黒に縁どられた青

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梗 概

黒に縁どられた青

少女ニルは生まれた時から神との交信を発現していたが、母親が「見ないもの」だったため、
理解を得られなかった。「見えるもの」であったニルの力を余計なものと決めつけた母親は、ニルをほとんど虐待していた。

度々目にするニルと顔見知りになり、対話してニルの交信を知ったマーク・ロスコの作品の特別室であるロスコ・ルーム担当
学芸員ミアは母からニルを保護することを決意する。ニルは発現と交信媒体であるロスコ作品に近づけるため、ミアの養子となることにうなづいた。

ミアが正式に里親となるまでには時間が必要だったが、その間に母親と会うのは好ましくない。ロスコを収録した美術館はほかにもあり、二人はそこに向けて旅をすることにした。

神の意図は計り知れない。
出発の前の日、ロスコルームを通して出会う神と交信してニルは自らの宇宙を行き来する。
脳がざわつく。とニルはいう。
光が少女ニルを満たし、その力を発現しはじめた。
四方に作品をたたえた壁に囲まれたロスコ・ルーム。

ミアはロスコを通じたニルと神の交信を見て、高揚を覚える。
その交信の光景は、ミアにはそれ自体が人類への福音となる美を放っていた。

神は実物の作品を介して現れることもあったし、作品の影も形もないところに
ニルを介したロスコ作品として”発現”することもあった。

美術館の空っぽのロスコルームにて、従順な娘を奪われた、とつぶやくニルの母親。

ニルの母親のように神を見ることがなかった人たちが神の話をする時には、
神を見る人たちとまったく違った見解を示すことは多かった。

神は生死を司る。

両方の人々の中で、神に対する考えは、その点では同じだった。
神は、美から到達する生への賞賛とともに、ひとの生死を司るからこそ、注目を集めてきたのだ。

生死を司る?

そう、その光の認識とともに、司るのだ。

神を見ることのなかったニルの母のような人たちにとってそれはまるで、
他人に自分の人生を好きなようにされている感覚だった。

或る日突然、死んだ「見えないもの」がいた。
主観的には何もわるいことはしていない。けれども、神のみわざで。
それも、苦しみ抜いて。

神の手で行われたことなのか確信のないまま、「見えないもの」の中で神を疑うものが出てきた。

そのような不条理。そう怒りを感じるものも、嘆き悲しむものもいる。
そして、そのすべての出来事を透徹して、神の考えに迫ろうという「見えないもの」もいた。
神の「発現」だけはすべての人類が見ることができるいま、その神の行いに対して、皆の視線は集まった。

ニルだけではない。神の発現が現れるものは「見えるもの」の中でも複数現れた。
宇宙卵を抱えて動物を生み出すもの。弓矢の技術を通して発現するもの。

その日、ニルとミアは廃墟のように荒れ果てた神社にテントを張ることにした。
近所の人がきづいたのか、焚き火をしていた二人に近づく影がある。

神をみることのなかった人たちは、神を自分への干渉者と考え、じぶんももしそのような
干渉をする力があったなら、と思うことも多かった。

ニルが暗闇の神社で火を炊いてマーク・ロスコの発現で神と交信していると、
近所の人があつまってきた。

少女とマーク・ロスコを通して神は、色彩のうつろいとして表された。
現出したマーク・ロスコは、本来「見えないもの」である村人たちにも見え、
村人たちはロスコ・ルームの出現を静かに見守り、一人づつ、その部屋に入って
作品を楽しんだ。焚き火の中では少女ニルにロスコが宿り、ミアと対話する。

外では神の力の現出が作品の形で続く。
ある日の神は四角く縁どられた夕日としてみるものの内奥で揺れ、
ある日の神は、緑を滴らせつづけた。
ある日の神はうすく黒に縁どられた青で、或る日の神は、二分割された赤だった。

少女ニルの中のマーク・ロスコを見るとき、この絵が神を抽象化したものだとどこかから得た情報がなければ、
ミルは何も考えられず、従ってこの絵は、ミルにとって空白なのだった。

