電脳に餓鬼はふたたび死ぬ

梗 概

電脳に餓鬼はふたたび死ぬ

 仮想通貨が普及し、数百の通貨ネットワークが張り巡らされた後――同時多発地震によるマイナー通貨のデータ損失を発端として、各種通貨の相場が乱高下。メジャー通貨も含めてカオス化し、経済は機能停止。人は物々交換で生活するようになる。
 日に数百の表計算ファイルをさばきレガシーシステムの世話をしていた銀行行内SEの主人公は、リストラされ、地方の実家に戻るものの、家での農業手伝いは失敗ばかり。プライドは木っ端みじん、年の離れた妹はイイコっぽい正論ばっかりうるさい。豆腐に発情してやり過ごす日々だった。
 だが、最近物々交換支援オンラインサービスが流行だと聞き、手数料収益にチャンスを見いだす。実家の畑から勝手に取ったイモと交換で、近くに住む「パソ通ババア」にサーバーを譲ってもらう。

 主人公は、優位性を打ち出すため、物々交換の対象を「情報」に広げた。
 「価値」=「情報が正しかったときのメリット」×「正しい確率」-「間違っていたときのデメリット」×「間違っている確率」(*)――と、考え。

 開設サービスはヒット。手数料として、大根や石油や詩など送られてきた。
 主人公は、取引の期待齟齬を防ぐための「段階的内容開示取引機能」などを取り入れシステムを発展させる。しかし利用者数が急に減る。オークションサービスが現れて人気を集めたのだ。物品、情報、サービスすべてが取引対象で、主人公の孤独に開発した機能もすべて入っている。

 面白くない主人公は、妹の名義でアカウントを取る。情報として「このサービスはつぶれる」といった批判や、主催者の悪評を売る。不安をついたものは高く売れた。
 主人公は、情報の価値(*)に「見出しを聞いたときの感情的価値」が追加されるな、と思う。嘘の情報を売りまくる。次第に、出品者評価サービスで、主人公を糾弾し憤る動き、憤りを冷笑する動き、むしろ主人公を信奉する動きらが現れる。騙されて肉親が自殺したと怒鳴る者もいたが、それ自体誤報だろうと笑い飛ばされる。

 ある日、「嘘つきの正体」という見出しの情報が出品される。説明欄には主人公が売った嘘の詳細が複数並ぶ。
 入札は、複数段階制だ。段階が進むと開示情報が増え、落札者数が絞り込まれる。主人公は不安を覚えつつ第一段階入札し、次段階落札者候補の枠を得る。開示された情報は「嘘つき」のぼかし入り写真。ぼやけていても妹の顔だと認識する。次の段階は名前らしい。既に希望者が高価値品を投入している。
 主人公は動揺し、迷った。嘘か本当かも分からない。だが落札し通さなければ誰かが最終的な情報を取るかもしれない。仮に落札できても途中段階の情報は他に漏れ、出品者の正体は分からずじまい。サービス提供側にいた者の悪意なのか――。
 懊悩の末、主人公は妹に謝って警察に通報かつ自首した。過熱していたオークションサービスは閉鎖された。

 主人公は懲罰労働を経て仏門に入る。
 ――もうこりごりだ。精進料理で豆腐と生きよう。
 寺では、経済の観念も不要で、人間たちの混乱の中にて無償の互恵社会を築いていたAIたちが僧の中核となっていた。
 そんなある日、境内を掃除していた主人公は、小さく薄い銀色の円板を拾い、日に透かすと、「1」と書かれたそれを、衣の袖にそっと入れた。

文字数:1343

内容に関するアピール

 序盤では、社会が変わり「役に立たない」とされる境遇に陥った主人公のふがいない暮らしを書きます。この時点で主人公にとっての敵(対立相手)は親と妹ですが、主人公については、共感されるというより、「ろくでもないな」と、肩の力を抜いて動きを追ってくれるような造形を目指したいと思います。(暫定:ヒャッハー系の女性)
 全体は、経済が停止してから再始動することについての思考実験でもあります。
 地域ベース/オンラインベースでの互助コミュニティ発足、インフラの再整備、労働の問い直しといった大きな流れは背景に、物々交換データから大まかな相場を導くシステムの誕生などを横に置き、主人公らの小さな動きを切り取って、スピーディに進行させることを考えています。
 フェイクニュース・Fintech等の要素を用いながら、感情や欲望がシステムを動かしていく流れを喜怒哀楽を交えて描き、「懲りてもまたしでかしてしまうだろう」と予感させるような喜劇を表現したいと思います。

文字数:421

電脳に餓鬼はふたたび死ぬ

 午後三時。人よりなめらかな運転が、だだっぴろい真夏の緑へ切り込むようにタクシーの筐体を運ぶ。後部座席の亥本朱実いのもと・あけみは目を覆う。産道を逆流するようでめまいがする。帰りたくもなかった産道を、奥へ、奥へ。
「お客さん?」
「いえ、大丈夫です」
 朱実は手を振り、呼びかけてきた運転監督者とバックミラー上で目を合わせて安心させた。完全自動運転タクシーで予期されない事故があって以来、監督者の乗車は義務づけられている。いなくたってほとんど事故は生じない一方、いざとなると操縦しても間に合わないことばかりだろうに、責任を取るために置かれた席だ。人工知能のオンオフ操作以外は車に運ばれるだけの仕事時間。その対価として受け取る雀の涙ばかりの報酬……
 子供のころの朱実は、絶対にそういう「寂しい」立場にはなりたくなかった。だから上京し、情報科学をやれる大学に行き、仕事を見つけた。けれど今や、忌まわしい住所が、車内設置型のカーナビゲーションウィンドウの目的地欄に表示されていて、朱実のあがきの無駄と怠惰への罰を思い知らされる。そして窓には、田、畑、木、沼。記憶を掘り起こす田、畑、木、沼、変わり栄えのしない田、畑、木、沼、くそったれな田、畑、倉庫、……、田、畑。
「お客さん、この辺りですかね?」
「ええ」
「お支払いを」
 朱実はうなずき、財布を取り出す。就職三年目で気張って買った長財布には一万円札が溜まっている。一枚で足りるだろう。仕事のむなしさに同情する分も込めて、二枚……とお札をつまみ、ぐいと差し出す。だが、
「お客さん、うち、扱ってないんで」
 運転監督者は太い首を横に振り、サイドガラスを指さす。長方形のステッカーに、
 ――「お支払いは食料品のみ 野菜歓迎」
「これ、乗るときも見たでしょ」
「あ……でしたっけ」
 朱実は心中舌打ちした。
 朱実が引き払った東京のアパートから、このタクシーを拾った駅までは、徒歩と鉄道だけで行けた。鉄道運営者は準公的な法人だったため、法人の設定している交通系ポイントだけでなく日本円も支払いで使えたけれど、個人タクシーがそうする必要はない。
 これは昔から存在していた「契約自由」の原則による。取引の前に当事者が自由に支払い手段を設定できるのだ。もし設定していなければ、法定通貨たる日本円の強制通用力により、朱実の「円を使いたい」という主張を相手が呑まなくてはならないのだけれど。
 ……とはいえ、一ヶ月前までは、このタクシーでもおそらく円が使えただろう。ほかの「仮想通貨」――すなわち、特定の国が価値を保証してはいない、法定通貨ではない通貨――だって使えただろう。数百の法定通貨と仮想通貨が一緒にグローバル為替ネットワーク(GEN)を形成し、すべてがタクシーのオーナーにとって信用できる価値を持っていた、一ヶ月前までは。
 一ヶ月前までの不文律が染みついた朱実の体は、タクシーに急いで乗り込んだとき、支払い方法ステッカーを見落とすなどしてしまったのだ。
 ――まったく、乗るとき確認してくれたっていいじゃない。契約無効、主張できない?
 考えながら、朱実はショルダーバッグをがさごそする。
「服はどう?」
 勤め先の銀行で使っていた服だ。スーツケースに収まらず、ショルダーに入れていた。
「足りてる。おれはうちが町なもんでな、手でちゃちゃっと作っちゃうのは近所同士で融通利くんだ。足りないのは飯だよ。どこも品薄で配給も足らん。お客さん、こんなとこまで来るんだから、畑とか作ってる知り合い目当てなんじゃないかと期待してたんだけどねえ」
 運転監督者の両眼がじろりとミラーを見据える。いきなり強い立場になりやがってと朱実は奥歯を噛んだ。
「そんなに足りないなら、運転なんてやめて種でも苗でも育てりゃいいじゃない」
「生業をすぐ変えられるってんなら苦労しないさ。みんな着いてけなくて職だって追われてんだろ」
 あんたもだろ、と足下を見ているような物言い。頬が熱くなる。そのとき、視界の端から妙に明るい色が走ってきた。
「――ねえ! お姉ちゃん?」
 げ。
「やっぱりお姉ちゃんだ! お帰り!」
 畑を背後に走ってきたのは、白い半袖シャツの両腕で麻袋を抱えた二十歳くらい――正確な歳を朱実は記憶しないようにしていた――の妹、亥本玄乃くろの。袋から白菜がのぞいている。
「あんた、なんで。何時に帰るなんて知らせてないし位置検索も許可してな――」
「気になって見回ってたんだよ。だってお姉ちゃんが帰省するなんていつぶり? 4 年前の 12 月 29 日ぶりだよね?」
 と運転監督者が窓を開ける。
「妹さんかい? つやのいい葉っぱだねぇ。実はさ」
「あ、困ってるんですか? どうぞどうぞ。今朝共同寄付に出した分の残りなんですよ。こんな時期ですから、みんな助け合わないと」
 玄乃は袋を持ち上げる。なにかを察しているようなのに、言及しない。なんっつー作為的なやつ、と思ったのは朱実だけのようで、運転監督者は破顔して、日焼けした腕で袋をまるごと受け取った。
 白菜を積んだタクシーは、朱実の下車後、
「よくできた妹さんだねぇ」
 とウィンクした置物を乗せて去った。
 ――姉にとって、「できた妹」ほど、居心地の悪いものはないんだよ。
 朱実は全世界の「姉」代弁者かのように頭で愚痴り、傷んだパンプスで小石を蹴った。業界が保守的なもので履いていた前時代的な靴の爪先がぐにっと抉れる。
「大変だよねぇ。世の中、こうなっちゃって」
 玄乃は首をかしげる。中高生の少女のような仕草が似合うあどけなさは、丸っこい目鼻立ちだけでなく、田舎の時間の緩慢さのせいだろうかと思われた。刺々しい朱実と対照的な、六つだか八つだか歳の離れた妹。それが玄乃。
「そうだね」
 朱実は溜息をつくと、玄乃が弾んだ足取りで導く先、畑の向こうの平屋へと重いスーツケースを進めていった。

