夢を見せてよ

梗 概

夢を見せてよ

「今夜2時に、『いつものカフェ』で。愛してる。待ってるわ」

ある朝起きると、知らぬ女からデートの誘いが視界に浮き上がっていた。視界埋め込み型のデバイスが見せる、拡張現実のメッセージだ。李は起き上がり、頭を掻いた。記憶にない。女のことも、「いつものカフェ」も。李は今年28歳になる独身の中国人プログラマー。経済的にも余裕があり、女にも苦労しない。寝ている間に知らない女が隣にいるのはよくあることだが、記憶がないのは初めてだ。李は自身の『睡眠分身』との同期を試みる。「いつものカフェ」の場所はわかった。アバターだけが参加できる、チャットルームのことだ。だが、女の記録はどこにもない。李は自分と『睡眠分身』との接続が上手くいっていないのではないかと疑い始める。

『睡眠分身』は眠っている間に、日中の人格データを基に、拡張現実における経済活動を行うことができるアバターだ。眠っている間に、起床時の記憶と人格を再現したAIが必要なものを購入したり、海外での会議に代理で出て、質問して議事録を取ったり、といった面倒をこなしてくれる。『睡眠分身』は拡張現実内では人間と同じだけの権限を与えられ。データは起きるたびに、本人と同期される。使った金もブロックチェーンですべて記録されているため、安心だ。二十歳のころから『睡眠分身』を使い慣れ、かつ、女好きな李にとって、寝ている間にネットで暇している女を口説くなど、訳もないこと。だが記憶にないのは気持ちが悪い。李は珍しく夜更かしをして、自分自身で『睡眠分身』が声をかけた女に会いに行くことにした。

女はネット上のチャットルームで李を待っていた。女の顔にはブラーがかかっていて、はっきりと見えない。李と女はそのまま会話をし、二人の出身地が同じ中国黒竜江省であるということ、ともに大学で学んだ同級生であるということを想いだす。李と女はすっかり意気投合するも、李はそんなに親しかった女の顔をなぜ思い出せないのかがわからない。

別れ際に、女は李に一度でいいから、本物の自分に会ってほしいとお願いする。

翌日、李が指定された場所へ行くと、そこは病院だった。病室では、延命装置が取り付けられた体の小さな女性が目を閉じて眠っている。女は8年前に事故に遭い、寝たきりとなっていた。彼女の『睡眠分身』はこの8年間、ネットの海で一人歩きしていたのだ。

李は彼女の顔を見て、昔、自分が彼女を乗せた車で事故に遭ったために彼女は寝たきりになってしまったのだということを唐突に思い出す。李は、彼女を自分のせいで失ったというPTSDの治療のために『睡眠分身』を使い始めたことを思いだした。『睡眠分身』を使えば、無理やりだが眠ることができる。一時的に彼女のことを忘れるための処置だったのだ。

李は彼女の病室でショックのあまり失神する。

眠った李の『睡眠分身』が起動し、仮想現実の中で、女の『睡眠分身』とデートを始めた。

文字数:1200

内容に関するアピール

冒頭で引き込むべく、メロドラマ風の書き出しにしてみました。睡眠を過度に削ったときに感じるような浮遊感と日常に侵食する白昼夢を描きたいと思っています。

スマートフォンが普及してから、どこでもビジネスメールが読めるようになり、24時間仕事することが当たり前の前提で経済が回る世界になってしまいました。すでに現在、人類の睡眠時間は昔に比べてかなり削られています。

ネットにつながった埋め込み型の拡張現実デバイスなどが実現した日には、優秀な人材はおそらく眠っている間も、業務に充てなければならなくなるでしょう。しかも誰もがそれを身に着けるとなると、もう、一人だけ時代を逆行することはできないのです。

デバイスの進化に比して、人類の心の進化は極めてゆっくりです。

早回しのように感じる世界の中で平静を保って生きていくために、誰もがかなりの無理をしなくてはならない時代がすぐそこまで来ているように思います。

 

