hegemony

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梗 概

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 社会が整備され生活が便利に自動・無償化された時代。生活への不安は薄れ、「何かを信じていないと不安」だった時代は終焉を迎える。
 そうした社会では他者と積極的に関わる必要性も薄まる。はじめ、若年層に顕著にみられたコミュニケーション不全は、次第に世代間から個人間の問題となっていく。他者とスムーズに意思疎通が図れない。そんな弊害が生じる状況が世界的に広がっていた。
 それでも人々は文字を簡易化した記号や身振り、数字の組合せといった方法を駆使して、何とか最低限の情報伝達を試みていた。しかし、それも通用しなくなりつつある。

 そんな状況下、科学者マルキ・シオウは以前から原因の一つと考えられていた脳の一部の退化現象について研究を続けていた。新生児においては、生まれながらにその部位が欠落している場合もあり、そんな子どもはコミュニケーション能力の欠如どころか、感情表現さえもほとんど見られなくなっていた。研究を続け、ついにシオウは欠落した脳の部位が「信じる」という機能を司っていたことを突き止める。
 シオウは、児童養護施設「マルキ園」を設立し、集めた子供たちを実験台に、まだ脳が未発達なうちに欠如した部位のモデルを人工的に埋め込むことで、信じる機能を取り戻させようとする。実験を続けるうち、子どもたちに徐々に感情が芽生え、原始的な方法で意思の疎通を図りはじめる。シオウはそんな子どもたちのコミュニケーションの中心に、自分には理解することのできない共通の概念があることに気づく。
 子どもたちはある共通の絶対的価値の存在を確信し、それを軸とし、その存在の下において意思の疎通を図っている。シオウはそれを「神」と認め、園庭で戯れ、笑い合う子どもたちを見守りながら、その笑顔に共感できない自分が既に神に見捨てられた存在であることを知る。やがて子どもたちは個人の散逸していた世界に新たな人間のコミュニティを形成していく。

文字数:800

内容に関するアピール

 作中において「神」をどういった存在として置くかを考えた際に、神のほうから人間に対して何かしらの働きかけを行う、という形は考えづらかったため、神が存在することによって人間の認識・価値観に何らかの変化が生じる形としました。
 流れとしては「バベルの塔」の物語をモチーフにしつつ、自動翻訳などの研究・開発が進む昨今では、互いの言語が理解できなくなるという形にはリアリティを感じないため、情報を受発信する脳の機能に弊害が生じるという設定としました。
 基本的に神が存在したとしても人間に対して損得・善悪といった直接的な作用をもたらすことはなく、その存在に対する個々人の倫理観や価値観が問題になると考えつつ、全人類にとってある共通性をもった神の「実在」が証明されれば、やがて何かしらの共通認識による統一的な意思の形成が図られるのではないかとも思い、支配者による合意に基づく支配、という意味でタイトルを付けました。

