味の彼方へ

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梗 概

味の彼方へ

 世界的な食糧危機から百有余年、汎食システムET(eaty)は栄養補給と味覚調整を切り離すことで、味を楽しみつつもバランスよく栄養摂取することを可能にした。味覚調整に関しては、〈味覚〉データをスプーン型デバイスで再生する。また、〈味覚〉投稿SNS〈テイスタグラフ〉を通じて、自由に〈味覚〉の共有を楽しめるようになった。
 元ジャーナリストのサイカワは、〈テイスタ〉に投稿されたゲテモノを食べて記事を書くライターで食いつないでいる。
 ある日、シノダという人物から、アンダーグラウンドの新型デバイスを試さないかと誘われる。西新宿のクラブ〈ハーヴェイ〉では、クリップするほど塩味をブーストしたスプーンや、五原味にない辛味を疑似体感可能なスプーンなど、非合法なデバイスが若者の間で使い回されている。案内されたVIPルームでは、二本の棒〈スティックス〉を紹介される。同期した二つのデバイスを使うことで、超高解像度の〈味覚〉を体験できるという。
 シノダは言う。超高解像度の〈味覚〉に耐えるデータを作るには、〈テイスタ〉上位にいるような素人ではなく、昔の職業料理人のような高レベルの舌が必要だ。サイカワのルポにはそれが感じられる。
 返事を保留して帰宅すると、家の中が荒らされている。パソコンのエディタには「〈スティックス〉の件から手を引け」と表示され、ウェブブラウザでは四肢が壊死している写真が開かれていた。画像の元記事は、生き物を食べることによって引き起こされる病気まとめ――バカバカしい。それで病気になるなら、とうに人類は滅びている。
 シノダに連絡を取り、再び〈ハーヴェイ〉へ。VIPルームに入ると、器には湯気を上げる白い粒々が乗っている。本物の「ごはん」だ。その複雑な味に、サイカワは愕然とする。シノダは言う。かつて、日本文化は箸とごはんと共にあったが、それらを失い日本人は弱くなった。〈スティックス〉で現在の食の貧困さを伝え、本物の「ごはん」の価値を訴える。
 帰宅途中、サイカワは誘拐される。車は東京の地下へ。そこには車いすの男〈欠損の王〉がいた。〈王〉は語る。度重なる原発事故によって地球の土壌は死んだが、下層の労働者までETは行きわたらない。ここでは、インフラの整備・管理など、人手がなくては成立しない仕事を斡旋しながら、限られた土壌と人工光で食料の生産を行っている。これを食べ続ければこうなる、と〈王〉は壊死した脚を見せる。労働者の中には都市生活者への恨みから食料を流す奴がいる。しかし、これは必要悪だ。そして、本物の味を知っているというのは誇りでもある。だから、このままにしておいてくれ。
 サイカワは悩む。〈王〉の誇りは虐げられた者の自己防衛だ。だからと言って、現実をそのまま伝えても、世界は変わらない。それなら、汚染された食料を横流しすることは、世界の構造を変革するきっかけになるかもしれない。

文字数:1198

内容に関するアピール

 SNS上にアップロードされる文・音楽・画像・動画――個人的な趣味や生活は共有可能なものへと変化した。その結果、我々の日常には〈共有可能な情報探し〉という側面が与えられた。例えば〈インスタグラム〉は、自分の生活を彩る様々なものを写真という形で公開するがゆえに、ファッション以上の自己演出装置として機能する。SNSは我々の生活の意味そのものを変質させる。
 星新一「味ラジオ」には、電波によって味を受信する未来が描かれている。また、電気刺激で塩味を生み出すフォークは既に存在している。それなら、誰もが自由に味を共有・拡散できるようになったら、生活はどう変化するのか。SNS〈テイスタグラフ〉のイメージをリアルに描き出す冒頭で、読者の興味を引きつけたい。
 また、主人公サイカワは〈テイスタ〉のアングラライターだ。社会の暗部を覗き見る楽しみで関心を呼ぶとともに、暗部を知ることでたどり着く苦悩も描きたい。

文字数:398

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味の彼方へ

 ネットワークの海を深く潜行する。現実の海が汚染され尽くし、誰も入ることができないのと同じように、〈テイスタグラフ〉の深層もまた、危険な無法地帯だ。
――これより先の検索結果はネットワーク衛生保護法の未監察領域です。あなたに法的・技術的・精神的損害を与える場合があります。
 奇怪な〈味覚〉の在り処。ここには何でもある。人間の心の内をそのまま映し出すように。暗く汚く、狂暴で混沌とした領域を見るにつけ、今の俺にふさわしいと思わずにいられない。
 そして、時には見たくない画像を目にすることになる――
――遠景には空爆によって崩れた白い壁。その陰から三人の青年がこちらに向けてライフルを構えている。近景には、それに気付かずに遊んでいる五人の子供。その親のうち一人がライフルの存在に気付き、恐怖に顔をゆがめる。
 この次の瞬間に何が起きたか知っている生き残りの俺は、〈テイスタグラフ〉の運営にメッセージを送る。度々、送っている内容なので、定型文から貼り付けるだけだ。
――当方が管理権を所有している写真が、無断転用・目的外使用されています。早急に削除措置をお願いします。
 あとは、ローカル・ストレージを画像でスキャンすれば、管理番号は自動で入力される。その先は運営の仕事。
 相手のアカウント名はメイド。随分と気の利かないメイドもあったものだ。今から二十年ほど昔、ジャーナリストとして世界を飛び回っていた時に撮った写真と、こういう形で再会するのは気分のいいものではない。自分の無力さを突き付けられているような気分になる。
 目的外使用――それなら、この写真が本来の目的のために使用されうるのか、と問われれば、俺は机の上に並んだ空っぽのフィルムケースを指で弾いて答えにするしかない。
 と言っても、「フィルム」という言葉を知っている人間が、どのくらい残っているのだろう。

 今から遡ること五十年、食糧危機に端を発する世界的な内戦状況、そして最終決着として至った食そのものの変容は、一般に〈食廃絶戦争〉と呼ばれている。その時確立された、世界に食を安定供給する機構こそが、汎食システムET(eaty)だ。栄養補給と味覚調整を別ものとして切り離したことで、味を楽しみながらもバランスよく栄養を摂取することが可能となった。
 現在では、味覚調整はスプーン型デバイスと栄養ペーストを媒介に再生する仕組みが一般的だ。スプーンを介して舌には〈味覚〉データが、ペーストには〈食感〉データが反映され、その両者が合成される形で、脳にトータルの〈味覚情報〉が送信される。
 そして、ETの拡大に最も尽力したのが、味覚投稿SNS〈テイスタグラフ〉だ。味覚データを画像のように編集するソフト〈イートスケイプ〉がフリーで公開されたことが、〈テイスタ〉の普及を後押しした。
 もちろん、多くの人は企業アカウントの提供する伝統的でバランスの良い〈味覚〉を利用する。〈食廃絶〉以前の〈伝統食(レリック)〉に付くサムネイルは、今では失われてしまった料理や食材の写真だ。
 一方で、自ら味を生み出すことに興味を持った人々は、自分の作品を〈テイスタ〉上にアップする。〈一般食(コモン)〉と呼ばれる彼らの作品に付けられるサムネは、食材と背景で味の雰囲気を伝えるだけでなく、小物や調度品でクールにオシャレに装飾されているものが多い。
 そして、俺の探し求める〈違法食(イリーガル)〉は、運営がチェックする前の〈テイスタ〉深層に転がっている。サムネイルには、誰もそれをDLしようとは思わないような、異常な画像の数々。〈味覚的ブラクラ〉なんていう言い方をする向きもあるが、俺にとっては大事な飯の種だ。
 俺は〈イリーガル〉の食レポを記事にして生活している。

