u/dys topia

選評

  1. 【法月綸太郎:3点】
     ストーリー的には読んでいて、最後まで予想を裏切られ続けたエンタメ作品になっていた。そこは評価できるが、どうしても細部の荒さが気になる。登場人物と技術の関係や段取りの詰め方など、もう少し整理してあれば読み味も良くなるだろうと感じた。そもそも主人公がどのように入国し選別されたのか、ちょっとした回想でもいいので触れてほしかった。

    【都丸尚史 :3点】
     文章のリズムが自分と合っていたのか、荒っぽいところもありながら、最後まで一気に読ませる作品だった。山田正紀の短編「銀の弾丸」のテイストも感じ取って、SFをきちんとエンタメとして描いているという点でも好感を持てた。特にフォローもなく展開が飛躍するのは、今の読み手がそういうことを気にしなくなってきている変化を感じているので、欠点というより今風なのかなと思った。

    【大森望:2点】
     梗概段階で予想したよりは面白く書けている。ただし、「ラプラスの魔」をモチーフにした決定論的な管理社会は、吉上亮『パンツァークラウン フェイセズ』やアニメ『PSYCHO-PASS』風で、やや新味に欠ける。自由意志のネタは、もう少し突っ込んで書いてくれないと、オチの説得力が乏しい。アリス先生の過去についても、小説の着地点に合わせて都合よくつくられているように見える。

    ※点数は講師ひとりあたり9点ないし10点(計28点)を4つの作品に割り振りました。

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梗 概

u/dys topia

 ディストピアでないユートピアなどありはしない」B・B・ジョーンズは言葉を切り、観衆を見渡す。「こうも言えよう。ユートピアとは民衆が理由なく善良である社会であり、ディストピアとはなんらかの人工的な手法により民衆を善良に管理する社会であると。してみれば、ユートピアに手法が与えられたとき、ディストピアとなる。そして実現には手法が必要だ。すなわちこうも言い換えられる。すべての実現可能なユートピアは、必ずディストピアであると」
 観衆の半数は熱狂、半数は沈思黙考、そして記者たちはシャッターを切り、しきりにメモをする。

 

 希代の政治家B・B・ジョーンズは「ヒトラーの生まれ変わり」と影で囁かれるほどの政治的辣腕をふるい、実験国家La-placeを構想、各国の承認を受けて建国を宣言する。
 太平洋に浮かぶ洋上国家La-placeは自覚的なディストピア。来る者は拒まず、去る者は追わず。ディストピアで暮らしたいと思う者のみ迎える。
 La-placeでは人間から蠅に至るまで、極限まで発達した脳科学の知見と量子計算技術を応用した計算機ラプラスにより高い精度で行動を計算される。ラプラスは不幸を最小化し幸福を最大化するパターンを算出し、住民の意識に作用し操る。しかしラプラスにも限界がある。ほぼ解明された脳機能に残る自由意志、予言可能な準備電位に起因する動作の「拒否」。ラプラスにとってノイズとなるこの拒否を遅滞・無効化する薬剤ウォッシュの服用を住民に義務付けることでLa-placeでは自由意志を抑制し99.9999999%の計算精度を維持するという。
 青年シンノスケは成年した翌日にLa-placeへの移住を申請、受理された。
 シンノスケのLa-placeでの幸福な生活は、大統領夫人を見た日から一変する。彼女はアリス。シンノスケの初恋の相手。小学校教諭であった彼女は当時シンノスケをいじめていた子供たちを散弾銃で射殺し、逃亡後も各地で大量殺人を重ねた。悪の化身かつ反転した聖女として密かに崇拝していたアリスが理想国家の大統領夫人――その事実にシンノスケは怒りと嫉妬と殺意を抱く。
 ――殺すか? 殺す。アリスを穢すB・B。赦しはしない。なに、これもラプラスの思し召し。算出された最善の行為なのだ。
 La-place中央にそびえる摩天楼パノプティコンの竣工式当日、計画は実行に移される。
 パノプティコン屋上。ウォッシュをキメてラプラスの使徒と化したシンノスケはB・Bとアリスの前に躍り出て銃口を向け、引き金に指を掛ける。
 とっさにB・Bの前に飛び出したアリスの心臓をシンノスケの弾丸が撃ち抜――

 かない。引き金に掛けた指が動かない。
 アリスは女神のようにやさしく笑み、真実を告げる。
 「残酷こそが我々の為しうる最悪である」というB・Bの信条の為に用意された薬剤ウォッシュの効果は自由意志の剥奪ではない、むしろ強化である。最悪を拒否すること。それこそ人間の最大の能力であるとB・Bは信じた。
 La-placeは選別する、管理されてまでも善良でいたい者達を。善良でない者の矯正ではなく、善良を望む者たちの選別。
 明らかになるLa-placeの思想にくずおれるシンノスケ。そのとき1階に仕掛けていた時限爆弾が爆発し、バランスを崩したシンノスケは落ちそうになる。B・Bがその手を掴み運動量を交換する。入れ替わったB・Bにシンノスケは手を差し延ばすが、B・Bはその手を掴まず、「娘を頼んだ」と言って墜落する。
 「回避したの、残酷を」
 アリスの目から零れる涙を拭おうとしたシンノスケの手。この残酷な手を止めるかどうか、シンノスケは賭けてみることにした。

文字数:1514

内容に関するアピール

テーマ:「ディストピアとユートピアはなにが違うのか?」「ディストピアでないユートピアはほんとうに不可能か?」

 僕はどちらかというとディストピアモノが苦手で、いつかどこかにはユートピアが可能だと信じたい方の人間です。
 どうにかユートピアは考えられないものか。そう考えながら「ディストピアに見せかけたユートピア」を思い描いてみました。
 ディストピアとは要するに「悪いことができない社会」なのだと思います。もちろんそうでないディストピアもあるでしょうが、ユートピアがギリギリ陥ってしまうディストピアは大抵それです。
 ならばユートピアはそれと似て非なる「悪いことをしない社会」なのでしょう。
 各人の自由意志により万人の幸福の成就と不幸の抑止が実現される社会。難しいでしょうが、書き切ってみたいと思います。

 あと

文字数:351

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u/dys-topia

 

 ディストピアでないユートピアなどありはしない
 B・B・ジョーンズは言葉を切り、観衆を見渡す。
 「こうも言えよう。ユートピアとは民衆が理由なく善良であるような社会であり、これを実現せんとしてなんらかの人工的な手法により民衆を善良に管理すると、ディストピアとなる。つまり、実現したすべてのユートピアは――ディストピアなのだ」
 水と打ったように静まりかえる観衆。B・Bは人差し指を立て、そこにいるすべての人間を指差すように二度振る。
 「わたしたちはユートピアを待望する。何故か? 善良でありたいからだ。神の与えたもう慈しみの能力を発揮し全うしたいからだ。なにがそれを妨げるのか? いまこそ知らなければならない。吐き気を催す排外主義とそれに対する激しい怒り! わたしや隣人たちを駆り立て、煽り、本来のわたしたちでなくさせるものの在りかを。それはわたしたち自身の中にある。しかし! それでもなお、わたしたちは善良でありたい。ユートピアを待望する。たとえそれがほんとうはディストピアであったとしてもだ! わたしたちに必要なのは、自らを捨て去ってでも善良でありたいとする者たちの楽園――ユートピアの実現としての、最善のディストピアだ!
 うぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉ
 地を揺らす狂気じみた歓声。鳴りやまない万雷の拍手。
 実験国家 La-place 建国の日――
 俺は日本の田舎のPCモニタの前で前のめりに、魅入られたかのように見入り、血の沸騰するようなふるえを感じながら、しかし熱狂する民衆には侮蔑の視線を投げた。

 こいつらはなにもわかっちゃいない。

 B・Bの言葉がほんとうにわかるのは
 俺だけだ

*

 

 「しんちゃん、スイカ切ったで。食わんか」
 蝉のやかましい片田舎。バケツリレーみたいに次々に汗がわき出すのもそのままに回転椅子の背もたれにもたれながら目を瞑り、あのときの、あのB・Bの演説を思い出す。そこに闖入した声に適当に応える。「ん……ええわ」
 「ほうか」それから、あ、という声。「切ったん冷蔵庫入れとくさかい、お腹すいたら食べや」
 「や、もうちょいで出発やから」
 「ああ……ほうか」
 ドアのしまる音。
 ばあちゃんは俺がスイカ嫌いだってこと、知らない。

