サーディン・ヘッド・ラプソディー

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梗 概

サーディン・ヘッド・ラプソディー

人工砂漠で行われる過酷な競技「ゴッドレース」。水も含め一切の補給なしで、最も長い距離を踏破した者が勝者となる。そして敗者のほとんどはレース中に死ぬ。ヘクトルは、何度も死の淵から生還したトップ選手で、宗教的指導者を元首とするノード首長国の宣伝塔でもあった。

 

だが10連覇がかかったレースで、ヘクトルは開始わずか数分でリタイアしてしまう。元選手で記者の宇田は、ヘクトルから、優勝したレースの全てで、国が製造した「サーディン・ヘッド」と呼ばれる薬を使っていたとの告発文を受け取る。「サーディン・ヘッド」は生命の危機に陥り臓器が機能不全に陥ったとき、筋肉に作用し臓器の機能を一時的かつ飛躍的に回復させるものだと書かれていた。宇田は、上記告発文をタブロイド紙に発表する。

 

しかし国はレースの映像だけでなく、前後1か月を含め選手たちの生体情報を全て公開したうえで、手紙は偽物であり、ドーピングの事実はないと反論する。当のヘクトルは沈黙し、宇田は追われる身となる。

 

故意のリタイアを疑われたヘクトルは、信仰の力を貶めたとして自宅に軟禁される。そんなとき、身を隠していた宇田のもとに、ヘクトルから「サーディン・ヘッド」と書かれた小さな袋が送られてくる。

 

袋の中身を分析したところ、それは砂であった。宇田は、ヘクトルに関する映像を再度検証する。その結果、ヘクトルがレース中、砂漠の砂を積極的に体内に摂取していたことをつかむ。そして「サーディン・ヘッド」は偽薬であり、ヘクトルは、砂を超人的な力を与える薬だと錯覚していたのだと確信する。

 

宇田は、再び次のような記事を書き、タブロイド紙に掲載する。国は、生死に関わるトラウマを与え、その後訓練を施すという方法で、プラシーボ効果を異次元レベルにまで高める実験をしていた。ヘクトルはその実験台かつ唯一の成功例であり、宇田へのリークも、国民に薬の効果を信じさせるための計略だったのだと。

 

ヘクトルは、レースに再挑戦することを条件に軟禁を解かれる。宇田は真実を知るため、選手としてレースに参加する。宇田は、ヘクトルに、ドーピングをしているという良心の呵責さえも創られたものだと告げる。「君がリタイアしたのは、ついに疑いの心をもったからではないか?」と。しかしヘクトルは宇田の説明に耳を貸さず「サーディン・ヘッド」の化学的組成と効果を熱心に説明する。

 

レースが始まり、宇田とヘクトルは砂漠の真ん中で倒れる。死を覚悟した宇田に、ヘクトルは問う。「ここにある砂はすべて君を救う薬だ。だが君は信じない。君は間もなく死ぬだろう。私は信じている。だから私は生き残ることができる」。宇田は、自身に問う。先ほどきいた説明は全て本当で、間違っているのは自分ではないのか。宇田は、神々しいまでのヘクトルの背中を見送りながら、足元の砂を口へ運んだ。

文字数:1166

内容に関するアピール

テーマは「信じる者は救われる」です。ドーピングを禁ずる際、増強剤等の使用が身体能力の増大に結びつくことが前提になっています。しかし薬の使用と身体の変化、さらには競技での成果がどのようにつながるのか、必ずしも明らかではありません。他方、プラシーボ効果は科学的に認められた現象ですが、誰がどのように信じ込ませるのか、という環境や仕掛けが重要になります。

 

実作は宇田とヘクトル両方の視点から書く予定なので、両者ともに信頼できない語り手となります。ただし叙述で読者を騙す、あるいは多義的な解答を用意するためではなく、あくまで人が何かを信じる過程と結果を追求することが目的です。救われるのは科学を信じる者か、宗教を信じる者か?「救われる」とは生き残ることか、死ぬことか?「信じる者は救われる」というテーマを、ヘクトルと宇田、二人の人間の生き方を通じて表現する作品にしたいと思っています。

文字数:387

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サーディン・ヘッド・ラプソディー

 

1 ヘクトル

 

人生は一度きりではない。

均一に精製された砂粒を踏みしめるたび、そう思う。スタート地点に描かれた円は、砂に埋め込まれた光源で描かれ、スタート時には光の色が緑から赤へと変わる。円の縁に立つ者が多いが、中心付近でストレッチをする者や、座禅を組んで精神を統一する者もいる。

俺はスタート前の短い時間に、必ず過去のレースを反芻する。死の淵に立ち、生還した行路を生き直すのだ。今まさに、記憶の中で9回目のレースに挑むところだ。

熱い砂、45度を超える気温、地平線しか見えない風景。断熱素材を重ねたシューズを履いているが、30分も経てば効果は失われる。ただ断熱素材であることを強く意識すれば、熱の侵食をわずかばかり遅らせることができる。

出走の数分前は、意外に身体と思考を持て余す。だが見上げてはいけない。青空に似せて作られたドームの天井に、唾を吐きかけたくなるからだ。足の裏の火傷や水ぶくれの原因は太陽ではない。莫大な電力を使って熱せられた人工砂漠だ。やつらはスイッチ一つでこの場所を冷房の効いたビーチにすることだってできる。何よりバカバカしいのは、広大なドームの外には、本物の砂漠が広がり、太陽が照りつけているということだ。全能者の創造意欲には頭が下がる。

スタートの瞬間、他の参加者の姿は、両隣を除いてほぼ見えない。進んだ距離のみを競うのだから、ライバルが何十人、何百人いようが関係ない。狙いを定めた相手と並走してもよいし、自分だけのルートを行ってもよい。歩いてもいいし、走ってもいい。正解はない。

俺はいつものとおり短いピッチで走り始めた。連覇記録を更新中の俺と並走する者は必ずいて、序盤はうざったいが、やがて一人、二人と見えなくなる。取材の車やカメラも、苦しくなれば気にかける余裕はない。視界の端で、シャトルランのように短い距離を何度も往復する選手がいた。距離を競うわけだから、作戦としてはありだ。だが俺はやらない。暑さで思考力が奪われたとき、単調な動きほど苦しいものはないからだ。

序盤は、神民マラソンと同程度のペースを心がける。距離を稼ぐためだ。他の選手が全員死ねば(一度あった)俺の勝利となるが、リタイアした場合には記録がつく。リタイアを選択する者はごく少数ではあるが存在するため、ただ最後まで立っているだけでは不十分だ。距離の面でも差をつけておかなければはならない。逆に言えば、中盤から終盤は、ただ立っていられるか、の勝負になる。宇田のような選手を思い浮かべると話は変わってくるが、別のレースの記憶が混じるため、今は措いておこう。

どれほどスピードが落ちても、決して止まってはいけない。動きを止めることは休息にはならない。足を止めない方法はいくつかある。その場でゆっくりぐるぐる回る、あるいは競技場のトラックのような少し大きめの輪を想定し周回する。再びスタート地点へ戻ることも一つの方法だ。「帰る」という行為には、人を奮い立たせる何かがある。ただし無事スタート地点に帰り着いたとき、急激に気力が失われる。十分距離を稼いだ後でなければ使えない作戦だ。

