもなく筋トレとは筋力トレーニングのことであり、骨格筋の出力向上や筋肥大を目的とした運動の総称である。重りを持ち上げることで筋肉へ負荷をかけると、筋組織は切れたり炎症を起こしてしまう。その後、適切な休息と栄養補給によって修復される際に、筋繊維が多少太く強くなった筋組織ができあがる。その結果筋肉が成長し、体積が増える。このプロセスを繰り返すだけ、筋肉量は増していくわけだ。

そんな筋トレが流行している。空前の大ブームである。筋トレを解説するyoutuberは30万人近くのチャンネル登録者数を持ち、Googleトレンドで「筋トレ」というキーワード検索をかければ、その人気度が2010年台に目に見えて増加していることが示される。ジムの利用者数は増加し、初心者が気軽に筋トレを始められる時代がやってきた。

平成期における筋トレの展開は、ジム史の観点から整理してみるとわかりやすい。それがどのような年齢層の人々によって担われ、どうやってブームにまで拡大していったのか。展開を大きく3つに区切り、簡潔に示してみよう。

1980年代、日本にフィットネスブームがやってきた。都会のターミナル駅前に出店するフィットネスクラブが、エアロビクスやジャズダンスの流行とともに市民権を得る。しかし1990年代になると、バブル経済の崩壊をうけて、フィットネスクラブの淘汰と合従連衡が進むことになった。ちなみに、筋トレと強く結びついたボディビルジムは、当時はまだ虎の穴的存在である。施設や用具はフィットネスクラブと比べて明らかに古く、集うボディビルダーらが醸し出す雰囲気はいかにもマニアック。個人経営で小規模ながら経営を続けていくものがほとんどだった。

ゼロ年代になると、90年代の淘汰的な流れを受けたフィットネス業界は、都心重点から郊外進展戦略へと変化していく。それと共にクラブのメンバー構成にも大きな変化がもたらされることになった。シニア&シルバー層の台頭である。シニア世代にとっては、フィットネスクラブが地域の交流場所、情報交換の場になる。たとえば朝から夕方まで滞在するためにランチ弁当を持参し、スタジオにいけばローインパクトのレッスンやゆったりとしたヨガを行う。プールで水中ウォーキングを行い、最後は風呂に入ってから帰る。フィットネスクラブがジャグジーや露天風呂、天然温泉などを用意し、もはやバス施設の充実によって特徴付けられていったことからも明らかなように、フィットネスクラブは2000年代において、高齢世代のレジャーランドとして機能していた(今でも高齢世代の両者は多く、現在は筋トレブームによって若者の姿も徐々に増えてきている)。フィットネスクラブが当初持っていた3大機能、「スタジオ・プール・ジム」のうち、筋トレのためのマシンを抱えた「ジム」はお荷物だった。

しかしテン年代になると、今やフィットネスブームは筋トレと「ジム」が支えているといっても過言ではない。それらはスタジオやプールの機能をなるべく切り離したような、マシン特化型の「ジム」である。外国資本の筋トレ専門ジムが、新たに都心の市街地において増加していった。筋トレの聖地とも言われるゴールドジムが国内45店舗まで一気にその数を増やしたのがその代表的な例だ。また、24時間営業のジム「エニタイムフィットネス」は、2010年に日本第1号店をオープンさせ、今では350店舗まで店舗数を伸ばしている。東京都内に160店舗以上を持ちながらも、筋トレブームと共に地方にまでビジネスを展開しはじめている。

こうして平成期間における筋トレの展開を確認してみると、まさに2010年代の筋トレブームは、都心の若者層によって盛り上げられてきたことが明らかになるだろう。もちろん30代や40代の利用者にもその場は開かれているわけだが、24時間営業のジムは特に、学生や、アルバイトで生計を立てる若者たちのライフスタイルに受け入れられている。東洋経済ONLINEによる「エニタイムフィットネス」へのインタビューでは、社長が「どの店舗も判を押したように顧客層が同じで、男女の比率は7対3。年齢で言えば、20~40代が80%以上を占め、若い世代が圧倒的に多い。」と述べている[v]。テン年代に増加したマシン型の「ジム」とセットになった筋トレブームはまさに、同時代を生きる若者、外国資本のジムに通う都心の若者たちを中心に盛り上げられてきた文化現象なのだ。

