サンギータ

梗 概

サンギータ

 悪魔の仮面をつけた男達がククリ刀で斬り落とした、血塗れの水牛の首、猿の首、羊の首、ヤギの首が部屋中に並べられる。
 泣いた子らは資格がない。男達に手を引かれ館を去った。
 サンギータ一人が残った。アジと呼ばれる世話役の女達が跪く。
 生ける女神クマリの転生者はこうして選定された。サンギータにとって地獄の日々が始まった。

 クマリは今や偽神に堕している。カトマンズの最高権力者マヘシュ・バウン大僧正は足繁くクマリ館に通っては、幼いサンギータの体を弄んだ。召使達は黙認する。先代以前よりずっと行われてきた事なのだ。
 サンギータは、クマリである自分が人間風情にいいようにされるのは、クマリが本来持つ神格が失効しているためだと考える。
 なぜ失われたか。
 クマリの選定には32の条件が課せられる。中には次のようなものがある。

  • 鹿のような脚
  • 獅子のような頬
  • 獅子のような胸
  • 牛のような睫毛

 監査官達はサンギータがこれら条件を満たしていると判断した。だが鏡に写る裸体をどれだけ見つめても、サンギータにはそう見えない。
 これが失効の要因だろう。神格を取り戻さねばならない。
 どのようにすればと考えあぐねていた折、〈躯型パターン奪胎〉技術を知った。
 年に六度だけ許された外出の一つ、インドラ祭で賑わう街を山車で巡る中で、サンギータはクマリ館では見ない奇妙な容姿の若者達に目を留める。透明なクダクラゲの皮膚の内側で、夜光虫遺伝子の発光作用を得た肋骨がクリシュナ神のように青く光っている。
 バイオ・テクノロジーが進歩した結果、ヒト遺伝子を導入した遺伝子組換生物は人間の身体部品の優れた代替品となった。人体改変技術〈躯型奪胎〉は世界中に伝播し、身体機能の修繕・向上の用途だけでなく、今やファッションとして巷に溢れる。
 成長し自らの美貌を自覚し始めたサンギータは、召使シッダルタを誘惑し、望みの動物を集めさせる。シッダルタを介して躯型奪胎専門の〈呪医バイディヤ〉キランを夜な夜な館に招き、自らの身体を少しずつ造り替える。鹿の脚、獅子の頬、獅子の胸、水牛の睫毛。
 それでも失われた神格は戻らない。

 マヘシュはサンギータが醜く姿を変えていく事に耐え切れず、初潮を待たず犯そうとする。処女に覆い被さるマヘシュを、シッダルタが背後から斬り殺す。
「これは血ではありません!」寝室に飛び込んできたアジがサンギータの聖性を保証すべく口々に叫ぶ。「断じて血ではありません!」
 シッダルタが遺体をパシュパティナートの火葬場で灰にして川に流す。戻ってきた時、サンギータの中で答えが出ている。
 瘤牛はヒンドゥー教で神聖視され殺生を禁じられている。だからサンギータは熟慮もなく水牛の睫毛を移植した。これが誤りだ。神の娘デヨーマイジュにふさわしいのは神聖な瘤牛の睫毛に決まっている。
 瘤牛は体内に3億3千万の神を宿し、84柱の神格を持つという。
 実に妬ましい。神はこの私ただ一人でよい。
「牛を殺せ」
 シッダルタは聖別したククリ刀で瘤牛を殺す。呪医キランが瘤牛の睫毛をサンギータに移植する。
 直後、仏教、ヒンドゥー教、それ以前の原始の神々がごった混ぜになったカトマンズの全ての神像が粉々に砕ける。聖典、経典、神にまつわる書物の全てが自然発火して焼失する。
 同奇跡が全世界で起きた。ネットの膨大なテクストや図像までもが消滅した。
 クマリ女神が神格を回復し、万物の道理を自在に造り替える〈理力〉を取り戻したためである。
 人々はあらゆる神を忘却した。然る後、32の条件を完璧に備えた84柱の神の娘デヨーマイジュが、世界を分割統治すべく各地で産声をあげる。

 以後、神の娘達を統べる一人の女神が世界を支配する。自己愛に病むクマリ女神は転生を好まない。皮膚や内臓だけでなく細胞に至るまで躯型奪胎を繰り返し、若さと威光を幾星霜保ち続ける。

文字数:1593

内容に関するアピール

 ネパールでは、思想にしろ文化遺産にせよ、ヒンドゥー教、仏教、およびそれら世界宗教以前の精霊信仰アニミズムの諸々が、ひしめき合い、ときに互いの境界を越境して混ざり合いながら共存している。その猥雑さ、曖昧さは日本の神仏習合の比ではない。
 今回はそんなネパールに実在する生き神「クマリ」を取り上げて課題への応答を試みた。

 混沌を極めるネパールの宗教構造のなかで、クマリ信仰はとりわけ奇妙なものに見える。
①そもそもクマリはどのような神なのか、という点からして非常に曖昧である。クマリは密教の女神ヴァジラ・デーヴィーを宿すといわれる。また、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーを宿すともいわれる。さらにはネパール王国の守護神である女神タレジュの化身ともいわれる。すなわち、クマリの神性はヒンドゥー、仏教、土着信仰の狭間で引き裂かれている。
②また驚くべきことに、クマリ信仰はその発生時期すら定かではない。最も古いクマリとして実名で記録されているのはカトマンズ・ウォトゥ出身のヒラーマイヤ・シャキャ(1865-1866)である。それ以前の記録、「プリティヴィー王がカトマンドゥ王国を征服した後、生き神クマリから祝福を受けた」という歴史記述を事実とするならば、マッラ王朝の時代(1380-1768)末期においてクマリ制度は既に成立していたものと考えられる(が、ここでクマリは匿名である)。これらが現存する最古の記録であり、それ以前の記録は残されていない。

 上記①、②を合わせて見えてくるのは、「クマリとはそもそも、出自(=宗教的ルーツ)も発生時期も不明な、謎めいた存在である」という事実だ。

 以上のことから今回僕は、転生を繰り返すことで現在も存続するクマリという生き神を、宗教・神ごった煮状態のネパール国の混沌に乗じて、あるとき誰にも気づかれずにひっそりと降り立った「異神」として幻視した。クマリ女神は宿主に寄生する寄生虫のように他宗教に寄生、擬態し、転生を繰り返して生き延び続ける。長い雌伏を経て力を蓄え(現にネパールの王国時代末期には、クマリは国王以上の力を有したという)、ついには宿主である他宗教の神々の腹を食い破って産声をあげる。
「神が存在する世界で何が起きるのか」。本梗概では、クマリ女神がテクノロジーの力を利用して世界宗教を統一し、ユートピアを築く様を描いた。「神の顕現のために然るべきプロセスを踏んだ結果、劇的な『奇跡』の発現とともに神の存在が証明される」という筋立ては、アーサー・C・クラーク『90億の神の御名』などの先行作品を念頭に置き構想した。遺伝子組換生物を用いた人体改変ガジェット〈躯型パターン奪胎〉については、諸星大二郎『バイオの黙示録』をもとに着想し、根拠の多くをA・キンブレル『THE HUMAN BODY SHOP』に依った。

補足

①梗概冒頭のクマリ館におけるクマリ選定の血なまぐさい試練や、「クマリになるための32の条件」は、すべて事実に基づいている。
 ※「32の条件」全リストはこちら
②梗概終盤、「クマリ女神の復活とともに産声をあげた神の娘デーヨマイジュたちが世界を分割統治する」という筋書きは、まったく根拠のない空想ではない。あまり知られていないが、クマリには二種のタイプがある。うち一つはカトマンズのクマリ館に住む、国王もひれ伏す「ロイヤル・クマリ」である。一般的に「クマリ」という場合、概ねロイヤル・クマリを指す。そしてもう一つは、ネパール国内の村や町に多数存在する「ローカル・クマリ」である。神の娘デーヨマイジュは「ローカル・クマリ」の世界展開として空想した。

文字数:1501

サンギータ

 アサン・チョークの市場の活気や華やぎよりも、貧民窟スラムのぬかるんだ小路や傍らを流れる川、水や土のそばの方が、薄汚れていても性に合っていた。
 シッダルタ以外に参拝者のないバイラブ寺院の礼拝堂に、ある朝、聖なる牛が迷い込んできた。街で牛を見かけるのは別段珍しいことではない。老いや故障により動きが悪くなったもの、病を抱えたものなどは、働くことができないから、所有者は飼育をあきらめ、これを街中に放してしまう。やってきたのは後者だろう。ところどころ脱毛して露わになった薄桃色の皮膚に、黒いまだらの病巣がいくつも浮かんでいた。雪のような睫毛に縁取られた目は苦しげに濡れていた。さんざ涙を流したあとの、女のような顔だった。
 シッダルタは、こいつをいまここで、殺してやろうかと思った。が、すぐにやめた。人の身に、聖牛の生殺与奪を、自由にする権利はない。

 

     