文字数:400

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第一章 マルキの子どもたち

 お前の支えていたポイントが激しく歪み、断末魔の咆哮のような振動が一面に響き渡った。小刻みに肌を震わせる不快な感覚に表情を歪ませ、軽く舌打ちする。
 だから言ったんだ。焦ると碌なことがないってな。
 ちゃんと忠告はした。だが、今日のお前はいつもよりほんの少し冷静さを欠いていた。
 三人で仕掛けるなんて、はじめから無謀な賭けだったんだ。多少遅れたって、レニが戻るのを待つべきだった。安定性を確保するためには頂点は四つ必要なんだから。
 振動によるノイズは、耐えがたいまでに激しさを増している。これ以上この場に留まっていると耳がイカレちまいそうだ。
「アーリィ! どうするの?」
 ノイズに交じってマキナの叫び声が聞こえた。この状況で、どうするもこうするもない。撤退だ。まぁ、要するに今回は失敗、ってことさ。
「マキナ、離れるぞ。放置したって、どうせ奴らには回収できない」
「バーツは?」
 相変わらずマキナは甘い。この期に及んでまだお前の心配をしている。だが、悪いな、俺たちにはまだやるべきことが山ほどある。だから余計なリスクを冒すわけにはいかないんだ。
「置いていく」
「でも――」
 歪みの中心を見つめて呟いたマキナの表情が曇る。
「――アクセス・キーはバーツが持ってる」
 前言撤回だ。どうやらこの状況で冷静なのはマキナのほうらしい。たしかにキーを回収しないと後々面倒なことになりそうだ。再発行手続きにどれくらい手間がかかるかなんて考えたくもない。
「キーは回収する」
 俺が叫んだのと同時に、マキナは歪みに向かって加速していく。その先に、つい数分前までお前だったモノが空気の抜けた風船のように萎んで揺れていた。
 絞りカスのようになったお前に接近しながら、マキナは左手に握りしめていたカウンタースフィアを覗き込んでいた。
「残存率五七パーセント……」
 五〇台ならまだ可能性はある。つくづく運の良いやつだよ、お前は。
「バーツごと回収しろ。レニと合流する」
 構成要素の半分を失って軽くなったお前を抱えて、マキナがその場を離れる。せっかく見つけた上位イデアを捨て置いて立ち去るのは惜しいが、この状況で二人でできることなど何もない。
 並んで加速し、震源から十分に距離を取って振り返ると、漆黒の柱が空高く伸びていくのが建ち並んだ廃ビルの隙間から見えた。しばらくすると柱は一度大きくひしゃげて、霧散していった。そして、大きな衝撃波が波紋のように周囲に広がっていった。
 遠くで発生した衝撃波は数棟の廃ビルを薙ぎ倒しながら次第に勢いを失い、心地の良い風となって頬を撫でた。肩のあたりまで伸びたマキナの亜麻色の髪がそっと揺れる。マキナは頭の上の紺のベレー帽が飛ばされないようにそっと手を添えていた。
「いったい何のイデアだったんだろう?」
 柱が消えて、いつもどおりスモッグに覆われた灰色の空を見つめると、柱のあった場所には円状に晴れ間がのぞいている。それを眺めながらマキナがそう呟いた。
「さあな。判別できるほど固定化できなかった」
 だが、レコードには記録されていない未回収の上位イデアであったことは間違いないだろう。そうでなければ、お前があれほど回収にこだわる理由もなかったはずだ。
 マキナは正常な形を失っているお前の身体をまさぐり、上着のポケットらしき場所からアクセス・キーを探り当てて、自分のポケットにしまい込んだ。
 お前が行動不能に陥った以上、現在の指揮権はサブ・リーダーである俺にあるはずなのだが、どうやら俺は彼女からあまり信用されていないらしい。まぁ、別に行動をともにしている間はどちらがキーを持っていたって関係がないし、アクセス技術に関してはマキナのほうが優秀なのだから問題ないだろう。
「レニくんは?」
「間もなく合流するはずだが……干渉波が激しくて連絡が取れない」
 耳元に装着した遠隔通信機を軽く叩いてみるが、どうやら先ほどの衝撃波の影響で故障してしまったらしい。これだから旧世代の遺物型落ちは信用できないんだ。だからと言って都市の老人たちのように始終ヘルメット型通信機を装着して生活したくもないが……。
「あまり長居はしたくないな。都市の連中も気づいただろう」
 あれだけ派手な柱をまさか見逃すはずもない。すでに巡視隊がこちらに向かっていると考えるべきだろう。
「五分だ。五分待っても現れなければ、二人で戻る。いいな」
 俺の宣言に無言で肯きながら、マキナはカウンタースフィアでお前の様子を確認していた。五三パーセント、先ほどよりもやや安定性が落ちている。お前を救うためにも撤退にあまり時間をかけるわけにはいかない。
 レニがいれば解れてしまったお前の存在を簡易縫合して、漏出を防ぐこともできるのだが、あいにく俺もマキナもその技術を有してはいない。こうして五割以上残ったこと自体は運がよかったと言えるが、偵察に出たのがレニだったのは運が悪かった。しかし、その指示を出したのはお前自身なのだから自業自得だろう。
「アーリィ、誰か来る!」
 崩れた建物の陰に身をひそめながらマキナが叫ぶ。
「レニ……ではないようだな」
 瓦礫を踏み鳴らして近づいてくる足音は一つではなかった。
 崩れかけた壁に背をあずけながら様子を探ると、タイツ状にまで軽量化された動作補強用の黒いパワードスーツを装着し、フルフェイス・ヘルメットで頭部を包み込んだ都市の巡視隊の姿が見えた。
 虹色のヘルメットが不気味に輝いて見える。
 サイバー・コミュニケーション・ヘルメット――通称「サイコメット」と呼ばれるそれは、俺たちのように覚醒を促されていない、都市に暮らす旧世代の「老人」たちにとっては生活必需品の一つだった。あれがなければ、奴らは満足に他者と意思の疎通を図ることができないのだ。
「おい、隠れても無駄だぞ」
 老人の一人がこちらに呼びかけてくる。
 一、二、三……七人か。
 それぞれが手に小型のピッチ・ガンを握っている。やり合ったところで勝ち目はない。抵抗するだけ時間の無駄だ。俺が小さく頷くとマキナも頷き返し、二人同時に廃墟の陰から出ていった。
「何だ、マルキのガキどもか」
 こちらがサイコメットを装着していないのを確認して、老人の一人が吐き捨てるように言った。奴らは俺たちの暮らす「マルキ園」のことを疎んじ蔑んでいる。そして、自分たちとは異なるコミュニケーション・ネットワークをもつ俺たちの存在を恐れている。
「さっきの柱はお前たちの仕業か」
「そうだ」
 噓をついたところで意味はないし、どうせ奴らには俺たちが何をしているのかなんて理解できないのだから、正直に答えてやる。
「ここで何をしているんだ」
 ガキの遊び場じゃないんだぞ、という罵声が重なる。しかし、打ち捨てられて放置されている廃墟を誰がどう使おうと勝手だろう。
「探し物をしてるの」
 俺が黙っていると、マキナがそう返事をした。
「それはマルキの研究に必要なものか?」
「わからない。わたしたちはただ言われたとおりに行動しているだけ」
「チッ、人形どもめ」
 サイコメットのなかから小さな舌打ちの音が聞こえた。
 やはり老人たちには――サイコメットのスペックでは――マキナの嘘を見抜くことはできないようだった。さすがに仲間一の演技派だけのことはある。
 見事に老人たちを騙したマキナは「なぜ正直に答えるんだ」というように、こちらに詰るような視線を向けてきた。おそらく奴らにはその表情を読み解くこともできないのだろう。
「おい、二人とも、市民登録票を出すんだ」
 一人がピッチ・ガンをこちらに向けながら叫んだ。
