隠し味

印刷

梗 概

隠し味

主人公、佐川栄治は50代後半のロボット会社社長。30代の女性マリエに出会い結婚するが、直後に彼女は交通事故で亡くなってしまう。
マリエを愛していた栄治は自社で開発したマリエそっくりのアンドロイドとともに生活を始める。このアンドロイドは主人公が眼鏡に仕込んだカメラで隠し撮りをしていたマリエの映像を元に、しぐさや言葉遣いなども含めて瓜二つに作られていた。
妻そっくりのアンドロイドとの生活は最初は楽しいものだった。長年の不摂生のせいか体調を崩しかけていた栄治も、アンドロイドとの安定した生活の中ですっかり健康を取り戻す。
しかし、そのうちに栄治は少しずつ違和感を感じ始める。何かが本物のマリエと違うのだ。例えばアンドロイドの作る料理はレシピ通りの完璧なもの。人間のマリエの料理はときどき味付けが濃すぎたりすることもあった。栄治はアンドロイドの作る完璧な味の料理よりもマリエの失敗作の料理の方を懐かしく思うようになり、いくら外見を似せても妻の「愛情」は、機械の中には存在しないことに気づいいていく、そして次第に自分の現在の生活を、偽物の妻との偽物の生活なのだと思うようになって来る。
「愛情とは料理の隠し味のようなもの。機械の作る料理には、それが欠けている」
機械であるアンドロイドのマリエは、そんな栄治の心の変化にも関わらず、人間のマリエがそうであったように献身的な態度で尽くし続けるが、そうしたことさえもはや栄治には疎ましいものとなっていった。
ある日のこと、栄治の元へ刑事が訪ねて来る。
刑事は、3年前に夫を殺害した容疑で指名手配になっていた「池田ミツコ」という女を追っていたのだが、ミツコが死亡したという連絡を受けて安置所に出向いたところ、そこにあった遺体はミツコのものではなく「大谷マリエ」のものだったという話をする。そして栄治がずっとマリエだと思っていた女性こそが池田ミツコであったのだと告げる。
ミツコはマリエの戸籍を金で買って別人になりすましていたというのだ。そして、彼女がもしも偶然に事故死しなかったならば、栄治も殺害する予定だったはずだと言い、栄治に「たとえば料理の味が変だったことはないか?」と尋ねる。マリエ(ミツコ)は、料理に少しずつ毒物を混入させて殺害しており、毒入り料理を出す時には毒の味が分からないように味付けを濃くしていたのだと言うのだ。
自分が信じていたマリエの愛も、その存在までもが偽りであったことを知り、ショックで精神を病んでしまう栄治。
アンドロイドのマリエは、そんな栄治に献身的に寄り添って支え続け、そのマリエを栄治は「本物のマリエ」だと思うのだった。

文字数:1085

内容に関するアピール

テーマ:何が「本物」で何が「偽物」なのか?

最近、人間によく似たアンドロイドがいくつも作られるようになってきました。
テレビで「女装した男性のアンドロイド」を見たとき、ふと心に浮かんだのは「このアンドロイドは女性なのだろうか? 男性なのだろうか?」ということ。
例えば、普段は男性的な女性が、女よりも女らしいと言われる歌舞伎の女形の所作を真似て「女らしい女」を演じたら、その女は本物? 偽物?

いつも前向きな人が弱音を吐くと「あなたらしくない」と言われることがあります。そこで周囲の期待に応えるために「前向きな自分」を演じる。よくあることです。人間は社会で生活していく上で、多かれ少なかれ、常に「自分」を演じているのではないでしょうか?