 マハンドラ・ハイウェイに立ちこめる黄金のスモッグのなか、怠惰にわめきちらしながらダンスする、白や黒や黄色の猿たちは、マシンが追突する寸前になってようやく飛び退く。遮音壁によじ登り、植樹帯のベンガルボダイジュに飛び移る。
 南のダクシンカリからカトマンズまで僅か十七キロの行程が、シッダルタには地獄のロング・ドライブに感じられた。
 村を出る最初のときから厭な予感はしていた。シッダルタを迎えに来た漆黒のリムジンは、そこらのストレッチ・リムジンとはわけが違った。ベースカーはベーシックなセダン・タイプではなくマッチョなオートバイ。レトロな日本車〈Kawasakiバルカン2000〉は、スプリンガーフォークを採用したチョッパー・カスタムモデル。そしてバイクの後部に結合した客室車輌のサイド・ドアには、蓮華カマルを捧げ持つ菩薩の微笑——「蓮華手菩薩」の複製画レプリカが極彩色で描かれている。
 リムジンのオーナーはカール・バジャルチャルヤ、〈僧侶バラモン階級カーストでありながら、僧院サンガ内部の政治的対立から失脚し、長らく権威から遠ざかっていた没落貴族の現当主。カールは未だ二十代後半の若さで、一代にしてバジャルチャルヤの家を復興へと導いた辣腕だったが、美的センスは疑わざるを得ない。
 リーゼントでキメた栗色の巻き毛、儀礼用の礼服ダウラスルワールの上にダブルのライダース、目元には死神のサングラス。男は煙を吐き出した。〈ヤング・ブラザーズ〉の新作電子ハシシに添加された甘ったるいココナッツ・フレイヴァーが、客室車内に立ちこめた。
 ハイウェイを下りると遮音壁が消え、眼下にカトマンズ渓谷が現れた。仏塔ストゥーパを起点に伸びる無数の路地は植物の浮彫レリーフのようだった。街が纏った黄金の衣は、黄砂と光化学スモッグと、パシュパティナートの火葬場からあがる死人の煙の混ぜ物だった。
 市街に入った。チョッパー・リムジンは細路地をいくつも抜け、ダルバール広場を過ぎた先、信心深いカトマンズ住民や観光客で賑わう古い館の正面にふてぶてしく停車した。
 外から客室ドアが開いた。カールの専属運転手は右目に眼帯をつけている。身長わずか150センチたらずの小男だが、褐色の肉体は磨き上げた鋼に見える。
 シッダルタはバックドアを押し上げ、必要な準備物を取り出した。儀式用の赤い衣装、自前の刀、憤怒の形相の鬼の面。カールの後に続いて二頭の白獅子像の入り口をくぐると、三階建ての建物に囲まれた中庭に出た。
「マヘシュとは——」カールがボスの名を口にした。「直接話を?」
「まだ顔も知りません」とシッダルタは答えた。
 ダクシンカリでシッダルタが面会したのは、通過儀礼バレチュエグも済んでいない僧院サンガの若衆、ケツの青いガキどもだった。
「なら、あの男の性癖も?」
「はあ。存じませんね」
 カールは中庭奥の観音開きの扉を無遠慮に押し開けた。玄関ホールには宝瓶と曼荼羅をあしらった巨大なチベット絨毯が敷かれていた。両側の壁にはそれぞれヴィシュヌとラクシュミーのタペストリーが架かっていた。正面の大階段を上った。
「ある男が先代の女神デヴィーにサリーを贈った」とカールは言った。「ビシャールという男だ。ビシャールは、新しい装束を身につけた女神デヴィーを目にすれば、巡礼者たちの信仰心はより強まると考えた。生真面目で信心深い奴だったんだ」
 そこでいったんカールは言葉を切った。階段を上った先、三階の大広間に待ち人がいた。
 六人の人物がいた。二人が女で四人が男だ。女たちは儀礼用の赤いドレスを纏っていた。男たちは黒の長衣を着、顔を悪魔の面で覆っていた。
 加えて、獣たち――二頭の山羊に二頭の水牛、一頭の羊、一匹の猿の姿があった。猿は檻のなかで反抗期の子供のように絶叫していた。
 二人の女がシッダルタたちに歩み寄った。ひょろ長い女と太った大女で、容姿も体格もまったく異なるのになぜか双子のように見えた。
「この二人が今後、女神デヴィーの代理母となる」とカールは言った。
「〈試練の間〉はあちらです」〈アジ〉と呼ばれる代理母の、ひょろ長の方が奥の扉を示した。
 カールは手首のハミルトンに視線を落とした。「ラジュ」と呼びかけた。
「刻限にはまだ少し」と答える声があった。
 振り返ると背後に運転手の小男が立っていた。ここまで一切、気配がなかった。
 カールは窓際に移動してハシシを吸った。シッダルタを手招きして呼び寄せた。
女神デヴィーにサリーを贈った敬虔な男を」中断していたおしゃべりを再開した。「マヘシュはどうしたと?」
「さっぱり、見当もつきませんね」
 カールは薄ら笑いを浮かべた。もったいつけるように間を置き、ココナッツの香りの煙を吐いた。
「マヘシュは贈りもののサリーをビシャールに着せて、奴のケツを掘った。ヤリながら、ゆっくりと首を絞めていった。で、結局そのまま絞め殺しちまった。『俺がイクのと奴がくたばるのと、どっちが早かったかな』だとよ。笑ってたよ。
 ビシャールは、順当にいけばタライ平原あたりでジャガイモの肥料になってるはずだ。水牛の胃と肛門を経由してな。それがお前の前任者の末路だ。俺の言いたいことはわかるな?」
 シッダルタは手をひらひらさせて言った。「『余計なことはするな』」
「いいね」とカールは言った。「頭の切れる奴、慎重な奴は生き残る。期待してるぜ、〈神の召使デーヴァナーディー〉」
「時間です」とラジュが告げた。
 二人は試練の間の木製扉の前に立った。
「ところで、どうして俺なんかが選ばれたんです?」
「自分ではどうしてだと?」
「まあ、腕っぷしには多少自信がありますが」
 カールは声を上げずに笑った。「召使ナーディー女神デヴィーの護衛だからな。たしかに腕っぷしも必要だが、俺が見込んだのはそこじゃない」
 カールはシッダルタの腰の帯刀に目を落とした。
「なぜヒンドゥーの経典タントラは、お前のような『職人』の血統を不浄階層カーストに据えたのか。理解に苦しむね」
 シッダルタは刀の柄に手を伸ばした。「こいつが理由だと?」
「評判はカトマンズまで届いてるぜ、〈鍛冶師カミ〉のシッダルタ。なるほどお前は〈不可蝕民アンタッチャブル〉かもしれないが、俺は、古くさい階級制度カーストに目を曇らされ、みすみす才能を見過ごすなんてのは、我慢ならないタチでね」
「お褒めに預かり光栄の至りです」
「食えねえ野郎」とカールは言った。「刻限を過ぎてる。さっさと片付けちまおう」
 シッダルタは鬼の面を被り、水牛の手綱を握った。
 カールは勢いよく扉を蹴り開けた。広々とした室内には獣の臭いと血の臭いが残る。長年にわたり行われてきた試練の痕跡だった。シッダルタとカールが、今日の試練の担当官だった。
 部屋にいる少女の数を数えた。全部で十三人。シッダルタが受け持つ〈執行者〉の役柄はきわめてシンプルなものだった。ここにいる、年端もいかぬ小娘どもを、恐怖にのたうち回らせること。〈監査人〉のカールが臨席して見届ける。
 背後で扉が閉ざされると、室内が暗闇に包まれた。試練の間には元より窓もなく、明かりといえばか弱い橙の光を放つ、天井から吊り下がったランプ・シェードだけだった。
 シッダルタは腰に帯びた刀を天鵞絨ヴェルヴェットの鞘から引き抜いた。
 刃渡り一メートルを超えるその巨大なククリ刀には、顔がなかった。「く」の字型の刀身にも柄にも、彫刻その他意匠の類いは一切施されていない。等間隔に彫られた溝は、純粋にグリップの向上のためだけにある。通常、鞘に同時収納される小刀カルダ火打ち金チャクマもありはしなかった。すべてがそのようだからこそ、刃の付け根に施された「ω」型の刻み、ククリ刀をククリ刀たらしめる〈カーリーの陰核チョー〉が、ひどく映えた。
 シッダルタはククリ刀を高く掲げ、手のひらをかざして聖別した。命運の終わりを直感した賢しい水牛が、弱々しく啼いた。シッダルタが獣の胴に刃を振り下ろすと、啼き声ははたと途切れた。血しぶきが飛び散り、真っ二つに分かれた水牛の体が倒れた。血と内臓が床に流れ出た。飲血食人の破壊神マハーカーリーのごとく生き血を啜ったククリ刀の、湾曲した刃が陰惨にぎらついた。
 四人の娘が、早くも泣き出した。
 泣いた子らは資格がない。悲鳴を聞きつけ飛び込んできた悪魔の仮面の男たちが、泣いた娘を抱き上げて再び部屋を出て行った。もといた村に帰され、以降金輪際、この館に足を踏み入れることはないだろう。
 刀を研ぎ、動物を殺し、デーヴァに捧げる。それがダクシンカリにおけるシッダルタの仕事だった。無に等しい者、それ以下の存在。埃、虫けら、ただの塵――不浄階層カースト不可触民アンタッチャブル〉に生まれ落ちた瞬間に、取り決めがなされたのだ。シッダルタは生まれてこの方、一度も離れることなく血腥い宿命とともにあった。
 今日のこれとて、いままでと大差はない。ダクシンカリ寺院の河原からカトマンズの女神デヴィーの館に、場所が移っただけのことだ。
 シッダルタは「仕事」をつづけた。次は山羊の首を斬り落とした。血がはね、一人の娘の頬にべちゃりと付着した。汚れた娘の左右で悲鳴があがった。右の娘は失禁した。どちらもすぐに連れ出された。
 あとから入ってくる動物たちの首を、シッダルタは順に斬って落としていく。黒衣に鬼面の男たちが、かっと目を見開いたまま絶命した獣たちの生首を、残りの娘たちを取り囲むようにして並べていく。娘たちは狂乱し、泣き叫び、次々部屋を出て行った。
 真紅の血の浅瀬が、試練の間いっぱいに広がった。残る娘はただ一人となった。
 シッダルタは途中から気がついていた。驚くべきことにこの娘は、試練の始まりからいまに至るまで、微動だにせず、顔色一つ変えていなかった。山羊の血が自身の頬を汚したときさえ、眉一つ動かさなかった。まるで命のない人形。中央の木椅子の上、ぴんと背筋を伸ばし、手を膝に置いて、行儀よくしぶとく座り続けている。
 まだあどけない、右も左もわからぬような小娘。からす色のおかっぱ頭にひ弱そうな青白い肌、針のように痩せた体。
 これが、女神デヴィーだと?
 シッダルタは地面に転がる山羊の頭部を掴み上げた。凄絶な形相は、西洋の悪魔によく似ていた。シャーマニックな怒号をあげながら小娘に近づいた。娘の眼前に山羊の顔を突きつけた。
 動じない。
 山羊の首を放り捨て、首元にククリ刀を突きつけた。すごんだ。「泣け」。
 片方の目から涙の一筋が伝った。
 恐ろしくて泣いたのではなかった。結局娘はこらえきれず、ふあ、と大きな口を開けた。
 あくびをしたのだ。よりによって、このような状況で。
 前歯が一本欠けていた。乳歯が抜けたばかりなのだ。
 シッダルタはカールを見た。
 カールは言った。「アートマーの部分欠落が見られるな。申し分ない。女神はあまり感情を表に出してはいけないからな。いやまったく、あまりにもふさわしい」
 カールが二度手を叩くと、アジが入ってきて明かりをつけた。二人は娘の頬や体に飛び散った血の汚れを拭き取った。それから娘の額に、祝福の赤いティカと第三の目をつけた。
 カールが娘の足下に跪いた。アジたちもカールに倣った。だからシッダルタもこれを真似た。ひょろ長のアジの長い髪が床に垂れ落ち、獣の血を吸った。
「ようこそいらっしゃいました」カールは言った。「今後はこの館が神聖なるあなた様の住処となります、クマリ女神デヴィー
 幼いクマリは、こらえきれなくなってついに噴き出した。
「何が、可笑しいのでしょうか」大女のアジが戸惑いながら問うた。
「死んだ山羊の顔」とクマリは言った。「ふふ、あの顔! にらめっこじゃ勝てっこない!」
 これがサンギータとの出会いだ。
 そしてこれが、傲慢で尊大な小娘がまだ人間だった頃に見せた、最後の笑顔だ。