 

 

 

ところで、ゼロ年代の筋トレシーンには、ほとんど若者の姿が見えないことが気にならないだろうか。フィットネスクラブがあるにも関わらず、「ジム」機能はお荷物のようになっていた。もちろん単に筋トレが若者に流行していないという見方ができるわけだが、簡単な結論で済ますことはせずに、同時代的な文化現象の影響を見出してみたい。

ヒントとなるのは、「細マッチョ」「ゴリマッチョ」という日本独自のマッチョ分類である。これらのやや怪しげな言葉とともに、日本にはマッチョが2種類存在するという事実を掘り下げてみる。筋肉のイメージが当時どのように扱われていたかに注目することで、以上に示した筋トレの展開における「若者の不在」への理解が進むのではないだろうか。

細マッチョ、ゴリマッチョというパワーフレーズが生まれ、はじめて流行したのは2009年。サントリーの清涼飲料水DAKARAのCMがきっかけだった。この当時、細マッチョは「モテ」、ゴリマッチョが「非モテ」の対象として扱われていたことがCMからも容易にわかるはずだ。俳優の松田翔太と中村獅童を含んだ細マッチョ側のグループと、マスクを被ったプロレスラーにしか見えない匿名のゴリマッチョグループが、交互に前へ出てアピールし合う。投げキッスとマッスルポースが両陣営から交互に繰り返されたのち、「細マッチョなあなたに」というコピーとともにCMは終了する。

改めて興味深いのが、テン年代のいま、筋トレブームと共に状況は変わってきているということだ。筋トレブームとともにゴリマッチョへの認知が変わり、「モテ」の対象にすらなり得てしまう。ゼロ年代、映画やドラマの中ですらっとした2枚目として人気を獲得していた俳優たちが、いまや筋トレで手に入れた筋肉をSNSで誇示するようになった。2009年からの約10年間で、ゴリマッチョが、かつて圧倒的に強者であった細マッチョに人気で対抗するようになったのだ。

もちろん細マッチョも負けていない。今でもファッション紙をひらけば細マッチョという言葉は生き残っていて、「モテ」の要素として扱われている。しかしながら、ほとんどすべての人々が細マッチョを支持していた2009年当時に比べると、状況は変化していると言わざるを得ない。この状況の変化と、細マッチョの内実は何か関係性を持っているのだろうか。

そもそも具体的に細マッチョとは何なのか。それは一部の「要素」によって成り立っている、と考えられる。要素とはおおむね「腹筋」(や上腕二頭筋)のことだ。言い換えれば、ある細い身体に、少量でも腹筋を「割る」ために十分な(あるいは二の腕の内側の膨らみをもたらすことができる)筋肉量が部分的に付着していれば良い。ほとんど筋トレを行なっていなくとも、マッチョになることができる。そんな細マッチョ像がイメージできるのではないだろうか。

細マッチョをデジタル大辞泉で調べてみると、「俗に、見た目はやせているが、筋肉がよくついていて引きしまった体つきであるさま、またそのような人」と書かれている。しかしこの定義は矛盾を孕んでいないだろうか。そもそも筋肉が「本当に」よくついていたら、どうしても身体は大きくなってしまい、あまり引き締まってはみえない。服を着ていたら太っているかどうかとの見分けがつきにくい場合さえもある。

従って唯一この矛盾を突破できるのが、いくら筋肉をつけてもその人の見た目を大きく変えない「腹筋」であるという見方を取れるわけだ。やせて引き締まったまま、筋肉を保つことができる。しかしながら、ここで筋肉がしっかりとついているかどうかはもはや問題ではないはずだ。重要なのは、小さくとも割れた腹筋を示せるかどうかの方なのである。こうして細マッチョは、ごく一部の要素を取得しているかどうかによって成り立つことになる。