文字数:394

夢を見せてよ

「今夜2時に、『いつものカフェ』で。愛してる。待ってるわ」
俺は頷いた。彼女の手を握ったのを覚えている。喉の奥に苦い唾が上がってくる。なんとしても彼女に会わなくてはならない。気持ちだけが前に前にのめり出るが俺の身体はどんどん彼女から離れていく。もはや顔も見ることができない。
なんとしてもだ。俺は彼女を探し出して、会わなくちゃならない。

俺は目が覚めた。起きると、知らぬ女からデートの誘いが視界に浮き上がっていた。
「今夜2時に、『いつものカフェ』で。愛してる。待ってるわ」
チープでロマンスな文字列が生活感たっぷりの薄い黄ばんだ俺の布団の上に浮いている。
コンタクト型のデバイス――智能眼镜(ムーングラス)が見せる、拡張現実のメッセージだ。李は起き上がり、頭を掻いた。さっきの焦燥感だけが気持ち悪いほどに生々しく胃に残っていた。ひどい朝だ。
今夜2時?「いつものカフェ」?なんじゃそりゃ。メロドラマじゃあるまいし。だいたい「愛してる」とか自分から言う女はだいたいロクでもないと相場が決まっている。夢だとしてもどうかしてると思いながら俺は電脳アーカイブに検索をかける。俺は李修。今年28歳になるプログラマ。ここは日本。そんな分かり切った情報はいらない!
俺は頭をかきむしって二度寝をするべく目を閉じた。2030年に人類が初めて脳に記憶チップを埋める初歩技術を獲得した時には世界は大いに湧いたと聞いたことがある。
人間は「忘却」という概念を忘却するのだ、と。
ところがどうだ。自分の脳内のデータ検索に手間取るのでは結局、ポータブルHDDを自分の体に埋め込むことに成功しただけだということにすぎなかったというわけだ。起き抜けの頭では必要なことを思い出すのは難しい。今も昔も。
「起きた?」
落ち着いた低い女の声がする。首だけ上を向くと、吉里がキッチンでコーヒーを淹れていた。いい香りの液体を両手に持って俺のほうに歩いてくる。
「いい夢、見れた?」
相変わらず悪趣味な女だ。人類はもう夢など見ないのに。寝ても覚めても、俺は俺。当たり前だ。体が何個もない限りそうに決まってる。
吉里が出してきたコーヒーを口に含むと苦味が口中に染み渡った。俺は睡眠分身との同期を図るべく、目を閉じる。
『睡眠分身』は睡眠分身は中国のIT企業企業“梦力”(MOONLI)が開発したサービスだ。眠っている間に、日中の人格データを基に、拡張現実における経済活動を行うことができるアバター。眠っている間に、起床時の記憶と人格を再現したAIが必要なものを購入したり、海外での会議に代理で出て、質問して議事録を取ったり、といった面倒をこなしてくれる。『睡眠分身』は拡張現実内では人間と同じだけの権限を与えられ。データは起きるたびに、本人と同期される。使った金もブロックチェーンですべて記録されているため、安心だ。俺は二十歳のころから『睡眠分身』を使い慣れている。プログラミングの仕事も夢の中で行なっている今となっては分身のない生活の方が考え難い。
俺は自身の『睡眠分身』との同期を試みる。
目を閉じ、耳の後ろの突起に手をかけると、黒い闇の中に白い文字でVRの選択画面が現れた。
① 同步数据(データを同期)
② 同步体验(経験を同期)
睡眠分身との経験同期は白昼夢によく似ていると人は言う。睡眠分身との同期はいわば、結果だけわかればいいものなのだ。仕事なら給与、会議なら議事録、女遊びなら領収書、創作活動ならその成果物だけを。そうでないと睡眠時間を分身活動に当てた意味がなくなる。プロセスを追体験したいことは睡眠分身にはさせない。常識だ。
迷った末、②を選択した。俺は昨晩、眠りながらプログラムを書いた後、どこかのカフェで誰かに会ったに違いない。その誰かの顔を見なければ。顔だけじゃない。しゃべっているところを、だ。
何を隠そう、俺は女は嫌いじゃない。ロクでもない女かもしれないが、俺になんらか愛のメッセージを残して来たなら顔を見るくらいいいじゃないか。なんにせよ、俺は今とても常識に外れたことをしようとしている。