ふくらはぎが痙攣し始める。抑えようと力をこめると、砂に足をとられ、転倒する危険があった。内腿に汗が滲み、砂がまとわりつく。足首の痛みは疲労によるもので、左足の親指が痛むのは軽度の火傷を負っているせいだ。唐突に痒みが襲うこともあった。膝から腿、腰に至る痒みを散らそうと体をねじってみるものの、体勢が崩れるのは避けなければならない。

思考力、思考する意思が維持されている限り、体勢や歩幅、過去のレースとの比較など、レースに関わる様々な事柄に考えをめぐらせる。距離を知る機器もなければ、時計もない。経験と勘、事前に叩き込んだ過去の記録が頼りだ。遠くに倒れ込むライバルの姿が見えると、終わりが近いかもしれない、と錯覚する。だが他の全員が脱落しなければ終わりではない。リタイアか死か、多くの選手は後者を選ぶ。

速度が落ちると、杭を打つように足が砂に埋まっていく。ねじを外すように足首を左右に動かし、引き抜く。熱い気流が生じ、指の間や足裏に流れ込む。痛みに耐えかねて倒れ込むと全身が高温の砂に包まれる。レース中でなければ熱くて反射的に起き上がるところだが、疲労がもたらす重力に逆らうのは困難だ。熱い、痛い、疲れた。末梢神経がもたらす信号を重視すれば命が失われる。本能など役に立たない。

一人になった。周囲360度を地平線が囲んでいる。近づいているのか、遠ざかっているのか。砂と熱気の間に見える白い空間は、樹脂製のドームの壁なのかもしれないが、確かめたことはない。外側の砂漠であれば、夜の急激な冷え込みや予期せず襲う砂嵐が、行く手を阻む。しかしドームの中では自分が動かなければ周囲の環境も変化しない。世界は突然止まってしまう。

死にたくない、と思ってはいけない。リタイアするという選択肢はないのだから。回っても進んでも、元来た方向へ帰ってもよいが、止まることはしない。とぼとぼと歩き続ける。この時点では、距離の感覚などとうに失われている。過去のレースの記録から類推はできるが、誤差は大きい。

歩いているときは、全能者について考える。

信じろ、と全能者は言う。「信仰」の授業で繰り返し説かれたのは、全能者を信じるのではないということだ。では何を信じればよいのか?それは全能者が示してくれるという。全能者への信仰が前提になっているのは明らかなのに、決して全能者を信じよとは言わない。俺も形だけの祈りを捧げ、内心バカにしていた。

だが、砂漠に一人きりになったとき、信じる以外に選択肢はない。そして信じることには、対象が必要である。対象は、はっきりと見えるものでなければならない。全能者が全能者自身ではなく、見える何かを信じるよう導くことは道理にかなっているのだ。

終盤にさしかかると、進んでいるのか止まっているのか、立っているのか両ひざを砂地につけて倒れ込む寸前なのかも分からなくなる。多くの選手は、意識を失って死ぬか、最後の意識を振り絞ってリタイアするしかない。俺には信仰の力がある。全能者はいつも正しいわけではないが、肝心な時には正しい。

信じるとは、自らを他人に預けることだ。これは単に自分を捨てることとは違う。鍛え上げた肉体であっても負荷が一定の値を超えれば機能しない。額に熱い砂地がへばりついているが、眉を動かすことすらできない。

信じろ。意識が残っていることを確認し、信じることに集中しろ。

いつも記憶はここで途切れる。前回のレースでは、記憶が途切れた後数キロ歩いたらしい。ヘクトルは必ず蘇る。人々はそのように俺を称える。覚えていないし、映像を見せられても他人ごとだ。ただ映像の中でゆったりと走る男が自分であるなら、もう一度同じ状況に陥っても走ることができる。

断片的な記憶によると、まず皮膚が砂地に触れている感触が蘇るところから始まる。次に、手の甲から手首、肘、肩に一貫した力が伝わる。そして首から頭にかけて猛烈な痛みが襲う。全身が砂漠の熱に包まれる。このプロセスは何度経験しても、自分以外の力が加わっているとしか思えない。俺は倒れ、死にかけてから再び走る力の源を知っている。精神力といったあいまいなものではない。自分以外の、明確に存在する力だ。

 

俺は10度目のスタートを切った。何かが、いつもと違った。どちらへ走ればよいか分からなくなった。どちらへ走ってもいい。それはいつもどおりだ。ただ時間や空間、現在地を把握する感覚は必要だ。俺はそれを失くしていた。

フライングした短距離走者みたいに、減速し、立ち止まった。程なくして、スタート地点に立っていた監視員に、初めてのリタイアを告げた。

 

2 宇田

 

「遅いよ。一歩、いや十歩遅い」

「違うんです、編集長」

「何が違うんだ?」

何が?何もかもだよ。

「昨日の一面は全てヘクトル、今日の一面は全て建国記念パレード、明日は誰かの不倫、おまえの記事が入るスペースはどこにあるっていうんだ?」

編集長のデスクには昨日と今日の朝刊、明日の紙面案が並んでいる。チャンスを逃したと後悔しつつ、食い下がった。

「ヘクトルがリタイアして10連覇を逃したって話じゃありません」

「どんな内容だ?」

「掲載を約束してくれたら教えます」

「おいおい、順序が逆だろ」

僕はカバンからうやうやしく一通の封筒を取り出した。

「ヘクトル直筆の手紙です」

編集長の顔色が変わった。あと一歩だ。

「見せろ」

「掲載してくれますか?」

僕は編集部全体に聞こえるよう、大きな声で確認した。

「しつこいやつだな」

「隣にもっていきましょうか?」

「わかった、載せる。ただし紙面の大きさやレイアウトはこちらに任せてもらう」

「これを読めば、一面で掲載したくなりますよ」

封筒から数枚の便箋を取り出し、編集長に手渡した。

 

宇田 直人 様

 

突然の手紙、驚いたかもしれません。

話すべきことは山ほどあるのだけれど、この手紙を書いている今も、自分にはほとんど自由な時間がありません。だからなるべく簡潔に書きます。

自分が9連覇を達成し、10連覇を逃したのは「サーディン・ヘッド」という薬のせいです。「サーディン・ヘッド」は、どれほど身体機能が落ちても、驚異的な回復をもたらしてくれる薬です。つまり、9連覇はドーピングによるものだったということです。

自分は、良心の呵責に耐えられなくなったというだけでなく、「サーディン・ヘッド」が他の選手、神民にも広まることを恐れています。

かつて共に走ったライバルなら、信頼できるメディアに、この告発を掲載してくれるものと信じています。

 

アルム・ヘクトル

 

「信頼できるメディアねえ…」

「クフ・ノードのことですよ、まさに」

「宇田、それは嫌味か?」

「この手紙、筆跡の確認は済んでいますが、内容については、残念ながら裏付けがありません。一通りの調査は試みましたが、もしこれが政府も絡む疑惑だとすれば、駆け出しスポーツライターの手に負えるトピックじゃありません」