 運営への通報を終え、今日の最初の〈味覚〉を探す。すぐに目に飛び込んできたのが、深紅の殻に覆われた果実らしき画像だ。殻には黒い斑点が散っていて、細かい棘が斑点の部分にだけびっしりと生えている。そこに、光沢のある緑色の爬虫類が喰らいついていて、いきなり〈伝説級(レジェンダリー)〉の予感だ。愛機TGR-CD900ETをコンソールに挿し、〈味覚〉データをDLすると同時に、画像と一緒にローカルにも保存する。〈イリーガル〉はいつ削除されるか分からない。
 TGR-CD900ETは、ハイエンドなモニター・スプーンの名機だ。
 どんなスプーンで〈味覚〉を楽しむか、というのは、頻繁にネットをにぎわせる話題だが、味を好みで捉えない俺の仕事には関係ない。五原味の再現性のバランスが最も高く、SN比も抑えられている名機900ET以外には考えられない。他のモニター・スプーンと比べても、五原味の分離性は抜群だし、長時間の使用にも疲労感を与えない軽さと、舌触りの良い曲線の快感は唯一無二だ。何より、真っ黒な本体に赤いラインというデザインがプロフェッショナルを感じさせる。
 スプーンをコンソールから抜くと、ペーストをその上に乗せる。目を閉じて「爬虫類斑点果実」の画像イメージを脳裏で反芻しつつ、スプーンを口に運び、ペーストをスプーンの上に広げる。ペーストが次第に粘り気を帯びていき、表面にざらざらした感触が生まれる。すると突然、酸味と苦味が螺旋を描いて喉の奥を貫いた。焼け付くような味わいが喉をまっすぐ下りていくのを感じていると、今度は甘味が、腹の底に響く低音のようにペーストの中から染み出して舌を包み込んだ。味どころか、口の中の感触までもが甘味の中でぼやけていく。喉に留まる酸味と苦味は、仲良く手に手を取ったまま暴れまわるが、抵抗しようにも舌が言うことを聞かない。見事な爬虫類ぶりだとでも表現すればいいのか。ペーストは最大で三分間〈食感〉を伝えると、溶解して栄養素として吸収される。つまり、俺は最大で三分間、不協和音の三重奏と格闘しなくてはならない。いつもながらに、素晴らしい仕事だ。
 気の遠くなるような三分を乗り切り、スプーンをスタンドに突き刺すと、台所に直行する。冷蔵庫の炭酸水を引っ掴み、口の中の洗浄にかかる。ペーストも味も、理論上は口の中に何も残さない。頭では分かっているが、こればっかりは理屈じゃない。三度ゆすいだら、二度うがい。残りの炭酸水を喉に流し込み、一気に食道を洗い流す。盛大なげっぷの後に、ようやく人心地がつく。冷蔵庫の炭酸水のストックはちょうど二ダース。これはつまり、あと二十四本しか記事が書けないということであり、それじゃあ四日分の生活費にしかならない。
 〈レジェンダリー〉を引き当てた後では、午前中はあと一本が限界だ。ひとまず「爬虫類斑点果実」のデータをスペクトラム・アナライザにかけて、俺の口の中にどんな魔物を召喚したのか、見せてもらおう。
 〈テイスタ〉のホーム画面にメッセージの着信を示す赤丸が点滅した。貧乏人の壊れかけPCは解析で精一杯。しかし、〈テイスタ〉に関するネタの提供ならありがたい。仕方なく携帯端末で〈テイスタ〉を開く。これは、俺が契約しているアングラ専門味覚情報サイト「ETET(Extra-Terrestrial eaty)」の担当、マツノに持たされている。いつの時代も、奴隷に手枷足枷は欠かせない。
 メッセージを開くと、シノダとある。知らない名前だ。
――キタ‐シンジュクにて〈ハーヴェイ〉というクラブの運営に携わっている、シノダと言います。〈レジェンダリー〉級の〈味覚〉の数々を、言葉で再現する妙技にいつも感嘆しております。サイカワ様の舌に、ぜひお試しいただきたいデバイスがございます。〈スティックス〉という名をご存知でしょうか。きっと、サイカワ様の舌を驚かせることができると思います。
 クラブの人間にしては、妙に丁寧な物言いが気になる。ああいう人種が俺に接触してくる理由は単純で、自分の所の客になりそうな人間に対する宣伝以外にない。俺はこれでも〈テイスタ〉のダークサイドではそこそこ知られている。刺激に飢えている連中には、それなりに拡散性のある媒体ということだ。
 しかし、シノダのこの言い方には心惹かれるものがあった。知らぬ間に左手でいじっていた空のフィルムケースを置いて、もう一度文面を読み返す。〈味覚〉ではなく、デバイスを勧めているところが、何とも魅力的だ。
 ディスプレイ上には「爬虫類斑点果実」の解析結果が表示されている。データを読みながら、口の中で起きたことが頭の中で言葉に結晶していく。同時に、右手が〈テイスタ〉の深層をさらに彷徨する。あと三本、とっとと記事を仕上げてしまおう。まだ見ぬ〈スティックス〉を思い浮かべて、喉が鳴った。