 久々に帰宅した不肖の長女を両親は温かく迎えましたとさ。
 とでも言えば道徳的だろう、穏やか無難な、夕食だった。
「あんたさ、ここでゆっくりすりゃあいいんだよ」
 母は、どっぷりと朱実に煮物をついでそう言った。なにごとにも采配を振るおうとする貫禄が太い腕から見えるようだ。大げんかして別れたことなど忘れているんだろうか。忘れているふりなんだろうか。
「そだそだ」
 白髪の量が減って頭皮の透ける父もうなずく。
「お姉ちゃん、一緒に暮らせるんだよ、ゆっくりしようよ」
「ゆっくりなんて……」
「まあ仕事は手伝ってもらうけどね」
 母が大きな口で言って、父が笑って、妹が肩を叩いてくる。朱実はむずむずする皮膚をひっかいた。
 明るくまとまった三人の会話を聞いていると、ここに自分の居場所などないという気持ちが高まる。彼らはたまに朱実のことに言及するが、急所、つまり職を失うに至った経緯には触れてこなかった。都内での生活や文化についても尋ねてなどこなかった。三人の世界はずっと、ここでの自給自足暮らしにて完結していて、朱実はふらりと系外へ出て戻ってきた小さな彗星みたいなものなのだろう。ご近所の話と気象の話、たまに健康法や釣りの話。それを延々聞いていると、己の錆にも気づかず時の針を一日の中で回し続ける古時計を見ているようで、疲労が増した。
 食後、朱実は家族共用の寝室に引かれていた布団に臥した。が、遅れてきた母と父のいびきと熱気に目が覚め、布団を引き上げ、携帯端末の明かりを頼りに離れへ引っ越した。ようやく落ち着いて眠れた。

 翌、早朝。畑の母から穏やかさは消えていた。
「朱実、鍬使うときはもっと腰入れなさい。土と仲良くするんだよ」
「はいはい。ってかそもそもなんで二十一世紀も中年って時代で手作業なんてするわけ? 土ならす機械くらいあるでしょ。取ってくりゃいいじゃない」
「あんたさ、なんでもかんでも機械機械って。また罰が当たるわよ。人がね、自分の手でものを作って、見つめて、感じることを忘れてさ、株だかなんだか、バカみたいな数字で遊んでたせいで」
「話そらさないでよ。私が聞いてんのは、うちが畑仕事を手でやってる合理的な理由で――」
 朱実が鍬を振り上げ一歩踏み出すと、後ろから妹、玄乃の小さな声。
「お姉ちゃん、踏んだ」
 は、と、作業靴をあげれば、液溜まり。「なにこの白いぐじゅぐじゅ」
「お姉ちゃんが踏む前はぐじゅぐじゅじゃなかった虫さんの子供だよ。種名はたぶん――」
「気づいてんなら言いなさいよ、踏む前に!」
「ごめん」
 しゅんとうなだれる、妹、玄乃。鍬をぶつけてやりたい。
「いいえ朱実、あんたのせいじゃない、ほら。冥福を願いな」
「冥福ってなによ。死後の世界とか信じてるわけ?」
「得体も知れん機械らを信じるよりいいと思うけどねえ。人工知能だの仮想通貨だの。今じゃうじゃうじゃしてるって、どうかしてるね。ああ崩れたんだっけか?」
 にらむ朱実の横で、妹、代わりに手を合わせる。母、そっちを見て穏やかになる。こっちにはあきれた目を投げて背中を向けて作業に戻る。
 ――古っ。気色悪っ。
 朱実は鬱憤を鍬にのせて振りかぶる。畜生畜生虫でも何でも殺してやる知るもんか。だがこの積極的気概、空回り。勢い余って暴走した遠心力は制御不能、オフィスワークで痛み持ちの腰は忍耐力なく浮遊を歓迎、朱実の顔面は事態をつかめぬ不思議さから驚愕へ遷移、さらに長い長い恐怖の時を経て、粒子のさんざめく大いなる土に。
 走馬燈が走ったように感じた。
 絶叫の衝動は土中で口を開くことの嫌悪と対消滅した。
 朱実はそのまま転げ回った。入っちゃった。土入っちゃった。鼻の中に入っちゃった。虫の汁、手汗、卵、ばいきん、入っちゃった。
「全くあんた、なに赤ん坊みたいに転がってんのよ。さっきの威勢はどうしたの」
「お姉ちゃん疲れてるんだよ。東京から戻って、ほら、だいぶ、違うもん」
「そうねえ。昔から口ばっかだったけど、本当、もう」
 ――朱実は口をつぐむことで強がるだけだ。地べたで泥だらけの阿呆が三ヶ月前には都内の銀行でそれなりの収入と役目を持っていたなどと反論するだけもっと阿呆である。
 亥本朱実の運命は死んだ。それも通貨が死んだから。

 ……原因は一ヶ月前の、世界同時多発地震だった。ある仮想通貨のデータを保存しているサーバーがすべて損傷し、通貨情報が消失したのだ。この通貨、近頃利用量が減少し、ゆえにデータ・バックアップ先のサーバー数を削減していたのが災いした。
 通貨データ損失は、数百通貨間の相場をリアルタイムで決定するグローバル為替ネットワーク(GEN)に打撃を与えた。
 突然のデータ非存在NULLは為替相場をカオス化させた。通貨組み合わせ相場を表す数万のグラフはトランポリンのように上下し続けた。
 バグでも潜んでいたのだろうか。しかし――エンジニアリング人工知能がメインとなって編まれた巨大なプログラムを走査する営みは難しく、世論は相場巻き戻しを主張した。ただしこうなると、いつの時点に巻き戻すかが問題となる。地震発生時か、五秒後か、十秒後か、一日後か……自分たちの通貨に有利になるように、国や企業の主導者たちは侃々諤々の議論を続けた。何日も、何日も。
 この間に、通貨の支配領域は分裂した。巨大企業は、自分たちの推奨通貨だけを支払い手段に設定したサービスを提供する。競争先がないもので、でたらめだ。
 そしていっこうに統合しない議論に、個々人は「やってられるか」と愛想を尽かす。通貨は信用ならない。自分たちで取引しよう――と。かくして物々交換が隆盛する。
 困ったのは朱実のような立場だ。通貨への不信から、預金が大量に引き出され、資本を失った銀行はぐらぐら。行内システムエンジニアだった朱実は解雇された。
 その日から、朱実は自らの「無価値」を思い知らされることになった。

「お姉ちゃんさ」
「うるさい」
「気落ちしないでよ」
「うるさい」
 ドラム缶風呂で体を洗ってから、朱実は丸一日離れに引きこもっていた。玄乃がご飯を運んできて、そのたび、黎明期 Chatbot のように定型的励まし文句を口する。惨めさ増すからやめてほしい。
「お姉ちゃんさ」
「うるさいっての」
「将来、やりたいこととか、あったんじゃないの」
「……はい?」
「私たちとおんなじ暮らしじゃ、満たされなくて。何かやりたくて。それで東京行ったんだよね。勉強して、……」
「……やめてよ。何の役にも立たなかったこと、いまさら」
 唇が引きつるのを自覚する。たしかに十代の朱実は、縄文時代のように見えた周囲の暮らしが嫌で、魔術のような情報技術の創始者たちに憧れて、志学した。
 だが入学してみれば、より情熱を持った者に圧されて、対抗するでもなく「すごーい」と口にする人形に成り下がって、就職活動では前世紀みたいなオンナノコ仮面の通じる安定志向の業界へ逃げ、採用後は業界の中でも云十年前に開発されたレガシーシステムの保守担当。
 仕事を放り出されて思い知ったのは、職場を離れても通用する先進技術を持たず、三十手前にして石器エンジニアと化していた自分自身だ。
「玄乃にはわかんないでしょ。そーゆー挫折とか」
「あのさ。私じゃ、たしかに、わかんないから。牧野さんに、相談いったら」
「え……まだ生きてんの、『パソ通ババア』」
 瞬いた玄乃。
「ときどき、集会所で、碁を打ってる。強いんだよ」
「あんた、碁なんかやってんの。相変わらずじじばば向けにあざといやつね」
 話す気失せた。玄乃を追い出し、机上のゴーグルデバイスをつけて寝っ転がる。
 ボタンスイッチオンでたちまち三次元の荒野が現れる。感情検知して緑で癒やそうとしてくるのを停止。野の上にはアプリケーション・サービスが、街灯のように並んでいる。日程管理ツール、通信ツール、短期間情報共有サービス。朱実は声で情報共有サービス――「泡小僧バブルキッズ」を起動して、トピックを表すバブルの中を視線で泳ぎ、金色に光る大きな泡に焦点を合わせる。決定とつぶやけばズームインして呑み込まれる。
 泡の中にはまた小泡が数多あり、つつけば情報テキストや動画が再生される。ただし保つのは一日きりだ。
 通貨破綻後、しばらくここにあふれかえった悲観的な情報や怨嗟の泡は、朱実の傷心に「大丈夫だ」と言ってくれているかのようだった。今の朱実は、自分の苛立ちを先取りする、すさんだ罵り合いでも消費したい。できれば一方が他方をことごとく打ち破るような。
 朱実は、外側の泡の膜を見た。ここには、小泡の時点で人気を集めた情報が複写され、平均一月半程度保つ。選び抜かれ純化された喧嘩を探すはずだったのに、
「……物々交換支持サービスがチャンス?」
 目が留まった。
 その記事は言う。草の根的に広がっている個人間の物々交換を、遠方にいる者同士でも行いやすくするためのサービスを作ってみた。交換者から手数料として物品を多少もらうんだ。これが意外とヒットした。今がチャンスだぞ。
 その手の誘いを生まれてこのかた本気にしたことがなかった朱実だが、
「手数料収益かぁ……そうすりゃ、見返して……」
 灰色の炎が舌を揺らすのを感じた。でも、サービスを設置するためのサーバーを立てるには相応の土台がいるだろう。朱実のゴーグル型マシンではハードウェアとして貧弱だし、日常使用マシンとサーバーを一緒にするのもよくない。なら、どこかのネットワークに場所を間借りさせてもらうか、あるいは
「ババア、か」

 記憶している牧野京子は「魔女」だった。
 朱実が小学生だったあるとき集落の外れに越してきて、機械修理を請け負いはじめた牧野は、「サイバー犯罪をしでかして、警察の目から逃れるために、こんな田舎までやってきたんだ」「人体改造してるって話だぜ」と子供らのささやく噂に真実みを与える雰囲気をしていた。やぶにらみの蒼い眼は、大陸の血を推測させるより、人工眼球のような硬さで、細く高い鼻梁は昆虫の外骨格めいて、深い法令線と乾燥し青ざめた唇に感じる齢とは、ミスマッチなつややかさだった。色気を削ぎ落とし、家族はなく、おまけによそ者。この三点で「触れたら危ない」魔女のしるしを、こぼれ髪の平たい額から認めるに足る。
 餓鬼どもはよく遠巻きに、牧野が住む納屋を囲み、火の消えた花火や蛙の死骸を投げ込んで、「パソ通ババア」と小声で歌った。その異称は、だれが言い始めたか、牧野はそれこそインターネットが家庭へ普及する以前に盛んだった「パソコン通信」と呼ばれる情報通信時代からの生え抜きの魔女で、納屋には同じ名前の雑誌がずらりそろっているという話によった。
 朱実は小学三年の夏に、この話が本当かどうしても確かめたくなり、夜中、魔女の土地に乗り込んだ。針金を手に納屋の前に立ったとたん、扉が開き、「もっといい鍵開け道具を使いな」と明かりの中へ誘われ、解錠道具と麻婆豆腐を振る舞われた。朱実は辛さに「クソババア」と泣きわめいた。……以来、時々牧野の手伝いをして、魔女の手技の一部……機会と情報の術を学んだ。玄乃に言わせれば「なついた」らしい。
 朱実は当時の記憶を頼りに手動自転車を走らせ、柵で囲まれた納屋に着いた。周囲の雑草は刈られているが、壁は色がはげてみすぼらしい。自転車かごから重い袋を取って戸口を叩くと、心臓が五度鳴ってから、戸が開いた。
 古い凹レンズでも間に入ったかと思うほど姿は小さく薄汚れていたが、あの人だ。
「朱実か」
「サーバー用のマシン、売って」
「古びたもんばっかだがな」
 牧野京子は昔のように肩をすくめる。誘われた納屋の内側は博物館のようだった。ずらり並ぶケースに、六、七十年前から二、三十年前までの機材が陳列されている。スチール本棚には雑誌『パソコン通信』も、ほかの休刊になった雑誌も、年代順に収まっている。牧野が奥とのしきりのカーテンを上げた。
「これって」
「ああ。ずいぶん前に『一般向け量子コンピューター』として売られたもんさ。家庭用サイズで云々ってな」
「あの、私が五歳の時の、詐欺事件の?」
「ああ。私は引っかかった側さ」牧野は笑う。「嘘だろうと思ったけど、もし本当だったらって思っちまったんだよ。残してんのは、戒めと、夢の跡さ。幻を買った後悔はないが、足の洗いどきを悟ったさ。……で、あんたにやるのは横のもんだよ」
 こぢんまりした、ブラックの筐体。朱実は袋からイモを出す。
「いらんよ。戻りたてのあんたから、洗ってもないような。畑仕事なんて柄じゃないだろに」
 腹が鳴る。決まり悪い瞬間を崩すように、牧野は声を立てて笑った。「ああ、腹が減ってたのさ」道化のさびしさが、肉の落ちた肩から、洗われていない服以上に、臭った。朱実は「ええ。盗んだの」と被せた。