「三流タブロイド紙なら、いい加減な記事でも載せてくれると思ったか?」

「編集長、誤解です。サンに持っていったら、間違いなく連行されます。政府がらみの案件は、どこかがフライングして、読者に疑惑を拡散してもらうしかないんです」

「うちがおまえのせいで何度ひどい目に遭ったと思ってるんだ?」

「とにかく僕は、一流大衆紙クフ・ノードを信頼しています。記事は別に送ってあるので、僕はこれで失礼します」

「おいおい」

「その手紙は差し上げます」

僕はそう言い残して、編集部を後にした。たぶん、こちらの勝利だ。

編集部のある首都ハラの中心部から、シャムシア・ドームへ向かう。ドームはハラから車で30分も走れば到着する。ノード首長国連邦は大きな円の中心に立法院を据え、放射状に市街地を造った。車が通り抜けることのできない細い路地や、土塀で建てられた脆い住宅地も、意図的に造成されたものだ。ただの砂漠だった場所に、歴史や人々の暮らしが存在したかのような外観をつくり出した。官製の高層アパートがあちこちにあるのに、土塊でできた家に住むやつはいない。中心部にあるから家賃もやたら高い。スラム街も含め、映画のセットみたいなものだ。

シャムシア・ドームはハラの3倍の広さがあると言われている。ノードはもともと小国なうえに、天然ガスを採掘するための領土を除くと、人口の95%以上がハラに住んでいる。国家そのものといえる首都の横に、遥かに巨大な競技場がそびえ立つ。

「名城、様子はどうだ?」

ライター仲間の名城に連絡をとる。

「動きなし。以上」

「ちょっと待て。短すぎる。勝手に切ろうとするな」

「仕方ないだろ。何も動きがないんだから」

名城は自宅に軟禁されているヘクトルの家の前に張りついていた。普段は特ダネを奪い合う関係でも、時には協力、分担して取材することもある。国営放送が幅を利かせるノードで、フリー記者の肩身は狭い。

「国営放送は?」

「来てない。何も伝えるなってことだ」

国営メディアが報道しない、取材しないことは、この国では存在しないのと同じだ。他の報道機関がどれほど証拠をかき集めても、すべて「噂」でしかない。

「今回は難しいか…」

「もうちょっと粘ってみる」

「頼む」

シャムシア・ドームに到着すると、たった一つの入り口を目指して車を走らせる。ドームは、レース時を除いて観光客等に無料で開放されている。中には壁と天井と、砂しかない。迷子になっても、無数のカメラが監視しているから、警察が駆けつけてくれる。

平日の午前中であるせいか、観光客はまばらだった。車両許可証をカメラの方へ向け、ドームの中へ入っていく。レースのスタート地点は円形ドームの中心にあるため、入り口から車で3時間以上かかる。砂地を延々と走らせるから、補修費用もばかにならない。だが、今回だけは見ておきたかった。ノードの英雄が何かを諦めた場所を。

入口付近の数キロを過ぎると、人影は消えた。時速120キロ以上で走り続けながら、ヘクトルがリタイアしたシーンを確認する。

スタートを切った時点からおかしかった。ペースが遅すぎる。最初の30分は時速12、3キロを維持するはずが、時速10キロにも満たず、しかも減速していく。最初から棄権することを決めており、反射的に走り始めてしまったかのようだ。1分30秒を経過した時点で歩き始め、2分を経過すると足を止めた。並走する選手も、ヘクトルに合わせて止まる者、並走を断念し先を急ぐ者など、一様に困惑している様子が見て取れた。

中継のカメラは、距離を稼ぐ他の選手を画面の外に追いやり、立ち尽くすヘクトルを捉えていた。3分過ぎ、ヘクトルは両膝を地面につき、両手で砂を握る。5、6秒砂地を見つめた後、天井を見上げた。僕が知る限り、ヘクトルがレース中に天井を見上げたことはない。ヘクトルはこう言っていた。「本物の空を見上げると力がみなぎる、だから俺は絶対にドームの天井を見ない」。

あとは、リタイアした無数の選手と同じだ。腰のボタンを押し、監視員が駆け寄り、救急車両で搬送される。20回以上見たが、新しい発見はなかった。国営放送の報道番組に切り替える。

「スポーツ省は、本日、ヘクトル選手に聴き取り調査を行い、その結果、今回の棄権が完全な意思能力、行為能力を備えた状態で行われたものと判断し、教義院の決定が出るまで監視を継続することを決めました。教義院の決定によっては、信仰侮辱行為として刑事罰を受ける可能性もあり、また永劫神民の称号を剥奪することも…」

リタイアした者は生き延びることができるが、厳しい社会的制裁を受ける。良くて国外への自主的な退去、運が悪ければ「熱狂的なファン」によって殺害され、ろくに捜査もされない。ヘクトルの自宅軟禁は、身の安全を考慮すれば、むしろ最善の策ともいえた。

告発文と併せて考えれば、今回のリタイアは、ドーピングによる連覇に終止符を打つためだったと考えるのが自然だ。「サーディン・ヘッド」という薬物が短期的な効果とともに、長期的には使用者の身体能力を低下させるものだとすれば、薬の副作用が現実化したとの推測も成り立つ。

車を止め、砂の上を歩く。スタート地点の輪に到達するまで、汗が流れるに任せた。この場所まで来ると、迷子の連絡をしても、救出されるまでに死んでしまうだろう。足で砂を払うと、30センチ幅の電飾が姿を現した。見上げても薄ぼんやりした水色の天井があるだけだ。ヘクトルは見上げることを自らに禁じていたが、目にしたところで、絶望も希望も生まれようがない。

「懐かしいですか?」

振り向くとスーツ姿の長身の男が、涼しげな表情で立っていた。

「失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたか?」

男は近づいてくると、名刺を差し出した。「スポーツ省 公営競技統括監 ホセ・グラン」とある。

「何度かお会いしていますが、無個性な役人のことなど、覚えておられなくても当然です」

「僕に何か用ですか?砂漠の真ん中でお会いするなんて、とても偶然とは思えない」

「暑いので手短に言いますが、ヘクトル氏からの手紙を渡していただけませんか?」

「何のことだ?」

「今のが、否というお返事であれば残念です」

グランは、特に残念そうな表情を浮かべることなく言った。

「仮に、僕がその手紙を持っているとして、政府が取り返しにくるということは、本物の告発だと考えていいわけだな?」

「申し訳ありませんが、そちらからの質問には一切お答えできません」

「勝手なもんだな」

グランの様子を観察してみたが、汗をぬぐう動作を行わないばかりか、汗をかいている様子もない。

「ここは暑すぎますので、車内でお話ししませんか?送って差し上げます」

「あいにく、自分の車で来たので結構だ」

「お車も、暑さにやられているでしょうから」

グランの言葉を聞くとすぐに、車に戻った。エンジンがかからない。何か細工をする時間や隙があったとは思えないが、ドーム自体が政府の庭であることを忘れてはならない。

「仕方ない。お言葉に甘えることにするよ」

「どうぞ」

黒く塗ったキャブみたいな外観で、公用車としてはみすぼらしかったが、乗り心地は最高だった。砂地を走っているのに、ほとんど振動を感じない。グランは、運転席から進行方向を向いたまま質問を重ねてきた。