 

     

「顔を近づけて見よ、不浄の民ダリットよ」
 差しだされた手のひらには歯形が浮かび、血がにじんでいた。
「噛みついたのだ、あの小娘が。近頃もっぱら反抗的な目つきで儂を見るようになってきたが、矢先にこれだ」
「お望みとあらば、アジを呼んで治療させますが」とシッダルタは言った。
「構わんよ。それよりお前。今すぐ参拝ダルシャンの間に行け」
「恐れながら、召使ナーディー参拝ダルシャンの間への入室を禁じられています」
儂が命じた、、、、、」とマヘシュは言った。「それとも、〈神の召使デーヴァナーディー〉の貴様が、クマリ護衛の任を放棄するか?」
 狒々のような男が、赤ら顔に醜悪な薄ら笑いを浮かべた。
「……一体」
「ついうっかり、というやつだよ、不浄の民ダリット。おとなしく従った方がよいぞ? そうして、見たことをアジにも他の連中にも話したりせず、そのまま忘れてしまうことだ」
 マヘシュは正門前に待たせてあったオート・リクシャに乗って路地の闇に消えた。シッダルタは急ぎ参拝ダルシャンの間へ向かった。
 羽根を広げた孔雀の紋様に似た、壁掛けの曼荼羅のタペストリーの下、紅色のソファに、娘は力なく横たわっていた。頬に青あざがあった。
「貴様か」幼い小娘が言った。
「殴られたのですか」
「問題はない。クマリ女神デヴィーは九曜の守護力を持つ」
 日頃と変わらぬ横柄な口調、物言いだった。だが幾分、威勢が足りなかった。
「血は?」
「流れたとして、どうする」
「別に、どうもしませんが」とシッダルタは言った。「アジならば、あなたはもうクマリ女神デヴィーの資格なしと判断するでしょうな」
 クマリ女神デヴィーの出血は、神性喪失の象徴とされる。
「血は流れなかった」とクマリは断言した。
「よろしい。アジを呼びましょう」
「沐浴の手配をさせろ。さんざ穢らわしい手で触られた。身を浄める」

 豪華な礼服ダウラスルワールに身を包み、いかついスキンヘッドを隠すのはトレードマークの黄金と赤のトピー帽。威風堂々たる出で立ちで、マヘシュは毎夜足繁くクマリ館に通った。神聖な参拝ダルシャンの間が、マヘシュの訪問時のみひととき、閉ざされた。アジは知らぬふりをした。事実上の黙認だった。幼児性愛者はこの公認の密室で日々、幼き女神デヴィーの体を愉しんだ。
 大統領もひれ伏すクマリ女神デヴィー。国の運命を占う予言者、ネパール国の守護神。偉大なる生き神は、いまや偽神に堕している。
 最大の要因はネパール仏教の勢力拡大だろう。マヘシュ・バウンはその趨勢のなかで台頭した。カトマンズ最大の仏教寺院スワヤンブナートの大僧正、それがマヘシュの戴く位だった。仏教僧院サンガの最高権威――その地位は、仏教勢力がヒンドゥーのそれを大きく引き離した今日においては、事実上カトマンズの最高権力者と同義だった。
 初めてクマリ女神デヴィーに手を上げた翌日も、マヘシュは何食わぬ顔で決まった時刻にやってきた。中庭の門番に立つシッダルタに、狒々の王はこう言った。
「自らを真に女神の化身と信じて疑わぬ、あの生意気な小娘め。だがよい、せいぜいいまのうちにつけあがるがいい。儂は暫く見守ってやることにした。娘が子供でなくなるときまでな。いつかその下腹部から赤いものが伝い落ち、小娘がただの人間に成り下がったとき、必ず陵辱してやる。泣き叫び許しを乞うのも構わず、組み伏せ、犯し、身も心も屈服させてやる。ああその日がやってくるのが、楽しみで楽しみで仕方がない」

 

     

 クマリは十四歳になった。
 すべての歯が永久歯に生え替わるころには、手足はすらりと長く伸び、まっ黒な長い髪、高い鼻、ツンとつり上がった目もとを飾る豊かな睫毛、それに僅かな胸の膨らみまでもが、美しく、見る者すべてを悩ましく悶えさせるほどになった。麗しい美貌に磨きがかかる一方で、尊大な態度、気性の激しさも輪を掛けてエスカレートした。
 小娘の傲慢な態度とそれに伴う自らの鬱憤の蓄積を、狒々はたいそう喜んだ。もうまもなく小娘を犯す日が来るだろう、とマヘシュは言った。
 だがクマリ女神デヴィーには、みすみすマヘシュの毒牙にかかってやるつもりなどもとよりなかった。
 変化の兆しが見えたのは九月も半ばを過ぎた頃、雨季がまもなく終わり乾季が訪れようという、境の季節だった。アジの留守中、二人だけの館内で、クマリ女神はシッダルタに自らの計画を告げた。
 大それた内容に、シッダルタは思わず噴き出しそうになった。
「〈躯型パターン奪胎〉を、あなたが?」
 クマリはうなずいた。
「まさか」結局噴き出してしまった。「冗談でしょう」
 1905年に行われたウサギからヒトへの腎臓切片移植に端を発する〈異種移植〉――動物からヒトへの細胞、組織、臓器移植技術。その発展形にして亜流、「ファッション」に特化した流用技術が〈躯型パターン奪胎〉だ。用語自体は近年のバイオ・ハック興隆のなかで自然発生的に生まれたもので、医療用語として公に認知されたものではない。これからも当面認められることはないだろう。法的に、限りなくグレーゾーンにあるからだ。
 本流としての異種移植が完全な成功を見ない最大の要因は、昔もいまも変わらず「臓器移植」にあった。超急性拒絶、急性血管拒絶、細胞性拒絶、慢性拒絶――臓器移植は数多くの拒絶反応を引き起こして人体を破壊する。それならばと躯型パターン奪胎は、技術の確立を模索するなかで臓器移植の取り扱い自体を早急にばっさりと切り捨ててしまった。扱う移植対象を、「細胞」と「組織」のみに限定したのだ。
 躯型パターン奪胎では、動物の胚にヒトの遺伝子を送り込み続け、動物胚内部におけるヒト遺伝子の占有領域を徐々に拡大していく。移植時にヒトの免疫系を騙し、患者の体が移植片を受け入れるようにするためだ。時間をかけて育てあげた部位パーツは、外面はまるきり動物でありながら、胚内部は遺伝子的に限りなくヒトに近づいている。よって移植に際し、拒否反応を引き起こすこともない。
 こうして確立された奪胎術にまず飛びついたのは、反社会的な若者や、過激で攻撃的な前衛を好むファッショニスタたちだった。ピアスや入れ墨タトゥーといった先行例に連なる反逆的な身体装飾技術の最新形として、躯型パターン奪胎は知名度を広げていった。そしていまではこのネパール国も、違法にこの外法医術を取り扱う専門の呪医バイディヤを多く抱えることとなった。
「どうやら本気でいらっしゃるようだ。どういったお考えか、念のためお訊かせ願えますか」
 クマリは話し始めた。
「なぜこの私が、絶大な力を持つはずのクマリ女神デヴィーが、マヘシュのごとき愚物にいいようにされるか。このことについて私は長らく考えてきた。そして一つの仮説に至った。クマリ女神デヴィーは神としての格式を、長い歴史の間に失効してしまったのではないか、と私は考えた。
 ならばなぜ、神格は失われたか。
 クマリには本来、満たさねばならぬ三十二の〈特相グナ〉がある。このことはお前も知っているな? では具体的にどんな条件があるかを? ふむよかろう、教えてやる。
 まず、純潔なる身体だ。次に、青か黒の瞳だ。それに牛のような睫毛。四十本の白く尖った歯。獅子のような胸と、菩提樹のような胴。アヒルのような手足、鹿のような腰、長くて形の良い足指――なに、もうたくさんだと? 無礼な奴め。
 まあいい、これでわかっただろう、つまりはそういうことだ。あの日、試練の間に集められた私を含む十三人の娘は、形式上は皆、『三十二の特相グナを身に宿す』と認可された者だ。だが、実状はどうだ。『巻貝のような首』を誰が持っていたか。『アヒルの様に澄んだやわらかな声』を発する者はいたか。『獅子のような胸』は。『小さく、上品に隠れた性器』はどうか? 監査官達はいつ、どうやってそれを確かめた?
 否。否だ。監査官はそれを確かめてなどいない。私自身、これまで何度も、自らの裸体を大鏡に写しては、全身のあらゆる部位を、穴があくほどじっくり確かめてきた。なるほど、確かにいくつかの特相は宿してある。私は見ての通り、『白い光沢の映える美しい容貌』を持つ。『黒い髪』と『長い腕』、『健康な体』を持っている。『黄金色に映える顔艶』などは、私のこの美貌を言い表すために編まれた表現かと思うほどだ。あの憎らしい狒々にさんざ弄ばれてはいるが、かろうじて『純潔なる身体』も保ち続けている。
 だが、全然足りぬ。真に女神デヴィーたるには、私の体は特相グナの多くを欠いている。
 これこそが神格失効の所以。先代クマリも同じだろう。特相グナの充足が果たされないために、仏教徒どもが国の権威を掌握するのを、むざむざ見過ごすことになったのだ。マヘシュが私の体を弄ぶのも、アジが私を館に押し込めるのも、道理は同じ。
 そして要因がわかれば、解決の策も自ずと見える。実に単純な話だ。特相グナを取り戻せばよい。
 ならば、どうすれば特相グナは手に入る。
 私はは毎日最低一度、透かし彫りの飾り窓のついたバルコニーに姿を見せる。クマリ館の退屈なしきたりだ。チョークにたたずむ者たちは、女神デヴィーを見あげて手を合わせる。そしてクマリが顔を出す頃合いにちょうどその場に居合わせた、自身の幸運を喜ぶ。
 だがこのとき、衆生が私の姿を見つめるとき、私もまた衆生を観察している。
 今日も見たぞ。
 柄の悪い仲間たちとともにチョークをたむろしていたその女は、半透明の皮膚を持っていた。骨、血管、内臓……体の中身全部が、皮膚の向こうに丸見えだ。大方、クラゲか何かの薄皮を移植したのだろう。
 しかもそれだけではない、奪胎術は内部組織にまで施されていた。
 光る肋骨だよ。夜光虫遺伝子の発光作用を得た女の肋骨が、半透明の皮膚全体を、クリシュナ神の皮膚のように青く染め上げていた。
 あとで太っちょのアジに聞けば、あの不良どもは、医師免許を持たぬ非正規の〈呪医バイディヤ〉の足下に、嬉々として金を積み上げるというな。西洋よりいくらか遅れてこの国にも押し寄せたDIYバイオの潮流が、この国においては呪医バイディヤの名の下に結実したのだというな。
 人体改造! まさに神にも悖る愚行よ。ヒトと獣の合成獣キメラ、滑稽きわまりない人間放電管ネオン――それはそれは、気味の悪い光景だったよ。気色が悪いし、何よりも品性が欠落している。
 けれども同時に、私はそこに気づきを得たのだ。天啓、といってもいい。
 なあ不可蝕民アンタッチャブル、冗談などではないよ。バイオ・テクノロジーの発展が、皮肉にも女神デヴィーの神格を復活する活路となるのだ。
 協力してくれ、などとは言わぬ。お前は、協力するんだ、、、、、、。もし厭だと言ったら? そのときはマヘシュが貴様を八つ裂きにするだろう。長らく寵愛を注いできた娘に、不浄の民ダリットが横槍を入れて唾をつけたとなれば、あの男が嫉妬に狂うのも必然——ふふ、冗談だよ。不可蝕民アンタッチャブル風情がこの私の願いを断るなど、そんな馬鹿なことがあるはずもないからな。
 早速明日から動き出してくれ。私の体にメスを入れる執刀医を探すのだ。このカトマンズで一番の腕を持つ呪医バイディヤの情報を集めよ。
 もちろんただでとは言わぬ。見返りは与えよう。何がいい。そうだな、貴様、ダクシンカリに老いた両親と幼い妹を残してきたな? よし、お前の家族がカトマンズに家を持てるよう、取りはからってやろう。当然、貴様を毎日家族のもとに帰すわけにはいかないが、バーダルの群れを避けながら何時間もかけてマハンドラ・ハイウェイの砂嵐のなかを往復するよりは、ずいぶんとマシだろう?
 話は終わりだ。行ってよいぞ」
 娘はここまで機関銃のようによどみなく喋りまくり、そうして言葉を切った直後には、途端にシッダルタに対する興味も失せたというように、ぷいと窓の方を向いてしまってもう振り向きもしなかった。
 シッダルタは驚きを禁じ得ない。弱冠十四とは思えない明晰な頭脳はもちろんのこと、不信心なシッダルタが見返りを求めるだろうと推察する洞察力、シッダルタの家族構成や彼らの生活環境まで網羅する観察眼、どれをとっても非凡極まりない。
 自分は今後必ずこの娘のために動くことになるだろう、とシッダルタは思った。提示された見返りも十二分に魅力的だが、何より、傲岸不遜な小娘がこれから巻き起こすであろう扇情的な事件を間近で見ていたいという強い好奇心が、心中にたくましく芽生えていた。
「ああ、そうだ」
 クマリが祭壇ダルシャンの間の扉に手を掛けたシッダルタを呼び止めた。
「力を失ったいまの状態で、『クマリ』と呼ばれるのはどうもすわりが悪い。お前、神格を取り戻すまでのあいだ、私を人の名で呼べ」
「そういうわけには参りません」
「他の者がおらぬときだけだ」
「承知しました。果たして、何と」
「サンギータ」と小娘は名乗った。