 チューブを乗り継いでキタ‐シンジュクに着く頃には、すでに十時を回っていた。娯楽施設の多いミナミに比べて、キタはマニア向けのメディアを扱っている店が多く、博物館以外でほとんど見かけることのない音楽再生のための巨大なディスクや、物語を収めた超重量の紙束――そういった品物を大事そうに抱えた人と、やたらとすれ違う。
 雨音に空を見上げると、シンジュク全域を覆うドームが濡れている。この中途半端な高さのドームのせいで、シンジュクは十年前に再開発困難地区に指定された。と言っても、俺の住んでいる所にはドームすらない。傘を忘れたのに。
 〈ハーヴェイ〉は、キタと言ってもほとんどヒガシ‐シンジュク、という場所にあった。昔は車道だった大通りを挟んで、その先には色とりどりのライトに照らし出された歓楽街が見える。それに比べると、こちら側には〈ハーヴェイ〉以外に目立った店はなく、ただ、ひらひらした服を着た若者が人だかっているのは賑やかと言えなくもない。その奥では黒スーツの長身が二人、門番のように立っている。入口らしい。裏手には出口が一つ、二階部分と地下につながる錆びた螺旋階段もある。さらに上階の建物は、隣のビルが張り出していて、〈ハーヴェイ〉の建物自体は地上二階しかない。この辺りでは珍しい。裏の二階部分には磨りガラスの窓があるが、そのほかに窓は見当たらない。窓の中は事務所だろうか。
 昔からの癖で、初めて入る建物は、周囲の状況を観察しないと落ち着かないのだが、この建物は、何度入っても落ち着かない気分にさせられそうだ。何しろ、正面にある〈ハーヴェイ〉の看板からして、妙に右下りだ。いや、こういうデザインなのかもしれない。だから、文字が赤白の縞模様なのも、何か理由があるのだろう。マツノに聞けば何か知っていたかもな、と思ったが、この時間はもうつながらない。仕事熱心な奴なのだ。
 黒スーツのうち、少しだけ背の低い方に、シノダからのメッセージに添付されていたカードを示し、中に入ると、床の抜けそうな激しい重低音が襲い掛かってきた。若い男女がフロアで揺れながら、スプーンを回し舐めしている。
「おーじさん」
 後ろから若い女の匂いがしなだれかかってくる。
「あれっ。すっごいいい体してない?」
 どこのクラブに行っても、みんな同じ反応をする。男も、だ。一日平均六食分の栄養を、余分な肉として体に備蓄しないためには、それなりの鍛え方をする必要がある。
「殺し屋なんだ」
「これから殺しに行くの? それとも、殺した帰り?」
 正面に回った女の顔は、声から想像したよりずっと若い。まだ十代じゃないのか。メイクで大人びてみせているが、首から頬のハリとツヤが眩しい。肩に巻かれたひらひら布が視界で揺れるのが、気になる。
「どっちだと――」
「おい、おっさん。俺の女に何してくれてんだよ」
 再び背後からの声。俺の肩に手を置くと、驚いたように手が一瞬離れた。やっぱり、みんな同じ反応だ。気を取り直して再び肩を掴むと、俺に振り向かせようと強く揺する。無駄だ。
「こっち見ろよ」
 仕方なく振り返りざま男の腕を取り、背後に回って押さえ込んだ。耳元で囁く。
「俺じゃない。彼女の方から寄ってきたんだ」
「噓、言うな」
「殺してほしいやつがいるんだそうだ。誰かな」
 男の目が灰色に濁った。と思ったら、涙が溢れ出す。すぐに嗚咽が漏れだしたが、腕を締め上げられているので、痙攣するたびに踏まれた蛙みたいな声を上げる。女が何か言いだすかと思ったが、ウェイターから新しいスプーンを受け取ってしゃぶり始めた。
「舐める?」
 青くて光沢のないスプーンの上に、半分だけペーストが残っている。栄養素のカットされたペーストだろう。そうでなければ、客の大半がペーストの過剰摂取による中毒を起こすか、極度の肥満に見舞われるか、どちらかだ。
 男から手を放すと、床に崩れ落ちてそのまま声を上げて泣き始めた。女からスプーンを受け取り、口に入れようとしたところで、その手を掴まれた。見ると、入口にいたのと同じような長身の黒スーツだが、仕立ては随分といい。
「サイカワ様ですね」作り物めいた表情は、微塵も動かない。男前が台無しだ。
「誰だよ」
「シノダの使いの者です。そのスプーンはおやめください」
「だってさ、お嬢ちゃん」
「失礼なやつ! あたしが病気持ちだっていうの?」
「サイカワ様の舌のためです。綺麗な舌のままでお越しいただきたいとのことです」
「ひっどーい! こいつも殺しちゃってよ」
「殺さないよ。ただ、俺の食べるものは俺が決める」
 スーツの手を振りほどき、スプーンをくわえる。何の飾りもない、純粋な酸味が口の内部の皮膚を突き刺した。強すぎる。デバイス自体が味をゆがめているとしか思えない。酸味に限定した、クリップ無視の強烈なブーストだ。スプーンには安全機構としてリミッターが入っているはずなのだが、どう考えても外されている。ひりつくような酸味だ。しばらくすると、少しずつ酸味の芯が丸くなってきた。それでも頬の裏に痺れが残っている。
「これは――ひどい」瞬きして、眉間を押さえる。「どうやってるんだ。五原味のバランスを無視して、こんなに極端な調整ができるものなのか。リミッターだって簡単には外せないだろう」
「企業秘密です。が、そのスプーンの素材が要なのです、とだけ申しておきます」無表情の空隙に、誇らしげな笑顔が覗く。いい男だ。女の視線は俺が三、スーツが七ぐらいの割合になっている。
「とにかく、こちらへ。シノダがお待ちです」
 俺の筋肉に子犬のようにじゃれつく女を、スーツは耳元への囁き一つで落ち着かせた。うっとりした顔を残して、俺たちは若者たちがスプーンをくわえて踊り狂うステージの脇を抜けた。
「奇妙なもんだな。フロアの奴らよりも、ステージに上がってる奴らの方が、味覚への没入の度合いが深そうだ」
「そうです。そもそも、スプーンの持つ味覚生成の機構そのものが、脳に対する刺激を偽装することによって成立しています。人々を興奮状態に置いて、その刺激の伝達を促進してやれば、味覚への没入度は増大します」
「随分と詳しい解説だな」
「恐れ入ります。しゃべりすぎましたか」
「そんなことはないだろ。あんたが、シノダだっていうなら」
 スーツの目が大きく見開かれ、白い歯が乱れ飛ぶライトに赤く光る。「いつからでしょう?」
「企業秘密だよ」
「素晴らしい! その知覚の解像度をこそ求めているのです。どうぞ、こちらへ」
 シノダの案内に従って一枚の重厚な扉を抜けた先には、円筒形のエレベーターが待っていた。
「宇宙にでも行くつもりか」
「異世界にご案内します」
 興奮気味に振り向いた顔に、前髪がはらりと落ちかかる。やはりいい男だ。俺は警戒感を強めた。自分の器量を分かっている人間は、それを必ず利用する。
 エレベーターには二つしかボタンがなかった。シノダが押したのは上のボタン。二階に上がるのかと思いきや、エレベーターは高速移動を始めた。どうやら、〈ハーヴェイ〉に覆いかぶさっていたビルにそのままつながっているらしい。
「さて、サイカワさん。音楽を表現しようとする人は音楽を、絵画を表現しようとする人は絵画を、普通であれば選択するわけですよね」
 シノダの質問の意図を図りかねているうちに、エレベーターの外の風景が雨に濡れ始めた。ドームを超えたのだ。
「それなら、どうして味覚を表現するのに、言葉を選んだんですか」
 聞かれてみれば、当然の質問だった。思い当たらないのが不思議なくらいだ。
「言葉を選択することで、味覚と正面から向き合うことを避けてきた――そんなことはありませんか」
 シノダがガラスに映った自分を見ながら、髪を後ろに撫でつけている。対する俺の頭はぼさぼさだ。それらしい格好をと羽織ってきたジャケットも、シノダのスーツと並べるとかえって物悲しい。
「画像編集の仕組みを流用してるから、じゃないのか」考えてみたこともない。「俺は、若いころ写真を撮っていた。デジタルを嫌って、博物館もののフィルムをかき集めて、写真を撮ってたんだ。だから、デジタルに画像を処理するソフトも、その仕組みを流用した〈イートスケイプ〉もごめんだった。という答えじゃ、お気に召さないかな」
