彼の十字架

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梗 概

彼の十字架

「ねえ聞いて。『寿命が長くなりすぎるリスクがあります』だって。怖いね」

いつまでも子供のような口調の妻が言った。テロメア再生施術は急激に若返り、その後ゆっくり老いるらしい。私は妻を説得し50歳の記念日に二人で施術を受ける。退院し、これから旅を沢山しようと語り合う。しかし半年たっても妻は若返らない。妻の細胞は施術に不適格だった。私は困惑するも、妻は飄々とする。今までになく彼女が愛おしい。私達はベッドで冗談を言い合う。

十年が経ち、青年の私と老いた妻は変わらず仲良く暮らしている。私はたびたび妻を旅行に誘うが笑ってごまかされる。妻はガーデニングと教会通いを始め、十字の指輪を買った。妻はよく庭で鼻歌を口ずさんだ。教会通いや鼻歌をちゃかす私に、彼女は「全部あなたのためなのよ」と苦笑いした。

やがて、まだ青年の私は病室で横たわる妻に両膝をつく。彼女の手と十字の指輪が私の頬を撫でる。妻は最後の願いを言った。私は何の返事も出来ず、ただ泣いた。

「私のことは忘れてね」

それから何年、いや何十年経ったのだろう。私の毎日は変わらず美しい。妻の庭を手入れし、妻の形見の指輪を磨く。指輪は磨き抜かれ少し小さくなったぐらいだ。時々思う。私の人生は一番の宝に恵まれた。妻は今も心に居る。しかしこの頃、彼女の鼻歌をうまく思い出せない。そんな中、私は些細な事で怒り隣人と揉めてしまう。

あんな振る舞いは私らしくない。私の毎日は変わらず美しい。今日も庭の手入れをする。しかし涙が止まらない。私は彼女の気持ちに寄り添えていたのか。私は倒れ入院した。目が覚める。起き上がる理由がない。

いつしか妻の教会の牧師が現れ、彼女に頼まれていたという手紙を置いた。

あなたのことですから、私を忘れられず悩んでいるのでしょう。きっと毎日、庭の手入れでもしているのでしょう。じじ臭いですよ!そんなあなたにプレゼント。私は天国にいます。天国があるかなんて知りませんけど。でも私は天国にいます。だから頑張って。どうか私に会いにきてください

私は教会を訪ねた。その人らは天国が何処か知っている。私も信仰を得たい。私は祈りを重ね、やがて布教する立場となった。私に救われたと言う人も出てきた。しかし人を助けるほど神への疑念が深まる。立ち上がるのは彼ら自身の力であり、神の力ではないのではないか。私は気づく。信仰とは、与えられていなければならず、得ることは出来ない。

私は教会を去り、今度は私の為に人を助けた。人を助けるのは人だ。天国があるならきっとそこだ。妻の手紙を読み返し、その本当の意味を噛み締める。

いつのまにか私も最期を迎えようとしている。私の十字の指輪は、擦り切れ、もはや何の形でもない。それを誇りに思う。担当医が私に言う。「長かったですね。でも、ようやく天国の奥様に会えますね」。私は答える。「天国があるかはわからない。でも彼女はずっと私の側にいたよ」

文字数:1200

内容に関するアピール

SF創作講座事務局よりお知らせ(2024.11.13)

本アピール文は投稿者の希望により、公開を停止しております。

文字数:56

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永遠にさようなら

「ねえ聞いて。『寿命が長くなりすぎるリスクがあります』だって」
 リビングの絨毯で寝転がる葉子ようこが言った。大学の時から変わらないこの口調。夏の怪談もホラー映画の感想も、彼女が話すと微笑ましく感じたものだ。今もそうだ。冬だからとモコモコ服を着こみ、ストレッチで息を吐きながら、同僚から査読を頼まれた分子生物学の論文を読んでいる。
「聞いてるの?このテロメア再生施術、長寿化に関わるものなのだけれど」
「うん」
 質問の意図は何だろう。私は只の高校教員だ。大学卒業後、この20年程は妻との会話のために学会聴講を続けた程度だ。
「専門的なことはわからないけど…寿命が長くなりすぎると、生きがいを喪失してしまうとかあるかもね」
「生きがい?何だか抽象的ね」
「毎日、自分が決めた目標に向かってがんばるとか、そういうことだよ」
 私の言葉に感じる事があったのか妻は思案し、それは確かにリスクかも、と呟いた。
幹人みきとだったら受けたい?このテロメア施術」
 妻は概要を説明した。テロメアとは細胞内のDNA螺旋のほつれを防ぐキャップである。テロメアは細胞分裂の際に再生されず、徐々に短くなり、無くなるとDNA螺旋がほどけて細胞分裂に異常が生じて老化や死に繋がる。しかしテロメア再生施術は、RNAウイルスの集中投与でDNA内の遺伝子にアプローチし、細胞分裂でテロメアも再生するよう改変することで若返りを引き起こすという。
「そんな夢みたいな技術があるなら興味はあるよ。でも未来の話だよね」
「同僚のメールだと既にチンパンジーでの検証は済んで、次は人間の臨床試験に入るみたい。そして社会的影響が大きな技術だから、まず10年ほど上席研究者と配偶者で内密に被験者を募集するんだって」
 そして妻は、考えてみて、おやすみ、と私の肩に触れ、書斎に戻った。

