ゆりかごの歌が聞こえる

梗 概

ゆりかごの歌が聞こえる

 子どものベッドに母親が一緒に横になり、耳元で「しー」、そして胸を「とんとん」と叩いていると、すっと子どもは眠りに落ちる。ベッドの上には、白い板が五つぶら下がったメリーが揺れる。
 母胎の内包する音とリズム――「しー」そして「とんとん」――は、人々に子宮の中にいるような安心の眠りを提供する。この真っ白な磁器のような物質は、睡眠導入素材――通称〈導眠材〉――と呼ばれ、母胎の音とリズムを増幅して拡散する性質を持っている。子どもの枕元に置けば子どもの睡眠を快適にし、部屋の壁に用いれば快適な睡眠環境を常時生み出すことができる。
 快眠に飢えた社会は、様々な建築・施設に〈導眠材〉を組み込み、開発元の企業がある日本はもとより、世界中で〈導眠材〉の普及が加速する。やがて普及率が一定量を超えた時、異変は起きた。世界中の人々が、目覚めなくなったのである。彼らは、衰弱することも加齢することもなく、ただひたすらに眠り続けた。
 〈導眠材〉が互いに共振し、効果を拡大する中、その効果の及ばない人々が現れる。母親の胎内を知らない――人口子宮で産まれた者たちだ。未だ発展途上の技術であり、感情が薄い、共感性が乏しいなどの偏見にさらされてきた彼らは、自分たちだけが覚醒しているこの状況を神の恩恵と考え、人口子宮こそが処女懐胎の象徴的実現であるとして新興のキリスト教団を組織し、母胎を用いた出産を全面的に禁止する。同時に、精子と卵子の選別が開始され、教団への貢献度に応じてヒエラルキーが決められ、男性原理に基づいた階級社会が発生する。また、眠る人々は〈夢民〉と呼ばれ、堕落の象徴として囲い込まれた。
 そんな中、子どもを自分の体で育てたい、産みたいという人々が現れる。彼らの存在は、教団の秩序を乱すとして異端審問の対象となり、処刑の対象ともなったが、世界各地で非合法の地下出産が行われた。しかし、母胎を介して産まれた子供たちは〈導眠材〉の影響を受け、出産直後から〈夢民〉となり、成長も衰弱もせず、そのままの姿で生き続けることとなった。
 やがて、子どもを目覚めさせたい、と願う親たちが現れ、〈導眠材〉の破壊工作や、〈導眠材〉の影響を遮断する素材の研究などが行われたが、教団は〈夢民〉の覚醒を目論む一派の存在を危険視し、積極的排除対象として粛清し始める。
 一方、子どもを産んだ音楽家の女性が、母胎の生み出す音とリズムが、必ずしも安らぎだけを引き起こすものではないのではないかと考え、生命の歓びが高揚感へとつながるような音楽を作り出した。この音楽は〈導眠材〉を媒介にして、全ての〈夢民〉に働きかけ、彼らの体は突如として歌いだした。地球全体が母胎の音楽を奏で初め、教団の女性も、自らの内なる子宮に音楽を感じ、世界はただ一つの歓喜に包まれる。
 ――母胎を知らず、母胎を持たない男性たちをのぞいて。

文字数:1179

内容に関するアピール

 百人を超える高校三年生男子が、一つ所に床を延べている(なんて広い部屋だ)。時間は午後九時過ぎ。そんな時間に、彼らが静かに眠ろうはずなどなかった。
 にもかかわらず、私の「しー」は、夜の海を前にしているかのように広がっていき、彼らのざわめきは沈静化した。実に奇妙な光景だった。
 「しー」は、我々の体の中に、何かのトリガーとして存在している。
 物語の核に母胎を据えると決めた段階で、ラストシーンで犠牲にされるべきものは必然的に決まった。現代の日本社会の問題の根幹、すなわち男性原理に基づく組織的秩序を、気持ちよく美しく、希望をもって破壊したいと思う。

文字数:273

ゆりかごの歌が聞こえる

   

「今日は眠ってて大丈夫なの?」
 胸に置かれた母親の手を握って、少女は尋ねた。母の手は一瞬ためらい、次に反対の手の人差し指を少女の唇に当てて、しーっとその言葉を封じ込めた。
 外は静かだった。三日前まで続いた〈収穫(ハーベスト)〉の暴動は、壊れた壁と車、そして誰の声もしない夜の町に姿を変えていた。人工子宮から産まれた〈ハーベスト〉は、感情の働きが弱い傾向がある。だから、この暴動も〈労働者解放軍〉の煽動によるものではないかと報道されている。
 母は少女の胸をゆっくり優しく叩き続ける。自分の鼓動が早まっていくのを無理やり抑えるように。次第に、少女の寝息は規則正しくなり、もはや怯えを隠さない手は、それでも同じリズムを奏で続ける。
「エメルは寝たかな」
 父親の声と共に薄く開かれたドアの隙間から、廊下の薄明かりが母親の頬を照らし出す。涙がとめどなく流れている。
「本当に、そうするしかないの」
「〈莢(ポッド)〉から産まれた子供は、妊娠しない。そういう女の子が、奴らにさらわれてどんな末路をたどるか、分かってるだろう」
「私のせいよ。私がここに嫁いで来なければ」
「何を言ってるんだ。君が来たから、僕は――僕たちは幸せな時間を過ごすことができたんじゃないか」
 父親もまた、涙に詰まってうまく言葉が継げない。右手に握りしめた黒い鉄の塊だけが、この夜の静寂を破る手筈を整えている。明日になれば聞こえてくるだろう罵声と怒号を想像しながら、父親は娘の手を握る。その温かさを感じながら、懺悔の言葉を無言のまま繰り返す。
 エメルは眠れない。母親の奏でるリズムは、命を育む鼓動のリズムだ。お腹の中を知らずに産まれたエメルは、その音の持つ安らぎの意味も知らない。そして、父親が携えてきた、たった一つの音がもたらす安らぎの意味も。

 高高度のヘリから、夜の地上の様子は宝石箱のように見える。彼らが等しく持つべき宝石を独占しているエディア・マルフ技術都市――そこに、彼らは等しく眠りをもたらす。
「〈タブレット〉、投下!」
 ラサの視界にあるだけで十数機のヘリから、〈導眠材(スリーピング・タブレット)〉が次々と投下される。その数、一機あたり三十から五十。真っ白くて巨大な板が、未知との遭遇を濫造するように、幸福な大地に突き刺さっていく。あとは、地上で最後のトリガーを引いてやれば、この町に住む幸福な一般市民は、安全で永続的な眠りの世界に招待される。
「想像してた以上に壮観だな」
 ロスは〈葉っぱ(リーブズ)〉をくちゃくちゃやりながら、パラシュートをチェックする。噛む麻薬としては強力な部類に入るが、情動の弱い〈収穫(ハーベスト)〉にとっては、束の間の離脱(リーブズ)ほどの効果しかない。
「いいから早く飛べ。お前らが〈タブレット〉に干渉しないと、〈偉大なる眠り(ゴールデン・スランバー)〉はスタートしないんだぞ」
 ラサの耳にも〈解放軍〉の本部からの命令が飛ぶ。小隊全員の耳は、しっかり上官とつながって、その手綱から解放されることはない。ロスだけが嫌な顔一つせず、一方通行の通信に対して返事をかえす。
「〈収穫〉された〈葉っぱ〉が、上級市民に眠りのプレゼント!」
 ロスの口から吐き出された〈リーブズ〉が、闇と暴風の中に消えていく。
「馬鹿なこと言ってないで早く飛べ」
 小隊を仕切るカタンが、ロスの背中を蹴る。ロスは大仰な身振りで、闇の中に飛び出した。カタンはロスより一つ年下だが、小隊に年齢は関係ない。強いか、弱いかだ。カタンはヘリの中に残る〈リーブズ〉の臭いに毒づく。ラサは、手の中の物をポケットに戻した。
 ラサは機内に掲げられた歯車と曲刀の旗を見据えた。〈労働者解放軍〉の象徴だ。二十一世紀後半、世界的な社会福祉の充実と反比例して起きた労働者不足に、経済的資源を持たない国は〈労働者〉そのものを生産することで対応した。つまり、人工子宮〈莢(ポッド)〉をキメラのごとく繋ぎ合わせて作り上げた〈母胎樹(リンデン)〉によって、〈収穫(ハーベスト)〉を量産し始めたのだ。
「ラサ、どうした。今更、旗なんか見て。僕たちを縛るものが〈歯車〉から〈曲刀〉に変わっただけ――なんて現実にでも気づいたか」
 ロスの状況を見定めながら、次に飛ぶリツが笑顔を作る。
 初期の〈ポッド〉には欠陥があり、男児しか産まない。これを組み合わせて作られた〈リンデン〉の〈ハーベスト〉ももちろん男ばかりで、これがむしろ労働力だけを欲する国にとっては都合がよかった。
 〈労働者解放軍〉は、中東の貧困国で生まれた組織だが、彼らが使う兵士もまた〈ハーベスト〉だ。
「〈労働者解放軍〉は、〈労働者〉を解放する軍、じゃなくて、〈労働者〉を解放して作った軍、だからな」リツの軽口に真っ向から返す。
「ラサもそういうこと言うようになったか。ロスとは違うね」
「ロスは筋金入りの〈兵士〉だ。だから、この生活の中にも自由を感じられる」
 カタンが手の平のパッドを操作しながら応える。小隊長だけが、双方向の通信端末を所持している。パラシュートと武器の確認を終えたリツが、手を挙げて闇夜に飛び込んだ。
 旗は褪せた血の色だ。僕たちを売買する奴らは、金持ちも幹部も、決して血を流したりしない。早く自分だけのための仕事がしたい。自分の金になる仕事が。目標のマンションに灯る無数の明かりのどれか一つでも手に入れられれば。
 実現不能の想像は苛立ちを募らせるだけだ。本部と通信しているカタンの目を盗んで〈リーブズ〉を奥歯に放り込む。手を挙げて飛ぶと、風の叩きつける音が胸の中心に重く響いた。