 

*

 

 思ったより汁は出なかった。
 ゴムまりのような弾力と、はんたいにサクッと掘り進む感覚が手を伝って、とれない汚れのように身体中に浸透する。ジュッという音とザブッという音とバコッという音が複合した厭な音が耳の穴にしゅるりと入り込む。青臭くてあまい匂い。
 くらやみのなか、小学生の俺は金属バットをおき、笑いながらはちまきを外してぐるりと囲む同級生たちの称賛をうけながらブルーシートの上に飛散する濃い緑の外皮と真っ赤に熟した果肉を見た瞬間、吐いた。
 ああ、こんなだったのかな
 って。
 散弾銃がどんなふうに爆ぜてそれを受けた人間がどんなふうに弾けるのかしらないけど、きっとこんなだってダズとチャーリーとリーザの顔を思い出した瞬間に吐いた俺のあだ名はその日からゲロスイカになったけど、担任の山岸先生にこのことは絶対にばあちゃんに言わないでと何度も何度も懇願したから
 ばあちゃんは知らない。

 

*

 

 「ほんなら、行くわ」
 キャリーケースとパンパンに膨らんだリュックサック。台所で洗い物してるばあちゃんをチラと見て、玄関に向かう。
 「ああ、ほうか、もうそんな時間か」
 エプロンで濡れた手を拭きながらばあちゃんが寄ってくる。
 「忘れもんないか」
 真実だけを口にしようとする限り、原理的にそうとしか答えようがないという気持ちで「たぶん」と言う。
 「ハンカチもったか?」
 吹き出す。「遠足ちゃうねんから」久々に笑った気がする。
 玄関に腰かけ、うしろへこかそうとするリュックの重みに抗って靴ひもを結ぶ。
 「行くんやな」
 「うん」
 「元気にしいや」
 「ん」
 「たまに電話してな……あ。あんた全然電話しいひんから、こっちからかけるわ」
 「ん」
 「駅まで送るか?」
 「や、歩くわ、もうここもしばらく来おへんから、ゆっくり見ときたい」
 「ほうか」
 「ん」
 「ほな、いってらっしゃい」バン、とリュックサックの背を叩かれる。
 「いってきます」
 玄関を開けると真っ白な日差しと蝉の声とぬるい空気がどっと押し寄せる。
 さぁ、いこう

 

 楽園へ

 

 

 

*

 

 『きょうのあなたの運勢は大吉! ラッキーカラーは赤。ラッキーアイテムはえんぴつと物語と熊と蝋燭とミネラルウォーターと台車です』

 身長15センチの銀髪の妖精・凪の透き通るような声が告げる。
 すぐにえんぴつと小説をナップサックに、それから戸棚から蝋燭を1、いや5本出して輪ゴムで束ねて放り込む。ミネラルウォーターはたぶん新品がいい。あとで買おう。熊……ああ、まえにもあったな――と先日友人にもらったくまのぬいぐるみをやはりナップサックに入れる。あとは……ナップサックをしょって、ガレージから台車を押して出発する。
 「おはよう、シンノスケ」「おはよう、サム」近所の人と挨拶して、台車を押して坂道をいっきに駆けおりる。しばらくすると潮のにおい。新緑と濃い影。太陽光は燦々と降り注ぎ、風は気持ちがいい。
 ここ――La-Place――での生活にも慣れてきた。太平洋に浮かぶ巨大な都市。いや、国。B・Bの、そして俺の理想国家。ユートピアの実現としての、自覚的なディストピア。ここではすべての人が穏やかでやさしい。
 自動販売機でミネラルウォーターを買って凪の選曲した名前も知らないアーティストの楽曲を聴きながら歩く。ああ、なんて、この天気と、この街並みと、いまの気分に完全にマッチして合致した愉快な旋律。「ありがとう凪」『どういたしまして』感想をアーティストに投げる。
 陽気な気分で台車を押していると、両腕のちからこぶをぱんぱんに膨らましてぱんぱんに膨らんだ買い物袋を提げたおばあさんが歩道橋から降りてくる。あ

 これか。

 「おばあさん」
 「んぇ? ……まぁ。ありがとう」
 差し出した台車におばあさんが荷物を置く。
 「どういたしまして。ラプラスの導きを」
 「ラプラスの導きを」
 台車を押すおばあさんのチャーミングな笑顔と笑顔を交わし、一段と晴れやかな気分で歩く。台車もないから気分も身体も軽い。歌でも歌いたい気分だと思ってたところに視界の端に歌唱許可のアイコン。絶妙なタイミングでお気に入りの曲にスイッチした凪に感謝しつつ歌いながら歩く。道行く人々やすれ違う人とともに歌う。
 電車に乗ってどこまでも広がる海原のきらきら光る水面を見つめる。その窓に反射する人の顔。どの顔もどこか満足げで、楽しそうで、ゆるやかな悦びに満ちている。しかしそのうち一人の顔が曇りはじめる。おや、と思ってから、ああ、と思う。
 「ラプラスの導きを」と言いながらミネラルウォーターをその女性に差し出す。
 「あ、ラプ……ラスの」「ああ、無理はせずに」もう一度差し出すと女性は苦しそうに眉根を曲げながらも微笑んで頷き、ボトルを受け取って開封する。そしてごくごくとのどを鳴らして飲んでから、しばらく深呼吸。
 「ほんとうにありがとう。いつもはこうじゃないんだけど、今日はどうも具合が悪くって……」
 「そういうときもあります。そしてそういうときのためにラプラスはいる」
 「そうね」笑うとさがる目尻。青い瞳とうすい、ほとんど白に近い金髪。アリス先生を思い出す。「ラプラスの導きを」
 「ラプラスの導きを」
 電車を出る頃には女性――ポーラさんの気分もずいぶんよくなり、ドアを出てからふり返って、チャオ、というように右手のひらをパクっとさせて笑った。俺もパクっを返して、かなり嬉しくなる。
 大学の最寄り駅に到着し改札を抜けると『シンさま、もうすぐです』と凪が言う。もうすぐか、と思う。
 目の端にくまのぬいぐるみのアイコン。そして向こう側から手を繋いだ親子がやってくる。お父さんになにか夢中になって話しかけている女の子の輪郭が赤く点滅するのを見て、女の子にくまのぬいぐるみを差し出す。「ラプラスの導きを」
 「え……」と突然の出来事に戸惑いつつ、ぬいぐるみを見て目を見開く少女。「わー! くまさん、もどってきたー!」
 「ありがとうございます」と丁寧にお礼をしてからお父さんがしゃがみこみ、女の子の頭を撫でながら「なー、戻ってきただろ? よかったな、サラちゃんにあげて」「うん、よかったー!」くまのぬいぐるみを抱きしめる。
 「ほら、お兄さんに」とお父さんが女の子を促す。俺はしゃがみこむ。女の子はすこし恥ずかしそうに「……ラプラスの導きを」と言う。「うん、ありがとう」頭を撫でる。
 はは

 すべて

 すべてが完璧な一日。
 今日の運勢は大吉。
 いや
 今日の運勢も大吉。
 すべての一日が100パーセントの輝きをはなつ。
 それがここ――La-Place。
 ラプラスの魔が支配する決定論と確率論の都。

 

*

 