 俺たちの住んでいる「マルキ園」は都市エリアの圏外の荒廃した地区に位置している。そのため正規の市民登録はされていないが、都市の治安維持のために準市民として登録番号が割り振られている。要するに何か問題を起こさないよう危険因子としてマークされている、というわけだ。
 準市民とは名ばかりで、都市エリアに入るためには厳格な手続きが必要になるし、都市内での活動にも厳しい制限が課されていた。もちろん、公共のサービスを受けることはできないし、都市民の権利である生活給付も受給していない。
 そんな俺たちがどうやって生活できているのかといえば、それはマルキ園の創設者にして俺たちの育ての親であるマルキ・シオウの遺した財産のおかげだった。
 いま目の前に並んでいる都市の老人たちが装着してるサイコメット。そのプロトタイプを開発したのがマルキ・シオウだった。
 サイコメットは、人々のコミュニケーションを助け、失われかけていた社会的なつながりというものをかろうじて維持するのに大きな役割を果たしている。おそらく、その開発者という地位に満足していれば、マルキ・シオウは人類を救った天才、あるいは英雄として敬われる存在となっていただろう。
 だが、彼はそれだけで満足するような男ではなかった。そしてさらなる研究の結果、彼が生み出したのが俺たち――都市の老人たちからはアカシック・チャイルドと呼ばれる存在だった。
「わたしたちは市民じゃない」
 力のこもった声でマキナは登録票の提示を拒否した。俺とは違ってお前やマキナはマルキの子どもであることを誇りに思っている、らしいからな。俺は登録票の提示コマンドを入力しかけたのをキャンセルして、マキナに合わせることに決めた。
 どのみち俺たち二人が登録票を提示したところで、干乾びちまったお前の分まで示すことはできないからな。
「勝算はあるのかよ」
 俺の囁きにマキナは小さく首を左右に振った。これだからこいつらと組むのは嫌だったんだ。あとはレニ様頼みってわけだ。
 ここで老人たちに捕まって都市に連れていかれ、妙な罪状をでっち上げられた挙句、矯正されて奴らと同じヘルメットをかぶって一生を過ごすなんて真っ平ご免だ。そう思わせるくらいには、サイコメットのデザインは悪かった。
 奴らはパワードスーツを着込んで身体能力を強化しているし、ピッチ・ガンを持っている。多少距離が離れているとはいっても、全力で逃げたところですぐに追いつかれてしまうだろう。人数も二対七では、二手に分かれたところでどちらも捕まってしまうのがオチだ。
 遠くから地面をなぞる空気の音が聞こえてくる。
 網膜モニタで時間を確認すると、宣言した五分はとっくに過ぎてしまっていた。
「遅いぜ、相棒」
 一歩バックステップすると同時に、背後を通過した大型のエア・バギーに飛び乗る。そして、そのまま抱きかかえるように横のマキナを拾い上げた。
 ピッチ・ガンから発射された短針がバギーの装甲に当たって、小さく乾いた音を立てた。どうやらなかなか腕のいい奴がいるらしい。
「ちょっと、飛ばしすぎ」
 胴をさらった勢いで、マキナの被っていたベレー帽が舞い上がって、遠く飛ばされていった。
「あー、気に入ってたのに」
「また見つければいいっすよ」
 軽く笑ってレニはバギーのスピードを上げていった。それから振り返って「バーツさんはどうしたんすか?」と姿の見えないリーダーについて質問する。
「ここ!」
 風呂敷のように丸めて脇に抱えていたお前を、マキナはほんの一部広げて見せた。
「これ大丈夫なんすか?」
 レニにそう言われて、マキナがカウンタースフィアを作動させると、数値は五〇パーセントちょうどを示していた。
「ギリギリっすねー」
 レニは楽しそうに笑いながら「もうちょい飛ばすッス」と前に向き直った。
 廃都の建物が遠ざかっていき、張りつめていた空気が和らいでいく。マキナも余裕が出てきた様子で、萎んだバーツを引っ張ったり伸ばしたりして遊んでいる。
 それにしても、回収できなかったあのイデアはいったい何だったのか。お前が三人で仕掛けようといったとき、不安はあったもののこれほど見事に失敗するとは予想していなかった。
 これまでに回収したイデアは十七あるが、それはどれも下位のものばかりで、それほど世界の安定にとって重要なものではなかった。まぁ、そもそも広範な共通性を有している上位イデアがそうあちこちに転がっているはずもない。
 それこそ世界中を探し回ってようやく一つ見つかるかどうか、といった代物だろう。ましてや人々が感覚できなくなってしまった感情のイデアは、その安定性が極端に低くなっているはずで、俺たち「アカシック・チャイルド」以外の者にとっては、たとえすぐ傍にあったとしても知覚することさえ困難だろう。
「なーに考えてるんすか」
 操縦をオートに切り替えて、レニが声をかけてくる。
「いや、別に」と応えてから「俺たちの仕事のことさ」と呟くと「オイラはアーリィさんのデザイン、好きっすよ」とレニは微笑んだ。
 捕まえたイデアに形状を施すのが、俺とお前、イデア・デザイナーの仕事だ。イデアに輪郭を与えるためには、まずそれをこちら側に引き寄せて固着しなければならない。そのために必要なのが「観念固着」と呼ばれるアクションだ。
 固着のためには、イデアを現実界のある範囲内に閉じ込めなければならず、その囲いを作るためには、最低四つの頂点が必要だとされていた。
 イデアの大きさによっては三点平面状に固定することも可能だったが、そのためにはそれなりの技量や経験も必要になる。今回、お前は自分の能力を過信したために観念固着に失敗し、向こう側に飲み込まれてしまった。
 揺らぎによって解されたのが四割程度で済んだために、まだ再構築の見込みは残されていたが、六割をもっていかれていたら完全にアウトだった。
 レニに代わってマキナが運転席に座り、後部座席に回り込んできたレニは、お前がこれ以上解れてしまわないように、その端を縫合していった。いつ見ても見事な手際の良さだ。
 イデア・デザイナーである俺たちとは違い、レニはイデア・アーティストとしての才能に恵まれていた。不定形なイデアを固定化することには向いていないが、すでに形を成したイデアを加工したり、組み合わせたりすることに長けている。
 そして、もう一人の同乗者、マキナはイデア・クリエイターと呼ばれる才能をもっているらしかったが、俺はこれまで彼女が何か仕事らしいことをしている姿を見たことがない。
 自動運転のバギーのハンドルをマキナが鼻歌をうたいながら握っていた。辺りは昏く霞んだ夕焼けに包まれており、廃都は地平線の向こうに消えていた。すでに舗装された道路を外れて、バギーは乾いた荒野をマルキ園に向かって走っている。都市ネットワークから完全に分断されたこのエリアまで、老人たちが追ってくることはない。
 リーダーを失ったうえ、手ぶらで戻ることは他のチームに対する面子もあって憚られるが、あの廃都に未知の上位イデアが眠っているという発見は大きな収穫ではあった。ある程度ほとぼりが冷めたら、仲間たち総出でイデアを狩り出せばいいのだ。
 マルキ園と呼ばれている、児童養護施設。そこに暮らす子どもたちは既に大きく成長しており、最年長の者は二十歳を超えている。老人たちは、都市から隔絶されたその施設を、昔のまま「マルキ園」と呼び続けているが、俺たちはもうそこで暮らす小さな園児ではないのだ。
 俺たちのネットワークは園内だけにとどまらず、現在は巣立っていった仲間たちが世界各地でイデアの回収を行っている。園の創設者であるマルキ・シオウがここにいる以上、この場所が活動の中心であることに変わりはないが、都市のネットワークとは違う、仲間だけのコミュニケーション・ネットワークを、俺たちは「マルキ・カンパニー」と呼んでいる。