ミルは空白を埋めたい。だからそうその空白をみつめるために、発現ではない、
ロスコが生前に書いた絵を、『マーク・ロスコ』を探した。
マーク・ロスコの生きた時代を探し、その魂が消滅した瞬間をおもい描き、
それまでの彼の思索を追おうと試みた。

いまでは光として見える、神のこの発現。彼の最後では、どのように見えていたのだろう。

突如ニルの母親が現れ、連れ去ろうとする。
「神なんていない。見えない。あんたは騙されている。」

死は静。
生は動。

ニルはしずかにしていよ。と告げられる。
本当に動くもののために、お前はうごいてはいけない。
自らを閉じる術とその時をこころえよ。
動くべきときがくる。そのときが来るまで。

ミアは神の説明する。

神は、人間の中の”愛”として、発露します。
それは、得難いものです。
得難いもの、「という意味」でもあります。

世界を一瞬で席巻してしまう不安や、その雪崩としての恐れ。
人々に同時に恐怖の感情を共有させ、その一瞬を記憶に焼き付けるような
大衆そのものを対象とした

得難いものです。

彼女のマーク・ロスコを通した神は、その存在を証明されています。
神は証明された。ニルの母親は首をふって、力づくで連れて行こうとする。

しかし、ミアがそれを諭す。
神が証明されながら、私たち人間の中でわかりやすく得難い認識をともない、そしてまた認識をともなわない関係性の形をしている。そうなのではないでしょうか。

親と子の、自然と人間の間の、光とそれを照りかえしながら飛ぶ鳥の羽のきらめきの、
そこかしこに神は、存在しています。

虹の、人間の中に現れる美しさと呼ばれる法則のなかにも…。

ニルの母が追いかけたニルに手を伸ばし、マーク・ロスコの発現に触れた。
炎のような赤がのぼり、母は目を見開いて自分の手をみた。
そしていつまでも、見続けている。

文字数:2356

内容に関するアピール

マーク・ロスコの代表的な作品は、抽象的な色と四角い形を用いて表現主体としています。神秘主義やスティーヴ・ジョブズが死の直前まで探索の対象にしていたそうで、彼の製品デザインへの影響の有無という点でも、興味深い人物です。

神と交信する主人公ですが、実作では人類と神という懐かしい未知をつなぐため、ハードウェアを彷彿とさせる人間と補助知能の融合発展したイメージでの造形をしたいと思います。

また、現代芸術作品の解釈の中では、マーク・ロスコがユダヤ教を信仰していたために、具象を欠くこの作品群へこそ神の姿を深層で投影していたという見解があります。抽象的な絵画だからこそ、文字で解明するリアリティをどう表現、受容するか、そしてそこから発現される物語を語り、受容する面白さがあると考え、そこを追求していこうと考えています。

 

文字数:353

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黒灰

 

ニルは、しずかにしていよ。と告げられる。
本当に動くもののために、お前はうごいてはいけない。
自らを閉じる術とその時をこころえよ。
動くべきときがくる。そのときが来るまで。
埃の粒が待っている明るい空間に、日差しが線のように差し込んでくる。
ミアは古びた木のテーブルに手をかけて、遺稿を読んでいた。
読み進むにつれて、あの、青い煙の筋が、彼の脳裏によりそう気配がきえた。
いつかどこかで何者かが彼女を穿つことにしそのあと立ちのぼった煙だ。

明瞭な意思がたちあがり、ミアの頭をクリアにしていく。

自死はあまりにも強烈でセンセーショナルな出来事た。
どうしてもその一点は画家のトピックとして浮上しやすい。
が、それは決して画家の本質の近くにあるわけではない。

かれはただ、クレバスに落ちてしまったが、それよりも明瞭な彼の思考が、
彼の命の軌跡がここに、明瞭に記されていること。

それこそが、誇張などせずともそこに確かな。

もし、この遺稿さえのこされていなくても確かな、
神への寄進だったのではあるまいか。

ミアは口元に手を充てたまま、視線を固定させた。
光の線の中では、床からのぼった埃が風もないおだやかな日差しの中で。
それでもなお動きを変えつつ、また光の線の外へと移動していく。
対流が。ひそやかな対流が…、つづいていた。