 「確率。そう、それが最大の障害だ」
 イ先生の低いがはっきり通る声が教室に響き渡る。
 「La-placeを「健全なディストピア」にするには、La-placeで起こるすべての物事をコントロールする必要がある。「いいことしか起こらない」。それが最善だ。だがもちろん容易なことではない。不確定要素は常にある」
 イ先生は腕を組み、円形に並ぶ座席の中央、ホログラムプロジェクタのとなりに腰かけている。いま、デフォルトの地球の立体映像が映し出されているプロジェクタ上空には、イ先生が意識的に操作すれば脳内の描像が映し出される。
 「それは量子論的な効果のことですか?」前の席に座る生徒が質問する。
 「いや」イ先生はふり返って答える。「微視的な系の法則は巨視的極限において古典的な法則に一致する。だから多くの場合、微視的な確率は問題にならない。もちろん、微視的な事象が巨視的な事象をも引き起こす場合もある。有名な「シュレディンガーの猫」などがその典型だが、まえもってそのような状況を避けるよう社会を設計しておくことが肝要だ。むろん電子機器などの多くは量子効果を利用している。そのような場合、例えば特定の事象が起こるまで「待つ」ことによって、それ以降の確率分岐を無化するなどのロジックがあるね」
 教室の中央で猫が顔を洗ったり電子がポテンシャルの壁をトンネル効果で突き抜けたり確率分岐が収束したりする。
 「まぁ単純な確率なら多少分岐しても量子計算で並列に「すべてのパターン」を同時に計算してしまえばいい。ラプラスならそれが可能だ」
 太平洋に浮かぶ洋上国家 La-place の中枢にして、国土で生起するすべての事象をあますことなくコントロールする膨大な計算能力を誇る計算機ラプラス。この国の実質的な支配者。
 「問題はむしろ古典的なランダム、決定論に従っているはずの範囲の確率だ。さっきも言ったように微視的な事象が巨視的な事象をも引き起こすことがある。そしてその発生をまえもって避けられないようなものも。天気などが典型例だね。未来予測にはある時点での観測が必要なわけだが、かなり精密に観測しても初期値鋭敏性により誤差がのちに致命的な差へと広がることがある。La-place が洋上に浮かぶ理由の一つは、このコントロールも完全な予想もできない天候を、自らの位置移動でなんとかするための苦肉の策だ」
 イ先生の顔に皮肉な笑みが浮かび、すぐに影も形も失せる。
 「微視的な事象の増幅はほかにもある。アブドゥル君」
 「人間の脳ですか?」
 「正解だ」黄色く丸いスマイルマークが教室中央にぷわりと浮かぶ。アブドゥル君も笑顔になる。「脳内の小さな事象が人間の引き起こす大きな事象へ。それだけではない。そもそもラプラス、ひいては La-place の最大の関心事はわれわれの幸せと不幸せ――人間の快・不快だ。そして多くの場合、それを左右するのは別の人間の言動。つまり人間の言動こそがなにより La-place にとってのリスクとなる」
 中央からは依然としてスマイルマークが俺達を見ている。回転しながら。なにかべつの意味が含まれてる気がしてくる。
 「このリスクを低減するために La-place が実施する施策は? ヴァン君」
 「第一に住民の選別、第二に選択肢の収束、第三に自由意志の剥奪です」
 「そのとおりだ」スマイルマークがもう一つ増える。クールなヴァンはにこりともせずイ先生を見つめる。「La-placeはある意味では至極差別的な国家だ。選民主義的といってもいい。善良な――いや、善良になりたがる人間を選別して住人とする。しかしその方法は極めて平和的だ。なぜならここに住むことで得られることといえば「善良でいられる」ことしかない。決して豊かな暮らしができるわけではなく、税も多い。そしてそのわりにリスクは大きい。ヴァン君が挙げてくれた第三の施策とも関連するが、この国には黒い噂が絶えない。大半は意図的に流された噂で、真実も多い。この国が絶えず「ディストピア」を自称するのもその一環だが、そうしてこの国に住むリスクをアピールするわけだ。このハイリスク・ローリターンな状況そのものが「選別」として機能する。第二の施策はみなさんおなじみ「占い」だ。みんな、今日の占いはチェックした?」
 頷いたり返事したり肯定的な反応を返す一同。退屈そうに机に寝転がっていた凪がくすくすと笑う。
 そう、「占い」によって住人の行動の選択肢を収束させる――それがこの国を支配する計算機ラプラスの、すくなくとも特徴の一つだ。
 「ラプラスが予測した複数の未来のうち最善の未来を実現するために、ヒントとして毎日ナビロイドから「占い」が届けられる。中でも重要なのはラッキーアイテム。あ、そうだ、今日の僕のラッキーアイテムのうち蝋燭だけ手に入らなかったんだけど、誰か持ってる人いる?」
 手を挙げてナップサックから束ねた蝋燭を取り出す。イ先生が手を掲げたので投げてよこす。ナイスキャッチ。「ありがとう。ラプラスの導きを」
 「ラプラスの導きを」
 「ではついでにシンノスケ君」
 「はい」
 「第三の施策を実現するものは」
 「ウォッシュです」
 「そのとおりだ」スマイルマークが3つに増える。ヴァンの真似をして笑うまいとしたが、すこし口角が上がった。「ウォッシュ」そう言ってイ先生は白衣のポケットから半分が赤で半分が白のカプセルを取り出す。そして飲む。「この薬は自由意志を奪う。といってもそんなに大したことじゃない。通常、意識的な運動の0.2秒ほど前に、その動作の意識的な決定を下す電気信号が脳内で発される。しかしそのさらに0.35秒ほど前、本人の意識しない「準備電位」が発生している。つまり準備電位によりすでに決定している動作を、0.35秒後の信号により「意識的に行った」とわれわれは錯覚するわけだ。ここで準備電位に予め動作を決められているわれわれに、自由意志はない。ただし。この準備電位のあとに動作を「拒否」することが可能であることが知られている。この動作の途中拒否こそがすなわち、われわれに残された「隙間の神」――かろうじて自由意志と呼べそうなものであるわけだ。ウォッシュはこの拒否信号の伝達を遅延・阻害する。何故か? よくある誤解だが「拒否信号が自由意志だから」ではない。単純にラプラスの予言した動作を直前になって拒否されては困るからだ。現在ラプラスが予言可能なのは準備電位に端を発する動作まで。拒否信号による動作の中断は計算できない。ただし、それはあくまで現時点での話だ。そもそも準備電位による動作の拒否を「自由意志」と呼ぶのは間違いだと個人的には思う。拒否信号に準備電位がなくとも、いずれにせよ物理的な原因があるのは確かだろう。従ってラプラスによる拒否信号の発生予測も将来的に可能になる可能性は十分にある。とはいえ、ウォッシュが「自由意志を奪う」と喧伝されればされるほど、 La-place 移住へのハードルは上がり、選別が正しく機能するのだから、誤解は放っておけばいい。君たちは知る必要があるけどね」
 イ先生はにこりと笑い、それから教室中央に浮かぶ3つのスマイルマークを消す。「では今日はここまで。君たちもウォッシュの服用を忘れずに。占いの成就にも影響が出るからね」
 それに占いやウォッシュの服用を無視し続けると La-place での居住権を失う。
 だけどそんなことする奴はいないだろう。
 占いにせよ、ウォッシュにせよ、俺達は管理されにここに来ているんだから。
 そんなことを考えながら凪を頭の上に乗せ、教室の出口へと向かう。教室を出たところですれ違ったニアと目が合った。

 

*

 

