メモリー・プール

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梗 概

メモリー・プール

アムは仕事の不手際を理由に、男に殴られる。アムはいつくばったまま謝る。負の感情はすぐ、仕事への情熱の「記憶」によって塗り替えられる。アムの脳内に常駐するナノマシンが、脳内物質量をモニターし、瞬時に成功体験を呼び出すことで、精神的な負荷を解消する。
アムの恋人であるイシトはアムが暴力を振るわれたことに憤りを覚えるが、アム自身は精神的な負荷がないため、意に介さない。イシトはアムに注入されたナノマシンを製造する企業のエンジニア。アムは友人との死別においてさえ往時の記憶を反復して、平穏と喜びの中に住む。認識を改変しつづけるアムを、イシトは苦々しく思う。
アムの遺伝情報を保存した人工子宮が妊娠している。アムはイシトには知らせず、遺伝情報銀行から男性の遺伝情報を取得しており、金髪碧眼の男の子(カイ)が生まれる。カイは胎児の状態から、アムの記憶情報に関するメモリーまでもを分散保持したナノマシンを脳に注入されている。アムにとってカイは、生涯のあらゆる場面で自分の感情と記憶が喚起される、クローン以上の本物の分身であった。アムはカイが言葉を得て、自らの体験と、アムの与えた記憶について語るのを待つ。
しかし、カイは一向に言葉を発しない。イシトは、胎児から脳にナノマシンを注いだ前例はなく、脳に負荷がかかった可能性を指摘する。アムはカイを慈しみ育てる。カイが5歳になり、アムは海辺にコテージを借りてカイの誕生日を祝う。あけ放たれた窓から潮風が吸い込んだ瞬間、カイは「海」という言葉を初めて発する。カイは「海」に刺激され、重なり押し寄せる記憶について語り始める。国旗をたなびかせて離岸する軍艦、あるいは幻想的な漁火、……。いずれも、自分の記憶ではないことをアムは不審に思う。
カイの話は「記憶」なのか「創作」なのか? その後もカイはアムの全く知らない記憶を次々と呼び起こしていく。しかも、その記憶は大戦中のものから中世、古代へと遡っていく。アムに頼まれてカイの細胞を解析したイシトは、アムが注入したはずのナノマシンが変貌していることを知る。それは機能を残して、潜伏していた異なる「記憶」に乗っ取られていたのだった。
カイは「すべてを思い出した」という。それは、太古にナノマシンの類似技術が人類遺伝子に組み込まれてから、交配と血脈がカイにいたるまでの人間たちの記憶が読み込まれたということであった。カイは今この時を「人類漂着の地」とし、人類との約束に従って審判するという。アムとイシトに始まり、感染するように全人類中の古代ナノマシンが機動していく。現人類は過去の人類の記憶の総体となる。人間は一瞬一瞬の感情を人類の記憶と結びつかせながら体験し生きる存在になる。アムは今や特別な存在ではなくなった息子の手を握る。その手には何百の幼く柔らかい手が重なっている。アムは喜びを感じる。その喜びも、何重にも増幅する。

文字数:1192

内容に関するアピール

最初は、エゴイスティックな世代の人類が、自分の記憶を除去不可能な遺伝情報として子々孫々と伝えていこうとするグロテスクな社会、というアイデアでした。クライマックスの盛り上がりを考えるために、遺伝情報を伝えていこうとする……のですが実はオーテクとバッティングしていて、かえって自分たちがこれまでの人類の記憶の波の、集積となる、というストーリーになりました。ディストピアを描いているわけではないので、最後は「アム」が喜びを増幅させる場面にしました。

文字数:221

課題提出者一覧