――真っ白なシャツを第二ボタンまで開けて、髪を後ろに撫でつけた長身の男性が、腕の中で一向に眠らない我が子の様子にため息をついている。笑いながら子どもを受け取る母親。彼女もモデルのような長身だ。子どもの背中に添えられた母親の手の平が、規則正しく紡ぎ出すリズムが、オーケストラのBGMとマッシュアップされる。カメラはいつの間にか3Dレンダリングされた家の全景まで引いていて、家の様々な場所に使用された〈導眠材(スリーピング・タブレット)〉がBGMに合わせて、リズミカルに青く光る。再びカメラは父親にフォーカス。後頭部越しに子どもの寝顔が映し出され、ぐるりとカメラが転回すると、父親もまた子どもと一緒にベッドで眠っている。母親がウィンクして扉を閉めると、暗転した画面に〈クレイドル・ヤード〉の文字が浮かびあがり、「家族を包み込む天使の家――夢の天使がゆりかごを揺らし、毎日の快適な眠りを演出します」というナレーションが流れる。
――〈導眠材(スリーピング・タブレット)〉は母胎の内壁の周波数特性を疑似的に再現し、母胎内部の音を反復・増幅する建築資材です。それによって、住宅内部における睡眠への導入を容易なものとします。また、〈導眠材〉化にかかるコストが非常に安価でありながら、固有振動数の副産物か、資材そのものが燃えにくく壊れにくくなるという利点もあります。そのため、当初想定されていた先進国の富裕層という客層を超えて、様々な国や地域の多様な客層に向けて〈スリーピング・タブレット〉は――あるいは、単に〈タブレット〉とも呼ばれますが――一気に普及しました。
――番組冒頭でご覧いただいたのは、〈タブレット〉を大々的に導入した分譲住宅の宣伝です。これによって、町のある区画全体が母胎のリズムに包まれ、安心と安らぎの町が出来上がります。〈クレイドル・ヤード〉と呼称されるゆえんです。

 隣国で放送されている経済番組の説明を聞きながら、〈解放軍〉の幹部がテレビのディスプレイを指で弾いた。
「〈クレイドル・ヤード〉が広まってくれれば、この仕事はいくらか楽になるな」
 隣で唸りを上げているPC――廃品を寄せ集めてリツが組み立てた、この十五区の本部唯一のPC――につながれたディスプレイの方は、SNSの情報を更新していく。タグには〈タブレット事故〉――〈導眠材〉の開発元の企業を有する日本で、半年前に起きた昏倒事故と〈タブレット〉の関係について週刊誌が煽り立てた記事が、ネット上では何度も何度も反芻されてきた。それに対するネット活動家たちの絶え間ない同調と揶揄の数々が、デモ行進でもするようなスピードで流れていく。
「これ自体は、あくまで三面記事の域を出ないんだよな」
「そうでもないみたいだぞ。昏倒事故も、結局のところ、臨床試験の段階から既に副作用の可能性が示唆されていたから、素早くもみ消されたらしい」
「もみ消したのか」
「そう」
「あきれもんだな」
「どこの国でもそうだろう。経済活動が一番、人命は二の次だ」
「でも、危険は危険なんだろ」
「いや、昏倒のための条件がシビアだから」
「いくらだっけ」
「一立方メートル当たり一平方メートルの割合で、最低でも一万平方メートルの敷地。これが理論値。半年前のこの事故も、二つの〈クレイドル・ヤード〉が隣接したのが直接の原因らしい」
「じゃあ、これから増えるな」
「もう増えてる」
 ブラウザのタブを切り替えると別のページが現れる。それはリツの手になるSNSのまとめサイトで、写真付きの昏倒事故現場が八ページにわたって紹介されている。どれも富裕層向けの〈クレイドル・ヤード〉で起きた事故だ。写真はどれも感情を排した記録的な構図で、〈収穫(ハーベスト)〉が撮影者であることは明らかだ。危機感も含めて、彼らは感動から遠いところにいる。
「でも、そんな膨大な数値、実験できる場所、ないよな」
「それをまとめたリツっていう〈ハーベスト〉が、ハッキングしたデータと、あとはそれ、その始終唸ってるそいつを使って計算したって」
「それで〈偉大なる眠り(ゴールデン・スランバー)〉作戦、ってわけか」
「ああ。これがうまくいけば、〈解放軍〉の活動は大きく前進する」
「そいつ、優秀だな」
「優秀でも、所詮は〈ハーベスト〉さ。せいぜい〈タブレット〉の影響を受けない、っていうことぐらいしか、評価されないだろう」

