フウカ

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梗 概

フウカ

鉄格子のハマった窓から光と風が入り込む。

随分と旧時代的な部屋の造りだ。のどかささえ漂いだす取調室内。こんな老いぼれは警戒するだけの価値もないのだろう。歳若い刑事が罪状を読み上げる声にミカワは時折頷き、肯定を示す。その力ない様子を取り違えた刑事が、そっと励ましの声をかけてくる。

「ミカワさん、気を落としてはいけませんよ。貴方はまだ終わってない」

賞賛は毒でしかない。しかし首を力なく振っても刑事の声が止まることはなかった。

「現場にあった絵は、貴方の衰えを示していなかった。幸福に満ちた表情、段々と腐りゆく時間の残酷さを見事に描ききっていた」

貴方は素晴らしいと、そう告げる声を遮るように、私は叫ぶ。

「あれはそんなものじゃない!そんな素晴らしいものではない!」

私はトモコへの謝罪を何度も何度も繰り返し続ける。

 

ミカワは“プラスティネーション”技術の第一人者であった。プラスティネーションは死体の体液等を合成樹脂で固め保存する技術のことだが、この国においては死後の行き先の一つとしても認識されつつある。ミカワがこの業界に入った当初、それは学術的な価値しかなかった。しかし博物館という公的な場から徐々に私的な場へとその活躍は広がっていった。
ミカワが私的な場へと招待される際は、必ずそこに遺族の嘆きがあった。ミカワはその嘆きを受け止めるだけの器はなかったが、それに寄り添うよう努めるだけの優しさはあった為、その際には出来る限り遺族と故人の生活に寄り添って考えるようにしている。
ある日、昔の縁がとある依頼を手繰り寄せてきた。それは“トモコ”という少女のプラスティネーションを行って欲しいというものだった。ミカワが断りきれず承諾し「ではご遺体は?」と尋ねるとトモコはまだ死んでいないのだと答えが返ってくる。
トモコは不治の病に侵され、あと余命幾許もないのだという。ならばとミカワはトモコと生活を共にしたいと希望する。生前と死後の差異を少しでも小さくすることがミカワのプライドであった。
トモコは大変可愛らしい少女だった。もうすぐ死ぬといのが嘘のようだ。大人になる前の不安定な危うさが、自信なさげな様子と相まって庇護欲をそそる。ミカワは結婚もせず、技術を磨くことにのみ人生を捧げてきた。しかしここにして父性のようなものを感じずにはおれなかった。
ある日、ミカワはトモコから真実が告げられる。トモコは金で買われ、老いた醜い姿になる前に死んで美しさを保つよう旦那様に言われてきたのだという。トモコはミカワにならばと思い、自分の願いを口にする「私が死んだら山の麓にでも捨て置いて。私は後に残りたくない」
ミカワは一緒に逃げることを提案する。しかしトモコはミカワを信じきれずそれを拒否する。喧嘩別れしたまま、トモコは死体となって戻ってくる。
ミカワはトモコを工房の中庭部分に横たえ、その死の美しさに魅入られたようにしてスケッチブックを引き寄せる。
薔薇色の頬は紫に転じ始め、腹部が膨らみ、やがて破裂、腐臭が辺りに漂いだす。後に残りたくないと願ったトモコを裏切り、ただ自分の悲しみと欲を満たすかのように筆は滑り続ける。締め切った工房の扉の向こう側で、ざわざわと騒がしい音が聞こえ始めてもなおそれは止まることがなかった。

 

 

文字数:1337

内容に関するアピール

プラスティネーションの話を読んだ後に、九相図についての論考を読んだ。
九相図とは仏教絵画の一種であり、主に若い修行僧が煩悩を抱かぬようにする為、どんな美女でも死ねば醜く朽ち果てるというテーマで描かれている。
仏教は男性の為の宗教だ。そしてこの九相図を扱う文学の大半も男性主体で描かれ、仏の道を見出し始める。その中で生きた女性、檀林皇后の話を読んでの疑問を持ってこの梗概を書いた。

トモコは真っ当に育っていれば美しく賢い素敵な女性になっていただろうという想像の元書き進めようと思っている。しかし彼女が生きた環境では美しさと若さばかりを褒められるのみ。その中であっても老いることは悪いことではないと思っているが、しかし世間の評価と自分の認識の齟齬に不安が抜けきれない歳若い女性である。それを踏まえて書きたい。

(SFなのか不安になってきましたが)

文字数:367

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フウカ

新聞記事より

埼玉県警は二十日、埼玉県秩父郡の山中にて身元不明の遺体が見つかったと発表した。遺体は女性のものとみられるが全裸であったことに加え、腐敗が激しく、身元と死因の特定には至らなかった。県警は事件に巻き込まれたものとみて同日、捜査本部を設置し、死体遺棄容疑にて調べを進めている。