 数日後の夜、私は妻の書斎をノックし部屋に入った。
「この前に聞いたテロメア施術だけど」
「うん」
「少し興味あるよ。被験者になるのは人の役に立つと思うし。それに―」
 妻は椅子から立ち上がりゆっくり近づいてくると、私をそっと抱きしめた。
「私…何て言うのかな。あなた、のために何かをしたいと思っているの」
「それはどういう―」
「大学卒業前、私の進路が地方の大学院に決まった時、あなたは私にプロポーズして、私と同じ町で教職を探したじゃない。そして二人で住みだしてからも私を支えてくれた。あなたはまじめ過ぎるのよ。そこがいいところなのだけど」
「だからこのテロメア施術がうまくいくなら、今度は私があなたのために何か出来ないかなって考えていて…」
 妻がそんなことを思っていたとは意外だ。確かに私は彼女を支えるために教職についた。しかし私は彼女を支えることで人生に意味が生まれたとも感じていたのだ。
「それに施術が成功した場合、妊娠が出来る身体となるかもしれないの」
「そんなことが…」
「人の役に立つとかどうでもいいのよ。幹人が自分のために、いえ、私達二人のためになると感じるなら、応募したいと私は思ってる」
 私を抱きしめる腕に力が入った気がした。私も彼女の背中に手を回す。夜の冷えた室内で彼女をなおさら暖かく感じた。
「そうだね。昔から君は僕以上に僕をわかっている。僕も受けてみたいよ」
 私がそう伝えると、妻は小さく、うん、と返事した。その後も妻はまるで何かを祈るように、私の胸に頭をうずめたまま動かなかった。
 そして彼女は、よく聞いてね、と前置きしてから私に胸に囁いた。
「愛してるわ、幹人。ずっと」

 半年後の春、私達は施術のために妻の研究室が属する都心の大学病院を訪れた。車を運転する私に、実は被験者の応募は予想を下回ったみたいと妻がもらした。意外だねと返すと、みんな若返ってまで大学の為に働きたくないのよと妻は冗談めいた。
 病院の総合受付を済ましスタッフの案内で私の前を歩く妻を見て思う。小柄ながらも凜と伸びた背筋。40代だがよく似合った肩口で切りそろえた茶髪。香水は着けていないがキンモクセイのような香りがする。家の外での妻は、飄々としつつも研究者らしいテキパキした振る舞いで人を惹きつける。彼女の薬指の指輪が、私の左手に馴染んだものと同じと見る度に誇らしくなる。
 私達の入院個室は2階で、窓の景色は中庭から伸びる桜と開けた青空で彩られていた。暫くするとドアがノックされ壮年の医師と若い研修医が入ってきた。きっちりした風体の医師に対して研修医は学生上がりの様で、その目は好奇心と、やや過剰な軽快さを発していた。
「やあ葉子。相変わらず綺麗だね。この度は治験に協力ありがとう。そちらが旦那さん?」
 研修医が妻に話しかけた。
「あら…。そうよ。幹人、紹介するわ。彼が同僚の― 」
 妻は私の表情を見て言葉を留めたのだろうか。
 その青年は、いや、青年なのだろうか。妻の同僚は若返っていた。顔の肌は艶々しく、筋肉までも張りがある。ただ一点、髪の毛が綺麗に真っ白だ。
「ええと、幹人。彼が同僚のさとるね。ところで悟、その髪は新しいファッション?」
「テロメア施術は毛根のメラニン色素に影響は与えず白髪は戻らないらしい。僕の想定外だ。初めまして幹人さん。宜しくお願いします」
「あ…。はい。宜しくお願いします」
 呆気に取られる私をよそに三人は学術的な議論を続けた。やがて医師が話題を変えて私に話しかけた。
「私が主治医を務めます。幹人さんは施術原理や副作用リスクは葉子さんから説明済みだと?」
「はい」
「では入院の説明を。期間は6週間で、5日毎にRNAウイルスを投与します。適宜データを取りますので基本的に個室でお過ごしください。また退院直後は一週間に一度の、その後も定期的な外来検診に来てください。また」
 悟が話を引き継いだ。
「皮膚細胞は約28日で入れ替わるので退院時には施術効果が出てると思う。筋肉細胞はもう少し時間がかかるかな。治験報酬は文科省の科研費より幹人さんに生涯に渡る補償が出ます。確か既に退職されたのですよね。本件は内密ですので今後は就労が制限されます」
「はい。承知してます」
「改めてご協力有難うございます。それと葉子に関しては…」
 妻が自分の頬っぺたを引っ張りゾンビの真似をしながら答えた。
「私は研究班に加わり定年が50年ほど遠ざかる訳ね」
「50年で済むかわからないけどね」

 やがて悟と医師は去った。二人きりになった途端に私は口を開く。
「驚いた。実際に目にすると」
「私もよ。悟は大学院の先輩だけど昔の彼そのままだった。彼はこの歳になっても性格がちゃらいし、本当に時が巻き戻ったみたい」
 妻の大学院にちゃらい男がいたと聞くのは複雑だ。
「あの悟さんは不思議な人だね。研究者らしくないというか」
 妻は察したのか、彼とは親しい友人でもなかったけれどと言いつつ、
「彼の家はお寺らしいわ。でも学生時はパンクバンドしてたとか。そして…一流の研究者よ。彼は物事に執着しないの。プロジェクトが流れたり賞を逃しても、ふんふん言うだけで研究を楽しんでる。実は彼を見てると、私の人生って何だったのかと感じたりもするわ」
 そう言うや否や、ごめんごめん、と彼女は表情を戻した。
「私は人生に満足してるわ。でも幹人と二人で新しい出発を出来たら、どんなに幸せだろうって最近よく思うの」
 そして、中庭の桜を見に行こうよ。明日からは動きづらくなるし、と言い私の手を取った。