ここで参照すべきは、東浩紀が『動物化するポストモダン』の中で述べている「データベース消費」によって生まれる身体ではないだろうか。ゼロ年代の文脈を踏まえることで、細マッチョを解離的なイメージと共に捉えることができる。それは例えば「腹筋」という断片的な記号に近い筋肉を所有する身体である。2009年に出現した細マッチョとは、ゼロ年代を通して身体性が回避されていたことの現れであり、データベース消費のモデルと共にそれ以降も有効性を持ち得ているポストモダンの身体だった。つまり、この細マッチョが地位を持ち当時流行していた事実こそ、マッチョという言葉が使われているにも関わらず、逆説的に若者が筋トレを行わない時代のリアリティを示していたのである。

 

翻ってこれは、ゼロ年代のコミュニケーションを引き継ぎつつも新たな時代を生きるテン年代の人々の在り方が、ゴリマッチョの方に投影されていくのだと思考を展開できる可能性を切り開く。先に示唆するならば、ゴリマッチョはキャラの「変わらなさ(変えられなさ)」の文脈に接続できるのではないか。

いまゴリマッチョが求められるようになったという事実は、テン年代の若者を中心に盛り上がった筋トレブームの影響を受けていることはすでに述べた。コミュニケーションにおける細マッチョの優位性が、ゴリマッチョによっていくらか取り替えられている。そしてそれはテン年代における「キャラ」の受け入れられ方と関連しているのではないか。たとえばこのような仮説を立ててみよう。ちょうど2010年(11月20日付)、朝日新聞朝刊のある記事が話題を呼んだことを思い出す。その文章のタイトルは「キャラ 演じ疲れた」だった。

「キャラ疲れ」とはどのような状態を意味するのだろう。精神科医の斎藤環によれば、キャラとは役割、ある人間関係やその個人の立ち位置を示す座標のことであり、「同一性」を伝達するという機能を持つ。人々はコミュニケーションにキャラを使う。重要なのは、キャラが集団の中で、他と被らないように調整されるということだ。そのため本人の自己認識とは一致しない場合もあるが、空間内での位置付けを考慮して「キャラを演じる」「キャラを変えない」という配慮が生じるのである。つまりキャラ疲れの原因となるのは、主にキャラの「同一性」の問題だと言える。一度あるグループの中でキャラが固まってしまうと、それを変えるのが難しい。ちなみにこれが、様々なグループにおいて逐一キャラを変えて生きるのとは異なる状況だということに注意しておきたい。

もちろん、テン年代の今になっても、「キャラ」を中心にすえたコミュニケーションは求められている。むしろ、社会のほとんどがその影響を受けるようになった。しかし重要なのは、いま私たちはもしかすると、どうにかしてその「同一性」をいくらか切り崩そうとすることで、そこにリアリティを生み出しているのではないかということだ。切り崩すことができないにしても、切り崩せないことへの反発がどこかに生じている可能性はある。キャラの同一性の問題を孕んだ「キャラ疲れ」を、ゴリマッチョというテン年代の身体が用意されるのと並行した現象であると捉えてみたい。記号的・固定的な細マッチョに対して、実質的・脱固定的なものとしてのゴリマッチョを考える。

複数のグループでキャラを奔放に変えることが問題もなく行われる時代には、細マッチョという筋肉イメージが流行し、ひとつのグループの中でキャラがなかなか変えられない事実が目立ち始めると、その筋肉イメージもまた影響力を弱め始める。歩みを揃えるようにゴリマッチョが受け入れられるようになる。繰り返すが、細マッチョとゴリマッチョはテン年代の今も生き残っている。細マッチョは未だメディアの中で認められ、求められている。しかしそれと同時に、いまやゴリマッチョまでもが存在感を強めてきた。がっつりと筋トレを行うことで導かれる身体が明らかに増加している。では次に踏むべきステップは、もちろんゴリマッチョについて考えることだ。それは「変えられない」状況に向かい合う人々の動態が転移したものとしての筋トレの主体である。

 

 

 