 

『生命の神秘展、っていう展覧会のことをお前はなにか知らないか?』
『なによお兄ちゃん、藪から棒に』
久しぶりに聞いた妹の声には苛立ちが混じっていた。また締切りが近いのだろうか。もういい歳だというのに、未だ結婚する気配も見せずに仕事に追われている。自分も人のことを言えた口ではないが、やはり心配なものは心配だった。
『いや、知らないならいいんだ』
『…あー、私の部屋の入ってすぐ右、本棚の一番下。確かパンフレットをファイリングしてるはず』
『そうか、ありがとう』
『今度そっち寄るから。お盆帰れなかったし、お母さんたちに会いに行くついで』
『あぁ、わかった』
受話器を置く。ついでに、和室に置かれた仏壇の前に手を合わせる。仕事にかまけて親を蔑ろにしがちなのは自分も一緒だった。

妹、美月の指示通りの場所にそれはあった。日付は二十五年ほど前のものだが、ファイリングされていたためかそれほど状態も悪くない。美術好きが高じて美術専門の記者になった妹のことを当初は心配する気持ちもあったが、『展覧会』と名がつけばどこにでも行ってしまう性分を思えば天職なのだろうと諦めるしかない。
一つため息をついて頭を切り替える。冊子のようなパンフレットの中ではなく、その間に挟まれた一枚の紙の中に求めていた名前があった。

三河碩二

先日発見された死体遺棄事件の重要参考人として身柄を拘束されている人物だ。
身元不明遺体が発見された、という新聞記事が載ってからわずか数日、三河は出頭する形で署へとやってきた。元々マークを付けていたことに加え、供述した遺体の発見場所、遺体の身体的特徴の一致等を見て事件への関与は間違いない。しかしそれ以降の証言に関しては黙秘が続いている。
一方、三河には別件で死体損壊に関しても罪が問われている。三河の自白後、家宅捜索の段階で事は発覚した。
室内は一見すると、変わったところはなかったという。しかし鍵のかかった部屋の中から濃い臭気を感じ、捜査員が無理にこじ開けたところ、そこには驚くべき光景が広がっていた。現場にいた捜査員は『最初から最後まで、僕は人体模型が置かれていると信じていたんです』と、青ざめた顔をしながら答えた。
そこには人間の頭部や胸部、手足が整然と並べられていたらしい。全てが樹脂のような物質によりコーティングされ、一見すると作り物のようだった。閉め切られた窓を開けに駆けた捜査員の後を追うようにして数人で検分、そうしてようやくそれが“本物”なのかもしれないという疑惑に至った。鑑識の結果は言わずもがな、多種多様な樹脂類でコーティングされた人間の肉体であると正式に特定された。
署内では、三河を犯人とする向きもある。しかしどうにも腑に落ちない。刑事の勘というしかない、曖昧なものである事はわかっている。幸い、まだ三河の件は記者には漏れていない。捜査本部がまだ慎重にことを運ぼうとしている今だからこそ、地道に自分の足で周って情報を集めるしかなかった。
まずはと、パンフレットの方に目を向けると『人体の神秘展』と銘打たれ、以下のような説明がなされている。

『人体の神秘展』

本展は“プラスティネーション”という技術を用いて一般の方々が健康と命の大切さを実感できるようになることを第一の目的としています。そこでまずは“プラスティネーション”についてご説明いたします。
この技術はまず死体の防腐処理から始まります。次に死体を切り開き、皮膚等をめくって人体の構造を露わにします。死体からは水分と脂肪分を抜く必要があるため、これにはアセトンを利用します。アセトン溶液に何度も浸し、空気を抜くと組織内のアセトンは圧をかけられたことにより低温度で沸騰、気化します。それによって、樹脂が入り込む隙間が作られ、浸み込んでいくことで完全に置換します。(中略)。タールまみれの肺の標本などをみて、心臓をどきりとされる方もいらっしゃるでしょう。皆さんの身近に潜む恐怖を知る一助になれば幸いです。

数枚載せられた写真はどれも悪趣味極まりなく、この展覧会に行った人達の気がしれない。妹もその一人ではあるものの、その当時すでに『もう二度と行かない』と懲りた様子だった。あの好奇心ばかり強い人間がそう言ったのだから、余程のものだったのだろう。
主催者側のインタビュー記事に大部分が割かれたパンフレットはひとまず置いて、ペラ紙の方を手に取る。それ程積極的な配布はなされていなかったのだろう、幾人かの関係者への取材の中に、隠れるように載っている。唯一の日本人製作者として三河碩二に対し、関口というインタビュアーが質問を投げかけていた。