この物語に出てくる「マリエ」は「献身的な妻を演じている殺人鬼」に似せて造られたアンドロイドです。造った人間は、彼女が「殺人鬼」であることを知らず、できあがった「妻」は「献身的な妻」そのもの。でも実は、そんな妻は存在していなかった。
「本物」の実在性が揺らいだとき「偽物」とは何であるのかということを考えてみました。

文字数:470

印刷

隠し味

マリエが死んだ。
脇見運転運転のトラックによる追突事故。ありふれた死だ。多くの人間が1週間もすれば思い出しもしない死。
けれどマリエは私の妻だった。結婚してわずか半年。私が56歳、マリエが32歳。離れすぎた歳の差を気にする者もいたが、私はマリエを愛していた。そしてマリエの愛を感じていた。それ以外の何が必要だったのか?
栄治はガランとしたリビングルームを見回した。探してもそこに妻の姿はない。思わずキッチンカウンターの奥に目をやるが、見慣れた妻の笑顔はそこにもなかった。
電話が鳴った。放置していると、そのうち留守番電話に切り替わる。
「佐川です。メッセージをどうぞ」という録音した自分の声に続いて、秘書の米沢の声が聞こえる。
「社長、7月のメイド・ロボットの売り上げに関してですが、以前、非常に好調でして、つきましては増産の……」
仕事の話。すべてが遠い世界の出来事のようだ。
「メイド・ロボット?」
栄治は、ふいに顔を上げると、まるで初めて口にする単語のように自社の商品名をつぶやいた。

「被害者は池田ミツコ、32歳。死因は刃物による刺殺。凶器の出刃包丁は容疑者の小島武夫が所持していました」
松本警部は、部下の井上の報告をやや上の空で聞いていた。スナックのホステスの死。容疑者は元情夫。よくある事件だ。
「ただ、ひとつ妙な点がありまして……」
「なんだ?」
「容疑者が、自分は池田ミツコを殺してはいないと言っているんです」
「小島は犯行を自供したんじゃなかったのか?」
「殺害は自供しました。ただ、自分が殺した女は池田ミツコじゃないと言っているんです」
松本は片方の眉を少しだけ持ち上げた。

栄治はいつもの通り7時に出社した。都心の一等地にあるビルにオフィスを構えるようになって3年になる。
栄治の経営するESロボット株式会社は、元は介護用ロボットを製作販売していた会社だった。それが7年前にメイド・タイプのロボットを開発して以来、急激に業績を伸ばしたのだ。
ホビー用品としてのメイド型のロボットはすでに他社からも出ていたが、ESロボットの製品は実際に家事を行える実用型のアンドロイドで、発売と同時に爆発的な話題となり、瞬く間にそのシェアは業界No.1となった。
栄治は、社長室の椅子に腰を下ろすと端末を立ち上げた。動画のファイルを開く。画面に現れたのは、マリエの映像だ。彼は眼鏡に取り付けたカメラで日常の妻の自然な姿を撮影するのが好きだった。微笑むマリエ、恥じらうマリエ、拗ねた顔のマリエ、動画のデータは結婚以来の妻の記録、栄治の記憶の中のマリエそのものだった。
その姿をじっと見つめていた栄治は、やがておもむろにスマートホンを取り出すと開発室長を呼んだ。

松本が、岐阜県警の吉永という刑事の来訪を受けたのは、ホステス殺害事件から2日後のことだった。
「死亡した女が池田ミツコだと聞いて、もしかしたらと思いまして」
と、吉永は言った。
「実は2年前に起きた別の事件の関係者の名前が池田ミツコと言いまして、年齢的にも一致しとるんです。ほんで……」
「いや、それがちょっと妙な話になっていましてね」
松本が遮る。
「妙な話?」
「ガイシャは、松本ミツコではないという可能性が浮上したのです」
「なるほど……?」
意外なことに、吉永は興味深そうに目を輝かせた。