テン年代の筋トレブームを、ゼロ年代の終わりに生じていたキャラ疲れの展開として捉える。なぜ筋肉を鍛えることが、主体の「変わらなさ」への抵抗として機能するのか。そしてなぜそれはただの自己啓発で終わらないのか。この章では具体的なヒントを探していく。

したがってここから述べる筋トレは、多くの人々がやんわり想像しているものとは異なるはずだ。議論を整理するために筋トレの主体を「トレーニー」と呼びたい。これは本稿において「テン年代の、筋肉をつけるために積極的に筋トレを行う人たち」を意味する。そして、現在の筋トレブームがフィットネスクラブよりもマシンジムに支えられていることからわかるように、トレーニーはゴリマッチョに類似する。もちろんトレーニーがすでにゴリマッチョであるかは問題にならない。その過程にある人たちをも「トレーニー」の中へ含むことにしよう。

筋トレ。簡潔に言えば、それは己をバラバラにするような行為である。まずはその過剰さとセットになった「ある意味投げやりな」態度が特徴的だと言える。たとえば、モテようとして筋トレを始めたトレーニーがいたとしよう。しかし次第に当初の目的は脱臼される。筋肉をとにかく大きくしたいトレーニーは、筋トレの教科書的存在でもあるボディビルダーの身振りが示すように、途中から異性にとっての丁度良さを軽々しく超越していくことになるのだ。一般的にかっこいいと思われる筋肉量の程度は度外視され、むしろ筋肉がありすぎるアンバランスな「キモさ」の方へと好んで向かっていく。トレーニーは、筋トレの享楽へと次第に巻き込まれ、しまいには巨大化させたマイナーな筋肉を誇示したりもする。もはやモテたいのかどうかもわからない、筋肉によって元々の目的がどうでも良くなってしまうかのような態度が現れ、彼らはゴリマッチョになる過程の中で、どこか無鉄砲な方向へと骨抜きにされてしまうのである。

このようなトレーニーの在り方は、哲学者千葉雅也が言及する「ギャル男」に近しい。千葉によれば[vi]、90年代の終わりからゼロ年代の始まりにかけて渋谷センター街に現れたギャル男は、日焼けサロンで肌をタンニングし、ロングヘアーのハイブリーチ・メッシュを目立たせたギャルへの「生成変化」(ジル・ドゥルーズ)に巻き込まれている。身振りや思考、欲求、着こなしなどを通して以前とは異なる存在へと創造的に変形していく。ギャルのメイクが導くのは、「男性によって憧れられ−貶められる女性らしさからの分離」であり、ギャル男は一方で彼女たちを保守的な恋愛に組み込むための「釣り」を仕掛けながら、もう一方ではギャルのそのような分離に従って自らの存在の足場を揺るがされてしまうのだった。

千葉が注目するのは、そこに醸し出されるギャル男の「どうでもよさ」に他ならない。マッチョのマイナー筋のように、ギャル男のエアリーなヘアもまた、大衆の多くが気にかけないようなところで爆発する過剰な「盛り」なのであって、それらは本当にこだわっているのかが当人たちにも判断できなくなるような「どうでもよさ」の次元において、「存在論的な軽さ」を誘発している。

そしてギャル男とトレーニーの関係は、近年筋トレについての言及を増やしている千葉にとっては、「脱主体化」を促す点においてすでにパラレルなものである。

徹底的に筋肉中心の世界。それは、一種の脱主体化を引き起こしているように思われた。ボディビルダーは筋肉にその主体性を乗っ取られている。筋肉は「他者」だ。胎児のようでもある。エイリアンとしての胎児、としての筋肉を、人工的方法によって妊娠している−僕にまっさきに思い浮かぶのは、そういう女性的なイメージなのだ。過剰な筋肥大は「男らしさ」を超えている。強い能動的な男になることではなく、徹底的な受動化が、ボディビルの本質なのではないか。ついつい、そう解釈したくなってしまう。(「単純素朴な暴力について」)[vii]