関口:三河さんは唯一の日本人との事ですが、プラスティネーションの技術を学ぼうとしたきっかけをお伺いしてもよろしいでしょうか。
三河氏:はい。きっかけはドイツ旅行中にこの展覧会の主催者でもある博士にお会いしたことにあります。博士の工房を訪問し、そこにあった作品群に感銘を受けました。
関口:感銘、ですか。
三河氏:えぇ、ホルマリンでは美しさが保てません。しかしエンバーミングでは動きがつけられない。プラスティネーションの発展は、死後も続く美しさを約束するでしょう。私は、それを

インタビューはそこで途切れていた。よく見れば、紙の継ぎ目が弱くなっていて続きが破り取られていることがわかる。
最初だけを読んでいてもまともな思考をしているようには思えなかったがしかし、この取材が本当ならば不可思議な点が出てくる。
何故発見された死体は山中に捨てられ、見る影もなくなっていたのか。 “死後も続く美しさ”が三河の追い求めている結果ならば、あの死体はまことに不本意なものだろう。またそもそも三河の自宅はこのプラスティネーション技術を施された死体で溢れていた。あの死体達は、どこで加工されたのだろうか。
取り調べ室での三河の様子を思い出す。体型は細身に見えてその実、鍛えていることがわかる。椅子に腰掛けることもなく背筋をピンと張り、こちらを油断なく見据えていた。表情は疲れをにじませているものの、あれはそう簡単に口を割らないだろう。
やはり地道に足で巡るしかない。そう腹に決めて、今日は寝ることにした。

翌朝、三河の自宅周辺を探っていると厄介な人間に捕まった。中村春奈という女性で噂話に飢えているのだろう、捜査員を見かけては話しかけ情報を探ってくるのである。情報提供も積極的に行ってはくれるが、話を盛ってしまう癖があるのか、信憑性は低いと言わざるを得ない。
「あらぁ刑事さん、聞き込み?」
えぇ、まぁ、とこちらが返答する前に「それで、進展は?」と言葉が割り込んでくる。この女性のペースに巻き込まれれば、後の時間が押してしまう。早々に離脱しようと口を開きかけたところで、また一言。しかしこれは聞き逃せない情報だった。
「亡くなった子、トモコちゃん、っていう子らしいけど、どこの子だかわかったの?」
「…それ、誰から?」
取り繕うべきであったのに、思わず口が滑る。それはまだ新聞にも出ていない情報だ。動揺は表情にも出てしまったのか、ニヤついた顔が眼前に広がっている。
「まぁ私の情報網にかかれば朝飯前よ」
「…それはあまり看過できない情報なんですが、本当にどこで聞かれたんですか?」
僅かに逡巡したようだったが、しぶしぶといった調子で口を割る。引きどころが解っているのはこの女性の美徳だろう。
結果的には、珍しく有益な情報といえた。中村は、中島遥というこの近隣に住む女性からこの話を聞いたという。ただ、三河と『トモコちゃん』なる少女が一緒にいたのを何度か見かけたというだけで、それ以上のことは聞き出せていないという。その場を離れる際はいつもより手間がかかったものの、次に行く先が決まった分心は軽い。

