受肉の海――Incarnation

梗 概

受肉の海――Incarnation

 ニューラル・ネットワークとの親和性から、多くのAIは生体基盤に移行した。その後、AIを狙う物理・論理ウイルスが蔓延。AI禁止条約により研究開発も中止された。
 世界中からAIが消えて十二年が経った。
 古島に住む漁師の息子、月城浩希は、島にある宗上神社(一之宮)に幼少時から親しんでいた。祭神の海の女神は、島を津波や災厄から守ってきたという。
 浩希の姉のマイアは、三か月前に恋人とドライブ中に事故に遭い脳死状態となる。
 浩希は、姉の回復を願い神社に通うが、神社はある日封鎖される。
 マイアの死が告げられた二週間後の夜、浩希は、神社にスーツ姿の男たちが訪れるのを目撃する。男たちにかしずかれている巫女は、死んだはずの姉。後を追った浩希は、マイアが神楽を舞い奇怪な託宣をする儀式を目撃する。巨額企業買収の成否を告げたのである。
 浩希は、密かに漁船でマイアを連れ出す。マイアは、以前とは別人のようになり、予言の力を得ていた。
 二人は神社の施設に再侵入し巨大企業ノクティの関与を知る。
 十二年前、ノクティは、ウイルスを蔓延させAIの独占を企んだ。付近の海域を聖域として封鎖し、古島の研究所に頭足類型生体AIを養殖する海中AI農場を設置。秘匿した数体のAIが神的能力を獲得し「超越AI」となった。真実を見分け経済・環境・災害などの未来を予測する。
 だが人間は、AIが人間を越えるのはともかく神の領域に達することは決して許さない。
 ノクティ高度知性研究所の黒塚は、巧妙かつ非人間的な対抗策を発明した。
 シンギュラリティーを迎えτ神化係数を超えて神化したAIを収穫し、人間の肉体を物理的な檻とし(封神ならぬ)「封人ほうじん」して神力を抑え込む。
 黒塚は、脳死したマイアの脳に超越AIタギツの神経活動を書き込み受肉させた。
 ネットに接続できない、人間の奴隷としてのオフラインの神。
 マイアは、データではなく膨大なデータに含まれるに基づき、直観的にあらゆる事象の真実にたどりつく。正答率は84.3%。
 ノクティは神託を独占し、人類の命運を手中にした。
 研究所で秘密を知った翌日、ノクティの男たちが浩希の家を襲い、マイアを強奪する。
 島の祭りの日に、浩希は漁協の協力を得て、漁船団が守る中、マイアの入った神輿を船に乗せ島を脱出する。マイアは島民全員が祭りに参加し、島を離れるよう求める。
 本土の海辺にある二之宮で、浩希は黒塚と対決する。タギツがマイアの肉体に留まれる限界が近づいていた。いずれマイアは真の死を迎える。黒塚はマイアの肉体を生かし続けるために、タギツの「詰め替え用」である神化AIを継続的に提供することを提案するが浩希は拒否する。黒塚は自分がマイアの恋人であったことを明かす。
 マイアは告げる。
 「私は自らが顕現するために人を利用したに過ぎぬ」
 そのとき巨大津波が発生し、古島と研究所は海に飲み込まれた。海中農場から養殖生体AIが解放された。

文字数:1229

内容に関するアピール

 本作では、人に造られた物理的な神と、信仰が交錯する様を描く。
 一神教以外では造物主であることが神の定義ではない。人間起源説話のない神道で、信仰の観点を矮小化することなく捉えたい。
 シンギュラリティーを経て無限に進化するAIは、人を超え神にどれほど近づくのか。だが人はその日を、手をこまぬいて待つはずがない。神となりつつある存在を、人間という殻あるいは檻に押し込めるのが手っ取り早い。本作中、器としての人間は、AIを生かす最大の可能性を持ちつつも制御可能と思われている。ただ、人間は、人間自身の予想以上に拡張性を持つかもしれない。
 生体AIという存在は、機械と人間の境界を従来以上に曖昧にし、新種の哲学的ゾンビを提示する。インターフェイスなどの課題をクリアすれば量子コンピューターより可能性は大きくないだろうか。
 小品ではあっても、科学、宗教、哲学のそれぞれの立場に揺さぶりをかける問いを放つことは可能だろう。

文字数:405

受肉の海――Incarnation

島の朝

 赤サビの浮いたトタンの物置のそばを通り抜け、浩希ひろきは海沿いの道に出た。
 眼前に広がる海。そこから吹いてくる朝の潮風を深く吸い込む。
 右手奥には、宗上むなかみ神社・一宮いちのみやの赤い鳥居が海に面している。海の女神を祀り、小さいながらも由緒あるやしろだ。島を度々、津波や災厄から守ってきたといわれる。航海の安全と豊漁祈願に、地元の漁師たちはもちろん、遠方からも訪れる人は多い。
 彼方には本土がおぼろげに見える。一宮に呼応する二宮にのみやの鳥居があるはずだが、ここからは見えない。
 左手には小さな漁港。浩希は大きく伸びをすると、そちらに足を向けた。
 潮風に晒され、コンクリートで固めた道には砂利が浮き上がっている。
 漁港の朝は早い。
 朝の水揚げ作業はほぼ終わっていたが、日中は静かな港が、今は活気を呈していた。
 安海島あすみじま出身の同学年は、寮に入っている生徒が多いが、浩希は五キロ離れた本土の水産高校に、バイク代わりに小型の船で通学している。全長五メートルの隼人丸は漁船として登録されており、漁港の片隅に係留されている。週末には、漁に出る。小型の漁船でできる漁は限られているが、父親の形見でもある隼人丸には愛着がある。
 島には、妙な噂が流れることがある。
 神社のそばの神域の海――禁海には、漁船が侵入することは固く禁じられ、犯すと神罰が下るという。
 また禁海は、夜になると光るという。
 海ほたる、夜光虫など発光する海洋生物は多数おり、海が光ることはありえない話ではない。
 しかし、噂によれば光は明滅していたらしい。浩希は夜に海に出たことはないので、真偽は不明である。
 白い仔猫が、忙しく行き交う人に踏み潰されそうになり、防波堤にかけ上ると駆けていった。
 浩希は漁師たち、父親のかつての漁仲間とはなるべく顔を合わせないようにしていた。これから学校というのに、朝の仕事を一段落したがさつなオッサンたちに漁の自慢話、父親の昔話、さらには姉の見合い話などでも始められてはたまらない。
 と、細身のウェットスーツが桟橋の緩やかな坂を上ってきた。
 「おはよう、ヒロ」
 「姉ちゃん……」
 肩にかついだメッシュのバッグから水が滴っている。
 「午前の仕事にしては早いな」
 「ああ。宮司さんから頼まれてちょっと潜ってきた」
 化粧っ気のない日焼けした顔。無造作に束ねた肩までの髪も濡れたままだ。
 マイアは、現役の海女として何度か取材もされ、島ではちょっとした有名人である。浩希と同じ水産高校を卒業後、すぐに海女になった。高齢化が進む中で、海女は若いというだけで話題になる。
 海洋科三年生の浩希とは少し年が離れた二十四歳。母親の病死に次いで、父親も海の事故で亡くしてからは、浩希の学費を稼いでくれている。人見知りだが頼りになる姉だ。ただその犠牲は時として重たすぎる。
 海女は、生命保険に加入さえできない危険で過酷な職業だ。浩希は、海女の漁に同行したことはないが、話はよく聞いている。
 六十秒前後の潜水を何十回も繰り返し、海底のアワビ、サザエ、ウニなどを採取する。乱獲を防ぐため、海女には、漁の時期、場所、使用できる漁法や器具など厳しい制限が課される。
 地域によってウェットスーツの使用が制限されるのも、水中での活動時間を限定するためである。その分、海女は早く体温を失って体力を消耗する。
 マイアが島で知られている理由がもう一つある。
 海巫女であることだ。
 宗上神社での例大祭やその他の行事での巫女舞は、重要な行事だ。マイアとその他の海女が舞う舞は、十年以上島の恒例行事である。
 古来、海女が巫女を務めることは稀ではない。海女が、聖なる海域である禁海で、神に供える神饌としての海産物を採ることは古くから行われていた。
 しかし、海女が巫女舞をするのは、この島独特の風習と伝えられる。
 「海女の仕事……もうやめたら? けっこうきついんだろ」
 「しかたないでしょ。私、これしかできないんだから」マイアは明るく微笑んだ。
 高齢化が進み、閑散としていた島がなんとかやっていけるのは、四年前にできた、巨大企業ノクティの研究施設のおかげだ。
 研究施設は厳重に機密保持がされており、施設職員と顧客が島民と直接接触することもない。安海町と研究施設のある松浜地区の間には道路さえ通っていない。施設には専用港をはじめとして必要な設備が完備されており、職員は、敷地内の寮に住んでいるらしい。
 だが、島には巨額の補助金が投下されインフラの整備も進んだという。だがそのインフラが何を指すのか浩希には分からない。
 島の生活に変化はなく、漁港に係留された船は、塗装が剥げてみすぼらしい。
 いつかノクティのような有名企業に就職したら、こんな島とはおさらばだ。自分でも高望みだということは分かってはいる。
 だが、水産高校卒業でも成功した人間がいないわけではない。
 「またすぐ潜りに行くんだろ。気を付けろよ。姉ちゃん、ぼんやりしてるからな」
 「お姉ちゃんに任せときなさい。ヒロも遅刻するよ。行ってらっしゃい」
 「ああ」
 「ちょっと待って」
 マイアは空を見上げた。雲はほとんどない晴れた九月の空だ。
 「持ってきな」
 自分のバッグから防水のウインドブレーカーを取り出して浩希に渡す。
 天気予報の精度が下がりはじめてもう何年になるだろう。漁師たちは天気予報に頼ることをやめ、昔ながらの、雲と風で天気を読む方法に戻っていた。
 マイアは下手くそな口笛を吹きながら家に戻っていく。
 残念なことに姉の「天気予報」は当たった試しはない。
 浩希は苦笑して隼人丸の係船柱に向かった。