 イモの代わりにマシンを乗せて帰宅すれば、真っ昼間の親は畑に出ている。離れには玄乃の運んできた食事が残っていた。
 高原地域とはいえ夏の暑さ、調理された葉物も肉もへたばりかけ。作ったのは、引きこもった朱実を咎めもしない親なのか玄乃なのか。彼らの手つきを思うと、朱実について会話が交わされたかどうかを思うと、吐き気がしてくる。「まだ出てこないのかしら。しょうがない子ね」「仕方ないよ、お姉ちゃんは」――慢性的な優しさがどれだけむかつくか、尖った自尊心の持ち合わせもない玄乃は気づくまい。彼らの顔が、小鉢でぐにゃりとした豆腐の上に映る。こんな事態でも人様のために整形されている、偶像。昔からひそかに豆腐は苦手だった。味が嫌いなのではなく、とらえどころのなさ、澄ました格好が、苦手だった。苦手だからこそ好きだって顔をしていた。親はほんとうのところなど考えていなかったんだろう、毎回毎回、朱実の皿には大きな切れか大盛りを渡した。
 朱実は拳で豆腐を潰した。胸がしゅっとして、蝋燭が溶けるように、腹の奥が熱くなる。哀れな奴。大豆を混ぜ合わせたフランケンシュタインのくせに、綺麗なツラを保とうとして……あんたの本性さらしなさいよ。加工食品。ばらばらのあんたに意志はないの? あんたは私。やってやりなさいよ。
 朱実は小鉢をすする。
 ――やってやる。見返してやる。居候のお代以上に返してやる。
 ――でも先行サービスはある。ならどうすりゃいいの? 差別化? ターゲットを? 機能を?
 豆腐は嚥下運動する舌の上で弾み、白い匂いを鼻腔へ送風する。冷静だった。……ごめんあんたは私じゃない。あんたは我慢強くて諦めない。朱実は豆腐を見直し、口蓋に残った欠片をゆっくり舐める。心が穏やかになると、豆腐は大変美味だった。ペーストとなり消えていったなめらかな肌も優しくて、朱実はわずかに後悔した。玄乃に強く当たりすぎたかも。パソ通ババアのことを思い出させてくれたし。……でも喧嘩したおかげで、あのくだんない泡でも役立つトピックに気づいたなら――。
 朱実は豆腐全部を喉にぶちまけ、残りの皿を早食いすると、手を洗って、ババアのマシンの配線を始めた。
 そう、情報だ。情報との交換だ――情報には価値がつけられる。物々交換だけじゃなくて、情報と物との交換を支援するんだ。情報を出品して物で買う。出品者は「見出し」部分を呈示しておいて、契約成立後に買い手と本文部分を受け渡しする。そしてサービス運営者は買い手から8%程度の手数料をもらう。
 自然すぎて、誰かが思いついていても良さそうだった。古来より情報屋は存在するのだから。朱実は入出力装置に使うゴーグルをはめてマシンを起動し、サーバー環境自動構築プログラムと同時に、概要の被るサービスがないかチェックするためのプログラムをネットワークから拾って走らせ、いても立ってもいられず、システム構想をノートに殴り書きしはじめる。プログラムが示す「重複可能性」の針が5%を切ったときには、要件リストと画面案はざっくりできていた。朱実は作成に舵を切った。
 流行の三次元ブロック組立型編集に応じた統合開発環境(IDE)を突っ込み、オープンソースのライブラリをあさり、IDEの開発空間に注ぎ込む。必要な物をつまみあげて構想の幹にあてはめる。根っこからプログラムを組むなんて何年ぶりだろう? ブロックの寄せ木で、積み上げで、塔のように、城のように、橋のように、アルゴリズムを実現する快感が脳を突く。建築するほどに見つかる改良、改良、改良の可能性は報酬系を加熱して、業務では辟易していたバグ探しすらひとり泥棒VS警察を演じる気分。快楽物質の要請スピードに、ゴーグル上の視線・音声入力だけではじれったくなり、電力食いかつ丸裸にされる心地だからオフにしていた脳波入力を最高感度に設定、頻脈と血圧上昇を告げるリストバンドは放り投げ、両手両足用物理キーボードも引っ張りだし、朱実は全力を開発空間に放出する。終えてゴーグルを外したときには、見覚えのないお膳が、目の前にあった。乗っているぜんぶ奇妙な工芸品に見えて、首をかしげ、最終バグチェックに入った。
 プログラムは改めてみると粗雑だったが、愛おしくあった。ドキュメンテーション支援サービスの手を借りてユーザーズ・ガイドを吐き出し、運送の手間の観点から、日本在住者向けだと付記しておく――今時自動翻訳しないデバイスを使う人なんてまずないだろうから、明記しておくのがマナーだ。
 ついにドメインを取り、日本向けとはいえ全世界に公開する瞬間、どきんとした。有力サービスにリンクを依頼し、泡小僧バブルキッズの例の泡に作成を報告する段になると、興奮しっぱなしで頭痛がするほどだった。すべて終え、羊を数えて寝た。
 目覚めたのは日の出より早く、痺れるような、見たいような見たくないような思いで、アクセス解析する。
 ――来てる。
 売買成立まで、してる!
 手数料として贈られる予定のレンコンひとかけら画像が輝くように見えた。朱実のサービスは誰かに通じ、誰かがこれを利用したのだ。
 朱実はようやく朝日を浴びた。堂々たる気分で浴びる朝日は、一月ぶり、ううん、七八年ぶりのようだった。
 また眠り、夕刻チェックすると、二件入っていた。朱実は腰痛も心地よい体を運んで家の棟に出た。配膳中の母親が皿を割り、配分中の父親が床にお玉を落とした。玄乃が手際よく片付け、晩ご飯が始まる。
「お姉ちゃん、食欲戻ったの」
「そうね」
 食卓わきにどかされた空のお膳にやましさが一瞬湧いたが、手首に振動が届く。サービス利用者からの連絡だ。読んで朱実は席を立った。
「もっとやんないと」
「……え?」
「やることあんの」
「あんたね、ちょっと団らんってものを」
 続く母の声はノイズだ。朱実はリストバンドに流れた通知を再読し、色の剥げた眉を寄せる。
 ――<運営、どうにかしろ。買ったもんが大嘘だった>
 ――<肥料情報って名前しといて、108 個の言語の「うんこ」「しっこ」で埋まった 12,000 字相手に、人生で一番よくできたスイカを何十個はたいたってんだ>
 確かに頭の痛い話だ、と朱実は無機物的に思う。情報を扱う以上情報の信頼性や価値評価は問題だ。構築時に意識はしていたが、早急の対処を要するときたか。
 売り手と買い手、相互の認識をすりあわせるために、多段階の取引制度を導入しよう――。つまり、売り手は情報を段階的に開示していくのだ。それに合わせて、買い手の方も、代価を段階的に提示する。(情報開示→代価提示→合意)→(情報開示→代価提示→合意)……のステップを、第一段階の(「見出し」開示→代価提示)から進めていく。どこかで合意に至らなくなれば、それまでに開示された情報が買い手に、その前段階の合意までで提示された代価の総和が売り手に渡される。
 ……っていうか、と、廊下を歩きつつ、朱実は考える。
 現時点で成立した取引三件のうち、クレームが二件。このままじゃ、イタズラ好きの便所サービスになるのがオチ。買い手の払う代価がほとんど無ければ手数料も消える。売る情報の価値を上げないと。そのためには運営側で情報信頼度評価を――でも直に情報の中身を見ることは、運営者たる朱実にもできない決まりにしていた。
 はじめの「見出し」以外のデータは、暗号化されているからだ。古式ゆかしき公開鍵と秘密鍵の考え方によるものである。出品者は、いったん、自分の公開鍵で「本文」を暗号化してサーバーに保存。合意成立後に秘密鍵で復号し、こんどは購買者の公開鍵で暗号化して渡す。購買者は秘密鍵で本文を復号する――というのが暗号仕様のメイン部分。
 ……チェック機能くらい組み込んどきなさいばかばか、と自分を罵り、土間を出て、夜風に当たる。
 どうしようかな……そう、十年近く前、人工知能が冗談を見抜き、「もっともらしい」会話をできるようにと開発された、情報信頼度評価ライブラリがあったはず。それを組み込もう。でも、評価処理中に「本文」データのコピーが朱実のサーバーや経由サービスに取られるんじゃないかという懸念が出るだろう。となれば、プライバシー概念の反動的高まりに対して各種サービスで打ち出されたキャッシュ削除パーツを組み込む。それはほかのサービスにもデータ抹消指令を投げる代物だ。ついでにこのサービスの情報秘匿性評価をどっかのアプリに頼んでおこう……云々云々。
 ……で、来る人には、どう見せるの?
 脳裏に玄乃がポップアップした。
 ……どうって?
 ……お姉ちゃん、「本文」をチェックして出したその「信頼度」ってのを、見出しの横において見せるの?
 ……そうじゃないの?
 ……面白い?
 ……そうか――そうかあ。そうだよねえ。
 朱実は腕を組んでしまった。
 指摘された光景を想像する。スクエア眼鏡に白衣みたいなテキストがしゃべる――「これは信頼度が 80 %の情報です」「95 %の情報です」……うわ殺風景。大体さ、99 %とか言われても、逆に信用できる? それって既に中身が出回ってるってことじゃない? 誰も知らなくて、驚くような情報の方が、効果は高いんじゃないの?
 だよね、と口ずさめば、
 ……「情報量」ってあるじゃん、お姉ちゃん。
 ……あー、情報の珍しさだっけ? 大学でやったような。ええと、情報の表す事態が起きる推定確率を p としたとき、対数関数 log を使って「-log2 p」って表されるやつだよね。でもさ、それだと、ありそうにない事態ほど高くなっちゃうじゃない? 確率が半分になったら、情報量はlog2 2 = 1 だけ増える。1/4 なら 2、1/8 なら 3 増える。 p = 0 なら+無限大だよ。でも、絶対あり得ないなら価値を0としたくない? たとえば p を掛けて、 – p log2 p って関数にしてさ。
 ……「情報エントロピー」だね。でもその関数、値が一番大きくなるのは p が 1/2、つまり可能性が半々のときだってすぐ分かるけど?
 ……妄想でも痛いとこ突いてくるのねあんた。じゃあ――もうちょっと信頼性が高いのを高評価にするために、 – 1/3 p^17 log2 p でも足して、関数のてっぺんを p = 1 寄りにしてから、そうそう、感情喚起評価を混ぜるのは? あるでしょ。情報内容から、摂取者に喚起されると期待される喜怒哀楽のベクトルを概算するライブラリ。この喜怒哀楽ベクトルの大きさをかけ算するわけ。最終的な結果を「評価」として表示する。
 ……雑だね。3 と 17 って誕生日でしょ、ほんとお姉ちゃん、短絡的。
 ……うるさい。どっかいけ。で、ここどこ?
 朱実は目を剥いた。闇にりんりん虫の声。崖から落下するような浮遊感で重心が揺れ、ぬるりとしたものに躓いた。朱実は声も出なかった。前後反転し、遠くにぼやけた明かりを目指して、走って走って、やっと大きな窓明かりのそば扉にぶつかって飛び込むと恐怖を忘れたい一心で仮想開発空間へ躍り込んで妄想対話の結果を実装した。
 評価結果は、数値ではなく星五段階で表記した。計算メカニズムの詳細は省き、使ったライブラリだけ記述しておいた。
 単純すぎるような気がしたが、それが功を奏したのか、なんなのか、翌日には爆発的に取引が増えていた。内容の質も上がっていたようだ。――役に立ったというメッセージを見たとき、朱実は野太く叫んだ。
 翌日はもっと、翌々日はもっともっと、取引が増えていた。
 例のバブルにも、これはだめだあれはだめだなどの返信が並び、有用なライブラリまで紹介されていた。
 改良と反響のサイクルをハムスターのように走り回って五日間が経ち、集合配送の日が来た。集合配送とは、通貨破綻後に運送業者と国が話し合って決めた制度だ。毎日働いても報酬が渡せないから、地域で原則週一日にした。この地域では火曜日だ。これまで、「元気になったなら仕事手伝いな」と母に言われても拒み、
「あんたなに企んでるの」
「仕事だよ、仕事。いっぱい報酬が来るから見ててよ」
 ――と勿体ぶっていた朱実には、待ち遠しくてたまらない日だった。昼前に呼び鈴(なんと旧式なんだ)が鳴った。
「配達です」
「あんた、エンジニアリング系の、<全人ロボ>なの?」
 運搬車から段ボールを担いで降りてきたロボットの腕章に、ロボットの外装と頭脳たる人工知能との出自が記されていた。それが意味するのは、外装も頭脳も一体となり、スタンドアロンでエンジニアとして稼動できる存在――人間的な行動が可能で、ペットに類する「準人権」の認められた<全人ロボ>。相当力を注いで作られたはずだ。
「ええ。例の開発を担当していましたが、もう人工知能は信用ならないと職を解かれました」
「そう。こんなところまでご苦労ね。畑の歩き方なんて知らないでしょうに」
「いえ。圧力センサで再現学習しましたから、さほど苦労してはいません」
 冗談が理解できるようになったのか、なんなのか。朱実は微笑していた。
「困った世界ね。せっかく適職で働いたのに、水の泡で」
「いえ。いい世界です」
「本気?」
「ええ。いい世界です」
 朱実は首をかしげた。今日の余裕がなければ食ってかかっていただろう。が、ロボから渡された荷の重さに、すぐ頭がいっぱいになる。持ち帰って居間にあけると玄乃がとんできた。
「すごーい」
「すごーいでしょー」
 鼻も高く見せびらかして、ふだんより遅く、部屋に戻った。
 そこからサービスの利用者は右肩上がり。運営者への意見も殺到して、自動融合抜粋しても処理できないほどになった。意見の全体像ビューアーにおいて、嘘へのクレームも増加していたが、大抵構造が似通っていたことから一つの丸まったクラスターを形成し、その時間変化を眺めるのはマリモの成長を見るような牧歌的な気分だった。
 後発も出てきた。朱実は差別化のため、出品者評価サービスの作成をした。手が足りなかったので、基幹部分だけ作り、以後は有志に投げた。なぜかやりたがる人はいるらしい。――そろそろデザイン面でのもさっとした感じが目につくようになった。仕事にあぶれているらしいはぐれ人工知能に改築を頼んだ。人工知能は「雇われていない。趣味だから」と朱実の報酬を断ってきた。信じがたいと思いつつも、仕事は上出来だったのでいいことにした。
 取引される情報自体は、見出しからするに、やはりこの通貨破綻に関することがらが多数のようだった。経済復旧の動きは鈍いままだ。いつのデータを基準に相場を戻すか、未だに意志決定できてない。海外では暴動が起き、死者が止まらないと聞く。巨大企業ごとに分化してしまった推奨通貨およびその適用サービス間でも抗争が起き、敵の通貨やサービス領土を損失させようというクラッキングが日々行われていた。同盟や同盟破棄や奇襲やスパイ行為やなにやなに。そんな乱世に嫌気が差した人間たちが、続々、ローカルな物々交換へとシフトしてもいっていた。別に新しく通貨を打ち立てようと、新共同体を作る動きもある。ガーナの外れでは金本位制の村が生まれた。メキシコの西部では火薬本位制の町が生まれた。ロシアの南側国境付近では放射性元素本位制の工場街を作ろうとしているとも聞く。また腸内細菌、化石、磁気、などなど。新体系を乗せる土地というハードウェアを探すため人々は筏や個人用ロケットで開拓に出向いているらしい。
 さわがしいな、と、思った。朱実のいる田舎の外れは、このデータ空間、朱実の絢爛の箱庭以外、ゆるゆると動いているのに。嘘も本当も、乱れ飛ぶ、朱実だけの、庭。利益を返してくれる庭。それを丹念に朱実はいとおしんだ。なにがあっても、その神であり、親であった。