 

     

 散水仏塔ストゥーパが柱の八方に、幾本もの水の奔流を噴出する。奔流は天を衝いた後、放物線を描いてカトマンズの街のいたる区画へと落ちる。
 人でごった返す旧王宮広場に、路地を挟んで屹立する軒と軒の屋根のあいだに、青空に明るく映える五色の祈祷旗タルチョの上空に――祝祭に濡れた街じゅうに、大小いくつもの虹の橋が架かっていた。
 インドラ・ジャトラは最終日を迎えた。大祭が終われば、季節は本格的に乾季へと移り変わる。散水仏塔ストゥーパの稼働は収穫シーズンの到来に合わせた、雨を呼ぶ祈りの儀式プジャの一環だった。しかしその放水量は半ばヤケもいいところで、昨年に引き続いて今年も雨季モンスーンに雨が降らなかったことに対する、神への抗議の表現にも見えた。
 インドラ祭は、サンギータが公式に外出を許可された、年に六度しかない機会の一つだった。
 クマリ女神デヴィーは屋外では決して地面に触れない。さもなくば女神の聖性を失ってしまうと考えられているためだ。サンギータを乗せた木と絹の輿は、金の玉座と赤の天蓋を持ち、外装には趣向を凝らした蓮華カマル浮彫レリーフがあしらわれた大がかりな代物で、台座はサンギータの胴ほどもある太い竹の棒にくくりつけてある。四十人もの担ぎ手たちがこれを担ぎ、散水で滑りやすくなった街道を慎重な足取りで練り歩く。楽隊と、一ダースの象たちがあとにつづいた。
 昨今では、祭りの象たちは皆、前肢四本、後肢二本、計六本の足を持ち、皮膚は薄桃色をしている。象頭を持つ富の神ガネーシャを模して奪胎を施されているのだ。躯型パターン奪胎が公に認められる稀有な例の一つだった。
 ただの一頭で道幅いっぱいを占有する象たちが通り過ぎたあとの、人のはけた通りを、真っ白な灰を全身に塗りたくった聖なる者サドゥーたちがふらふらとついてゆく。
 巡業行列は市街の中心部を離れ、西の丘へと向かった。巨大な黄金の仏塔ストゥーパが見えた。シッダルタが視線を輿に向けると、天蓋のなかのサンギータが目配せをよこした。人でごった返す小路のさなか、シッダルタは他の担ぎ手たちに気取られぬよう静かに行列を離れ、人混みに紛れて仏塔を目指した。
 そこかしこから聞こえてくるのは、仏塔ストゥーパを取り囲むマニ車を回し、功徳を求めて経を唱える仏教徒たちの声。この土地で餌付けされ、味を占めた悪賢い猿たちが、隙あらば人間の持ち物を何であれ強奪してやろうと目を光らせている。
 巨大な黄金の仏塔を持つスワヤンブナートは、ネパール国内最古の仏教寺院にして仏教僧院サンガの牙城だった。仏塔ストゥーパに描かれた知恵の眼ブッダアイが、本来ならば巡業に張りついて生き神クマリの護衛任務を完遂すべき神の召使デーヴァナーディーの、「職務放棄」という愚挙の一部始終を捉えていた。
 構うものか、恐るるに足りぬ。増長するマヘシュのもとで腐敗しきった僧院サンガには、一縷の法力とて残っているものか。
 シッダルタは木彫りの仏像を扱う露天商に目を留め、近づいた。
「プラカシュの紹介だ」と小声で告げた。
 脂ぎってべったりと頭部に張りついた白髪の下で、疑り深そうな老爺の目が一度だけシッダルタを見た。商人はまたすぐに足下に転がる売り物の木彫り仏像に目を落とし、それから痩せぎすの腕をすっと差し出した。シッダルタは老人の手の中の紙切れを受け取り、代わりに金を握らせた。後は言葉も交わさずすぐにその場を離れた。
 リクシャを止めて旧市街に戻った。市場で賑わうアサン広場チョークでリクシャを降りた。アンナプルナ寺院からひっきりなしに聞こえてくる鐘の音がやかましい。小路を東に進んだ。路地裏につづく細道の入り口には、電線がぐちゃぐちゃに絡まってカーテンのように垂れ下がっていた。
 スワヤンブナートの情報屋から買い取った地図を頼りに、網目状に入り組んだ裏路地を進んだ。人の姿がみるみる減った。日光の届かない、明らかに目つきがまともではないラリった不良どもが、いたるところでぬるぬるとまぐわっていた。コンクリート壁の傍ら、後背位でヤッているのは金と銀を混ぜた毛並みを持つペルシャ猫の女と、白い肌に黒い斑点をまぶしたダルメシアンの男だった。
 ここは盛りのついた獣たちの園だった。国内最大のインドラ大祭の裏側で、淫靡な動物的祝祭が行われている。普段は衣服によって隠蔽された〈奪胎部位パーツ〉が、ここではまるで自慢のスニーカーを見せびらかすような気軽さで、ひけらかされていた。
 複雑に入り組んだ路地を抜けると唐突に視界が開けた。シッダルタは目を疑った。にわかには信じがたい、カトマンズの裏路地の奥にこのような一画があるとは。
 四方を高層仏塔ストゥーパの背に囲まれた広大なデッドスペースに、活気に満ちた市場が形成されている。情報屋の地図には〈オオカミブワンソ広場チョーク〉とある。そんな広場チョークは聞いたことがなかった。
 シッダルタは思わず鼻をつまんだ。人混みが発散する熱気のなかに、獣臭が混ざっている。市場の屋台に並べられているのは犬、亀、牛、犀、イノシシ、孔雀――ありとあらゆる動物の、細切れの断片だ。
 店員も客も、大なり小なり、体のどこかしらを造り替えていた。
 ここは、〈奪胎部位パーツ〉の闇市なのだ。
 市場を奥へと進んだ。突き当たりに古びた看板の架かった建造物があった。文字めいた痕跡が残るが、錆びが浮き出てかすみ、何と書かれていたかは判別できなかった。看板の建物の扉を開けた。中に入り後ろ手に扉を閉めると、市場の喧噪がたちどころに遠ざかった。重苦しくよどんだ静寂のなか、懐古趣味の木製ホール時計が静かに時を刻む音だけが聞こえた。
 施術はここではない別の場所で行うのだろう。驚くほど簡素な小部屋の真ん中で、安っぽい回転椅子に腰かけた人物が、こちらに背を向けて本を読んでいる。腰まである黒い長髪が、纏った白衣の上におりていた。
「情報屋ナラヤンの紹介だ」とシッダルタは言った。「ここに、カトマンズ最高の腕前を持つ〈呪医バイディヤ〉がいると聞いて来た。あなたか」
 回転椅子が軋んだ。白衣の人物がくるりと体を回し、シッダルタを見た。容姿と表情は窺い知れない。ガネーシャの面で顔を隠していた。
呪医バイディヤキランか?」
「そうだ」とガネーシャは言った。
「執刀を頼みたい」
「あいにく今日は、予約が立て込んでいる」
「今日じゃなくていい」まったくそうは見えないが、と思いながらシッダルタは言った。「ちなみに、依頼人クライアントは俺じゃない」
「その人物は」
「このカトマンズのとある重要人物、とだけ言っておこう」
 象の面がシッダルタの方を向いた。
「随分と長く、この稼業をやってきた」とキランは言った。「その秘訣を?」
 シッダルタは首を横に振った。
「簡単だ。危ない橋を渡らないこと」
 決意は頑なに見えた。だが入念な事前準備を行ってきたシッダルタにとって、こんなものは想定内のリアクションに過ぎない。
 シッダルタは言った。「クライアントはクマリ女神デヴィー
 わかりすぎるくらいに、呪医バイディヤの体がこわばり、硬直した。
「今年で十四になった」とシッダルタはつづけた。
 呪医バイディヤは口のなかでもごもごと、何か曖昧な言葉を唱えた。よく耳をすませると、こう言っていた。
 じゅうよんさいじゅうよんさいじゅうよんさいじゅうよんさい。
 呪医バイディヤキランはかねてより子供の身体改造を望んでいる。――その話を聞いたときにシッダルタは、「承諾は堅い」と踏んだのだ。
 その通りになった。
「やる」とキランは即断した。「やるやる。やります。ヤらせてください」
 シッダルタは男に紙片を渡した。サンギータの体に移植する、様々な獣の奪胎部位パーツのリストが記載されている。
 キランはガネーシャの面を乱暴にはずして後方の床に放り投げた。眼鏡の奥で光る冷たげな切れ長の目が、リストを舐めるように凝視した。
「象のお面、お気に入りか?」
「いや」キランはリストに目を落としたまま答えた。「今日はお祭りだからな」
 白衣に包まれた、すらりと伸びた長身はモデルのよう。鼻はすっと高く伸び、左目の下には泣きボクロがある。どこからどう見ても絶世の美男子だが、豚のように荒い鼻息がすべてを台無しにしていた。
「二週間で用意できるか?」とシッダルタは訊ねた。
 キランは紙片を、白衣のポケットに乱暴に突っ込んだ。
「一週間で準備しよう」と男は言った。「二週間も待ちきれない。僕は、子供が大好きだ!」