アンドロイドが完成した。栄治が自社の研究室に命じて作らせた特注品だ。
「肌の色合いを出すのに苦労したんですよ。特にここの……」
と、語り出した室長を遮って、
「彼女に服を着せてやってくれ」
栄治は自宅から持って来た服を手渡した。マリエのお気に入りだった明るいグリーンのワンピース。
すでに起動していたアンドロイドは、器用に自分で服を着てボタンを止める。その仕草はマリエそっくりだった。そして顔を上げこちらを見たその表情も。
「マリエ!」
栄治は思わず叫んだ。
理性では分かっている。目の前にいるのは映像データを元にマリエそっくりに作られたアンドロイドなのだ。
「栄治さん」
と、アンドロイドが自分を呼ぶ。少し眩しげにこちらを見上げ、唇にはにかむような微笑みを浮かべて。
(これはマリエだ)
と、栄治は思った。
(マリエが帰って来たのだ)
栄治は〈妻〉の手を取ると、傍にいる室長の目も気にせずに強く引き寄せて抱きしめた。
「お帰り、マリエ」
そしてその日からしばらく、栄治は長期休暇を取ることにした。ゆっくりと2人だけの時間を味わいたかったのだ。

「容疑者の小島というのは、ひどい男でね。自分の女を借金のカタに暴力団に差し出したんですよ。可哀想に女は風俗店で働かされていたんですが、それが突然、自分で自分の借金をきれいに清算すると姿を消したんです。小島は急に大金を手にいれた女を金蔓と思って血眼で探し出し、挙句に女に拒まれて脅すつもりで持って行ったという包丁でブスリという訳で」
「なんとも浮かばれんですな、そりゃあ」
「で、ここまでは単純な話だったんですが、小島が言うには、自分が殺した女は池田ミツコじゃないと。それで、女は小島から逃げるために名前を変えていたんじゃないかと睨んだんです」
松本が、ここまで言った時、井上刑事が部屋に入って来た。
「警部、DNA鑑定の結果が出ました。筆と一致したそうです」
「筆?」
吉永刑事が聞き返した。

栄治は〈マリエ〉を車に乗せると自宅のマンションではなく別荘を目指した。そこでしばらく〈マリエ〉と2人きりになるつもりだった。
途中でスーパーに寄って食材を買い込む。店内の誰もが〈マリエ〉をアンドロイドだと気づかない。
(マリエが生きていた当時は、こんな風に2人で出かけることはあまりなかったな……)
自分はなんと時間を無駄にしていたのだろうと栄治は思った。マリエは永遠に一緒にいるものだと思い込んでいた。失ってしまった時間は、しかし、取り戻せるかも知れない。
(仕事はしばらく休もう)
栄治は助手席に座る〈マリエ〉に微笑みかけた。〈マリエ〉は昔どおりの笑顔で微笑み返す。全てが元に戻った気がした。

「この筆なんですが」
差し出された筆は、習字の小筆だった。赤い軸に金色の文字が書かれている。
〈中村マリエ 昭和五十九年六月十四日生〉
「ご存知かも知れませんが、これは赤ん坊の誕生記念品として人気の商品で、筆の毛に赤ん坊自身の頭髪が使用されているのです」
「はあ……」
吉永が要領を得ない相槌を打つ。
「この筆が、池田ミツコの持ち物の中から発見されましてね」
吉永が小さく「あっ」と叫ぶ、その意味が分かったのだ。
「DNA鑑定をしたところ、この筆に使われていた頭髪のDNAが、池田ミツコと思われていたガイシャのDNAと一致したんです」
「つまり、小島武夫に殺害された女性は池田ミツコではなく、中村マリエだったと?」

「お夕飯の支度が出来たわ」
と〈マリエ〉が栄治に声をかけた。
「あなたの好きな里芋の煮っころがし」
そう言って〈マリエ〉微笑む。里芋の煮っころがしは、マリエの得意料理だった。
食卓に着くと、さっそく小鉢に盛られた里芋に箸を伸ばす。
「美味しい?」
と〈マリエ〉が聞く。
「ああ、美味しいよ」
申し分のない味だった。だが、ふと違和感を覚える。
「料理の腕を上げたみたいだね」
「本当? 嬉しい!」
無邪気に笑う〈マリエ〉に、栄治はぎこちない笑顔を向けた。里芋の煮っころがしは、マリエが作ったものより美味しかったのだ。