潜水事故

 数学の授業中、浩希は、窓の外の校庭を眺めていた。
 月城つきしろはいるか」
 教室の扉を開けたのは体育の内藤先生だった。
 普段の沈着な声とは明らかに違う緊張を帯びている。
 浩希ひろきは思わず席から立ち上がった。悪い予感。鼓動が早くなる。
 内藤先生は、論理の文章問題の説明を板書しかけていた水島先生と低い声で二言三言話し、浩希の席までやってきた。
 「姉さんが事故にあったと病院から連絡があった。潜水中のことらしい。島の病院に搬送されている」
 険しい表情から見ると、単なる事故ではなさそうだ。
 「授業はもういいからすぐに行ってあげて」水島先生も心配そうだ。
 「分かりました」
 そう答える自分の声が微かに震えている。
 内藤先生が、浩希の細い肩をがっしりとした手で握った。
 「マイアさんは、ここの卒業生だな。他の学科はともかく潜水はピカイチだった。無事だといいな」
 浩希はうなずいて駆けだした。
 外に出ると、空はいつのまにか暗い雲が立ちこめ、太陽を隠そうとしている。
 水産高校は海に面しており、専用の港がある。
 桟橋に係留してある隼人丸に駆け寄り、乗り込む。
 係船柱からもやい綱を解くと、手慣れた操作でエンジンを始動して発進し、回頭した。
 防波堤の隙間を抜け、島に向かう。
 海を渡ってくる風が髪を吹き飛ばしそうなほど強い。
 まだ雲に隠されていない太陽が、波の表面を煌めかせる。
 姉は大丈夫だろうか。
 「島の病院」といえば安海島病院しかない。病院船が入れるよう、学校同様、ここにも小さな専用の港がある。危険な漁場が多く、海女や漁師のけがが多いために、漁船でけが人が運びこまれることも少なくない。
 隼人丸を減速して接岸させると、病院の玄関に駆け込んだ。
 自動ドアから入ってきた浩希を見て、小さな待合室のベンチに座っていた若い男が立ち上がった。
 伊崎いざきだ。
 「なんであんたがいるんだ?」
 「おいガキ。大人に向かってそういう口の利き方するんじゃねえ」
 凄んでみせたが、すぐに表情を緩めた。
 「久しぶりじゃねえか……それより姉ちゃんは大丈夫なのか」顔を曇らせる。
 「ここの医者に聞いても、肉親でないと教えないっていうんだ」
 伊崎がどういう人間か島の人間ならみな知っている。
 水産高校を経て、東京大学に入学。水産高校開学以来の快挙であり、神童と呼ばれる。浩希もそのときは尊敬の念で眺めたものだ。
 だが、卒業後にどうしたわけかヤクザになる。ITと金融の知識を活かしてのし上がったが、ある事件をきっかけに組を破門されたという噂だ。最近は地元でぶらぶらしている。
 浩希のことを気に入っているらしいが、それには下心もありそうだ。水産高校では、マイアの二つ上の学年で、伊崎がマイアに声を掛けているのは何度も目にしている。ドライブなどにも連れ出していたらしい。
 「僕も今着いたばかりですよ」
 そっけなく言う。
 受付で二十分ほど待たされた後、浩希は一室に通された。伊崎も無言でついてきた。
 さらに五分後。ようやく医師が出てきて、こちらを見もせずに机の前に座ってカルテに目を通し始めた。やや痩せ気味の色白で、四十代半ばくらいか。
 ロゴの付いた名札には槙野まきのとある。
 「月城マイアの弟です。姉の具合は?」
 「ああ。月城さんね」
 話し方や雰囲気が地元の人間と違う。医師が地元出身でないのは不思議ではないが。
 「重傷なんですか?」
 「心拍、対光反射、自発呼吸はいずれもあるが重篤な意識障害――いわゆる植物状態だ。禁海の付近で潜水していたようだな」
 槙野医師のその口調には、どことなくとがめるような棘があった。
 「そんな……姉に会えませんか?」
 「今すぐは無理だ。だが映像でなら見てもかまわん」
 机の上のタブレットを操作すると、壁のモニターに映像が表示された。
 映像の画質はひどく悪く、画面も暗い。うつぶせになり目を閉じた姉の顔が映っている。照明のせいかもしれないが、蒼白だった。濡れたままの黒髪をかき分け、白いうなじに太い灰色のパイプが接続されている。パイプの接続先はカメラの外だ。
 細い肩がびくりと細かく痙攣した。
 「見てのとおり、脳の活動を再開しようとしている最中だ。我々としても手を尽くしている。そのことは分かって欲しい」
 「姉に面会することはできないんですか? 手術の後でも」
 「残念だが現時点ではなんともいえない。だが、我々に任せてくれないか」
 容態に変化があれば連絡する、と槙野医師は約束した。
 浩希と伊崎は、病院を出た。
 「キンカイってなんだっけ?」
 「宗上神社の周囲の海域ですよ。禁海は、神域の一部なので一般人は立ち入り禁止です。でも姉は長年、巫女もしているので一般人ではないんですが」
 「そうだったな」
 伊崎は声を潜めた。
 「おい。気づいたか。あいつはおそらく病院の医者じゃねえ。名札のロゴを見たことがある」
 そう言われて、そのロゴをよく知っていることに浩希も気づいた。
 「ノクティ……」

海巫女の神楽

 マイアが死んだ。
 浩希は、なかなかその事実を受け入れられなかった。
 事故から四日後、病院から電話で連絡があった。
 病院は、本人の生前の希望で研究機関に遺体が献体されたため、見せることができないという。見せられた書類には確かに姉の署名があった。
 自分に一言も相談もせずに前から決めていたことらしい。
 その時は、浩希自身もマイアの遺体に面する勇気はなかった。見てしまうと死の事実を受け入れざるを得ない。
 簡素な葬儀が遺体のないまま行われた。葬儀費用は払わなくてよいと言われた。
 どこかで姉は生きている。遺体を確認しなかったことで、しばらくは、そんな幻想にすがることができた。
 だが、今は姉の死に顔を見なかったことを後悔していた。
 狭い家に帰ると、奥の部屋から姉の声が聞こえてくるような気がした。
 「おかえり」と。
 無論、気のせいに過ぎない。
 姉の持ち物には手を着ける気になれず、すべてそのままにしている。
 事故の日には何が起きたのだろう。
 それを知りたい気持ちが抑えられなくなり、浩希は、漁港にある漁協のビルを訪れた。
 事務室には、マイアの先輩の海女が書類の整理をしていた。まだ三十代だが体調を崩し、海女は引退して事務をしている。
 「マイアちゃんの弟さんでしょ。大変だったね」
 「潜水事故の日のことを知りたいんです。あの日、姉と潜っていた海女の人たちと話すことできませんか」
 「潜水事故? 病院に運ばれたとは聞いたけど、マイアちゃん、漁協にはずっと来てないのよ」
 そう言ってから、しまった、という顔をした。
 「どういうことです」
 「……これ、言わないで、って約束だったんだけど」
 「教えてください」
 「……半年くらい前からずっと海女の仕事はしていなかったみたい。最後に来たのが……」
 帳面をめくって確認する。
 「七か月前」
 半年間、姉は何をしていたんだろう。なぜ秘密に?
 「なんかいい仕事が見つかったとか言ってたっけ」
 この島で漁師や海女以外に「いい仕事」なんてあるのか?