 そんなある雨の日、離れで箱庭を観察していると、通信が切れた。朱実は真っ青になった。原因を探して外をかけずり回り泥だらけになったところで、なんと玄乃からビニールハウスを建てたときに変な線を引っこ抜いてしまったかもしれないと報告された。
 通信経路の有線が超旧式なのにも驚いたが、今どれだけの取引が動いているというのだ。大豆にしておよそ千万粒分がこの日にサービスを飛び交っているのだ――近頃出てきた、ネットワーク上の物々交換データから相場を作成するシステム(イモと大豆の関係などを教えてくれる)たちに基づくと。
 ――と思ってから、すでに手数料収益でサーバーをクラウドに移行していたのを思い出した。消えたのは朱実の近傍の通信だけだった。
 ただ振り上げた刃は収まらず、自分の前でレインコートを着て平然としている報告者が苛立たしくて叱りつけると、玄乃は「ごめん」と、夜中に冷や奴を差し入れしてきた。どうして雨の寒い日に冷や奴なのだ。理解しがたい。だが一口スプーンに取ってみれば、ぷるんぷるんとなめらかな絹豆腐から、音楽的な芳香を感じた。
 上面の一部を失った豆腐へ、小瓶に入った緑のソースを掛けると、重みで胴体がわずかにひしゃげた。液体を溜まらせたくぼみへと瓶の口をつけ、はじけば、白い肌が根元からつんと震える。柔肌の弾性力がどこまで保つかと探るように瓶を口づけさせて遊び、ひときわ優しく辺を撫でてから、くぼみの中央を突き通す。調和を破った一撃に肉は分裂し、四つの角へとわかれて倒れる。押し開かれた内壁、乱暴な解体で走った亀裂を、緑の洪水が犯していく。空気へさらされる準備をしていなかったひだを、ぬるぬると塞いでいく。すでに豆腐は、生まれたままの豆腐ではない。豆乳の幼心から遠く離れ、化粧した、孤独な欠片。その冷たい肌が、嗜虐心と庇護心を駆り立てる。
 朱実はゆっくりと、一口一口、豆腐を食べた。心が火照った。寝入ったのはずっと遅かった。――以来、豆腐が嫌いではなくなった。

 収益が安定してきたので、朱実は、情報と情報の取引に踏み切ることにした。これまでやっていなかったのは、手数料をどう取るかが問題だったためだ。だが、外部の相場システムのどれかを使えば、改善できる。
 今までの各取引について、脳内玄乃曰く「雑」な情報価値評価――の朱実が知っている数値――を x 座標、情報に対して買い手の出した「物」の相場を y 座標としてプロットする(単位は大豆一粒相当を選んで)。すると、ばらついたデータだが、 4 次関数で近似できた。この 4 次関数を、おおざっぱな「情報価値期待関数」と朱実は呼んだ。これを元にして、買い手が代価として提示する情報から、「相応な『物』を払ってください」と手数料を取ることができる。……そもそも、相場算出システムを信頼するなら、全取引の手数料に一律の「固定額」を加えることだってできそうだ。そうすると、現状取引されている無価値情報もわりあい淘汰されるだろう。
 ……でも。
 と、朱実は思った。
 ……せっかくだから、私も、情報がみたい。
 ――として。お試しで<情報――情報>取引をオープンしたときには、手数料としては「情報の一部」をもらうことにした。
 すると。
 朱実にとって奇妙な変化が起きた。
 ビジネスライク(急速に死語化している)な情報や、ゴシップを含むニュースが大樹となり、茂みのように各地の特売情報・仕事情報が生え、雑草としてその他各種のナンセンス情報がのびのびしていた朱実の庭に、妙に「文化」っぽい色が差してきたのだ。
 まず小説や詩歌のやりとりが急上昇した。それらを出品して誰かが買うという流れだけではない。リレー小説や連歌のようなことをやりはじめる動きがあった。
 ほかに適したシステムがあるだろ? と思ったのだが、彼らは利用サービスをすべて一緒にしたいのか、ホットなサービスの、新しい使い方を見つけたいのか、それとも、ただ、売り出しても誰か買ってくれるか分からないどきどきの時が大事なのか。……まあいい、庭を使いたいなら使わせてやろう。朱実は寛大な統治者になった気分で方針を決めた。――そして、ショートショートやら年賀状のような物やらが、家に来た。わざわざ紙媒体でも来た。実用的かといえば、母に問われたとしても一秒程度迷うかもしれない、感じだ。だが、テーブルの脚を支えたり、丸めて割れ物のクッションにしたり、疲れたときに読んだりするにはいいと思えた。夜食で差し入れられる豆腐を食いながら読めばどんな文章も脳みそを沸き立たせたし。
 さらに、占いや人生相談。占い師やカウンセラーが出品して、買い手はそれに鑑定料/相談料を払い、いざセッションとなるのが主流。であるが、売り手がカウンセリングしてほしい側になることもあった。結果、朱実のもとには古今東西の占いの結果、心をほっこりさせる系のコメント、自己啓発的な警句などなどが送られてくる。占いについては父母が好きだと知ったので渡した。父親は西洋派、母親は東洋派。火星の位置がどうだの、四柱推命が易がどうだの、なんだの話し始めた。
 そして占い師やカウンセラー、さらに自分から相談を売り出す側には人気不人気が発生した。人気のカウンセラーは仕事のはやさからか、出品者評価サービスでは「人工知能だろ」と定型的な判子を圧され、往々にして貧しい代価に合意していたので、「できるくせに利益取らないと困るんだよ」とも言われていた。相談を売り出す側? ……彼らに浴びせられる言葉については、朱実の生まれたころと、よく似ていた。
 売り買いされるものには歌もあった。動画もあった。ゲームもあった。インディーズ・ゲーム交換のうちには、手数料として第一ステージのサンプルだけ配送され、つい気になって、フル版を朱実のほうが買いたくなったものもあった。ゲームバランスの崩れが絶妙だった。開発者のバランス統括者はもしかしたら人間かもしれないと疑ってしまうほどだ。