しかしながら、千葉にとっての筋トレを行う主体は、ゼロ年代に発表されたギャル男論からの時代的な展開として用意されているわけではない。あくまでも問題系をパラレルに捉え、ギャル男と筋トレの主体の類似に触れているわけである。一方で、トレーニーにはテン年代特有の特徴がある。千葉が指摘していないこの特徴を述べることで、「ポスト・ギャル男」的な存在として捉えられるトレーニーのオリジナリティに迫りたい。

 

ここでまず、ギャル男とトレーニーの違いを抽出するため、それぞれが生きている社会を分析する。今度は千葉の議論に即した形で、90年代、ゼロ年代、テン年代の特徴を整理してみよう。

たとえばファッション−コーディネイトの展開にも時代的な傾向が見出される。千葉は「アンチ・エビデンス−九◯年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」の中で、90年代における断片の組み合わせと、それに関係する不安(享楽)に注目し、ゼロ年代のファストファッション化を指摘する。80年代までの全体を統一させるようなファションの効力が弱体化し、90年代のファッションは、「(ⅰ)もはや何でも並列化の時代であり、だからこそ(ⅱ)どうしたらいいか決定打がなく、しかしまだ(ⅲ)決定的な未知がありうるのかもしれない、という三重の否定性」を含んだコーディネートの特徴を強くする[viii]。「断片」の組み合わせは、人々にとって不安を伴う操作であり、結局服を選ぶ際には「ある程度」の妥当性でやり過ごすしかなくなってしまうのだが、それでもコーディネートの不安を快楽に転じることが可能になっていた。しかしゼロ年代になると、その不安を解消する、まるで事務処理のようなファストファッションが流行し、90年代のファッションに存在した倒錯的な快楽は影を潜めてしまうのだ。ここでは、90年代の特殊な断片が、ゼロ年代の一般性の強いパッケージに絡みとられていく傾向が強調されている。

次にインターネットの例を考えてみる。千葉は同じように、90年代に存在していた断片がゼロ年代を通して繋がっていき、吸収されてしまったと指摘する。人目につかないでいることも可能だった初期ウェブ上の小さなアジールは、ゼロ年代後半のネット環境の中で消え失せてしまった。Googleの検索結果を安心して知識の根拠にしたり、ソーシャル・メディアで同一のアカウントに体重し続けることが可能になり、ヴァーチャルなリアリティは有用なものになった。「ヴァーチャルやサバイバーという語に託されていた曖昧な快楽、エロティシズムは、決定的に蒸発してしまったかのようである。」[ix]ここでも断片が全体から独立することが困難になるという傾向が、90年代からゼロ年代にかけての展開の中で示唆される。

では90年代やゼロ年代からの展開をテン年代に見いだすとすればどうなるか。テン年代のトレーニーに現れているのは、「大きな時間軸から時間を切り取り、それぞれの断片に取り戻す」ような傾向ではないだろうか。そして、これがもちろん筋トレに関係する。断片的な身体と共に生きたギャル男の後を生きる−ポストギャル男としてのトレーニーの特徴は、ただの断片ではないという、90年代とテン年代の差異によって明らかになるのだ。説明を続けよう。

 

筋肉について改めて整理してみる。人体には、大小含めて600を超える筋肉が存在する。たとえば人間が一歩進むとき、それは「歩く」という単純でまとまった動作に見えながら、同時に約200個の別々の筋肉が動かされている事実はほとんど認知されていないだろう。筋肉は、関節や骨格にそれぞれの仕方で結びつきながら、人体の中で「断片」的に存在するのである。筋肉同士が繋がっているような感覚になるだけで、筋肉はあくまで骨と骨の間に存在する。筋トレにおいてもまた、同時に全ての筋肉を鍛えることはできない。胸を中心に鍛えるならば、胸を鍛えるためのメニューを選択する。筋肉やトレーニーを成り立たせる筋トレ自体にも「断片」的な性質が見受けられることを押さえておきたい。