再び目を閉じるとそこはカフェだった。カフェといっても――アバターカフェ。IPアドレスだけが指定される仮想現実だ。目の前に、小さな茶器が見える。普洱茶の香りが立ち込めた、狭い部屋だ。マンションの一室を改造した昔風の茶館のイメージなのだろう。
俺の前で黒髪の女が座り何かを俺に喋りかけている。今は何時?夜中の1時58分。女の顔はブラーがかかったように見えない。俺はそのノイズに不快感を覚えて目を細めた。
「は?」
声を出した瞬間、三半規管に異常が生じてめまいがした。まずい。夢の中で行わなかったことをやってしまうとこんな風に睡眠分身酔いを起こすことがある。俺は同期を切るべく、耳の後ろの端子を切り替えようとした。
――ない。
手を回せばすぐのところにあるはずの突起物がどこにもない。俺は嫌な汗をかいてきた。じんわりと、首の後ろがあつい。
目の前の女が身を乗り出して喋りかけてくる。鼻先が五センチくらいのところにあり、それでもなお、女の声と顔にはブラーがかかっていて詳細を把握することができない。ここにきて初めて、俺はこのエラーが人為的なものであることに気がついた。
クソ、何かに嵌められたのかも。と、思った時には既に遅く、エラーは女の顔をはみ出し、ゴシック調のカフェの店内景観にまで波及し始めた。ダリの絵画のように時計の下部が溶け出している。時計の針が一時で止まっている。俺は視線は強制的に手元に移された。さっきまで飲んでいたコーヒーが無数に蠢く小さな蟻の塊になって俺の手の方に這い出してきている。列を作って。
頭が割れそうに痛い。2時までたどり着けない。このままじゃ、永遠に、大人になれない――。

「どんな夢を見たの?」
気が付くと吉里が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。同期を勝手に切ったらしい。いつもなら怒るところだが今日ばかりは助かった。
「普通の、悪い夢だよ」
吉里は悪趣味な女で俺が明らかに調子が良くなさそうな時も見た夢を逐一確認するのだ。彼女が金髪のボブが似合う猫目の美人じゃなかったら、俺は絶対こんな女と一緒に暮らしてなんかいない。
「睡眠分身ってどんな感じなのか、わたし、知りたいのよ」
吉里がきいてくる。吉里は日本人だから、睡眠分身を導入することができないのだ。中国のIT企業が開発したサービスは、中国の身分証明書がなければIDを発行できない。
俺はさっきの悪夢後酔いにうなされながらもログを確認したが――女の記録はどこにもない。
「俺は何か寝言を言ったりしてなかったか?」
吉里は首を傾げた。おかしい。チャットルームで会った人間の――それも、MOONLIのサービスを利用している以上、相手も必ず身分証を登録しているはずのチャットルームで――相手の素性がわからないなんてことはあるのか?
考えられることは2つだ。相手が意図的に、俺に、何かを、隠している。または、俺の睡眠分身との同期が失敗している。

その時、着信があり、ムーングラスにメッセージが浮かび上がった。
「今夜2時に、『いつものカフェ』で。愛してる。待ってるわ」
またか。気持ち悪いな、と思いながら俺は池袋界隈のネットカフェを探し始めた。睡眠分身の同期がうまくいかない場合はカスタマーセンターに連絡する必要があるが、カスタマーセンターには中国のアドレスからでないと接続できない。日本国内で簡単に中国アドレスが手に入る場所は池袋くらいだ。
俺はさっきのメッセージに位置情報が付いていることに気がついた。国内。池袋のネットカフェからだった。何と露骨な招待。そんなに俺を愛してるなら、行ってやろうじゃないか。眠るたびに同期に不調をきたすようでは、生活もままならない。