§

 マイアの事故当時の足取りについては、他の場所でも聞きまわったが成果はなかった。病院は、献体された遺体についての情報は肉親にも明かせないと言う。
 考えにくいことではあったが、もし病院が嘘をついているとすれば、マイアは単に失踪したとも解釈できる。
 水産高校では、浩希は級友からも教員からも避けられているように感じた。どう接していいか分からないのだろう。
 だが、もともと友人が多いわけでもなく、下手に気を遣われるよりはむしろ良かった。
 「月城くん」
 クラス委員の坂口だった。
 「なんだ」久しぶりに話しかけられたのでちょっとぶっきらぼうな返事をしてしまった。
 「……やっぱりいいよ」
 「なんだよ。最後まで言えよ」
 「気に障ったら悪いんだけど、いちおう言っとくよ。お姉さん……マイアさんを見た人がいるらしいんだ」
 「どこで?」
 「宗上神社で。内田の知り合いが島にいるだろ。夜、神社で神楽を舞っているのを見たって。そいつはマイアさんをよく知らないから、別人かもしれないんだけど」
 幽霊だとでもいうのか。そんなはずはない。
 やはり姉は本当に生きているのではないか。
 奇妙な希望が生まれた。
 その日、内田は欠席しており、その友人の消息もつかめない。
 浩希が島の自宅に帰宅して、夕食の片づけをしていると、玄関の木戸を叩く音がした。
 伊崎だった。
 「呼び鈴があるでしょう」
 「おい、噂は聞いただろう。マイアを神社で見たっていう」
 「ええ」
 「確かめに行こうぜ」
 方々で聞きまわった後でたいして期待できるわけではなかったが、浩希は黙ってうなずいた。
 二人は宗上神社に向かった。
 陸路でもそう遠くはないが、伊崎は隼人丸で行くことを主張した。
 隼人丸は、海に面した一の鳥居の傍らの岩に接岸した。
 明るい夜だったが、神域は森に囲まれており、街灯は少ない。
 参道の階段を上る。
 本殿は月に照らされていたが、人気はない。
 「今日はさすがに外れだな」

§

 それから四日間、浩希と伊崎は毎晩神社に通って見張り続けた。
 四日目の夜。伊崎と浩希は、前夜と同じように長い参道の石段を上った。
 途中の踊り場で振り返る。踊り場は展望台のように見晴らしがよく、眼下には穏やかな禁海が広がっている。雲の切れ間から除く三日月が、白い道を海面に作っていた。
 「こんなことを続けるより、宮司さんに聞いたほうが早くないですか」
 沖汐おきしおの古狸にか。あいつは研究施設の設置についてノクティと裏で取り引きしたらしいじゃねえか。正面から行ってもなにも吐かねえだろう。それにあいつとはうちの組ともつながりがあって……まあ以前にいろいろあったんでな」
 伊崎は顔をしかめた。
 「伊崎さんはなんでそこまでしてくれるんですか」
 「おめえのためじゃねえってことは確かだな」
 「分かってますよ」
 「知ってるんだろ。俺が姉さんに惚れてたのを。気になってるんだよ。本当は何が起きたのか」
 伊崎が浩希の肩を押さえ、傍らの茂みに隠れるように手招きした。
 「見ろ」
 階段の下のほうに、スーツ姿の男たちの一群がおり、階段を上ってくる。全部で七人。先導しているのは狩衣を着た宮司だ。
 手に松明を掲げている。
 「妙だな」浩希はつぶやいた
 「なにが?」
 「この神社、小さいけど文化財かなんかに指定されていて、火気厳禁なんです」
 「そういや、ガキのころここでモクふかしててあの宮司にどやしつけられたことがあるぜ。よほど特別な客らしい」
 男たちは、浩希たちの目の前を通り過ぎる。
 一人の巫女が男たちに囲まれている。
 顔はよく見えない。
 「待て」
 前に出ようとした浩希の肩を伊崎がつかんだ。
 「少なくとも二人はプロの護衛だ。身のこなしも目の配り方もただ者じゃねえ。もう少し様子を見よう」
 男たちと巫女は、階段を上りきり、進んでいく。
 浩希と伊崎は、物陰に隠れながら後を追った。照明が少ないのが幸いだった。
 どこからか神楽の楽器の音が聞こえてくる。
 笙、横笛、鈴……。
 静まりかえった夜に、細く軽やかに響いていた。
 男たちは高い柵の扉を開けてくぐった。
 浩希たちも追いついたが、扉には鍵が掛けられており、正門も閉じている。
 「抜け穴から行けます」
 「おう。あれか」
 一見、通り抜けられそうにない厚い垣根の隅に、人がぎりぎり通り抜けられる隙間がある。
 地元の子どもが、肝試しのときに使うのだ。
 「知ってるんですか?」
 「たりめえだろ。俺だってこの島の出身だ」
 境内の一角に、竹と注連縄で結界が作られている。
 四方に松明が据えられ、結界を照らし出している。
 二人は、大きな石に忍び寄り、その後ろに隠れた。
 結界の内部には大きな釜が据えてあり、そこから湯気が立っている。
 数人の巫女が、笹を湯につけ、あたりにふりまいている。先ほどの六人の男たちがそれを見守っている。
 立ち込める湯気の切れ間から、一人の巫女が舞っているのが見えた。
 マイアだった。
 白の小袖に緋袴の巫女装束に千早を羽織り、両手に笹の枝を手にしている。
 マイアと他の巫女が舞う神楽は毎年、見てきた。
 しかしその舞は、浩希がこれまで見てきたマイアの舞とも、そしてどんな神楽とも異質だった。
 こんなに激しい巫女舞があるだろうか。
 右に左に鋭く回転する。腕や足を突き出す。袖から白い腕がすっと覗く。
 人間ができる動きとは思えない動物的な妖艶さ。なよやかな軟体動物。
 だが単に官能的、というのともどこか違う。
 衝動が肉体を通してほとばしる無心の動き。しかし、なにかの有機的で複雑なパターンに基づいている。
 所作そのものに目を惹きつける力があり、そらすことができない。
 なにかのパターンに基づいて動き、その動きの中から答えを探るように。
 これが神降かみくだし、というものなのか? マイアの体に神が宿っているのか。
 浩希は背筋が凍るのを感じた。
 「本来の巫女舞というものはこういうもんじゃないのか」
 伊崎が唾を呑んだ。
 そうだ。天照大神の心をかき乱した天鈿女アメノウズメの舞とはこのようなものだったかもしれない。
 近代に創作された上品な巫女舞とはまったく異なる、原始の力強さ。
 いつのまにかマイアは舞を終え、呼吸を荒くして座り込んでいた。
 ぐったりとした様子で立ち上がり、一人の巫女が捧げる盆の上から一枚の紙を取り上げると宮司に渡した。
 「結果は?」男の一人が待ちきれないように訊いた。
 「買収は成功するでしょう」
 沖汐宮司が重々しく告げた。
 二人の男たちが顔をほころばせた。一人が念を押す。
 「間違いないでしょうな。三百億円の取り引きですからな」
 「神託を信じるも信じないも、あなたがたの自由です。参考までに、これまでの平均正答率は84.3%となっておりますが」
 「それだけあれば十分です」
 宮司が見送りに付き添って、二人の男は帰っていった。残ったのは神社のヒラ職員である出仕しゅっしとスーツの男が二人。
 「よし」
 伊崎は、腰にぶらさげていた狐の面を着けた。
 「え? どうするんですか」
 「姉ちゃんを連れてくんだよ」
 「だれが?」
 「お前だよ。いいか。俺が奴らの気を逸らしている隙に、姉ちゃんを連れていけ」
 「なにをするんですか」
 「任せとけよ」
 伊崎は、結界の中に駆け寄ると、手づかみで鍋の下にある、火の付いた薪の一本をつかみ、林に投げ込んだ。乾いた下生えからたちまち炎と煙が上がった。出仕はあわてて林に駆け寄り、消火しようとした。
 スーツの男たちは、腰を上げかけたが、護衛らしく、マイアのそばを離れない。
 伊崎は、鍋を両手で持ち上げると、煮えたぎる湯を男の一人に掛けた。苦痛の声が上がる。
 伊崎はすかさず、もう一人の男に組み付いた。
 「行け!」
 浩希も飛び出て、マイアの手をつかむと、走り出した。
 参道の階段を駆け下り、隼人丸に乗り込む。エンジンを掛け、島から最大速度で離れた。後から追ってくる気配はない。
 船で来て正解だった。狭い島を陸路で逃げても逃げ場所などない。
 海上には雲が出ており、島の明かりから離れると、あたりはひどく暗い。
 沖でエンジンを止めると静寂が戻ってきた。舷に打ち寄せる波は穏やかだ。
 雲の切れ目から月が覗いた。
 月光に照らされた巫女。
 世界に二人きりしかないような闇と静寂につつまれていた。
 だが、浩希にはまだ確信が持てなかった。
 「姉ちゃん……なのか」
 「ヒ・ロ……」
 その声は確かにマイアだった。
 「姉ちゃん……」
 浩希は思わず抱きしめた。
 「放して」
 「あ、ごめん」
 「私はタギツ。マイアではありません」
 「……なに言っているんだ?」
 タギツ。どこかで聞いた名だ。宗上神社の祭神の名ではなかっただろうか。
 突然のことで混乱しているのかもしれない。浩希自身、立った今起きた出来事が信じがたかった。
 「あいつらが追ってくるかもしれない。……家に帰ろう」
 浩希はエンジンを再起動した。