そして、筋肉をつけるには、時間がかかる。一度筋トレで筋繊維を破壊してから超回復を待つというプロセスを、何度も何度も繰り返すことで徐々に筋肉の膨らみが増し、盛り上がってくる。そして、筋肉は消すのにも時間がかかる。激しい有酸素運動や食事制限を行っても、筋肉の他に脂肪が消えていくため、筋肉自体が小さくなるのにもまとまった時間が必要だ。

したがって筋トレとは、バラバラに身体を構成する「断片」としての筋肉に「時間性」を宿す行為である。ゼロ年代に生じた「大きな時間軸の共有」から、個別の時間を切り取り、取り戻すというテン年代的な行為としての筋トレ。これがテン年代のトレーニーが持つ特徴である。時間性を持ち、生成途中の断片としての筋肉をトレーニーは身にまとう。ここにテン年代の揺らぐ身体が見出される。

補助線となるのは、テン年代サブカルチャーにおけるキャラの議論でもある。ライター、物語評論家のさやわかは「時間がキャラを更新するために」(『キャラの思考法』所収)において、テン年代にはキャラ概念が「時間的な広がり」を前提として成り立っていることを指摘する。ゼロ年代的なコンテンツとコミュニケーションの二元論に依拠するのではなく、観客参加型のようにもはやコンテンツの中にコミュニケーションさえ内包されてしまう状況において、キャラの書き換えについても「時間的な推移によってキャラが変わる」のだと捉え直そうとする。「一定でない、たゆとうものとしての」イメージを内包するキャラの在り方が示唆されている。これもまた、テン年代の主体の在り方としてトレーニーの身体といくらか親和性を持つものである。

時間性を持ち、生成途中の断片としての筋肉を身にまとうこと。もしこのイメージを捉えることが難しければ、以下に提示するファッションから視覚的に確認してほしい。これはバルト・ヘスとルーシー・マクレーというアーティストがコンビを組んだ、ルーシーアンドバルトの2008年のプロジェクト「発芽(Germination)」である。バルト・ヘスは、裸体に様々な物体を身につける作品を数多く残している。つまようじ、シェービングフォーム、ピン、針、土、プラスチックの破片などの「断片」を付与することで、人の身体を変化させていくのだ。「発芽(Germination)」では、その断片として芝生が選ばれている。

男性の身体が断片として身につけているのは、おがくずを詰め物にしたタイツであり、これは時間とともに変化する。それぞれのふくらみの表面は芝生の種子で覆われており、種子が育つと本物の芝生になる。ファッション研究者のアネケ・スメリクは、このプロジェクトに現れているものこそ、ドゥルーズ的な器官なき身体の生成変化を完璧に表現できるイメージではないだろうかと述べている。

ルーシーアンドバルトは、ゆるやかに生えていく芝生によって、生成変化の時間的プロセスをほぼ文字通り表現している。他者への生成変化には時間がかかるのだ。彼らが制作する「発芽」は「芝生への生成変化」のプロセスを通じた器官なき身体なのである。かくもハイファッションには芸術同様、物質である身体を「強度の流れ、その流体、その繊維、その情動の連続と結合」へと解放する力があるのだ。その身体は奇妙かもしれないが、芝生で覆われこぶだらけにすることで、ルーシーアンドバルトは理想化され地層化した身体という概念を根本的に無効化する。人体に芝生が生えていくにつれ、生成変化の絶え間ない流れが可視化されるのである。[x](「ファッションの襞に包まれた器官なき身体」)

 

 

ルーシーアンドバルト《Germination Day One》、2008年

(http://lucyandbart.blogspot.com/より)

 

 

ルーシーアンドバルト《Germination Day Eight》、2008年

(http://lucyandbart.blogspot.com/より)

 

筋トレがもたらす身体とは、「発芽(Germination)」のような身体である。そしてテン年代を生きるトレーニーは、芝生を含んだ断片的なふくらみの代わりに、筋肉をまとっている。

 

 

 

これまでの議論をまとめよう。まずテン年代の筋トレの流行は、若者を中心とした「トレーニー」によって支えられている。一方でゼロ年代の筋トレは、若者との接点をほとんど持ちえなかった。「細マッチョ」の流行が示唆するように、身体性が回避されるゼロ年代の状況に影響を受けていたのだ。データベース消費のように形成される「細マッチョ」が受け入れられ、「腹筋」のような要素だけでマッチョが成り立っていたことには訳があった。

