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その野性を、ひとつ。―新しい広告のために。

■「ほしいものが、ほしいわ。」の向こう側

広告の話をしようと思う。みんなに嫌われるかもしれないけれど、それでも言わずにはいられない。過去の栄光をただ讃えるのではなく。陰謀論でもなく。ましてや、誰かの陰口を言うつもりはない。ただ、ほんとうのことを話したいだけ。素敵な広告が、いつだってほんとうのことを言ってきたように。

あちらこちらから「広告なんてウソっぱちじゃないか」という声が聞こえる。残念なことに、たしかにウソをついた広告はなくならない。けれどもそれは、一部のものが目立つだけだ。どんな世界でも、悪いことをする人はいる。そして、広告はフィクションだ。伝えたいことの本質を見極めて、表現に落とし込む。隠された価値を発見して、クライアントと消費者、生活者に新しい価値観を提供する。つまりそれは、言葉を届けること。広告は、コミュニケーションなのだ。だからこそ、ほんとうのことを言う広告は、強い。

およそ250年前の江戸で平賀源内という人が書いたとされる「土用の丑の日」というキラーコピー。夏場に売上がなくて困っていた鰻屋を繁盛させるだけでなく、食文化を作り、根づかせてしまった。250年後の今も、日本中を虜にしている。しかし現在では、それが災いして、ニホンウナギが絶滅危惧種と言われても多くの日本人がウナギを食べ続けている。このことに対して、クリエイティブディレクターでコピーライターの福部明浩(大塚食品「カロリーメイト」等を手がけている)は2016年に若手のコピーライターに向けた話の中で、次の言葉を寄せている。[現代に生きる私たちコピーライターに何ができるか。それは、250年後の日本人も、ちゃんとウナギが食べられるように知恵を絞ること。つまり「土用の丑の日」の逆のコピーを書くことではないでしょうか]と。

このような新しい価値観を生み出して未来を育むには、人の想像力が欠かせない。しかし、時に想像する力は、過去を豊かなものにしてしまう。それは職業の分け隔てなく、人だけが持つ「性(さが)」と呼ばれるうちのひとつかもしれない。

「性(さが)」などと言うと、大げさだろうか。今日の自分が思ったことを、未来の自分に伝えられる生き物なんて、あまりいない。会ったことのない人が発見したことを、知ることができる能力も、なかなか珍しい。それは、記号を使う能力を持っているから。それぞれの言語、図像、意匠、文字とか、仕草とか、そういうものを受け取り、発信することで、伝えることができる。体の強くない種として生存するめに生み出したもの。意志を伝え合うだけでなくて、自然にあるものと距離を置くことにも一役買った。客観的に物事が見えるようになって、自然を切り拓くことが可能になったと言える。この瞬間、私が伝えている言葉も、その手段のひとつだ。

繰り返しになるけれど、広告は言葉でできている。そう考えると、広告表現とは、ず­­いぶんとアクロバティックな行為だ。自然から距離を置くために作られた記号によって、「ほしい」「したい」「気持ちいい」という原始的な欲求を刺激することを期待されている。例えば、まだ行ったことのないショッピングビルで「ショッピングしたい」と思わせること。電車に乗っている人にたったひと言で「仕事終わったらビールを飲みたいなぁ」と思わせること。それはつまり、目で見えている情報と、記憶に蓄積された情報を瞬時に合わせて、欲求に結びつけることだ。こうして情報をつなぎ合わせるのは、想像力の結晶だ。とてつもない想像力があるからこそ、生まれる前の「あの頃」にも魅力を感じてしまう。

広告づくりに携わる人々の中には、「あの時代」への熱い想いを持つ人が少なくない。未来を作るのと表裏一体だ。「あの頃」への強烈な憧れを持っている。一見すると相反するようだが、しかし、あらゆる情報を総動員する力を持っているからこそのジレンマなのかもしれない。

広告における「あの頃」は主に昭和から平成のはじめを指している。かなり長い間だ。この空気は昭和の真っ最中から繋がっているもので、バブル期や経済成長の理由だけに収めきれない。

参考までに、クリエイターと話していて特に憧れとされる広告のコピーを数点紹介しよう。

(1)さくさく、ぱちん。/国際羊毛事務局・1975年(昭和50年)…西村佳也

(2)ほしいものが、ほしいわ。/西武百貨店・1988年(昭和63年)…糸井重里

(3)hungry?/日清食品・1992年(平成4年)…前田知巳

(1)と(2)は新聞広告、(3)はTVCM。ウールの触感を洒脱に表現した(1)は、オノマトペ表現の極み。この頃から言文一致的な、「話し言葉」を重視したコピーが増えていく。(2)はひとつの完成形。宮沢りえが男性にキスをしている写真に乗せたこの言葉は、バブルの最中の時代を切り取った。(3)は、マンモスを追いかける原始人とマンモスに追いかけられる原始人をコミカルに描いたコミカルなTVCMで有名だ。