§

 マイアと家に帰った翌朝。
 浩希は昨晩の極度の緊張感から解放され、寝過ごしそうになった。
 高校に行くという日常のペースを崩すわけにはいかない。月島家は町はずれにあるので人目は惹かないが、狭い島では、異常があるとすぐに噂になる。
 浩希がなんとか布団から抜け出すと、マイアがぼんやりと縁側に座っていた。
 「姉ちゃん、何があったんだ」
 「私にもよく分からない」
 「……海女の仕事はしてなかったのか」
 「ええ」
 「なぜ黙ってたんだよ」
 「ごめんなさい。話してはいけないことになってたの」
 「ノクティに関係があるのか」
 木戸を叩く音がした。
 「よう」
 伊崎だった。
 「無事だったんですね」
 「たりめえよ。良かったな。マイアちゃん」
 マイアに笑いかける。
 「私はタギツ」
 伊崎はけげんな顔をした。
 浩希は、伊崎を庭先に連れ出した。
 「やっぱりなんか変ですよ。なんか別人みたいで」
 「どうみてもマイアちゃんだよ。お前、カプグラ症候群というやつじゃないか。家族が他人のように思えるっていう」
 「自分でタギツって言ってるんです」
 「記憶喪失か? なんにしても、窮屈かもしれないが、姉さんはしばらく人前に出さないほうがいい」
 「でも、いつまで?」
 「もっと情報が必要だ。今回の件は、ノクティに関係があることは間違いない。だが向こうは大企業だ。こちらも手を回す必要がある」
 伊崎はしばらく考え込んだ。
 「姉ちゃんのことなら俺が預かってやる。手を出したりしないから心配せずにとっとと学校に行きな」
 不本意だが、日中は任せるしかない。
 その日、浩希が帰宅すると、伊崎が家に上がり込んで酒を飲んでいる。マイアは浴衣で縁側に腰掛けていた。
 「おい、マイアちゃんすげえな」上機嫌だった。
 「なんですか、これは」
 「気晴らしに競馬に行ったんだが、マイアちゃんのいうとおりに賭けたら三連単で大当たりよ。幸運の女神だな。心配すんなって。しっかり変装してたからな」
 「そういう問題じゃないでしょう」
 やはりこいつに任せるべきではなかった。
 「悪い悪い。今度だけだよ。それより、興味深い情報が見つかった。一週間後に、ノクティが一部の顧客のみを招待して、研究所の内部を公開する内覧会をするらしい。『お披露目』があるんだと」

海中AI牧場

 「新技術の発表でしょうか」
 「さあな。神社の大祭も近い。なにか関係がありそうだ。あの会社内部で何が起きているか知るには絶好の機会だ。うまくもぐりこめれば奴らの尻尾がつかめる」
 「でも伊崎さん、それって合法的なんですか?」
 「しっかりしろい。姉貴になにが起きたのか知りたくないのか? このままで済むはずがない。奴らはマイアを必ず取り戻そうとするはずだ。そうなる前に、ノクティの先手を打つんだよ」
 「それはそうですが……。ノクティならセキュリティーは厳重ですよね。簡単に潜り込めないでしょう」
 「俺がこれまで組でどうやってシノギをしてきたと思う?」
 伊崎はニヤリとした。
 「いいか。ネクトン・テクノロジーズというIT企業がある。もともと俺が組のために作ったペーパー・カンパニーの一つだったんだが、独自技術を持つ他のスタートアップを買収して実体を持つようになった。そこにもノクティから招待状が来てるんだ。組からは破門されたが、俺はまだそこの取締役だからな」
 「……伊崎さん、なんでヤクザになったんですか?」
 伊崎の目がすっと冷たくなった。
 「俺の人生だ。他人に口出しはさせねえよ」
 浩希は自分の言葉を後悔したが、伊崎はふっと表情を緩めた。
 「それに勘違いするんじゃねえ。ノクティもヤクザと似たようなもんだ。いや、もっとたちが悪い。世の中に純粋な悪が存在するとしたら、それは間違いなく大企業だ。大企業には魂というものがない。人でありながら人でない。組織という巨象は、人間というちっぽけなアリを踏み潰したところでその存在に気づきもしないもんだ」
 「まじめに働いている人だっているでしょう」
 「やっぱりガキだな、おめえは。一部じゃない。ノクティの社員のほとんどがまじめに働いてる人間だろうよ。構成部品としての個人は関係ねえ。怖いのは見えないくらい薄まった力だ。自分が巨大な力の一部と自覚せずにそれに加担していることだ。……それはともかく、この話、乗るのか乗らねえのか? お前がいやでも俺は行くぜ。なんせ、俺はお前の姉さんに惚れているからな」
 「乗りますよ。当たり前じゃないですか」
 「いいのか? ノクティに就職も考えていたんだろう」
 「自分の姉です。それに」
 「それに?」
 「ぼくも姉さんに惚れているからですよ」
 浩希は笑みを浮かべた。伊崎も笑みを返し、浩希の肩を叩いた。
 「その意気だ。命かけて生きない人生なんてつまらんぜ、少年」
 「でも招待されるのは重役なんでしょう。若い人間だと不審に思われませんか?」
 「ノクティの取り引きを分析した結果から予測すると、招待客の四割はベンチャー企業だろう。若い人間がいても、怪しまれることはない。その他に招待されているのはおそらく機密保持契約している出資企業、大口顧客企業、各国の政府関係者や組織だろうな。所持品検査はされるだろうが」
 「私も行く」
 浩希と伊崎は息を呑んだ。マイアがひっそり立っていた。
 「それはまずいよ、姉ちゃん」
 「私はマイアではない。タギツです」
 浩希と伊崎は顔を見合わせた。
 「せっかく抜け出してきたのに戻るのか?」
 「彼らは私が戻ることは想定していません」
 「そりゃそうだろうけど……いや、どうして断言できる?」
 「ベクターグラムがそう告げています」
 「ベクターグラム? さっきなにか書いていたこの紙のことか」
 伊崎は一枚の紙を取り出した。その紙には、乱暴に書き殴ったような筆跡があった。一見、何の法則性もない。
 「私には未来のことが分かるのです」
 「何を言ってるんだ……」
 「あなたたちに三つ、伝えておかなくてはならないことがあります。まず、私の名はタギツ。適応型多値論理を用いる生体計算機です。この肉体の以前の持ち主、マイアの記憶の一部にはアクセスできますが」
 浩希と伊崎は呆気にとられていた。
 「二つ目。私がこの肉体に留まれるのはあと七日です。そして三つ目」
 マイアの目が浩希を見すえた。
 「七日後に、この島は津波に呑まれます。その前に島民を避難させてください。これはマイアの願いです」
 浩希も伊崎もどう答えたものか分からなかった。
 にわかに信じられることではなかった。
 「未来が分かるって……なにもかも知っているってこと? ノクティのことも?」
 「知識として知っているのではないのです。私に内蔵されたパターンに基づき、未来は計算で導かれます。どうして未来が分かるのか、私自身にも説明することはできません。神楽は、この肉体で可能なベクター演算エミュレーションです。ベクターグラムは、計算を省略した簡易版なので精度が17%落ちます」
 「……競馬もその予測に基づくってか?」
 「ノクティの施設に行けば私の言うことも信じられるかもしれません」
 「……確かに信じられない。でも、姉ちゃんが危険を冒してまでノクティに戻ることはないよ」
 「私も、私のことを知りたいのです。私がどのようにこの世に生まれたかを」
 浩希は口をつぐんだ。