 その晩、私と妻は遅くまで話し込んだ。親しい友人達には何と説明しようか。施術後の最初の海外旅行はどこにしようか。二人でスポーツを始めるのはどうか。これを機に犬と暮らすのはどうか。妻は内緒で犬にもテロメア施術をしてこっそりギネス記録を塗り替えようと言った。
 もし子供が出来たら私が毎日の料理をするのか。私達の子供ならやはりアウトドアよりインドアなのか。子供部屋にいかがわしいポスターを見つけたら私と妻のどちらが注意すべきか。子供の名前には、幹人と葉子だから花を入れようと私が言うと、妻は、例えばイチョウは葉が綺麗だけど花は地味で誰も気づかないからダメなどと却下し、冗談とも本気とも取れる声で、琥珀のように長生きしてほしいので、名前は樹液にしようと言った。
 気づくと妻は寝息をたてていた。私はふと月が見たくなりベッドを降りて窓際に立った。ライトアップされた桜が月に負けじと輝いている。私は何かに感謝したい気持ちに駆られた。妻と出会ったこと、妻と過ごした日々に感謝した。そしてもし神という存在がいるなら感謝したいと思った。
 この桜が緑で染まる頃には、私達に新しい何かが始まるのだろう。

 6週間はあっと言う間に過ぎた。悟の説明通り私の肌は4週目には違いが表れた。退院前には筋肉細胞の入れ替わりも進み、不釣り合いに弛んでいた肌も張りが出てきた。
 しかし妻には何の兆候も見られなかった。
 効果には個人差があるのだろうという私達の希望は、退院日の悟の説明で断ち切られた。現段階の研究深度では妻の遺伝子はテロメア施術に不適格らしい。

 妻が病院の受付で退院手続きを済ませ、私達は車に乗った。二人きりになったことで沈黙が一層重い。私は運転しながら会話の切り口を探した。ここは妻から口を開くまで待った方がいいだろうか。だめだ、そんな負担を今の彼女にさせてはいけない。彼女は施術を提案した自分を責めているだろ―
「止まって!」
 私は急ブレーキを踏みシートベルトが猛烈に食い込んだ。心臓の高まりでこめかみが激しく脈打つ。赤信号で停車の車に突っ込みかけた。前の車から男が出てきた。彼はフロントガラス越しに私達を見据えると、怯えたような怒ったような顔で、母親を大事にしろ!と怒鳴った。
 信号が青になり私は運転を再開した。そのまま何分か走っただろうか。妻が私の肩にそっと手を置き、車は一旦おいてタクシーで帰りましょうと言った。

 タクシーは静かだった。運転手の前で施術を話す訳にもいかない。沈黙に理由が出来たことは私を落ち着かせた。
 窓の外を見続ける。郊外の私達の家に近づくにつれ景色はコンクリートから田んぼに変わった。5月の水田の平面は完璧で超自然的だ。私は都市計画につき考える。大地に線を引き無機物で埋め尽くす都市と有機物を保護すべき地域を分ける。なぜ人間は自らも自然の一部であるのに、自然に身を委ねず自然を支配しようとするのか。人間の想像力は本質的に残忍なのではないか。
 こんなことを考えている場合ではない。
 家まで後10分程度だ。このまま何も言わずに玄関を跨いではいけない。
「あの橋の前で降ろしてください」
 そう告げて私達はタクシーを降り河川敷を歩くことにした。
 妻は私の前をゆっくり歩いた。夕暮れと彼女の茶髪の調和が綺麗だ。大学の時にも河川敷で同じ瞬間があったと思い出す。私達の前方より散歩中の親子と犬が近づいてくる。そう言えばあの夜、私達は犬の名前を話し合わなかった。ああ違う、なぜ私はそんなことを。
「葉子!」
 彼女が足を止めた。こちらに振り向かない。私の喉には、幾度となく彼女に伝え、私の人生を支えてきた言葉が出かかっている。しかしこの言葉の確かさが、もう一度でも口にすれば永遠に失われる予感で息が詰まる。それでも私は拳を握りしめ、彼女を幸せにするのだという気持ちで声をふり絞った。
「君のことを愛している。いつまでも」
 少し間をおいて葉子は振り返った。彼女の表情は希薄だった。困惑や失望ではなく、必死に答えを探しているよう見えた。
 葉子の口が開いた。しかしそれは言葉にならなかった。
 彼女はその場で泣き崩れた。私は、私は絶対にここでは泣いてはいけないと悟った。
 私は葉子の手を取り二人で家に帰った。

「おーい葉子。ドライヤーは準備できた?」
「ばっちりよ!」
 コハクのシャンプーを洗い流してタオルで包み、浴室の外のトリミング台に乗せた。私がブラッシングし、葉子がドライヤーを当てる。私が後ろ足を持ち上げ、葉子がお尻を乾かす。コハクは、くぅーん…と抗議しつつモコモコしてきた。
 コハクにご褒美をあげ、うんち袋を持って3人で散歩に出る。柴犬のコハクは散歩で様々なわがままを披露し、泥まみれや草まみれになってはシャンプーをねだり、そのくせ乾かす時に抗議するが、私達は喜んで答えた。
 私達は毎日、島の中をゆっくり歩いた。春はコハクのお気に入りで、芽吹く花を見つけてはクンクンする。夏には葉子が、薄青く透明な波打ち際を裸足で歩いた。秋には私が、大きなイチョウを見つけては持ち帰り本に挟んだ。冬にはみんなでしっかり着こんで夜の浜に行き、海に映りそうなぐらい輝く夜空を3人で眺めた。