少女に現れた症状を、ミアは詳細に記録につけた。
マーク・ロスコを発現する少女だ。

彼女は生まれたときからマークロスコを発現していた。
では、マークロスコを発現するとはどういう状況なのか。

彼女は、脳の中に、彼の作品を宿していた。
彼女はすでに、マークロスコが絵画を通して伝えようとしていた神へと至る、

決して物理的に開くことではないがその形をしてそこにあることで到達する場所を、
彼女の折りたたまれた表面積の広い脳の中に、たくしこんでいたのだ。

彼女はそれを、特に神の姿とは知らずにすごしてきた。
そこにある図象を、そうとは知らずにいつもともにあるものとして隣に、風景に、
そして人間に重ねて見ることができた。

ただ、生まれた直後に自分が発現しているその図象の意味を知ることはなかった。
彼女が発現した図象は何かを「意味」するものではない。「意図」するものですらない。
ただただ、そこにあり、絶対的な存在とは何か、絶対的な存在に至るまでのプロセスとは何か、
そのことを、証明し続けたフレームや四角という形、色と、その重なりだったのである。

「彼女の隣で眠るものは、その色彩とその重なりの奥行きを、
まぶたの裏で体験することが、できたのです。」

眠るたびに、彼女の脳内の作品は、それを再現させるのと同じ、その夢を見るための
電子の流れを、近くにいるものの脳に起こすことができたのです。

彼女はそれを、端から見ると全く何もしていないように見える無防備な、
ただ手足を動かすことのできる存在である生まれたばかりのその時期から、行っていました。

その物的証明がなされたのは、神が発現した時に発する特殊な光子を観測できるようになってからだった。
神が発生するパターンにはランダム性があって、ニルはそのパターンを発現するうちのひとりだった。
ある一定の波動を受け止めた時に脳内の光を認識する場所が反応した。
その波動を受け止め、脳内の光を認識し「神」を見たり、存在を感じたり、その発現を知ったのだ。
神とはある一定の秩序と、そしてそれを超えたものだった。

「神」をみるものはその姿を基準に行動したし、みないものには、その行動の意味は分からなかった。
見ないものと見るものの間は寛容に受け止められる時もあれば、そうでない時もあった。
あるとき、「神を知るもの」たちの集団の一部が、「神を知らない」人間の脳に眠る、

光を認識する場所を有効にする方法を発見した。

その特殊な波動を検知し、神を知らないものたち、もしくは知るものたちのうちでも
その光の見え方を統一するために(というのは、神が発現する時に認識される場所は同じでも、
どのように神が認識されるのかは、人によって違ったからだ)望むものは、「神」の発現を見ることができた。

そしてさらに、個々人の脳内で認識するだけではなく、その発現過程を記録し、
対外的に神の発現を証明できる方法も生まれた。

これにより、もし本当の「見えるもの」であってもその発現を誤って認識したり、詐称したりする
例を減らすことができた。
つまり、本物の「神」のふるまいについて、客観的な観察を行うことが可能になったのである。
そしてこれは想像に難くないが、「神」は科学としての解明に出会ってもなお、
圧倒的な未知を示す存在だった。そしてそれを超える秘蹟としてのあり方には、様々な解釈のヒントが見えた。