 シノダの表情は変わらない。変わらないことが、俺の答えの不十分さをはっきり物語っている。
「もう、到着します」
 エレベーターの小さくうなる駆動音が、いっそう低くなり、止んだ。扉が開くと、すぐ目の前に両開きの重厚な扉が現れた。床を見れば臙脂の絨毯。いかにもVIPルームといった設えだ。シノダが前に立つと、自動で扉が開く。何らかの認証が行われたらしい。
 中は俺の背丈ぐらいの高さの仕切りで、小さなブースに分けられていた。一つのブースでは、全裸で横たわる女の体に塗りたくったペーストを、老人がスプーンでこそいで食べており、他のブースの注目を集めていた。真っ白な髪と眉、不健康そうな赤ら顔、目ばかりが燃えるように耀いている姿は、科学技術開発省のハスヌマ副大臣だ。百十歳代後半だが、十分にお金と地位があれば、年齢に抵抗することはたやすい。これもまた、若さを保つ秘訣なのかもしれない。
「それは、どうでもいいです」シノダが吐き捨てるように言った。
 副大臣のスプーンが白い肌の上を巡るほどに、その肌は桃色に上気し、快感の吐息に合わせて、露わな胸が揺れた。他のブースの客たちは興奮した様子で、副大臣の舌鼓を観戦する。しかし、シノダはその存在すらも否定するような足取りでブースの間を抜けていく。女の嬌声に苦悶のうめきが混じる。見ると、スプーンが柔らかい腹をえぐるように強く押し付けられている。周りの男たちが唾を飲む音が聞こえてきそうだ。
 確かに、見ていて気持ちのいいものではない。
 早足になったシノダの肩が強張っている。「堕落だ。日本人の、大和民族の高邁な精神は……やはり……一刻も……」小声だったが、強い響きだ。
「嫌い、かい」
「僕は、あんなことをさせるために、〈ハーヴェイ〉に出資しているんじゃない」抑えた語調には、はっきりした怒りが彫りつけられている。
「いえ、どうでもいいです。それより、お待たせしました」
 気付けば、VIPルームの入口とは違う意味で重厚な扉の前――いや、厳重と言った方が似つかわしい。この場の高級な雰囲気を無視しきった武骨なジュラルミンの扉は、見た目通りの厳しさで、入室のための認証は、いったいいくつの行程を経ているのか知れない。それでも、シノダの流れるような一連の手続きが終わると、銀の扉は静かに滑った。
 シノダの後に続いて入室すると、広いホールのような部屋の中央に、ガラス張りの部屋が、さながら標本箱のように置かれている。と言っても、部屋の全体が広すぎるから小さく見えるだけで、ガラスの壁に囲まれた部屋も俺の家とは比較にならない広さだ。その中には、恍惚とした表情で何かをしきりに口に入れている女たちの姿が見える。かろうじて服は着ているが、服が裸体を覆い隠すためのものだとしたら、その役目を十分に果たしているとは言い難い。シノダの怒りの矛先は、女性の扱いに関するものではないようだ。
「どうぞ、遠慮せず中へ」
 絡みつく女たちを押しのけて、案内されたソファに腰かける。体が沈むのに合わせて、ソファが腰と背中を支えるように動いた。最高級品だ。体をよじりながら、ソファの反応を試していると、シノダが漆塗りの盆を目の前のテーブルに置いた。
「〈食廃絶〉以前の文化を再現してみました」
「ああ、盆と椀だ。実物は初めて見た」
「さすが、ご存知でしたか。それでは、箸は?」
「聞いたことはある。〈食廃絶〉以前にアジア圏の広い地域で使われていた、食事のための道具だと」
「中でも、日本の箸は、その繊細な食を象徴するように、工芸品としても一級品でした」
 シノダの手の中には、いつの間にか細長い箱が納まっている。蓋をスライドさせると、中から細い棒が二本現れた。
「これがお伝えした〈スティックス〉です。〈味覚〉は〈伝統食(レリック)〉から肉じゃがを入れてあります」
「椀に乗ってるのは」
「ペーストを固めたものです。〈アスピック〉と呼んでいます」
 それは、楕円形に成形された塊だった。椀を手に取ると、小さいながらも小刻みに震えて、白い表面がきらめいた。シノダが〈スティックス〉を取り出した。黒檀のような滑らかさだ。
「どうぞ。箸を正しく使うのはもちろん作法として大切なことですが、今はそのまま突き刺して召し上がってみてください」
 言われるままに〈スティックス〉を手にし、〈アスピック〉に挿し入れ、口に運ぶ。舌の上で〈アスピック〉は溶け、肉じゃがの食感を再生し始めた。いや、そんなことより――。
 〈味覚〉はよく知っている肉じゃがだ。何の変哲もない肉じゃがだ。それなのに、だし汁の甘味と塩味、肉の持つ旨味、ジャガイモにわずかに含まれる苦味とそれによって強調される甘味、そしてすべてを包み込む玉ねぎの蕩けるような甘味――その全てがこの上なく鮮やかで、強い主張を持っている。それでいて、どの味もクリップすることなく、調和して一つの〈味覚〉を作り上げている。
「美味しいですか」
「美味しい……。いや、これはそういうことじゃない。美味しさは〈レリック〉のデータによって約束されたものだ。しかし、これは、このデータの再現性は」口の中の残響を必死で追う。しかし、その尻尾すら掴めない。
「解像度の問題です。サイカワさんがデジタルのカメラを嫌っていたのも、その根っこには解像度の問題があったんじゃないですか。自分の目が捉えたものとの落差、フィルムで撮影した時との落差、それが、どれだけ解像度を上げても埋まらない」
「そうかもしれないな」嘘じゃない。そういう面があったことも確かだ。
「その落差を、デバイスで埋めました。〈スティックス〉の一本一本は特筆すべき仕組みを持っていません。ただ、特製の違う二つのデバイスを組み合わせています」
「音楽再生のチャンネルを増やしたみたいなものか。モノラルよりステレオ、ステレオよりサラウンド――同じデータを再生しても、元のデータが三次元的な広がりの中で生み出されたものだから、チャンネル数が増えるほど再現性が増すと」
「そうです。ただ、このような変化は、〈一般食(コモン)〉のデータでは起こりません。スプーンでの再生を前提に作られたデジタル・データだからです。ところが、〈レリック〉のデータは違う。解析してみて驚きました。それは、まさに遺物(レリック)そのもの。その料理のための素材のデータから、製作工程まで、一種のシミュレーションになっていたのです。だから、〈味覚〉の空白を埋めることができる」
「なぜそんなことを。記録しても再現できるわけじゃない。食材そのものが失われているんだから」
「同じことを、昔のあなたが聞かれたら、何て答えます。そのシーンを再現できるわけじゃない、そこにいた人々を助けに行けるわけじゃないのに、どうして撮影するのかって」
――銃撃される人々、爆風に吹き飛ばされる人々、飢餓で、疫病で、天災で死んでいく人々、そして、空爆によって跡形もなく消し飛ぶ人々――
 シノダの表情が急に険しくなる。音声通信だ。メッセージを聞く時、人はなぜか視線が上を向く。それが神の声だとでも言うように。
「すみません。やはり、ろくなことをしない。最悪だ――。今日はこれでお引き取り願えますか。エレベーターまでご案内します。〈スティックス〉はそこに置いておいてください」
 振り返ると、先程までいた女たちが一人もいなくなっている。ジュラルミンの扉が開くと、怒号と悲鳴で埋め尽くされていた。
「また、こちらから連絡させていただきます。お会いできてよかった」シノダの表情が一瞬だけほころび、すぐにまた初めの仮面に戻った。
 出口の前に、ぼろ布のようになった副大臣が転がっていた。しきりに「おしまいだ、おしまいだ」とつぶやいている。観客だった男たちは、今夜のアリバイ作りにデバイスと向き合っているが、そのデバイスに社名やロゴが入っているものが少なくない。リテラシーのなさと、情報的無防備さに呆れていると、経済番組や企業サイトで見たことのある顔が、いくつか混じっていることに気が付いた。
 俺は、左足の靴の踵で踏んでしまった血糊を、副大臣のはだけたシャツで拭いた。
 確かに最悪だ。どうなっているんだ、この国は。
 エレベーターが加速し夜の底に戻っていく。雨は激しさを増していた。