 あれから10年が経っただろうか。
 テロメア施術の後、私は予定の外来検診を免除された。悟の斟酌だった。葉子は研究職を早期退職し、私達は彼女の故郷の西の離島に引っ越した。葉子の実家は岬の灯台を見下ろす丘の上にある。庭で葉子は菜園を始め、いつしか料理が趣味となった私は、もっとハーブも植えてくれとお願いした。
 一度じっくり話し合ったことがある。
 彼女は施術を提案したのを後悔していた。片方だけ成功するリスクは頭にあったが、私と話し合うのを避けてしまったと言う。そして「もし立場が逆で私だけ成功していたら、私は幹人と向き合えずに逃げていたと思う。あなたは本当に優しい人なのよ」と言った。
 私はソファの葉子の隣に座り、彼女の両手をたぐり寄せて包み、二人で養子を迎えないかと提案した。彼女は暫く目をつぶった後、幹人と二人でゆっくりしたいと答えた。そして施術の副作用に触れ、私が心配してるのは幹人よと告げた。
 私は、君との思い出があれば大丈夫だよと、努めて明るく言った。葉子は、笑顔で私を真っ直ぐ見て、何度かゆっくり首を横に振った。
「本当にありがとう。でもそんな風に言ってほしくないの」

 それからも毎日、私達は出来るだけゆっくり散歩をした。

 ある夏の日に岬で少年に出会った。近づく私達に気づかず水平線に向かいクラシックの様な歌を練習していた。元々この島に子供は少なく、私達の集落には一人もいなかったはずだ。コハクがわんっと吠えると少年は振り向き、私達に軽く頭を下げた。少年の肌は茶褐色で、濃い目鼻立ちも異国風だ。
「邪魔しちゃったかしら」
「大丈夫です」
 少年は流暢な日本語で答えた。身の上を聞くとカンボジア出身で、漁師の父と数年前から日本で暮らしており、父の独立でこの島に越して来たらしい。
「歌を練習していたの?」
「はい、教会の歌ですけど。この島では教会に通う人も多いし、父と僕も通うことにしたので」
 そういえばこの島は歴史的に西洋の宗教が根付いていることで有名だ。葉子も小さな頃は教会に通っていたのかもしれない。
「この島は故郷の島を思い出します。少し暑いけど風が吹いていて。それと僕が外国人だとみんな気にしてない気がします」
「ここはボートがよく漂着するし難民を受け入れてきた歴史があるからね。ところでカンボジアでは仏教が盛んじゃなかったかしら?」
 少年は少し驚き嬉しそうに答えた。
「僕達の国のことを知ってるんですね。はい、母国では教会ではなくお寺で祈ります。でも父は祈る心があれば何でもいいと言います。シュウチャク?は良くないらしいです。僕も教会がなんだか好きになってきました。適当ですかね」
 葉子は興味深そうに、それは素敵なことだと思うわ、と答えた。
「お兄さん、とお姉さんは、この島に住んで長いのですか?」
 葉子をお姉さんと呼ぶあたりこの子は日本に馴染んでいると含み笑いしてしまう。
 その後も雑談を続け、少年は私達に歌を披露した。葉子も、実は私も歌えるのよと私に目くばせしながら、少年に合わせて口ずさんだ。

 それ以降も少年を見かける度に私達は少し離れて座り彼の歌を聴いた。葉子も家の庭で歌ったりした。それは心地が良いもので、私も家の中から小さな声で一緒に口ずさんだ。

 葉子が60歳に近づいた秋に彼女から旅行の提案があった。それまで私から提案しても、学会であちらこちらへ引っ張られたから懲り懲りよ、と茶化されていたので意外だった。葉子はコハクに雪を見せてあげたいと言った。私達は北国の大学で学部生の時に出会ったので、母校を訪ねて、その後に10日ほどドライブすることにした。
 私と葉子はお揃いの白髪だったが、人目を引かぬよう私だけ髪を黒く染めた。

「こ、こんなに力があったとは!」
 真っ白な広場へ解き放たれたコハクは、雪を頭でかきわけ進んでいく。私はリードを掴み、ブルドーザーのようなコハクの進撃と格闘する。後ろで葉子が、コハクも大きくなったね!とケラケラ笑った。
 私にとっては半世紀ぶりの母校は、驚くぐらい変わらない景色だった。名物の銅像の前では今もカップルが待ち合わせをしている。私と葉子が通った研究棟は建替えこそされていたが同じ場所にあった。棟内を歩くと何人かの教授が葉子に声をかけた。テロメア施術は未だ非公式なので、私はその度に葉子に軽く会釈する振りをして席を外した。
 その後にレンタカーを借りた。テロメア施術者には素性を隠した免許証が出されるようだが、私は検診に行っていないので詳しく知らない。仕方なく葉子が免許証を差し出す。今まで彼女が旅行に乗り気でなかったのが少しわかった。店から出る時だけ葉子が運転し、すぐに私と交代した。車内に沈黙が訪れたが、初めてのドライブに興奮したコハクが、その感動を私達に伝えようと必死にあれこれするので私達は笑い出した。