 

第二章 マルキの園

 かつて、マルキ・シオウという科学者がいて、捨てられたぼくたちを拾い、育ててくれたんだ。生まれたばかりの赤ん坊だったころ、ぼくたちは泣くことも、笑うこともできなかった。
 そんなぼくたちの感情を読み取ろうとして、生みの親たちはサイコメットを被せてみたりしたようだけれど、ぼくたちは生まれながらに感情の起伏が乏しく、サイコメットの恩恵を得ることができなかった。
 都市の人々は個々に思考や感情をもちながらも、お互いのそれを読み取ることができない。彼らは相手の考えや気持ちを知るために、サイコメットによって伝えるべきことを電気的な情報・刺激に置き換えてやり取りする方法でコミュニケーションを取っている。しかし、幼いぼくたちにはそれさえも難しかったんだ。
 だからサイコメットを通じたところで、彼らはぼくたちの感情を読み取ることができず、その存在を気味悪がるようになった。それでもぼくたちはオートメーション化された育児システムのおかげで、彼らの手を煩わせることなく、何不自由なく育てられた。
 もともと育児のような過酷な労働はずいぶん前からほぼすべてが自動化されており、生みの親の果たすべき役割などほとんどなかった。もっとも、育ててみせろと言われたところで、身体機能の衰えた彼らには自力で赤ん坊一人を育てることさえ困難だろう。
 普段はカプセル型リラクゼーション・ウェアのなかで快適に生活し、他者とのコミュニケーションにはサイコメットを使用する。カプセルから出て身体活動を行う際にはタイツ型のパワードスーツで身体機能を補強する。
 日常的に自分の身体を使って仕事をしているのは評議会の議員と、管理局のシステム保守エンジニアくらいのものだろう。それから自分たちの既得権を守ることに熱心な一部の市民たちが、巡視隊としてパワードスーツに身を包んで、都市周辺を警備している。
 ぼくたちのようにサイコメットに反応せず、都市ネットワークの内部に溶け込むことのできなかった「出来損ない」たちは、かなり早い段階で選別され都市機能から排除されていた。
 もともと個人同士のつながりが希薄な社会においては、生みの親は遺伝子提供者に過ぎず、特別な希望がなければ親子が生活を共にする必要もない。かつては結婚や家と呼ばれる契約制度もあったようだけれど、ぼくたちはそれがどんなものだったのか詳しくは知らないし、知りたいとも思わない。
 そんなふうに都市からはみ出した出来損ないのぼくたちを受け入れてくれたのが、マルキ・シオウの運営していた「マルキ園」と呼ばれる施設だった。
 しかし、マルキ・シオウは別に慈善事業をやっていたわけではなくて、自らの目的のために多くの子どもが必要だったというだけのことに過ぎない。それでもぼくたちは、彼に感謝しているんだ。たとえ彼の実験のサンプルとしてであったとしても、こんな時代において、ぼくたちに感情を取り戻してくれたこと、他者とのつながりかたを示してくれたこと、そしてかけがえのない仲間たちを与えてくれたことに。
 都市で暮らす既得権にまみれた市民たちのことを、ぼくたちは「老人」と呼んでいる。しかし決して彼らが皆、年老いているわけではなくて、最年少の者はぼくらと十歳も離れていないかもしれない。
 ぼくたちが彼らを老人と呼ぶのは、サイコメットを使わなければ満足にコミュニケーションをとることもできない、旧世代の人間たちを憐れんでいるからだ。古い人々はぼくたちのことを決して理解することができないし、ぼくたちも彼らに理解してもらいたいとは思わない。
 ただ、ぼくたちがやりたいように生きていくことを、管理しようとせずに放っておいて欲しいだけだ。それなのに彼らはぼくたちが傍に近づくことにさえ不快感を示す。お前たちは与えられた土地で慎ましく生きていればいいと。
 でも、成長したぼくたちにはマルキ園の小さな建物は狭すぎる。
 だから、ぼくたちは自分たちのやり方で世界を広げていかなければならない。そのためには、かつて存在し、人々によって受け入れられていた様々なイデアを見つけて、以前のようにつなぎ合わせなくてはならないと、マルキ・シオウは教えてくれた。
 ぼくたち、マルキ・シオウによってデザインされて、育てられた子どもたち――アカシック・チャイルドと呼ばれる存在は、そんなイデアの欠片について、ほんの少しだけ知っているに過ぎない。
 もしかすると、ぼくたちと老人たちの差は、たったそれだけなのかもしれない。でも、その違いが互いを大きく隔てている。ぼくたちはもっと広い場所でたくさんの仲間たちと生きていきたいと、思っている。今のように、バラバラに離れて暮らさなくても、ずっと一緒に居られるような場所が欲しいんだ。
 そのために、日々、当てもなく小さなイデアの欠片たちを集めている。