中島遥は、話しやすい妙齢の女性であった。
「すみません、自宅には母がいるので」
「こちらが押しかけたんです。お気になさらないでください」
近くの喫茶店に腰を押し付け、飲み物の到着を待つ。湯気を立てた珈琲がやってくると、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべつつ口を開いた。
「中村さんは『私と名前が似てる』って何かと世話を焼いてくださって、良い人なんですが…。本当はもう少し早く話しかけようと思っていたのに…」
一緒にいたのがお喋りな女性であったため、話しかけるのを躊躇していたらしい。何度もシミュレーションをしていたのか、落ち着いた様子で話し始める。
「三河碩二について、何かご存知であるとか」
「はい、と言っても私がお話できるのは、三河さんといつも一緒にいたトモコちゃんについてですが」
『トモコ』とは、三河が供述した身元不明遺体の名であった。トモコを山中に放置したのは私です。そう言ったきり、また口を噤んでしまった彼について、情報を小出しにしているのだと憤る者もいる。しかし、あれは違う。姓は知らず、トモコというのもあだ名のようなものかもしれない。そう言って項垂れる三河がそんな小細工をしているようには思えなかった。
「その、トモコちゃん、とはどういった」
「彼女とはスーパーにある花壇の前でよく話しをしていました。すごく綺麗な子で、こんな子がこんな場所で何をやっているのかと思って話しかけたんです。彼女がかぶっていた帽子が風で飛んで、それを拾って。こういうとチャチなナンパみたいですが、その時はこのチャンスを逃しちゃいけない、なんて」
くすくすと笑う姿は少女めいて微笑ましい。女性でも気になるものですかと問えば、可愛らしい女の子のことは誰だって好きですよと返される。
「話してみると中々人なれはしていないのか何処となくたどたどしくて。でも一挙一動が一生懸命で、なんというか、見ているだけで癒される子でした。…こんな姪っ子がいらっしゃるなんて何て羨ましいと三河さんに嫉妬したりして」
「姪っ子?」
「えぇ、トモコちゃんに聞いたらそう言っていました」
三河に姪っ子がいるという情報はない。経歴に不明な点はいくつかあるものの、家族構成等には疑問を挟む余地はなかったはずだった。
「あぁいえ。…その姪っ子さんについてもう少し詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか」
「それは全然構いません。けど、私もそんなにお話できるようなことは…」
トモコは長い黒髪を持つ、大変見目の良い少女だったという。こちらをまっすぐ見つめてくる目は大きく、ふっくらとした頬は紅をつけずともほのかに色づいていた。身長は一六〇を切らない程度で、モデル体型とは言わずもバランスの良い身体つきをしていた。
「出来のいいお人形さんみたいな子でした」
ぽつりと吐き出された言葉は抽象的だが、やけに力がこもっている。
「お人形?」
「はい。すごく綺麗な子だということもあるんですが、なんというか、表情があまり動かない子で」
「無愛想だったと?」
「というより、動かし方を知らないんでしょう。会う度に表情が緩んでくるのが、まあ表現は悪いですけど、動物を手懐けているみたいで楽しくて」
一瞬、言葉が止まる。あえて言葉をかけないでいると中島遥は自ずと話し始めた。
「私は、三河碩二、という方とあまりお話をしたことがありません。トモコちゃんと一緒にいるのを何度か見かけたくらいで、恐らく、夕暮れ頃に二人で出歩いていたんでしょう。一人にするのを本当は憚っている様子で、最初に私と話していた時でさえあまりいい顔をされませんでした」
ただ、と一泊置かれた言葉は思いの外力強い。
「ただ、トモコちゃんは三河さんのことを好きであるようでした。彼がやってくると、なんというか、表情が違っていました」
「それは、どんな風に」
「…的確な表現が思いつきません。トモコちゃんは言ってはなんですが、余り物を知らないようでした。一般常識はおろか、笑い方さえもおぼつかなかった。教えれば理解してくれますが、その、教育がされていないようで」
言葉尻がだんだんとしぼんでいく。ぽつりぽつりと思い出されるままに語られる話はあまりにも取り止めがない。しかしだからこそ『トモコ』という少女の人物像に輪郭が見えてくる。
「…トモコちゃんは、私に言いました。『遥さんは、どうして優しいの?』って。なんというか、答えにくい質問ってあるでしょう? 私にとってはこの質問がそれで、なんと答えたらいいものかと戸惑ってしまって…。そうして黙っていると、トモコちゃんが言ったんです。『私が可愛くて若いから?』って。まるで、幼稚園児がお母さんに聞くみたいでした」
「…それで、中島さんは何と返したんですか?」
「なんとか、そうじゃない、といいました。実際、トモコちゃんはとても素敵な子でした。でも、私の言葉は彼女に届いていたのかどうか」
小さく首を振る様子に、一瞬見たこともない少女の顔が浮かぶ。無知ではあったが、他人の懸命さに精一杯報いようとしたのだろう。慣れない笑顔を浮かべながら、相手への感謝を込めてただ理解したふりをする少女。
「刑事さん。秩父の山で見つかった腐敗遺体の事件には、少なくとも三河さんが関わっているんですよね」
「…それは、否定できません」
「では、トモコちゃんは今どこにいるんでしょう」
瞳はゆらゆらと揺らめき、声は緊張をはらんでいる。
「刑事さん。トモコちゃんは、死んでなんかいませんよね?」

言葉を濁し、立ち去るしかなかった。近々三河に関する情報はニュースで大々的に取り扱われるようになるだろう。報道は控えられているものの、いつまで抑えられるかの保障はない。
容疑者の身柄はすでに確保されているものの、事件としてはまだ死体遺棄罪の自供しか取れていない。殺人などの諸罪については三河も未だ肯定も否定もしていない状態だ。しかし事件の内容はあまりにも衝撃的で、世間の耳目が集まることは必至と言える。
そして、その懸念はすぐに現実のものとなった。過熱していく報道。警察へのお節介な叱咤激励も多くなり、瑣末なことの積み重ねによって多忙を極めた。
あらかたの区切りをつけて数日ぶりに帰宅すると、玄関のドアが開いていた。見覚えのある靴を目に入れるとすぐに、リビングの方から「おかえりぃ」と言葉が飛んでくる。
「今日帰るなら帰ると、連絡をくれ」
「忙しいかもと思って気を使ったのに、そういうこという?」
勝手に冷蔵庫を開けたと思えば、ビールを差し出される。買い置きは切れていたと思ったが、どうやら補充してくれたらしい。ありがたく頂戴していると、無言で紙の束が差し出される。
「ほらっ、それだけがお土産と思わないでよ」
ダイニングテーブルの椅子を引き、座る。みれば表紙に『人体の神秘展』と書かれている。
「どうしたんだ、これ」
「三河碩二。お兄ちゃんが知りたがった情報ってこれでしょう?」
パラリと資料をめくっていく。目に入ったのは、以前見たインタビュー記事であった。