「じゃあ、本物の池田ミツコは、まだ生きているということになりますね?」
と、吉永刑事は言った。
「さあ、それは調べてみませんと……ところで先ほど言っていた2年前の事件というのは?」
松本に促されて、吉永は話し出した。
「2年前、池田幸蔵という老人が亡くなりました。地方の金持ちで、まあバブルの頃に土地を売って儲けた元地主と言ったところです。医者の見立てでは病死。歳も歳でしたから誰も疑う者はおらんかったのです。この爺さん、妻に先立たれた後に住み込みのお手伝いという名目で、つまり愛人をですね、自宅に住まわせておったんです。ところが死んでから周囲が驚いた。ご老体、死ぬ半年ほど前に、この愛人と籍を入れとったんですわ。つまり遺産の半分はこの女に行くってことで、収まらなかったのは仏さんの娘ですわ。どえりゃあ怒って、女狐が財産目当てに父を殺しよったにちがいないと大騒ぎ。弁護士まで引っ張り出してあんまり捲したてるもんで、警察も折れて検死に回したわけです。ほうしたら……」

〈マリエ〉は毎日、美味しい食事を作ってくれた。栄治は知っていた。アンドロイドのAIは、ネット上のレシピデータを自由に参照できる。正確な分量、正確な火加減、正確な時間。全てが正確に作られた料理が不味かろうはずはないのだ。
マリエは……本物のマリエはそうじゃなかった。マリエの料理は、ときどき味付けが濃すぎた。栄治がそれを指摘すると、マリエは顔を赤らめて恥じらった。
「ごめんなさい。私、田舎の味付けだから」
どぎまぎしながらそう言い訳するマリエは可愛かった。
「でも、東京の生まれなんだろう?」
「母の田舎よ」
「お母さん、どこの人?」
(マリエはなんと答えたっけ?)
栄治はぼんやり考えた。
いや、マリエは答えなかったのだ。代わりに栄治の唇を自分の唇で塞いだ。入り込んできた舌が優しく、栄治はそれ以上の質問を諦めた。
(こんな風に舌と舌が触れ合っているのに、それを超える会話が必要だろうか?)
「マリエ」
栄治に呼ばれて〈マリエ〉は振り返った。その唇を唇で塞ぐ。アンドロイドは黙ってされるがままになっている。その唇は柔らかく、冷たかった。
電話が鳴った。
栄治はなぜかほっとして〈マリエ〉から離れた。電話は秘書の米沢からだった。
「社長、警察の方が見えていて……」
「警察?」
「ええ、奥様のことで社長にお聞きしたいことがあるとかで」
マリエをはねたトラックの運転手はその場で逮捕され、特に不審な点もなかったと聞いていたが?
「分かった。すぐそっちに戻る」
電話を切ると栄治は〈マリエ〉を振り返った。精巧なアンドロイドは、妻と同じ微笑みを浮かべてこちらを向いていた。
「急用で東京に戻ることになった」
「一緒に帰るの?」
そうだ。それが自然だろう。ここへは2人になるために来たのだから。来た時と同じように彼女を助手席に乗せて……。
「いや、お前はここに残っていなさい」
アンドロイドは従順に頷いた。

会社の応接室には、刑事が3人待っていた。交通事故の処理の時に会った刑事とは別の人間だ。赤い丸バッジをつけた年配の刑事と若い刑事。受け取った名刺には「警視庁刑事部捜査第一課」と書いてある。そしてその後ろにもうひとり。こっちはバッジをつけていない。
(なぜ交通事故の捜査に?)
栄治が受け取った名刺をしげしげと改めていると、若い刑事がせっかちに立ち上がり、
「ご自宅の捜索令状を……」
と、言いかけた。それを年配の刑事が制して、
「亡くなられた奥様のことで、2、3伺いたいことがあるのですが……」
「あの事故のことで何か? 捜索令状と言うのは?」
「いや、事故のことではなくて、その……」
年配の刑事(松本という名前で肩書きは警部らしい)が言いかけたとき、後ろにいた刑事がひょいとを挟んだ。
「奥様はどういう料理が得意でしたか?」
「は?」
後ろに立っていた刑事(名刺によると吉永というそうだ)は、なぜかマリエが料理をどんな食器に盛って出していたのかを聞きたがった。
「どんなって。小鉢ですよ、普通の」
これを聞くと吉永刑事は満足気に頷いた。なんだかイライラする。
「そんなことより、捜索令状というのは?」
「ご自宅をちょっと調べさせて頂くことになりましてね。そのための令状です」
「何のために?」
返事の代わりにさっきの若い刑事が目の前に捜索令状を差し出す。栄治の自宅の捜索はすでに決定事項であるようだった。