――バーツ、目が覚めたかい?
「父さん……」
 ベッドの横に大きな銀色のプレートが立っていて、声はその表面を反響するように、小さな振動となって鼓膜に響いてくる。
――危ないところだったな。レニに感謝しなさい。
「ぼくは、いったい……」
 たしかアーリィとマキナ、それにレニとチームを組んで、廃都を探索していたんだ。そこで未知の上位イデアを見つけて……それで、ぼくはアーリィとマキナと三人で観念固着を仕掛けようとした。
 そして、失敗した。
 それからどうなったのか覚えていない。
「あれからどれくらい経ちましたか?」
――お前の再生には、丸一週間を要した。レニの処置が適切だったおかげで、ほぼ完全に再現できているが、何もかもが元通りというわけにはいかなかった。
 なるほど、たしかに身体的にはまったく違和感はなかったけれど、全体の何割かが疑似的に再現されている以上、いつでも完全体としてふるまうことはできないらしかった。その証拠にイデア・デザイナーとしての能力は失われているようだった。
「これでは役立たず、ですね」
「そうでもないさ。少なくともバギーの運転くらいはできるだろう?」
 声に振り向くと入口にアーリィが立っていた。
「アーリィ、済まなかった。君の忠告に従うべきだった」
「そんなことはどうでもいい」
 そう言って、アーリィはシャツの胸ポケットから小さなものを取り出して、こちらに放ってよこした。手を伸ばして受け止めると、それはアクセス・キーだった。
「これは、君が……」
「まだリーダーはお前だ。残念ながらな」
 それがルールだろう? と言って背を向けると、アーリィはさっさと部屋を出て行ってしまった。しかし、数歩すすんで振り返えると「マキナが心配していたぜ」とだけ言い残していった。
「父さん、もう動いても?」
――ああ、身体機能は完全に再生しているはずだ。
 恐るおそるベッドを抜け出してみるが、どこにも痛みはなかった。
「マキナはどこにいますか」
――さぁ。屋上か、それとも園庭で子どもたちの面倒を見てくれているかな。
 薄灰色の寝間着を脱いでサイドテーブルに畳んであったTシャツに着替え、その上から傍にあった一張羅のレザージャケットを羽織った。洗い立てのシャツの石鹸の香りと、着古した革の匂いが重なる。
「フラノさんか……」
 洗濯物を干しているフラノの後姿が脳裏をよぎる。窓の外を覗いてみると斜向かいの棟の屋上で真っ白なシーツを干しているフラノの姿が小さく見えた。園庭からは「こらー走るなー危ないぞ」と叫ぶマキナの声が微かに聞こえてきた。
「とりあえず屋上に行ってみます」
 マルキ・シオウ――今はDr.モノリスと呼ばれている銀色のプレートにそう告げて、部屋を出た。
 水色のニットのセーターにチャコールグレーのスカート。そこから黒いタイツに包まれた脚がスッと伸びている。見慣れた後姿に声をかけると、背中にかかった長い黒髪がふわっと揺れて、振り返った眼鏡の向こうの黒い瞳が優しく細められる。
「おはよう、バーツ」
「フラノさん、済みません。心配かけて」
「どうして謝るの?」と笑いながら、フラノは手にしていたシーツを手早く物干しにかけていく。
「シャツ、ありがとうございました」
「どうしたの? いつもお礼なんて言わないのに」
 相変わらず微笑みながら、たくさんのシャツを手際よく干していくフラノに「手伝いますよ」と声をかける。
「ほんとに、どうしちゃったの? 寝ている間に人が変わったみたい」
能力ちからが……」と言いかけた言葉を「マキナなら園庭で子どもたちと遊んでくれてるよ。ここはいいから、行ってあげて」とフラノは遮った。
「ええ、声が聞こえましたから」
 でも、ぼくは貴女に会いにきたんですよ。とは告げずに屋上を後にして園庭へと向かった。
 小さな子どもたちに囲まれて、本当に楽しそうに笑っているマキナが見える。そこに近づいていくことは、何かとてもきれいな世界を壊してしまうような気がして、躊躇われた。それでもアーリィやフラノの言葉に促されるように、一歩ずつ園庭へ足を踏み入れていく。乾いた砂を踏みしめる靴音が小さく響いて、その音に気がついたマキナがこちらに視線を向ける。
 マキナの頭には見慣れない白い麦わら帽子が乗っかっている。こちらに向けられた、今にも泣き出しそうな笑顔が、ちょうど空を覆っていたスモッグの隙間から差し込んだ陽射しに照らされて、白く眩しく輝いて見えた。
 子どもたちの頭を軽く撫でてから、マキナはこちらに駆け寄ってきて、そのまま抱きついてくるのかと思ったら、目の前で立ち止まって、カウンタースフィアをかざしてきた。
「八七パーセント」
そう呟いて、マキナはこちらに笑顔を向けた。
「わたしがいま、何考えてるか、わかる?」
 ああ、よくわかる。マキナは今、残された八七パーセントのぼくを、試そうとしている。
「ごめんよ、無茶なことをしてしまって」
 マキナは怒っている。だからまずは謝らなくてはならない。それから、許すためのきっかけを欲しがっている。だから、
「ただいま」
「おかえり、バーツ」
 今度こそ、本当の笑顔をマキナは向けてくれた。本当に、まっすぐに感情が表れた笑顔。このマルキ園で誰よりも豊かな感情をもったマキナの笑顔だった。
 それから、先ほどフラノに聞いて欲しかった話を口にする。マキナはときどき相槌を打ちながら、黙ってそれを聞いてくれた。
 そして「いいんじゃない」と小さく頷いた。
「もう、この前みたいに、無茶なことはできないってことでしょ?」
 そう笑いながら「そんなことより、わたしはバーツの十三パーセントがどうなっちゃったのかのほうが気になるな」とマキナは言った。
「その帽子は?」
「あ、これね。レニくんが見つけてきてくれたの」
「どう、似合う?」とマキナは麦わら帽子に手を添えてくるっと一回転してみせた。
 前に見つけてやったベレー帽もずいぶんお気に入りだったみたいだけれど、白い麦わら帽子もマキナの髪の色にはよく似合っていた。
「ああ、似合ってるよ」
「気のない返事!」と語気を強めながら、マキナはベレー帽は失くしてしまったのだと教えてくれた。
「でも、デザイナーの能力がなくなったってことは、もうバーツにはイデアが感知できないってことなのかな?」
「それは……わからない」
 実際にイデアの傍に行ってみないことには何とも言えなかった。しかし、たとえ感知できたとしても、形成能力がない以上は、皆と協力して観念固着を行うことができないのは間違いない。
 これまでは、自分とアーリィ、マキナ、レニの四人でチームを組んでいたが、今後は少なくともあと一人、できればもう二、三人増員したいところだ。そうなると全体の編成を見直して実働隊を一つ減らさなければならないかもしれない。
 不意に、先ほどアーリィから渡されたアクセス・キーのことが思い出されて、それをしまっていたズボンのポケットにそっと手を添える。
 これが自分の手元にあるってことは、新しいチーム編成については自分で考えろ、ということだ。アーリィに好かれていないことは自覚していたが、それでも彼はマネジメントの能力についてはぼくのことを信頼してくれている、と考えてもよいのだろうか。
 アーリィは決定には文句は言わないだろうし、マキナは誰がパートナーでも問題なく仕事をこなしてくれるだろう。とすると相談するべきはレニ、かな?
 マキナにレニの居場所を尋ねると、いつもどおり、裏庭のラボに籠っていると教えてくれた。ラボは別にレニ専用というわけではなかったけれど、マルキ・シオウが身体を失ってからは、ほとんどレニが一人で使用しており、半ば自室のように、廃都で見つけてきた様々なパーツを好き勝手に並べていた。
「あ、バーツさん、目、覚めたんすか。無事で何よりっす」
 こちらに背中を向けて、作業机に向かったままレニはいつもの軽い調子でそう言った。振り向かなくても誰が来たのかわかるのは、入口に監視用のカメラが取り付けられているからだ。
「おかげで助かったよ、ありがとう」
 こうして無事に礼が言えるのも、レニの縫合技術のおかげだ。
「問題ないっす。それがオイラの仕事っすから」
 それより、とレニは先ほどから作業を行っていた旧式のラップトップ型コンピュータのモニタを指さす。
「バーツさんのもってかれた部分からシミュレートして、この前のイデアのカテゴリを予測してみたんすけど」
「何かわかったのか?」
「見たことない形っすけど」と言いながらレニは、コントロール端末を操作してモニタ上に映った疑似モデルのイデアを回転させてみせた。
「先生の予測と照合すると……」とレニが何かコマンドを入力すると、画面上にもう一つ、先ほどのものと形の良く似たモデルが表示された。レニが先生と呼んだのは、かつてこの部屋を使っていたマルキ・シオウのことだ。
「感情イデアの可能性があるっすね」
 歌うような軽い調子で言って、レニはマルキ・シオウがリスト化した感情イデアのオーダーを表示させる。そのなかには既にぼくたちに与えられているものと、まだ理解できないものが混在している。
「どれかはまったくわからないっすけど」
 実際のところ、これまでに集めた十七のイデアは、どれも固形物を示したものばかりだった。なので感情のように無形でいて強固なものがどれほどの情報量を有していて、観念固着のためにどれくらいのエネルギーが必要なのか予測できない。
「仕掛けたとき、マキナは何も反応しなかったんすか?」
「たぶん……」
 多少、嫌がる素振りを見せていたような気もするけれど、それはイデアそのものに対してではなく、三人で観念固着を仕掛けることに抵抗があったからだろう。
「だったら、マキナももってない感情かもしれないっすね」
 レニの予測では件の上位イデアがまた同じ場所に出現する確率は二割以下ということだった。
「感情は移ろいやすい、らしいっすからね」
 そう言って屈託なく笑ったレニの口元に白い歯が小さく光って見えた。

 