関口:三河さんは唯一の日本人との事ですが、プラスティネーションの技術を学ぼうとしたきっかけをお伺いしてもよろしいでしょうか。
三河氏:はい。きっかけはドイツ旅行中にこの展覧会の主催者でもある博士にお会いしたことにあります。博士の工房を訪問し、そこにあった作品群に感銘を受けました。
関口:感銘、ですか。
三河氏:えぇ、ホルマリンでは美しさが保てません。しかしエンバーミングでは動きがつけられない。プラスティネーションの発展は、死後も続く美しさを約束するでしょう。私は、それを自らの手で作り出したい。
関口:作り出すというのは、具体的にどういったことを考えているのでしょうか。
三河氏:プラスティネーション技術には依然、限界があります。臓器を腐らせないために樹脂を置換させるわけですが、この過程でどうしても遺体に傷を作る必要があるのです。人間の内側というのも美しくはあります。血管も、筋肉も、人間を構成する上では大事な要素です。けれど皮を剥がれた人間を、“生きている”と感じる人はそうそういないでしょう。
関口:それは、遺体を扱っている上で当然のことと言えないでしょうか。遺体はそもそも、生きてはいません。
三河氏:そうですね(笑)。けれど私は、それを作り出せる気がしたのです。死んでいながら、誰もが“生きて”いると感じるような、死後の永遠を。
関口:だからプラスティネーション技術を学ばれたということでしょうか。
三河氏:運命の出会いだと思いました(笑)。

一通り読み、顔を上げる。随分と変な表情をしていた気がしたが、美月はそれを指摘したりはしなかった。
「言いたいことはわかる。実際、そのインタビューは掲載できなかった」
パンフレットに挟まれていた記事は美月が駆け出しの記者だった時、関口という男性の先輩記者と共に作成され、その異様さから掲載を差し控えられたものだったらしい。途中で切れていたのは単純に記録として残していただけで、実際のデータは別途管理されていたようだ。
「普通の、どこにでもいる男性のように見えた」
美月はそう呟き、当時のことを振り返る。
インタビューは実際の展覧会を見る前に行われた。三河は一見するよ、どこにでもいるような男だったという。黒々とした髪や切れ長の目、ピンと張った背筋には好感すらあった。でも、と言い淀む。
「でも多分あれは、自分がおかしいってことに気づいていなかったのだと思う」
三河の異様さに内心怖気付きながら展覧会を見て回った。正直に言えば内容自体はそれほどでもない。そもそもあの展覧会に興味を持って行く時点で、幾許かの覚悟をすでに抱えている。

“死体を使った曰く付きの展覧会”