 数日のドライブ後、私達は湖畔のコテージに宿泊した。私達の到着に合わせ、薪ストーブには頼りがいある炎が灯されており、大きな机に夕食が小綺麗に並んでいた。葉子はいつになく上機嫌で、今夜はがんがん飲んじゃおう!と、棚のワインセラーをしげしげと眺めた。
 夕食後にコハクはすぐに寝てしまった。私達も席を移動し、二人でソファに並んで座った。葉子はわざとらしく、少し酔っちゃったみたいと言い、私の膝に頭を置いた。薪がはぜる音を聴きながら部屋を眺める。コテージに置かれた水槽にはこの湖の名物のマリモが浮かんでいる。マリモの寿命は未だに謎らしく一説では300年も生きるらしい。あなた達はよい友達になれるわと、葉子が冗談を言った。
「私、幸せよ」
 葉子が切り出した。
「私は自分の人生で成りたいものになれたわ。本当にあなたが支えてくれたおかげ」
「僕も改めて思うよ。君を幸せにすることが出来たなら、それが僕の人生の意味だって」
 葉子は、うん、わかってる、と小さく言った。
「実を言うとね…研究職を得て、評価されて、学会の賞を取った時、想像していた程に感動しなかったの。こんなものかって。それからずっと、あなたに申し訳ないと感じてきたわ」
 私は、そんな風に言わないでほしい、と言った。
「君が何と言おうと、葉子は僕の誇りだよ」
「それでね、徐々に、何かを強く求めるのが怖くなってきたの。必死にがんばって、何かを成し遂げても、また同じように感じたらどうしようって。それなのに私、テロメア施術を提案してしまったりして…」
 そこまで言って葉子は黙り込んでしまった。私は葉子の白髪を撫でた。
「君が施術を提案したのは僕達二人のためだよ。君のせいじゃない」
「気になってしまうの。私は幹人のために精一杯がんばれたのかなって」
「僕は大丈夫だよ。この先もずっと君との思い出がある」
 葉子は、違うの幹人、ごめんなさい、と言い、私の顔に手を伸ばした。

 そして私達は二人で心ゆくまでゆっくり泣ける時を噛みしめた。

 予想していた通り葉子の死は急速に訪れた。テロメア施術の二つの副作用の一つは、施術失敗の場合の癌の確率増加と急進行だ。癌とは老化などでDNA損傷した細胞内で、テロメアを再生するテロメラーゼ酵素なる物質も異常活性することで、異常細胞が無限増殖を始める現象だ。対してテロメア施術も全身の細胞に遺伝子改変でテロメア再生メカニズムを組み込むので、異常細胞が生じた際、急速な癌化と全身転移の危険が指摘されていた。
 旅行から帰ってきた次の春に、葉子は、ちょっと背中が痛いわ、あれだと思う、と言った。私達は覚悟が出来ていたので、本土には行かず島の小さな総合病院で検査を済ませた。医師より余命1か月と告げられた際、葉子は、まあそうなるわよね、と軽く溜息をついた。

 葉子は入院せず10日後の病院での尊厳死を選んだ。治療も寛解の見込みもなくモルヒネでの意識低下も望まない。そして私達は家に帰り、いつも通りにコハクと散歩した。
 ずっと前より私達はこの10日を受け入れていた。葉子は散歩しながら歌を歌い、私も隣で一緒に口ずさんだ。

 最後の朝に自宅を出る際、ありがとうね、わがまま坊や、と葉子はコハクを抱きしめた。コハクは珍しく静かだった。
 病院へ向かう車で、私は片手で運転しながら葉子の手を握った。重なる二つの手はどちらも震えていた。最後の時を明るい雰囲気にしたかったのか、彼女は、やっぱ怖いものは怖いわー、などと明るく振る舞っていた。
「幹人、今まで本当にありがとう」
 そして葉子は意を決したように私の手を強く握った。
「今までずっと迷ってた。でもやっぱり、私の口から言わなければいけないと思うの」
 私には葉子の次の言葉がわかっていた。思えば私は、施術の退院後に二人で河川敷を歩いたあの日に、口に出されなかった彼女の言葉を、いつかは受け止めなければいけないだろうと、ずっと考えていた気がする。遺伝子改変が綺麗に適合した私は、細胞が常に若返るので癌も発症しずらい。つまりテロメア施術のもう一つの副作用は、成功の場合、自然死の要因がほぼなくなり、理論上は永遠に生きる可能性すらあることだ。
「徐々にでいいのよ」
 そう言って葉子は大きく息を吸い込んだ。
「でも、どうか、辛くなったら、私のことは忘れてね」

 病院が近づいてきた。葉子は病院の少し手前で車を止めてほしいと言った。彼女は助手席から身を乗り出し、私の首に腕を回した。そして、ありがとう、でも最後は一人にさせて、と言って車を降り、病院に向かって、振返らず歩いていった。

「おいおいコハク。じっとしててくれ」
 濡れたコハクをトリミング台に乗せて頭を撫でる。一人でコハクを乾かすにはコツがいる。ドライヤーを首と肩で挟めば両手が使えるのだ。しかし耳の側で鳴る音がうるさい。そう思った時、犬の聴力は人間の4倍程度と気づき、きっとコハクも乾かしの手際が前より悪くなったのに耐えているのだと気づいた。
 コハクにご褒美をあげ、うんち袋を持って散歩に出る。この島は漁村で、外国人が働きに来ては去ることが多く、私の素性が訝しまれないのは幸いだった。コハクもだんだん歳を取り、かつてのわがままはどこやら、理解ある散歩をする。私は歩きながらよく歌を口ずさんだ。ちゃんと声に出すと自分が音痴とわかり、葉子は歌が上手かったのだなと今更ながら分かった。