もちろん、この後にも印象的な広告は登場している。しかしどういうわけか、色々と伝説的な広告を目指してしまう。20年、30年以上前の仕事を目標にしているビジネスが、他にあるだろうか。広告の世界が20世紀に豊穣の季節を迎えたのは事実だ。しかし、21世紀が始まって20年が経つ。そして、昭和・平成も過ぎ去る中では奇怪なことでもある。

しかし一般的にも、広告というイメージには似た状況がある。「コピーライターをやっています」と言うと「あぁ、糸井重里ね」という答えが返ってくるのはなぜなのか。糸井が「ほぼ日」をはじめて20年が経つ。基本的にコピーライターとしての活動は控えていると公言しているのにもかかわらず。

昔はよかった、と言うのは簡単だ。そして、言葉を磨いていくことは間違いではありません。ただ、現在の私たちが目指すものは、過去にはない。明日からも胸を張って生きるために、この論考を始めたい。なぜならば、私たちはすでに「ほしいものが、ほしいわ。」の向こう側にいるのだから。

■広告批評の空白地帯

日本には10年前まで『広告批評』という雑誌があった。そのタイトルのとおり、主にマス広告の批評を扱った月刊誌だ。主宰は天野祐吉、島森路子が編集人・発行人。この雑誌を知らなくても、朝日新聞で長らく続いた「CM天気図」など、コラムニストとして天野祐吉という名前に聞き覚えのある人は多いだろう。『広告批評』休刊後も、2013年に逝去する直前まで活動を続けていた。

『広告批評は』1979年に創刊。2009年まで刊行を続けていた。創刊した当時、テレビ育ちの世代が、日本でマジョリティになった。あらゆるカルチャーの領域で、革命的なことが次々と起こった。広告業界のことを言えば、1975年を区切りに、広告の中心が新聞からテレビ中心になったこと。例えば、糸井重里や仲畑貴志、川崎徹といった面々がコピーライターとして活躍を始めたことが大きかったと。この流れには大きな同時代性があったという読みは、正しかった。そして、誌面を飾ったのは、当時を賑わせた人々。橋本治、高橋源一郎、村上春樹、森田芳光、村上龍、野田秀樹、坂本龍一、井上陽水、ビートたけし、タモリ、中沢新一、浅田彰・・・・・・挙げれば数え切れないほどの顔ぶれだ。

こうした試みは、休刊まで断続的に続いていた。広告についての批評やエッセイ、クリエイターの特集はもちろんだが、高橋源一郎や橋本治の連載、話題の人物へのインタビュー等々、横断的な内容で、硬派なカルチャー誌としての側面も持っていた。そのオープンな立ち位置が、大切だったのだと思う。レジェンド級のクリエイターの中にも、話を聞くと『広告批評』で取り上げてもらいたくて頑張っていたと言う人も多い。

広告をつくる側にはどうも「批評」へのアレルギー反応がある。広告は批評的な存在ではあるのだが、彼らがいう「批評」は評論と批判のことが多い。多少の誤解はあるにせよ、間違いなく招かれざる客だ。けれども『広告批評』だけは特別だった。この業界を志す学生から大御所と呼ばれるクリエイターまで、この雑誌への信頼は絶大だった。その理由は、中心にこの2人がいたから、に尽きる。

普通の雑誌というものは、編集長が交代しても成立するように作られるもの。しかし、この『広告批評』で扱われる情報量と熱量は、この2人がいなければ成り立たないものだった。時代の移り変わりや当人の体調・年齢を考慮したという理由で、2009年4月号を最後に休刊となった。

これがもし、編集長を交代して『広告批評』を続けていたら――歴史に「たら」「れば」がないことは承知の上で――おそらく良い思い出にはならなかっただろう。なぜならば。彼ら以外の手が入った広告の批評は、ほとんど機能しなかっただろうから。

もっとも『広告批評』は、文壇的なものとは別の場所に位置していた。あくまで主役は広告。その証拠に「広告学校」というコピーライター養成所も主宰していたのだが、批評をする人は育てなかった。卒業生には、コピーライターはもちろん、著名なアートディレクターも数多く生まれています。この批評誌は「広告」のクオリティアップに大きく寄与したのだが、「批評」のために人を育てるのは難しかったようだ。そして誰も、その必要性を感じていなかった。