みなが神を知る世界で、過去の神を発現したものたちのリストとそれを裏付け、確認する書が
つぎつぎとつくられた。

私はその書をひもといた。この世界のルールとニルについて考えたい。

ニルは、ロスコを発現した。

「マーク・ロスコだね。」

振り向くと背の高い青年が、私を直視していた。
正確には、ニルの後頭部に視線を当てた形で、その状況には彼の視線の鋭さにもかかわらず、茫漠とした印象をもった。

見た顔だ。そう思い、気がついた。先日みたプログラムで、現代美術史の解説をしていた識者だった。
ロスコ・ルーム。たしか、あの部屋は、ロスコ・ルームといった。

いつも夢を見る時に浮かんできて、そして明け方には背後へとまわる形。色彩。かげ。

ニルは後ろを振り向いた。いまは、朝に夢からでてきたかげは、ニルの後ろの方へと後退している。

ミルは青年から指摘されて気づいた。
他人の目から指摘されることがあるという噂は聞いたことがあったが、今起きたことに、実感がない。
「ミアだ。」
手が、差し出される。
ニルは、鼻から息をゆっくりと大きく吸って、口から細く、はいた。
青年の手を見つめてから、顔をあげる。
青年は、待っていた。
「手は、いい。」
ニルは、首を振った。すぐに、離される。
後頭部から意識を青年の周りにふった。青年が、目前の空中に焦点を結ぶ。
「…『黒とグレー』。」
「知っている絵本に、いちばん、近い、いろ。」
ミアはロスコ・チャペルの中に佇んだ。
壁画としてかけられている四角い平面は、彩度や明度のいっさいを落とした紫。
黒い紫や闇に近いフレームが、ひたすらな色彩の真空に沈んでいる。

ヴェルベットのような四角いフレームたちは、さながら沈黙を続ける星を隠した闇のようで、
漆黒の虚空にいま、まさに飛び発とう、飛び立たなければいけない時を迎えた人類の期待と
茫漠とした不安を象徴しているように思えてならなかった。
それは、死を予感させる挑戦で、静謐な神殿となる人類の未来へとふみだす、そんな一歩でもある。

その扉として、門柱として、決して開かないけれど静かな光を放つ窓として
この絵画が存在していることを、ミアは心に感じた。

チャイムの音がした。中にいた学生たちが、ひとり、またひとりと
チャペルから出て行く。

ふと手元に目を落とし、
画家の写真をいくつか見た。パンフレットに描かれている詳細に目を落とす。
しばらく読んで、ミアは息を吐き出した。

あの埃がきらきらと舞う部屋で直感した画家の最後と実際のそれは、
どうも違っていたようだ。

写真の中のマーク・ロスコの瞳。。
闇の中に、ぎゅっと捉えられそうで、心の奥で震撼する。
その眼は見つめるものだけでなく、自ら己を焼き尽くす闇、限りなく冷たく暗い炉の燠火。
身を引かないとその中へと閉じられていきそうで、のどの奥が音を立てる。

息を吸い込んだ。少しせきこむ。
椅子の背に手をかけて、息をし、からだを支えた。
おもいもかけない恐怖が現れてきそうだった。

ニルに発現しているのは、本当に神なのだろうか。
悪霊のようなものではないと、どうして言えるだろう。

しかし…。
ミアは我に帰り、自分の意識が画家の瞳からチャペルの空間に、そして体に戻ったのを知る。
息を、細くながく、吐く。

空間は静謐だった。他に人は誰もいなかった。
天井近くから、間接的な薄い光がチャペルの内側を照らしていた。
もう一度、息を吸い込んで、ゆっくりと肺に満たし、口からそっと出していく。

目の前の壁が、ゆれていた。
暗さに沈んだ紫と、黒の中に沈んだ赤と、リズミカルに並んだ壁面と真っ直ぐに並んだ壁面と。
八つの壁は、からだをめぐらすミアの視線ごと包み込むように、
しずかにそこにあった。

ミアは、…絵ではない。と思った。

これは、絵ではない。と、思った。
形と色の、波動が鼓動と共鳴する。

脳裏にニルの顔が浮かんだ。
ニル…。
なぜだかニルを、抱き締めたかった。

ニルは自分では知らないだろう。
この空間を。

彼女は発現するのみだ。
体感するのは他のもので、
彼女はただ、そこにいるものに発現を、この波動を、

存在を、

絵と対峙する互いの存在を、その輪郭をほどいたまま、強くするのだ。

…胸が鳴った。

発見が、ミアの胸を熱くしたのだ。
ニルに会いたかった。
ひたすら、ニルにあいたかった。

ミアは、
息を吸って、小さく細く、口から吐いた。

それからずっと、チャペルの壁に、
それはもはや壁ではなかったが…

それを感じながら、チャペルの中心で、
ずっとそこに

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