「告発文には『サーディン・ヘッド』のことが書かれていたのではないですか?」

とりあえず無視を決め込んだ。自身の首筋を伝う汗を拭きながら、グランの首筋を眺める。冷房が効いた車内とはいえ、ドーム内を走行していて全く汗をかかないのは異常だ。

「もしそうであれば、誤解を解いておきたいと思いまして。詳細はお教えできないのですが、『サーディン・ヘッド』は確かに薬の名前です。政府がグーテム製薬に委託し開発しているもので、漢方の一種です。ドーピングにあたるものではありません。端的に、ヘクトル氏の誤解なのです」

「じゃあ、公表しても構わないってことだな」

「それは困ります。公式発表を待たずに情報がリークされることは望ましくありません」

官僚の嘘を聞き続けても、埒が明かない。

「俺が選手だったことは知ってるんだろ?」

「ええ」

「俺は9連覇中のヘクトルといっしょに走ったこともある。引退してからも彼のレースは全て見た。さらに言えば、3連覇を達成して以降、彼については、レース3か月前から彼は口にしたもの、摂取した薬、血液の状態や体脂肪率まで、あらゆる生体情報が公表されている。漢方だろうが、栄養ドリンクだろうが、秘密裏に摂取することは極めて難しい。

それでもここまで隠すことができたのはなぜか。考えられる可能性はいくつかある。情報公開を担う政府と結託し薬を摂取したうえで嘘をついていた、政府がヘクトルに黙って摂取させていた、あるいはレース前には何も摂取していない」

「興味深いお話ですね」

「このまま監禁場所へ連れていくのか?」

「まさか」

グランの言葉どおり、僕はハラの中心部で降ろされた。クフ・ノード編集部が入ったビルの前だ。どこまでも気味が悪い。名城からの連絡が数件溜まっていた。政府のキャブは客の電波を通さないらしい。

「どうした?」

「ヘクトルの記者会見があるみたいだ。来るか?」

「すまん、今から行くところがある。そっちで頼めるか?」

「わかった」

クフ・ノードが「サーディン・ヘッド」の記事を公表し、ヘクトルが記者会見でリタイアの理由を語る、あるいは何も語らない。火種はできた。あとは派手に燃やすだけだ。

 

3 ヘクトル

 

血圧、脳波等の数値を一瞥したが、思いの外、身体の状態が悪化していない。砂地の温度を上げるか、シミュレーションプログラムを入れ替える必要があるかもしれない。ただ、気力が湧かない。

広めのリビングルームほどのシミュレーターにはドームと同じ厚さの砂が敷き詰められ、温度も0.01度の単位で調節が可能だ。周囲は、遠くに見えるドームの壁と同じ色合いになるよう調整されており、天井も白いスクリーンにドームと同じ空色が映し出されている。

シミュレーターの中では、何度でも本番どおりのレースを体験できる。レースを繰り返すことは、死を繰り返すことだ。もちろん正確には、臨死体験でしかない。だが、狭いシミュレーターの中で起こるのは、死としか呼びようのない体験である。

俺が練習用に使用する死は、他人のものだ。過去のレース参加者は、勝者、棄権者、死者の別を問わず、レース中の生体情報、走路、小型カメラによる映像の提供が義務付けられている。これらの情報提供と引き換えに、神民であれば誰でも無料で参加できる。収集された参加者たちの情報は、データベース化される。その多くに死ぬ瞬間の風景が含まれている。ただし他人の死をそのまま体験するわけではない。データを基につくられたプログラムに身を置くのだ。温度、スタート地点からの距離等を再現し、ホルモン投与によって脈拍や体温も近づける。

自身のレースの記憶とともに、シミュレーターでの練習も記憶の一部となる。他人の死と自分の死が混ざり合う。練習が終われば、練習用プログラムと自身の記憶を区別し、比較することができる。だが練習中は冷静な比較ができない。名もなき参加者たちの死に引きずり込まれる。

「休憩か?」

「ああ、頭がぼおっとしてる」

「無理するな。表向きは進退を検討中ということになってる。焦る必要はない」

ホセは、足元の砂に窪みをつくりながら、退屈そうに言った。昨日の記者会見で渡された原稿は10行もなかった。質問も一切受けなかった。

「今日はどうした?監視なら十分だろ」

「今朝送った記事は見ただろ?」

ホセから送られてきたのは、クフ・ノードというタブロイド紙と国営紙ノード・タイムスの電子版だった。前者は俺のドーピング疑惑について、後者は当該記事を書いた宇田が「熱狂的なファン」によって殺害されたという内容だった。

「感想は?」

「特にないね」

「宇田記者とは旧知の仲じゃなかったのか?」

「あいつのことだ。どこかで生きているんじゃないか」

「記事の内容は嘘だと?」

俺はホセの問いかけに答えず、ヘッドギアを外した。ホセの傍らを通り過ぎ、休憩室に向かう。休憩室は住居スペースとは別で、あくまで練習中に一時的な休息をとるためのものだ。水とタオル、着替えの他に、複数のサプリメントが常備されている。ホセは、円形の休憩室の、ちょうど真向かいに座った。

「で、何の用だ?」

「『サーディン・ヘッド』が完成した」

「完成?今までのは何だったんだ」

「ベータ版ってとこだな。従来のものでも効果の大きさは十分だったが、完成版は効果が現れる確度が違う」

ホセはペンライト型の端末から光を発し、休憩室の白い壁に投影した。シミュレーターの中で一人の男が走り続けている。ヘッドギアを装着し、その場で歩いたり走ったりする姿には、滑稽さと不気味さが同居している。

「死刑囚か?」

「だったかな」

男が歩く画面の隅には、距離、時間、脈拍、体温などの情報が表示されていた。1時間が経過しようというところだったが、5キロも進んでいない。やる気のある素人、といったレベルだ。重罪を犯した人間とはいえ、哀れなものだ。

程なくして、男は砂地に膝をついた。俯き、前を見る気力もないようだ。体温は上昇し続け、特に砂に接している手足は火傷に匹敵する数値だ。荒かった呼吸が徐々に断続的になっていく。レースであれば、今リタイアしなければ確実に死に至る局面だ。だが、被験者たる囚人にリタイアするという選択肢はない。

男は地面に突いた手すら支えられなくなったのか、うつ伏せに倒れた。1分ほど経っただろうか、あらゆる生体情報が、男がほぼ死んだことを示していた。わずかに、頭の位置が移動したように見えた。カメラの角度もあり、それ以上の動きを見て取ることはできない。

「今、摂取したのか?」

「そうだ」

何も変化がないように見えた。だが血圧の上昇を皮切りに、各数値が徐々に回復していく。ショックを与えて蘇生した時のように急激に戻るわけではない。一つ一つ、臓器や血液が原状を思い出しているみたいだ。俺自身、何度も経験したプロセスであるが、客観的に見るとやはり奇妙だ。