MOONLIのカスタマーサービスを行うアバターチャットルームに日本から行く方法は2つ――眠るか、池袋にある、中国人が経営しているVPN付きネットカフェに行くしかない。身分証の登録のないアドレスからだと、システムにログインできないのだ。
2020年のオリンピックを期に、池袋の中華街化は不可逆なところまで進んでいた。とはいえ街に中国語が溢れているとか、赤い看板がすごく多いとか、そういことではなく、池袋のごみごみした光景は2010年代からほとんど変わっていないらしい。日本の人口減少に伴い、単純に日本国籍の住民がほとんど居なくなってしまったのだ。開発も清掃も行われない、もはやアジアの掃き溜めーー良くいえば骨董品の屋のような街だ。
俺が雑居ビルの7階に上がると、入り口の太った中国人が黙って決済デバイスを差し出してくる。黙って手首を差し出すと、金が――もちろん元だ――が引かれて、俺はヤニの匂いが染みついた一畳ほどの何もない空間に通された。
耳の後ろに手をやり、目を閉じる。白い文字があらわれる。
① 同步数据(データを同期)
② 同步体验(経験を同期)
③ 访问聊天室(チャットルームにアクセス)
④ 客户中心(カスタマーセンター)
俺は中国アドレスにいる時だけに選択できる④の選択肢を選択した。
はずが、気が付けば、俺の意識はまた、朝見た夢の続きにあった。普洱茶の香りが立ちこめる茶館。女はすでに座って俺を待っていた。顔にはやはりブラーがかかっていて、はっきりと見えない。俺は唾をのみこんだ。また朝と同じことが起きるんじゃないだろうな。
「好久不见(ひさしぶりね)」
女が喋ったので、俺はびっくりした。
「どうして黙ってるの? 喋ってよ。しゃべるの、好きだったじゃない」
俺はその声に聞き覚えがあったような気がした。
「お前は誰だ?」
「忘れたの?」
女は笑いながら普洱茶を飲んだ。ブラーが茶器の端にもかかり、茶器の端がゆがんでいる。もはやカスタマーセンターに行く必要はない。俺は意図的にこの女アバターを使う人間に呼ばれているということが今はっきりした。
「今晩酷い夢を見せたのはお前だろ。何がしたかった?」
女はしばらく茶器を持ったまま、固まった。次の瞬間、茶器は蓮の花に代わり、白い花弁が女の手の上からはらはらと落ちる。
「あなたにゼミの授業、思い出してほしくて。清华で勉強したじゃない?思い出した?」
ああ、とその時俺は清華大学のゼミ講義のことを思いだした。チャットルーム内部のオブジェクトの物理演算と見た目を変化させて動かすという実践的なプログラムを書かせる授業だった。
「思い出したよ。俺が老師の食べようとした湯玉をゴキブリに変えたら」
「単位あげないって、老師が喚きだして、そうしたらあなたは単位を出すまで部屋から出られないようにプログラムを書き換えてた」
俺は鼻で笑った。俺はゼミ中に、皆が単位を失うことを恐れて俺を罵倒する中、一人だけ、笑い転げていた女を思い出した。黒い髪の、鼻の丸い、コロコロと転がるような声――。
「君は……」
俺は彼女の名前が思い出せないことに愕然とした。彼女ははっきり言って、化粧を全くしない中国人にしてはとても可愛かったのだ。愛嬌のある、小動物のような大きな目で俺を見ていて、それで、名前はーー。
「最近は、プライバシー保護のために名前が出ないタイプのチャットが流行ってるの。私のハンドルネームはステータス”女”よ」
ステータス”女”。中二じみたハンドルネームだがいたずら好きだった彼女ならつけそうな名前だ。
「なんで会いに来た?」
「つれないのね」
ステータス”女”は悲しそうに言うと、首のタグを見せてきた。
「私、いまMOONLIの社員なの。こんどマネージャーになれるかもしれなくて。プログラマとして、あなたもMOONLIに戻ってこないかしらと思って。リクルートよ」
彼女は首から下げている社員証を得意げに見せて来た。
リクルートか。なるほど。彼女はそのまま俺に、日本での仕事ぶりや、睡眠分身が書いたプログラムで得ている収入の話をした。話はそのままあらぬ方向へ――俺たちの出身地が同じ中国黒竜江省であるということ、MOONLI本社は今ハルビンに会って、実家に近いこと、冬は寒いこと、ニンニク鍋が冬は特に美味しいことなんかを喋っていた。
楽しい時間だった。
気が付けば、2時間も経っていた。
「そろそろ行くよ」
俺が立ち上がると、ステータス“女”は名残惜しそうに俺を見た。
「ねえ、一度でいいから、本物の私に会いにこない?」
別れ際に、女にお願いされ俺は振り返った。
「ずっと帰ってないでしょ。ハルビン」
俺はそれも悪くないように思った。何と言ってもおれはもう、8年中国に帰っていないのだ。
「かんがえとくよ」
俺は立ち上がった。ログアウト。
「ああ、そうだ、最近悪夢によく効く薬が出たのよ。睡眠分身用の。あとで、ポストに送っておくから、届いたら飲んでね」
目を開けると、ムーングラスに、彼女からのファイルが送信されていた。ファイル名“药(薬)”
悪夢によく効く薬、か。睡眠分身も、楽じゃない。俺はデータを開封し、展開すると、薬プロトコルを自分の睡眠分身に流し込んだ。ついでに、彼女が暮れた、ハルビンのMOONLI 本社の場所もマップに記憶し、そのまま家路についた。