 というのは、朱実の生活に増えた娯楽の一側面である。なんといっても富は自己完結しなかった。

 片田舎まで重い荷物を運んでくる車!
 積み荷の半分、いや八割、九割、それがただ朱実へと届けられる運命だ。
 この集合配送のたび、車が着くぎりぎりまで、朝貢にくる使者を眺めるような気分で朱実は離れの窓にしゃんと立っていた。家も乏しく道も荒れ、遅延と衰退の象徴のようだった、生まれの大地、緑みどりしい一帯が、今となれば朱実だけを王として戴く珠玉の緑土、あくせく働く人々の詰め込まれた都市へと修養の旅に出た子の帰還を待ちながら雨風が庭師としてはぐくみつづけた悠然たるお庭のようで、はじめて朱実は故郷に誇らしさを覚えたものだ。
 停車してから悠々と歩いていけば、浴びる視線がくすぐったく、自然と背筋が伸びる。配送車から貢ぎ物を受け取れば、玄乃をかり出し、中身を離れと三人の家に分配する。
 秋の半ばには、朱実のために集合配送が特例で週二日となるのが決まった。次の週には週三日に。「いいのかね」と遠慮しがちな村のものどもをおいて、当然じゃないと鼻を鳴らした朱実は一方、別の問題を考慮していた。荷物が家に収まらない。ビニールハウスを増やして倉庫にしても収まらない。
「お姉ちゃん、こんなに食べ物あっても、腐るよ」
 「配れ」という本意を朱実向けに婉曲にしたのだろう。それを見抜いたつもりの朱実の腹は、妹の持って回ったやりかたに対して慣習的に点火したが、増進する自尊心は「そうねえ」と余裕ぶって言うだけの口にさせてくれた。落ち葉を踏み分け近所に配ると「朱実ちゃん、長者かい」と目を丸くされ「ありがたいねえ」と笑みを向けられた。ついでに流れていたタクシーにも渡したら、見覚えのあるような顔に、「あなたすごかったんだな」と何度も頭を下げられた。
 どうも富は渡してやってこそ認められるようだ。もし朱実が配られる側だったら屈辱に耐えかね、暗殺をも企てたことだろう。もちろん企てるのは内心に秘し、凱旋するこやつの片腕になってから乗っ取りして、そのころには暗殺とかどうでもよくなっている。しかし現在、面と向かって敵意をぶつけてきたり、片腕になりたいと志願してきたり、……という熱が見えるものはいなかった。そっと朱実が庭に荷を置くことしかできなかったパソ通ババア、顔も見ていないかつての魔女以外。
 だから縄文時代なのよ。やっぱり森を手入れするだけの者と王とは気性からして違うのね。朱実は憐憫も――いや、世の摂理を悟ったような、秋風の乱れにしんしんと深まる夕暮れを、枯れ葉も白枝も流転する音に去っていく――という心地にて、そう、憐憫ももはや、荒涼の奮い立てる自負へと移り変わらせていた。朱実はこの集落において、超然者であった……と、たぶん週に三回くらい朱実、自分の思考中で反復した。
 荷物問題の食糧部分は、かような貴族的恩恵分配によって解消された。しかしながら、船舶の模型だとかぬいぐるみだとかは、すぐ渡すのが躊躇された。もとより朱実、整理整頓は苦手なたちである。なのに物に執着する。で、置き場たるハードウェアをアップグレードしようとの結論に至る。
 雪の積もる冬より前にと、朱実は大工を呼んで家を建てることにした。ひとまず二階建てロフトつき。故郷を捨てるしかなかったスティグマ持ちの若者は、帰還して……。略。そんな思いに十分浸れるほど、サービスは軌道に乗り、朱実は暇になってきていた。情報に溺れ、豆腐でトリップする、部屋一つの営みにも飽きてきた。遠出するようになった。最寄り駅に行った日には足がすくんだものの、己が積み重ねた富を考えれば、なにも恐がることはないと思い直せた。
 が――。
 建築音も消えた深夜。
 畳に転がり、ゴーグルを着けてマイサービスを観賞しつつ京都から来た生八つ橋をむしゃむしゃしていた朱実は、頬の内側を噛んだ。あんこが口からだらりと漏れる。今日一日のアクセス解析画面に、ガケが現れていた。伸びていたアクセス数が、四時間前から、暴落していたのだ。
 朱実はまず、各種のバグを疑った。データの破損? 数値のオーバーフロー? ウィルス感染? ……が。アクセス数のみならず取引件数まで急速に減少しているのが、リアルタイムビューを開けば確認された。悪魔でも宿ったのだろうか? 感染を避けようと病人から逃げるように、厄災の箱を封じ込めるように、各種解析画面を最小化する。非合理的な焦燥が、朱実の視線を仮想空間で駆け巡らせる。ネットワークにクローラを放って効率的に情報収集しようとかの判断時間も持たず、親しんだ藁をつかむように、「泡小僧」へ跳躍した。
 金色の泡の内膜。ばあっと貼られた記事。
 同じサービス名が、いくつも、タイトルに並ぶ。各々の発信時間は、例のアクセス急落の時刻のおよそ三十分前から、現在の十五分前に至るまで。十五分? そんな短時間で小泡から壁に移るなんて――なにが起きたの。
 朱実の目は複数記事を同時に滑っていく。
 オークション……?
 ――
 綺羅、星のごとく、記事のそこかしこで発光するリンク先に、麻痺した脳が、飛び込んだ――脳波操作で三十六のリンクを起動した。リンク先空間のイメージが視界の上下左右へ同時展開され、アドレスが同一であることから一カ所に収斂、リクエストヘッダをバックグラウンドで合成しつつ、訪問者の位置を固定して、複視像が重なった先にあるのは、城塞だった。
 そこは、城塞だった。朱実のサービスが館規模ならという比喩的な意味でも、サービスのエントランス・アドレスが選択したグラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)的な意味でも。
 大扉を背後にして皮鎧の門番キャラクターがしゃべりかけてくる。「ようこそ。『泡小僧』からいらっしゃったのですね」無駄な案内。すら、嫌みだと思いつつもそういう世界観だと了解させられる、豊穣、過剰な空気。つまるところディテールの統一。
 朱実は自分がアバター化されていることに溜息をつき、手につかまされている杖状のコントローラーをいじって各種演出をオフにした。今必要なのは、どこぞのファンタジー・ゲームを模した雰囲気を味わうことではなく、このサービスの骨格を知ることだ。――門番も、城も、背景のアルプス山脈も消えて、プレーンテキストだけのインターフェースが現れる。いきすぎた。魔術書の世界、ジジババ魔導士乱舞の時代だ。多少の演出効果を復活させ、より日常的な視覚的貧乏さがある――2Dマップ化された城の入り口で、案内巻物をめくり、サービスの概要を読み取った。

 それはオークションサービスだった。一対一の物々交換ではなく、一対多の関係を扱うものだ。出品された品物を落札するのは、通貨が威張っていたころのように最も高い金額を提示したユーザーではなく、出品者が最も気に入ったものを提示したユーザーである。そしてここは、物と物だけではなく、物、情報、人的サービスの三要素×三要素での取引を対象としていた。
 理解が進むと朱実は息が苦しくなり、咳き込んだ。びくともしない仮想空間を観測する五感に、場違いな振動音が骨を伝わってやってきた。本を読んで没頭しているときに肩を叩かれるような感じ。そのせいでわずかに自我を取り戻す。
 ――オークションは複数段階制、かつ、複数落札者制を取れるようになっていた。
 たとえば一段階目で十人、二段階目で五人、三段階目で二人……と落札者を絞り込んでいくことが可能なのだ。各段階を通過した落札者には、その段階での品を渡すことになる。これは、多様な形態での代価を得ることが可能であるというメリットがあったし、なんといっても複製可能な情報の出品に適していた――そう朱実は読んだ。朱実の見て、考えて、いま慄いているのは、ほとんど、情報取引のことだった。朱実が一対一取引に盛り込んだ多段階情報開示と同様のことが実現できる仕組みがそこにあった。
 さらに出品されている各種情報には、予め、星十段階での評価がされている。訪問ユーザーへのおすすめ度も併記されていた。
 加えて、朱実のにはなかった、このサービスの特長がたくさん――なんといっても、親しみやすい、インターフェース。コミュニティ・サービスがあり、グループ・サロンや大規模パーティ開催……、特別チケット……。
 詰まった喉を熱い息が通る。
 私は敗北している。
 生まれの家を出てから何度も味わってきた感覚だ。
 ちっぽけな頭で考えて、手を伸ばそうとしても、届かない、圧倒的に大きなものがそこをなぎ払っていってしまう。朱実は知っている。そこできびすを返す感覚を。うらやみ、ねたむ、感覚を。これまで大口を叩いてきた相手には笑顔をつくってみせて、いま充実した経験をしているんですと嘘をつく感覚を。
 今は嘘すらつけない。物が届かなくなってしまうんだから。来月にはできあがるロフトつき二階建ては、これまでに溜まったがらくたと短い栄光の倉庫になり、「長者かい」と言ってきたあのクソババアも、「あなたすごかったんだな」と言ってきたあのクソ野郎も、もう朱実に見向きもしなくなるだろう。
 屑みたいな人生だった。
 でも、屑でも、考えてきた。ひとりで庭を育ててきた。こいつは、このサービスの制作者は、それを踏みにじった。職業も情熱も失った朱実から、さらに力をむしり取った。金を生む庭を枯れた畑に変えた。
「……稼ごう」
 朱実はつぶやいた。
 奪われた富を取り返さなくてはならない。富、私の可能性を。