 波打ち際を歩けばいつも、そこにほんの少し葉子がいるよう感じられた。彼女の骨は海に散骨した。葉子は、葬儀は行わず、病院で処置が済んだら直ぐに火葬して海に撒いてほしいと言った。火葬場で骨を壺に詰める時に、彼女が最後に身に着けていたものとして結婚指輪が私に返却された。
 葉子は冗談か本気かわからないが、骨壺が冷めやらぬ内に撒いてね、と言っていたので、私は彼女の死を内省する間もなく、火葬場から急いで骨壺を粉骨業者に持ち込み、その場で半日待ち、夕方にコハクと岸に向かった。朝に彼女を車で降ろしてからまだ太陽が沈んでいない。業者の仕事は丁寧で、葉子は見事にパウダー化していた。真っ白なその骨を掬い取ると、それは実験で使う炭酸ナトリウムのようだったので、これなら満足かい、と私はつぶやいた。
 直径15センチ程の骨壺を抱えて波打ち際まで歩き、海に撒こうとしたが、その日は風が強かった。私は腰まで海に入り、水中で壺を開くことにした。壺を開くと、葉子はもわもわ立ち上がり、波がさっとさらっていった。私は岸に上がりコハクと砂浜に座った。気が付くと太陽が沈みきろうとしていた。私は彼女の結婚指輪を海へ投げる事にした。そうすれば、この海のどこかに葉子が永遠に存在するよう思えた。私が指輪を投げるとコハクが海に飛び込んだが、望むものを捉える事が出来ず諦めて帰ってきた。

 コハクは親孝行なもので、葉子の散骨から10年も生きた。コハクのパウダーはマグカップ程の壺に収まった。私は今度は一人で岸に行き、葉子と同じように水中でコハクを開いた。コハクも一瞬もわっと立ち上がると、葉子の元へ溶けていった。

 葉子とコハクに先立たれた私は、二人のためにこそ塞ぎこまないよう努めた。彼女らとの思い出を大事にしながら前向きに生きることが、私の人生の意味であるはずだ。
 仕事に就こうとしたが、テロメア施術の規約で禁止されていた。私は島の外国人漁師と知り合いになり、内密にカツオ漁船の仕事に就いた。出航しては10か月ほど海で過ごし冬だけ葉子と過ごした家に戻る。
 漁船の暮らしは朝から夜まで息つく暇もなかったが、何年か経つと夜はゆっくり過ごせるようになった。私は夜な夜な甲板で人目のつかぬ隅に座り、空との境目がない艶に欠けた海を見つめながら、波に身を委ねる年月を重ねた。
 いつしかこの海のどこかに葉子がいると感じることが出来なくなっていた。しかし夜闇が時間と空間を塗りつぶし、波音と揺れが永遠に続く海洋は、現実と過去の境を曖昧にした。私は葉子の記憶を留めようと、その手触りを確かめ続けた。

 私の人生の転機は大学二年時の両親の離婚かと思う。私が20歳になるまで待ったらしい。父はどこか田舎で新しい人生を始めるらしい。話をする父は少し高揚していた。母は、父が十分な老後資金を残してくれたのに感謝しつつも寂しげに見えた。
 父を責める気は起きなかった。愛人と逃げる訳でもなく母の老後もケアしている。しかし母という女性の幸せを、この男はどう考えているのか気になった。父が何かを始めるにしても、なぜ母を連れて行かないのか。私を生み育てることに時間を捧げた母を、幸せにする責任が父にはあるのではないか。
 この時に漠然とだが、私はどう生きたいかを定めたように思える。父と母が結婚した時、父には母を幸せに導く決意があったはずだ。例え父なりのケジメがあったとしても、彼の人生には軸がないよう思えた。

 その後に付き合っていたサークルの子と別れた。ずっと愛せるか分からないと告げると、彼女は、そんなに決めつけるのはどうなんだろう。お父さんとお母さんのことも幹人君の想像なんじゃない、と言い去った。
 彼女の言葉は私に迷いを残した。しかし葉子と出会った。葉子は人気ある生徒で、どの先輩と付き合った、別れた、と言う噂をよく聞いた。大学院進学を希望らしく、朝早くや夜遅くにも研究室を出入りしていた。私も大学院を考えていたので、私達は度々一緒に過ごし、付き合い始めた。
 葉子はバイト代で学費を賄うような生活だったので、私達は河川敷や年間入場券がある博物館をよく歩いた。葉子は私を「幹人君はまじめだねぇ」とよく茶化した。バイトと研究だけする彼女の方が真面目と伝えると、「私は、私がやりたいことをやってるだけ。幹人君みたいに他の人のことまで考えてないよ」と言った。

 大学3年の冬となり人々は就職活動を始めた。改めて葉子に研究者を目指す理由を聞くと、「何か大きなことに関わりたい」と言われた。「世界に足跡を残したい、みたいな。水平線を見て育ったからかも」。そして葉子は「幹人君は?」と尋ねた。
 私は自分について考えた。彼女に何かを取り繕うべきではない。私には、葉子のように夢と呼べるものはないと話した。しかし結婚や家族については、大事にしたい何かがあると、両親の件を交えて話した。葉子は暫く黙っていたが、「自分が大事なものを一つでも知ってるって、簡単なことじゃないよ」と朗らかに言った。
 私が葉子に確信を抱いたのはこの頃だったと思う。葉子を通して私は自分を知れた。私は普通の人間だ。人並みに生きて、働き、趣味を楽しむだろう。しかし何か一つ、人生を賭けて成し遂げたいなら、自分が選んだ人を愛して、最後まで支えたいと思う。
 程なく私は進学希望を取下げ、葉子にプロポーズした。そして地方の大学院進学が決まった葉子と共に移り住み、その街で教職を探して彼女と暮らし始めた。