その状況は、批評する側にとっても似ているのかもしれない。そもそも広告は芸術ではないのだから批評する必要はないとか。マーケ先行型で企業の言葉が反映されすぎた最近の広告は批評に値しない、という考えもある。

その結果、どうなったか。広告を批評するという営みは、ほぼ無いと言っていいだろう。もちろん、なぜヒットしたのかという分析は数多く生まれており、「名作コピー」を集めた本やサイトも、需要があるようだ。また、それらとは逆のベクトルを向いた、広告主や媒体、代理店やクリエイターへの「批判」や「誹謗中傷」も世に出回っているのですが、それらは広告自体を批評する試みとは別のもの。

『広告批評』が休刊してからの10年間、外部からの定期的な広告についての批評がなかった。それはつまり、ちょうどテン年代の広告が批評されていないことになる。すでに時代のモードが2020年代に向かっている中、ここで誰かが振り返らなければ、無かったことにされてしまうのではないか。それは、それは寂しい。連綿と続いてきた記録が、アーカイブすらされないなんて。それと同時に、時代を抜き出しただけでは意味がないとも思う。だからこそ私は、前後の時代をつなげて考えてみたい。ここで、天野祐吉のクリエイターとの対談集『広告もかわったねぇ。』(インプレスジャパン/2008)の言葉を手がかりにしながら、テン年代の広告について話したいと思う。

 

■「大丈夫かな、言葉は」―言葉とメディアの変容

シンプルに「広告」と聞いて、まず何を思い浮かべるだろうか。これには、個人の趣味も関係するけれども、時代によって回答のボリュームゾーンが変わってくると思う。今はまだ、TVCMと答える人が多いのではと思う。20年前だったら、まだ新聞広告や折り込みチラシも存在感があったかもしれない。いつも目にする屋外広告。ひょっとして、SNSの「プロモーション投稿」を真っ先に思い浮かべる人もいるかもしれない。

ここで、「広告費」というお金の話をしたい。あなたが見るほぼすべての広告には、場所代と手間代がかかっている。人の目に触れる可能性が高くなればなるほど、掲載費用(=メディア料、媒体料)は高くなる。この媒体費に、実制作にかかる費用(広告制作料)を加算したものが、一般的に「広告費」と呼ばれるものだ。1947年から電通では、日本全体でどれだけ広告費がかかったのかという統計をとっていて、これはたまにニュースになる。景気が良ければ良いほど、広告費は伸長する。そして、多く広告費を集められる領域は、広告主の業種とメディアどちらも、時代によって移ろいでいくものだ。

そして、1979年『広告批評』が誕生したのが、ちょうど新聞からテレビへの転換の時代。新聞というメディア日本の広告費の首位が逆転するタイミングだった。そして、『広告批評』が休刊した2009年は、ネット広告費が初めて新聞を抜いた年でもある。

それからほぼ10年が経ち、景気の浮き沈みの影響を受けやすい広告費は、全体の伸び率は低調であるものの、ネット広告費は伸び続けている。2018年の日本では、テレビが1兆7,589億円、ネットでは1兆7,848億円という状況で、ネット広告費が地上波テレビ広告費に肉薄している。さらに世界に目を向けて見ると、すでにデジタル領域がテレビ広告費を抜いているのではという見方が強い。

広告の中心にいる媒体が変化するということは、単に業界構造が変わるというだけではない。伝える手段が変わるということだ。広告と言葉が分かちがたいものだとすれば、それはつまり、言葉を伝える手段が変わるということだ。

これは広告に限らない。私たちの日常にも、多かれ少なかれ、そうした経験があるはずだ。

私たちは、言葉をどうやって届けるのかにより、使う言葉も変えている。ペンを取って便箋で手紙を書くときと、メールをするとき。書き言葉だけじゃなくて話す時も同様だ。ファシリテーターとして任されている時に、マイクが壊れるなどすると、身振り手振りを大きくしたり、テンションを上げたり。言ってみれば、別のモードになる。

だから当然、広告にとっても同様のことが起きる。媒体によって文体が変わるということを、天野は谷山雅計との対談で指摘している。前述した通り、1980年代はテレビ世代が台頭してくる。その時代の空気およびクリエイターを引っ張っていた糸井のコピーを[テレビ言葉みたいな感じがする]と言う。ここに加えるのであれば、新井素子のデビューが1977年。言葉の変化が新しい世代から溢れ出てきたというしるしでもある。