 ラサが降り立った夜の広場は、真っ白な噴水と石畳の美しい公園になっていた。破壊の痕跡のない石畳など初めて見た。ラサは、足の裏に感じる平らな地面に〈葉っぱ(リーブズ)〉を吐き捨てた。
 広場の北端の大通りをまっすぐ行くと、目当てのマンションだ。〈導眠材(タブレット)〉は既に、白漆喰の町並みの調度品のように美しくそこに収まり、きっかけとなるトリガーを待ち構えている。ロスとリツはマンションの入り口に三角形に配置された三枚の〈タブレット〉の準備に取り掛かっている。ラサもすぐに持ち場につく。
「〈ゴールデン・スランバー〉の準備は?」
 パラシュートを処理しながら、カタンが問いかける。右手は絶えず本部と情報をやり取りしている。他の地区との連携は計画の必須条件ではないが、少しでも不安要素を取り除いておきたい、というのが本部の意向だ。
「あと五分か。余裕だな」耳に届く命令に、ロスがつぶやく。「とっとと寝かしつけて、お仕事だ」
「時間は十分。でも、その〈ゴールデン・スランバー〉ってのは、なんとかならなかったのかな」リツが溜め息を吐く。
「お前の発案じゃないのかよ。お前の考えた計画だろ」
「計画だけはね。そんなことに、百年生きた名曲のタイトルを借りたりしないよ」
 リツはロスを睨み付ける表情を作る。感情の動きの弱い〈ハーベスト〉に音楽の価値は分からない――と、少なくともラサは思っている。だから、一般人の真似事をするリツが時々うっとうしい。自分たちが一般人とは違うということを、突き付けられている気分になる。
「警察が動かないとは限らないんだ。無駄口叩いてないで、ケーブル繋いで」
 カタンが鋭く言い放つ。視線はパッドから離れない。周辺の警官や警備員の動きは、リツの組んだプログラムが可視化してくれている。
 ラサはマンション入り口に面した〈タブレット〉の三箇所にケーブルを差していく。〈タブレット〉の本体は木材だが、〈導眠材〉化する過程で材質そのものは柔らかくなっている。にもかかわらず、耐久性も耐火性も飛躍的に向上している、というのが信じがたい。
 準備を終えるとラサは背後を振り向いた。五階建ての低層マンションだが、世界的なシェアを誇る電子部品企業ELOの社員が多く居住しているとかで、部屋ごとにあしらわれた巨大な一枚ガラスが印象的だ。今は磨りガラスのように白く曇っているが、日が昇れば透過色に変化する。地下のガレージにはヨーロッパの高級車が並んでいて、見えない柵が侵入者を監視している。そしてもちろん、寝室には〈タブレット〉が使われている。
 境界を一つ越えるだけで、見たこともない日常が広がっている。
「カウントダウンを始める。十、九――」
 耳の向こう側は元の世界。ラサはスイッチに手を掛け、唾を飲み込んだ。
「――二、一、ゼロ」
 心音に似たリズムが送り込まれ、同時に四人は歯擦音を発する。「しー」という鋭い音は、心臓のリズムに乗って町中に乱立する石板(タブレット)を飛び交い、音の力を強めていく。
 ラサは〈タブレット〉の表面に耳を寄せる。ここから、自分たちの知らない音、母親の胎内で聞こえていた音が発せられ増幅されているのだ。
「何も聞こえない」
 リツがラサの肩に触れる。気の毒がる様子ではなく、共に残念がるような、そんな触り方だった。
「そらそうだ。俺たちは子宮を知らないんだから。特にお前らは、二重の意味でな」ロスの馬鹿笑いは、誰にも届かずに夜の闇に溶けた。
 カタンが眉を顰める。手を振って三人についてくるよう指示する。手の中のパッドの灯りが三人を導く。
 入口も外階段も、全てネットワーク経由で管理されたロックシステムは、リツにとっては存在しないも同然だ。廊下には警報が鳴り響いていたが、起きてくる者は誰もいない。命令どおり、まずは最上階の一室を目指す。そこに住むELOの主任研究員を確保することがカタン小隊の第一目標だ。
 決して失敗することのないミッション――それでもラサは、気づけば爪が食い込むほど強く手を握りしめていた。
「奪うんじゃない、奪われたものを取り戻すんだ」
 そんなことは言われるまでもない。それでも、自分が労働者から兵士に変わるこの瞬間を、忘れるべきではないと感じていた。
「緊張しているのか」
 目標の扉を前に、カタンがラサの拳を解く。
「俺たちは暴力を振るいに来たわけでも、命を奪いに来たわけでもない。落ち着いていこう。これは一歩に過ぎない」
 カタンのパッドを操作し、リツは玄関扉を開けた。電気がついたままの廊下を真っ直ぐ行った先にリビングらしき広い部屋が見えるが、そこは暗い。寝室かそれぞれの居室か。カタンはパッドから部屋の間取り図を開いた。指示を出すと、自身はリビングへと直行し、ロスとリツもそれぞれ、リビングの脇に伸びた廊下に消えた。
 ラサは、玄関から一番手前の扉に手を掛けた。ノブはカットされたガラスで、熱を帯びていた手は冷たさを感じ、頭の芯が冷静さを取り戻していく。
 ノブを回すと、扉は音もなく開いたが、途中で何かに引っかかったように、動きを止めた。力を込めると少しだけ奥に押しやることができる。この柔らかさは人だ。扉際で眠りに襲われたのだろう。開いた隙間から体を滑り込ませた。中から動かした方が手っ取り早い。ことによると、この人物が作戦対象かもしれない。
 入ってすぐの壁を探り、電気をつける。
 部屋にはベッドが一つあり、そこに少女が座っていた。長い髪の間から大きく見開いた瞳でラサの目を見返している。驚きも恐怖もない。ただ、そこに現れた少年の目を見つめているというだけ。〈収穫(ハーベスト)〉だ。
「何が起きているの」
 少女の視線を追うと、扉がつかえていた原因――彼女の両親らしき二人が、折り重なるように昏倒していた。
「どうして、お母さんとお父さんは起きないの」
 問いながら少女は、行動する様子を見せない。両親を揺さぶってみるでも、抱き起こそうとするでもない。ただ、ベッドの上で上体を起こしてラサの方を見据えているだけだ。見たところ、十二歳のラサよりも二つ三つは年下だろうか。それでも、自分の両親に何かあって、ただ座っているだけという年ではあるまい。
 想像しようとしてラサは、両親という存在をイメージすることの困難に阻まれた。同じ〈ハーベスト〉でありながら、あまりにも違う。〈母胎樹(リンデン)〉で量産された自分と、最新式の〈莢(ポッド)〉で求められて産まれた少女とでは。
 力が抜けて座り込むと、部屋の様子が目に入った。書棚には色鮮やかな本が並び、机の上には勉強道具が置かれている。壁には少女自身が描いたのだろう、三人の家族が花火の下で飲み物を飲んでいる絵が貼られている。どれも、ラサの手には入らないものばかりだ。
 胸の奥底に重石を抱えているみたいだ。怒りに任せて暴れられれば楽なのかもしれない。腰にはナイフがある。なのに心は、激しく波打つことなど決してない。ただ、ここにうずくまって、動けないことに苛立つだけ。せいぜい、ポケットの中の〈リーブズ〉を噛むことぐらいしかできない。〈リーブズ〉を噛んでいる間だけは、この場にいないふりをすることができる。
「ねえ、これは何」
 少女が右手を上げた。その手の中に握られている物に、部屋の空気は一変した。
「それを、どうした。どこで……」
「お父さんが持ってた」
 黒光りする実在感がラサの背筋を凍らせる。銃口をこちらに向けて「これは何」もないだろう。
「どうして手を上げてるの」
「銃を向けられたら、無抵抗を示すためにこうすることになってるんだ」
「これは、人を傷つける道具なの」
「本当に知らないのか」
「だったら、どうして父さんはこれをわたしに向けたの」
 少女の疑問が、そのままラサの胸に落ちてくる。無理心中でも企てたのか。でも、なぜ――。倒れたままの少女の父に視線を向けた。右手が不自然に開かれている。少女は何もせずにただ座っていたわけではなかった。
「何かの間違いだったんじゃ」
「何の間違いなの」
 間違いで銃口を向けたりしない。そんなことは分かり切っている。相手を脅すか殺すか――いずれにせよ、殺す気もないのに銃を構えたりしない。だからこそ、間違いで済ませたかった。
「なかなか、いいシーンじゃない」背後からロスの声。「ここに一家全員、いたってわけか。ミッション・コンプリート、だな」
 ラサが止める間もなく、ロスはしゃがんで少女と視線を合わせた。少女は首をかしげつつも、銃口をラサからロスへ変える。ロスは伸ばしかけた手を引っ込めた。
「かわいい子じゃないか。ラサ、独り占めしようなんて、人が悪いぜ」
「お前らみたいなゲスと一緒にするな」
「お前ら……ねえ。お前さんも同じ種無しの〈収穫物〉だろうに」
 ロスの右手がラサの髪の毛を掴んだ。そのまま、後ろの壁に叩きつけられる。手を振りほどこうとしたが、侮蔑の眼差しがラサの怒りをあっさり射抜く。ロスは、昔から〈解放軍〉に参加している根っからの兵士だ。これもまた、ラサの知らない現実。視線をそらさずにいられない。
 突然、乾いた音が家中を震わせた。
「こいつ、ほんとに撃ちやがった」
 ロスが左耳を押さえてうずくまった。床に血だまりが広がっていく。
 銃のセイフティが外れていた――それは紛れもなく、少女の父親が撃つつもりで銃を構えていた、ということを意味している。
「ちくしょうちくしょうちくしょう! いたいあついいたい!」
 ロスは立ち上がり、座ったままの少女に詰め寄る。ラサは慌てて少女の手から銃を奪い、ロスに向けて構えた。
「おいおいおい、何考えてんだ、お前は。目的を見失うなよ」
「目的はそこに転がってる父親だろ。娘は注文に入ってないじゃないか」
「分かってないのはお前だ。〈ハーベスト〉の女は貴重なんだよ。第五世代以降の〈莢(ポッド)〉から、しかも二十パーセントの確率でしか産まれないんだよ」目の前に突き付けられた銃身を掴んで、自分の胸に当てる。「俺たちなんか、所詮使い捨てなんだよ。兵士だろうが労働者だろうが。だったら、俺たちの目的は何だ。〈解放軍〉の命令だけに従って、〈歯車〉みたいに動くことか」
「撃たないと思ってるんだろ」
「違うね。撃たれてもかまわない、と思ってるんだ。俺は、いつ死んでも後悔しない」
 ロスの表情は、その言葉が真実であることを物語っていた。口元は冷たく歪んでいるだけ、目の中にはどんな微細な感情も見えない。試されているのはラサだった。少女の引いた引き金を、自分は引けるのか。
「ロス、言い過ぎ」廊下から現れたリツがロスの肩に手を置く。
「ラサ、お前の負けだ。ロス、リビングで手当てしてもらってこい」ロスは抗議しようとしたが、カタンの有無を言わせぬ様子に毒づきながら、部屋から消えた。「ラサ、もういい。銃を貸せ」
「僕は……僕は」床にへたり込んだラサの手から、カタンは銃を抜き取った。
「そういう道具だったんだ。そういう道具だったんだ」少女の口は同じ言葉を繰り返している。視線はロスを追ったまま行き場を失い、宙をさ迷っている。「お父さんはこれをわたしに向けてたんだ。そういうためだったんだ」
 カタンが疑問の表情をラサに向ける。ラサは手短に事情を説明した。
「これは、君のお父さんのデバイスだ」カタンは、自分のパッドより一回り小さな端末を少女の前に差し出した。「これによると、君のお父さんの元にはテロリストの襲撃情報が届いていたみたいだね」
「僕たちの情報が洩れてたってこと」
「違う、俺たちじゃない。別の組織だ。明日の正午に大規模な襲撃が計画されているらしい。東側の国境付近は既に制圧されている、という情報もある」二つの端末を操作しながら、カタンは続ける。「君の母親はスラハ族だろう」
「うん、そう」
「もう二十年近く前の記事だが、民族融和のシンボルにスラハから何人かの女性がこちら側に嫁いできた、という話を読んだことがある。それに反対していたのが〈純血同盟〉という組織だ。当時は小さな集団だったのが、この五年で急激に勢力を拡大している」
「彼らは〈収穫(ハーベスト)〉にも反対してたね」リツがタオルで手を拭きながら現れた。「ロスは大丈夫。鎮痛剤打ったら、しばらく寝るって」
「よかった」そう言った少女の声には、何の感慨も込められていない。同じ言葉を言おうとしていたラサは、鏡の中の無感情な自分を見たような気がした。
「スラハ女性の嫁ぎ先の情報を彼らが持っていたとして、ここで君の存在に気づいたらどうしていたか。殺されるのは最善の結果、おそらくもっとひどいことになっていただろう」
「女の子の〈ハーベスト〉だ! 初めて見た」リツは好奇心を隠さないが、少女の表情は動かない。
「君のお父さんは、君の心と名誉を守ろうとしたんだろう。そして、家族の名誉を守るために、自らもまた死を選ぼうとした」カタンは拳銃から抜いた二つの弾丸を少女に示した。
「でも、死んだら全部終わりでしょ。死んだら名誉も何もない」
「ああ、そのとおりだ。だから、〈ドルメ派〉のところに行かないか」
 カタンの突然の提案にリツが身を乗り出す。
「待って。カタン、〈ドルメ派〉に知り合いがいるの」
「知ってるも何も、俺は〈ドルメ派〉だ」カタンが少女に向き直る。「本山に逃げれば、〈ハーベスト〉だからといって差別されることはない」
「何、言ってるんだよ。〈偉大なる眠り(ゴールデン・スランバー)〉はどうなるの……僕の、この計画は……」
 リツの震える声にもカタンは眉一つ動かさない。
「リツ、それにラサも、一緒に〈ドルメ派〉に来い。今回の作戦で、よくわかったはずだ。リツは、暴力を介在させない計画を立てた。〈導眠材(スリーピング・タブレット)〉を使った平和的な計画を。それが、一人の少女が発見されただけで」ロスのいるリビングの方を顎で指し示す「――壊れる。他の場所でも、きっと好き勝手な略奪と暴行が繰り広げられているだろう。なんせ、相手は眠って起きない。その上、こっちは全員が男だ」
「でも……」リツの消え入りそうな声は、隣のラサにも届かない。
「このやり方じゃ、何も変えられない」
「それで、どんな得があるの」
 ラサの言葉にリツが目を見開いた。ラサはおもむろに立ち上がって、カタンを見下ろす姿勢をとる。「何か、今じゃなきゃいけない理由があるんでしょ。カタンは、突発的な衝動で行動したりしない」
 リツが納得の声を上げる。
「よく見ているな、ラサ。理由は彼女だ。〈ドルメ派〉も決して一枚岩じゃない。〈解放軍〉なんかとは比べようもないが、それでも俺たちが組織の中で力をつける必要がある。彼女は――女性の〈ハーベスト〉は、いい土産になる」
 少女の濁りのない眼差しを受けて、カタンは言葉を選んだが、ラサはその視線を遮るように動いた。右手が腰のナイフに延びる。
「じゃあ、彼女をさらうんだね。だったら、〈解放軍〉と同じだ」
「……そうかもな。でも、その先は〈解放軍〉とは違う」ラサの手がナイフの柄に届くのを見て、カタンは感心したように目を見開いた。「俺たちは、何があっても、彼女を傷つけない」
「彼女が行かない、と言ったら」
「わたし、行きます。連れて行って」
「僕も行くよ。カタンに言われたこと、実は気づいてた。〈解放軍〉じゃ、僕の希望はかなわない」
 少女とリツが立ち上がった。
「ロスはどうするんだよ」
「あいつはいらない。というか、あいつにこの場は任せよう。〈純血同盟〉が来る前に何とかするだろう。――それでいいね」カタンの問いかけに少女はうなずいた。「で、ラサはどうする」
「行くよ。他の選択肢がなくなった」
「だったら、まず口の中の〈リーブズ〉を捨てろ。自分の中のことぐらい、自力で何とかできるようにならないとな」
 最初に廊下に出たカタンは、リツを呼んでパッドを〈解放軍〉から切り離させ、〈ドルメ派〉の本山までの経路を見極める。〈純血同盟〉との衝突を避けつつ、北部のラシュ山地まで抜けられる道は多くはないが、人も車もあまり行き来しないので、警戒されている可能性は低い。
 部屋に残されたラサは、少女を振り返った。
「本当にいいの」
「わたしは、作り物――心のない、作り物だから。ここにいても、しょうがないから」
 少女の視線を追って机の上を見ると、広げられたノートは二冊とも茶色く汚れていて、一冊はたくさんの折れ目がついていた。鉛筆はどれも短く、一本は真っ二つにされている。よく見ると、少女の腕や足にも、あちらこちらにあざがある。ラサの視線に気づくと、少女は腕のあざを隠すように自分の肩を抱いた。別のあざが二の腕から覗いた。
 ラサは自分の判断を後悔した。住む世界は違っても、彼女も〈ハーベスト〉なんだ。恵まれた〈ハーベスト〉なんて、まだこの世界には存在しない。
「これ、持ってて」ラサは腰からナイフを外すと、少女に差し出した。「もしかしたら、自分で自分を守らなきゃいけない時が来るかもしれない。奪わせてばかりじゃだめだ。守るためには、奪わなきゃいけない時もある」
「ありがとう。わたしはエメル。よろしく」
「僕はラサ。行こう」
 ラサはイヤホンと口の中の〈リーブズ〉をゴミ箱に放り込んだ。少し考えた後、ポケットの中の〈リーブズ〉も。リビングではカタンとリツが食料をザックに詰めている。ラサは、エメルに渡したナイフの分、軽くなった体を感じながら、彼女の手を引いてリビングに向かった。