ではなぜ「ゴリマッチョ」は次第に「細マッチョ」のようなポジティヴな認知を獲得していったのか。そのヒントもまた、ゼロ年代からの展開に見いだすことができる。若者を中心として、コミュニケーション偏重の社会状況に対応したキャラ消費の文脈が、特にゼロ年代以降に強まっていた。メディア環境の変容と並行するかのように、「同一性」を特徴とするキャラの振る舞いが現実で求められるようになった。そして2010年、「キャラ疲れ」が新聞で取り上げられるようになる。時期を揃えるようにして、以降ゴリマッチョが存在感を強めていく。若者のキャラ疲れと筋トレの流行に、不思議な並行関係が発見されることに本稿は注目してきた。筋肉を鍛えることが、主体の「変わらなさ」への反応として現れているのではないかという可能性に目を向けた。[xi]

そんなゴリマッチョは、どのような特徴を持って「変わらなさ」へと抵抗するのか。これを千葉の議論を参考にしながら、テン年代のトレーニー論として展開した。トレーニーは、1990年代末のギャル男に類似した存在である。ポスト・ギャル男は、マイナーな筋肉を誇示する過剰さと、筋肉を鍛える過程で元々の目的がどうにでもよくなってしまうような存在論的な軽さを持つ。自身をバラバラに「生成変化」させていく新たな行為が、具体的にどのようなプロセスを含んでいるのかを考察した。

ファッションやインターネットの見地から、90年代における特殊な断片が、ゼロ年代を通して全体的なまとまりの中へと吸収されていったのだと捉えるならば、時間性を持った断片の存在を強調するかのような−テン年代的身体の特徴を抽出することができる。そしてそれはトレーニーの身体に現れていた。筋肉とは時間性を孕んだ断片なのであり、こうしてトレーニーは、前時代のギャル男からの展開として新たな「生成変化」の身体を継承していくのだ。主体の「変わらなさ」に対して、テン年代の仕方で反応する。

テン年代、若者は常にどこかで変身を求めてきた。一方で同一性を頼りにしながら、もう一方ではまるで同一性の呪縛から逃れるように。細マッチョとゴリマッチョの共存。これこそ日本特有の現象であり、テン年代の若者の身体を表現している。筋肉や筋トレは、他国のような仕方では決して捉えられない。これは若者によって支えられた平成の文化現象として、注意する価値を持つものなのである。

 

最後に、メタ自己啓発の視点についても触れておく。自己啓発的に筋トレがもてはやされている状況においては、テン年代の筋トレがこれまでに話したような文脈で自覚的に捉えられているのか、疑問が残る。本稿の前半で触れたように、トレーニーにとっての筋トレは、例えばグローバル資本主義の激化への反応として現れている。「流動的な世界の中で確実なものを得ようとし、それを原始的に実現してくれるのが筋トレ」である。それは「変わらなさ」に対する短絡的なアプローチでもあるし、ある種のドラッグのような現実逃避とも言えるかもしれない。

一方で、筋トレを、自己啓発の方向性を内側から食い破るような文化として考えることができる。自己啓発の魔力に感染しながらも、同時にそれと距離を取れるような試みとしての筋トレである。無自覚にそれを行なっていたとしても、あるきっかけや気づきを通して、意味合いが全く別の方向へと変わってくるような試みとしての行為。筋トレは、自己を解体するメタな自己啓発の可能性を示唆する。その先にあるのは、同一性の強制を打ち破る、複数の時間断片の再生成。テン年代の若者が望んでいるものである。[xii]

 