男は蠕動運動のように身をよじっている。自らの腕や脚がどの位置にあるのか確認しているのかもしれない。右手を砂地に突いたが、姿勢を止めたまま、立ち上がることができない。左手を突いたかと思うと、たちまち上半身が起き上がった。

「俺はいつも、こんな感じなのか?」

「細かい部分は異なるが、だいたいこんな感じだ」

男が再び歩き始めるまで、それほど時間はかからなかった。

「一つ大きく違うのは、おまえはここからもう一度走ることができる」

例えばドーピングによって赤血球が増加した場合、持久力の向上を分かりやすく実感できるか。あるいは多量のカフェインを摂取したとして、集中力の持続をはっきりと感じるだろうか。「サーディン・ヘッド」が恐ろしいのは、死の淵を覗き込んだ状態から蘇生するという、明らかな身体機能の回復を伴うにもかかわらず、死の淵で使用する薬であるがゆえに、効いた記憶が残らない点にある。

男は、蘇生し7分37秒歩いたところで再び倒れた。白衣を着た監視員が駆け寄り、死亡を確認する。一度目は立ち上がり、二度目は決して立ち上がらないことを知っていたかのように。

何度も「死」と蘇生を繰り返していると、本番と練習の記憶を混同してしまうことがよくある。来た道と行く道は毎回異なるのに対し、身体が動かなくなり、「サーディン・ヘッド」を摂取し、立ち上がるところは同じだ。現在も未来も、他人の死も自分の生もその一点で交わる。

「データベースの中に、宇田の記録は含まれてるのか?」

「おそらく。ただ特定の人間のデータを追っても、練習効果は薄いぞ」

「わかってる」

「あいつは選手としては1.5流、じゃなかったのか?」

俺は黙ってシミュレーターに戻った。ヘッドギアをつけずに、温度が下がり生温かくなかった砂のうえをゆっくりしたペースで走る。生死に関わらない、純粋に速さを競う戦いに身を投じていた時代もあった。だがこの国は単なるスポーツに価値を認めない。国際的なルールや西欧的なフェアネスは、全能者が嫌うものの一つだ。何より生死をかけたレースは比喩ではなく、麻薬だ。

「完成版、試さないのか?」

「明日にしてくれ」

「とりあえず一袋置いていく。気が向いたら使ってみてくれ」

ホセはそう言い残して休憩室から出て行った。俺は宇田とのレースを思い出していた。宇田は不思議なやつだった。躊躇なくリタイアする。神民マラソンの参加者でも、もう少し悔しそうな顔をするだろう。だが距離は驚くほど稼ぐ。3度いっしょに走って、2度宇田が2位だった。もちろん、俺が称賛を得るのに対し、宇田の名前が称えられることはなかった。

一度だけ宇田に尋ねたことがある。

「なぜ死ぬまで走らない?」

「死んだら走れないだろ」

不満そうな俺の顔を見て、今度は宇田が尋ねた。

「おまえがいつも勝つのは、全能者を信じているからなのか」

「そうだ。それがどうした?」

宇田の言い方に挑発する調子をかぎ取り、俺は宇田を睨みつけた。信仰への懐疑、皮肉、当てつけには慣れている。

「いや、だったら俺も信じてみようかなと思って」

そう口にした宇田の表情は寂しそうだった。

思い出すという行為は、シミュレーションと似ている。だがもっと不完全で、頼りない。だから懐かしさのような感情を引き連れてくる。俺はゆったりと足を動かしながら、記事の末尾に記された宇田の名前を眺めていた。

 

4 宇田

 

ノード首長国連邦が丸い形をしていることは、ノードに住んでいる者なら誰でも知っている。でも、円周にあたる地域がどんなふうになっているのか知る者は少ない。航空機なら遥か眼下だし、鉄道や車なら一瞬で通り過ぎてしまう。

アウトと呼ばれる国境付近の地域は、貧困層や不法移民が多く住む本当のスラム街だ。ハラの中心部にある、観光用のスラム街とは違う。これ見よがしのバラックなどなく、多くの住居は高温を避けるため地下に作られている。地上に出ているのは、露天商などに限られるため、単なる道路にしか見えない場所も多い。

地下に潜れば、思いのほか快適だ。縦に三つ居室が並んでいるのが標準的な設計で、入り口は狭いが、奥行きはかなりものだ。冷房を完備した居室もあり、気前よく玄関を開け放してくれる家もある。

僕は名城の住居の一番奥の部屋で、人気報道バラエティー番組「Nor!」を眺めていた。殺されたことになっているため、気安くハラの街を歩くこともできない。ヘクトルの過去の発言がパネルで時系列順に並べられ、時折元選手や宗教学者のコメントが挿入される。信仰への疑いが問題視され、復帰戦での活躍は全能者の指示に耳を傾けることができるかどうかだと締めくくられた。宇田の記事への言及は全くなかった。まあ、いいや。

寝ころんだまま、名城に連絡をとる。

「解析、どうなった?」

「せっつくなよ、あと2日はかかる」

「急いでくれよ」

「偉そうに言うな。居候のくせに」

ヘクトル名義で「サーディン・ヘッド」が送られてきたのは、1週間前のことだ。中に入っていたのは小さな袋に入った砂だった。袋に封筒と同じ筆跡で「サーディン・ヘッド」と書かれていた。

「サーディン・ヘッド」とはどんな薬なのか。名城のつてを頼って、ヤミの化学者、病理医に科学的な判断を委ねることにした。手元に残したのは指先にのるほどわずかな量だ。僕の見立てでは、かなり高い確率で、単なる砂だと思われた。ここ半年、様々な偽装を施したドーピング薬を見てきた。これは薬ではない。

騙された?からかわれた?そう考えるのも一つだ。ヘクトルは砂を食べていましたと告発したところで相手にされない。そもそも、実際に砂を食べていたとして、何のルールに抵触するというのだろう。でもだからこそ、真実の告発だと考えるべきではないか。

特別な意味をもつ単なる砂…何だそれは?分からない。ただ、特別な成分ではなく、特別な意味が込められているのだとすれば、ヘクトル以外の人間にその意味が分かるのだろうか?