 

     

 一週間後、アジたちが寝静まった頃合いを見計らってサンギータを館から連れ出した。クマリ女神デヴィーが屋外で足をつくわけにはいかないから、シッダルタは小娘の体を一人運搬用の籠に詰め込み、これを担いで歩いた。
 人気のない夜のダルバール広場に一台の自動三輪車テンプーが停まっている。運転手が窓から手を振ってシッダルタに合図した。ハンドルを握るのは青白い顔をした華奢な少年で、カールした髪をヘアバンドで押し上げて額を出している。鼻の周囲にそばかすが残っている。カカという名の少年だった。
 道すがら、カカは饒舌におしゃべりを続けた。通っている学校のこと、ドラッグや躯型パターン奪胎に手を染めるやんちゃな悪友たちのこと、カカ自身は熱心な仏教徒であり、将来は貧民窟スラムを抜け出して仏教徒居住区バハールに家を持ちたいと思っていること。この自動三輪車テンプーは、乗り合いの公共車のお下がりをキランが安価で買い取った中古車なのだということ。
 それが、シッダルタがただの一度キランとの関係を訊ねると、カカはたちどころに寡黙に転じたのだった。暗い車内でもわかるくらいに頬を紅潮させ、耳まですっかり赤くなってしまった。純情な愛の奴隷というわけだ。シッダルタは追求を控え、話題を変えた。サンギータははじめから何の興味もなさそうに、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
 カトマンズ市街を出て、南道を二十分ほど走った。このまま走り続ければコカナ村にぶつかる。ここはカトマンズとコカナの中間地帯、街の灯も届かず、視界に映るのはただ自動三輪車テンプーのヘッドライトが照らし出す田畑と荒野だけだ。
「あれです」途中からまるきりしおらしくなってしまったカカが言葉少なに言った。
 ヘッドライトの中に、けばけばしい色合いで天女アプサラスを殴り描きした、一台のトレーラーが浮かび上がる。
 トレーラーの傍らに立つ人影がこちらに手を振ってきた。白衣を纏った長身の男。今日ははなから美しい顔をさらし、腰まで届く長髪は頭の後ろでお団子にしている。
 シッダルタはひとまずサンギータを座席に残して車を降りた。キランと握手を交わした。
 トレーラーはキランの走る手術室だった。コンテナは閉め切られていたが、中身はある程度見当がついた。獣たちの蠢く物音と、悲鳴にも似た鳴き声が、漏れ聞こえている。
オオカミブワンソ広場チョークの市場じゃ出来合いの奪胎部位パーツを部分販売していたが?」
「完璧な仕事がしたいんでね。『鮮度』は重視したい」
 これから、この鳴き声の主たちを殺すということだ。
 だから動物たちは騒いでいるのだ。連中は忍び寄る死の気配を察知している。
 シッダルタは自動三輪車テンプーを指し示した。キランは車に歩み寄り、恭しく頭を下げた。
「直々にご指名いただいたとのこと。感謝いたします。移植する獣は、ほとんどナマで用意しました。ライオンだけは、ちょっと無理でしたが」
「御託はいい。さっさと始めよ」とサンギータは言った。
 シッダルタはサンギータを抱きかかえて外に連れ出した。カカがコンテナのリアドアを開けると、冷気が漏れ出して肌を刺した。妖しい青の照明が、内部を余計に冷やしている。コンテナ手術室内は、シッダルタにはどのように使うのか見当もつかない気味の悪い機械であふれかえっている。奥に、積み上げた檻のなかに繋がれた、多様な動物の姿があった。
「大層な設備だ」とシッダルタは言った。「危ない橋は渡らない主義じゃなかったのか?」
 真っ当な手段では、これほどの環境は到底作れないだろう。
「奪胎術自体は違法だが、準備そのものは案外そうでもない。ここの機材や部品はどれも、いまじゃネットで簡単に注文できるものばかりだ。e-bay、クレイグズリスト、ヤフーオークション――世界中のオークションサイトを横断して安価に競り落とした品物を集めてこさえたのが、このコンテナ・ラボさ。現代はバイオ・ハッカーにとって夢の時代だ」
 執刀医とその助手、それに被験者。三人の人物が順にコンテナに乗り込み、女神の護衛者が外に残った。リアドアが閉ざされた。
 動物たちは静かになった。息を潜めて怯えているのだろう。じきに瞳は闇にも慣れ、荒涼としたなだらかな平野が男の目前に広がった。ここは常世のようだ、とシッダルタは思った。
 生まれ変わったクマリ女神デヴィーの姿を見たとき、信徒たちはどんな反応を見せるだろうか。アジたちは嘆くだろうか。カールは?
 ――余計なことはするな。
 もう後戻りはできないのだと、今さらになって気づいた。
 マヘシュは前任の神の召使デーヴァナーディーを犯して殺し、水牛の餌にした。シッダルタが被ることになる責め苦は、その程度では済まないだろう。
 にもかかわらず、どうしてこうも心は平静なのか。
 違う、平静、ではない。
 静かな昂揚を覚えていた。〈三十二の特相グナ〉をすべて満たせば、いにしえの時代に失われた強大な神性が蘇り、たちまちのうちに世界を一つに束ねあげる大奇跡を引き起こす――いかにも小娘の考えそうなこと。日々虐げられつづけたガキが溜めに溜め込んだ、ルサンチマンのなれのはての怪物。
 とんだ笑いぐさ。
 そう思う一方で、サンギータの鋼の意思にいつからか自分も感化されつつあると、シッダルタは認めざるを得ない。

 

     

 二時間の後にコンテナのリアドアが再び開いた。生臭い血の匂いに顔をしかめながら、シッダルタは中をのぞき込んだ。新たに生まれ変わったサンギータが、血だまりのなかに立っていた。
 上下のまぶたには水牛の睫毛が飾られている。円錐形の恐ろしく整った輪郭はそのままに、頬部分にはライオンの皮膚が確かに移植されている。螺旋模様を描く巻き貝の首の下、胴体は表面の全体に無数の血管束を浮き上がらせているのは、テンジクボダイジュの幹の形質を移植した結果だ。長い腕の先の手のひらには水かきが備わり、五指すべてが癒着している。腰は頑丈そうな鹿の腰。灰色の毛に覆われた股間は、特相グナの示す通り上品に純潔の性器を隠蔽している。
 シッダルタは息を呑んだ。待ち時間中に何度も頭をよぎった昏い想像、もうじき目前に現れることになると覚悟していたグロテスクな異形の姿と、実際に目にしたものは、まるでかけ離れていた。それは確かに人ならざるものだった。路地裏でまぐわっていた不良たちの延長上に存在する、連中よりもさらに人からかけ離れた怪異だった。だがそれでいて、何よりも美しいのだった。一片の隙もない崇高な美。生身のままの人では決して到達できぬ、天の頂に棲まうもの。
 それでも、奇跡はならなかった。
 眼球の虹彩は青色に変色していた。瞳はまるで青い炎だった。
 サンギータは怒りに燃えていた。シッダルタを睨みつけ、開口一番に放った言葉は、
「どうして神格は戻らない?」
 なぜか。
 なぜか。
 なぜか。
 カカに天女アプサラスのトレーラーを任せ、キランが運転席に乗り込んだ自動三輪車テンプーの車内で、サンギータはひたすら自身の内面世界に耽溺し、同じ言葉を呪詛のごとく繰り続けた。
 カトマンズに戻った。時刻は午前三時半。サンギータは数分前から繰り言すらやめ、沈思黙考に没入した。アートマーの欠落した小娘を抱き上げ、クマリ館に戻った。興味津々のキランが、何食わぬ顔で後ろをついてきた。
 今宵のことは、明日にはカトマンズどころか、国全土を巻き込んだ空前のスキャンダルになるだろう。
 それでもシッダルタは実感を持てずにいた。危機感を覚えるにはあまりに非現実的な夜だった。何よりひどく疲れていた。最初の情報収集段階からいまに至るまで、仕事の合間を縫って連日連夜、計画に精力を注いできたのだ。
 幻惑的な気分が隙を生んだ。
 サンギータについて三階に上った。寝室に送り届けたら、キランを連れてさっさと自室に引っ込むつもりだった。そうしなかったのは、ただ一つの違和に気づいたためだった。
 広間に並ぶ部屋のうち、参拝ダルシャンの間だけに明かりが灯っていた。シッダルタは訝しんだ。扉を開けた。
 孔雀の羽根に似た曼荼羅のタペストリーの下、紅色のソファに一人の男が座っていた。
「戻ったか」マヘシュは言った。「随分心配したのだぞ。何、お仕置きをご所望とな」