意外なことに、警官たちは家に入ると真っ直ぐにキッチンに向かった。嫌な気分がして心臓がドキドキする。キッチンはマリエの神聖な場所だった。「男子厨房に入るべからず」を忠実に守って、マリエは夫の自分さえもそこへ入れようとはしなかったのだ。そのマリエのキッチンに見ず知らずの男たちが入り込んでいる。大事にしていた鍋がビニール袋に放り込まれ、冷蔵庫が全開に開けられる。
「ありました」
庫内を覗き込んだ鑑識係だかなんだかの制服姿の男が言った。冷蔵庫の奥の方に手を突っ込んで、ジャムの瓶を取り出す。正確にはジャムの空瓶にマリエが手製の麺つゆだかスープだかを保存していたものだ。刑事は赤茶色の液体をもったいぶって光にかざすと、大げさに頷いてみせた。
(一体、なんだというんだ?)
栄治は机を爪で叩いて苛立ちを表したが警官たちはそんな栄治を視界に入れようとすらせず、ただ黙々と作業を続けた。
日没と同時に家宅捜索は終了。刑事たちが帰ったあとの自宅で、栄治はソファに身を沈めてぼんやりと宙を眺めていた。
わけがわからなかった。なぜ池田ミツコなどという会ったこともない女に関する捜査で、自分の家が警察に捜索されなくてはならないのか? しかも警察官が後生大事に押収して行ったものは、たぶん麺つゆ。
なんだか蕎麦を食いたくなって、栄治は近所の蕎麦屋に向かった。久しぶりの外食だ。
「おひとりさまですか?」
蕎麦屋の店員にそう声をかけられて、別荘に〈マリエ〉を置きっぱなしにして来たことを思い出す。
(まあ、いいや)
アンドロイドは、電池の残量が少なくなれば自分で充電する仕様になっている。なんの問題もない。
帰宅するとぐっすりと眠り、翌朝から栄治はまた会社に出勤するようになった。以前のように仕事に没頭する。そしてそのまま3日間を何事もなく過ごした。

4日目の午前中に、刑事たちが再びやって来た。今度は2人だった。あの吉永という刑事は岐阜へ帰ったらしい。用件は押収物の返却に関わる話とのことだが、冷蔵庫から出して3日も経った麺つゆなんて、正直、返してもらっても困る。なのでそう言うと、
「麺つゆ?」
と、聞き返された。
「ほら、あのジャムの瓶の……」
と言うと、
「ああ、あれは麺つゆではありませんよ」
と、訂正される。
「じゃあ、スープか何かですか?」
2人の刑事が顔を見合わせる。違和感のある反応だ。
(何か変なことを言ったのだろうか?)
「あの液体からは、プタキロサイドが検出されました」
井上とかいう若い方の刑事が警部の松本に促されて何かを暗唱するような口調で言った。聞いたことのない言葉に栄治が戸惑っていると、警部が口を開いた。
「簡単に言えば、毒薬です」
「まさか! マリエは……家内は普通の主婦だったんですよ。毒薬なんて持っているはずがない」
「奥さんは、ワラビを使った料理が得意だったそうですね。ワラビの茹で汁には毒がある。普通の主婦なら知っていることです。奥さんは、その汁を濃縮させて保存していたんです」
「そんな……何のために?」
言ってから気がついた。
(まさか?)