僕はヘクトルの全レース映像を改めて見直した。砂を体内に摂取しているとすれば、レース中である可能性が高い。しかし一般公開されている中継映像では、検証に限界があった。レース直前か、終盤倒れ込んだあたりが疑わしいが、倒れたヘクトルに寄る映像はない。「サーディン・ヘッド」がもたらす身体的効果もはっきりしない。飛ばし記事を作成するには、十分だが、身の安全を考えると、すぐに記事を発表すべきか、慎重に時機を待つべきか判断しかねた。

気分転換も兼ねて、アンダーマーケットをうろつくことにした。食料品店や色とりどりの生地を売る店など、大小様々な店舗が住居と直結する形で営まれている。馴染みのドラッグストアに立ち寄る。店内には、埃をかぶった透明のケースが積み上げられ、薬草の標本が並べられている。高級そうな漢方の木箱も無造作に積まれており、商売気は感じられない。一人が通れるくらいの通路を奥へ奥へと進んでいくと、大量の空き箱といっしょに、マドゥ爺さんが横たわっていた。

「爺さん」

右足の先で小突くと、爺さんはぱっと目を開けた。

「そんなところで寝てたら、100年くらい気づかれないぜ」

「おお、久しぶりだな」

「本当に誰だかわかってるか?」

「あれだろ、クズ新聞の記者だろ」

「ほぼ正解だ」

爺さんは起き上がって、店の奥へ案内するか、マーケットの方向へ連れ出すか考えている様子だったが、結局その場に座り込んだ。

「何が欲しい?」

「死にかけた人間が元気になる薬ってあるか?」

「ある」

相変わらず適当だなと思っていると、爺さんは腰くらいの高さに並んだ木製の引出しから、二つの丸薬を取り出した。

「一つが、おまえさんが欲しがっている薬、もう一つは小麦粉の玉じゃ。どちらが薬か当てたら、ただで進ぜよう」

「面白い」

色はくすんだ緑色、球形で人差し指の爪ほどの大きさだ。外観からどちらが本物の薬か判断するのは難しい。一つ目を口に入れた。苦い。途方もなく苦い。打ち消すように二つ目を口に入れる。一つ目の苦みが残っていたものの、無味といってよい。目の前の勝負を離れ「サーディン・ヘッド」のことがちらつく。

「どっちだ?」

爺さんのことだ、フェアな勝負であるはずがない。

「どっちも偽物だろ?」

回答を聞くと、爺さんは小さくため息をついて、

「クズ新聞の記者なんてそんなもんだと思ったわ」

と言い、先ほどと同じ引出しから同じような玉を取り出し、こちらに投げてよこした。さらに別の引出しから同様に玉を二つ取り出し、一つを僕に、一つを自分の掌に置いた。

「今渡したのは、毒だ。飲めば確実に死ぬ。来い」

爺さんはそう言うと、店の入り口へ向かった。そして大きな声で往来の人々に呼びかけた。

「さあさあ、お立会い、今からマドゥ爺の店で一番危険な毒をみなさんの前で飲んでご覧にいれます。もしマドゥ爺が死んだら、坊ちゃん、葬儀屋へ電話してくれるかい?」

呼びかけられた3、4歳の男の子は、怖かったのだろう、つないだ母親の手をぎゅっと握った。

「ただし、ここにいる兄ちゃんが瀕死の人間をたちどころに蘇らせる薬を持っております。マドゥ爺が死ぬ前に、その薬を飲ませてもらえたら、マドゥ爺はこの世に戻って参ります」

足を止め見物していた買い物客から失笑がもれた。バカバカしい、そう思い右手を開くと、爺さんにもらった二つの玉が握られていた。薬と毒、全く見分けがつかない。

「おい、爺さん…」

呼びかける前に、爺さんは掌の玉を口に入れた。4、5秒の後、爺さんは突然その場に倒れた。口の端から泡が漏れ出し、その量は増していく。悲鳴が一つ、二つ聞こえ、場の空気が変わった。

「お兄ちゃん…」

さっき声をかけられた男の子が、すがるように僕を見ている。早く生き返る薬を飲ませろと。だが、どちらが先にもらった薬なのか分からない。泡が出る勢いが衰えてきた。死の恐怖が見物客全員を包んでいた。僕は咄嗟の判断で、爺さんの口をこじ開け、二つとも放り込んだ。すると、さらに口から出る泡が増え、爺さんがせき込んだ。どよめき、次に感嘆の声が聞こえた。すくっと起き上がった爺さんは、拍手の中、なぜか不機嫌だった。

「閉店」の札を入り口の脇に引っ掛けると、観客に礼をすることもなく、店の奥へ帰って行く。

「来い」

言われるがままについて行くと、爺さんに怒鳴られた。

「商売の邪魔する気か!」

「何のことだよ、助けてやっただろ」

「なぜ二つとも口に入れた」

「どっちが毒でどっちが薬か分からなかったから」

「毒なわけないだろ、バカ。泡玉だよ。唾液と混ざると泡が出るおもちゃだよ」

「そんなこと知るかよ」

「生き返んなきゃいけねえのに、どんどん泡吹くやつがあるか」

爺さんの悪態に応えつつ、思考は「サーディン・ヘッド」の周りをめぐっていた。僕は意外と真実の周りをうろついているのかもしれない。

「薬、売らなくていいのか。せっかくみんな信じてたのに」

「十分だ。見てたやつらは心の底から怖がってた」

「生き返る薬なんて、嘘なんだろ?」

「だからおまえは三流の記者なんだよ。薬が本当か嘘か、目の前の人間が本当に死んだかどうかなんてどうだっていい。重要なのは、死の恐怖が心に植え付けられたってことだ。見ているものが嘘でも、残った感情や記憶は本物なんだ」

爺さんの言葉を聞くや否や、僕は店を飛び出した。地上に出ると、運よくキャブを拾うことができた。一直線でクフ・ノードの編集室へ向かう。

「編集長」

「おお、宇田、死んだんじゃなかったのか?」

「それどころじゃありません。ヘクトルの件で、新たなスクープです」

「またヘクトルの記事か」

「彼が使用していた薬を入手したんです」

「何だっけ…おまえの記事にあったな」

「『サーディン・ヘッド』です」

「どんな薬だ?名前のとおり、鰯の頭なのか?」

「砂です。今成分を解析しているところですが、おそらくドームで使われている砂です」

「砂か…砂を食うと、どうなるんだ?」

「詳しいことはまだ調査中なのですが、おそらく砂そのものには薬効がないと思われます。ただの岩石ですから。僕は、『サーディン・ヘッド』は偽薬の一種だと考えています」

僕は、編集長への説明に夢中で、編集部内の空気が以前と異なることに気が付かなかった。

「ヘクトルは、瀕死の状態からの蘇生というプロセスを何度も経験し、その中で砂を摂取すると蘇るという体験を刷り込まれたのだと思います。彼自身は『サーディン・ヘッド』に大きな効果があると信じている。だから、告発文を送ってきたんです」

「興味深い話だ」

「まだ証拠がそろっていませんが、クフ・ノードのつてを使って、ヘクトルの取材をさせてもらえませんか?必ず尻尾をつかんでみせます」

「わかった。スポーツ省に知り合いがいるから、あたってみよう。そちらの部屋で待っていてくれるか?」

「ありがとうございます!」

礼を言いつつ、心の中で舌を出した。分かりやすいおっさんだ。

自分の思いつきに我を忘れかけていたが、物わかりの良い編集長の態度に、さすがに勘付いた。政府の人間あるいは警察が既に、編集室の入ったビルの周囲を取り囲んでいるかもしれない。

言われたとおり応接室に入り、作戦を練った。原始的な方法しかないようだ。ドアの隙間から確認すると、編集部内の視線は、1階から上がってくるエレベーターに集中している。