 狒々の王。醜悪で品性のかけらもない姿。赤ら顔がむくみ、一回り大きく膨らんでいる。裸の上半身は茹でた蛸のように真っ赤だ。愛用の礼服ダウラスルワールは地べたに脱ぎ捨ててある。グレーの生地が水分を吸って黒ずんでいる。その周りには幾本もの蒸留酒ロキシーの空き瓶。沙羅双樹の葉のチウラと散乱するつまみのかす。
 テーブルにはまだ数本の酒瓶が並ぶ。マヘシュはサンギータをソファに手招きして自分の隣に座らせた。娘の小さな口に酒瓶を突っ込んだ。
「サンギータ」男は言った。「どうだ、うまいか?」
 シッダルタが犯した、女神デヴィーを館の外に連れ出す暴挙に対する、咎めの言葉は一切ない。本来この館に立ち入る資格を持たぬ、キランの素性を問い詰める言葉もない。二人はさながらこの場に存在しない幽霊ボキシーだった。マヘシュは男たちに目もくれず、ひたすらサンギータを飲ませつづけた。サンギータは何度もむせ返り、咳き込み、飴色の液体を吐き出した。マヘシュは娘の体の拒否反応を悦んだ。ひどく上機嫌で、疑う余地もなく愉しんでいた。
 大した時間は必要なかった。サンギータはすぐにぐったりとして、マヘシュの体に身をもたせかけた。
「ようやくおとなしく身を任せる気になったか。うん、嬉しい嬉しい。子供はやはり素直が一番」
 サンギータはうつろな目をして、体を小刻みに痙攣させている。
「何という狼藉か」
 マヘシュがくるりと首を回して、シッダルタを見た。
「聞き違いか? 幻聴か? こっちから、程度の低い河原者の声が聞こえた気がしたが」
 すでに忍耐の限界だった。「いくら大僧正といえど、神聖なる神の娘デヨーマイジュをこのように扱うのはいかがなものか」
「幻聴じゃないな」とマヘシュは言った。「いや、威勢がいいのはよきことだな」
 マヘシュはサンギータを抱き上げ、自分の膝に乗せた。「こうしたら、怒るか、お前?」
「ここは耐えろ。頼む」キランがシッダルタの背中で囁いた。
「なんだ、悪巧みか?」狒狒は醜悪な笑みを浮かべた。「不可蝕民アンタッチャブル風情が、この儂にたてつくか!」
 マヘシュは娘の髪を愛おしげに梳いた。毛深い手が、獅子の頬をさすった。巻き貝の首をなぞり、上品に張った肩を伝い、長く伸びた二の腕を撫でた。
「最底辺からすくい上げてやったのには誰だと? この恩知らずめ!」
 マヘシュはサンギータの獅子の胸を鷲掴みにした。昏倒コーマに陥ったサンギータが、悪夢にうなされるように呻いた。
 シッダルタが殴りかかろうとするのを、キランが強引に制止した。
「あれれ?」とマヘシュが言った。
 指使いが変わった。サンギータの体を、ぺたぺたと無遠慮に検分し始めた。最後に左右のほっぺたを、両手でつまんで引っ張った。
「何だ、これは」とマヘシュは言った。「この体は。この、顔は一体。まるで、ああまるで——け、だ、も、の、ではないか!」
「まさか、ご存じないので?」シッダルタは言った。「クマリ女神デヴィーはなるべくしてこの姿になられたのです。驚くようなことは何一つありません」
 マヘシュは困った子供のような顔でシッダルタを見た。
「クマリが? これが、当たり前に?」
「左様。ときに大僧正よ。よもや〈三十二の特相グナ〉をご存じないということはございますまい?」
 ぐな、と、マヘシュは阿呆のように呟いた。
 元より知らないか、酩酊のため失念しているか。どちらにしても、わかっていない。
「起きろ。おい、起きろ」
 マヘシュはサンギーの肩をさすった。
「どうしてお前は、そのように、鹿みたいな脚をしているか」
「本来、そういうものです」とシッダルタが言った。「三十二の特相グナに定められているままです」
「どうしてお前は、そのように、獅子みたいな頬をしているか」
「本来、そういうものです。三十二の特相グナに定められているままです」
「どうしてお前の体は、そのように、菩提樹そっくりなのだ?」
「そういうものです。三十二の特相グナに定められていることです」
「どうしてお前は、そのように、牛みたいな睫毛をしている」
「そういうもの。三十二の特相に定められています」
「のう、不浄の民ダリットよ」
 興奮から急に冷めたような、奇妙に落ち着いた声でマヘシュは言った。
「儂は飽きた」
「……は?」
「初潮を待とうと思ったが、もう辛抱がきかん」
「何を」
「しかと見ていろ、不浄の民ダリット。儂はいまから、この小娘を犯すぞ」
 予測を裏切る酩酊者の飛躍に、シッダルタは強烈な混乱を覚えた。
 何が。
 マヘシュはいきなりズボンをおろした。そして下着のなかからごそごそと、屹立した針のような肉塊を取り出した。
 何が起きているのだ。わけがわからない!
 初潮は来たか。まだか。まだかもな。来たかもな。どっちかな? はいはい、詳しくはお体に訊ねて確かめましょう。常軌を逸した妄言をよだれとともに垂れ流しながら、マヘシュは醜く上気した赤い裸体を揺らし、処女に覆い被さった。
 シッダルタは刀を抜いた。
 男は死んだ。
 長い刃が血と脂でぎらついた。
 袈裟切りに裂けた脂肪だらけの背中の裂創から、血の泉がこんこんと湧き出した。
 シッダルタはサンギータの上からマヘシュの体を引っ剥がした。死体を床に放り出す。
「お忘れかもしれませんがね」神の召使デーヴァナーディーは言った。「俺の仕事は、腕っぷしに物を言わせた女神の護衛です。フックアップしたのは、あんただぜ?」
「なんてことだ」キランが放心したように呟いた。「なんてことだ! 人が人を殺すところを僕は初めて見た!」
 それは歓喜の雄叫びだった。
 館内の騒ぎに目を醒ましたアジたちが、参拝ダルシャンの間に飛び込んできた。
 たっぷりのフリルをあしらった少女趣味のナイトドレスを纏ったひょろ長のアジが、惨状を目にした直後、いきなりぶっ倒れて泡を吹いた。
 ぴちぴちのネグリジェに体を突っ込んだ大女のアジが、学級委員的義務感に駆られて歯を食いしばって自己を奮い立たせ、サンギータのそばに走り寄った。マヘシュの返り血をたっぷり浴びたサンギータの体を短時間検分した。
 然る後に大女は叫んだ。「これは血ではありません!」
 だからサンギータの聖性は失われてなどいないのだ、というわけだ。アジは主張の正しさを無理矢理にでも押し通そうというように、物凄い形相で、このことを知ってしまった、、、、、、、シッダルタたちの顔をかわるがわる睨みつけた。
「本当です! 本当ですとも! 断じて血ではございます!」
 あまりの狂乱に、「ございません」を言い間違えながら、本人はその誤りに気づいてさえいない。
 ごろごろ、とサンギータの喉が猫のように鳴った。
 大女のアジが、ヒエ、という謎の金切り声を張り上げた。
 突然の発作がサンギータを襲った。先刻よりも激しい痙攣が、異形の女神デヴィーをがくがくと踊らせた。
 シッダルタはキランを見た。「どうなってる、呪医バイディヤ
「し、知らない僕に訊くな僕の手術は完璧だった! どこにもミスはなかった本当だぞ!」
 入室直後に失神したひょろ長のアジが、急に目を醒ました。そしてサンギータの発作に目を留めて目を丸くした。
「ク、ク、クマリ女神デヴィー どうなさいました!」
 扉の前から立ち上がろうとするも、腰が砕けてままならず、生まれたばかりの山羊のように何度か失敗を重ねたあとで、ゴキブリのようにかさかさと這い進む。
「しっかり、クマリ女神デヴィー、お気を確かに、ああこれはなんというお顔!」
 サンギータの顔を覗きこんだ直後、すぐさま飛び上がってひっくり返り、再度泡を吹いて気絶した。
 ひょろ長のリアクション芸を受けて、大女の方もようやっと重大事に気づいた。眼球が飛び出そうなほどに目を見開いて叫んだ。
「ば、化け物!」
 発作に苦しんでいたサンギータが、突然ぱっちりと目を見開いた。
「ああ、目を醒まされた!」大女は鮮やかに手のひらを返す芸当を見せた。「クマリ女神デヴィー 我がアートマーの平穏にして救済者!」
 サンギータは何も言わず起き上がった。頭の重さでふらつく赤ん坊のようにたちまちバランスを崩した。大女がその体を危ういタイミングで受け止めた。
 大女のふくよかな胸のなかで、サンギータは盛大に嘔吐した。
 大女は再度、謎の金切り声を上げた。「ヒエ!」
「ほら見ろ、シッダルタ!」
 サンギータの小さな口から絶え間なく迸る黄土色の濁流を指さしながら、キランは勝ち誇ったように叫んだ。
「俺のせいじゃない! 悪いのは急性アルコール中毒だ!」
 サンギータは腹のなかの異物をすっかり吐き出しきった。吐瀉物で汚れた口元を大女のドレスの袖口で拭った。
「ざまをみろ」とサンギータは言った。
 サンギータの目線の先には、動かない、背中の割れた肉塊が落ちている。
「ざまをみろ! 人間風情がこの私に楯突くからだ!」
 サンギータは死体を踏みつけ、つばを吐きかけた。それから中指を突き立てた。
 シッダルタはサンギータの背中からガウンを掛けた。
「ご苦労だったな」とサンギータは言った。「至急やることがある。ついてこい」
呪医バイディヤにも供をさせますか?」
 サンギータはうなずいた。キランが犬のように目を輝かせてそばに寄ってきた。
 サンギータは大女に呼びかけた。「もう一人が起きてからでいい。夜明けまでに死体をパシュパティナートに運んで、火葬台で灰にしろ」
「しかし――」
「灰はバクマティ川に流してしまえ」
「や、そうではなくてですね」
「手短にな」
「クマリ! ですがこのお方は、スワヤンブナートの大僧正であらせられ――」
「何を言う」シッダルタが言った。「大僧正が何だというのだ。あなたはこの方をどなたと心得るか」
 大女は突然、何かを悟った顔つきになった。
「もしや、その御姿は――」
 敬虔な信徒だ。特相グナを知っている。充足に気づいたのだ。
 大女は腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。
「やってくれるな?」サンギータが確かめた。
「よ、喜んで」大女は死にそうな声で言った。
 サンギータたちはアジとマヘシュの死体を残して参拝ダルシャンの間を出た。
「牛だ」とサンギータは言った。
「牛」
「牛が、何だというのです?」
「『牛のような睫毛』」サンギータは白い剛毛に植え代わった自らの睫毛を指先でさわりながら言った。「足りないのはそれだ」
「そんな」仕事に誇りを持つキランが、不服そうに言った。「確かに僕は、水牛の睫毛を――」
「水牛ではなかったのだ」
「何と」
「瘤牛。水牛ではなく、瘤牛だ」
 キランが苦笑した。「お待ちください。あなたは、瘤牛を殺めよと? いいや待ってください、そんな馬鹿なことはない――」
「なぜだ?」
「なぜも何も、〈聖なる牛〉の殺生は、ヒンドゥーの教義で厳格に禁じられている」
ヒンドゥーの教義、、、、、、、、。それがために私も、熟慮もなく水牛を選んでしまった。これが誤り。考えてみれば当たり前のこと。神の娘デヨーマイジュにふさわしいのは、聖なる瘤牛の睫毛に決まっている」
「あなたは、教義を破ろうというのですか? いくらクマリ女神デヴィーとて、帰依するところは、ヒンドゥー世界であるはずだ。傲慢というものです。女神デヴィーとて、唯一絶対の存在ではない」
「随分な口を利くではないか」サンギータは尊大な口ぶりで言った。「いいか、呪医バイディヤ。私は、唯一絶対だ」
「何を、何を仰います!」
「クマリ女神デヴィーというのはな。そもそも、お前が考えるようなヒンドゥーの神の一柱ではないんだよ」
「な、何を言われても承服いたしかねます」
 頑ななキランの態度に構わず、サンギータは語り始めた。
「クマリ女神デヴィーは確かに、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーを宿す化身だとされている。しかし一方で、密教の女神ヴァジラ・デーヴィーを宿すともいわれる。また他方では、ネパール王国の守護神である女神タレジュの化身ともされている。一体どれが本当か。答えは、『そのどれでもない』だ。クマリにまつわる歴史的記述は元より少ないが、いかなる文献を取り寄せ、紐解き、過去の記録を漁ってみても、出自の明確な記載などどこにもありはしなかった。クマリ女神デヴィーとは、実のところ、顔のない神なのだ」
「それでは」シッダルタが口を挟んだ。「あるいは『偽神』ということも」
「かもしれぬな。無論、私はそうは思わないがな。
 私は、このように考えている。クマリとは、様々な宗教、それに、宗教のなかで語られる多種多様な『神』なるものがごった煮状態になった、このネパール国の宗教的混沌に乗じて、あるとき誰にも気づかれずにひっそりと降り立った『異神』なのだと。
 まるで宿主に取り憑く寄生虫のように、異神はこの国の神々に寄生し、擬態し、転生を繰り返して、歴史を生き延びてきた。長い雌伏のなかで、じっくりと力を蓄えてきた。そして今日、このサンギータが女神デヴィーとなった。旧来の神たちの腹を食い破るときだ。この世の真の神が、産声をあげるときだ」
 何という妄想、何という独善! 独善ということではマヘシュも大したものだったが、それに比べても、この小娘ときたら!
「さて不可蝕民アンタッチャブル、考えを聞こう」
 シッダルタはほんの短い時間考えた。何にせよまことに残念なことに、シッダルタはネパール仏教界の超大物を殺める蛮行をすでに犯している。ここで狂気の戦線を離脱したところで、どこに逃げ場があるだろう。行き着くところはどうせ地獄だ。ならば、馬鹿げた望みに賭けてみるのも悪くない。
 シッダルタは言った。「この命果てるまで、あなたの望むままに」
 キランが大きなため息をついた。「時すでに遅し、か。その体を滅茶苦茶に造り替えたのはこの僕だからな。ああ、ヒンドゥー教徒じゃなくてよかった!」
 この夜の最後のあがきが決まった。
 シッダルタは手早く用意した輿にサンギータを詰め込んだ。
「牛を捕らえよ」
「だけど、瘤牛なんてどこに」キランが言った。
「この街のどこにでもいる」
「確かに、昼間はよく見るけどさ」
 道路渋滞の先頭へ進めばそこには大抵道の真ん中にふんぞり返った牛の姿がある。市場に行けばどこから来たとも知れない牛が何食わぬ顔で店先の野菜を食んでいる。誰も聖なる牛に手をかけたりしない。それがこの国の常識だ。
「夜は、別だ。どこにいるのか」
「畏れながら、サンギータ」シッダルタが言った。「俺に心当たりがあります」