 

   

 丸二日間の北上は、おおむね順調だった。ただし、〈純血同盟〉の攻撃開始によって南の空が赤く染まった時を除いては。炎上するエディア・マルフ技術都市への想像がエメルの前進を妨げたことは、状況から考えれば仕方のないことだった。カタンのパッドを〈解放軍〉のサーバーから切り離したため、エメルの両親――とついでにロス――の無事を確認するには、ファイアウォールを破って侵入する必要があったが、安物のパッド一枚という情報的に無防備な状態でそれを成し遂げられると判断するほど、リツは自信過剰でも楽観主義でもなかった。それでも、彼らの足が止まらなかったのは、リツの〈偉大なる眠り(ゴールデン・スランバー)〉計画に対する自信のためでもある。
 やがて、道を外れてラシュ山地に入っていくと、巨大な岩石群を抜けた先に、それよりもさらに高く伸びる断崖絶壁が現れた。一羽の雲雀が風に乗って舞い上がり、小刻みな鳴き声が空から降り注いだ。つられるように視線を上げすぎたエメルは尻もちをついた。ラサに助け起こされながら、目にうっすらと楽しさの感情が浮かんだ。
「もう少しだ」
 カタンがパッドを確認し、断崖を右手に歩き始める。三日目の陽が傾き始めた頃、開けた岩場が現れた。白地にオレンジのラインをあしらったローブを着た人影が二つ、こちらの様子に気づいて身構えたが、カタンが手を振ると、片方がフードを下ろしながら近づいてきた。
「報告通りだな」
「予定より早く着いただろう」
「お前の仕事は、いつも報告より半日早いからな」
 笑いを交わすカタンの声に、いつもの緊張がない。それだけでも、カタンにとっての拠り所が〈解放軍〉ではなく〈ドルメ派〉だということが分かる。白ローブと並んだカタンについて行きながら、ラサは上着の後ろをエメルが掴んでいるのに気が付いた。耳を澄ますと、小声で何か言っている。疑問、警戒、不安――エメルはラサ達とは状況が違う。ラサは手を後ろに回し、緊張に固まった拳の間に、自分の指を潜り込ませた。
 しばらく歩くと、断崖に割れ目が現れた。その周辺の壁面は、漆喰のように白く塗りこめられている。
「この断崖の間に築かれた教会を、俺たちは〈クラック〉と呼んでいる。そこから横穴をいくつも掘って居住空間を確保しているんだ。そこは〈オーヴァル〉と呼んでいる」カタンが誇らしげに三人を振り返る。
「これ、全部〈導眠材(タブレット)〉じゃないの? 基礎は木材じゃないよね」
 リツが驚いて掛け寄ろうとすると、先程までカタンと話していた白ローブが手を広げて制した。「新しい技術だ。木材よりも可塑性の高い人工素材をベースに〈導眠材〉化してある」
「木は、高価だ」もう一人の白ローブが後を引き継ぐ。
「ちょっと待てよ。〈導眠材〉化は反対派が大勢を占めていたはずだろ」カタンが目を剥く。「グル・マブカが黙っていないはずだ」
「半年前とは状況が変わったのだよ」
 〈クラック〉の間から、一際大柄な白ローブが現れた。描かれたラインは先の二人より複雑な模様を成し、色彩も上から下に向けて赤から黄色へとグラデーションになっている。フードは外されていて、長い黒髪が冷たい切れ長の目に覆いかぶさり、左頬には目の下から顎にかけて切り傷の痕がある。
「グル・マブカは死んだ」
「グル・ハバン。どうして――」カタンは片膝をついて恭順の姿勢を取りながらも、戸惑いを隠せない。
「事故だ。〈プラセンタ〉の上部構造を検査している時に、滑落して死んだ。〈ハーベスト〉でない彼を失ったことで、〈ドルメ〉の方針は転換を余儀なくされたのだ」
 淡々とした語り口はハバンを老成させて見せていたが、〈莢(ポッド)〉の実用化開始の年代を考えても、せいぜい二十代半ばのはずだ。
「彼らの感情の起伏の大きさは、計画の途上においては、我々の邪魔にしかならない。グル・マブカほどに自制できる人物ならまだしも、他の人間はそうはいかない。もちろん、継続的な協力関係は変わらないが、一度ここからは引き取ってもらったのだ」
「だからといって、〈タブレット〉で覆うのは……。これでは、永続的に〈ハーベスト〉以外の人間を排斥することになるのでは」
「彼らには彼らだけの教会がある。我々に我々だけの教会があっていけない理由はどこにもないと思うが。まあ、とにかく中へ。彼らは」ハバンは新参の三人を見たが、本当に見えたのか疑問に思えるほど、表情には何の影もよぎらない。「外で待たせてくれ」
 ラサは苛立ちを言葉にしかけたが、色を失ったカタンの短い詫びを聞いて、何も言えなくなった。無口な白ローブは〈クラック〉の入り口に残り、残りの三人は白亜の教会の中へ消えた。
 西の空が赤く染まり、〈タブレット〉は絵の具で塗りつぶしたようにべったりとした朱色に変わった。〈タブレット〉はあまり光を反射しない。そのため、白ではあるが眩しさはなく、むしろ暗く見える。
「触っても?」
 リツの問いかけに白ローブはうなずいた。触った感じは普通の〈タブレット〉と変わらない。しかし、木材でこれほど巨大な一枚壁を作ることは無理だ。それに、この団体に強力な資金源や後ろ盾の存在は感じない。グル・ハバンと呼ばれた人物にも金の臭いがしなかった。より安価で容易な〈導眠材〉化の技術がここにはある。リツはカタンに指摘された〈ゴールデン・スランバー〉計画の欠点が許せなかった。何か、これを超える糸口が、この技術にないものか。すると、目の前でエメルがしゃがみ込んで〈タブレット〉に耳を当てた。
「何も聞こえないだろ。君もお母さんのお腹で育ったわけじゃないんだから」
「ううん。風の音とか森の音が聞こえるよ」エメルは口の中で小声で言葉を繋いでいく。リツにはそれが歌のように聞こえた。
 太陽が岩山の向こうに消え、空が一面、鬱血したような色に染まると、〈クラック〉の奥からは礼拝の声が響いてきた。〈タブレット〉のせいか、異様に乱反射した音声は、無数に重ね合わせられる輪唱となって、外にいる三人を包んだ。
 祈りを背に現れたのはハバンと、オレンジのラインの白ローブをまとったカタンだった。
「待たせたね、エメル」
 沈みつつある陽光の中、ハバンはエメルに手を差し出した。背後には腕を組んだカタン。フードを被ってはいなかったが、俯いているせいで、その目が何を見ているのか、その口が我慢しているのか受け入れているのか、判断するための材料は何一つない。
「エメルは渡さない」
 ラサはハバンの前に立ちはだかった。カタンはすぐには動かない。それが迷いに見えたのも束の間、ローブをはためかせてハバンの横に並ぶと、ラサの手首を掴んだ。
「何のために、ここまで来たんだと思う」
「それはカタンの都合だろ」
「違う。全ての〈ハーベスト〉のためだ」
 ラサは反射的に腰を探って、ナイフをエメルに上げてしまったことを思い出した。カタンに力ではかなわない。
「わたし、行きます。そのために来たんだから」
 エメルは〈タブレット〉を撫でながら立ち上がった。ラサの横を通り過ぎ、ハバンの手に右手を置く。ラサは視線を送り続けたが、エメルは決してラサを見ない。しかしその左手は、腰の下に隠してあるナイフの上に置かれていた。
 エメルが〈クラック〉に飲み込まれるのを見送って、リツは静かにつぶやいた。
「ラサは、エメルが好きなんだな」
「馬鹿なことを言うな!」
「馬鹿なこと……。どうだろうね」リツは変わらず〈タブレット〉を撫で、時折エメルのように耳を当てている。「僕たち〈ハーベスト〉には、強い感情の機能が欠けている。突発的に燃え上がっても、しばらくすると霧のように消えてしまう。恋、っていうのがどういう感情か、歌でしか知らないけど、僕にとってそれは、とてもうらやましいことだよ」
「歌、また歌かよ! そうやって〈ハーベスト〉であることをコンプレックスに思ってればいいだろ!」
 リツは考える。ラサの言い方はいつでも真っ直ぐだ。たまにとてもうらやましく感じる。僕自身、自分が本当に音楽を聞けているのか、分からない。少なくとも、ラサのように曲がる暇もないほどの瞬発力で心が動けば、と願うことはよくある。音楽は、瞬間の芸術だから。
「いる?」リツは〈枯葉(オータム・リーブズ)〉を差し出す。
「いや、ごめん。僕には強すぎる」ラサの気持ちはもう元の静かな水面に戻っている。しかし、その奥でさざ波を立て続けている何かの存在に、リツは気づき始めていた。