 目を覚ますと目の前に褐色のきれいな胸元。日の光がやわらかく差す。はだけたパジャマを整えてやって起き上がる。頭が痛い。キッチンに行く。蛇口をひねって水道水をグラスに注いでは飲みしているとニアが起き出してくる。
 「また水道水飲んでるの」
 ニアが呆れたように笑う。
 「いる?」グラスを掲げる。
 「遠慮しとく」笑って冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出す。
 トーストを焼いてレタスをちぎってフライパンに卵をおとしかき混ぜてチャチャっと簡単な朝食をつくる。食卓につき「いただきます」と手を合わせると、ニアが真似をして手を合わせ、自動翻訳を介さないなまの声で「いただきます」という。笑顔になる。
 ニアは大学で非常勤講師として働く、心理学を専門とする研究者だ。半年前、ラッキーアイテムに「Nのリング」が出て期待と不安に胸を膨らませつつ一日を過ごし、なにも起こらないまま夕方になって意気消沈していた俺は足元に銀色に光るリングを発見した。そこにはたしかに「N」と刻印されていた。リングに収められたデータから場所を特定して持ち主に届けると彼女のラッキーアイテムも「Sのリング」だったことがわかり、俺とニアは付き合う運命なのだと知った。
 いまもニアの右手に目を遣れば俺のイニシャルの入ったリングが光り、俺の右手にはニアのイニシャルの入ったリングがある。
 ラプラスの目に狂いなどあるわけもなく、ニアとはとても気が合った。互いに尊敬し、たまにある弱点は補い合えた。なによりニアは、なんというか、なんともいいようのないほど、俺にとって魅力的な女性だった。
 ソファに座り、休日だというのに専門書を広げ読書用の眼鏡で格闘するニア。クリーム色のソファの背面からひょこりと出た褐色のうなじ。うしろから抱きついて首筋に顎をぐりぐりする――という妄想を抱きつつ、その後をシミュレーションする。結論。普通に怒られる。ニアに妥協はない。だからやめとく。
 かわりに紅茶を淹れて彼女のまえのテーブルに置く。本から目を上げて「ありがとう」と微笑むニア。その親愛のまなざし。笑う唇。大切な読書の時間をすこしでも俺に割いてくれたことに、達成感と言いしれぬ幸福感がこみ上げる。
 しあわせなゆったりとした時間は、まるでメモ帳に書いた「ゆったり」の文字のように、過ぎてしまえば異様な加速度と共存する。気が付けば昼食は過ぎ去り、夕陽が赤く輝きはじめる。
 俺はこの純粋すぎる時間になにか不純物を混入すれば時間のスピードを緩められるんじゃないかと思って、無粋なニュース番組をリビング中央に現出させる。しゃべりだす半透明の立体映像。生身の人間と見分けのつかないアンドロイドのアナウンサー。映像が切り替わる。
 聳え立つカーボンシート。竣工間近の La-place の新たなシンボル――《パノプティコン》。
 その悪趣味な命名も「ディストピア」を演出する La-place の国策の一環だろう。とはいえ、まったく無根拠なわけではない。ラプラスの未来予測の材料を収集するナノマシンの散布と回収を一手に引き受ける予定のこの塔こそ、これからの La-place の監視システムの中枢を担うことになる。
 映像はパノプティコンの足元に寄る。空中に旋回するメディア各社のカメラ・アイに囲まれた初老の男性、と傍らの女性。深くくぼんだ眼窩の奥から飛び出す目玉の眼光の鋭さ。この国の大統領――B・B・ジョーンズとその夫人だ。
 「きれいよね」と漏らすニア。
 「そうかな」夫人のこと? ニアのうらやましがるような視線が腑に落ちない。そんな必要はまったく無いと思う。「いつもサングラスにマスクしてるからわからないな」
 「ノー」ニアは首を振る。「きれいなの。わかるの」
 ニアがそういうなら、そうなのかもしれない。
 「ニアみたいに?」と言うべきか「ニアのほうがきれいだけどね」と言うべきか、それともほかか、迷っていたそのとき――

 映像の中で風が吹き、夫人のサングラスが飛ばされる。
 特徴のあるやさしげな目。青い瞳。
 氷のナイフで心臓を刺し貫かれ。続いて脊髄を上から下にごっそり斬り降ろされる。
 耳の内側で自分の声が聞こえた。

 ――アリス先生

 

 

*

 

 そのときからニアが怖い。
 たとえばキッチンで包丁を握っているとき、階段をいっしょに降りるとき、自動運転から手動運転に切り替えるとき、向かいの席でナイフとフォークを握るとき、耳そうじをしてくれるとき、自分で淹れた紅茶をすすめてくれるとき。
 こわい。
 彼女は、
 彼女はなにも変わっていない。
 なにも。
 変わったのは俺だ。
 ニアでも、ダメだった。
 懐かしさすら覚える恐怖だ。それはほとんど俺の人生そのものだ。
 日本で、学校で、家で感じていた恐怖。級友たちに感じていた恐怖。教師たちに感じていた恐怖。妹の葵に感じていた恐怖。ばあちゃんに感じていた恐怖。自分自身に感じていた恐怖。
 俺はばあちゃんが料理をしているあいだ、まず台所には入らなかった。入るときはいつもばあちゃんの手元の包丁を横目で確認し――警戒していた。
 こわかった。
 いまにもばあちゃんが包丁をこちらに向けてずぶりと刺して俺を殺すんじゃないかと。
 「なあ、限界なんだ」
 ニアが凪の首を絞めた朝。俺はニアに告げる。吐きそうになりながら。
 「俺は人を信じることができない」
 La-place に来てから、発作はほとんどなかった。とくにニアと一緒にいる間は一切の心配が消え、晴れわたり、忘れることができていた。
 これまでは。
 「ついに無理が来た」
 「あの女のせい?」
 弱々しく微笑む。「かもしれない」
 ニアは首を振る。「いや」
 「ニア」
 「いや。はなれたくない」
 「君を傷付けたくない。これ以上一緒にいれば――」
 「もう傷付いてる!」
 「だからこれでおしまいにするんだ」
 「大丈夫」ニアの目に確信が宿り、表情が冷静さを取り戻す。「あなたの症状は。わたしが治す。だから」
 しかしその冷静さの奥にある感情の痙攣を隠しきれない。
 凪の首を絞めていた右手がゆるんだ瞬間、ふっ、と凪が空気中に霧消する。
 そして俺の目の前に現れる。凪に実体はない。あたかも実体があるかのように振舞っているだけで。
 だから再び掴もうとするニアの手をすり抜けて、凪はデフォルトの微笑み顔で告げる。
 『きょうのあなたの運勢は大凶! ラッキーカラーは黒。アンラッキーアイテムはNのリングです』
 俺は中指からそっとリングを抜く。
 差し出したリングを見たニアは獣のような声をあげて泣き崩れる。

 

*

 

なあ、ラプラス

おまえ、なんの権利があって俺とニアを引き裂くんや?

なあ

ぶっ殺すぞ

なんで、あんな幸せやったのに、あんなに、なにもかも幸せやったのに

なんで

ああ

ああ

わかってる

不適合なんは俺や、もう、いまの俺ではニアを幸せにできひん、いや、できる、できるけど、俺とニアならこんくらいの壁乗り越えてなんとかやってそれなりに幸せになることなんて絶対に必ずできるけど、

最善ではない

もっとほかに、俺よりもっと、ニアを心の底から愛して信じて許して愛して幸せにしてあげられる奴が、男が、おる

だから

だから?

だからなんやねん、だからってこんなん、許されるんか、なあ、なんやってん、いままで

なんのためにニアと俺はつき合っててん

セラピーのつもりか?

ニアみたいな女性と付き合えば俺のこのクソみたいな癖が、人を信じられへんくてどんだけ愛してても信じられへんで怖がるこのクソでドクズな俺を治療できるから、はあ?

はあ?

はあ?

はあ?

ニアを侮辱してんのか

ニアは俺を治す道具か

ぶっ殺すぞ!!!

ぶっ壊してぶっ壊してぶっ壊してぶっ殺すぞ!!!!!

 

*

 

 っていう俺の怒りはニアへの言い訳みたいなもんでほんまは俺はちゃんと理解してる。
 「ラプラスの導きを」って言う場面以外でラプラスを殊更に人格化して怒ったりするなんてアホのやることやし、ラプラスの判断は正しいし、ニアは俺と別れた方が幸せになれるし、ニアのおかげで俺は治療されてた。
 ただ一点、ラプラスは俺とアリス先生の繋がりだけは知らんかったから、たった一つの映像で治療がすべて台無しになることまでは計算できひんかった。
 それだけのこと。
 いや、ラプラスやったら脳の状態から俺の記憶取り出してアリス先生との繋がりも再構成できんちゃう? 予想できひんかったんはあのときの風? 気候? それか、それも全部予想できてて俺とニアが別れるのも計算通り? とかいろんな勘繰りが浮かぶけど、いずれにせよ俺は思いのほか冷静に事態を把握できてて、それがほんまクズ過ぎて、ニアへの愛情を裏切るっつーか嘘みたいな気になるからわざと怒ってみせる。自分に。
 そしてその虚偽性欺瞞性にも気付いてて心の中で自嘲する自分を自嘲する自分をいま自嘲してる。
 ほんまクズやな。
 ゴミやな。
 ボケやな。
 救いようがないな。
 死んだらええのに。

 

*

 