 

     

 カトマンズ市街の西側、バクマティ川にかかる橋の傍らにある塵芥だらけの坂を下降して河原に下り、橋の下をくぐって奥へ進めば貧民窟スラムに行き当たる。貧民窟スラムは巧妙に隠蔽されている。車の往来だけでは、気づくことのできない場所なのだ。
 シッダルタとキランは輿を担いで川沿いの、舗装のないぬかるんだ泥道を進んだ。予期せぬ客の到来によって目を醒ました、軒先や屋根の上のバーダルたちが、不機嫌そうにシッダルタたちを見つめ、抗議するように飛び跳ねた。キランがぬかるみで跳ね返る革靴の泥汚れをぼやいた。
 川の岸辺には食人の女神マートリカを祀る寺院が点在している。無視して進むと、カトマンズ市街と外界との境界にあたる切り立った傾斜の手前で、バイラブ寺院にたどり着く。
 門をくぐり、半地下の礼拝堂に潜った。サンギータの輿を下ろした。入り口から〈祭壇の間〉につづく最奥の突き当たりまで、石畳の道が伸びている。道の左右には象牙色のタイルが張られた四角い柱が何本も立っている。それぞれの柱の天井にほど近い所には、多様なヒンドゥーの神々の絵画が飾られている。柱と柱のあいだには、豊穣と幸運の女神ラクシュミーや有翼の獅子神シャルベーシャ、シヴァ神の乗り物とされる牡牛ナンディンを象った像が、無秩序に並ぶ。
 礼拝堂の中央天井をくり抜いて作られた四角い窓から、明け方近くの青白い光線が射していた。光の流れ落ちる底に、聖なる瘤牛が、クリシュナ色に染まる身を横たえていた。夜明け前の稀有な来客を感知した耳が、ぴくりと動いた。
 ゆっくりと瘤牛に近づいた。シッダルタがいつか、殺めることを躊躇ったもの。透かして向こう側が覗けそうな、長い純白の睫毛。さんざ涙を流したあとの女のような瞳が、今日は夜明け前の、光の滝のなかで濡れている。
「こいつを殺すのか、シッダルタ、殺すんだな! いま、ここで」キランが熱っぽい口調でまくしたてた。
 シッダルタは黙って首を横に振った。
 三人が見守るなか、聖なる牛は静かに目を閉じた。
「いま、召された」とシッダルタは言った。
 キランが牛の背をなでた。「病魔に冒されていたか。よくここまで生き延びたものだ」
「少なくとも食い扶持にだけは困らねえさ。この街のどこにいても」
「病持ちですが」キランがサンギータに訊ねた。
「構わないよ。たかが病ごときに、奪われる聖性でもあるまい」とサンギータは答えた。「聖牛は体内に3億3千万の神を宿し、84柱の神格を持つという。実に妬ましい。神はこの私ただ一人でよい」
「おっしゃる通りです」
「ならば、何をちんたらやっている? さっさと首を切り落とさないか」
「……それもそうだな」
 小娘の顔が邪悪に引き攣った。
 シッダルタはククリ刀を鞘から引き抜き、高く掲げて聖別した。ひと太刀で瘤牛の頭を切り落とした。聖なるものの生首が毬のようにころころと転がり、至近の柱に血の印を押した。
「それにしてもすごい刀さばきだ」とキランが言った。「もし生きていたとて、痛みを感じる暇もないだろう」
「なんなら、味わってみるかい?」
「やめておけ。女神様が見ておられるぞ」
 キランは生首を掴み上げた。
「移植の準備をする」
「祭壇の間へ」とシッダルタは言った。
「偽りの神の前か」とサンギータは言った。「悪くない案だ」
「乗りかかった船だ」とキランは言った。「こうなればどこまでも堕落してやる。夜明けまでの数刻、バイラブ神の御前が僕のラボだ」
 二人が奥の間に消えた。シッダルタに寄り添うのは沈黙だけとなった。
 シッダルタはククリ刀を一振りして聖牛の血を払った。そのまま刀を収めず待った。
「そろそろ姿を見せろ」とシッダルタは言った。
 乾燥した空気のなかに、ココナッツ・フレイヴァーが混ざっていた。甘ったるい匂い。ヤング・ブラザーズの新作。
 三つ向こうの柱の陰から、小柄な体躯が現れた。全身を顔まで覆った夜色のチャドルには、蓮華カマルと水牛の角を組み合わせた紋章が描かれている。仏教僧院サンガの武力集団〈武装僧兵ラクシャーサ〉の意匠。
「あんたか」とシッダルタは言った。「なるほど、わかりやすい」
 件の没落貴族は、ぎらついた見かけ通りの、大した野心家だったというわけだ。
 あの男にしてみれば願ってもない好機なんだろう。僧院サンガの頂点に立つ大僧正、野望のための最大の障害が、自分が手を回すまでもなく勝手にくたばってくれた。しかもその下手人は、クマリ女神デヴィーの息のかかった者ときている。
 ならばあとは大僧正殺しの咎人を始末し、ご乱心あそばれたクマリ女神デヴィーも早急に始末して、落とし前をつければよい。万事まるく収まり、あとには男の地位を脅かす者など誰もいなくなるだろう。
「姿が見えないようだが。ボスは元気かい?」
 チャドルの男は問いかけを無視した。衣のなかから二本の短刀を取り出した。
「鉄砲を使わないのはヒンドゥーの建築を壊さないための配慮かね。余計な政治摩擦は生まないと。お勤めご苦労です」
 名は確か、ラジュとかいったはずだ。カールのお抱え運転手は表の顔、その素顔は神をも畏れぬ武装僧兵ラクシャーサというわけだ。
 シッダルタは顔のないククリ刀を体の前に構えた。
 ラジュが跳んだ。シッダルタとの間合いを一気に詰めた。はやい。
 二連の太刀。刀の峰で受け止めた。暗い礼拝堂に火花と鉄の残響が咲いた。
 互いの剣が喰い合った瞬刻、シッダルタは敵の得物から情報を引き出した。
「グルカ」と言った。
 ラジュ本人が黙して語らずとも、ラジュの短刀が饒舌に喋った。無に等しい者、それ以下の存在。埃、虫けら、ただの塵。不浄階層カースト――〈鍛冶師カミ〉。シッダルタは刀剣の類に精通する。
 一見すれば刃渡りの短い伝統的なククリだが、シッダルタの刀同様、カーリーの陰核チョーがない。そして刃側面にはスミス&ウェッソンのロゴ。間違いない、〈グルカナイフ〉だ。
「イギリス陸軍〈グルカ旅団〉、百戦錬磨のスーパーエリートか。契約が終わって職にあぶれたか?」
「グルカ族には掟がある」小男が言った。「『一度鞘から抜いたククリは、血を吸わせてからでなければ再び納刀してはならない』」
 剣の雨が降り注いだ。速く、重い。かろうじてさばき続けた。やむことがない。加速する。シッダルタの呼吸が荒くなる。驚くべきことに、ラジュは息一つ上がらない。
 力の差は歴然だった。
 ラジュはグルカナイフを交差させ、ククリ刀の刃をはさみ込んだ。押しのけるようにして弾き飛ばした。シッダルタは反動に腕ごと持っていかれ、にわかに背中を反らした。刹那、小柄な体躯が、シッダルタの懐にすっと滑り込んだ。顔を覆うフードが脱げた。無感情な隻眼がシッダルタを見上げた。右目に眼帯。
「さらば」
 ラジュはシッダルタの脇腹から反対の肩へと、斜めに大きく斬り上げた。
 直後、男の目に感情の色が射した。
「初めて動揺したな」とシッダルタは言った。「『さらば』と言ったろ。得物をしまえ」
 言うが早いか、大刀を振り下ろした。返り血のシャワーが全身を洗った。二丁のグルカナイフが石畳で鈍い音をたてた。
強化皮膚テクスチャ」とラジュは言った。
躯型パターン奪胎? 違うね」
 シッダルタはびりびりに破れた上衣を剥ぎ取った。
鎖かたびらチェインメイル」とラジュは言った。「不可蝕民アンタッチャブル——〈鍛冶師カミ〉、か」
 グルカの男の死体をまたいで奥の間へ向かった。ココナッツの匂いはここにいない男の移り香、貪婪な野心の幻影に過ぎない。