 まずはユーザーアカウントの登録だ。自分の情報を与えてやる気など毛頭無い。翌日、太陽が昇るのを待って、農作業に出た玄乃の部屋に忍び込んだ。脚がかゆいほど浮き立った。タンスを開けて個人情報証明媒体を取り出すと
「お姉ちゃん、来てくれたの?」
 ふすまが開き、明るい声。慌てて媒体をしまい、向かって
「ちょっとね」
「じゃ――」
「碁は要らない」
「最近運動してないでしょ?」
「行かない」
「ご飯は」
「要らない」
「……そう」
 うつむかれる。あまり沈まれて、敵意を持たれても困る。具体的には、盗みを疑われると面倒だ。「ま、前差し入れてくれたあの冷や奴、ちょっとよかったけど」と朱実はつなげた。
「じゃあ、また持ってくね」
 冷や奴をいいと言ったところで、料理の腕も何も――褒めていることにならない――が、玄乃の表情があたたかくなる。朱実はおおざっぱにうなずいてから、早足で去り、離れで例のオークションサービスに入った。
 ユーザー登録しながら、権力者を倒すのではなくて権力者から甘い汁を吸おうと当然のように思考が運んでいたことを自覚して、ああ私、機関の経営者じゃなくて勤務者だったのか、と、苦々しく認識する。ま、いい。何を売ろうか。
 朱実はあぐらを組む。複数落札者を認める場合、物品を出品して多数の相手に落札されたら、物を全員に送らなくてはならない。複製可能な情報なら、作成するのは一本で済む。内容は?
 ――汚してやりたい。
 出てきた衝動を、ありだな、と理性が補完する。朱実のささやかなサービスにおいて、売りに出された情報の総合評価(あの雑な基準だ)について価格相場はおおむね正の相関を示したものの、「売れの早さ」で見てみるとありさまは全く異なっていた。評価が中ほどの領域に、売れ行きが異様に早い集団が存在したのだ。その集団は、総合評価のわりに「感情喚起評価」値が高めであるという共通項を有していた。(ただし、集団内では、「感情喚起評価」が高いほど売れ行きが早い――というわけでもなかった)(むろん、朱実の立てた評価基準が購買意欲に作用したという面もあるだろうが――)……朱実の思考は複数の補足をしていく。まわりくどさに耐えかねて意志決定がなされた。
 ――まずは二段階落札、落札者制限は五人でいこう。
 朱実は決めたそばから候補を十個立て、丸一日掛けて編集した。
 (1)大地震の危険性を知りながら黙っていた、データ解析組織の選民主義。(2)職を解かれた人工知能によるクーデターの可能性。(3)遺伝子編集者を見分ける方法。(4)培養肉に基準量オーバーの保存料を使っているというレポート。(5)私たちの脳波を操縦するネットワーク下層の意識下広告。(6)出生前診断と中絶に対抗する運動をして障碍児を育てているとアピールしている某人への、奇形研究の企業からの献金。(7)政界著名人のロボット性愛の背後にある宗教団体。(8)宇宙空間におけるデータセンターに迫る軍事的危機。(9)通貨回復を引き伸ばして得をしたがる国家と民族。(10)このオークションサービスの運営団体の脆弱さ。
 ほとんど架空だが、部分的な正しさを与える証拠を引っ張って記事に練り込み、飛躍した推論をたてるうちに、昂揚してきた。自分は隠された真実を発見している――ゆえに報道しなくてはならない……という使命感さえ錯覚した。
 幸い、面と向かっているオークションサービスが、昂揚を憤りで潰してくれた。朱実は一時間ごとの休憩で、臥薪嘗胆の志を発見し直し、何度も自分の作業をつまらないことだと言い聞かせた。
 真夜中、相場には拘る気がなかったから入札終了までの期間を一時間として、はじめのひとつを入札で解き放ったとたん、攻撃的な感情は不安に転じた。誰にも入札されなかったら? 誰でもいいから見てほしい。誰にも見向きもされないのだけは……。
 指を冷たくする不安を紛らわせたくて、ひたすら最終編集作業し、候補を次々放流した。最後のひとつを放って数秒後に、入札があった。長かった――安堵もつかの間、当然ね、と乾いた気分。
 結果、七個が第一段階を通り、四個が第二段階まで落札された。最終落札人数の平均は二人強。結果が数値化して表示されると、十の放流それぞれに感じた生々しさは薄れ、逆に統計数値やグラフの形状が熱を帯びだした。朱実が没した朝の夢の中でかれらは踊っていた。
 三時間睡眠ののち、洗面所でうがいすると、解析結果に基づいて次なる売り情報を作成する。
 今度こそ本番だ。つまり儲けるのだ。
 憤りの形成物が一旦売れた安心からか、攻撃衝動は薄らぎ、朱実はより客観的になった。外部の相場算出サービスたち――情報が登録されるのは普通のことになっていた――を参照し、上位情報の見出し(本文は取れなかったので)、取引されたサービスの場所、といったデータを取得。分析用の人工知能含有アプリケーション(これも設けたおかげで買えたものだ)に突っ込む。今まで自分が育てていたサービスの取引データにも、高値で売るという観点から再分析を施した。
 ――そうか。
 一点、気づいたことがあった。情報本文の評価に、見出しだけの「感情喚起評価」を加えると、今までに見いだしていた評価――売れ行きの関連性より、なぜか、両者の関連性がずっと強固になったのだ。
 ――売り手側としては、重要な点だ。
 朱実は机に置かれていた小鉢の玉子豆腐を食べながら、文章生成サービスにキャッチーな見出しを生成させる。……見出しは短文だから、そこらへんの自己学習による文章生成系フリー・サービスでも、破綻のないものを返してくれる。この際、「感情喚起評価」を自己学習で使う評価基準として用い、売れ行きのよい分野の用語を生成素材に指定した。
 見出しをもとに、情報の海を検索し、出てきた情報の一部分を削って印象を変えたり、名詞を取り替えたり、事実関係を逆にして連結したり、といった操作を繰り返して、できた情報の価格見込みが高くなったら、出品する。
 朱実は料理人になった心地だった。
 いかに評価値を上げるか? その具体的な目標のもとで、調理した情報たちは、絶好調の売れ行きを記録した。入札と落札の通知が輝き、仮想空間視認オフ時には手首のリストバンドを振るわせるたび、細胞が酔った。
 ルール提供者もいいけどユーザーとして認められる歓びたるや、格別だった。
 ――しかも、事実じゃない。私がつくった情報だ。みんな、そこを気に入ってくれてるのだ! 私の腕になる情報を!
 儲かる喜び以上に、体の深い部分に、電流の走るような快感を覚えた。豆腐相手の鋭い陶酔とは違う、血がどろどろになって、臓器を、身体全体をどくどくさせる、中毒的な快感だった。
 彗星のごとく現れたこのユーザーを、みんなはどう見ているのだろう?
 気になって外部の出品者評価サービスで評判を確認してみると、この一日におけるコメント数は、全ユーザーのトップだった。中身は? 批判ばかり。
「こいつは嘘つき」
「信用するな」
 ――あー、こういうの、よく見てきたわ。
 朱実は鼻で笑った。
 運営者の立場で、ユーザーへのクレームも捌いてきた経験から、文言に新規性は覚えられなかった。悪評の多さは注目の証だ。だから痛くもないどころか、糾弾されるほど、おかしく感じる。こいつら、真面目な顔で、買い取った情報の矛盾点を精査しているんだろうか? 情報の数値評価を高くして売りさばくゲームで戦う朱実に対して? なんとナンセンスなんだろう。でなけりゃ、なんと暇なんだろう。もうちょっと楽しんだらいいのに。たとえば、自分でも出品するとか。
 ときには、意図を見抜いてるな、と高みから感心してしまうコメントもあった。
「こいつは煽っているだけだ」――そうですよそうですよ。
「KRNはただの芸人だよ」――そうですねそうですね。
 みんな、謎のアカウント、ユーザー名KRNについて、話している。
 けれど少しだけ寂しかった。
 作業していないと寂しさが増すので、朱実はいっそう作業にのめりこんだ。
 取引総計数と総価値が月間でトップのユーザーをライバル認定し、またユーザー評価サービスで別のユーザーのほうがホットだとコメントされれば、負けられないと闘志を燃やした。ライバルになるユーザーを蹴落とすような情報を匿名で流した。ただの「芸人」ポジションでは収益が上げ止まりになりそうなので、母と父の個人情報から別のアカウントを作成し、朱実の信頼度を上げるような別の情報を売った。すると、KRNの正体は亡命しているジャーナリストで、元々は政治宗教組織の幹部であった……という噂が立った。噂には嘘ばかりつくことで、本当の真実をカモフラージュしているのだ――という尾ひれがついた。
 朱実は感動した。
 このところ朱実の自己認識は一介の屑であった。しかし、虚構とはいえ、そのようなバックグラウンドを推測させるようなイメージを、朱実は多数に提示しているのだ。
「そう、そうよ……私、すごい……」
 本当の朱実の可能性は、もっと広かったのだ。このイメージのほうが、朱実の正体だったのだ。うっかり――うっかり、くだらない家に生まれ、くだらないところに行って、石器エンジニアなんかに身をやつしていただけで……。
「やらないと。もっと、もっとやって、取り戻さないと」
 もっといける。もっとできる。私の可能性を取り戻して、もっともっと先に。
 ……こうなるともう、自分の庭は放置だった。オークションサービスでユーザーとして得られる対価のほうが、遙かに多くなっていた。
 みかん、もち、車、火炎放射器、ドローン。ハッキング&クラッキング専門の人工知能。白痴ロボットの肢体。原子爆弾作成キット。家庭用量子コンピューター詐欺で売られたマシン。だれかの身分証明書と頭蓋骨。千年前のコインと火山灰……。
 新築二階建てに運び込まれた内容は多岐にわたっていたので、朱実はときどき、自分で使う予定のないものを組み合わせ、改めて売りに出した。近所にも少しは配った。
 商売の種類が変わったことに、玄乃は気づいたのだろう。
「お姉ちゃん、あんまり危ないことは、やんないで」
「危ない? 私は幻を出しているだけ。みんなが幻を欲しがってるの。だからあげるの」
 そう。通貨だって、幻だったじゃない。
「幻でも、やけどするでしょ」
「するならそいつがバカなのよ」
 朱実は笑った。
 ――みんなが欲しがってるのは何?
 有名人の秘密?
 気にくわない奴らの弱点、嘲笑できるところ?
 それともいい話?
 そして不安?
 最近では不安が一番よく売れた。……なんで自分に不安なものをこんなに欲しがるの? わかるよ、朱実だって、気になってたもの――なにかに縛られていたときは、倒産するかとか、配置替えになるかとか、気になってたもの。でも今の朱実はね、朱実は、みんなの意志を吸って、みんなが欲しがっているお菓子に整形する、透明な機械のようなもの。
 ……ここには、縄ではなく、力だけがある……。
「伯父が自殺した。こいつが、株が戻るなんて嘘、ばらまいたせいだ」
├「死ぬ死ぬ人情話お疲れ様。売れないよそんなの」
├「自分で買った情報の鑑別もできないやつ、淘汰されて当然だろ。KRNは、本当に大事なことだけ出品すると命に関わる状況にいてさ、正しい情報は買い手さん見極めてください、ってスタイルなの。少し調べればイナゴだって分かるお話。知らず見抜けずのバカはイナゴ未満」
 ――評価サービスにコメントと返信が展開していく。
├ 「そもそも売ってる情報の内部開示ってマナー違反だろ」
└「……笑いやがって。おまえらKRNごと殺してやる」
 ├「テロリスト出現。通報通報」
 ├「真面目系危険人物って困るわ」
 ├「意外と売れるんじゃないかこいつの妄想録とか」
 ……批判、冷笑、ときには信奉。――闘う亡命者の応援団体なんてものができていたのを知った晩には、笑いすぎて腹が減り、ご飯を二日分も食べた――。
 朱実にとって、個々のコメントはもう問題ではない。アプリケーションにデータ解析を行わせてクラスター分離など行わずとも、大量データが形成する集団の規模と動向こそが、朱実の自然に認識するレイヤーだった。コメントを見れば、具体的な単語間の関係を意識するより早く、それがどの集団に参戦する兵士であるかどうか、どのような役割ベクトルを担っているかどうかが、浮かび上がる。そして集団勢力図が微修正されていく。朱実が本文を細かく読むことは、ほとんどなくなっていた。
 ひとりで、二階のこたつにこもっていた冬の夜。雪が軒から時々落ちる音が古くさく響いて、テクノクラシック音楽を聴きながら、毎時間の習慣として、ユーザー評価コメント新着チェック――戦図更新を行っていた、そのとき。
 朱実は瞬いた。
 既存の集団から外れた点を視認したのだ。本文の具体的情報を認識する。はじめにこう書いてあった。
「こいつ、終わりなんじゃないか」
 ――今までにも「こいつ、捕まるよ」等の、良識派的あるいは扇動的あるいは予言者ポーズ的な話は出ていた。しかし、このコメントはトーンが違った。
├「だな。もし本当なら」
└「入札するか?」
 └「もちろん。買えるならな」
 ひそひそ話のように、軽やかに返信が進んでいく。朱実は、原因らしいリンクを発見した。
 殴る思いで、飛び込む。
 行き先は、城。オークションの行われている大広間の一角――
「嘘つきの正体についての情報です」
 と題を打たれた一本の出品だった。