 シャワーから出て、裸のままで椅子に座る。机の上に、空のフィルムケースを並べていく。この何百倍もの写真を撮ってきた。それなのに、今はこのケースと同じで空っぽだ。それでも生きている。ただ生きている。
 ネットワークの海を深く潜行する。居心地がいいわけじゃない。本当は現実の海に入って、俺の体も汚染され尽くしてしまえばいいと思っている。それなのに、そんな勇気も行動力もない。だから、ただ〈テイスタグラフ〉の深層で、決して死ぬことのない自傷を繰り返している。
――これより先の検索結果はネットワーク衛生保護法の未監察領域です。あなたに法的・技術的・精神的損害を与える場合があります。
 〈テイスタ〉は俺に法的にも技術的にも、ましてや精神的にも損害を与えてくれない。ここには何もない。空っぽの俺の心をそのまま映し出すように。暗く汚く、狂暴で混沌とした領域を覗き込むと、そこにはあの副大臣と同じ顔をした俺がいた。驚いて、服を着た。
 昔撮った写真を見ると、やるせなくなる。自分が無くしたもの、置いてきたものを思い知らされるから。
 ほら、また一枚、アカウント名メイドからの贈り物――
――中心には、俺に向かって笑顔で手を振る少女たち。ひと月前まで過激派組織に監禁され、日常的に暴行を加えられていたのが、国連と政府軍の連携によって救済され、ようやく笑える瞬間が生まれた、そんなある日の一コマだ。いい写真だと、自分でも思う。しかし、この二週間後、別の過激派組織によって、この一帯は火の海と化した。彼女たちの安否は不明。正直、今でも、彼女たちが生きていた方がいいのか死んでいた方がいいのか、分からない。
 そういえば、俺の写真にどんな味が結びついているのか、一度も味わったことがなかった。俺には、この味を味わう責任があるんじゃないのか。
 TGR-CD900ETの黒塗りに赤いラインというデザインを見ていると、Nikon F3を思い出す。ほとんど骨董品とはいえ、ロングセラーであるため替えのパーツも多く残っていて、古いフィルムカメラの中では、現実的に長期使用できる機種だった。今は物置の奥に押し込んでしまっている。それなら、似たカラーリングの900ETを使っているのは単なる憧憬なのか。
 記録しても再現できるわけじゃない。それなら、この写真はどんな味を生み出しているのだ。それを確かめるための900ET――。
 コンソールに挿して、笑顔の写真と向かい合う。一人一人の声が、会話がよみがえる。過去ではなく、未来の話だ。結婚して子どもを育てたいと語った少女がいた。昔、将来を誓い合った相手がいたと。今はどこでどうしているか分からないが、きっといつか再会できると信じていた。看護師になって一人でも多くの人を助けたいと語った少女がいた。解放されて傷ついた心と体を支えてくれた人たちと肩を並べて、今度は自分が救う側に回るのだと。教師になってたくさんの子どもたちに物語を語り聞かせたいと言った少女がいた。苦しい時に救いになったのが、昔お母さんが聞かせてくれた物語だったと。そのお母さんはもういないけど、私がみんなのお母さんになると語った。
 DLはいつまでたっても終わらない。この一葉の写真に込められたデータに終わりはない。
――やっと落としてくれた。
 〈テイスタ〉のメッセージが立ち上がった。アカウント名はメイド。いつもの奴だ。
――こうやってやり取りできるのを待ってました。
 DLが終わった。900ETを抜き、ペーストをすくう。
――食べてくれるんですね。サイカワさんのことを考えながら、味覚調整しました。
 舌の上で、ペーストは霧のように消えた。そのまま鼻腔の奥で、晴れ上がった空の香りになって広がる。
――五感って、世界が自分の中に入ってくる窓だと思うんですよ。
 彼女たちと会話した時の喉の渇きや涙の味が戻ってくる。
――でも、自分の中にあるものも、不思議とその窓を通って帰ってくるんですよね。
 あの空の下の埃っぽい風が、体の隅々に染み渡る。
――サイカワさん、自分のいる場所がわかりますか。
 撮られるのを待っているフィルムが、ケースの中で眠っている。
――分かってるよ。最悪の場所だ。
――おかえりなさいませ。
――メイドのつもりか。気持ち悪いったらない。一体、何者だ。
――サイカワさんのファンです。ああ、写真のですよ。
――ことわるな。
――〈スティックス〉持って帰りましたか。
 部屋を見回す。カーテンを開けて外を覗きたい衝動に駆られた。玄関の鍵だけ確かめる。とはいえ、開発不能地区の小さなアパートだ。補強材に補強材を塗り重ねて、五十年以上の月日を生き永らえてきた。テクノロジーの力を借りれば、中の様子など丸見えなのかもしれない。
――いいや、それどころじゃなくなった。
――〈ハーヴェイ〉は、あまりいい評判を聞きませんね。
 ブラウザを立ち上げて「キタ‐シンジュク」「ハーヴェイ」で検索をかける。めぼしい情報はない。
――何者だ。
――だから、ファンですって。ファンついでにもう一つだけ。これ以上深入りしない方がいいですよ。と言っても、無駄だと思うので、これから送る写真でも見て、想像を膨らましておいてください。
 最後のメッセージに貼りつけられていたのは、四肢が壊死した人体の写真だった。脅しのつもりなら、効果は薄い。破壊された人体など、絶望的なほどに見飽きている。ファンだと言いながら、俺の仕事をまるで理解していない。
 と思いながら、やり取りしたメッセージを読み返す。どうしてこんな相手とやり取りしてしまったのか。フィルムケースをカーテンに向かって投げつけると、空っぽの音が空っぽの部屋に響いた。