翌朝、俺は目が覚めた。俺は違和感を覚えた。部屋が暗すぎないか?視界のはじにまだ朝の四時だと表示されている。俺は隣に寝ているはずの吉里の寝顔を見ようと寝返りを打った。
――いない。キッチンから物音がする。俺は静かに立ち上がって彼女の様子を見に行った。
キッチンからなにか、物音がした。俺が覗き込むと、吉里がブツブツと、キッチンで独り言を言いながらコーヒーマグに黒い粉を入れていた。吉里は見るからに異常だった。震える左手でマグを抑え、右手で粉のようなものをマグに瓶から移している。俺が後ろから近づくと吉里は手でマグカップを急いで隠した。
「何を持ってる?」
俺は吉里の手を掴み、マグカップを持っている手と単体の手に握られている黒い粉を見た。
「どうして早く起きたの?起きないようにしてたのに」
吉里は俺を見て明らかにおびえていた。吉里の持っているマグをよく見ると、黒い粉が白いマグカップの底で、流動していた。液体ではない。小さな粒子の塊だ。意思を持つ、小さな虫のような。マイクロマシン。
「あなたのためを思って」
吉里が大きく見開いた眼で俺を見ている。いつもの落ち着いた彼女とは別人だ。
「なんだこれ」
俺はすぐ隣に、粉コーヒーがあるのを目にした。もしかして彼女は――この薬をコーヒーに溶かして毎日俺に飲ませていたのではないか?俺は吉里と暮らすようになってから、毎日コーヒーを飲んでいる。
吉里は俺に抱きつきながら泣いていた。俺は吉里を振り払い、その手が一瞬、人形のように真っ白に見えてギョッとした。
「ずっとあれを飲ませてたのか?」
吉里は答えない。
「何を飲ませた?」
吉里は怯えるような目で俺をみている。
「俺に毎日何を飲ませたか聞いてるんだよ! あのコーヒーなんだったんだ!」
「睡眠分身の……」
吉里の声は震えている。
「睡眠分身の接続をよくするための薬だって、あなたがうちに来た時に、あなたの友達に渡されたのよ。毎朝飲むと、眠る前の意識との接続がうまくいくようになるって……これを飲まないと……中国からアクセスしてあなたを動けなくするって……私のことも、自動運転の車の事故に見せかけて、女一人殺すくらい簡単だぞって」
「眠る前の意識?」
「そう」
吉里はとても小さな声で返事をした。
「じゃあ俺が寝てる間の意識はなんなんだ?」
俺は念のため、きいた。あくまでも、念のためだ。俺は睡眠中に書いたプログラムによって、収入を得ている。そのはずだ。
「寝てる間は寝てるだけに決まってるでしょ?睡眠分身なんて、本当に信じているの?やめて! 私はあなたにまともに戻って欲しくて――」
俺はその返答を聞き、踵を返して、そのまま寝室に行き、パスポートを取り出し始めた。
「どこへ行くの?」
吉里の声が震えている。でももはや、自分の食べ物に毎日得体のしれない薬を入れ続けていた女など、信用できない。
「中国」
「やめて」
吉里がまた俺に縋り付いてきた。俺は足でそのまま吉里を床に転がすと、パスポートを掴み、服を着替え、家を飛び出す。
「お願い、死んでしまうわ」
吉里が泣きながらそういうのが聞こえる。俺は吉里のすすり泣く声を聞きながらドアを閉めた。向かうはステータス”女”だ。