 結局どんな言葉もどんな決心もどんな気持ちも虚偽で虚偽で虚偽で俺は狂いたくても狂えない。
 すべて正常。すべて完璧。
 大凶なのはあの一日だけで、次の日からまた大吉の人生が始まる。俺はおばあさんを助け、おじいさんを助け、幼稚園児を、バスの運転手を、教師を、不正入国者を、店員を、作家を、いぬを助ける。助けて感謝されて助けて感謝されて助けて感謝されて「ラプラスの導きを」「ラプラスの導きを」。大吉。大吉。大吉。大吉。微笑み合い、どれだけ我慢しようとしてもそれが普通に嬉しかったりして、ニアへの愛とか別れの悲しみみたいなものが嘘みたいになって絶望的な気分になる。そして助ける。感謝される。嬉しい。ああ、どうにも普通だ。正常だ。俺は狂えない。狂わせてもらえない。まともに怒らせてすらもらえない。ラッキーアイテムが家に溜まりはじめる。防護ネット。コード。はんだ。はんだごて。弾丸。拳銃。爆薬。どんどん舞い込んでくる。さまざまな手段、さまざまな偶然で、さまざまな人の手を渡って回り回って巡ってくる。レシピまでもが手に入る。俺が狂う前にラプラスが狂ってる。こんなもん俺に持たせてなにさせるつもりなんだって。その問い自体がもう答えを含んでる。わかる。なにしろ俺は欲望を持ってる。そうしたい気持ちがある。それについては狂ってる。ニアとの別れで狂えなかった俺がそれについてはいとも容易く狂ってしまっている。裏切りだ。と自分を責めてみても嘘くさい。ああ、ほんとうに俺のニアへの愛は嘘だったのかもしれない。愛よりもうちょっと綺麗で、だから価値がない La-place ならその辺に落ちてる感情の色違いレアみたいなささやかな幸せでしかなかったのかもしれない。それって言い訳のつもり? だからニアとの別れで狂えなくても普通って意味? あらら、ニアのこともう切り離そうとしてんの俺、薄情ですね、はあ? 薄情で済ます気かよ、じゃあなんなわけ? とかもういいからB・Bを殺したい。
 B・Bを
 殺したい。
 それが俺の欲望。B・Bを殺したい。何故か? B・Bの妻がアリス先生だからだ。何故? 何故アリス先生が大統領夫人? B・Bを殺したい。
 わからない。もしかしたら俺はまだ狂ってないのかもしれない。狂わずにB・Bを殺したいと思ってる普通のどこにでもいる人間なのかもしれない。わからない。なにを基準に狂ってるかどうかを判別すればいいのか、言われてみるとよく知らない。言われてないけどよく知らない。わからない。
 いずれにせよ俺はB・Bを殺したい。
 とても
 猛烈に
 B・Bを殺したい。
 だって拳銃とかライフルとか一揃いあって爆弾も自作できてパノプティコン竣工式の日取りや人員配置やパノプティコンの内部構造や竣工式のスケジュールや式でのB・Bの動きなんかも全部揃って欲望も揃ってる状況で、
 ためらう理由とかは、ない

 よな?

 

*

 

 

 俺の両親はともに日本人だけどアメリカで働いてて、アメリカで出会い、アメリカで結婚し、アメリカで俺を産んだ。1歳にもならないうちに日本に移り住み、小学3年生のときに再びアメリカへ引っ越した。
 不安はなかった。いや、ほとんどなかった。まったく無いわけではないけど、その頃には自動翻訳技術がほぼ確立・普及してて異国の子供ともふつうに会話できる、って父ちゃんと母ちゃんが言ってたから。いろんな希望も語ってくれたから。
 ただまぁ結果からいえば、俺はいじめられた。俺が日本語で話しても自動で英語に翻訳されて友達との会話には不自由しない。それは事実だけど、その頃はまだ精度の面で不出来な部分があって、どうも自動翻訳を介した俺の話し方は、なんというか、とてもダサかったらしい。だからからかわれた。最初はまぁこういうもんかなと思ってたけど、だんだん激化してきて。学校に行くのがつらくなってきた。いまとなっては理由も思い出せないけど、両親には悟られまいとしたし、父ちゃんも母ちゃんも毎日忙しそうに働いていた。
 つらかったけど、受け入れてはいたと思う。だっていまから考えてみてもどうするべきだったのか思い付かない。自動翻訳に頼らず英語を覚える? たぶん無理。自動翻訳の質を上げることももちろんできないし、仮にできても一度固定した立場は理由や根拠が消えても崩れたりはしない。だから受け入れるしかなかった。
 ただ、ひとつの出来事でそれも無理になった。
 いつもどおりダズとチャーリーとあと何人かが俺を囲んで笑いながらときどき俺を小突いたり蹴ったりしてたときに「お兄ちゃん!」って声が聞こえて、見ると葵が身を竦ませて立っていた。
 「あれ、お前の妹? お前妹いんの?」
 とダズがいやらしく笑って、葵を見た。
 その視線がものすごく厭だった。
 そのとき俺はそれまで感じたことのない種類の恐怖を感じた。突然宇宙空間に放り出されたかのような、凍りつく孤独感。つんと鼻をつく血煙りのにおい。無力感――だったんだと思う。俺はそのとき自分がただの無力なガキに過ぎなくて本当に無力だから想像もつかないような最悪の事態だって止める術も力も持たないってことを瞬間に思い知った。
 これからなにが起きても俺には止められない。
 そう思ったとき、気が付くとダズの眼球を思いっきり殴っていた。その眼がなにより危険だと感じた。だから殴って殴って殴って破裂させた。つぎは左目――と思ったときに横からバッて押されてぶっ転げた。ダズの甲高い悲鳴が聞こえてのたうちまわってるダズを見てうへへ、と笑った。うへへ。超愉快だった。はっきり言って。あいつ、眼、つぶれてやんの。なんか液体とか垂れてるし。うへへ。馬鹿が。死ね!死ね!
 その壮絶な光景に色を失ったほかのやつらは俺をぶっ飛ばしたものの立ち竦んで、それ以上なにもしようとしない。ダズだけがこれといったコンセプトのないおもちゃのようにあーあー情けない声を上げながら転がる。超ウケる。
 結局近所の人が通報して救急車が来て、遅ればせに警察が来た。
 そのあとどうなったのかはよく知らない。というか覚えていない。ただ覚えているのはその日から俺は一日中頭に血が上った怒りの使者となり、父ちゃんや母ちゃんに怒鳴り散らしたりクラスのやつらを「動いたら殺す」と念じながらギンギンに睨みつけていたこと。そしてアリス先生に直訴したこと。それだけ。放っておけばその後どうなるかわかりきっていた。ダズは目を潰したからといって改心したりはしないし、むしろまさに俺を「目の敵」にするだろう。復讐にはどんな方法が効果的か? わかりきっている。葵が狙われる。なるべく早く、ダズの退院日までには絶対にこの国から脱出しなければならない。俺は俺の無力を完全に把握していた。だから大人に頼らなければならないことも知ってた。
 アリス先生はほんとうにやさしい先生だった。アリス先生がいるあの学校でなんでダズやチャーリーやリーザのようなゴミカスどもが育ったのか、いまでも理解できない。やつらは俺以外にも日常的に横暴に振舞っていたからアリス先生は何度も注意した。何時間も拘束されて、アリス先生が怒るときのあの凍るような視線で論理的に説教されれば、俺ならすぐに申し訳なくなって心の底から反省するだろう。でもあいつらはそうはならなかった。翌日にはけろりといつものあいつらだった。何故、そうなるのか。アリス先生自身も理解できなかったと思う。本物の馬鹿は常人の理解を超える。
 妹が危ないんです。ということを言ったとき、アリス先生の顔から表情が消えて、「そう」と一言だけ言った。それからなにを言っても「そう」としか言わないことに絶望して、俺はドアを蹴って出た。
 それからの俺の怒涛の怒りの頑張りも虚しく、ダズの退院日。ダズが教室に来た瞬間にもう一度眼球を割って入院させてやろうと心に決めていたが、クラスの2/3ほどの生徒がアリス先生に呼び出されていた。俺もその中のひとりだった。ぞろぞろと呼びだされた教室に行っても、誰もない。アリス先生もいない。その日

 アリス先生はクラスの生徒の1/3を散弾銃で皆殺しにした。

 あとからわかったことだが、生徒1人あたり2時間ほど個別に面談していたらしい。その詳細な結果を記したノートが発見され、最終的に生徒にはA、B、Cの評価が与えられていた。
 俺はBだった。
 Cの生徒が全員殺された。

 

*

 