 シノダから連絡がきたのは、あれから一週間後だった。その間、メイドからの連絡も、〈伝説級(レジェンダリー)〉を発見することもなく、平穏で貧乏に過ごした。〈ハーヴェイ〉も表面上は平穏だったらしい。クラブで女性が亡くなったり重体になったり、という事件の報道はなかった。今朝になって、あの副大臣は急性心不全のため緊急入院と報じられた。
「完全にもみ消すことはできませんでした」
 その記事を読んでいる最中の電話だった。全く俺の情報は、誰も彼もに筒抜けらしい。その上、携帯端末に音声で着信ときた。アドレスまで駄々洩れだ。
「副大臣の件か」
「仕方なく入院してもらいました。来週には南の島で療養です。二度と会うことはないでしょう」
「で、この前の続きは」
「今夜、十一時でどうです」
「急だな。確認してみないと」
「新しいカードを今送りました」予定も把握されている。「それでエレベーターの前までは来れるはずです」
 この日、最後の〈違法食(イリーガル)〉は久しぶりの〈伝説級(レジェンダリー)〉だった。サムネイルは、〈テイスタ〉深層ではおなじみの蟲、それも甲虫の群れ。味わいの豊潤さに対する食感のおぞましさがたまらない。喉を這いまわる無数の脚の感触は、ペーストの無限の可能性を実感するのに最良の素材だ。
 チューブでの移動中に記事の最終チェックを行い、マツノにデータを送る。だが、夜十時を回ってしまったので、仕事熱心な彼が目にするのは明日の朝だ。ETETは、記事の早さも重要だ。〈イリーガル〉は、質が良ければ良いほど、運営に消される可能性が高まる。あの甲虫は、久しぶりに誰かに味わってもらいたい〈味覚〉だった。
 そこからすれば〈スティックス〉のもたらす〈味覚〉は真反対と言ってよかった。上品で上質で、どこまでもその味に耽溺することができる深みがある。だがそれは同時に、一部の人間だけにしか価値を認められない〈味覚〉とも言える。ほとんどの人がフィルムカメラに見向きもしなくなったように、〈スティックス〉の解像度が無価値に感じられる人間の方が、圧倒的に多いだろう。そういう意味では、〈スティックス〉と〈イリーガル〉は、さほど遠い存在ではないのかもしれない。
 それなら、なおさらシノダが俺に〈スティックス〉を使わせて何をしたいのかが疑問だ。
 キタ‐シンジュクの闇の中に〈ハーヴェイ〉の紅白の縞模様が、戯画化された太陽のように現れる。この前と同じスーツの二人が、相変わらず狛犬のように立っている。少しだけ小さな方に端末からカードを見せると、小さく「わん」と言った気がした。
 中に入ると、フロアに出ている人が今日は少ない。と思って見回してみると、バーカウンターに人だかりができている。
「おーじさん。今日は殺す前? 殺した後?」
 肩にかかった体重に、怒鳴りつけようかと思ったが、振り向いてやめた。女が泣いていたからだ。
「どうした。何かあったのか」
「口開けて」
 何が、と聞き返そうと口を開けた瞬間に、スプーンを突っ込まれた。ペーストが液状化し、塩味と旨味が絡み合いながら広がった。と思ったのも束の間、あらゆる味が吹き飛んだ。何が起きたのか分からない。液状化したペーストが突然燃え上がったのか、それとも剣山となって突き刺さったのか、とにかく口の中の粘膜という粘膜が全て熱さと痛みで覆い尽くされた。
 女が涙を拭きながら、俺を指さして笑っている。今度は別の涙か。手を見るとコップを持っている。奪い取ろうとしたら、一気に自分の口の中に流し込んだ。痛みは増していく。バーカウンターに人だかりができている理由がよくわかった。トイレに駆け込んだところで、状況は変わらないだろう。一度〈ハーヴェイ〉から出る。これが正解だ。
 踵を返して出口に向かう俺を見て、女が再びしな垂れかかる。今度こそ怒ろうと思って振り返ると、唇を柔らかいものが塞いだ。生温い液体が流れ込み、瞬きすると睫毛が触れそうな場所に、女の顔があった。思わず突き放す。
「んんん!」
 抗議しようにも、口の中には液体が満ち、鼻の奥を鳴らすしかできない。慌てて飲み込もうとするが、うまくいかず、溺れているようなその反応を見て、女がまた笑う。
「お前なあ」やっとのことで飲み込んで詰め寄るが、近づくとまた口づけようとする。「ふざけるな!」
「別に、ふざけてないのに」スプーンを指先で器用に回転させながら、むくれてみせる。その表情に、どうしてだか、そのまま捨て置いてはいけない気分になる。こんな、二十歳にもならないような小娘に、どうして……。
「ひどい顔してるよ。これから仕事なんでしょ。そんなんで大丈夫なの」
「余計なお世話だ」
「ふん。かわいくないやつ」
 四十五のおっさんを捕まえて「かわいくないやつ」とは、どういうセリフだ。自分がバカになっていくような気分だ。「なあ、名前、なんていうんだ」
「なに?」
「名前だよ」
 女の目が大きくなる。〈絶滅種アーカイブ〉で見た猫という動物が、ちょうどこんな感じだった。自由で気まぐれで、人類を長きにわたって魅了し続けてきた存在。そういえば、食べたことはない。
「メイ。おじさんは」
「ケンエ」
「変な名前」
「苦情は親に言ってくれ」
「会わせてくれるの」
「すまん。とっくに死んでる」
 三分が過ぎてペーストが消え、口の中の痛みは残響になった。冷たい水は上でもらおう。できれば炭酸水がいい。
「毎日来てるのか」
「違うよ。運命だと思った?」
「興味ない」
「シノダって人に教えてもらった。あの時、約束してくれた」
 耳打ちした時だ。あの表情は、シノダに向けられたものじゃなかったのか。
「行ってらっしゃい。次もシノダって人に聞くから」
「迷惑だ」
「知ってるよ」
 ステージの上には、辛味に慣れた人がちらほら上り始めている。叫びたくなるらしく、激しく体を揺さぶりながら、「ひょう」とか「ほう」とか言っている。中には、この前号泣していた男も混じっている。今日は涙を克服したようだ。その脇を抜けると、エレベーターの前にシノダが待っていた。
「迷惑だ」
「そうは見えませんでしたが」
「覗きか」趣味が悪い。
「見せつけられているのかと思いました」
 エレベーターの駆動音が耳に付く。精神的な余裕か、外の景色まではっきり見える。上から見たドームはブリスターパックのように、シンジュクという街を包み込んでいる。商品価値を失ったまま保存されてしまった街を。
 臙脂の絨毯と重厚な扉を抜けると、今日は誰もいなかった。副大臣の事件の余波だろうか。そうだとしたらいい迷惑だろうに、シノダの眼差しはむしろ穏やかに見えた。あのような輩の存在はやはり本意ではないということか。
「VIPルームは、半月休みます。ここを続けていくことが大切なのであって、焦っても何もいいことはありません」
「炭酸水をもらえるか」
「奥の部屋にあります」
 ジュラルミンの扉の向こうにも誰もいない。ただ、今日はなんだか妙な臭いが立ち込めている。何かが焼けたような、あるいはほのかな酸味、すえたような臭い、発酵臭……。
「何か、ここでも事故が」
「ああ、匂いですか。それはすぐにわかります。それより、その隅の冷蔵庫にありますから、しばらく待っていてください」
 冷蔵庫の中には、俺がいつも飲んでいるのとは違う炭酸水が入っていた。舶来ものの高級品だ。蓋をひねって開けると、清冽な香りが部屋に立ち込めた臭いを打ち消した。そう感じたのも束の間、すぐに臭いは戻ってくる。かといって、ただ不快なだけの臭いでもない。
 喉を洗い流していると、シノダが盆を手に戻ってきた。上には椀と〈スティックス〉のケース。〈絶滅文化アーカイブ〉で見た日本の伝統的食生活そのものだ。
「どうぞ。召し上がってください」
 前回のシノダの行動そのままに、ケースの蓋をスライドさせて、中から〈スティックス〉を取り出す。先の太い方が持ち手側だ。持ち方は〈絶滅文化アーカイブ〉を見て練習してきた。ペンを箸に見立てていたので、重量感と太さの違いはあったが、目の前の椀の中の物をつまんで口に運ぶことぐらいはできるだろう。シノダの表情が明るくほころんでいる。まんまと乗せられているようだが、悪い気はしない。
 椀を手に取ると、〈アスピック〉とは違う加工ペーストが乗っている。これが、奇妙な臭気の原因らしい。微細な白い粒の集合体。〈ごはん〉に似ているが、映像で見たものより一粒一粒が立っていて、表面が艶めいている。〈スティックス〉により適合したペーストの形態ということか。
 シノダの視線が〈スティックス〉の先に絡みついている。抵抗を感じるが、〈アスピック〉の挙動を思い出すと、この〈ごはん〉にも期待せずにいられない。一気に口に中に放り込んだ。
 しかし、このペーストは舌に置いても、何の変化もない。困惑が顔に出たのか、シノダが慌てて「歯を使って噛んでください」と言った。歯を使うなんて、まるきり〈食廃絶〉以前の食事じゃないか。
 思いながら〈ごはん〉を噛み締めた瞬間、その粒から味わいが広がった。甘味とか旨味とか、そういった個別の要素に還元されえない味わい。口の中から鼻に抜ける香りには、先程までの奇態な感じはまるでなく、ただ上品に鼻腔をくすぐる。何より、その〈食感〉だ。一つひとつの粒が、硬さと粘り気によって噛み締めるほどに練り上げられていき、形を変えながら、甘味の拡散方式を変化させる。
 そして、〈味覚〉をよりふくよかに彩っているのが、温度だった。ペーストに温度の要素はない。一方でここにある温かさは、口腔内の味覚受容器官を活性化するのか、桁違いの実在感を与えている。
 いや、実在感も何もない。ここにあるのは、本当のごはんなのだ。
 シノダが目の前を行きつ戻りつしている。まるで、自分自身もまた共に食しているかのような、恍惚とした表情だ。
「旨いでしょう。これが、ごはんです」
「ああ、確かに。だが、どこでこんなものを」
「企業秘密ですよ、もちろん」シノダの声色が変わった。「サイカワさん、〈食廃絶〉以降の日本の経済力の変化をご存知ですか。国際社会における発言力の低下を自覚していますか」シノダが自分の魅力を最大限に演出しているのがはっきりわかる。警戒すべきだ。しかし、その胃の腑に直接響くような声は、分かっていても抵抗しきれない。危険だ。
「漢字も米も奪われました。かつて日本人が、手先の器用さによって、産業技術によって、輸出を経済力に変えてきた歴史を、根本から覆されたのです。サイカワさんは、自分の名前を漢字で書けますか。箸は練習されたようだが、昔の日本人は、その箸で空中を飛ぶ虫を自在に捕まえたといいます」
 シノダが背後に回る。俺の肩に手を置く。右耳に声が近づく。
「ごはんの食感になにかを感じませんでしたか。かつてのあなたが持っていたはずの粘り強さを感じませんでしたか。ごはんは日本人の魂です。ごはんと箸が我々に戻ってくれば、もう一度、諸外国に比肩しうる、いや、世界を圧倒する国になるはずです」
「それで。俺は何を」
「記事を書いてくれればいい。あなたの情報の拡散性は、おそらくあなた自身が理解している範疇をはるかに超えている。自分の記事がコピーを繰り返され、名前を変えて、どれだけ多くの『口』を動かしているか、ご存知ないでしょう。アンダーグラウンドから始めます。ごはんが失われたというのが虚偽だと分かれば、職にも生活にも不満を感じている層の人々は、もう政府の言うことなど聞かない。その上、この味です。富裕層がこれを独占していると聞かされれば、疑う理由はどこにもない」
「嘘を書けと」
「そんな必要はありません。フレームを与えてやればいいんです。フレームの外の出来事は、彼らが勝手に想像します。写真と同じです。空間的にも時間的にも、フレームの中の情報は事実でも、フレームの外は鑑賞者の想像力に任せるしかない。サイカワさんはよく知っていますよね」
 知っているも何も、だから、俺は写真をやめたんだ。紛争を、人々が死ぬのを止めたかったのに、政府や国際社会に都合よく引用され、虐殺事件の隠蔽に使われた。写真は、写真の外側の情報を伝えられなかった。
「どうぞ、よくお考え下さい。次は、そちらからのご連絡をお待ちしております」