松本の話によれば、2年前、岐阜で金持ちの老人が死んだのだそうだ。老人は死ぬ直前に若い女と結婚していて、検死の結果、遺体からプタキロサイドが検出されたのだという。
「プタキロサイドは、即効性の毒薬ではありません。だが長期に渡って少しずつ摂取すると……」
「つまり、誰かが毒を盛っていたと?」
一緒に暮らしていた20代の妻に疑いがかけられのだが、警察の捜査が自分に伸びて来たのに気づいた妻は、突然、失踪してしまったのだという。
「その失踪した妻が、あなたの奥さんだったんです」
井上刑事が早口で言った。
「でも……マリエは初婚でした。婚姻届けを出した時に戸籍を見たのですから間違いありません」
「それは、中村マリエの戸籍でしょう? あなたの奥さんの本名は池田ミツコ。池田幸蔵の妻だった女なのです」
刑事が何を言っているのか分からなかった。
「池田ミツコは自分の過去を隠すために、中村マリエという少々訳ありの女から戸籍を買っていたんですよ」
頭が混乱して来る。
「じゃあ、本物のマリエは……」
「死亡しました。つい最近のことです。あまり詳しくは申し上げられませんが、殺人事件の被害者です」
「殺人? マリエは交通事故で……」
「ですから、それは池田ミツコなんですってば」
井上刑事がじれったそうに言う。
「ミツコが交通事故で死亡したのは、佐伯さん、あなたにとって幸運なことだったのかも知れません。ミツコは料理をひとり分ずつ小鉢で出していたと言いましたよね? あなたの分と自分の分を別々に。それに奥さんは時間をかけて食材に水分を吸収させる煮物タイプの料理ををよく作っていたとか」
マリエの得意な里芋の煮っころがし……。
「じゃあ、私は毒殺魔と毎日食卓を共にしていたわけですか」
栄治は笑った。こんなの何かの間違いに決まっている。マリエが本当はマリエではなくて、殺人者で、私を殺そうとしていた?
だが、刑事は笑わなかった。松本警部はどこか気の毒そうな顔をして続けた。
「料理の味が濃すぎると感じたことはありませんか? ワラビの汁には独特のえぐみがある。おそらくミツコは毒の味を誤魔化すために……」
体が震えて来た。
「大丈夫ですか?」
井上刑事が顔を覗き込もうとした瞬間、栄治はその場で激しく嘔吐した。

刑事たちが帰ると栄治はすぐに主治医のもとへ行き、事情を話して検査を希望した。幸い栄治のプタキロサイドの摂取量は深刻なほどのものではなかったようだ。だが吐き気が止まらない。
「精神的なものですね」
と、言って、医師は薬を処方してくれた。
栄治は自宅に戻るとPCを立ち上げ、保存しておいたマリエの映像を全て消去した。マリエの服を引裂き、マリエと買ったカップやグラスも全て叩き壊した。
(吐き気がする!)
マリエの死という現実から必死で立ち直ろうとしていたこの半年間。幾夜も部屋の中に妻の姿を探し、妻の声に耳を澄ませ、暗闇の中で泣いた。
だが全ては嘘だったのだ。マリエは死んだのではなかった。彼の知っているマリエという女は最初からこの世に存在しなかった。愛する妻は、狡猾な毒殺魔の顔に張り付いた仮面に過ぎなかったのだ。
ひとりになりたいと思った。だからそんな時にいつも行っていた場所へと車を走らせる。都心から離れ、郊外の別荘地へ。あのまやかしの女と出会う以前、栄治はいつもこの場所で週末を過ごしていたのだ。
見慣れた道、見慣れた玄関のドアの前に立ち、少し呼吸を整える。さあ、嘘のない世界へ帰ろう!
ドアを開ける。まぶしい部屋の明かりに、一瞬、目がくらむ。
「お帰りなさい、栄治さん」
そこには、マリエが待っていた。やわらかな微笑みを浮かべて。
機械の無垢な微笑み。毒殺魔の狡猾さも微塵の嘘もない純粋な笑顔。栄治はしばしその笑顔を見つめていたが、やがてその顔に幸福な微笑みが浮かんだ。
「ただいま、マリエ」
栄治は妻を抱きしめた。

文字数:7591

課題提出者一覧