 〈クラック〉は奥へ行くほどに広がっていく。壁面に開いた〈オーヴァル〉の穴からも礼拝の声は溢れ出し、この空間全体が祈りを捧げているかのように打ち震えている。カタンも、その前を行くハバンも右手だけで祈りの形を作り、両眼を閉じたまま迷いなく〈クラック〉を歩いていく。
 後ろからついていくエメルは、口の中でリズムを奏でずにはいられなかった。お母さんがいつも歌ってくれた歌――そこにどんな意味や価値があるのか、ずっと分からなかったし、今でも分からない。意味を伝えるなら物語で十分。どうしてそこにわざわざリズムやメロディを加えたりするのか――。
 なのに、街を離れてから、とりつかれたように、エメルの体は繰り返し繰り返しその歌を反復している。繰り返すほどに、そのリズムはエメルの全身に行きわたり、行きわたるほどに、その中に息づく母親の声がエメルのお腹の底に蘇る。
 〈クラック〉を覆い尽くす祈りの律動にも、エメルは同じものを感じとっている。それは〈タブレット〉の中から聞こえてきた森や風の音と似ていた。
 十分ほどすると、礼拝の文句に素早く細かいフレーズが増えていき、反射と増幅を繰り返す中で、三人はそれらの音の集まる極点を眼下に見る高楼にたどり着いた。ドーム状に広がる教会堂〈プラセンタ〉――その中心では、三十二人の信徒と一人の〈導師(グル)〉、そして三人の少女が一心に祈りを捧げている。反射し続ける言葉は〈プラセンタ〉を包む美麗な曲面によって中央の祭壇に収束し、個々の音の旅は終わる。しばらくすると、大音声で〈夢神使(ドリーエル)〉の名が呼ばれ、反射音の全てが〈ドリーエル〉一色になった瞬間、唐突に無音の境地が顕現する。信徒たちは無言、無音のまま離散し、それぞれの〈オーヴァル〉へと還っていく。
「さて、カタン。ご苦労だったね。彼女を捧げることで、君はこれまで以上に重要な役目を担うことになっていくだろう。しっかり励みなさい」
「待ってください、グル・ハバン。エメルを発見、保護したのは、私の小隊のラサです。私個人の功績ではありません」
「だからどうしたというのだ。彼らを導いたのもまた、カタン、君の勲功だ。ならば、全ての報いは君が受けるべきだよ」
「しかし」
「信徒カタンよ」ハバンは顔を近づけた。左頬の傷が生々しく迫る。「君には目的があるのだろう。ならば、何を犠牲にしても、そこにたどり着くという覚悟を持たなくてはならない。ラサという少年にしても、もう一人のリツという少年にしても、彼らはまた彼ら自身の目的を持ち、その目的に殉じる覚悟で生きねばならない。〈ハーベスト〉として産まれたというそれだけで、大きく重い業を背負わされた我々は、それだけで既に何らかの方向付けを与えられている」
 ハバンは傷をひと撫ですると、その手でエメルの手を取った。「君も大変だったのだろうな」
「それなら、なぜ〈ハーベスト〉でない者を排斥するのですか。それは〈ドリーエル〉の意志なのですか」カタンはその場から動くことが出来ないが、意志をふり絞って口を開いた。
「神の意志など、安易に推し量るものではないよ」ハバンの答えはなぜか小声だった。「ただ、我々は自分の信じた階梯を上るのみだ。それがどこまで続いているのかは、上り詰めるまで分からない」
 ハバンはカタンを振り返らなかった。その目は〈プラセンタ〉の祭壇のさらに深奥を見下ろし、俯いた視線の翳りは誰にも知られることがなかった。

――〈枯葉〉はいい。〈葉っぱ〉とは比べ物にならないほどの強い刺激。そのぐらいの刺激で初めて、僕はここから連れ去られそうになる。それで初めて、僕は僕を何とかコントロールしてやろうとする。それで初めて、僕は人間になることができる。
――友達は、僕が人間のふりをしていると非難する。でも、人間だって、産まれた時から人間だったわけじゃない。他の人間とつながって、音楽を聞いたり絵を見たりして、そういう他の人間の価値を植え付けられてようやく人間になるんだ。
――それなら、どうして僕は、そういう価値観を持っていないんだ。
――僕が握っているこの手綱を離してしまったらどうなるのだろう。家畜として育てられたなら、家畜として、家畜同然に、家畜の欲望そのままに、食べて犯して寝て、最後には食いつぶされる。どのみち食われて終わるなら、手綱を握ってても仕方ないんじゃないか。

 〈枯葉(オータム・リーブズ)〉のもたらす陶酔感たっぷりの幻覚を、腹の底に沈めて、リツは〈クラック〉の入り口を眺めていた。〈ドリーエル〉の大合唱で締めくくられた礼拝の後、〈クラック〉の中から飛び出してきた小さな男の子たちは、無表情で笑いながら〈ドリーエル〉の名を繰り返し呼ばわっている。虚ろな呼び声は、ともすると狂信的にすら見えてくる。
 岩場に視線をやると、ラサが膝を抱えて座っている。丸まった背中は、月夜に哀しげに映る。ここに可能性があるのか、まだ分からない。しかし、だからこそ、記録を残さなくてはならない。リツはカタンから預かったパッドを構え、男の子たちの遊び戯れる様を、〈ドリーエル〉と唱える恍惚の無表情を撮っていく。その神名の音の連なりは、やがてまた一定の周期を生みだし、音楽的なリズムが再び〈導眠材(タブレット)〉を震わせる。
「〈タブレット〉って、実際のところ、何なんだろう」心なしかすっきりした顔をしたラサが、パッドの写真を覗き込む。「彼らの祈りの言葉を反響している。なのに、その中には僕たちに聞こえない音があるっていうんだろ。その音が聞こえたら、音楽も分かるのかな」
「少なくとも、信徒であるこの子達が聞いている神名と、僕たちが聞いている〈ドリーエル〉っていう音列は、完全には一致しないだろうね。だとしたら、聞こえたり聞こえなかったりっていうのは、〈タブレット〉の反響なんか関係なしに、もっと個人的、個別的なものなのかもしれない」
「僕がその写真があまりいいものだとは思えない、っていうのも個人差、っていうことね」
 軽口を叩くラサの声色に、リツは自分が救われていることを自覚する。だから、リツは情報を拡散したい。ネットワークの海に情報の判断を委ねたい。それが自分の人生の目的だと考えている。
「そう。だから僕は、手に入れた情報の是非を広く世に問いたいんだ」

 その日、カタンは戻らなかった。当直だった白ローブは日没を境に交代し、新しい当直がラサとリツを〈クラック〉の入り口近くの〈オーヴァル〉に案内した。背の低い横穴を屈みながら抜けると、洞穴のような空洞に、ベッドが二つ用意されている。壁面も床面も、どこもかしこも〈導眠材〉化されていて、古びたランプの灯を受けて、オレンジの陰影が暗くうごめいている。
 夜が更け、他の〈オーヴァル〉からの生活音も聞こえなくなって小一時間ほどした頃、ランプの灯を消して就寝しようとしている二人を呼ぶ小さな声にまず気づいたのはリツの方だった。
「すみません、お休みのところ」
 ひそめた声に警戒感が露わだ。それはラサとリツに対するもの、というより誰かに追われているような声色だった。
「さっきの人だ」
「誰?」
「昼間の、無口な方の白ローブ」リツの返答にラサが感嘆の声を上げる。
「はい、レエンと言います」
 〈タブレット〉の反響をおそれたレエンの導きで、闇の中、表に出ると、当直の白ローブの姿は見えない。見上げると、丸い月に大きな雲が覆いかぶさろうとしていた。
「こちらです」
 レエンは彼らの来た側とは逆の絶壁沿いを進む。岩壁の凹凸を右手でたどりながら、ラサはナイフが自分の手元にないことに不安を覚えた。一方で、別の不安も感じた。僕が失った分の安心をエメルは得られているのだろうか。
 レエンは周辺に警戒しつつも、背後の二人がちゃんとついてきているかについては全く疑問を持っていないようだった。しばらく行くと絶壁が丸く削り取られたような窪地が現れた。レエンが潜り込み、二人に近づくように促す。
「すみません、どうしてもお聞きしたいことが」雲の切れ間から射し込んだ月明かりがレエンの顔を照らし出す。大きく見開かれた黒い瞳が青白く閃いた。「ここから下りるための道を教えてほしくて」
 ラサは首をかしげつつ、ゆっくり結論に至る。「それは、つまり、自力では――」リツがそのあとを引き継いだ「下り方を知らない」
 ラサの中で澱のように溜まっていたエメルにまつわる不安感が、爆発的に増大した。ポケットに手を突っ込んだが、もう〈リーブズ〉は入っていない。
「じゃあ、君はどうやってここに」
「僕は、ここで産まれたんです。〈クラック〉の奥に〈プラセンタ〉って呼ばれる教会堂があって、そこからさらに奥へいった部屋に〈母胎樹(リンデン)〉があります。そこで産まれました。僕たちのうち、半分以上はここ以外の世界を知りません」
 カタンの言葉がラサの耳の奥でよみがえった。〈ハーベスト〉以外の人間の排除――それは形を変えた差別主義に他ならないのではないか。「実際のところ、〈ドルメ派〉は何を目指してるの」
「差別のない社会です。日常生活を普通に送れるように、雇用や社会保障の壁を壊す――」
「壁を壊す、っていうのは、具体的に何を意味してるんだろうね」リツが両手を頭の後ろで組んで、岩壁に背中をもたせ掛ける。目を閉じて深く呼吸する。「単に理念レベルで『壊す』とか言ってるんだとすれば、何ら具体的なプランがないということになるし、あるいは全く逆で、それが文字通りの『破壊活動』を意味するなら、数多ある過激派組織と変わらない」
 レエンが俯く。肩が震えている。
「だから……僕は……僕たちは、ここから逃げたい。自分たち自身の可能性を試したい」
「もう一人は、女の子?」リツの問いかけがラサの胸をえぐる。
「ナム、と言います。ここでは女の子は産まれないから、どこかからさらわれて来たんだと思いますが、その話を聞く勇気はなくて」
「そういう感情、うらやましいよ」リツはゆっくり目蓋を開き、レエンの大きな瞳を正面から見据えた。「すごくいい……すごくいいな」
「枯葉――ですよね」レエンがリツの目を見返して、おずおずと尋ねた。「ここに来た時に、口ずさんでたの」
「なんで知ってるの」
「彼女が――ナムが好きなんです」
「〈ハーベスト〉なのに?」
「それ、あなたが言うんですか」レエンの頬の緊張が柔らかくほどけた。月にかかる雲が吹き払われ、三人を等しく照らす。
「〈ハーベスト〉に音楽は分からない」リツの言葉にラサの胸が痛んだ。リツの口から、リツの声で、自分がこれまで何度も言ってきた言葉を聞くことが、こんなに苦痛だなんて。
 リツは額に手を置いて繰り返す。「分からないよ」
「ナムも、そう言っています。全然、分からないって。でも、分からないのに、なぜか忘れられない。全然違うものかもしれないのに、口ずさまずにいられない。多分、それが音楽なのかな、って」
 今度はリツが俯いた。こらえきれない何かを抑えつけるように、時折肩を大きく震わせる。
「いいよ、わかった。教えるよ」パッドを取り出しながら顔を上げる。「ただし、忘れるな。『枯葉』は、今から百年以上前の歌だ。ださい、って言われるかもしれない。古い、って言われるかもしれない。でも、『枯葉』は百年の間、世界中で愛され続けた。いい音楽は、時代と国を超える。お前らも、こんな枠、あっさり超えていけよ」
 月が再び雲に隠れ、レエンは〈クラック〉の前を避けて去っていった。途中で、岩場から人影が出てきて、二つの影が溶け合うのが見えた。ラサは、行き場のなかった不安が、力に変わろうとするのを感じた。