「やっぱり食べちゃいましたか」
 真っ暗だ。頭には袋のようなものを被せられている。見えないのは構わないが、この臭いがたまらない。腐乱した動物の遺体を思い出す。息をすることをやめたくなる。後ろ手に枷を付けられ、こちらは姿勢をずらして、痛みを逃がした。
「自分の写真がついてたら警戒するのに、見ず知らずの人の話は鵜呑みにするんですね」
 声は助手席から聞こえるが、すぐ横にも人の気配。こちらは無言を通している。この二人の他には誰もいないようだ。自動運転らしい。
 アパートの前だった。開発不能地区は、今でも車が道を走っている。音もなく近づいてきた車に、突然引きずり込まれた。突然のことに驚いたという点を差し引いても、相当の力だった。〈ハーヴェイ〉からの帰り、出際にもう一本、炭酸水をもらって、飲みながら帰り着いたところだった。
 地上を走る車は、今となっては珍しい。金持ちは地上に用はないし、地上に縛り付けられている人間には、車を維持する金がない。結果として、地上車産業はドームの上を走る中空路が整備されるとともに廃れていった。ごはんといい車といい、昔の日本に迷い込んだような気になる。
「余裕ですね。自分の安全を信じているんですか、それとも、自分の命をあきらめてるんですか」
「あんた、メイドだろ」
「名前、憶えてくれたんですね」
「どこの国だ」
「やっぱり分かりますか」
「分からないやつがいるのか」
「あの写真に写ってたうちの一人だ、って言ったら信じます?」
「冗談だとしたら最悪だが――信じない理由もない」だとしたら、納得だ。復讐されてもしょうがない。俺は俺の写真を、目的内利用させることができなかったんだから。「あるいは、近親者か、友人かもしれないな。それなら納得だ。首を刎ねられても文句は言えない」
「袋被せて誘拐して首刎ねるなんて、一番ひどいステレオタイプじゃない。サイカワさんが最も嫌ったものでしょう」
「そうだな。済まない。だが、罪人は首を刎ねられるものだろう」
「罪人は、罪を赦されるものだ、っていう宗教観もあるみたいですよ」
 車はさっきから、ずっと下り坂を走っている。地下にでも向かっているのだろうか。トウキョウには、かつて広大な地下空間があったというのは、知識としてしか持っていない。地震の国がどうして地下を開発しようとしたのかも分からないし、開発済みの地下をどうして放棄したのかも知らない。
「そのわりに、随分と下り坂が続くんだな。天国は上にあるって聞いてるが。それとも、最近じゃ地獄でも罪を洗い流すサービスを始めたのか」
「地獄の王様にも世代交代があったってこと。今はもう閻魔大王の時代じゃないの。今は〈欠損の王〉の時代です」
 程なく車は減速し始め、何度か前進と後退を繰り返し、停車した。無言の隣人が無言のまま俺を引きずり下ろした。手の筋肉の厚みが獣じみている。俺も鍛え方を見直す必要がありそうだ。
「この袋、臭いんだけど、取ってくれないか」
 無駄だと思ったが、意外にもあっさり袋は取り除けられた。目の前には、俺よりも頭一つ背の高い男。両腕の筋肉が異常に発達している一方で、それを支える体の側はと言えば、骨と皮ばかりで飢餓民にしか見えない。俺の後ろに回ると、大きな手で器用に枷を解除していく。
「驚いてますね」
 振り返ると、助手席からメイドが姿を現した。
 息を飲んだ。言葉が喉まで出かかって、そのまま消えてしまった。かつて、結婚して子どもを育てたいと語った少女。その顔には二十年以上の時間がくっきりと彫り込まれていたが、あの時の愛らしさは変わらない。
「どうして泣いてるの。泣く理由なんてないでしょう」
「分からない」理由ならありすぎる。
「あの写真を撮った後も泣いてた」
「憶えてない」
「ロクモン、手伝って」
 男がトランクから何かを取り出し、メイドの足元にしゃがみ込む。
「私は足から始まった。ロクモンは体」何かを装着しているような金属音。「ありがとう、ロクモン。さあ、行きましょう」
 メイドの下半身は、銀色の金属の脚に代わっていた。どこまで、本物の脚が残っているのか、見て取ることはできない。静音設計なのかもしれないが、地面を踏みしめる音は、コンクリート打ちっぱなしのこの空間によく響く。
「〈欠損の王〉にも、これで我々の帰りが伝わるでしょう」冗談めかした言葉に、ロクモンが肩を震わせて答える。口が利けないのかもしれない。
 広い空洞だった。電気は通っているらしいが、壊れた電灯の方が多く、全体に薄暗い。しかも、残っている電灯もなぜか強いオレンジ色で、何もかもがオレンジ色にしか見えない。
 壁際にはぼろに身を包んだ人影がいくつも並んでいて、ほとんどは眠っているらしかったが、何人かはこちらに手を振り、メイドが愛想よく応じた。しかし、俺のことを見ると、目を逸らしたり、帽子を目深にかぶり直したりする。無理やり連れてこられたからと言って、皆に歓迎されているわけではないらしい。そして、その全てのやり取りが、オレンジ色だ。
 メイドはゆっくりとした足取りで、コンクリートの壁の前に立ち、両手をかざす。認証が完了し、壁が二つに割れた。金属めいた光沢の通路に白い光が反射している。メイドが足を踏み入れると、一層大きな音が響いた。
 導かれるままに通路に入ると、すぐにもう一枚扉が現れ、そちらは自動的に開いた。中に入ると巨大で四角い空間だった。不思議と肌寒い。
「地下倉庫か」
「よく来たな、〈奇食の王〉よ」薄暗がりから浮かび上がるように、背の低い人物が現れた。いや、背が低いわけではなく、車椅子に乗っているのだ。
「王ではない」
「王であるか否かを、自分で決めることはできない」折り重なった皺の奥で、黒い瞳が光る。「私がそうであるように」
「〈欠損の王〉」その名を口にしながら、光の下に進み出た男の体を見る。膝の所にストールが掛けられているが、その下が空洞であることはすぐにわかった。シャツの袖を通した左腕も、見るからに機械だ。
「私が〈王〉と呼ばれるのも、私の自由にはならないのだ。さて、サイカワ・ケンエ殿、ここがどういった施設か、想像がつくかな」
 言われて首を巡らす。高い天井、端が見えないほどの巨大空間――それでいて、品物を出し入れするための通路はそれほど多いわけじゃない。ここから見える範囲でも、出入口は四箇所しかない。
「倉庫だが、あまりにも大きい。だが、物流センターだとすると、交通の便が悪い。だとすれば、残るは備蓄のための倉庫しかない」
「素晴らしい。ここは、かつてツキジと呼ばれていた場所の真下に当たる。ツキジでは、一日当たり三千トン以上の、生の食料が売買されていた。〈食廃絶〉よりもずっと以前の話だ」