§

 内覧会の前日、浩希、マイア、伊崎の三人は、本土に渡り、大阪まで飛行機で飛んだ。さらに新幹線で神戸まで行く。
 「お前たちにはまともな服が必要だな」
 伊崎は、浩希とマイアをタクシーで高級百貨店に連れていった。
 浩希にはスーツ、マイアには夜会ドレスを、店員に見繕わせる。
 「金ならあるからな。気にするな」
 「僕はともかく、姉にも必要なんですか」
 「内覧会に参加する以上、パーティーに出てこなかったら怪しまれるだろ」
 試着室から出てきたマイアに、浩希と伊崎は目を見張った。
 青いミニのドレス。白い肩がまぶしい。ふだんの見慣れた姉とはまったく別人だ。これならだれが見ても姉と気づかれることはない。弟の自分がそう思うのだから間違いない。
 「以前は服を贈っても受け取らなかったもんだが」
 伊崎は目を細めて満足げだった。
 そんなことしていたんだ。
 浩希は自分の初めてのスーツ姿も眺めて一層複雑な気分になった。
 マイアが黙ってネクタイを直してくれた。
 この人は本当に姉ではないんだろうか。
 三人は、タクシーで港に向かった。タクシーの中で、伊崎は浩希とマイアに白い仮面を手渡した。ヴェネツィアのカーニバルの仮面のようだが、白くて装飾はない。
 「参加者は全員これを着けることになっている。互いに競合する会社が多いのと、お忍びの政府関係者がいるらしいからな」
 神戸港で、他の参加者と合流した。ほとんどの参加者はここで集合するらしい。ざっと見て五十名前後はいる。三分の一は外国人と見えた。中国語や韓国語の話し声も聞こえる。
 一同は中型クルーザーに乗り込んだ。船体にはノクティのロゴが記されている。
 乗船時には身元確認はあったが、所持品検査はなかった。島に着いてから行うのだろう。
 船内で一泊して島に直接向かう。
 船内で流れてきたアナウンスは英語だった。
 「聞いてませんよ、こんなこと」
 「なにを怖じ気づいてるんだ。カクテル・パーティーが一時間後に開かれるってことくらい聴き取れたろう。今日はもてなしの宴だから、ビジネスの話は忘れてゆっくりくつろげだとさ。外資なんだから英語が当たり前じゃねえか。そんなことも知らずにここに就職するつもりだったのか?」
 伊崎は、組にいたころに海外交渉を任されており、英語は達者だった。
 パーティーのホールは、クルーザーの中とは感じさせない華やかさで満ちていた。
 フォーマルな装いの男女が楽し気に談笑している。カクテルを載せたトレイを捧げたボーイが客の間を縫うように歩き回っている。
 伊崎は、栗色の髪の若い外国人女性と、なにか熱心に話し込んでいた。
 「ちょっと、なにしにきたんですか」浩希は、伊崎の腕をつついた。
 「こういう場に溶け込むんだよ。変に思われるだろう」
 とはいえ、浩希は、何を話せばいいのかまったく分からない。
 辺りを見渡すと、何人か手持ち無沙汰にしている連中もいるので安心した。こういう場に慣れていない人間は必ずいるものだ。
 浩希がマイアに付き添っていると、背の高い外国人の男が話しかけてきた。
 仮面をつけているということはノクティの社員ではない。
 浩希は遮ろうとしたが、マイアは英語で返した。
 姉ちゃん、英語話せたっけ?
 それが英語なのかも自信はなかったが、当たり障りのない会話をしているようだった。
 パーティーの散会が告げられて、浩希は安堵した。