 翌朝、白亜の壁面を介してラサとリツの〈オーヴァル〉に響き渡ったのは、鋭い鞭の音と押し殺した悲鳴だった。跳ね起きた二人が外に飛び出すと、ローブを剥ぎ取られて下着姿にされた男女が後ろ手に縛られ、大きな岩の上にうつ伏せにされている。二人が誰かは、顔を見るまでもない。背中には何度も何度も鞭が振るわれ、そのたびに灰色の岩には細かな血しぶきが増えていった。
 一人の背の高い男が、その様子を腕組みして見据えている。ローブに施された複雑なラインは青から緑へグラデーションを成し、彼がハバンとは別の〈導師(グル)〉であることを示している。
「逃亡者には死を」
「交わる男女には死を」
 処刑人と罪人を取り囲む十人余りの信徒から、異口同音に非難の声が上がる。その度に鞭は二人を打ち据え、新たな血しぶきを岩場に加えた。執行人も取り巻きもほとんどが十歳に満たない少年で、自分たちの勤めを〈グル〉が見てくれていることに、少なからぬ興奮を覚えているようだ。
「お前ら、何やってるんだ!」
 ラサとリツが同時に叫ぶと、ローブの裾を払って〈グル〉が振り返った。
「部外者は、邪魔をしないでいただきたい」有無を言わせぬ強くて重い口調だ。ハバンと同じく、二十代半ばかと思われるが、しかつめらしい顔つきは、若々しさを微塵も感じさせない。「いや、違うな。来訪者か、それとも協力者か……」
 〈グル〉は、罪人を取り囲む信徒の半数を指差すと、ラサとリツへ向けて手を払った。少年たちは目を輝かせ、二人を取り囲む。
「これから、この私、グル・アミブの名において、二人の来訪者の追加審判を行う。これなる信徒と神子に悪魔の囁きを施し、この聖域からの逃走を教唆したのは、この二人のうち、いずれの男か」
「グル・アミブ。お言葉ですが、二人が共に罪人という可能性もあるのでは――」
 アミブの右手が一閃すると、少年は三メートル先の岩まで吹き飛ばされて倒れた。黒い大蛇のような鞭が、アミブの足元にとぐろを巻いている。
「私に意見するということは、私を否定するということ。それならば、それなりの覚悟をして発言することだ。私が、いずれの男か、と問うているのだから、答えは一人なんだよ」アミブの右手が動くと、巨大な鞭はローブの内側に姿を消した。「さて、問おう。協力者はどちらだ。先に答えた方の話だけ聞こう」
「馬鹿なことを言うな!」――反射的な怒りでそう言おうとしたラサを、リツは一睨みで止めた。素早く視線を動かし、鞭打たれているレエンの方を示す。
 リツは直観した――これは、協力者が自分か相手かを問う二択じゃない。レエンを助ける気があるかないかを問う二択だ。
「さあ、どちらか答えるがいい。先に答えた者の話しか聞かない。なぜなら、もう一人は口を開く必要も、暇もないからだ」
 アミブの哄笑と再び懐に収められた右手に、リツは背筋を凍らせた。決断は自分にしかできない。協力者ではなく、自分が主犯だと言えば、ラサはもちろんだが、レエンとナムを助けることもできるかもしれない。思いながら、鞭に吹き飛ばされた少年が、ぴくりとも動かない様子は、リツの一歩を鈍らせた。
 C’est une chanson qui nous ressemble.
 Toi, tu m’aimais et je t’aimais
 レエンがかすれた声を上げた。慌てた処刑人が必死に鞭を振るうが、レエンは止まらない。むしろそのかすれた声は、歌に切なさを刻み付けた。その声はリツの背中を押していた。しかし、レエンはリツをじっと見つめ、小さくかぶりを振り続けた。
 Et nous vivions tous les deux ensemble,
 Toi qui m’aimais, moi qui t’aimais.
 ナムがレエンに唱和する。処刑人の悲壮な鞭は、二人の前に無力さを露呈する。絶壁を吹きおろす風が二人の焼け付く背中を優しく撫で、白亜の聖堂を悲恋の歌声で震わせた。
「やめろよ」レエンの思いへの理解ゆえに動けなくなったリツを見て、ラサは一歩前へ出た。「協力だか逃亡だか何だか知らないけど、それがどうして罪なんだよ。人が、自分の信念に従ってとった選択が、どうして罪なんだよ」
 アミブもラサに向かって一歩踏み出した。壁のような長身だ。
「罪か。そうだな、それを知ることはとても大切なことだ。――ここでいう罪というのは、人が、誰か個人に対して執着することだ。執着は恨みをもたらす。恨みは戦いに、そして戦いは世代を超えて受け継がれる。だからこそ、我々は個人に執着することを許さないのだ」
「個人への執着が生みだすのは恨みだけじゃないだろ」ラサの目蓋にエメルの姿が浮かぶ。
「それを罪だ、っていうなら、人は人であることをやめた方がいい」リツはパッドを構えてアミブを写真に収めた。「――僕だよ。僕が二人に逃げることを勧めた。もちろん、そこにいるラサも一緒に来たカタンも関係ない。僕はジャーナリストだ。ここを解放するためにやってきたジャーナリストだ」
 力なく頭を伏せたレエンに対して、リツは胸を張った。自分の執着――僕はそのためにここに来た。カタンの言葉に従ってここに来たんだ。それなら、まず相手の土俵に乗らなくてはならない。
 アミブは信徒に命じてリツとパッドを確保した。レエンとナムは縄を掴まれ、リツの後ろを歩かされた。ラサは一人残された。アミブは、ラサには一言も触れなかった。提示された二択の記憶が、救われたラサの屈辱感を煽り続けていた。

 

   

 エメルは〈プラセンタ〉の奥にある〈オーヴァル〉に寝そべっていた。〈導眠材(タブレット)〉の壁は柔らかく、ナイフの先を当てると、簡単に削り取ることができる。エメルは、母から教わったスラハの伝統模様を描いていく。削りかすを吹き飛ばそうと息を吹きかけると、鋭く細かい振動が模様の上を伝っていった。それは、絶壁に沿って飛ぶ雲雀のさえずりに似ていた。
「何をしているんだ」朝食のパンを乗せたトレイを手にしたカタンが訝しげに尋ねる。
「きれいでしょ」二本の直線をひし形に重ねながら、ところどころは蔓草模様のように二重三重に曲線が絡みあい、いくつかは線を重ね、いくつかは二本の線を小さな半円で閉じている。「お母さんに教えてもらったの」
「パンを置いておく。食べておけ」
 カタンは後ろ手に扉を閉め、鍵をかけた。綺麗、という感覚が分からない。整っている、とは思うし、そういう意味で言えば、エメルの曲線は雑だ、とも思う。しかし、それらの線が全体としてどのような効果を与えているのか、カタンには分からない。
 分からないが、それが大切さの感覚に近いような気はしている。エメルの〈オーヴァル〉を出て階段を上ると、〈プラセンタ〉の祭壇が目に入った。これもきっと綺麗なのだろう。ただ、これは整っている感じよりも、光を放つようなきらびやかさが目につく。リツなら分かるのかもしれない。リツはカタンよりずっと文化や芸術に詳しい。あるいは、グル・ハバンなら。
 階段の下からエメルの声が響いてきた。ここに来るまでの間も、ずっと何かを喋っていた。両親から引き離された不安か、両親の無事への心配か。
 その時不意に、視界が暗転して膝をついた。真っ黒なキャンバスが少しずつ白んでいくと、そこに現れたのは空爆で壊された町と、それでもかろうじて生き残った木々の緑が点在している風景だ。視界の中心には瓦礫になった中央駅が寝そべっていて、そこにたくさんの白いハトが集まっている。熱風が乾いた粉塵を巻き上げ、遠くの空を霞ませている。
 これは、故郷の〈母胎樹(リンデン)〉から見た風景だ。頭が重い。手の下で〈タブレット〉の床が微細に振動している。エメルの声と同じリズムで。
 民族運動に破壊された故郷の風景――それすらも今では失われてしまった。この後二年もすると、開発という暴風が吹き荒れ、瓦礫の山は先進国の巨大企業の工場群に姿を変えた。物心ついた時には、土地の名前すら残っていず、ただ残されたのは新しい労働力を実らせる赤黒い〈リンデン〉の林だけだった。
 だから、力がいる。膝に手を置き、立ち上がる。グル・ハバンの元へ行かなくてはならない。朝の礼拝のために、人が集まり始めた。女性が二人しかいないのが気になったが、エメルはまだ参加できないな、と思った。