空港に降り立つと大きく赤い端に中国梦と書いてあった。よく見ると書いてあるのではない。光り輝くパネルに動く文字が印字されていた。俺は入国ゲートに並びパスポートをイミグレーションの人間に見せる。
「睡觉身体ーー外国人?」
入国管理の担当者がいぶかしげな目で俺を見ている。睡眠分身がそんなに珍しいのだろうか。いや違う。俺はまじまじと自分のパスポートを見た。嘘だろう。
「我是……日本人」
俺は吉岡と結婚していた。俺のパスポートは日本国籍ーー俺は日本に帰化していたのだ。
パスポートにはスタンプが押され俺は紛れもなく外国人として中国に通された。
睡眠分身を導入するため頭にハードディスクを入れた人間は二度と元に戻すことができない。俺は中国人じゃない。だから俺はMOONLIのサービスを受けることができない。
だがサービスを受けられないならば、睡眠分身は存在しないはずだ。どういうことだ?俺が今まで見ていたチャットルームは何だったんだ?

俺は間違いなく指定された場所に来ていた。何かの間違いではないかと思いたかった。ハルビン空港から車で2時間。恐ろしいほどに人気のない街を車で通り俺は白く大きな建物の前に立っていた。「梦力(MOONLI)研究所」と看板のあるそこはどう見ても病院だった。同級生との8年ぶりの再会が病院?俺は不信感を覚えた。嫌な予感がする。
誰も受付のいない病院だった。待合室には君が悪いほど誰も待っておらず、病院の中は気持ち悪いほどの静寂に追われていた。受付の機械に俺の名前を入れると機械が勝手に病室の番号を表示した。エスカレーターに上り四階。
俺はなぜか息が上がった。してはいけない事に近づこうとしている感覚がある。どうしてこんなにこの病院には人が少ないのか?見舞い客はいないのか?患者が叫び声やうめき声あげないのか。
病室の廊下でただ1つ赤いランプが点滅している病室を見つけた。あそこに違いない。俺がドアの前に立つと病室のドアが勝手に開いた。その病室の中には、中心に小さな立方体の白い塊があるように見受けられた。なんだろうと思って近づくとそれは小さな一方に盛り上がっていた。小さなベッドの上で人間の女が横たわっていた。
俺は動悸がした。覗き込んではいけないとわかってはいたがーー俺が吸い寄せられるように女の顔を見た。
「やっと来たのね」
その瞬間女の声が俺の脳内に響き渡り俺はこの女がチャットの声の主であることを確認した。
「君はーー」
俺は女の姿をまじまじと見て言葉を失った。気管と食道それぞれに管が通されている。横腹にも、下腹にも、何らかの管が通されていた。
「思い出したでしょ」
彼女の顔には見覚えがあった。黒い髪、丸い鼻。俺は彼女と付き合っていた。空港に行く途中のタクシーが、高速道路で事故に遭うまで。
俺は強烈な吐き気を催し、その場にしゃがみこんだ。タクシーごと宙返りするときの感覚を俺は覚えている。そうして、その後、俺は、どうなった?
「あなたの身体はわたしのもの以上にぐちゃぐちゃになってしまって、どうしようもなかった。しかも、睡眠分身も入れていなかったし、あなたは消えてしまったの。死んでしまったの。一度ね」
死んでしまった?じゃあ今の俺は一体何だ。
「私はもともと睡眠分身を入れていたから、こんな体になったあとも、脳を同期させて他のデバイスから意思を表明することができた。だから、私はあなたの記憶をサルベージして、あなたを生き返らせることに同意したわ」
女は淡々としゃべり続ける。
「MOONLI の社員監視システムと、睡眠分身のテクノロジーをもってすれば、あなたの人格を仮想再構築すること自体は容易だった。だけどあなたの記憶なんて――開けなきゃ良かったの。あなたの記憶に私のことはほとんどなかったの」
突然、俺の頭の中に聞き覚えのある声がこだました。
「今夜2時に、『いつものカフェ』で。愛してる。待ってるわ」
これは吉里の声だ。
「あなたは私を家に送った後空港に行って日本に行ってそこの女と結婚するつもりだったのよ」
吉里と?