第三章 悲しみのイデア

 マキナの泣き声がホールの高い天井で反響して、部屋中に響いている。彼女のように感情をあらわにして思い切り泣けるということが、良いことなのか、悪いことなのか、私にはよくわからない。
 ずたずたに引き裂かれて、穴だらけになった身体から溢れ出した血は、既に乾いていた。私は遺体を真っ白なシーツのうえに横たえて、突き刺さったままのピッチ・ガンの短針を一本ずつ抜いていく。
 皆は私たちを囲むように並んでじっと立ち尽くして、ただこちらを見つめている。
 今この場にいる仲間のなかでは、私は一番の年長者だから、これは私の仕事なのだ。第一世代の私には他の子たちよりも感情が少ないから、動かなくなって目を閉じている顔を傍で見つめていても、彼らほど辛くはない、はずだ。
「アーリィ……」
 バーツの声に振り返ると、彼は脱力したように肩を落として上着の袖で涙を拭っているアーリィを慰めようとしていた。バーツはとても優しい子なんだ。
「俺の……俺のせいで……」
 言葉を詰まらせながらアーリィは悔恨の思いを吐き出そうとしていた。誰よりも責任感が強く、仲間思いのアーリィの低い声が、マキナの泣き声と重なってホールに響く。
「アーリィさんのせいじゃないっす」
 二人から視線を外して、作業を再開する。
「ちょっとドジっただけっすよ」
 そんな軽い言葉が、目の前の少年の口からこぼれだしたような気がして、私は懐かしさを感じて、ふっと微笑んでしまう。
 私の微笑は誰にも見られていない。ただ目の前で眠っているレニだけに向けられたものだ。懐かしさは、私がもっている数少ない感情の一つだった。
「フラノさん、ちょっと疲れたっす」
 いつから、レニは私のことを「フラノさん」と呼ぶようになったんだろう。ずっと小さかったとき、まだ彼がこのマルキ園に来たばかりの頃、レニは私を「お姉ちゃん」と呼んでいた。たぶん、もう本人も覚えていないだろう。
 ああ、それはそうか。もうレニはすっかり眠ってしまったのだから。
 私は、他の子どもたちに比べて、ずっと都市の老人たちに近い存在だ。だから仲間たちとは感情の多くを共有することができないし、こうして一緒に悲しんで涙を流すこともできない。
 私は彼らと深くかかわることを、恐れている。だから、私はいつでも微笑んでいる。マキナのように心の底から笑うことはできないけれど、皆は私の笑顔を見て「優しそう」だと言ってくれるから。
 お父さんの遺した研究資料を必死に読み込んで、少しでも皆のことを理解できるようになりたいと思った。そうしていくつかの感情については、表情や身振りから予測ができるようになったけれど、私はそれを頭で理解しているだけで、皆と感情を共有しているわけではないのだ。
 資料についてわからないことがあれば、ラボに行けばレニが何でも教えてくれた。幼い頃にあんなに甘えん坊だったレニが、今では私の先生になっていた。そんなレニはお父さんのことを「先生」と呼んでいた。
 そんなふうに他人同士がつながっていることを、いったい何と言うんだろう。師弟関係? それとも家族というものだろうか。かつて存在して、今はもうなくなってしまったつながり方について、レニに質問してみると「わからないっす」と彼は笑った。
「でも、オイラたち皆、仲間っす」
 仲間――カンパニー、そのなかには、私も含まれている?
 私を仲間と呼んでくれた人は、今、私の手のなかで冷たく横たわっている。すべての針を抜き終えて、その身体をそっとシーツで包み込み、最後に固くなった冷たい手を握りしめた。
「終わりました」
 私の声がホールに響き、マキナの泣き声が止んだ。自分の発した言葉がどこか他人のもののように耳の奥に残った。
 マキナは涙を拭って、睨むような強い視線をこちらに向けた。私はそんな彼女の視線にどう応えればいいのかわからず、ただ微笑を浮かべてみせた。すると彼女はふっと視線を外してそっぽを向いてしまう。
 レニの遺体の横に並べた十二の短針を、確かめるように一本ずつ数えてみる。発射された針のなかには貫通してしまったものもあるため、レニの身体に空いた穴はここにある針の数よりもずっと多い。
 傍に歩み寄ってきたアーリィが、並んだ針をしばらく見下ろしてから、シーツの隙間から覗くレニの眠ったような表情を見つめた。
 アーリィの隣にバーツも並んで立つ。
「レニ、きっと捕まえてみせるからな……」
 廃都で見つけたという上位イデアの固着に再度失敗して、その際の老人たちとの小競り合いでレニはピッチ・ガンの直撃を受けてしまったのだ。
 アーリィの呟きに、バーツは無言で握っていた右の拳に力を込める。彼は一度目の失敗の際にイデア・デザイナーとしての能力を失い、観念固着を実行することができない身体になってしまった。
 レニの推測ではその未知の上位イデアは、ある「感情」を司っている可能性が高いらしかった。それがどんな感情かはまだわからないけれど、もし「悲しみ」のイデアであったなら、その形状を知覚して、私も悲しみというものを感じることができるようになるのだろうか。