 

     

 虫けらのように地面に転がった聖なる瘤牛の生首が、シッダルタを祭壇の間へと迎え入れる。
 祭壇に鎮座するのはサバラ・バイラブ。カーリー神とバイラブ神、ともにヒンドゥーの最高神シヴァの化身であり、恐怖と破壊を司るものである両者が、抱擁し合った姿の像。バイラブには二十の頭部があり、一方のカーリーの頭は僅かに一つ。その奇怪な造形とてしかし、横柄なへの字口をした最新の女神デヴィーの前では霞んで見えた。
 サンギータは祭壇前の黒大理石の玉座マスヌードに、ふてぶてしく腰を下ろしている。ガウンを脱ぎ、衣装は儀礼用の赤いドレス。黒の長髪は頭の上で髷に結い、手と足の爪には赤いマニキュア。額には祝福の赤いティカ と、第三の目。
 背中の神棚に、沙羅双樹のチウラに盛られた、血のついた聖牛の瞼の皮が載っている。睫毛がない。
 純白の睫毛はキランの手にあった。解脱モークシャに至ったようなすっきりとした顔をして、呪医バイディヤ玉座マスヌードに近づいた。精密な機械腕マニピュレーターを思わせる腕が、サンギータの無毛の瞼に伸びた。
 躯型パターン奪胎の煩雑な手続きは必要ない。ここでは睫毛を植え換えるだけだ。
 誰も、一言も発さなかった。
 数秒が、永遠のように感じられた。
 聖牛の睫毛が、サンギータに移植された。
「さあこれで――」とキランが言った。
 言い終わる前に、祭壇のサバラ・バイラブ像に亀裂が走った。抱擁像は寒さに凍えるようにがたがたと震え出し、直後に砕けて弾け飛んだ。
 同時刻、カトマンズのあらゆる場所で同じことが起きた。仏教、ヒンドゥー教、それ以前の原始の神々がごった混ぜになったカトマンズの全ての神像が粉々に砕け散った。聖典、経典、神にまつわる書物のすべてが自然発火して焼失した。
 それが確かに起きたことを、サンギータはこの場にいながらにして完全に知覚した。そして神格の復活を確信した。
 二人の従者を引き連れ、サンギータは寺院を出た。貧民窟スラムの川沿いの泥道に、無数の者たちがひざまずき、サンギータを待っていた。灰で体を真っ白に塗った聖なる者サドゥー。神の復活を密かに願い、寡黙に雌伏して時が満ちるのを待ちつづけた、タントラ教の神秘主義者たち。
 サンギータが再び歩き出すと、聖なる者サドゥーが脇に退き、道が生まれた。サンギータと二人の従者は割れた海のあいだを進んだ。
 そのうちにカトマンズのすべての市民が、女神デヴィーの姿を一目見ようと大挙して押し寄せた。
 祝祭が自然発生した。
 この大祭の前では、インドラ・ジャトラもダサイン祭も霞む。歓びと賛美と熱狂のさなか、山車もなく、輿にも乗らず、サンギータは自らの足で街路を巡った。
 街にはいまや二種の人間しかいなかった。一方は、純潔にして気高き女神デヴィーに祈りを捧げ、涙を流してひれ伏す崇拝者だった。もう一方は、嫉妬深く傲慢な女神デヴィーに忠誠を誓い、いまなお街に残る「旧神」の痕跡を潰して回るフーリガンだった。
 フーリガンたちはカトマンズじゅうの寺院や聖堂に火を放った。仏画、仏具、ヒンドゥー教の神仏画や装具をしこたまかき集め、積み上げて偽りの仏塔ストゥーパをうち立てた。塔がそれなりの高さに達すると火をつけた。周囲を取り囲み歓声を上げた。
 夜明けを待たず、街は光に包まれた。火が空を赤く染めた。
 シッダルタはサンギータのそばにぴったりとついて、この紅蓮の巡行を愉しんだ。大地に足をつけることを長らく許されてこなかったサンギータが、いまこうして自分の足で、カトマンズの街を自由に歩いている。その姿を見るだけで、どうしようもなくおもしろく感じられるのだった。
 巡礼行列はスワヤンブナート寺院に行き着いた。僧院サンガの牙城も他の寺院同様、天を焦がす炎の龍へと姿を変えていた。
 寺院に続く坂を上りきった先、平時は露天商や観光客で賑わう広場の一角に、一台の悪趣味なマシンが停車している。
 躯型パターン奪胎された人体を彷彿とさせる、オートバイと豪華客車のマシン・キメラ。燃えさかるスワヤンブナートの光を浴びて深紅に染まったチョッパー・リムジンの傍らに、男が一人、立っていた。
 自慢のリーゼントはすっかり崩れ、伊達男が台無しだった。橙色の僧衣は煤で汚れ、ほとんど浮浪者と見まごう有様だった。ノー・サングラス。初めて見るその目は驚くほど小さく気弱そうで、仔牛の瞳によく似ていた。
 家の復興を夢見た僧院サンガの成り上がり。青銅色の小柄な仏像を、逆さ向けに握りしめていた。頭部のもげた首なしの小仏だった。カール・バジャルチャルヤはリムジンに描かれた極彩色の蓮華手菩薩に向けて、仏像を何度も振り下ろした。女の裏切りにヒステリーを起こした、惨めな男の形相で。
「どうします」とシッダルタは訊いた。
「爆破しましょう」とキランが言った。
 そうすることになった。
 爆薬は簡単に手に入った。悪名高き武装僧兵ラクシャーサを擁するスワヤンブナート寺院の武器庫務めの男が、穏やかじゃない訳ありの物品を一式、木箱に詰めてオートリクシャで持ち出そうとしていた。サンギータが「爆薬をよこせ」と声を掛けると、男は喜んで献上した。シッダルタはこれを、リムジン客室のL字ソファの足下に設置した。
 起爆した。蓮華手菩薩はチョッパー・リムジンもろとも轟音の絶叫をあげて爆死した。煩悩より解脱したカールが新たな神の名を叫んだ。市民と聖なる者サドゥーとスワヤンブナートのバーダルたちが、アートマーを一つにして拍手喝采を送った。
 サンギータは声をあげて爆笑した。一番最初の試練以来、シッダルタが実に八年ぶりに目にした、サンギータの素直な笑い顔だった。それでシッダルタは、「神も笑うのだ」と知った。
 すでにこの世すべての者が、神の存在を捕捉していた。三十二の特相グナが揃った途端、全人類が肌で、、知ったのだ。地震の到来を事前に察知した獣たちが森を離れるように、ただ「虫の知らせ」のごときものによって、人は神を感じた。これ以降、人は知性と野性を併せ持つ両義性の獣となった。進化の階梯を一段上ったヒトは、神の存在を知覚することができる。これこそが、新たに幕を開けた神の娘デヨーマイジュの時代の、獣的で原始的な〈涅槃ニルヴァーナ〉である。

(了)

文字数:29245

課題提出者一覧