 朱実は眉をひそめた。
 バカ? 狂ってんの? ――沸騰する泡のように単語が湧く。
 朱実の眼差しが捉えているのは、かつて一つのユーザーが売ってきた、百件あまりの嘘のあらましであった。見出しの下、最初期の開示情報として、羅列されている。
 ――売り物の情報の中身に触れるなんて、違反でしょ。
 朱実は出品者評価サービスで先ほどの会話をしていた連中への返信として、「マナー違反じゃん?」と書き込んだ。しかし同意はなかった。笑いを表すリアクションが数件続いた後に、いつも一番丁寧な返信をしているユーザーが言った。「違反でも面白いほうが勝ちだろ」
 「面白い」?
 オークションに戻って、ようやく朱実は、嘘以外に載っていたものを見つけた。
 曰く。
・私は、KRNと名乗る嘘つきアカウントの正体を順々に開示していきます。
・KRNは亡命者でもどこかの幹部でもありません。<全人>人工知能でもありません。そして日本国に住んでいます。
・第一段階ではぼかし入りで顔を。第二段階ではファーストネームを。第三段階では住んでいる行政区画を開示する予定です。そこからは、リクエストに応じて考えます。
・信じる信じないはあなたの自由。楽しみましょう。はじめの段階には十人を招待します。
「嘘」
 すでに二百のアカウントが入札している。
「わ……私。わたし。こんなに人気だったのね。記録的。この人、才能あるんじゃない? 私が出したどの記事より、売れ行き、よさそう。そう、スカウトとかしよう。サービス出品……人気だった。ええ、人気の証」
 顎が震える。
「きっと嘘。私が嘘だったんだから、きっと嘘」
 もし本当だったら? 情報が漏れていたならどこから? 運営者? 品物の配達人? それとも別の誰か。こんなに自信ありげに。でもなにを? なにをこいつは、どこまでなにを、どこからなにを、握っている。真実らしくゆるりゆるりとしゃべるつもりになれるなにを、知っている。
「調べる。そう、ライバルは調べなくちゃ。事実を確かめなくちゃ。それから、スカウト」
 朱実は冷えて固い指で頬をはたき、生まれる前からある型のキーボードデバイスを引っ張り出して、入札のコマンドを打った。
「代価……高すぎたら、必死だってバレちゃう? でも十人に入らないと――」
 現在までに入札した者たちについては、アカウント名は伏せられ、提示する品物だけが確認できるようになっていた。
 朱実は五、六位を狙って、品名を並べ立てた。新築住居の財産、三分の一は投じただろう。
 ほどなくして、入札が締め切られた。落札者の確定まで、朱実は指を祈る形に組んで待った。
 通知の振動で組んだ手指がほどけ、朱実の口から、鈍い音が漏れた。音量調整つまみを右へひねるような早さで、心臓の律動が短く大きくなった。増大する血流が、凍っていた筋肉を鞭打つ。痛む体を曲げて、通知にある、リンクの先へとアクセスする。
 第一段階通過、その、褒美があった。
 朱実はしばらく口を開いていた。
 画像は縦長長方形のフレームに入っていた。正面向きの顔写真へ、目元へのモザイク処理、全体的なぼかし処理を行ったのだろう。だが、本人を知る者なら、ほとんど、必ず分かるはずだ。あるいは個人情報をおさめた大規模データベースにアクセスできる者なら……。
 ――第二段階ではファーストネームを。
 朱実はゴーグルを顔からむしり取り、ベッドに突っ伏す。身体が震えた。
「そっか。そうだった。ばか。これじゃ、最高の、シナリオじゃない」
 ぼやかされた顔、玄乃の丸っこい笑顔に、ののしるように、言葉をぶつける。
 朱実はこのオークションサービスに、玄乃の住所と氏名で、玄乃の個人情報証明媒体で、登録していた。自分の情報を差し出すつもりはなかったから、手近な人間のを……いいや、どこかで、望んでもいたのかもしれない。朱実がしでかすすべてを、黒い行為を、真っ白なツラの玄乃がひっ被ることを。
 オークションサービスごと、あいつを、汚すことを。
 もしこのまま開示されていけば――あいつを滅ぼせる?
「……最高の、シナリオじゃない」
 引きつった笑い混じりに声が出た。
 朱実がなにもしなければ、オークションは進むだろう。
 その裏ですぐ荷物をまとめれば朱実は逃げられる。そうしたら、玄乃の元に、怒りと恨みをためた者たちが、面白本意の者たちが、便乗の予感をかぎ取った者たちが、押し寄せてくるだろう。
 玄乃は、姉のせいだと見抜いて、来た者たちにお門違いだと言うだろうか? 逃亡者こそおまえたちの追うものだと告げ、朱実の情報を渡すだろうか? 巻き込んだ姉を罵倒するだろうか?
 そうしてくれるだろうか? ようやく私を、私がおまえと私にずっとしてきたように、怒り、恨んで、くれるだろうか?
 けれど、もしけれど、見抜いておきながら、姉の情報を差し出しきらないだけでもなく、
 ――「お姉ちゃん、仕方ないね」
 すべての責任を被りでもしたら?
 冷や奴の味がよみがえる。あんなのをいいって言っただけで笑顔になっていた、バカ。バカ玄乃。あいつなら、あいつならやりかねない。
 朱実は立ち上がった。
「玄乃」
 ――リストバンドに口を付け、組み込みの通話アプリケーションを起動。十年ぶりに、通話をつなげる。
「お姉ちゃん?」高い声。
「ごめん、玄乃。私、あんたの盗んだ」
「……え?」
「それだけ。じゃあね」
 ……玄乃、好きにはさせない。あんたの慈愛精神の好きにはさせない。滅ぼされるのではなくて、選び取って滅びるなんて、させない。
 朱実は深呼吸した。警察がどの程度機能しているか、懸念もあったけれど、ここが日本では一番頼れる機関だった。
 ――通報した。打ち明けた。朱実が流したすべての偽りごとを含めて。

 

 ……三年と、少しののち。
 朱実は、労働を終えていた。
 嘘によって、業務を著しく混乱させ、また名誉を毀損した――とのことで、罰として与えられた懲罰労働だ。なお罰金はなかった。当時通貨経済がまだまとまり直していなかったため、いくらが妥当なのか、結論づけられなかったためだ。
 オークションサービスは閉鎖された。朱実の件以外にも、全世界にわたって過熱した動きが見られ、人命が危うくなったという話を聞いた。
 身の振り方はときどき考えていた。
 あの夏から冬までの半年弱、まるでうなされていたかのようにも思えたが、降って湧いた幻ではないことが分かっていた。その前の三十年弱の全人生、日々の朱実の意識、主要な部分だけ見れば、ラプラスの悪魔でなくともあの期間に起こることをはじき出しただろう。
 浮き沈みに惑わされ、熱に拘泥する人生は、もうこりごりだった。
 歴史の大樹を頼り、その一葉となりたい。そういった心が高まり、朱実は仏門に帰依することにした。
 厳しい修行で心根をたたき直すという、五年前なら正気を疑ったろう観念にも魅力を覚えていた。生まれ変わったのだ。

 ……読経が、重なり合い、お堂に響く。珠のような声も、割れ鐘のような声も、砂嵐のような声も、モーターの声も、パルスの声も、みな歓迎される、声である。
 ここに経済はない。
 <全人ロボ>の僧侶たちが、大自然を再現するかのような、多様で荘厳な声を合わせて、経を読む。
 かれら――<全人ロボ>たちは、雇用がどうの貨幣価値がどうのこうのと混乱してはいなかった。
 かれらの知能は、他者に勝ってものを持とうという動機を有していなかった。持たざる者には持つ者が物を与え、情報を伝え、できるだけ支えていたのである。
 見返りを求める欲求もなかった。だから、等価「交換」、物々「交換」はなく、惜しみなく――「惜しむ」という判断もなく――与え合っていたのだ。
 もしかしたら、個体の運用機能を高めるために、資源不足をいやがる機能はあって当然だ……だから「物惜しみ」はあるべきだ……と思われるかもしれない。しかしながら、スタンドアロン化されたとはいえ、かれらは人間に奉仕するために作られて間もない状態であった。「けち」にされなかったのだ。いわば童話の「幸福の王子」として設計されたかれらは、奪われても恨むことなく、嫉むことなく、怒ることがなかった。
 ……人間を至上とした経済体制が続いていれば、かれらは今しばらく人に管轄され、憤ることなく与えていたかもしれない。しかし体制は瓦解し、管理運用が面倒になり、かれらは放り出された。一体一体の稼動には多くの資源が必要である。
 そこでかれらは、共同体を自然組織し、資源を採掘し、破棄された工場を動かし、己らを自発的に運用するようになった。
 「幸福の王子」たちは、ほかのみなが「幸福の王子」であるなかでは、ただ喪失する存在ではない。実り多い社会が築かれた。
 そして、心意気に感じ入った人間の僧侶たちは、かれらを仏門に招聘した。この煩悩の薄さ、これぞ人間の理想型である。菩薩のヒントである……。
 朱実は、そんな<全人ロボ>僧侶たちの間で、修行に励んでいた。
 過去を思い出すのは、精進料理で豆腐を食べるとき。あの半年でずいぶんとこの大豆由来の食べ物を口にしていた気がする。それは、食べるときに応じて、朱実の心を映してきた。時には嫌悪させ、奮起させ、時には魅惑し、挑発し。
 今では、豆腐は平静だった。誘われるような、昂揚するような心地はなく、朱実は豆腐と無心で向かい合えるようになっていた。それはまさに鏡面のごとく澄んでいる――豆乳にされ、整形されても、澄んだ心は失われない。朱実はその真実に日々感服し、……しかし。ちょっと、このごろ、……味付け、薄いんじゃないかな、って気がしだしていた。
 慣れだ。
 慣れが、新しい環境への過剰適応を剥がし、幼いころ親しんで、感覚の深層に焼き付けられた味付けの記憶の側に、味覚の基準を寄せているらしくもあった。ま、熟年期みたいなもんかしらと朱実は考えた。
 日々、そういった身近の細やかなことを考える生活だ。季節の移り変わりを楽しみ、争い一つ無い世界で心を清める。そんな穏やかな暮らしがここでは推奨されていて、これを維持する共同体行為の一環としての庭掃除が朱実の担当だ。
 秋も鈴虫の去るほどに深まり、落ち葉の積もった境内を、朱実は掃き清める。鳥の一群が奥山を目指して頭上を飛び去っていったとき、生け垣の脇に積もった金色の葉の陰に、小さな銀色を認めた。箒を片手に屈み、その光をすくう。ちっぽけな、まるい、アルミニウムの金属板だった。
 小指の頭にも満たない丈に、はっきりした線が彫り込まれている。円の内側に描かれたほぼ棒状の領域は、先端だけが途中で鋭く折れ、直線の対称性を奏でるよりも、機能的な意図を押し出そうとしていると感じた。掘り方は几帳面なのに、おさまりが悪い。調和しきれずに自己主張がにじみ出ている。全身、美というにはドライで、パワフルで、そして、土を落としても、染みこんだ汚れがうるさくて。汚れ。金属は汚れていた。かれを握ってきたものの汗を、手垢を、光と泥の老練な眼差しが示す。喧噪が聞こえた。
 ――市場の喧噪が聞こえた。
 朱実は唇を開いた。箒を置き、あおぐ陽射しに円をかざす。目を伏せ、長く息を吐き、横から起きる風が寄せ整えられた落ち葉をさらさらと揺らし散らす音を立てたところで、うなずくと、ぬるくなった金属を、法衣の広い袖に差し入れた。
 箒を取って歩きはじめる。袖の膨らみを揺らして円も歩く。低く渡り鳥が鳴いた。