「どうしてそんなこと?俺は…… 」
「私も最初はわからなかったわ。だからあなたのことをひどい男だと思った。でもこの体になって、あの企業の力を借りるにつれ、あなたが何を恐れていたかがわかってきた。私たちはどちらもMOONLIの社員だったけれど、睡眠分身のプロジェクトに参加していたのはあなただけだったわ。だからあの企業が最終的に何を目的としているか私は知らなくて、あなただけが知っていたわ。」
「何が目的なんだ」
彼女は答えない。うわごとのようにしゃべり続ける。
「私は再構築したあなたを動かして、ヒューマノイドに詰め込んで、日本に送り返したの。吉里を脅して、あなたに自分が死んだと思わせないために、マイクロマシンを飲ませて、記憶と能力を拘束してた。あなたは稼いでなんかいないわ。お金を渡していたのは私」
「そんなことをわざわざ言うために呼んだのか」
「いいえ。私にはもう何もできないから、あなたに、わたしの夢を全うしてもらおうと思って。私には目がないわ。アバターしか見えないのよ。アバターって綺麗なの。私が一番好きだった頃のあなたを見ることができるの。それしか見えないのよ。夢しか見れないの。こんな体になってしまって、ひたすら、あなたを生かすためのお金のためにプログラムだけを頭の中で描いているのよ。遊びに行くこともできない。美味しいものを食べることもできない。何もできない。あなたが幸せでいてくれることだけが私の生きてる意味だったの」
全く動かない彼女の口から音だけが聞こえてくる様は、まるで2000年代の不気味の谷の底のヒューマノイドか、死んだ魚にスピーカーを埋め込んだ悪趣味な現代アートのようだ。
「忘却を、忘却すること――そのために彼らが望んだ究極の形は私のような人類なのよ。今私は寝たきりの状態だけれど、睡眠分身を使って仕事をすることができるの。肉体労働はできないけれど、人と連絡をしたり、プログラムを書いたり、AIのためのチュートリアルを作ったりという仕事ができるわ。私はずっと眠っていることによって、1つの睡眠分身にずっと接続される。何も忘却しないわ。そしてあなたの記憶をサルベージするときにこのモデルケースが既にあった。私は理想の睡眠分身ユーザの姿なの。この研究所にたくさんいるほかのスタッフもみなそうよ」
「MOONLIの社員はみんなお前みたいな植物人間なのか。そんなわけない」
女は笑ったように見えた。だがやはり顔は動かない。
「誰もいない廊下を見たでしょ? この建物には警備員のヒューマノイド以外、動くものは無いのよ。ここがまぎれもないMOONLI本社。皆働いているの。頭の中で。あなたは8年前、この施設を見た。そして日本に亡命することを決意したのよ。私を捨ててね。賢明だわ……。でも、わたし、身勝手で自由なあなたが好きなの。だから、許してあげる。逃がしてあげるわ」
俺は頭を抱えた。視界がゆがんでいる。来なければよかった。こんな、狂った女の発言に、耳を貸すべきじゃない。自分の手が、足が、以上に白く見える。
「きっと悪い夢か何かなんだ。睡眠分身が8年間も一人歩きするだと。そんなことありえない」
「あなたも同じじゃない」
「なんのことだ」
「自分の体をよく見てごらんなさいよ」
俺は自分の手を見た。そこにはに肉体はなかった。肌色の皮膚に覆われた腕ではなく、白い樹脂でできた腕があった。関節は灰色。その機械のような生き物が服を着ていた。
「睡眠分身が寝ている間に同期する?そんなわけないじゃない。起きているあなたと、寝ているあなた、そのあなたがいつも同期できるような方法はただ1つよ。
あなたにデータを同期させるのではなく、常に最新のデータがあなただと認識させるようにプログラムを組むのよ。あなたに何もないわ。あるのはチップとハードディスクだけ。本物のあなたはあの日私と死んだの。あの1時58分の高速で」
俺は病室の磨き上げられた白いドアに映りこむ自分を見た。無個性でつるんとした白い合成樹脂の顔。そこには服を着た量産ヒューマノイドが立っていた。俺の位置に。