 ま、単純にアリス先生は狂ってたわけだ。
 『きょうのあなたの運勢は大吉! ラッキーカラーは青。ラッキーアイテムは塔と蜘蛛の巣と爆弾と左手です』
 凪の占いを聞きながらそう思う。
 あのあとアリス先生は指名手配され、警察の懸命な捜査にもかかわらず、各地で犯罪者を殺しながらアメリカを横断した。そしてぷつりと消息が途絶えた。
 世紀の連続殺人犯。
 言うまでもなく、彼女の正義感は歪んでいる。
 反省も改心も見込めない犯罪者は、法の手にゆだね、監獄に隔離しておけばいい。私刑など論外。そもそも彼女の正義感に基づく裁定は、アリス先生自身に対する視線がぽっかり抜け落ちている。
 まず最初に自分を殺すべき――ではないにせよ、すくなくとも基準が一貫していない。
 という冷静な分析はすこしも、俺のなかのアリス先生についての崇高なイメージを傷付けない。どころか、増幅させる。
 アリス先生こそが、悪だ。
 あの身勝手さ。諦め。はは。かわいた笑いが漏れる。そう、諦めたんだ。と弾丸を一つ一つ入念にチェックしてから込める。アリス先生は諦めた。善を。倫理を。神を。人間に期待することを。銃を並べる。結局、俺と葵を救ったのはアリス先生だった。悪だった。リュックサックの口を開いてなかの爆弾をチェックする。そして今日。俺はアリス先生を諦める。リュックサックをしょって家を出る。アリス先生。悪は。大統領夫人にはなれませんよ。バスに乗る。それとも今度はB・Bを殺すんですか? バスの運転手のトムに挨拶する。座席に座る。B・Bはなにか悪いことをしたんだろうか。景色が流れる。いずれにせよ俺はB・Bを殺します。ニュース番組を見ると、アナウンサーのアンドロイドが今日の10時より始まる予定のパノプティコン竣工式について報じている。もしかしたらあなたも殺すかもしれない。「凪、時間は」『9時5分です』あなたは悪だ。バスを降りる。悪が、罪も償わず、幸せになれると思っているなら、殺します。
 そういえばB・Bの前の夫人はB・Bと同じくらいの年齢だった――というのをなにかで読んだ。と、どうでもいいことをふと思い出す。こういうことが気になるのは、結局この殺意がたんなる嫉妬だから?
 ま、どちらでも構わない。言い訳する相手もいない。いずれにしろアリス先生は悪で、アリス先生の判定基準に従えば殺して問題ない人間。その悪が、大統領夫人。似合わない。単純に。まさかいまさら幸せになろうとしているなんて万が一にもないだろうけど、どちらにしろこれ以上俺の中のイメージを汚されるわけにもいかない。パノプティコンの足元に辿り着く。幸いラプラスには後押しされている。脱出経路もきのうまでに構築済み。まずは地下階に足を踏み入れる。警備はいない。ラプラスの目が国内全域隅から隅まで届くこの国において、わざわざ人が監視すべきものなど一つもない。地下1階。あった。中央の柱の足元に蜘蛛の巣。占いを思い出して、爆弾をセットする。いちばん効果のある設置場所をラプラスが計算したのかもしれない。あるいはパノプティコン建設時にわざと構造的な弱点を用意しておいた可能性すらある。この日のために。上の階へ向かう。エレベータは稼働していない。当然か。階段を上る。ラプラスはなにを望んでいるのだろう? わからない。まぁ連続殺人犯が大統領夫人として入ってきているから排除する、と考えれば順当な判断なのかもしれない。B・Bも、俺の預かり知らぬ理由で死ぬべきなんだろう。死ぬべきでないならなんやかんやあって生き残るのだろう。どちらでもいい。なるべくならB・Bは殺したいが、いずれにせよ最善の結果が出る。そのときにはB・Bが死んでようが生きていようが俺は納得しているだろう。納得させられているだろう。
 『シンさま。ウォッシュの服用をお忘れです』
 気が付くと視界の端にアラートがある。いままで気付かなかった。「うん」と言ってウォッシュを3錠。水と一緒に飲み下す。ウォッシュを飲むといつも、自分がすこし変わったような浮遊感がある。単なる思い込みによる効果かもしれない。どうでもいい。
 いずれにせよウォッシュによって計画の不確定性は消える。
 最上階に辿り着く。結構長かった。「凪、時間は」『9時30分です』そろそろだ。
 B・Bはもうすぐ屋上のヘリポートに到着する。パノプティコン内を視察したのち、1階の大ホールでセレモニーがある。もっとも、実際にはB・Bがセレモニーに参加することはない。ヘリポートに降り立ったB・Bを人質にとり、同時に中間階に仕掛けた小さな爆弾を爆発させる。それで参加者は非難するはずだ。その後じっくり、B・Bやアリス先生と話す。
 屋上に上がると遠くの空にヘリコプターが見える。物陰に隠れて待つ。
 見えた。
 ヘリコプターから屋上へ降り立つ足。
 B・B。そしてそのうしろに――

 アリス先生。

 

*

 

 屋上の片隅の爆弾を爆発させる。数少ないSPのうち1人を残して、2人が確認に向かう。
 そしてその隙にB・Bに銃口を向け「動くな!」と言う。「手を挙げろ!」とも。
 こちらの指示に従う限り撃たないという意思表示。
 遠くの2人同様、近くのSPにも離れるように言い、B・Bに近付く。SPは抵抗のタイミングをうかがっていたようだったが、心配ない。こいつらにはなにもできない。B・Bのこめかみに銃を突き付ける。「武器を床に」犯罪など起こるはずがないラプラスの支配下で、ぬるま湯につかっていただけのお飾りのSP。訓練を受けていようが関係ない。La-place に数ヶ月も住めばラプラスの支配・管理に依存するようになる。誰でも。そして頼みの綱のラプラスは、いまこちら側に付いている。そのことを知らないこいつらは、大統領も含めこう考えていることだろう。「ラプラスは最善の未来を実現する。この最悪の事態もいつか好転するに違いない」もちろん事実だ。ただしラプラスにとっての好転が、こいつらにとってもそうであるかは保証がない。
 予定通り中間層の爆弾を爆発させる。揺れる。1階のセレモニー会場は混乱の最中だろう。「1階にも仕掛けた。お前らは降りてこの建物から出ろ。出なければいますぐ爆発させる」
 SPたちは戸惑う。そこで戸惑ったらダメでしょ。「指示を待ってるようだよ? B・B?」
 B・Bは腹立たしげに眉をぴくぴくさせる。「行け。私は大丈夫だ」SPたちは顔を合わせる。「行け!」
 「ほーん、大丈夫なの。ちなみに大統領、今日の運勢は?」
 「大吉だよ」よし。「わかるだろう。やめておいた方がいい。ラプラスは私が助かる未来を実現する」馬鹿が。この事態を予見しておきながら「大吉」だとお前に知らせておいたこと。それ自体、ラプラスが占いの内容を捏造してまで俺の味方をしてるってことなんだよ。
 「あっと」SPと一緒に館内へ降りようとするアリス先生を呼びとめる。「夫人はここにいてください」
 「やっぱり」
 久しぶりに聞く。アリス先生のつつみ込むようなやさしい声。
 「シンノスケ君なのね」
 この異常事態にまったくそぐわない、慈愛に満ちた笑顔に
 絶句する。

*

 