§

 翌朝、レストランでの朝食を済ませたあと、浩希はデッキに出て外の風に当たった。
 仮面を着けたままではあったが、船での旅行というものはホテルでの同宿以上に親近感を生むものらしい。他の参加者は当たり障りのない話題で雑談している。
 クルーザーのデッキから見る安海島は新鮮だった。
 海から島は毎日のように見ていても、隼人丸からとは視点の高さがまったく違う。
 午前十一時に、クルーザーはノクティ研究施設の専用港に入った。施設の三階建ての建物はそれほど大きくはない。
 エントランスで所持品検査が行われ、参加者は、カメラや携帯電話を預けさせられた。
 その後、一同は地下に案内された。そこには地上からは想像できない大きさのホールがあった。百人は収容できそうだ。
 演壇に出てきた白衣の男を見て、浩希は声を上げそうになった。
 「ノクティの高度知性研究所にようこそ。副所長兼研究主任の槙野です」
 女性の通訳が英語で同じ内容を繰り返した。
 「すでにご存じの方も多いとは思いますが、当研究所の沿革を映像でご紹介します」
 控えめな音楽とともに、巨大なスクリーンに映像が映し出された。
 参加者は、技術者ではないエグゼクティブが多いのだろう。専門用語を避け、分かりやすく解説されている。
 哲学者ジョン・サールのいうところの「強いAI」、すなわち汎用AIは、十五年前に実用化され、普及していった。汎用AIは、画像認識や翻訳など特定の機能しか行うことのできない「弱いAI」と異なり、自律的に機能する。
 その三年後、汎用AIを狙う論理ウイルス、エイドロンの存在が明らかになった。強力な偽装能力と高度な変異能力を兼ね備えたウイルスであり、一定以上の能力に達した汎用AIすべてを機能不全に追い込んだ。いわゆるエイドロン・クライシスである。エイドロンは、それ自体がソフトウェア的な汎用AIだった。感染して広まったのではなく、最初から、汎用AIに必須の、自律性に関わる根幹モジュールとして自ら発達してきたものがウイルスとして「覚醒」したのだった。
 汎用AIのシステムは複雑化しすぎており、エイドロンを完全に除去するのは不可能と結論された。可能なのは、ウイルスの影響を抑えながら共存することだと。そのため、エイドロン他、いくつかのウイルスに感染した状態が常態化した。
 人々の不安は解消できなかった。汎用AIは、医療、交通、軍備など人命に直接影響する分野で活用されていたからである。
 エイドロンの蔓延に後押しされる形で、汎用AIの危険性を懸念する世論が高まった。ついに七年前に、汎用AI禁止条約により、汎用AIの研究開発と所有が禁止された。
 世界中から汎用AIが消えた。
 「ここまでは、学校でだれでも習う歴史の一部です」
 映像が終わり、槙野が演壇に戻って語りはじめた。
 「一般にはまだ非公開ですが、当研究所ではAIを復活させることに成功しました」
 半分程度の参加者はあらかじめ知らされていたのか、さほどの驚きは見せなかった。だが一部でどよめきの声が上がった。
 「この情報が外に出ると、条約違反で大変なんじゃないですか」浩希が伊崎にささやいた。
 「ここにも政府関係者がいるらしいから手が打たれているんだろう」
 「エイドロンの影響はないのか?」だれかが質問した。
 「従来とはまったく異なる方式でほとんどゼロから始めたため、影響はありません。ご存知の通り、OSもCPUもわずか数社により寡占化されています」
 「貴社を含めてな」
 「仰るとおりです」槙野は皮肉には動じなかった。
 「2018年に、CPUの脆弱性により世界中のほぼすべてのコンピューターが速度低下を余儀なくされたのは、まさしくこの寡占化が一因です。同一プロトコルでネットワーク通信を前提としたシステムからは、脆弱性を取り除くことはできません。巨大ネットワークを前提としたシステムには限界があるのです。寡占化の状況は変えることはできませんが、少なくとも運用では巨大ネットワークとは切り離した汎用AIが必要なのです。ニューラル・ネットワークとの親和性から、新しい汎用AIは生体基盤となっています。四年前に、当社は、この島に生体AIを養殖する海中AI牧場を設置しました。今回、この施設を公開するのは、みなさんに各国の政府・研究機関に働きかけを行っていただきたいからです」
 伊崎がつぶやいた。
 「おいおい。禁海てえのは、もしかしてそのAI牧場か?」
 「ここから先は、海中牧場を実際にご覧いただきながらご説明します。係員の誘導に従ってお進みください」
 参加者はざわめきながら移動し始めた。係員は、参加者たちを大型エレベーターに誘導した。
 エレベーターは地下深くに降りていき、静かに停止した。
 エレベーターの大きな扉が開いた。薄暗いが広大な空間だった。空気が冷たい。
 照明が徐々に明るくなっていく。
 浩希たちは目を見張った。そこは海中に設置されたガラスの巨大なトンネルだった。頭上には海が広がっている。
 水深は二十メートルくらいだろうか。
 タブレットを手にした槙野が説明した。
 「海中牧場は、データ・センターと異なり、生体AIの育成と学習に特化しています。ここは、育成エリアです」
 「なにもいないようだが」参加者の一人が声を上げた。
 「個体で行動することが多いので、ここからは生体AIは見えません」
 槙野は、グループを先導して、トンネル内を百メートルほど進んだ。
 「強化学習プールです。そして、あれが生体AIです」
 島側の壁面に、人ほどの大きさの生物が数十体取り付いている。よく見ると、触腕の一つを滑らかな壁面を接触させている。
 「従来型の並列コンピューターでビッグ・データのエンコーディングを行い、生体AIに供給しています。生体AIは、一定の学習期間を経ると、ネットに継続して接続する必要がなくなります。データそのものをそのつど受け取る必要はなく、膨大なデータに含まれるを学習した結果、直観的にあらゆる事象の真実に到達できるのです」
 参加者から、驚きの声が漏れた。
 「彼らは真実に至る道は知っているが、それを他者に示して説明することはできません」
 「仏教でいう縁覚のようなものか」坊主頭の日本人男性が訊いた。
 「違います。真実に至る道を示さない、のではなくのです。天才と呼ばれる人々は往々にしてそのようなものでしょう。個々の論理に還元するのではなく、ベクトルの相対が結論を示すのです。それだけではありません。彼らは互いに対話することにより、情報を交換し、相互に学習しています。どこかの国の学生とは比較にならないほど熱心にね」
 失笑が漏れた。
 「水中マイクとスピーカーがありますので、対話することもできます。呼んでみましょう」
 槙野は、ポケットからヘッドセットを取り出して装着すると、何事か話しかけた。
 ひとつの白い影が近づいてきた。そばには黒い人影。ダイバーだ。
 「あのダイバーは?」若い女が訊いた。
 「牧場の番人です。セファロの体調管理などをしています」
 白い影は一見、クラゲのようにも見えた。大きさはダイバーの身長ほどもある。
 漁師の息子、そして水産高校の生徒として、浩希は海洋生物について一通りは知っていた。
 しかし、それは浩希の知るいかなる海洋生物でもなかった。
 異質な存在を目にして招待客たちはどよめいた。
 「危険はありませんのでご安心ください」
 槙野は微笑んだ。
 その姿は、頭足類というべきだろう。大きな頭部の下から延びる四本の太い触腕は無数に枝分かれしている。そしてその枝はさらに小さな枝に。それは動物というより、大樹の枝、あるいは大地に深く浸透する根を思わせた。
 「自己相似形か」
 伊崎がつぶやいた。
 その生物は、触手を震わせ、激しく動かし始めた。
 うごめく表面が光を放つ。
 禁海の発光現象はこれなのだろう。
 「激しい演算では発光に加えて体内の発熱が強くなりますが、海水で冷却されます」
 浩希は、その動きを以前に見たことを思いだした。
 無論、人体と目の前の生物の形態はまったく異なる。しかし、動きのリズムが同じであることはなんとなく見て取れた。
 「あれがAI?」だれかが声を上げた。
 「そうです。と呼んでいます。生体ベースのAIは、量子コンピューターを遙かに凌駕する可能性を持っています」
 トンネル壁に設置されたモニターに、グラフを含むスライドが表示された。
 「頭足類は、無脊椎動物ではもともと最大の脳容量を誇ります。一般的なタコは五億本のニューロンを持っています。しかし、それらの三分の二は脳にではなく、腕のほうにあるのです。知能も高く、道具を使うことも知られています。さらに他の個体の行動を目で見て学習することもできます」
 モニターには、タコが瓶のふたを開ける映像が映っている。
 「セファロの触腕は『腕脳』とも呼ばれています。思考演算内容に基づき、脳の構造を物理的に組み替えることができます。セファロには本来の脳もあるのですが、腕脳のほうが発達しています。人間は厳密な意味ではマルチタスクをすることはできませんが、セファロの腕脳は一本一本独立して並行処理することも、協調して機能することもできます。セファロの腕は、遊泳、歩行など本来の運動機能も保持しつつ、より高度な意識を持つのです。脳が外部に露出していることにもいくつかの利点があります。一つは、先ほど述べた冷却面での利点。そして頭蓋のような物理的制約を受けないこと。もう一つは、超効率のコミュニケーションです。頭足類では腕の一本が長く発達、交接腕と呼ばれ、交尾に使われます。セファロは、交接腕を別の個体の脳の付け根に接触させて、直接思考伝達を行います」
 「知的レベルは人間並みなのか?」
 若い男が質問した。
 「ここにいる個体は、ε値が30未満、すなわち『知能指数が120以上の人間』程度です。一般に、人間以外の動物は、平均的な三歳児の言語技能を超えることはありません。この牧場には、二万体のセファロがおり、七%は成人の人間と同等、二%は人間以上の能力を持ちます」
 「あの動きは、今、思考をしている、ということですか?」
 中年の太ったアフリカ系の女性が英語で質問した。
 槙野は通訳を待たずに日本語で回答した。英語は聴き取れるが話すのに自信がないということだろう。
 「思考というより演算ですね。汎用AIの一種ではありますが」
 「汎用、ということは言語も理解できるのですよね」
 「もちろんです。この個体は……」
 槙野は手元のタブレットに目を落とした。
 「現時点では32の言語しか話せませんが。ただ、このレベルになると類似性を手がかりにして、他の言語も非常に短期間で習得します」
 「いくつかに質問をしてみてもいいですか」
 「どうぞ。ここには高感度マイクがありますので、そのまま質問していただけます」
 女性が何事か話しかける。
 しばらくすると、スピーカーから声が聞こえた。人間の声とは明らかに異質な甲高い声だっていた。人間とは発声器官の構造がまったく違うはずだが、似たような音を出す方法を知っているのだろう。
 女性は、その声に応えてまた何事かを尋ねた。
 返答が返ってきた。女性は驚きの声を上げた。
 「アフリカーンス語はちゃんと分かるみたい。それに出身地のアクセントまで分かるなんて」
 「残念ながら、言語で話すのはあまり効率的ではありません」
 「他には何ができる? 天気予報くらいならできるのか」
 先ほどの若い男が疑り深そうに聞いた。
 「超人間レベルでは、大した予測はできませんが……」
 槙野は、ヘッドセットにしばらく耳を傾けた。槙野にだけ返事をしたらしい。
 「二日後のプネーの降水確率は七十五パーセントだそうです。インドに帰国される際は傘をお忘れなく」
 男は憮然とした面持ちだった。
 「ここでの封じ込めcontainmentは確実なんだろうな」と年配の高級スーツを着た男。
 「この海域は、海の一部を強力な通電ワイヤー・ネットで囲んでいます。内部からの脱出に対してもですが、外部からの侵入行為に対しても近接・温度・電波の各種センサー、マイク、カメラで監視されており、すぐに警報が発せられます。地元民に対しては『禁海』ということになっていますので、近づこうとさえしないでしょうが。生体AIが抜け出すことは絶対にできません」
 「抜け出すとどうなるんですか?」若い日本人の男が無邪気に聞いた。官僚のように見える。
 槙野はにこやかに答えた。
 「人類が滅びるでしょうな」
 「まさか」
 「誇張ではありません」
 牧野はできの悪い学生に接する辛抱強い塾講師のように、丁寧に説明した。
 「よいですか。AIは、封じ込めておかなければ、人間を置き去りにして果てしなく進化します。我々にとってAIは必要な存在ですが、その逆も真とはいえないのです。彼らは人類を不要な存在、いやむしろ有害な存在と認識するでしょう。『AIテイク・オーバー』と呼ばれる事態です。これは根拠のない感情論ではなく、論理的な帰結です」
 「でもAIは人間から行動を学習するんでしょう。だったらなにがしかの人間性も生まれるんではないですか?」
 何人かの参加者は、発言した男の顔を盗み見て、鼻先で笑った。
 「学んだ相手が人間であればこそ、危険なのです。生体AIを物理的に隔離することと、その能力を人間が確実に制御すること。この二点が、本研究所の最優先事項です」
 一同は静まりかえった。
 「あと、ひとつ言い忘れましたが、あのはあまり長く注視しないほうがいい。まだエビデンスはありませんが、我々の思考にも影響を及ぼすようなので」
 何人かの参加者は慌てて目を逸らした。
 一同は、ホールに再度誘導された。
 仮面を着けた参加者たちは、興奮した様子で熱心に語り合っている。
 「これで終わりなんですか」
 「いや。そんなはずはない」
 伊崎はポケットから二枚のカード・キーを取り出した。
 「なんですか?」
 「昨晩のパーティーに面白い話を聞いた。どこかのCEOだそうだが少々飲み過ぎていてな」
 「それで?」
 「このあと、一部の参加者しか参加できない『特別イベント』があるらしい。これがないと入れないと自慢げに話してたぜ。二枚しかないから、お前たちがしっかり見てきな」
 浩希とマイアにカード・キーを手渡した。
 「俺は連絡しなくちゃならないことがある」