窓から出て、50センチほど壁を伝って隣のビルの非常階段へ。クフ・ノードの編集室が2階で助かった。人影がないことを確認し、ビルの隙間のゴミ置き場へ降り立った。

クフ・ノードのようなタブロイド紙は何だかんだ言って権力に弱い。編集長を恨む気はなかった。

ヘクトルに接触する方法を探る必要がある。何より、今はここから逃げなければならない。八方ふさがりの状況に追い込まれたことは間違いなかった。

 

5 ヘクトル

 

予選だと思ってくれ。

ホセからそう伝えられたものの、苛立ちは消えない。2週間後に迫ったレースを前に、突然事前審査があると告げられた。レースへの復帰は既定事項のはずだと反発したものの、役人が稟議したうえで決まったことが覆るはずもなかった。信仰心を取り戻したか確認したいという名目だった。

360度ぐるりと備え付けられたカメラを通して、グーテム製薬の役員、スポーツ省の高級官僚たちが俺を監視している。止まれと言われたら即座に足を止めなくてはならないし、止まれと言われなければ、足を動かし続けなければならない。

「準備はいいですか?」

ホセが改まった口調で尋ねた。お偉方の前では、ずいぶん他人行儀だ。

「ちょっといいかな?」

低くしゃがれた声が割って入った。名乗ることもせず、質問だけをぶつけてくる。

「先のレースで君がリタイアしたのは、単に『サーディン・ヘッド』の効果に疑いをもったからなのか、それとも全能者への信仰そのものを放棄したのか、どっちだね?」

「申し訳ありませんが、リタイアしたときのことははっきりと覚えていないんです」

回答に満足したのか、さほど興味もなかったのか、質問者は言葉を重ねることはしなかった。

「なぜ『サーディン・ヘッド』を宇田に送った?」

また別の声だった。

「俺が送ったことになってるんですか?」

「違うというのか?」

「宇田は死んだんですよね?だったら今さら些細なことを問題にすることもないのでは?」

同じく、相手は言葉を継ぐことはしない。

「みなさま、よろしいですか?」

ホセが形式的な確認を行う。

「では、始めてくれ」

走り始めて、すぐに違和感を抱いた。走り始める前と、周囲の風景が違う。何が違うのか、ルーティンとなった動作を繰り返し、探っていく。まず気づいたのは壁の色だった。ぼんやりした白色だったはずが、薄い緑色に変わっている。常緑樹を想起させる色は、砂漠を模した空間には不釣り合いだ。緑色は徐々に濃くなっていく。錯覚ではない。天井の色もいつもの青空色ではなく、薄い橙色だった。

気温も違った。通常シミュレーターで練習する際には、ドームの気温に近づけたうえで、温まった砂の照り返しも加味して温度を維持する。だが走り始めた時点から気温が上下している。こいつら、何を狙っている?

「走りづらいか?」

先ほどとは異なる声だった。

「ええ。これも審査の一つですか?」

「そうだ。君はどんな場所でも生きて戻って来られるのか、全能者を信じ続けることができるのか、知りたいと思ってね」

「どんな環境でも『サーディン・ヘッド』は効くのか、だろ?」

強気な口調の裏で、俺は不安に襲われていた。「サーディン・ヘッド」はただの薬ではない。摂取する環境がカギなのだ。砂漠で死に瀕した時にも救ってくれる薬ではなく、砂漠で死に瀕した時しか救ってくれない薬なのだ。しかもその効果は、気温や風景、記憶に左右される。俺は何度もホセに尋ねた。「サーディン・ヘッド」は俺にしか効かない薬なのか?もしそうだとすれば、なぜグーテム製薬は莫大な資金を投じて研究と実験、つまり俺に対する投薬とレースへの支援を繰り返すのか。

この審査が俺以外への人間に対する効果、特殊な環境以外での使用可能性を試すものだとすれば、合点がいく。俺が次のレースで10連覇を達成した後、死の淵から救い出してくれる薬として、大々的に売り出せばいいのだ。

もう一つ疑問がある。なぜスポーツ省はここまで「サーディン・ヘッド」の研究に協力するのか?政府は神民たちの信仰に疑いをもっているということか。

刻々と変化する環境は、俺に「サーディン・ヘッド」への懐疑を抱かせることを意図しているようだ。身体、精神の力は人為的に構築された環境でしか発揮されないものなのか。1度気温が違えば、崩れ去ってしまうものなのか。

いつもと同じように走ることは容易ではなかった。多くの選手の生と死のデータベースを体に叩き込んできた。どのような走路、障害であっても想定の範囲内のはずだ。血肉となっているはずのデータを呼び出すことができない。見えない監視も、集中を妨げる一因なのだろう。

かつて一度だけ想定外の事態に対処しなければならないレースがあった。宇田との3度目のレースだ。俺はいつものように、前半走って距離を稼ぎ、歩く時間帯に入っていた。並走する選手はおらず、自分との戦いだけを意識すればよかった。

突然、俺を抜き去る選手がいた。宇田だった。もちろん、歩いている俺を、走っている宇田が抜き去るのは、不思議なことではない。ただ、今までそんな選手はいなかった。宇田も、過去2回は自分のペースで距離を稼ぐオーソドックスな選手だった。

無視すれば良い。あっという間にリタイアするに決まっている。落ち着きを取り戻そうとしていると、宇田が俺の方を向いて手招きした。おまえも走れと。

言葉で意思疎通することはできない。できたとしても怒鳴りつけていただけだろう。宇田の挑発に乗ることは、リスクを抱えることでしかない。だが、俺は気が付くと走っていた。自分より前を行く相手に追いつきたいという、誰もがもつ欲求が俺を駆り立てた。

レースの際俺を支えていたのは、自己を抑制する力だった。何人ライバルがいても、バラバラに走る限り、それらは風景にすぎない。すぐ横を走る選手がいても同じだ。宇田は、他人に勝りたいという邪な欲望、少なくとも全能者は指示しない欲望を引っ張り出した。

俺は、あっという間に宇田に追いついた。そして宇田はあっさりとリタイアした。

試合後宇田に挑発した真意を尋ねた。

「一度だけでも、おまえに勝ちたかったんだよ」

屈託なく笑う宇田は、その後選手生活を終えた。宇田は俺を追い抜いたことで勝ったわけではない。優勝したのは俺だ。でも、宇田の言葉はずっと頭にこびりついている。

 

6 宇田

 

メディアから締め出された僕に、胡散臭い朗報が届いた。

レース1週間前、名城のもとにスポーツ省のホセ・グランから招待状が送られてきたのだ。ホセ・グラン、砂漠で車を壊しやがった男だ。手紙の内容は、名城にレースの取材を許可するというものだった。名城に確認したが、心当りはないという。僕は、狙いは自分にあるとふんだ。