テン年代を生きる若者たちの身体は、ゼロ年代からの展開や、時代が導く「変わらなさ」への反応として、2つの方向へ分岐する。変わりすぎることが生む展開と、変えられないことが生む展開である。キャラの多重性−キャラ変更の文脈と、キャラの同一性−キャラ疲れの文脈。記号的な細マッチョと、実質的的なゴリマッチョ。複雑な情報を抱えたシンプルな身体と、シンプルな情報を抱えた複雑な身体。変わらなさに対して情報的な変化で対抗する振る舞いと、変わらなさに対して短絡的な自己啓発(メタ自己啓発)を選ぶ振る舞い。サブカルチャーを中心に現れるゾンビのような身体と、筋トレブームの中に現れるトレーニーの身体。

これらの分岐を押さえることで、テン年代末から眺めた、平成の若者の身体を描写できる。彼らの前に出現するゾンビの身体はゼロ年代以降における情報環境の変化を取り入れ、トレーニーの身体は90年代のギャル男の延長に位置するのであった。もしいくらかの「大人」たちが共鳴するならば、そこにモザイク状となった平成の身体が現れる。

 

 

 


 

参考文献

 

・東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社、2001年

・大塚英志『おたくの精神史−一九八◯年代論』、講談社、2004年

・古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』、講談社、2011年

・斎藤環『承認をめぐる病』、日本評論社、2013年

・さやわか『キャラの思考法 現代文化論のアップグレード』、青土社、2015年

・藤田直哉『新世紀ゾンビ論 ゾンビとは、あなたであり、わたしである』、筑摩書房、2017年

・千葉雅也『意味がない無意味』、河出書房新社、2018年

・アニエス・ロカモラ&アネケ・スメリク編『ファッションと哲学 16人の思想家から学ぶファッション論入門』、フィルムアート社、2018年

・千葉雅也「権力による身体の支配から脱すること−−。哲学者千葉雅也が考える筋トレの意義」、朝日新聞DIGITAL、2019年1月23日

・渡辺清治「地方でも大量出店始めた『エニタイム』の自信」、東洋経済ONLINE、2018年12月11日

・増田晶文「『日本の筋トレ』と歩んだ34年・後編。身体を動かす愉しさを知った日本人」、NumberWeb、2019年3月17日

 

 

 

引用・語注

 

[i] 東浩紀『動物化するポストモダン』p45より

[ii] 藤田直哉『新世紀ゾンビ論』p218より

[iii] 本稿においては、古市に従って「若者」の年齢を「30歳未満」とする。

[iv] 古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』p98より

[v] 渡辺清治「地方でも大量出店始めた『エニタイム』の自信」より

[vi] 千葉雅也「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−倒錯の強い定義」(『意味がない無意味』p96)より

[vii] 千葉雅也「単純素朴な暴力について」(『意味がない無意味』p281)より

[viii] 千葉雅也「アンチ・エビデンス−九◯年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」(『意味がない無意味』p173)より

[ix] 千葉雅也「アンチ・エビデンス−九◯年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」(『意味がない無意味』p176)より

[x] アネケ・スメリク「ファッションの襞に包まれた器官なき身体」(『ファッションと哲学』所収)、p273)より

[xi] もちろん、筋トレは日常生活におけるコミュニケーションに直接は関係しないため、それがキャラ疲れへの直接的な解決方法だと言うことはできない。フィクションの世界の外では、グループ内でのキャラを時間と共に変えていくことは中々難しい。その状況が、テン年代の筋トレに反映や転移という仕方で現れているのではないか。

[xii] 本稿は、記述してきたようなゼロ年代からの展開が筋トレの欲望とテン年代の身体に表出しているのだと主張するに留める。なぜなら、筋トレを経験する全ての人間がその複雑なプロセスに目を向けるとは考えにくいからだ。メタ自己啓発への駆動をトレーニーの多くに期待することはできない。これはあくまでもメタ自己啓発の議論として書かれたものである。また、楽観視が状況を好転させないことは明らかであるため、いわゆる自己啓発の文脈を支持することはないし、筋トレを通して世界が大きく変わるなどとは考えていない。ではなぜ書くのか。それはゼロ年代以降のオタク文化に頼りすぎない仕方で、消費文化の中から若者の自己準拠的な主体を考えるためでもある。本稿はテン年代を中心とした消費文化論、身体論である。

 

 

文字数:19152

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