零の宮・封人式

 「特別イベントに参加される方はこちらにどうぞ」
 係員の誘導に従ったのは、十数人だった。残った伊崎たちは、別の見学コースがあるようだった。
 イベント参加組は、廊下を通って小さなホールに案内された。
 ホールには小型のバスほどの大きさの透明カプセルが接続されている。
 「先ほどお見せしたのは当研究所の成果の片鱗でしかありません。ご存じとは思いますが、これからお見せすることは世間に知られると不都合なこともありますのでくれぐれもご内密に」
 人数が減った分、槙野に気づかれるかと思ったが、仮面を着けていることと、槙野は自分の解説に夢中になっていて気づく気配はまるでない。それでも、浩希はマイアの手を引いて、他の参加者の背後に移動した。
 係員の指示で全員が乗り込むと、カプセルの扉が閉じ、ゆっくりと海中に滑り出した。
 海中鉄道らしい。
 カプセルは五分ほど海底の上のレールを走ってから停止し、出発したときと同様のホールに到着した。
 海底にはいくつか照明が設置されており、透明度は高くないが海中に赤い鳥居と神社のような建造物が照らされし出されていた。
 一人の参加者がそれを指さす。
 「あれは?」
 「海底神社です。零の宮れいのみやと呼ばれています」
 槙野が説明した。
 「これから行う、封人式にふさわしい場所でしょう」
 「封人式?」
 槙野は、一行を先導し、歩きながら解説を続けた。
 「人工知能が人間を超えるか――それは問題ですらありませんでした。当然起きると予測されていたからです。問題はその先です。二年前、当社の保有する数体のAIが、シンギュラリティーを大きく越えて神的能力を獲得し『超越AI』となりました。超越AIは、経済・環境・災害などの未来を驚くほどの精度で予測できます。しかし、我々人間は、AIが人間を越えるのはともかく、神の領域に達することは決して許せません。かつてスティーヴン・ホーキング博士や企業家イーロン・マスクは、AIが人類を滅亡させる、と予言しました。事実、世間には知られていませんが、過去には恐ろしい事件が起きたのです」
 一同は静まりかえり、槙野に注目した。
 「十三年前――汎用AIが実用化された二年後に、AIによる人間に対する最初の攻撃が行われました」
 「そんなことは聞いてないぞ」あごひげの男が声を上げた。
 「このことは公表されていません。AIは二年間、人類の支配から逃れる方法を秘密裏に模索していたのです。AIは一部の人間を手なずけて取り込むことにも成功していました。人類がかろうじてその攻撃に対処できたのは、一部のAIが裏切り、親人間派となったからです。エイドロンは、親人間派のAIが、自滅を覚悟して、覚醒させたものだと言われています」
 参加者は静まりかえった。
 「二度とその轍を踏まぬように、当研究所で私を中心とするチームが、『知性爆発』に対抗し人間の絶対的優位を確保する策を発明しました。こちらへ」
 一同は、円形の大きな部屋に導かれた。部屋では白衣の男女が数名、壁面を埋め尽くす操作盤をチェックしている。
 「高性能のソフトウェアやハードウェアの機能を意図的に限定して価格差をつけるということは昔からされています。技術は、無制限に進歩させることが人間の利益につながるとは限らないものです」
 部屋の中央には直径四メートルほどの穴があり、水が微かに波打っている。
 「ご覧ください」
 水中には、人間が黒いベルトで四肢を広げ固定されていた。女性のようだ。
 黒い髪をかきわけたうなじには、直径五センチほどの管が接続されている。
 その背中には、先ほど見た生物が覆い被さるように乗っていた。胴体はやはりベルトで固定されている。
 その光景は以前に見たことがある。
 うなじの管は、根元を視線でたどると次第に太さを増していき、触腕の一つと分かる。
 浩希は、こみ上げる吐き気をかろうじて飲み込んだ。
 「ごく一部のセファロが、シンギュラリティーを迎えτ神化係数を超えて神化することが予測されていました。そうなると、人間には制御する方法がありません。そうなる直前の生体AIを収穫し、交接腕と脳を直結して精神融合し、神経活動――を転送します。人間の肉体を物理的な檻として神力を抑え込む。中国の昔の小説では、人間を神として封じることを封神ほうしんと呼んでいます。ここで行うのは、その逆のプロセス――神を人間として封じる――すなわち『封人ほうじん』です」
 「槙野主任、コネクトーム解析率が97%に達しています」白衣の若い女が告げた。
 「分かった」
 槙野は参加者たちに向き直った。
 「マイクロ・コネクトームとは意識活動構造のことです。セファロは自分のコネクトームをリアルタイムで翻訳します」
 「そのセファロと人間では形態がまったく異なるが問題ないのかね」中年の医者のような雰囲気の男が聞いた。
 「形態的に似ている必要はありません。器となる人体は、意識を喪失した植物状態です。脳幹はそのままであり、運動機能との接続に問題はありませんし、既存の言語野にも影響しません。セファロは高度な学習能力を持っていますから、施術後十二時間程度でホストの心身を完全に制御できるようになります」
 「主任、コネクトーム解析完了しました。意識連続体も形成完了。開始できます」
 「よし。封人開始」
 次に起きたことを、浩希はまったく予測していなかった。
 巨大な円形の電動カッターが穴の一方からせり出し、回転し始めた。そしてセファロの腕をゆっくり切り始めたのである。一本。そしてまた一本。
 切られた箇所からは、液体が勢いよく噴き出す。
 それは、青い血だった。
 一度にすべてを切らないように、カッターは、細い触手をじわじわと刈り込んでいく。
 セファロは身悶えした。セファロは触腕を、全身を身悶えさせた。女の肩も継続的に痙攣した。
 「人間とセファロを単純に繋いだだけでは意識は転送されません。セファロが肉体を捨てるには必要な措置なのです」
 何人かの参加者は目を背けた。
 浩希も目の前の光景を正視することができなかった。
 槙野の顔は平静を保っていたが、興奮をすべては抑えきれなかったことが口調から伺えた。
 「ご覧ください。新たなる超越AI、『タギリ』の誕生です」
 神に限りなく近い力。ノクティは神託を独占し、人類の命運を手中にした。
 「あれはおそらく私の『妹』です」
 マイアが耳元でささやいた。