一か撥か、僕が招待状を持参しスポーツ省に出向いた。

最初は何の御用ですか?とすっとぼけていたが、予想は大当たりだった。名城の名前を使えばヘクトルの記者会見に参加させてやるとのことだった。偉そうに。

「台本どおりしゃべる記者会見なんて、興味ないね」

「相変わらずですね…もちろん断るのはそちらの自由ですが」

「もっと近くでヘクトルに取材させてくれよ」

「というと?」

「選手としてレースに参加させてくれないか?」

グランは、しばらく考えていた。さすがに無理かと思ったが、返事は予想と異なった。

「とっくに引退したかと思っていましたが?」

「最初で最後の復帰戦だ」

「わかりました。ただし名城、と名乗ってください。あなたは既に死んだことになっていますから」

「わかった」

レース前後のヘクトルへの接触は禁止されていた。「サーディン・ヘッド」の秘密を知るには、レースの最終盤までヘクトルのそばにいなければならない。通常ならそんなことは不可能だ。ただ策はあった。

レースまでの1週間、鈍っていた身体を徹底的に鍛えなおした。レースのために1年間準備していた選手時代と比較すれば、気休めみたいなものだ。何度もヘクトルと走った時の記憶が蘇った。あいつを抜き去った瞬間は、はっきりと覚えている。

当日、ヘクトルは僕が参加していることに気づいていないようだった。名城の名前を使っているし、そもそもヘクトルは他の参加者に関心がない。

期間が短かったこともあり、準備は苛酷だった。控室ではおとなしくしていた。ヘクトルは別室にいたが、またいっしょに走れるかと思うと、純粋に興奮してきた。中古で買ったシューズは思いのほか熱を足に伝え、脚力も現役時の半分以下だ。生に対する執着が、真実に対する執念が、加速を支えてくれるだろう。

入場口には、大勢の見物客が押し寄せていた。鼓動が速くなっていく。控室がある建物から、他の選手とともに、入場口へ向かう。入場口からはバスでスタート地点まで運ばれる。入場口にたどり着こうかというとき、他の選手に押され、沿道の観客にのみ込まれそうになった。

愛想笑いを振りまいて、体勢を立て直そうとしたとき、脇腹に熱を感じた。振り向くと「熱狂的なファン」らしき男が、走り去っていくのが見えた。手で出血を抑え、姿勢を保とうとしたが、倒れる前に監視員が駆け寄って来て、僕を担架に乗せた。こうなることを知っていたのだろう。レース直前に殺されるなんて、つくづくツイてない。

薄れゆく意識の中で、入場口へ向かうヘクトルの背中が見えた気がした。

 

7 ヘクトル

 

違和感の正体がだんだんと分かってきた。事前審査を通過しても止むことのなかった違和感だ。

事前審査では、製薬会社への怒り、スポーツ省やホセに対する怒り、何より自分自身に対する怒りで、必要以上に速度を上げ、距離を稼いだ。そのため、通常タイムより20分以上も早く「サーディン・ヘッド」を摂取することになった。

効こうが効くまいが、どうでもよかった。乾いた口腔にざらついた粒を一つかみ放り込む。多くはむせて吐き出してしまうが、一つまみ体内に取り込めば十分だ。「サーディン・ヘッド」の感触が舌を伝い、喉に絡み、唾液と混じり合うと、時間の感覚が消えた。壁の色、気温、どれほど条件を変えられても関係ない。「サーディン・ヘッド」を呑み込めば、いつも同じ場所にたどり着くことができた。生を背中に、死の淵を覗き込むあの場所に。

拭い去ることのできない違和感、リタイアした瞬間に抱いた違和感を今なら言葉にすることができる。

俺は今、どのレースを走っているのか?

9連覇を達成した輝かしいレースか?宇田と競い合ったレースか?ただシミュレーターの中で、他人の走路を進んでいるだけなのか?

それは些細なことなのかもしれない。走り、歩き、倒れ、「サーディン・ヘッド」によって蘇えることができれば、今がいつであるかは重要なことではないのだろう。

しかし、俺はレースに勝つことと「サーディン・ヘッド」の効果を気にかけるあまり、副作用というシンプルな現象に目をつむっていたのかもしれない。「サーディン・ヘッド」は記憶と刷り込みがなければ効果を発揮することができない。であれば、効果を求めて過剰に記憶を叩き込めば、複数の記憶がもつれ合い、混乱するのは当然だ。

俺は今、どのレースを走っているんだ?

違和感がどんどん大きくなっていく。今回も、リタイアすべきではないのか。リタイアすればこの国から抹殺される、あるいは生命を奪われる可能性さえある。でも、それ以外に選択肢はないのではないか。

不安に襲われ、徐々にペースが落ちていく。熱さを感じない。足を動かすことさえままならない。自分が走っているのが不思議だった。

そのとき、いつかのように、傍らを駆け抜けていく選手がいた。宇田だった。宇田は俺を手招きしていた。こっちへ来いと。

宇田は引退したんじゃなかったのか。俺はすがるように宇田の後を追った。レースの勝敗などとうに忘れていた。宇田が、混乱した記憶に楔を打ち込んでくれるような気がしたのだ

宇田は不安定な足取りで、会場の入り口の方向へ向かっていた。かつての走力はないのだろう。

俺は願っていた。まだ倒れないでくれ。おまえが連れて行きたい場所へ俺を導くまでは。宇田は、選手入場口を通って、ドームの外へ出た。周囲のざわめきが耳に入ったが、足を止めるつもりはなかった。俺達を止めることも、殺すことも政府にとってはわけのないことだ。

ドームの外は本物の砂漠だ。俺も数回しか足を踏み入れたことがない。宇田は走り続けたている。持久力はさすがだ。ただ、ふらつく足取りを見て、身体を支えてやりたい気持ちにさえなった。他の選手の身体に触れると、即失格だ。

ドームの外の砂漠は、広く、熱かった。平坦な場所はなく、起伏に富み、砂は風によって動き続けていた。太陽が照りつけ、雲によって砂地に巨大な影が描かれる。

砂漠を歩き始めて間もなく、先を行く宇田が倒れ込んだ。俺は宇田のそばに駆け寄る。

「リタイアしたらどうだ?」

「久しぶりだな、ヘクトル」

「無謀だ。すぐにリタイアしろ」

「これが、『サーディン・ヘッド』なのか?」

宇田は、手の中の砂を持ち上げて、尋ねた。この期に及んでまだ信仰への当てつけを言う気か。

「おまえは何も分かっていない」

「俺も、この砂を食えば立ち上がって走れるのか?」

「無理だろうな。おまえには信仰が欠けている」

「やっぱり、偽薬だったんだな。ドームの砂だろうが、砂漠の砂だろうが、砂糖菓子だろうが、同じことだ」

「戯言はやめろ。『サーディン・ヘッド』の効果は、死の淵に立った者にしかわからない」

「じゃあ、飲むなら今だな」

宇田はか細い声でそう言うと、砂をつかんで口に入れようとした。しかし腕の力が残っていないのか、砂を掴んだまま力尽きた。

記憶の楔が消えた。なぜ自分がドームを出たのか、なぜ宇田がここに倒れているのか。

圧倒的な自然を前に、どちらの方向へ進めばいいのか分からなくなっていた。信仰は、懐疑によって支えられている。疑う者を前にしたとき、信仰はより強固になる。そして疑う者がいなくなったとき、信じる心は加速度的に不安定なものになっていく。

宇田の身体はやがて、砂に覆われ見えなくなった。

 

 

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