「このあなたが死んでも、日本にいるもう1人のあなたが、自由なあなたを生きてくれるわ」
ムーングラスに彼女から何かしらの圧縮ファイルが強制的に送付されたことが表示される。
「俺がいなくなったら、吉里は」
俺には一瞬、彼女が笑ったように見えた。実際は、彼女の肉体はもはや、死体のように動かない。
「あなたと暮らしている日本人の女ね?彼女、ご両親はもういないわよね確か……。日本人は不便よね。肉体と身分証が一体化していないのだもの。仮に、仮によ、私がどこかのヒューマノイドをハックして、そのまま居座って、あなたのムーングラスをジャックして、それっぽく見せたら、誰も彼女が私にすり替わったことに気が付かないんじゃないかしら」
「やめろ」
俺はこの女が急に恐ろしくなった。
「お前は何がしたいんだ」
女は今度こそ、本当に笑った。動かないはずの屍体が動き、口の端がぎこちない三日月形を作って、ゴムのように濁った瞳が俺をとらえた。
「夢を見たいのよ」
さっき彼女に送付されたデータが、気が付くと俺の中で勝手に展開されていた。俺は自分の体の制御を失い、気が付くと、彼女の体に刺さった無数の管を引きちぎっていた。血まみれの彼女の腕にしがみついて泣いている。彼女は全く動かない。俺は完全に狂人だった。
さっきまで何の音もしなかった病院には警報が鳴り響き、壁に収納されていた警備ヒューマノイドがどこからか現れ、俺の頭を激しく床に打ち付ける。
「中国人的身体都是国家的资源!」
自動音声。俺はMOONLIの理念を思い出した。
『人民が忘却を忘却するとき――すべての人民の身体が国家の資産となる』
全ての記憶がサルベージされ、忘却を忘却した完全なる人類の姿、それは記憶と思考以外の機能をすべてそぎ落とした今の彼女だったのだ。俺はそんなのは嫌だった。俺は自由になりたかった。だから国も幼馴染も何もかも捨てた。
俺は軍のような格好をしたヒューマノイドが俺の首に向けてまっすぐに銃を構えているのを見た。俺が生身の肉体だったなら、俺は体だけを撃ち抜かれその脳はMOONLIの資産HDDとして有効活用されるだろう。俺は彼女が手渡してきたプログラムを解析した。なるほど。俺の体は5秒後に動きを止め、5分後にHDDもCPUも完全に初期化されるようだ。
身体に衝撃が走る。薬を撃たれたのだろう。痛みは無い。俺は自分の脳の――そうだ、脳などないのだが――電源がゆっくりと落ちて行くのを感じた。溶け出した時計は黒いコーヒーの塊になり、その中心に表面張力で虫が浮いている。
気が付けば俺は太陽がよく当たるカフェのベンチに座っていた。手に持っているコーヒーカップには虫がいっぱいだ。俺はそれをためらうことなく飲み干した。
向こう側から彼女がやってくる。美しい黒髪だ。丸い鼻。俺はその光景のあまりの実体感に震えた。光が目に刺さって眩しい。向こうに時計が見える。1時58分。時計が解け始めた。そうだ。この時間、俺はムーングラスに吉里からのメッセージを受け、自動運転を切り、自ら高速道路から転落した。永遠の記憶を捨てたくて。
だから、永遠に、2時は来ない。カフェなどない。彼女は俺を待ってない。睡眠分身などない。俺は上書き可能なデータの塊に過ぎないのだから。
新しい俺は彼女のことを忘れるだろう。この俺はどこに行くのだろう。体もなく、サルベージされた記憶だけが永遠に2時になるまでの24時間を繰り返す。エラーの塊。そこまでして生きる意味はあるのだろうかと俺は思った。そもそも俺は生きているのか?
なんにせよ、もうすぐこの俺は死んで、別の意識が俺になる。身勝手で自由な俺に。

俺は目が覚めた。
「いい夢、見れた?」
吉里が俺にきいてくる。相変わらず悪趣味な女だ。俺は夢など見ないのに。寝ても覚めても、俺は俺。当たり前だ。体が何個もない限りそうに決まってる。
彼女が黒髪の鼻の丸い愛嬌のある美人じゃなかったら、俺は絶対こんな女と一緒に暮らしてなんかいない。

文字数:11563

課題提出者一覧