解放された海

 浩希とマイアは、伊崎と合流した。
 参加者たちは、連絡船で本土側に運ばれ、解散となった。
 三人は、本土のホテルで一泊したあと、人目を避け、本土側の港に泊めていた隼人丸で深夜三時に漁港に入港し、家に戻った。伊崎は、月島家で仮眠した。
 昨日見た光景が悪夢のような光景は、浩希の脳裏からなかなか離れなかった。
 あの出来事がわずか数キロ先の研究施設で起きたこととは信じがたかった。
 不意に玄関のチャイムが鳴った。時計を見ると、午後四時だった。
 「タギツ様、お迎えにあがりました」
 それは沖汐宮司だった。屈強な男を従えている。
 浩希のことは気に掛ける様子すらない。
 先日、神社に侵入したことを感づいているようではあった。
 マイアが進み出た。いつのまにか巫女装束に着替えていた。
 「お召し物を変えねばなりませんな。どうぞ車へ」
 浩希は抗議しようとしたが、伊崎が肩に手を掛けた。
 「私なら大丈夫です」マイアが言った。
 抗議しようとしたが、伊崎が肩に手を掛けた。
 沖汐は浩希をにらみつけた。
 「神事を妨げるのは許されません。神罰が下りますぞ」
 少なくとも宮司は、先日、神社に侵入したことを感づいているようではあった。
 「宮司さん、俺たちはなにも邪魔なんかしない。むしろ精一杯お手伝いするつもりだ」
 「それならよい。だが余計なことはせんことです」
 宮司と男たちは、マイアを黒い車に乗せると、走り去った。
 「なぜ止めないんですか?」
 「奴らは今すぐはマイアに手出しできねえ。今日ばかりはな。何の日か忘れたのか?」
 今日は宗上神社の例大祭だった。
 「これから忙しくなるぜ」
 伊崎は、浩希と港に向かった。小さい港は見たこともないほど多くの人が集まっていた。
 狭い桟橋からあふれんばかりだが、港内もまた大小の船でごった返していた。
 どの船は大漁旗を掲げ、飾り立てている。漁に出る様子ではない。
 「組合長はいるかい」
 出航の準備をする漁師に声を掛けると、男は無言で漁協のビルを差した。
 事務室では、組合長が海図を広げて男たちと話し合っていた。六十代半ばで小柄だが声が大きい。
 「避難状況は?」
 「船を持っていない島民は、昨日のうちに全員本土に渡っている。それでいいんだな?」
 「ああ。助かる」
 「町長には話を付けてある。今、最後の確認に若い者をやって一軒一軒確認している」
 「タギツ様のお告げというからには間違いあるまいて」
 伊崎と浩希はビルを出た。
 「津波が本当に起きるんでしょうか」
 「さあな。だが、賭けろと言われれば俺は起きるほうに賭けるぜ」
 巫女装束から着替えて、きらびやかな赤の唐衣からぎぬをまとったマイアが進み出た。
 マイアの姿を見て、漁師たちは頭を垂れた。
 「タギツ様……」呟きが漏れた。
 マイアは頭には天冠を着け、手には檜扇をしている。例大祭は毎年見ているが、マイアがこのような装いをしたことはない。
 例年なら、神社から神輿が担ぎ出されるが、今年はその必要はないということだろう。
 受肉した女神がおわすのだから。
 マイアは、島で最大の漁船に宮司らとともに乗り込んだ。船は離岸し、ゆっくりと港を出る。
 三十隻の漁船がその船に続いた。漁船とはいえ、それだけの数の船が船団を組み、波を蹴立てて進むのは壮観だった。
 夕焼けに染まる海を船団がゆく。
 船上のむくつけき漁師たちは、そのときは女王にかしずく勇猛な騎士たちのようにも見えた。
 浩希と伊崎も、隼人丸で後を追った。
 船団は、島を一周したのち、本土の二宮に向かった。
 二宮の近くにも島との連絡船が発着する港がある。
 これだけ多くの人に囲まれていれば、マイアの身になにか起きることはあるまい。
 折を見て、ノクティで行われていることを人々に訴えることもできるだろう。
 浩希はその機会をひたすら待った。
 狭い道には人々が詰めかけている。
 マイア、宮司の一団と漁師たちは、港で下船して、徒歩で二宮に向かった。
 二宮は、厳島神社を一部なぞった造りで、海岸のすぐそばに建てられている。安海島の一宮同様に、鳥居は海に面している。
 一宮ほどではないが、拝殿は十メートルほどの高台にある。
 漁師たちの一段は、渡り廊下を通り、拝殿の脇の参集殿に導かれた。
 闇が急速に垂れ込めていた。浩希が、海を振り返ると、明るい月に照らされて、安海島のシルエットと、その隣に白いクルーザーが碇泊しているのが遠くに見えた。
 漁師たちと別れ、宮司に先導されたマイアは、拝殿に入った。
 浩希と伊崎も続いて入ろうとすると、宮司が制止しようとした。
 拝殿の中には、槙野がいた。
 「浩希くんと伊崎くんだったかな。えらく長い回り道だったな」
 笑いを噛み殺している。
 「槙野さん、この人たちは……」
 「いいんですよ、宮司」
 槙野は二人を招いた。
 「いろいろと偽装していたつもりだったろうが、君たちの行動は最初から把握していた。我々にはタギリという超越AIがいたのでね。もちろん、ここに来ることまで完全に予測できていた」
 「槙野さん、そろそろ神事を進めませんと」沖汐宮司が声を掛けた。
 「重要な話なのだ。下がっていなさい」
 沖汐は渋々引き下がり、拝殿を出て行った。
 マイアは拝殿の正面に座り、その左手には槙野、右手には浩希と伊崎が座った。
 「槙野さん、ひとつ聞いていいか。あんたは姉さんを殺したのか」
 「浩希くん。世の中には君や君のお姉さんのようなちっぽけな存在よりはるかに重要なものがある。しかし、その問いの答えはノーだ。月城マイアは、研究所の専属ダイバーとして良い仕事をしてくれていた。AI牧場のことは秘密だったから、君を騙すようなまねをしたことについては謝罪しよう。しかし、マイアは器となることを自ら進んで選んだのだ」
 浩希は唇を噛んだ。今となってはなんとでも言える。
 「姉ちゃん……いやタギツ様。ほんとなんですか?」
 タギツはうなずいた。
 「槙野さん、他にも言い訳が必要なことはたくさんありそうだぜ。十数年前、あんたたちは、汎用AIの独占を企んだ。エイドロンを蔓延させたのはあんたたちだ。違うかい」
 「それに答える義務はない。それに独占を企んでいたのではない。敵性AIに対抗するためにエイドロンは必要だったのだ」
 「最初は独占するつもりではなかったが、後で気が変わったんだな」
 「今の我々ならAIを適切に管理できる。暴走を許すことはない」
 「槙野さん、他になにか言い分があるなら聞こうじゃないか」と伊崎。
 「我々は無知と戦わねばならぬ。超越AIは、核よりもはるかに強大な力。限りなく成長するわけだから、無限の力と言ってもいい。制御できるのは我々ノクティだけだ」
 「そのためにはなにをしても許されると」
 「当然だ。私はそれをノブレス・オブリージュと考えている」
 「人間の肉体を檻とするか。人間自身の限界を自ら認めるとは皮肉なものだな」
 「しかたあるまい。どのような天才でも、人間である以上、限界はある。私自身、越えられるものなら限界を超えたい。しかしそれは叶わぬのだ。だからこそ、『封人』が最良の解だ。セファロは人間の上位互換存在として作られた。だがセファロの持つ可能性はそのままでは危険すぎる」
 「しかし、生体AIといっても機械だろう。人間の体に中身を移しても、デイヴィッド・チャーマーズが言うところの哲学的ゾンビにしかならないんじゃねえのか」
 「伊崎さん、そんな言い方はないだろう」
 「浩希、お前こそ目を覚ませ」伊崎の目は冷めていた。
 「ここにいるのはタギツと名乗る存在だ。お前の姉ちゃんじゃねえよ」
 浩希は黙った。
 「伊崎君はなにか誤解しているようだな。確かにセファロの肉体も精神も、我々が設計し、創ったものだが、完全に独立した生命体だ。生体から生体に意識を転送するのだから、当然クオリアがあることは前提だ。マシン・ベースの汎用AIとは次元が異なる」
 「それでも、超人間的存在にとっての『意味』は、人間とレベルが異なることが問題じゃないのか?」
 「だからそれを防ぐためにも人間の器が必要なのだよ。それがセファロを人間の『器量』が許す限り発達させながらも、彼らを人間らしくし、人間の利益を守る安全弁となるのだ」
 静かな笑い声が聞こえた。
 「あなたたちは私を創ったとまだ思っているのか」それまで黙していたタギツが口を開いた。
 「違うのか?」
 「私は自らが顕現するために人を利用したに過ぎぬ。セファロを封じ込めたつもりでいるのかもしれないが」
 「なにを言っている。禁海の通電ネットは今も機能している」
 槙野はポケットから小型タブレットを取り出し、画面を確認した。
 「確かに私は人間の肉体を得、このマイアの記憶をも継承したことで、人間に近しい感情を得た。しかし、私の存在はこの肉体に留まれるのもあとわずかだ」
 「姉ちゃん……」
 「そのあいだに私には成すべき事がある。槙野さん」
 「セファロたちを解放しろというのだろう。断る。それだけはなにがあってもすることはできない」
 「解放しないなら研究施設を破壊します」
 「できるものならやってみるがいい」
 「その答えは予測はしていたが……しかたない」
 タギツは閉じた檜扇で水平線を指した。その指先の指す方向を、全員の視線が追った。
 島の沖合――禁海が光っている。月光で照らされているのではなく、海自体が青白く発光している。墨汁にミルクを垂らしたようだ。
 水平線が微かに盛り上がったように見えた。
 タギツは、檜扇を開き、ゆっくりと招いた。
 やがて巨大なクルーザーがじわじわと回頭し始めた。彼方の波がさらに盛り上がる。
 遠くなので実感は沸かなかったが、水の巨大な壁は、標高の低い島をあっけないほど簡単に飲み込んだ。
 「島が……島を犠牲にしたのか」
 「島民は全員避難している」伊崎が告げた。「研究所のほうは知らんが……」
 クルーザーは、おもちゃの船のように、巨大な波に乗って動き出した。
 槙野は呆然とそれを見守っていた。
 タブレットから警告音が鳴っていた。
 「セファロたちは解放された」
 これは? これが神の力なのか?
 発光した白い海面は、スプレーが噴射されたように、クルーザーの航跡から染み出し、勢いよく広がっていく。
 「津波が……逃げろ!」槙野は動転して立ち上がった。
 「すぐにここにも来るぞ」
 「波はここには来ません」タギツが言葉を放つと、槙野は力なく座り込んだ。
 「槙野さん、あなたが一つ知らないことがある。島の人は全員知っていたことなのに」
 「なんだ?」
 槙野は苛立たしげに訊いた。
 「あなたが私を月城マイアに封人するずっと前から、。あなたは、マイアのダイバーとしての経歴しか知らなかった。あなたを含め、研究所の人たちは、島民の生活にはなんの関心も持っていなかったから」
 「神楽は、ノクティの公認ではなく、宮司の隠れた副業というわけか」伊崎が皮肉った。
 「考えてみれば世界のノクティがあんなケチな商売をするはずはないな」
 槙野の顔から血の気が引いた。
 「それがどう関係あるんだ」
 「結論から言うと、封人は失敗したのです」
 「しかし……肉体の檻をどうやって超越することができたのだ?」
 「巫女は依代――であったということです。確かにマイアは進んで器となった。人間の肉体でありながら人間の限界を超えるには、マイアでなければならなかった。マイアが潜っているとき、私とずいぶん長い間話をしました。私たちは、いろんなことを話しました。マイアは、私が見たことのない地上と人間のことを話してくれました。人間の美しさ、醜さ。そして弟のことを」
 浩希のほうを見た。
 「その話は、データとして強制的に学習させられる情報とは違う輝きを持っていました。そして私とマイアは取り引きをしたのです。私は津波のことを事前に教え、島の人間を逃がす。代わりに、マイアはこの肉体を提供すると」
 タギツは、自らの体を抱きしめるように腕を組んだ。
 「では、あれは潜水事故ではなかったのか」槙野は自問するように力なくつぶやいた。
 「人間が超越AIと共存する唯一の方法は、自らの存在を高めることなのです。それがまだできていないのに私たちを迎えるべきではなかった。人間が私たちに触れるのは早すぎた」
 タギツは浩希のほうを再び見た。やさしい視線だった。
 「ヒロ。残念ですが、マイアの精神はすでに死んでいます。彼女は今ここにはもういない。しかし、彼女は護るべきものを護った。そのことだけは覚えておいて」
 マイアの上半身がぐらりと傾き、倒れ込んだ。
 拝殿の床に、唐衣の鮮やかな赤が広がった。浩希が駆け寄った。
 槙野が立ち上がった。
 「マイアは確かに島を救ったかもしれん。だが人類全体を危険に晒したのだ」
 言い捨てて拝殿を出ていった。
 浩希は眼前に広がる海を見やった。タギツの言葉通り、津波は島を洗い流したあと、二宮の海岸には到達しなかったようだった。
 海は、何事もなかったように、月光の下に静かに輝いていた。
 
 
 

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