 白ローブに引きずられながら、リツは教会内部の様子を目に焼き付けていく。それが、何の役に立つかは、この際関係ない。ある時点で、自分の知っていること、見聞きしたこと――それらを総合して、自分の考えを補強していく。それが、リツの目指す戦い方だと、さっき気づいたばかりだった。
 レエンとナムとは途中で別れてしまったが、その先から薬品の臭いがしていたので、殺されるということはないだろう。それよりも、目の前に広がる教会堂の様子は壮観だった。二人の少女が向かい合って座る祭壇を中心にして、信徒が四つの半円を成し、それぞれが順に異なる文言を唱えていくと、背の高いドーム状の天井を螺旋形に振動が上昇し、天頂に至ってそれらの音が共振を起こして教会全体に響き渡る仕組みになっている。
 そして、その音がリツの全身を揺さぶっているのが驚きだった。〈タブレット〉が眠りに誘う音は〈ハーベスト〉に影響を与えない。しかし、〈タブレット〉が反響させる音はそればかりではなかったのだ。
 すぐに足を止めるリツに苛立った白ローブは、後ろで毒づいている。その言葉の口汚さに、親近感を覚える。彼は外にいた連中より年長――おそらく十三歳のリツと、それほど変わらないだろう。これまで見かけた信徒は、二人のグルを除いて、ほとんどが十代半ばより若い。
 階段を下り、昨晩泊まった〈クラック〉入り口の所より、ずっと丁寧に曲面が成形された〈オーヴァル〉に放り込まれた。中では笑顔のエメルがパンを食べながらナイフをいじっていた。
「お姫さんと同じ部屋なんて、大歓迎じゃないか」
「鍵のかかる部屋で空いているのが、ここしかないんだよ」
「君も大変だな。あんなにでっかい鞭を見せられちゃ、な」
「無駄口叩いてないで、しおらしくしてな。大蛇のいい餌になるようにな」
「僕はリツ。十三歳。ジャーナリストになるのが夢だ」
 白ローブの反応が、一瞬だけ止まる。名前か年か、それとも夢という言葉か、何に反応したのかは分からなかったが、最後にリツに向き直った彼はフードを外して顔を合わせた。何も言わなかったが、何かが通じた気がした。
「さて、この部屋の音は、一体何がどうしたんだ」リツはエメルに向き直る。
「模様を彫ったら音が変わったの」エメルの声が楽しげに弾む。
「その模様、知ってる。スラハの伝統模様だ」リツは二本の線とそれが描き出す形をたどっていく。「これは風の神。それが束ねられて森の神になって、そこに降り注ぐ八組の線の中央に描かれているのが太陽の神――創世神話をなぞってるんだよな。いい出来だ」
「お母さんに教わったの」エメルが誇らしげに手を腰に当てた。
「ちょっと待って。模様が震えている」
「さっきから震えてるよ。お祈りの声でも震えてるし、わたしの歌でも震えるの」
「やっぱり〈タブレット〉は、母胎の音を増幅するだけの素材じゃない……いや、逆だ。母胎自体が様々な音を育てる苗床だっていうことか」
「そうなの」エメルが言葉を選ぶようにして、おずおずと話し始めた。「これってきっと、〈莢(ポッド)〉とか〈母胎樹(リンデン)〉と同じものだと思う。私たちを包み込んで守ってくれるんだ」
 リツは静かに目を閉じた。エメルの言葉の意味を、自分の知っている情報とつなげていく。ネットワークの中にある暗闇の一つに光が当たりそうになる。
「でも、あの〈リンデン〉は何か変」
 エメルが最後にもう一つ加えた情報は、リツの頭の中に全く異なる形のボールを投げ入れた。
「あの〈リンデン〉って」
「〈プラセンタ〉の祭壇の地下、一番奥にある〈リンデン〉」
「確認してみよう。そこにいるんだろ、なあ、君」リツは扉越しに声を掛けた。
「君、じゃない。俺にだって名前くらいある――トフラだ」