 「……覚えてもらってるとは思いませんでしたよ」
 「生徒のことは忘れないよ」
 「そうですか」
 「ひさしぶりだね」ほんとうに再会を喜ぶように無邪気に笑う。
 「お久しぶりです」
 「なにをしにここへ?」
 「見てわかりませんか」
 「うーん……わからない」
 まぁ、たしかに、わからないか。「大統領を殺しに来ました」
 「なぜ?」
 「あなたが大統領夫人だからです」
 「? よく意味がわからない」
 それは、そうか。「まぁ、そういうものなんです」
 「そういうものなの」
 「はい、そういうものなんです」
 「だそうよ」B・Bに同情するように笑いかける。
 「そうか」興味なさそうに応答するB・B。まだラプラスを信じているのだろう。「では早く撃ったらどうだね?」
 ほんとうに
 馬鹿ってのは癇に障るな。
 失望したよB・B。
 お前、こんなに馬鹿だったの。
 「そのまえに、先生」
 「なに?」アリス先生が微笑む。
 「あなたこそ、なにをしに La-place へ?」
 「もちろん、幸せになりに」
 はあ?
 「……では、何故大統領夫人に?」
 「それももちろん、幸せになるために」
 思考が停滞する。なにを言ってるんだ? こいつ。あれだけのことをしておいて。幸せになる? 「はは……」
 そっか。
 そうじゃん。
 これでこそ、悪。
 なんという身勝手さ。俺は履き違えていた。そっかそっか。そうじゃないんだ。なにを俺は、悪を、自分の勝手な尺度で測ろうとしていたんだろう。定義しようとしてたんだろう。自分も悪のつもりだったんだろうか? はは。思い上がりも甚だしい。
 ああ、アリス先生。
 あなたは生きてください。
 永遠に君臨してください。
 俺の、黒いマリアとして。
 「どうした、撃てないのか?」馬鹿で哀れなB・Bは事態も読めず、ありもしない余裕を誇示し、挑発する。アリス先生に比べ、なんという小物。なんと小汚い凡庸さ。「早くしろ! 撃て!」
 じゃあ死ねば?
 引き金に指を掛けた俺の右手はゆっくりと絞るように狭まり、右肩が視界の端まで飛び出し血を吹く。

 え?

 落ちる拳銃。だらんと垂れさがる右腕。ふり返るとすこしの狂いもなく冷静沈着な表情のさっきのSPがこちらに向けて銃を構えている。
 おいおい
 「なんだこれは」
 気が付くと右の頬が地面に接している。倒れている。頬に血がつく。
 「うちのSPはただのお飾り。とか思っていたかね」ため息をつき、ほこりを払うB・B。「そんなわけがないだろう」
 はっ
 いいね。
 やっと面白い。
 これでこそ大吉。
 いいぜB・B。試してみようか、俺とお前の大吉、ぶつけあわせてどちらが本物か。
 左手を服の中に潜り込ませる。
 ただしこっちは
 ラッキーアイテム「左手」だ。
 用意していたもうひとつの拳銃をB・Bに向ける。SPが拳銃を撃って落とそうとする。が、当たらない。当然だ。ラプラスが計算している。ちょっとしたスリルくらいは与えてくれるが、基本的にあちらの弾丸は当たらず、こちらの弾丸は百発百中。死ね、B・B。
 左手を握り込む。そのとき

 アリス先生がB・Bの前に飛び出す

 え、なにやって
 唐突に思い出す。イ先生の講義。決断の前に流れる準備電位。既に流れているだろう。否定される自由意志。この引き金は俺じゃなく俺の脳が引く。すでに。ただし。準備電位による動作は直前に拒否することができる――
  ウォッシュを飲んでいなければ。
 ――シンさま。ウォッシュの服用をお忘れです
 ああ、もう
 まにあわない

 銃弾はアリス先生の心臓をずぶりと射抜

 かない。

 え?

 引き金に掛けた指は動かない。動かない。もう流れているはずなのに。準備電位。拒否できないはずなのに。ウォッシュに奪われているはずなのに。自由意志。

 なぜ

 「やっぱり、シンノスケ君」心底から嬉しそうに微笑むアリス先生。「やさしいんだね」

 は?

 

 

*

 

 「ウォッシュはね、自由意志を奪うんじゃなくて、強化するんだよ」
 倒れた俺を助け起こして座らせ、肩の傷をぱぱっと手早く止血する。スカーフを巻いて腕を吊る。「はい。できた。動かさないようにね」
 「自由意志を……強化する?」
 「そ、準備電位の話は知ってるよね? ウォッシュは準備電位に対する自由意志――拒否信号を増幅させ、伝達を助ける」
 「つまり……」
 「通常よりも準備電位に用意された動作をすばやく、拒否できるようになる」アリス先生は目を落として、床に転がる俺の二つめの拳銃を眺める。「シンノスケ君は撃ちたくないと思った。だから準備電位が引こうとした引き金を止めることができた」
 「なぜ……そんなことを」
 自由意志を強化するウォッシュ? それはもはや La-place の思想の否定そのものじゃないか。
 ありえない。
 「残酷さこそがわれわれのなしうる最悪だと考える者」B・Bが口を開く。まるで握手を求めるように右手をこちらに向ける。俺が掴むと持ち上げるでもなくぎゅっと握って揺らした。握手だった。
 「ローティ」反射的に口が動く。なにかのテクストで読んだことがあった。残酷さこそがわれわれのなしうる最悪だと考える者、それこそが「リベラル」であるとする定義。
 「もともとはシュクラーに倣った定義だがな」B・Bは煙草をくわえ、火を付ける。前時代的なライターだ。「La-place が選別し集めるのはそれだ。つまり、ここは――」

 ――リベラル・ユートピアなのだよ。

 そのことばは不思議と、俺の胸の奥深く、腑に落ちた。

 

*

 

 「つまり、ラプラスに管理されてでも善良でありたい人間、ディストピアに飛び込んでさえ善良でありたい人間を「残酷さこそがわれわれのなしうる最悪だと考える者」だと考え、そのようなリベラリスト達だけを集めた楽園。それが―― La-place だと……」
 すこし、落ち着いた。そしてあの日。あの演説を見たあの日のように、B・Bの思想の苛烈さにうちひしがれていた。
 「リベラリストたちのはじまりの場所―― Liberal – alpha – place 。それがここ、La-place の真の姿だ」
 脱力する。動かない。だらりと垂れ下がった左腕も、吊り下がった右腕も。
 「それじゃあ、ラプラスの予言は」
 「喧伝している数字よりは、精度は悪い。だが概ね未来を予測可能だ」
 「だから「占い」という形にしているの」とアリス先生が言う。「占いなら、曖昧な表現で予言ができる。仮に外れても「自分の占いの解釈が間違っていた」「占い通りに行動できなかったせいだ」と考えてくれる。気候など予測不可能な範囲を残しておいたのも同じ理由。自由意志を強化し、精度が悪くなった未来予測が外れた場合、住人たちは勝手に解釈を作ってくれる。ラプラスを疑わなくて済む解釈を」
 ニアとの別れの引き金となったあの偶然を俺が曲解したように……。
 「君はやはり正しく La-place の住人だ」B・Bが言う。「いざというとき、撃てなかった。アリスが飛びださなくても結果は同じだっただろう。残酷さを最悪と捉え、拒否する。La-place の住人のほとんどは君と同じ反応を示すはずだ。ちなみに私のSPたちもウォッシュを服用している。だから無力化の為に撃つことはできても、命を奪う箇所は撃てない。君が私に銃を向けたとき、倒れたせいでターゲットエリアが狭くなり、銃と心臓の位置がほぼ重なった。だから威嚇射撃のみで済ますしかなかった」
 「自由意志を強化することで、残酷さへの拒否を行動に反映させる、のか」
 「もともとはね、私のために作ってもらった薬なの」とアリス先生が笑う。
 「アリス先生のため?」
 「そ。私ってほら、治療不可能な悪だと思ったら、自分以外、どうしても殺してしまうから。この衝動を抑える薬を開発しようとして、ウォッシュができたの」
 そう……か。アリス先生が、はじまりなのか。
 「でも、私には効かなかった。きっとこの衝動を拒否しようとする自由意志が、もともと私のなかには無いんだと思う。だから……」
 「だから La-place を作ったんですね?」わかった。すべてわかった。「悪人がいないこの場所なら、殺意を抱くこともない」
 そのための、選別。
 すべて、アリス先生のための。
 リベラル・ユートピアだの、残酷さこそが最悪だの、どれだけ高邁な思想に依拠しているかのように取り繕って見せても、その根源はひどく自己中心的な
 アリス先生を安全に隔離するための、巨大なゆりかご。
 これではむしろ、Liberal – alice – place だ。
 はは。
 「そういうこと」
 ははは。
 「そうか。そういうことか。俺は、残酷さを拒否する。撃てない。殺せない。じゃあ……」はは、笑える。笑ける。はははは。「じゃあお前らの負けだよ!
 危険を察知したB・Bが叫ぶ「取り押さえろ! いますぐだ!」SPたちが俺を取り押さえる。右手も左手も右足も左足も。固定され、動かない。全然問題ない。
 俺は引き金を引けない。なら――
 引き金を引かなければいい。
 「凪、時間は?」
 『10時10分です』
 「ははははは! 最後の爆弾は時限式だ!」
 組み伏せられた身体にパノプティコンを貫く爆発音が響く。ぐらりと大きく揺れ、傾く。
 落ちる。うしろに。さっきまで水平だった方向に落下する。SPたちは動揺し手を放す。うしろ、B・Bがいる。ああ、そうか、俺はここで死ぬのか。死ぬのか? B・Bも? さぁ、試してやろう、お前らの思想を。残酷さを拒否するとはどういうことなのかを。
 B・Bは掴む。階下への階段を囲む建物のドアを。ああ、ダメだ。ドアにとりついたB・Bは俺の落下軌道から外れた。俺はこのまま孤独にすべり落ちる。
 ま、それでいいのか。
 そう思ったそのとき、
 B・Bは体操選手のように大きく勢いをつけて身体を曲げ、ドアから手を放して飛び、俺の軌道へと飛び込み、俺を蹴る。運動量は保存する。俺は押し上げられ、B・Bは落ちる。
 ああ、もうわかったよ!
 拒否だけしかとりえがないなら、絶対にできないと思った。誰かを助けるために積極的に動くこと。その明らかな La-place の弱点を、B・Bは自ら一瞬で覆した。
 このままではB・Bは落ちる。俺は手を差し伸べる。B・Bの腕を掴もうとする。B・Bが腕を伸ばせば届く距離まで腕を伸ばす。
 しかしB・Bは微笑んで、俺の手を掴まなかった。「娘を頼んだ」と言って、そのまま落ちた。
 もう一度地響きがあり傾きが逆方向へ引き戻される。
 傾斜が立てる程度に緩くなった屋上に、B・Bを除く全員が取り残され
 愕然としていた。