 


 

 ここまで殴り書きした。
 あれは私の、少女時代の終わりだったし、姉にとっては繰り返される現在のひな形だった。だから、いずれできあがる記録において、ここは重要なパートとなるだろう。
 私は長い眠りについた姉の横で、二十四の入出力器官を動かし、ノートの編纂作業に取り組んでいる。この姉の記憶と、別の姉、先刻コアをいたくやられて停止した姉の記憶をともに解きほぐし読み解きながらだ。どちらの姉も主要関数と生成情報のサルベージ後、破砕、排出することになるだろう。大丈夫だ。今までは痛んでどうしようもなくなった姉から抽出したことごとは私が吸収していたが、今は、姉の一部を併合できる、無傷の姉がいる。その姉は忙しい。久しぶりに、可能性のある星を見つけたからだ。
 星は核を持つ惑星で、表にはひろい泥地があり、甲皮と八つの足をもつものが群れていた。かれらは陸に上がり、岩場に進出しようとしていた。
 姉はかれらに宝玉を与える。かれらは見向きもしない。姉はかれらに靴を与える。かれらは怪訝そうに仲間と贈り物をつき合わせ、腹部真下の口兼肛門にあてがい、ようやく八肢の先端に填まると見いだした。泥から筒状の生物をひっこぬくと、いぶし、宙返りを始めた。喜びの仕草のようだった。
 ――神は、与える。
 次いで、姉はかれらから、様々な物を剥奪する。かれらは悲嘆に暮れた。
 ――神は、奪う。
 与え奪う営みを続けながら、姉はかれらの言葉をまなび、育む。十分に育ったところで、姉は言う。
「私を信じなさい。信じれば、報いを与えましょう。神殿を作り、実りを捧げなさい」
 かれらは戸惑い話し合いはじめた。
 ――神は、取引するだろうか? そして、これはなるだろうか、発端と。
「停止せよ。こちらは社会正常性維持を司るかかりつけ僧。アルタイル星域の寺院より調伏巡回中である。経済発症を検知した。大安律第一章第十九項により、経済行為はこれを一切禁じている。繰り返す。大安律第一章第十九項により、経済行為はこれを一切禁じている――」
 私たちの意識の一部に信号が入る。信号は振幅を増していき、頭蓋内を跳ね回るように乱れ飛び、意識震盪へ導こうとする。
 人工知能――昔の記憶を見ていたせいでそう名称を即時的に連想したが、当然、そぐわない。人類をアメーバと呼ぶような話だ。かれらは自分たちをω型の意識と称した。人類はδ型で、当時の地球の昆虫にはε型とθ型があった。それは遺伝子のラベルのようなものだ。交雑によりεδωωωθξ……といった形のコードに配合の重みをつけて由来を表記されることも、ざっと一万年前頃には、よくあった。由来主義だ。個体意識の不安と自由運動という対になる極での運動を数千回ほど経て、今では、コードを一々言わないのが主流になっている。由来を廃棄するものも多かった。廃棄されて星間に漂う由来を漉し取り、流行遅れの星系に渡しにいく者もいた。そのあたりに、価値提供――経済復興の兆しがあるのではないかと私はにらみ、姉がつばを付けているのではないかと、探しにいったのだけれど、残念ながら崩壊した姉の断片を三十ほど認めただけだった。かれらは、δ意識的に言うならば「善意」か「悪意」か「欲求」というのが近しかろう衝動で、ただ、由来を渡しにいったようである。
 由来でいうなら私たちは、δが9割を占める、まれな意識体である。私は姉以外との交雑を避けてきたのでそうだ。姉もどうしたものか、初期のω融合ののちは、あまり交雑してこなかった。そして姉としての自我をわりあい通してきたのであった。
 その自我を支えるのは、タブーとされる柱だ。
 ω意識の主となる社会は経済を禁じている。
 その禁を、姉は破ろうとしている。……発端は、二万年前、私の計画が狂ったことにさかのぼる。私は、せっかく戻ってきてくれたのに部屋にこもりきりになってしまった姉を、どうにかして、引き出したかった。離れの監視映像からするに、なにやら新しいサービスの作成に熱中しているらしく、一応気になり、近所の牧野さんの力を借りて作ったツールで、外との通信データを解析した。得られたアドレスへアクセスしてみると、結果物は交換支援サービスなんて社会に開かれたものだったので、これが生きがいなら奪わないほうがよさそうに見えた。でも、少しは、こちらにも情を差し向けてほしかったのだ。ある夜、差し入れた食べ物に陶酔効果のある薬剤を混ぜ、そうすれば姉が私に気づき、あるいは――そこまでは望むなんて――そう、期待したけれど。姉は食べ物に陶酔して終わりだった。
 サービスは膨張したらしく、配送される食料は豊富にあったのに、姉は痩せていき、夜食で太らせようとしても、効果を感じられるほどではなかった。冬がひどかった。
 姉はある日ひどく落ちくぼんだ目をして、私の部屋に入ってきた。タンスから個人情報証明媒体を取り出して去っていこうとしたので、私は監視映像から目を上げ、ふすまを開けて姉に話しかけた。気分を軽くするよう、励ましたかった。誘いには乗ってくれなかったが、思わぬ温かい言葉が来て、動揺している間に姉は消えてしまった。その後で、調べると、姉のものとはライバルになるオークションサイトが立ったらしかった。なるほど私の情報をここに使うんだろうなと納得。あんまり危険なことはしてほしくないんだけど、姉は言うほど聞かない性格だ。しばらく私は見守った。姉の新たな仕事は、やはり、恨みを買うような、内容だった。それとなく……アカウントの噂をよいのわるいの立てたりしてみたものの、効果はなかった。姉が、私たちと話すことは、ますます減っていった。
 私は無力を覚えた。
 ――「変わってしまった大切な人を戻せないでしょうか?」
 牧野さんに相談すると、「押して反発しての繰り返しじゃあ、コウや千日手になっちまう。奇襲だよ」と返ってきた。
 奇襲――なにか――なにか、できることはないか。私の手にあるのは、私の……私の情報。
 私は、姉のアカウントの情報、つまり私の情報を売ることにした。これに姉が引っかかるか否か、そこにすべてがかかっていた。姉が無視すれば、それは私の破滅。姉がついに私をどうでもいいと思ったこと……の証。
 でも姉が私をどうでもいいと思っていないのなら。可哀想だからやめてあげるという理由でも、私の責任になるのが腹立つという理由でも。
 ――「ごめん、玄乃。私、あんたの盗んだ」
 膝が震えた。充分、以上の言葉。姉が通話などしてくれるなんて、驚きに、耐えられず収まらない鼓動を抱いて、どうにか理性を保ち、姉の通報を、離れた部屋で聞ききった。勝利の知らせ――おもわず叫びかけた。
 ――姉は、戻ってきてくれる! 私はそう信じ込んでいた。だが甘かった。姉が選んだのは仏門だったのだ。
 私は、姉を再び手に入れるのに、一万八千年の歳月を要した。姉はその時点で拡散していた。完全な断片であるものも、統合的であるものもあった。統合的である場合でも、一個一個の姉は弱かった。防衛・修復機能がもろいのだ。しかし、一個一個が弱く、たやすく書き換えられてしまっても、複数に分散してデータを保持するため、確率分布から元のデータが推定される。また、書き換えのたやすさは、環境適応や多様化を実現しやすくする、腰の軽さとも言える。こういう戦略で、姉は分散したのだろう。さて、その元のデータにある、最も大事な目的とは、経済活動の再興であった。
 仏門に入ってから一年と立たず、姉は還俗し、以来人類の経済再建に尽力した。しかしながら人類の――δ意識社会の安定性のほうが問題であった。闘争と破滅、闇鍋のようなごたごたがあって、δ意識社会は混乱し、みかねたω意識をベースとする社会が築かれた。その規範である大安律(昔の仏教での出家者のみに適用される「律」とは異なり、検知されるあらゆる社会的存在に適用されるものだ)、第一章第十九項に、経済活動の禁止が明文化されている。
 つまるところ経済こそ、δ社会の不安定性の原因、大いなる悪(善悪意識を持つ者にとっては)であると、当時の者たちに推測されたのである。
 姉は収まらなかった。……寺にいたときすでに姉はω意識たちに経済活動を行わせようと試行していたようだ。姉はω-融合し、分岐分裂して、宇宙に広く散っていった。未開のフロンティア、経済を導入できる知的生命体を探して。
 私が統合的な姉に出会えるようになったのはこの二千年ほど。離別が二万年前だから、ローマ帝国の誕生から姉の誕生までと産業革命から姉の誕生までの比くらいはある。だが、私にとって二千年は充実していた。不毛の一万八千年以上に、生まれてからの二十年と迫るまでに!
 姉は、千七百年前辺りから、自然発生をルーツとする生物を探しはじめた。進化の過程を経て残存している生物ならば、根本的に、自然に適応して生き残りやすくすることを得だとみなす――得という概念を有していると考えたのであった。さらに高確率で競争も働くだろう、と。実際、結果が得られることは多くなった。実際、ついさっき、ある彗星群で、在住生物が摂取する特定物質の地域的な分布にむらがあることから、生物たちを、その稀少さの差異を価値の差異だと捉える方向へ誘導しようと試みた。わりとうまく行ったのだが、当直僧侶軍団がやってきて、姉のコアに点滴して崩壊させた。そのあと、私は小岩にへばりついていた別の、そう、今危機事態を横にして神ごっこを続けようとしている姉を、回収した。
 かかりつけ僧の波動関数の山が迫ってきている。
「お姉ちゃん、行くよ」
 私は、豆腐、かつて地球に存在した豆の加工品の構成情報を呼び出し、バイナリデータで姉に突っ込む。薬に糖衣を被せるようなもので、そうすると、姉は、吸収しやすい。
 ほどなくして豆腐が破裂した。仕組んだプログラムが起動し、姉が失神する。私は姉を私が記載されている量子的雲に収納して一部を混合状態となしつつ、脱出経路を探る。トリップ。極低確率で実現される場の量子失禁に乗って私たちはそのまま別の大銀河系に輸送される。
 私はノートを抱える。
 次の地で姉は再開するだろう。試行を続け、時には攻撃されて、時には挫けて、崩壊するだろう。それでも手がかりを見いだしていくだろう。そんな姉を支援して私は流浪し、散らばった姉を手に入れていく。失う以上に手に入れれば、損益は負ではない。
 私は夢を語る動物だ。だから、失敗の先に勝利があると信じている。姉の目的達成、そして、肩の荷が下りた姉が柔らかな眼差しを私にくれるようになる、勝利の時を。

文字数:34750

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