 〈欠損の王〉は語りながら、倉庫を奥へと進んでいく。メイドに促され、後をついていく。
「今のこの地下世界では、五万人分の食料を生産するのが限度だ。この人数を超えれば、餓死者が出るか殺し合いが起きる。現在の推定人口は四万五千。このまま地下への人口流入が続けば、あと二年もせずに臨界点を越える」
「ちょっと待ってくれ。言っている意味が分からない」
「どうして私がここにいるか、分かる?」メイドの強い口調が倉庫の中に響きわたる。ロクモンが悲しげにうめいた。「サイカワ、あなたに会いに来たとでも思った? 私が昔、あなたに何の話をしたか憶えてる?」
「忘れるはずがない。昔将来を誓い合った相手がいて、その彼を探し出すと」
「ここにいる三万人以上が外国人労働者だ。そのほとんどが、難民として日本にやってきた」〈王〉が溜め息を吐いた。コンクリートの通路に座り込んでいた、オレンジ色に染まった顔のいくつかが思い出される。確かに、何人かは日本人離れした顔の作りをしていた。
 メイドの足音が倉庫の奥へと消えていく。一緒にロクモンの足音も。写真のフレームの外では、どんなことだって起こり得る。
「ここには食料がある。それを得るための仕事もある。上の都市を支えるインフラ、特に電気・ガス・水道を供給するラインの点検整備には、人の手が欠かせない。しかし、上の人間にはもうそんな仕事を請け負おうという者などいない。だから、ここにいる我々がそれを請け負う」
「それなら、あなたも難民?」
「いや、私は日本で生まれ育った。ただ、〈食廃絶〉の後にもETの支給を受けられなかった貧困層だというだけの話だ」
「ちょっと待ってくれ。ETが普及したから〈食廃絶戦争〉は終結したんじゃないのか」
「全員に行きわたるインフラなど、歴史上存在した試しはないよ」
「いや、食糧が無くなったからETが普及したんだ。ETがない人間は、何を食べて生きてきたっていうんだ」
「食糧は土から作るものだ。もちろん知っての通り、度重なる原発事故と、その後処理の杜撰さによって、日本の土壌は食べ物を育てられる場ではなくなった。それでも、作物は育つんだ。土と人工光を使えば、植物は強く根を張る。ただ、そうやって生産された食糧は私たちの命を支えながら奪う、というだけの話だ」
 〈欠損の王〉がストールをめくってみせる。メイドから送られてきた写真そのものだ。
「私の脚は腐り続けている。ゆっくりと、少しずつ。五年前は膝があった。今はない。あと五年すれば、腰に達するかもしれない。その前に死ぬかもしれない」陰に沈む眼差しがメイドとロクモンを追う。「彼らが、皆が、私を死なせてくれないだろうがな。普通は、壊死が出始めたところで、安楽死をさせる。仕事をすることができなくなれば、ここでは生きる価値がないからだ。そういった者を養えるほどの余裕はない。彼らはここの土に還る。それで納得した者しか受け入れないし、ここに来る者には、そんな生ですら幸せだと思える者しかいない。しかし、私は上との折衝がある。だから、壊死の進行を抑える薬を服用しながら、引き延ばした生を生きている――生きさせられている」
 〈欠損の王〉の肩が弱々しく落ちた。〈王〉と祀り上げられたところで、彼もまた無力な人間の一人。それでも、目の前にいる人間にしてやれることをしている。
「〈ハーヴェイ〉のごはんは、ここから流れたということか」
「あのシノダという男は、〈日本第一〉とかいう組織の幹部だ。私たちの中の誰かが接触し、うまく取り入って横流ししたのだろう。なんせ四万五千だ。不満分子がない方が不思議だ。彼らは、汚染された食糧によって、上の奴らに一泡吹かせようと考えている」ゆっくりとうなだれ、首を振る。「相互に不可侵、というのが政府と取り交わした、ここを維持する条件なんだよ。遠からず犯人は特定するし、今後も取り締まり続ける。――ああ、サイカワ殿も食べたのだったな。一口や二口、口にしたぐらいでは何も起きないよ。人間の体の免疫機能はそんなに簡単に破れない。しかし、その先は分からない。食糧テロとでも名付けられるんだろうな」
 食糧テロ――シノダは言った。ごはんを、アンダーグラウンドから流通させていくと。食糧を横流しした労働者の不満はもっともだが、その矛先は社会の上層に君臨している富裕層ではなく、その下で食い物にされている若者に向かう。――メイのような。
「上からそれをつぶしてくれっていうのか。しかし、それではここの状況は何も変わらない」
「私は今の状況を維持できれば、それでいいと思っているよ。それが〈欠損の王〉としての責務だと。しかし、いつか〈王〉は死ぬ。次の王が生まれる。その時にも、同じ状況を維持し続けられるとは限らない。攻めに転じる必要も出てくるかもしれない。その瞬間を逃さないようにすることが重要だ。そのための協力者も逃さないようにしなくては」〈王〉の目が、鈍い光を放つ。首筋から汗が噴き出した。今、俺は鉛のように重い言葉を渡されている。「――そう、少なくともメイドはあなたに可能性を感じたらしい」
「次の王――それは〈女王〉だと」
「分からないな。それは皆が決めることだ。しかし、少なくとも彼女は、あなたに撮影されたことで――自分たちを撮影して回るサイカワ殿を見たことで、自分に与えられた枠を超える意志を持ったのだ。超えられるかどうかじゃない。重要なのは意志を持つことだ。これこそが、王たる者の条件だ、と私は思っている。なあ、〈奇食の王〉よ」
 機械の足音が戻ってくる。空っぽになったフィルムケースの中身が、きちんと人の心に届いていた。部屋に並んだケースは無駄ではなかった。
「サイカワさん。カメラ、まだ持ってますか」
「なんて質問だ。俺はジャーナリストだぞ」
 メイドが何かの箱を放り投げた。手に取って確かめると、フィルムだった。
「この奥に、在庫がだぶついてるんですけど、処分するの、手伝ってくれませんか」
「何か超えたいものがあるらしいじゃないか」
「そうですね。さしあたり、トウキョウのあちこちを覆ってるドームでも超えてみようかな」
 メイドの表情に、あの日、写真に収めた未来が光っている。今、目の前で、生きて希望を実現しようとしている。
「南の島にいい被写体が現れる、っていう情報があるんだ」
「かわいい女の子でもいるんですか」
「いや、百十歳を超えた爺さんだ」

文字数:22863

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