プラスティネーション技術を使用したこの展覧会は数年の間もてはやされるものの、衰退していくのも早かった。倫理や道徳的な問題のほかに、使用された“遺体”の出処に不明点が多くあったためだ。予め検体許可が取られた同意済みの遺体を使用しているというのが主催者側の主張であったがしかし、来場者数が万を超える大規模な展覧会は大きなビジネスチャンスでもある。
どこの世にも“死んでいい”と思われる人間がいて、その人間たちが積極的に検体許可の取れた見世物になっていたとしたら。
事実という確定はされなかったが、そう主張している団体も少なからずいたことは確かである。
しかし、と妹はいう。
「そういった噂は、来場者としてはさしたる問題じゃない」
むしろ、それは興味を加速する情報になるときすらある。何故なら、来場者はただ提示された“作品”を見に行っているだけだからだ。それを良いだとか悪いだとかの天秤にわざわざかけたりはせず、興味があれば行くのである。
美月が展覧会を見て回った時、はじめは嫌悪感など湧かなかった。“本物の人体”であるという事実はあるものの、ぱっと見は出来のいい人体模型でしかない。展覧会のテーマである『健康と命の大切さを知る』というものにも大きく外れたものはなし。むしろ“本物”と知るからこそ、他の瑣末な情報に惑わされることもなくいい教材とも言えた。
「でも三河さんの作品は他と全然違っていた」
それは展示順で言うと最後にあった。通常の展覧会であれば、展示順は作品の流れを見せる重要な構成要素の一つである。しかし『人体の神秘展』自体は本来的な“美術展”とは一線を画していたためか、あまり脈絡があるとは言えない順番で並べられたという。しかし無作為に並べられた展示物の中に、そこだけ未来を暗示するかのように最後を彩るようにして“脚”が置かれていた。
作者の名前は書かれていなかったものの、それが三河の作品であると直感したらしい。説明書きを読むとその持ち主は事故にあった陸上選手のもので、本人の希望により展示されているとのことだった。
「血管が丸出しになった作品群の中で、それだけは皮で覆われていたの。樹脂のコーティングはそれ程綺麗とは言えなかったけど、それでも気持ち悪いほどに“本物”だった。クラウチングスタートの姿勢からピストルが鳴って、瞬間的に走り出そうとしているんだって、見た瞬間にわかった」
記憶は今も鮮明に残っているのだろう。顔をしかめながらも、言葉はよどみなく流れる。
「爪先から踵、踝、脛を伝い、膝を通って腿に至る。そこまでの連続性があれば次に臀部が来るはずなのに、それはいつまでたってもやってこない。見てはいけないものを見てしまった。これは“生きていた”脚だってようやく気付いた。こんな展覧会にやってきて、何をやってるんだって」
「それで、あの時『もう二度と行かない』って言ったわけか」
「そういうわけ。展覧会では昔の死体が展示されていることなんてざらだし、柄にもない感傷だけどね。それでも、三河さんのやりたいことってこういうことなのかなってわかった気でいた」
「どう考えていたんだ?」
「柄にもない感傷を与えるだけの作品を作り出したいのかなって」
「でも違っていたと気付いたわけか?」
「流石、察しがいい」
しばしの逡巡を挟み、美月は口を開く。
「この間、関口さんに連絡した。相手も連絡しようと思ってくれていたらしくて話しはじめはスムーズに進んだの。でもそこでちょっと薄気味悪い話を聞いちゃってね」
「どんな話だったんだ?」
「本人に聞いてみて。お兄ちゃんから連絡があることはもう言ってあるから」
携帯を差し出される。時刻は九時を僅かに回っているが支障はないのだろうか。美月の方に目を向けると、コクリと頷かれる。
電話は数コールで繋がった。促すと、私にも仕事の関係性がありますのでどうか内密に、との前置きがされて話は始まった。
『五年ほど前、懇意にしていただいている収集家の方のパーティーに参加させていただきました。パーティー自体は恙無く終わったのですが、その後見せたいものがあるといってその家のご主人に家の中へと案内されたのです。とても大きなお宅で、中も相当に入り組んだ様子だったため詳細はご説明できません。ですがたどり着いた先は、子供部屋であったことだけはお伝えいたします』
あえて口を挟むこともなく、先を促す。少しだけ戸惑いの色を見せつつも極力わかりやすく説明しようとしていることが伺えた。
『そこのご家族にはお一人、お子さんがいらっしゃるのですが血の繋がりはありません。つまりその、養子とのお話です。家業の跡取りとして将来性のある子を引き取ったらしく、十歳くらいの子供なのにそつのない、頭の良い子でした。ただ、義理の両親となったその収集家の方にはまだぎこちない様子で、それだけは不思議に思ったものでした。けれど案内された部屋に入った時に、その原因がなんとなく察せられたのです』
『その部屋に、何があったんですか?』
『あれは、赤子の遺体でした』
思わず息を飲む。視線を彷徨わせれば美月が勇気付けるように目を合わせ、頷いた。
『…それは、まさか』
『えぇどうやらその赤子は、三河碩二によって加工されたようなのです。収集家の方々の実のお子さんで、生まれてもすぐに亡くなってしまうだろうと医師に宣告されていたそうです。それが原因で子供の産めない身体になってしまったとの話でしたが、それを聞いたとしてもご両親が何を思って赤子をその様な目に合わせたのか。私には理解できませんでした』
『聞いてみたりはしなかったのですか?』
『…ただ、忘れたくなかったそうです。生まれた瞬間の産声も、腕の中で安心したように眠る寝顔も、全部を留めておきたかった。そして私から見ても、その期待の全てに三河碩二は技術を持って応えていました』
深いため息をつき、関口はいった。
『技術は時に、人の道を大きく狂わせます。それは周囲にいる人をも巻き込む、大きなうねりとなるのでしょう』
先日、この富家の養子の方と会う機会が会ったのだと言って、関口との電話は終わった。その養子が言うには未だに子供部屋はあり、両親はそこに頻繁にこもるようになったという。まだ未成年である養子は、それでもここまで育ててくれたのだからと、諦念をにじませながらも笑っていたという。