 そうしたら、レニのために泣くことが、できるだろうか。
「織り札は誰が?」
 私は、ホールにいる全員に向かって問いかける。
 そうして、針を抜くために使用したピンセットの先を消毒液で丁寧に拭ってから革鞄にしまい、代わりにまだ何も記されていない織り札を一枚取り出した。
「フラノさん、名前を書いてあげてください」
 バーツの言葉に、皆が静かに頷いて、私は自分で良いのだろうかと思いながら墨色のペンで札の表にレニの名前を書き記していった。
 私に文字の書き方を教えてくれたのはお父さんで、レニに読み書きを教えてあげたのは、私だ。レニだけじゃない。バーツやアーリィやマキナ、彼らと同世代の子たちには、私や、かつてマルキ園にいた第一世代の仲間たちが様々なことを教えた。
 そして今は、バーツたちが子どもたちにここでの生き方を教えていて、私はそれを見守っている。感情は伝搬するものだから、幼い子どもたちと接するのはより豊かな感情をもった者のほうが相応しい。だから、マキナは一番子どもたちに好かれている。
「マキナ」
 私がペンを置くのと同時に、バーツはマキナに声をかけた。
「レニくん、喜んでくれるかな?」
 そう呟きながら近づいてきたマキナに、私はそっとペンを差し出した。受け取って、マキナは織り札を丁寧に開き、そのなかにペンを走らせていった。しばらく文字を書きつけてからマキナはペンを置いて、織り札を閉じた。
「何を書いたんだ」
「いつか、レニくんに聞いてみて」
 マキナの応えに、アーリィは不満そうに軽く舌打ちをして、それから紙の棺を作るための準備をはじめた。
 私はマキナから受け取った織り札をシーツの胸のあたりに差し込んでから、レニの顔を覆った。子どもたちはそれぞれの手にロール状に巻かれた長い紙布を用意している。それを使って、シーツにくるまれたレニの身体をしっかりと巻いていく。
 緩みなく紙布を巻きつけていくにはそれなりのコツが必要で、小さな子どもたちの巻いたものはすぐに解けてしまったり、強く張りすぎて破れてしまう。
 バーツやアーリィが手伝いながら、子どもたちは順番にレニの身体を白い紙布で包み込んでいった。
「フラノも」といってマキナが渡してくれた紙布を受け取って、私もレニの身体を丁寧に巻いていく。最後の仕上げはマキナに任せる。仲間たちのなかでは、マキナはレニの次に器用だったのだ。
「もういいな」
 アーリィの言葉に皆が肯いて、男の子たちが紙の棺を担ぎ上げて、バギーのほうへと運んでいった。そしてゆっくりと後部座席に横たえた。
「マキナ、行くか?」
 これから数人がバギーに乗って荒野の西の砂の大河へと向かい、そこへ棺を流すのだ。砂の流れにのみこまれた棺は、その流れの導きによってふさわしい場所へと送り届けられるのだと、私たちは信じている。
 噂では、都市の老人たちは死んだ人間をクリーン・システムによって分解して効率的に処理しているらしい。砂の果ての世界を信じる私には理解できない感覚だけれど、いかにも老人たちらしいやり方のような気もする。
 砂の果てに何があるのか、この目で見たことはないけれど、お父さんの話では、かつて完全な感情をもった人間たちが、互いに笑い合いながら平和に暮らしていた街が、砂の底には埋もれているのだという。レニはそこへ辿り着けるだろうか?
「行かないよ。もうお別れは済ませたから」
 マキナは首を小さく左右に振って、アーリィの誘いを断る。
 レニとチームを組んでいたアーリィとバーツがバギーに乗り、あと二人、レ二と同い年のパリスとターロが乗った。走り出したバギーが遠ざかって見えなくなるまで、マルキ園に残された仲間たちはじっとレニと四人を見送った。
 振り返って園へ戻ろうとした私を、マキナが「ねぇ」と呼び止めた。
「フラノ、レニくんがいなくなって私、すごく悲しくて、この、どうしたらいいのか、わからなくて……」
 そう途切れ途切れに呟くマキナの目に、先ほどのように涙が滲みはじめていた。一緒に泣くことのできない私は、そんな彼女を少しでも慰めてあげたいと思い、近づいて、そっと抱きしめてみる。
 私の胸元に顔を埋めたマキナの涙が、セーターを濡らしていく。
 マキナは他の誰よりも感情が豊かだけれど、ときどきそれを上手くコントロールできなくなってしまうことがある。そのことをマキナは「感情が抑えられない」と言い表していたけれど、私にはそんなふうに感情が溢れてしまう感覚を理解することができない。
 いま、泣きじゃくっているマキナは、そんな感情の抑えられない状態に陥っているのだろう。
 鼻を啜りながら胸元から顔を離したマキナに、私は微笑みかけてみる。それが彼女にとって慰めになるのかどうか、わからないけれど、私にできることはそれしかないのだ。
 私の微笑をマキナはじっと見つめ返す。その瞳が、私の瞳に真っ直ぐに向けられている。
「フラノはいま、どんな?」
 ときどき、マキナは私にとても無邪気で残酷な質問をすることがある。
 そんなふうに訊かれても、私は自分の感情を上手く言葉にすることができなくて、ただ――
「わからない」
と答えることしかできなかった。