 夜が明け、船がゆっくりいかりを巻き上げる音で目を覚ます。船は錨がなければ役割を果たせない。思うに人も、自らの錨がなければ人生を全う出来ないのではないか。
 私は左手の指輪を撫でる。私の心には今も確かに葉子が存在している。しかし彼女の眉がどんな形をしていたか、どんな声色をしていたか、確信が持てない。
 私は彼女が庭で歌っていた曲を口ずさもうとしたが、うまく思い出せなかった。

 陸で過ごすある冬の日にあの男が訪ねてきた。悟だ。
「久しぶり。あ、慣れ慣れしい?勝手に親近感かんじちゃって。これが葉子の実家か」
 突然の訪問に動じた。私は特にこの男が好きではない。しかし葉子を知る数少ない一人だ。彼を招き入れお茶を準備した。
 テーブルに座り改めて向き合う。悟の外見はぼんやり私が覚えている姿と同じだ。20歳前後、艶やかな肌。海の照り返しと潮風で強張り皺だらけの私と違う。そしてにこりと私を見る彼と目が合った時、突然と畏怖に駆られた。彼の目はあの時に病院で見たように軽快だ。この年月を経てなお、この男は変わっていない。
「調子はどう、幹人さん?」
 悟が唐突と口を開き現実に戻される。
「おかげさまで健康です。いや」
 私の心情を明かせるのはこの男だけだ。
「お察しの通り良いとは言えません」
「葉子の死に囚われているのかい?」
 この男は清々しいほど単刀直入だ。
「葉子は…私の生きがいでした。彼女を支える事を人生の意味としてきました」
「気持ちはわかるよ、本当に」
 悟は改めて私を見透かして本題を切り出した。
「テロメア施術が治験され、廃止されてから半世紀だけど、被験者で尊厳死を選ぶ人が出始めてね」
 私は驚かなかった。黙って頷く。
「終末患者でない尊厳死は違法だけど…希望があれば手続きするよ」
 何十年かぶりの人とのまともな会話で、死にたいか?と労わられる状況に、はははと笑いと涙が零れる。しかしこれは私がずっと感じつつ向き合えなかった問題だ。悟は私の感情が落ち着くのを待っている。
「はい。死を考えることはあります。でもそれは葉子への裏切りに感じます」
「裏切りって?」
「葉子は出来れば私と生きたかったと思います。自ら命を絶つのは彼女の思いに反する気がして」
 悟は黙り込んだ。顔に迷いが見え、表情が変わった。
「どこかで知るかもしれないから、僕の口から伝えます」
「二人の事は僕も気がかりでした。ですからその後、数年かけて個人的に葉子の遺伝子解析を進め、効果が彼女にも出るよう施術を改良しました」
「それを電話で葉子に伝えたのですが…再施術は望まないとのことでした」
 私の呼吸が止まる。彼女に対してどうしてという気持ちと、彼女の思いがわかる気持ちが同時に押し寄せる。

 その後の会話はよく覚えていない。
 去り際に私は聞いた。
「悟さんには、人生を賭けて成し遂げたい何かがあるのですか?」
 悟はまるで小学生のように軽々と答えた。
「人生って何だろうね。細胞も毎日入れ替わるし、昨日の僕と今日の僕は別の存在さ。この世の全ては変化して留まらない。僕は毎日、生まれ変わって、目の前のことをやるだけだよ」

 次の春も私は漁船に乗り込んだ。
 夜な夜な甲板で考える。葉子が再施術を断ったのを話さなかった理由はうっすら分かる気がする。ただ当時の私は彼女の気持ちに寄り添えていたのか、彼女の感情を受け止めるためにもっと何か出来たのではないかと、不安が残った。
 私は死についても考えた。葉子は自分のことを忘れてほしいと言った。それは葉子の最後の思いやりなのだろう。そして彼女との思い出も記憶も、私がどれだけ強く握りしめようが、指の隙間から抜けていく。しかし、どれだけ少なくなっても、そこには何かがあるのだ。それは私が人生をかけて編み上げた永遠であり、私の命を繋ぐ鎖であり、私を縛る鎖である。
 この鎖を手放したら私は…

 夜が明け、錨が撒きあがる音で目を覚ます。
 いや、この荒々しい轟音は違う。これは錨を降ろす音だ。昼まで寝過ごしたのか。船は移動を終え漁の準備を始めている。私は急いで立ち上がる。
「おい!人がいるぞ!」
 誰かが叫んだや否や膝に凄まじい衝撃を感じて倒れた。地面に叩きつけられた私の眼前で巨大な錨鎖が蛇のように荒れ狂っている。
 私の右足からバチン!と音が炸裂し、意識を失った。

「幹人君、いつもお手伝い有難う」
「僕に出来るのはこれぐらいですから」
 そう言って老牧師は私の車椅子を机の前に止めた。彼の祭服から潮の香りがする。この教会では年に一度の洗礼を海で行うので海水に浸かっていたのだろう。そして洗礼後にはチャリティバザーがあり、私は毎年受付を担当していた。大抵は古い食器や玩具を仕分ける平和な光景だが、胸が痛む事もある。一度、大量の未使用のベビー服を受け付けた。そのご婦人は初孫が生まれる前に色々と揃えたが死産に終わったと言う。
 私は彼女の話に耳を傾けた。人の悩みを聞くことは私の心も癒した。