三河碩二と、久方ぶりに対面する。関口との電話後、証言や状況を鑑みて一つの結論にたどり着いたからである。いわば、答え合わせの場を設けたことになる。
表情は常通りに引き締められ、背筋はピンと張られているものの、表情には疲れが見える。数々の証言から伺える人物像を考えれば疲れなどとはこちらの気のせいなのかもしれないが。
「三河さん」
「はい」
「貴方はトモコちゃんという子を加工するよう、誰かに依頼されたのでしょうか」
調書を取るための鉛筆の音がピタリと止まる。解釈しづらい言葉に、自分の耳の方を疑ってしまったのだろう。三河は、と見れば一文字に結ばれた口元が小さく開き、少し驚いているようだ。しかし気をすぐに取り戻したのだろう。わずかに緩んだ表情と共に、一息つかれる。
「あぁ、行き着きましたか」
「ということは、そうなんですね」
「そうです。トモコは私の元に、突然連れてこられました」
一年ほど前に、三河の元に依頼が舞い込んだ。不治の病におかされ、余命いくばくもない娘がいる。娘の美しい姿をせめてもの慰めにしたいから、三河の持つ技術で永遠に止めて欲しい。
プラスティネーションに関する様々な問題によって、展覧会での収益は見込みがなくなった。三河の所属していた団体も解散し、彼は職を失うことになった。それ自体はさしたる問題でなかったものの、技術を磨ける場所がなくなることは痛手となる。しかしそこに差し出される救いの手も必ずとあるもので、三河が磨いた技術を生かし、金を同時に得ることのできる方法は向こう側からやってきた。
それが、プラスティネーションを希望する個人を相手にした商売だったのだ。
彼は生後間もない赤子を加工し親を慰めるときがあれば、遺される者に死後の感傷を約束することもあった。
一度話し始めた三河は、驚くほどに滑らかだった。
「私は少し変わっているようでして、勝手に話し始めると人を不快にさせるらしいのです」だからこそ、今回の件もどう説明したらいいのかと考えあぐねました。そう言って困ったように頭を掻く三河の姿に、ぞっと怖気がたっても仕方がないだろう。昨今は多少和らいでいるとはいえ、業を煮やした刑事の恫喝を彼はまるで意に返していなかった。
「私はトモコを半年間預かることを条件に、その依頼を受けました」
「何故半年間だったのでしょうか」
「死後に続く永遠の中には、生前の面影がなくてはなりません」
余命いくばくもないからと、それでも妥協したという。三河の意思が固かったため、相手も最後には大方の条件を飲み、定期的な連絡と帰宅を条件に三河とトモコは生活を共にし始めた。
「始めの頃はとてもぎこちないものでしたが、共同生活はそれほど難しいものではありませんでした」
トモコは学がなかったが、それは三河も同じであった。「知らなければ、知っていけばいいだけです」そう言い切る三河の言葉は変に力も入らず自然なもので、心の底からそういった考えを持っていることが伺える。
トモコは家事が不慣れで、最初の頃は洗い物の度によく食器を割った。皿もコップもプラスチックのものに変えれば徐々に慣れ始め、新しくガラス製の食器を買い与えるとそれを日がな一日眺めていたという。
一度トモコが自宅に戻された時、洗い物のために肌が荒れた為、それを理由に三河が怒られた。監視がようやくいなくなった時、トモコは涙を溜めながら三河に訴えたという。
「彼女は『洗い物はこれから出来なくなるのか』と、私に涙ながらに訴えてきたんです。本人がやりたいというものを取り上げる理由はない。私は翌日から手袋をつけるように言いつけました」
部屋の端で調書を取る音が消えて久しい。私は一体、何を聞かされているのだろうか。脈絡もなく始まる思い出話はしかし、三河の中では確かに繋がりをもったもののようだった。
「私は逐一、その表情を観察していきました。行動、それに伴う結果やトモコの感情の推移を。死後も美しくあるようにと願って彼女が笑い、泣き、走り、飛ぶ。表情や身体がどう動いて、どう止まるのかを一瞬も知らないことがないようにつぶさに見続けました」
そうしてあっという間に四ヶ月が経っていた。
わずかな沈黙が落ちる。三河は思い出というよりもただ事実を辿るようにして話しているようだった。そこに三河の感情がどう作用しているのか、判断が全くと言っていいほどにつかない。生と死は延長線上にあるものの、そこには誰しもに見えない壁が存在している。けれどこの男の中では生と死の間に垣根などないのだろう。生の為に死があるのではなく、死の為に生がある。三河と一般的な人間の間にある齟齬は、永遠に交わることがない。
「トモコは物事だけでなく、言葉もよく知らないようでした」
三河は言葉を教える為に、指でさし示し、音を言い聞かせ、根気強く教えていった。幸い、トモコは物覚えがよく、一ヶ月も経てば日常の会話に支障をきたすこともなくなった。しかし、言葉を覚えていけば自ずと、見えなかったものも見えてくる。