天野に応答した谷山は続ける。それなら、次に変質したのは1990年代であると。そこに補足すれば、それは平成という時代が本格的に始まったということだ。[それまでは「納得」とか「発見」といった、新しい価値観をもたらすような言葉がもてはやされていたと思うのですが、90年代は新しさというより、なにか漠然とした大きな空気みたいなものをつくる言葉、方言が主体になってい]き、言葉自体には[スパッと切ったような見識とかドーンとした思想は必要ない]広告になってきたというのだ。ここで挙げられている、1980年代と1990年代の代表的なコピーを比較してみよう。なお、ここに挙げたのは対談の時に挙げられた人を記載している。特に1990年代については、映像と音楽、コピーが渾然一体となって「空気」を作り出しているものが多いので、今回は、この本に倣っている(例えば、「そうだ、京都、行こう。」はCDを佐々木宏、コピーライターを太田恵美とするのが妥当と思う)。

 

【1980年代】

・不思議、大好き。/西武百貨店・1982年(昭和57年)・・・糸井重里

・おいしい生活。/西武百貨店・1983年(昭和58年)・・・・糸井重里

・僕は誰にも似ていない。/サントリー・1985年(昭和60年)・・・秋山晶

 

【1990年代】

・「ペプシマーン!」(シュワ―ッ)/日本ペプシコーラ・1996年(平成8年)・・・大貫卓也

・ドンタコスったら、ドンタコス/湖池屋・1994年(平成7年)・・・佐藤雅彦

・そうだ、京都、行こう。/JR東海・1993年(平成5年)・・・佐々木宏

 

1980年代は、テレビの言葉を使った新聞広告が、まだまだ力を持っていたとも言える。天野は完全主義で閉じた表現になる新聞と比べて、[テレビは逆で、むしろどんどんルーズにひろがっていくものでしょう?]と言う。これは、1995年に宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」と言ったことに通じるのではないか。1990年代はたしかに、ルーズな、のっぺりとした空気が広がっていた。

そして天野は、この2008年の対談において、続ける。[いまぼくが感じている変化の前提は、メールとインターネット]だと感じていた。しかしなかなか慣れないようで[宇宙人の会話みたいだ]とまで述べている。この感覚から[言葉もなんらかの変質をせざるをえない]という推測を導き出している。

1980年代に活躍し始めたテレビ世代のコピーライターたち。ただ、やはり話し言葉と書き言葉がまったく一緒になっているわけではない。天野は、今後ますます一緒になっていくだろうと予想している。そのうえで、危機も感じていた。[言葉の価値が失われてしまうんじゃないか。言葉なんて面倒くさい、言葉を使ってものを伝えることになんの意味があるんだよ]というような空気が若年層に流れているのを感じ取り、ふともらす。[大丈夫かな、言葉は]――広告が言葉でできているとするとすれば、いま太字で表記した文章にある「言葉」を「広告」に置き換えると、とんでもないことになる。しかし対談では、日本人には言霊という概念があるから大丈夫だ、日本人には言葉を信じる・信じようとしている心がある――ということで話は通過していく。そして2019年、この問題提起は宙吊りにされたままだ。

■アイコン化が止まらない

-ファイル2から-

■ポケベルが鳴らないけどタッチパネルなら

-ファイル3から-

■新たなる野性を切り拓く

ところで私はジュウシマツという愛玩用に品種改良された小鳥を飼っているのだけれど、時々、彼らの様子に「負け」を感じる。彼らは鳥でありながら、外で食糧を見つけられない。垂直に飛ぶのも苦手だ。カゴの中でしか生きられない。それでも、自分の野性が萎えていることに気づかされる。

小鳥たちに大切なのは、いま、その瞬間だけ。いつも隣にいるパートナーと離別した直後は悲痛な鳴き声を止めないが、代わりの異性が現れればすぐにアタックをする。そして、育児書や誰に教わるでもなく、卵を産めば温める。抱いていた卵から雛が出てくれば、ごはんを適度にかみ砕いて与え、育て上げる。そして、自らが「食べたい」瞬間にシードに飛びつき、「水浴びをしたい」と思った瞬間には、水浴び場へ直行する。彼らは、欲求を満たすために生きている。

しかし、ここで思うのだ。ひょっとしたら私たちは、再び野性を身につけられるのではないかと。ダイレクトに欲求を叶えていくことが可能になった、この世界で。タッチパネルは、私たちの身体の一部でもあり、世界に作用を及ぼすことのできる道具でもある。広告は古いのではない。新たな野性を切り拓く、その先駆けにいる。

 

【参考文献】

『広告もかわったねぇ。―「ぼくと広告批評」と「広告の転換期」についてお話します』天野祐吉/2008、インプレスジャパン

文字数:7655

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