 

第四章 頂を見つめる少女

「アーリィ! マキナ! 観念固着を仕掛けるっ」
 バーツがそう叫んだとき、とても嫌な感じがしたんだ。
 でもわたしは彼の言葉に従った。彼はリーダーだったし、それにわたしは彼のことを信頼していたから。
 そうしたらバーツはイデアに負けて、飲み込まれてしまった。自分たちより強いイデアに無謀に立ち向かおうとしたって、駄目なんだ。もっと仲間と協力しなくちゃ。
 存在の十三パーセントを失ったバーツは以前よりも感情が希薄になってしまった。本人も、他の皆もそのことにほとんど気がついていないみたいだけれど、わたしには耐えられないくらいバーツの欠落がはっきりと感じられて、つらい。
 それから、レニくんがいなくなっちゃった。
 いつも、穏やかで、ふわふわした感じのレニくんの存在が、わたしは好きだった。そんな穏やかさを奪ったのが、都市の老人たち――あの不快な連中だということが、許せない。
 あいつらはわたしたちの感情を何一つ理解できないんだ。
 アーリィはあんな素顔を見せない連中は信用できないといつも言っているけれど、わたしも彼の意見に賛成だ。
 レニくんがいなくなったときに感じた「悲しさ」は、いまでもその日のことを思い出すたびに溢れてきて、抑えられなくなって、わたしは泣き出してしまう。この感情にはやり場がなくて、はじめのうち、わたしは涙が自然に収まるまで泣き続けなければならなかった。それも今ではずいぶん慣れてきて、抑え方を一つ見つけることもできた。
 レニくんがいなくなったときは、皆も泣いていて、この「悲しみ」は他の仲間たちも共有していたはずなのに、わたしのように激しく泣き続けたり、思い出していつまでも泣いていたりするような子は他に居なかった。
 悲しみを知らないフラノにいたっては、一度も泣いたりしなかったけれど。
 わたしはフラノのことが、嫌い。
 違う。嫌いなんじゃない。フラノのことだって大切な仲間だと思っているし、彼女はわたしにいろいろなことを教えてくれたんだから。
 ただ、わたしにはフラノのことがよくわからなくて、仲間たちのなかでも一番遠い存在のような感じがするんだ。
 いつも同じ顔をしていて、ときどき、ぎこちない笑顔を浮かべてる。バーツたちはその笑顔を優しそうだと言うけれど、わたしは小さい頃から一度もそんなふうに思ったことはなかった。
 フラノが笑うのは、たぶん困ったときなんだ。どうしていいかわからなくなって、何も考えられなくなったとき、彼女は笑う。わたしはずっとそう思ってる。
 わたしはもっとフラノのことが知りたくて、何か新しいことがあったとき、彼女の気持ちを訊いてみる。するとフラノはいつも困ったように微笑んで「わからない」と答える。それはわたしの聞きたい答えではないし、質問に対する答えにもなっていない。
 フラノは第一世代のなかでも最も早い時期にここへやってきたうちの一人で、長い時間をマルキ・シオウの傍で過ごしたはず。それなのに、彼の理想からは最も遠い存在として、この場所に留まり続けている。
 他の第一世代たちは、世界に散らばっているイデアを見つけるために、仲間たちを連れて他の場所へと移っていった。ただ一人、フラノだけが、はじまりの場所に残っている。
 たぶん、マルキの子どもたちのなかで、フラノは一番の出来損ないだ。そして、いまのところわたしはマルキ・シオウの最高傑作、ということになるだろう。
 わたしは最も多くの感情をもっているのだから。でも、それを上手くコントロールできず、振り回されている。そう、わたしはこの場所で一番優れていて、そして一番壊れた存在なんだ。
 たぶん、これから先、わたしよりもたくさんの感情をもった子どもたちが生まれてくるだろう。それに皆が活動を続けていけばどんどん感情のイデアが見つかっていって、その感情を皆で共有できるようになる。
 そうなったら、わたしは特別でなくなるし、今よりも上手く感情と付き合えるようになるかもしれない。
 たとえば、豊かな感情をもつ者同士の遺伝子が配合されて子どもが生まれれば、その子は両親よりも多くの感情をもつことができるのだろうか?
 もしそうなら、わたしは誰を好きになればいいだろう。
 アーリィは、すぐに怒るからダメ。
 レニくんは少し頼りないけど、優しくて、わたしの知らないことをたくさん教えてくれた。でも、いなくなってしまった。
 レ二くんのことを考えてしまって、また感情が暴走して、わたし、泣いている。
 心を落ち着けるため、カウンタースフィアを抱きしめて、そこに浮かぶ「100」という数字をじっと見つめる。そうするとが安定する。
 バーツを、わたしはたぶん好きだった。けれど、彼は欠けてしまって、もう「100」ではなくなっちゃった。それに、バーツはフラノのことが好きなんだ。二人とも「好き」という感情を理解できていないから、きっとが伝わることはないだろうけど。
 ああ、わたしのを理解してくれる人が、現れたら、わたしは全力でその人のことを好きになってあげるのに。
 その人はわたしの知らない感情もたくさん知っていて、そしてわたしのなかにまだ眠っている感情を、一つずつ目覚めさせてくれるんだ。
 マルキ・シオウの言葉に従って、このままイデアを集め続けていれば、いつかそんな人と出会える日が、来るだろうか。
 イデアはそれぞれに固有の形状をもっているけれど、マルキ・シオウの設計したイデア・マップの上では、一つひとつのイデアはほんの小さな点に過ぎない。その点を無数に並べ、つなげていくことによって描画されるもの。それが彼の目指した完全モデルだった。
 そのモデルを共有することによって、人と人はかつてのようにサイコメットなしで自由なコミュニケーションができるようになるのだ、とマルキ・シオウは考えていた。あらゆるイデアが記述されたモデル、それはアカシック・レコードなどとも呼ばれていて、そんな狂気じみた研究を続けていた彼を揶揄する人々もいたらしい。
 そんな研究の成果として作られたサイコメットが、いま人々の頭部を覆っているのだから、マルキ・シオウは老人たちの間で一定の評価を得ていると考えてもいいだろう。現在ではただマルキ園で育てられたわたしたちに向けられた「アカシック・チャイルド」という呼称だけが残った。別に老人たちに何と呼ばれたって、構わないけど。
 わたしたちは仲間を信頼して、皆と一緒に生きていければ、それで十分だから。レニくんをピッチ・ガンで撃ち殺すような奴らとは、頼まれてもわかり合ったりしないんだ。
 わたしたちは、自分たちのためにイデアを集めることを受け容れている。恐らく、マルキ・シオウのプランのなかには都市の老人たちも含め、この世界のすべての人間がつながりを取り戻すことが想定されていたんだろうけれど。少なくともわたしは、仲間のためだけにその仕事を続けていくつもりだ。
 わたしはただ仲間とつながっているために感情による支配を受け容れているんだから。それはたぶん、皆も同じだ。ときどき、「悲しみ」のように思うようにコントロールできず、苦しいこともあるけれど、ここにいる誰一人として、都市の老人たちのように生きたいとは思っていない。
 かつて人々をけっして完成されることのない曖昧なつながりによって支配しようとするものがあった。しかし、あるときからそれは、そのつながりを断って人々を見捨てようとした。そうして人々からつながりが失われかけていた。
 マルキ・シオウはその筋書きを書き換えようとした。彼が研究し続けたもの、その成果を利用することで、老人たちは失くしかけたものを電気的な刺激に置き換えてつなぎとめている。そしてわたしたちは、老人たちとは別の方法で、少しずつだけれど失くしたものを取り戻しながら、お互いの感情によって、つながっている。
「マキナ、ここにいたんだ」
 いつもの、感情の読み取れない微笑を浮かべてフラノがこちらに向かって歩いてくる。胸元に、大きな本のようなものを抱えている。
 屋上の貯水槽の横に座っていた私の隣にやってきたフラノは、並んで座り、抱えていた本のようなものを「見て」と言って広げた。
 それは、わたしたちが子どもだった頃のアルバムだった。
 小さなわたし、小さなバーツ、アーリィと……レニもいる。イデアを探すために他の場所へと旅立っていった仲間たちの顔も並んでいる。いまとは違っている幼い頃の顔が並んでいるのは、不思議な居心地の悪さがあった。
 ゆっくりと頁をめくりながら、フラノは「懐かしいでしょ」と囁いた。
「懐かしい?」
 うん、と頷いて、フラノは一枚の写真を指さした。
「レニがおねしょして、アーリィがその形がこの国の地図みたいだって、ね、覚えてる?」
 そう言ったフラノの表情が、どこか楽しそうに見えて、わたしは彼女の顔をじっと見つめながら「覚えてるよ」と返事をした。
 レニくんがずっと泣き止まなくて、フラノが抱いていて、アーリィがそれをからかって笑っていた。子どもの頃からアーリィは鬱陶しかった。バーツはレニくんを笑わせようとして……そのとき、わたしは何をしていたんだっけ?
「マキナはまだ小さくて、レニからもらい泣きして、一緒に泣いちゃって」
 ああ、そうだ。私はレニくんよりも二つ下で、まだそのときは多くの感情について上手く理解することも、コントロールすることもできなかった。
 だからあのとき、自分がどんなで泣いていたのか「わからない」。
「ねぇ、フラノ」
「なに?」
「懐かしいって、どんな気持ち?」
 わたしは、いつもと同じ答えを、期待していた。でも、彼女は「わからない」とは言ってくれなかった。そっと、胸のあたりを押さえている。
「ここが温かくなって、皆と出会えたことがすごく……何だろう、上手く言えないんだけど。レニも、お父さんも、旅立っていった仲間たちも、ずっと傍にいてくれるような、不思議な気持ち」
 そう言って、フラノはうつむき、目を閉じた。
わたしにはそのときの彼女の気持ちがわかった。たぶん、彼女は自分の気持ちがわからなくて、上手く言葉にできないでいるんだ。だから、わたしが代わりに仲間の気持ちを想像して口にしてみる。
「懐かしいって、幸せってことなんだ」
 わたしの顔を見て、フラノは微笑みながら小さく頷いた。

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