「ある日、トモコは私に聞いてきました。 “若い”というのが何なのか。 “美しい”というのは何なのか。そしてそれは、“死”ななければならないものなのか、と」
「…三河さんは、なんと答えたのですか?」
「今思えば、私の説明はとても拙かった」
三河はその場にあった林檎を例えにした。青い未熟な林檎と、赤く熟れた林檎。青い林檎は若く、赤い林檎は若くはない。けれど摘み取ってしまったのならば加工してジャムにでもしない限り、どちらも死んでしまう。
「トモコは納得していないようでしたが、それ以上のことを聞く様子はありませんでした」
恙無く日常は進み、約束の半年があと数日のところまで近づいてきたある日。
三河はトモコから異様な提案をされた。
「言葉を知ったトモコは自分の置かれた立場を理解して、私に一つの頼み事をしてきました。『私が死んだら山の麓にでも捨て置いて、私はあとに残りたくない』と。私の目をまっすぐに見つめて言いました」
トモコは気づいてしまったのだ。自分は不治の病になどおかされておらず、ただ一人の変態の悪趣味によって勝手に殺されそうになっていたことに。
「三河さんは、その事実を知っていたんですか?」
「いえ、私は何も知らなかった。しかし知っていたからといって、依頼を受けないわけでもない。その質問は無意味というものです」
トモコはその時、微笑んですらいたという。全てを受け止める覚悟を持って、しかし最後の足掻きだけは諦められなかった。
「トモコの願いには、さすがに驚きを隠せなかった。けれど同時に、納得もしました」
「貴方はその願いを聞き入れたからこそ、遺体を山中に捨てたのですか?」
「まさか。私は『それならば一緒に逃げよう』と言いました」
一瞬、虚を突かれる。まさか三河からそんな人情味が滲むとは思ってもみなかったからだ。しかし、そのある種の期待は、すぐに裏切られることになる。
「私はトモコと生活を共にしていく内に、どんどんと分からなくなっていたのです。彼女の死後をどう彩るべきか。彼女の死体をどう表現していくべきなのか。それを知る時間は多いほうがいい」
「まさか、彼女に言ってはいないですよね?」
「いえ、伝えました。彼女が『その心は?』と尋ねてきた。ならば答えるべきでしょう」
思わず絶句する。すると「刑事さんはわかりやすい人ですね」と、三河は珍しく笑っているようだ。
「トモコは私の答えを聞いて、声を上げて笑いました。『三河らしい』と言って。けれどそこまで笑うトモコの姿は珍しいもので、私はトモコのことがますますわからなくなりました」
数日後に迎えはやってくる。けれどトモコはそれを待たずしてもう行くのだと言った。迎えの車を自分で呼びつけ、待っている間に一言だけ、三河に言葉を遺した。
『私は死ぬわ』
どこか晴れ晴れとした表情で笑うトモコのことを、三河は引き留めることができなかった。
「話を聞く限り、貴方がトモコさんを山中に捨てた理由がわからない」
どうせ死体になれば加工するつもりであったのでしょう。薄々と理解される三河の思考回路に毒されつつあることには気付いていた。案の定、三河はそれを否定しない。
「はい。トモコが帰って来れば、予定通りに処置を進めるつもりでした。未だ腹を開かなくては臓器の加工はままならないですが、丁寧に、傷を極力残さぬようにするため何度もシミュレーションを行いました。技術的に不可能であった柔らかな肌の表現は、新鮮な内ならばまだ望みはある。それを先方に言い含めることも忘れはしませんでした」
「…貴方は本当に気持ち悪いですね」
「よく、言われます」
困ったように笑う目の前の男に不快感が募り出す。トモコのことを大切にしていると感じれば、それを裏切るように平然と残酷なことを口にする。男の心がどこにあるのかが解らず、もしかしたらそんなもの初めからないのかもしれない。
「では、それならばなんで山中に遺体を捨てたんですか」
ずきりと痛み出す頭を抱え、絞り出すように声をあげる。すると、思いの外静かな声が返ってきた。正確に言えば、捨てざるを得なくなったのです、と。
生前の行動パターンや表情をつぶさに観察し、“生”を死後に遺すことを目的として今まで技術を磨いてきた。それはなけなしのプライドで、今まで話せなかったのはこの失敗が恥でもあったからだという。何度となく手を加えても満足できず、何時の間にか取り返しのつかぬほどに腐敗が進んでいた。
三河の浮かべる表情が物珍しく、思わず惚けた声で問いかける。それは何に満足できなかったと? いえそれは、わかりきったことでしょう。

「私の頭の中にあるトモコの笑顔が一番美しかったからですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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