「どうしてリツが幽閉されなくてはならないんですか」
 〈プラセンタ〉の入り口から上方へ向けて掘られた〈オーヴァル〉は、一本の細長い廊下から四つの部屋が繋がっていて、そのうち三つが〈グル〉の部屋、広めの一室が会議室になっている。カタンは、腕組みして目を閉じて座っているアミブに詰め寄るが、アミブは何の返答も返さない。
「なんとか言ってください」
 アミブは右腕をゆっくり動かして、巨大な鞭をカタンの足元に這わせた。
「グル・ハバンのお気に入りだからって調子づくんじゃないぞ、若造」
「私は誰も特別扱いしたりなどしない」
「ああ、そうだったな。グル・マブカの時も、他の信徒と同じようにあっさり殺しやがった。で、次はグル・カタンの誕生か」アミブがカタンに向き直り、目を剥いた。「覚えておけ。俺は、お前のお友達を、生かしてやったんだ。お前の方がグル・ハバンの気分を損ねて殺されちゃあ、俺のせっかくの好意が無駄になるんだからな」
「勝手なことを」ハバンが苛立ちも露わに言葉を返す。
「勝手はどっちだ! 俺は必死に〈ドルメ〉の秩序を維持しようとしている。個人を生かすより、組織を生かす。その論理をないがしろにすれば、こんな小さな集団、あっという間に瓦解する」
 アミブは立ち上がり、苛立ち交じりに鞭を一閃させた。壁が削れ、灰色の岩が露わになる。アミブの視界には、もうカタンは入っていなかった。大柄なハバンも立ち上がり、正面から向かい合う。
「ここで産まれた人間の逃亡を許してみろ。あいつらは、自分の存在を証明する書類が何もないんだぞ。捕まる先が警察だろうが軍隊だろうが、ここのことを隠し通せると思うのか」
「それが間違いなんだ。今こそ、積極的に外と交渉していく時だ。レエンとナムの件は、我々が外の社会生活とどう折り合いをつけていくかの、格好の材料だったのに」
「……そういうことか。まさか、『協力者』がこんなところにいたとは。すまんな、カタン。お前のお友達は濡れ衣だった。代わりにグル・ハバンを幽閉せねば」
「グル・アミブ、君こそ、個の利益にこだわりすぎるあまり、組織を危険にさらしているんじゃないか」
「俺がいつ個人の利益にこだわったよ」
「グル・マブカが開発し、外に持ち出そうとした〈導眠材〉の新技術、まだ見つからないんだ」
「はっ。それは、お前の探し方が悪いんだよ」
「隠し方がうまいのかもな」
 アミブのローブが膨らみ、同時に黒い大蛇が雷のような鋭さでハバンに牙を剥く。しかし、ハバンが左手を振り上げると耀く錫杖が現れ、蛇の首を頭部の輪の中に捕らえた。素早く杖を回転させて床に突き立て、蛇の逃走を阻止する。
「結局、強者が勝つ論理はここでも変わらないんだよ」アミブの吐き捨てるような口調は、こうなることをもともと知っていたかのようだ。「カタン、お友達のことは好きにしな。女の方は置いといてくれ。ナムの代わりが必要だ」
 アミブは鞭から手を放すと、「グル・ハバン。鞭は貸しといてやるから、後で部屋に持ってこい」と言い残して、会議室を後にした。
「エメルを神子にしないといけない。カタン、手伝え」
「グル・ハバン、それより、グル・マブカの死についてですが」
「お前は、私よりも彼の話を信じるっていうのか」
「いえ、そういうわけでは……。それなら、〈ハーベスト〉以外の人々のことは」
「こだわるな」
「いえ、こだわります。先程、グル・ハバン自身もおっしゃいました。我々は外の人々と交流を持たなくてはならないと。それならば、排除は逆行です」
「なら、言ってやろう。お前のその『〈ハーベスト〉以外の人』という言い方、それが排除の原理の根源にあるものだ。我々と彼らの違いは、ただ子宮の音を知っているか否かのみ。それならば、彼我は共に〈人〉であるというに過ぎない。そして、ここは〈ハーベスト〉の家だ。お前は、友達が家に入れてくれなかったら、差別だと叫ぶのか。排外主義だと糾弾するのか」ハバンの右手が左頬の傷を掻きむしる。赤く血がにじんだ。
 カタンは言葉を失った。膝に力が入らず、立っていられない。
「少し休め。お前にはお前にしかできないことがある。他の者で足りることは、他の者に任せよう」
 ハバンは、礼拝を終えた〈プラセンタ〉に足を踏み入れた。とうに消えたはずの響きの残滓が、消えることなく〈タブレット〉を震わせているのを感じる。この教会堂の崇高さを感得する一方で、自分の微力を思い知らされる瞬間だ。
 この奥に〈プラセンタ〉内で唯一鍵のかかる部屋がある。カタンから聞いたリツという少年――彼の技術と能力は、夢の実現までの距離を飛躍的に縮めてくれるだろう。
 扉に手を掛けると、滑るように動いた。「……開いてるじゃないか」
「ああ、あんたは、グル・ハバンと言ったかな」地べたに座る少年が、鋭い視線を投げかけてくる。
「君がリツだね。この部屋にはもう一人入れられていた、と思ったが、私の気のせいだったかな」
「おたくの信徒が連れて出て行ったよ。今この部屋にいるのは僕だけだ」
 アミブの指示か――彼は、あくまで宗派としての体裁にこだわる。そのための教会だし、そのための少女だ。それなら、もう一枚のカードはもらっても構わないだろう。
「どうも、誤解があったようなので、まずは詫びを入れたい」
「カタンはどこに行ったんだよ」探るようなリツの視線は変わらない。
「我々〈ドルメ派〉についての誤解も解いておきたい。〈ドルメ〉は全ての虐げられた人々に救いを与える。そのために、〈ハーベスト〉に戦う方法を与えることを、第一に考えている」
「なんだ。結局のところテロリズムじゃないか」
「今、世界で急速に〈導眠材〉化が進行している。それが一定量を超えた時に生み出す強力な催眠作用のことも、我々はよく知っている。〈ハーベスト〉に我々の考えを伝える方法さえあれば、彼らは一斉蜂起するだろう。自分たち労働者や少年兵が一方的に搾取され続ける世界を破壊するために。なぜなら、〈導眠材〉は簡単に量産できるからだ」
「どういう意味だよ」
「〈導眠材〉は〈ポッド〉の胎盤の細胞を原料にすれば、もっと簡単に量産できる」
「それで、ここを〈プラセンタ〉って名付けたってわけか」
 リツの変わらない視線に、ハバンは不満を感じた。彼はもっと驚くべきなのだ。〈ゴールデン・スランバー〉を計画したのが彼だというのなら。
「〈リンデン〉で労働力を量産している地域の〈ハーベスト〉に、この情報と方法を伝えることができれば、彼らは自らを産みだした〈リンデン〉を使って〈導眠材〉を量産し、自分たちを支配している人々を無力化することができる。世界中でそんな状況が拡大すれば、それらの労働力の存在によって維持されている先進国の企業とも、対等な交渉に入ることができる。そこで、我々の登場というわけだ」
「そんな簡単にいくもんか」
「だから、宗教なんだよ。必要なのは信じることだ。実現へ向かう信念だ。宗教は人々に力を与える」意味ありげにひと呼吸置く。揺さぶりをかけてやる。「すでに〈導眠材〉はテロに使われたじゃないか」
 リツの目つきが変わった。怒りか戸惑いか、視線がハバンから逸れた。
「テロ、って言ったか? あの作戦は、これ以上ないほど、安全で静かに進んだはずだ」
「死者、行方不明者合わせて三十八名。重傷の者が二百二名」
「ちょっと、待って。〈解放軍〉じゃないよな。〈純血同盟〉だって、あの〈タブレット〉の森では活動できないはず」
「〈純血同盟〉にだって〈ハーベスト〉はいるさ。君たち〈解放軍〉は、最悪の形で彼らにあの街を引き渡したことになるな」
「〈純血同盟〉は〈ハーベスト〉に反対してただろ」
「使い捨ての駒としてなら〈純血〉の思想に抵触しない、という判断なんだろうな」
 リツが頭を押さえて俯く様子に、ハバンは快哉を叫ぶ。これが現実だ。
「問題の根本を抑えない限り、暴力の連鎖は止まらない。先手を取るんだ。我々が彼らの家に招待されてばかりでは対等な関係は築けない。我々の家に――〈導眠材〉で覆い尽くした世界に、彼らを招待しようではないか」
 リツの反応が無くなった。絶望が深すぎたか。一度に責めすぎたかもしれない。何せ、まだ子供なんだ。
 ハバンは錫杖を取り出した。ただ威厳を示そうとしただけに過ぎない。しかし、床に一突きした瞬間、この〈オーヴァル〉の様子がおかしいことに気が付いた。胸の奥がかき乱される。錫杖の頭の遊環がぶつかり合う金属音が、体の中で反響し続けているような。
 リツがおもむろに立ち上がった。ハバンの顔を正面から見据える。その目には、悲哀も絶望もない。かといって諦めでもない。ただ、目の前の現実をあるがままに引き受けようとする意志――どうしてそんな目ができるんだ。
「〈ハーベスト〉は聖人じゃない。奪いもするし殺しも犯しもする。だからといって、それを許そうとも思わない。許してほしいとも思わない」
 金属音が次第に頭に上ってきて、ハバンは眉間を押さえた。「何をした!」
「僕は何もしていない。それは、あんた自身の感情だよ。と言っても、恐怖を感じるように仕向けたのは僕だけど」
 ハバンは錫杖を頼りに部屋を飛び出した。左頬の傷を掻き毟る手を止められない。助けてほしい。
 祭壇の裏側の螺旋階段を下りていく。錫杖だけでは体を支えきれず、白亜の壁に手を置くと、指先が窪みを発見した。それは線条を成し、螺旋階段と一緒に周回しながら下っていく。誰かいるのか。
 後ろから足音が聞こえる。その音までがハバンの頭の中を引っ掻き回す。一体何が起きたんだ。
「ようこそ、待ってました。お兄さん」
 地下に広がる〈リンデン〉の林――それぞれ十二ずつ、赤黒く鼓動する〈ポッド〉を持つ〈リンデン〉。それが全部で五本、並んでいる。そのうち、一番奥にある〈リンデン〉は、中心となる幹の部分に〈導眠材〉化が施してある。その前に、エメルが立っていた。手にはナイフが握られ、それは白く汚れている。幹の白壁は、既に一部が剥がれ落ちていた。
「やめろ!」ハバンの叫びが洞内を震わせる。その音は再びハバンの元に帰ってきて、頭の痛みをいや増した。
 ハバンの目の前に歩み寄ったエメルが、錫杖に手を添えた。六つの遊環の揺れが止まり、ハバンの苦痛が少しだけ緩んだ。
「お兄さんはどうして、人々を救いたいの? ううん、違う……。お兄さんは、本当は誰を救いたいの」
 ハバンの目はその幹から離れない。なら、いっそのこと……一からやり直したほうが……。ハバンは錫杖から手を放すと、エメルの右手に握られたままのナイフに手を伸ばした。力があれば、何度でもやり直せる。
 しかし、ハバンの手がナイフに触れようとした瞬間、エメルの体が何者かに引き寄せられた。
「これは、もともと僕のナイフなんだ」〈リンデン〉の陰からラサが現れた。「トフラ、案内ありがとう」ラサの後ろで白ローブの裾が揺れた。
「観念しろよ」錫杖を拾い上げたリツが背後から声を掛ける。
 しかしエメルだけは、緊迫した状況とは関係なく言葉を手繰り寄せていく。
「お兄さん、あれはあなたのお母さんじゃないの。悲しそうな、苦しそうな顔をしていて……。とってもよく似てます」
「馬鹿なことを。〈ハーベスト〉に母親などいない」
「わたしにはいます」
「育ての母、というやつか。それなら母と呼んでやってもいいかもしれないな。だが、断じて似てなどいない。こんなやつと似ていてたまるか。こいつは私を働いて金を持ち帰る機械としか考えていなかった。そうだ、そういうモノとして与えられたんだから、当然のことだ」
「〈リンデン〉で量産した子供を、傷病者や精神疾患のある人の生活保護として与えてる地域があるって、読んだことがある」リツがつぶやく。
「そうだ、母は働いていた工場で事故にあって、半身不随になった。結婚を誓い合った相手はいたらしいが、そんな母の様子を見て逃げ出したそうだ」
「僕も同じだ」ラサがつぶやく。
「そうか、それならそのナイフは大事にしまっておくことをお勧めするよ。間違っても、母へのプレゼントなんかにしてはいけない。さもなくば、私のように一生消えない醜い傷を付けられることになる」左頬を掻く手は真っ赤に染まっている。「だから、その〈リンデン〉の動力に使ってやった。個々の〈ポッド〉も臍帯も人工のものだが、そこに送られるエネルギーは生体を使っている。この施設には、そんな技術がごろごろしていたからな」
「どういう意味だ」
 ハバンは口を閉ざした。天井を振り仰ぎ、声を出さずに笑っている。
「〈ハーベスト〉を使った人体実験施設が存在したっていう噂は聞いたことがある」リツが言う。「これも、その成果だっていうのか」
「そうさ。〈ハーベスト〉も〈導眠材〉も、全てここから、こいつから生み出されている。構わないだろう。こいつは、体は生きていても、中身は空っぽなんだから。――いや、中身が空っぽなのは私たち〈ハーベスト〉も同じか」
「誰も空っぽなんかじゃない」エメルの声が震える。「この人、悲しんでる。そういう音が聞こえる。お兄さんがここに来てから、その音が少し和らいだ。お兄さんが自分の子供だって分かってるんだよ」
「音なんて聞こえない。何も聞こえないじゃないか!」
 リツにはハバンの叫びの意味が分かっていた。
「〈タブレット〉は、ただ鎮静作用のある音波を増幅するだけのものではない。少なくとも、エメルが上の〈オーヴァル〉に掘ったスラハ族の伝統模様は、本来弱いはずの僕たちの感情の作用を増幅した。安心だけじゃない、自信や信念、逆に不安や恐怖のような感情も増幅する。この中の〈オーヴァル〉を使えば、模様による作用の違いを検証することもできるかもしれない」リツは皆を見回しながら語った。
 ラサがナイフに付いた白い粉を指で拭う。「そうすれば、〈タブレット〉の拡散によって別の目的を達成できる可能性が生まれる、と」指先の粉をじっと見る。そこに隠れた命の欠片を感じようと。
「まだいる?」ラサがエメルの目の前にナイフを差し出す。
「もう、必要なさそうだから」エメルはラサに寄り添ったまま答えた。
「グル・アミブもそこにいますね」リツが螺旋階段に向かって言う。
「ああ、一部始終、聞いていたよ。好きにするがいい。協力は惜しまない」そのまま階段を上る。「グル・マブカの新技術は、もしかしたらこれだったのかもしれないな。我々〈ハーベスト〉に欠けているものを補うための技術――」
 グル・アミブの呼びかけに集まった信徒の動きは早かった。ドライバーやスプーンなど、それぞれが道具を持ち寄り、リツの指示に従ってそれぞれの〈オーヴァル〉の壁に模様を描いていく。その中には、いまだ傷の痛みを抱えているレエンとナムの姿もあった。
「好きにしろ。壁を削ったぐらいで世界が変わるならな」
 祭壇の前に座り込んだまま動けなくなったハバンにエメルが声を掛ける。
「もう聞こえてきてるよ。みんなが、産まれながらに奪われていたものを取り戻そうとしている音が」
 一つひとつの〈オーヴァル〉で、思い思いの道具によって細かく刻まれるリズム。それらの音が、〈タブレット〉を伝ってうねりを作り上げ、大きな呼吸へと織り成されていく。祭壇の下にいると、その音の力が最も強く感じられる。グル・マブカの設計の賜物だ。
「これは、ゆりかごで聞いた歌だ」
 ハバンの胸に、母の手の平の記憶が蘇った。横に腰を下ろしたエメルにも同じように、胸をゆっくり優しく叩くリズムに合わせて歌う母の声が聞こえてきた。
「お母さんとお父さん、必ず迎えに行こう」
 ラサがエメルに微笑みかけた。エメルもまた笑みを返した。

 会議室で眠ってしまっていたカタンは、床から伝わってくるリズムに目を覚ました。細かな音はバラバラなのに、それがまとまりを成し、カタンの胸の奥のリズムと結びつく。すると、〈オーヴァル〉の真ん中で膝を抱えて横になっているだけなのに、奇妙な高揚感に包まれた。綺麗なリズムだと思った。
 そのまま視線を泳がせると、グル・アミブの鞭が転がっているのが目に入った。手元に引き寄せようとして、その重さに驚く。その力量に感嘆しながら、握りの部分をよく見ると、底の所に文字が刻まれている。
「我が息子 我が誇り アミブへ」
 カタンは、自分の欲しかったものが何か、分かった気がした。
 〈リンデン〉から見晴るかすふるさとの風景――たくさんの子どもたちがカタンの周りで走り回っている。若い木が緑の葉をつけ、雲雀が空高く舞い上がる。子どもたちが空を見上げ、何人かは尻もちをつくかもしれない。
 新しく産まれる命を誇りに思うのに、血のつながりなど必要ない。その場所に名前がないのなら、新しく名付ければいい。
 言葉は、自由だ。

文字数:31014

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