 

*

 

 「拒否したの、残酷を」
 まるで純水のように清らかな涙がアリス先生の目からぽたぽたと零れ落ちる。ひたすらに身勝手で、だからこそ純粋な涙。
 B・Bは拒否した。残酷を。
 俺の手を握り、俺のかわりに落ちたB・Bのかわりに俺が落ちるという終局を。
 拒否した。
 その結果、落ちた。
 自分が落ちてでも、他者が落ちる残酷さを拒否した。
 B・Bもまた、正しく La-place の住人だった。
 すすり泣くアリス先生の背中に、そんな慰めは意味を為さないだろう。ましてや、B・Bが落ちる原因となった俺に声を掛ける資格など、抱きしめたり胸を貸す資格などあるだろうか? そんな残酷な手を、拒否せずに差し出せるだろうか?
 なんて
 「うくく」
 「なにが可笑しいの!?」
 ふり返ったアリス先生の心外そうに悲痛な視線の先。俺はきっと笑ってる。
 「見に行きましょう。B・Bが落ちた場所」
 B・Bが落ちた方向を指差す。
 そのとき、聞こえる。「おーい」という声。
 はぁ、
 もうちょっともったいぶるつもりだったのに。
 アリス先生があわてて向かう。「そういえばアリス先生ってB・Bの娘なんですか?」
 「そうだけどっ」そんなこといまはどうでもいいよとばかりに胸を大きく揺らしながら、走る。
 見下ろす。
 B・Bが落ちた先。
 「あ――蜘蛛の巣」
 「アリス先生のラッキーアイテムもそれでしたか」まぁ、もちろんそうなるだろう。
 逃走経路として上階から飛び降りるために昨日から仕掛けておいた防護ネット。
 その中心近くに、蜘蛛の巣にひっかかった蝶――いや、せいぜいカナブンのようなB・Bが「おーい」と呼んでいた。

 

 

*

 

 「先生。行ってきてください」
 アリス先生が俺を見る。
 「ねぇ、シンノスケ君」
 「なんですか」
 「シンノスケ君の初恋って、わたし?」
 「急に」なにを「急ですね。このタイミングで聞くことですか? それ」
 「どうなの?」アリス先生は俺の問い掛けを無視する。
 「……まぁ、初恋です」恥ずい、普通に。
 「いまも」とアリス先生が一歩一歩と近寄ってきて、俺の顔を掴み、ぐっと引き寄せる。「好き?」
 笑うとさがる目尻。青い瞳とうすい、ほとんど白に近い金色の前髪。それが目の前にあった。
 俺は
 「いえ」
 と笑う。
 「いまは、心に決めた人がいます」
 俺は不適合だった。最善ではなかった。狂えなかった。怒れなかった。それでも。
 「そう」アリス先生はにっこり笑って、階段を下りてパノプティコン内部に消えていった。
 まったく
 「出てきていいよ」と、どの方向に向かって言えばいいのかわからず周囲を見回す。「ニア」
 あはは、と声が聞こえる。近くにいるらしい。
 ひょこりと、階段の下から顔を出す。
 褐色の肌。黒髪。大きい瞳。あつい唇。
 俺のニア。
 「いつ気付いた?」とニアがあっけらかんと笑う。
 「さっき。いくらなんでも初恋どうこうは唐突すぎる」と答える。
 「あは。詰めが甘いのが私の弱点だな」
 「弱点なら、補い合えばいい」
 そうだ。
 たとえ最善じゃなくたって。俺たちはいつも目指すんだ。
 善を。

 

*

 

 

 結論から言うと、アリス先生はとうの昔に死んでいた。
 ちょうど消息不明になったと言われている頃だろう。おそらく。場合によったら、捜査員に射殺されたのかもしれない。細かいところはわからない。いずれにせよ彼女の死は隠蔽された。B・Bの愛人の娘だったという事実も含めて。
 事件の隠蔽という事実から逆算すれば、捜査員による射殺という終幕がありそうなことはわかる。でも、俺は思う。たぶんアリス先生はちゃんとわかっていた。アリス先生のあの身勝手な基準でいちばん死ぬべきは自分なんだって。それも救いがなさ過ぎるけど。もともと救いなんかない。とにかく
 アリス先生は死んだ。
 それからだろう、B・Bが狂い始めたのは。
 もっともそれを「狂い」と呼んでいいのか、いまいち確信がない。すくなくとも多くの面で彼は正気だった。周囲から正気を疑われないほどには。もっとも La-place の構想についてはいくらか正気を疑われたかもしれない。
 これは単なる想像に過ぎない、けどB・Bは求めたのかもしれない。「こんな世界だったら、アリスも善良に生きることができた」そんな社会、そんな国を。夢見たのかもしれない。
 ニアは、そんな彼の夢を利用した。
 アリス先生を模したアンドロイドを作成し、B・Bに接触させた。生身の人間と見分けのつかないアンドロイド。計画は順調に進んだ。なにしろラプラスが味方だったから。
 「最善の結果を目指し、その対価として管理を許容する範囲を広くとるほど、ラプラスの多くの機能を利用できる」
 ニアはそのことに気が付いていた。
 自覚的に従順な駒のほうが利用しやすく、多くの事柄に関わらせやすい。また情報を提供する際のうまみも大きい。
 ラプラスに「つかえる駒」だと判定させること。
 ニアはアリス先生を模したアンドロイドを通して、B・Bを治療しようとした。すくなくとも一つの目的として。そしてラプラスはそれに同意した。それが最善だった。
 そして同時に、ニアは俺のトラウマを治療しようとした。
 まずはトラウマに対面させ、そして乗り越えさせる。これにもラプラスは同意し、最大限に協力した。
 すべてニアの計画通り、事は運んだ。
 もしかすると最後に俺が気付いたのさえ、計画通りだったのかもしれない。
 なにせいま、ニアは間違いなく幸せで、俺も間違いなく幸せで、すべてが善い。
 白いヴェールの奥の、褐色の、泣きそうな顔。
 こちらに差し出された左手。その薬指にそっと俺のイニシャルの入ったリングを差し込む。
 白いヴェールをかき分けると、俺の女神が顔を出す。
 「それでは誓いの接吻を」
 近いの接吻? それってニアってこと?
 とかくだらない考えが一瞬頭をよぎって、どっかへ消える。

 近付く、ニアの、うつくしい顔、あつい、唇。

 ああ、なんて

 

 

 幸せなんだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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