 船の事故で私は右足の膝下を失った。病院のベッドで目覚めた時には手術は終わっていた。麻酔が抜ける際の吐き気と曖昧な意識で、私の身元保証や各種手続きはどうなったのか心配したが、悟が何とかしたのだろう。
 退院時に有志の人が私を家に送ってくれた。地元の教会が移動支援や学童保育の相互扶助を主催しているらしい。障がい者となった私も助けを必要とするだろうし団体に参加することにした。
 私は学童保育を担当し学校に通う日々が始まった。かつて教師だった事を思い出し懐かしさを覚えた。その頃をもっと思い出そうとしたが、ただ幸せだったという気持ちが湧くだけで具体的な情景は浮かばなかった。しかし悲しくはなかった。

 私の見た目は青年なので若く振る舞うことに最初は四苦八苦した。しかしそれにも慣れ、いつしか自然となり、自分が生まれ変わっていく気がした。

 学童保育への送り迎え前後に教会に寄ることがある。教会は港の脇に建つ平屋の古い木造で、小さな装飾の引き戸窓の上にだけ控えめなステンドグラスがある。宗教に無縁の人生を送ってきた私はその教会の質素さに驚く。
 団体の人を待つ間に私も真似て祈ろうとしたが、神という存在がいるのか考えた時、何かを思い出して苦しさを覚えたので、直ぐに止めた。

 教会に出入りする内に老牧師と顔見知りになった。彼は茶褐色の肌に異国風の目鼻立ちだ。流暢な日本語を話すが生まれは外国なのかもしれない。
「君は祈らないのですか、幹人君」
 いつも礼拝堂の左後方に座って待つ私に彼が声をかける。来週の洗礼祭を前に今日はいつもより人が多い。
「神様がいるかわからなくて。信じてないのに祈るのはどうかな…と」
「マジメですねぇ。でもちょっとマジメ過ぎるかもしれない」
 そう言って彼は私の頭をポンポン叩いた。
「私も最初は信じてませんでしたよ。ただ教会で歌うのが気持ちよくてね。何となく通ってお祈りしてたら、ある時、神様はいるかもしれない、って気づいたんですよ。適当ですかね」
「それは適当ですね」
 はははと笑い老牧師は話を続けた。
「でも気づいてからは真剣にお祈りしましたよ。人間いつかは死にますが、神に祈り、その教えを広めることは、私の人生を賭ける価値があるよう思えました」
「先生は人生を賭けてお祈りしたんですね」
 いかにも、と彼は頷いた。
「先生…もし人間に永遠の命があるとしたら、先生は祈りを続けますか」
「君はまた難しいことを聞きますねぇ」
 彼は聖書を開こうとしたが、少し考えて閉じ、机の上に置いた。
「君は信徒ではありませんからね。広く考えましょう」
「神は人間に有限の命を与えました。救いとは限りある命を全うした者に差し伸べられます。永遠の命があるなら、その者は永遠の罪を背負うこととなります」
 彼は私の隣に腰を降ろし、暫く考えた。
「永遠の罪は祈りでは救われません。祈りは苦しいものとなるでしょう。…ですので祈りをやめます」
「それは…」
「その者の救いが何なのか私にはわかりません。私は神を信じます。しかし執着は穢れを生みます。もし私が永遠の命を与えられたとしたら、祈りを手放すことが私の救いへの最初の試練となるでしょう」

 私は家に帰り老牧師の話を反芻した。部屋の窓から岬の灯台を眺める。灯台の力強い光が海面をゆっくりと撫で照らしていく。あれほどの時間を過ごした夜の海も、光の元では違って見えた。そして私は海を見つめるばかりで、星空を見上げていなかったことに気が付いた。
 私は星空を見上げた。この星々ですらも、永遠に輝いているようで、いつかは終わりを迎えるのだ。

 翌朝に私は老牧師に電話し、次の洗礼祭のバザー後の夕方に、海岸に連れて行ってほしいと頼んだ。

 洗礼祭の日が来た。迎えの人が来る前にちょっとした用事がある。
 私は悟の研究室に電話し取り次いでもらった。
「幹人さん。久しぶり。大変だったみたいだね」
「病院の件は有難うございました。それでお話があるのですが…」
「立ち上がる気にでもなったの?」
 この男の清々しさには恐れ入る。
「そう…なのだと思います。それでこの島を出ようと思うのですが―」
「うちで働きたいのね。わかりました。じゃあ来週から来てください。では」
 そう言って悟は電話を切った。

 洗礼祭とバザーが終わり、私と老牧師は車で海岸に向かった。午前に洗礼の儀式を行っていた彼の祭服からは、今年も潮の香りがした。
 私は彼に肩を貸してもらい波打ち際をしばらく歩いた。灯台の光がともる頃、夏の夕焼けが海に反射し水平線から私の足元まで黄金の道が伸びた。その道は太陽が沈むに連れて輝きを増し、私の歩調に合わせて私の前を照らし続けた。
「先生、お願いがあります。僕を海にひたしてほしいのです。手を貸して頂けませんか」
「それは…いえ、良いでしょう。君には何か事情があるのでしょう」
 私と彼は腰まで海に入り進んだ。彼は片手で私の背中を支え片手で私の目を覆った。
「準備はよいですか。『主よ。古い自分の死と新たな生を与えて下さるあなたに感謝します』」
 そして私の額を押し、私は背中から海に沈められた。

 波に全身が包まれた数秒はとても長く感じられた。私から零れ落ちてしまっていた記憶が刹那に戻り駆け巡った。私は彼女の笑顔を一瞬みた気がした。

 彼は私を海から引き上げ、私達は岸に上がり砂浜に座った。
「海はいつ来てもよいですね。思えば若い頃、私はよく岬に立って水平線に歌ってました」
 そして老牧師は歌を口ずさんだ。なぜかとても懐かしい気持ちに包まれ、涙が溢れた。
 私は自分の涙が止まるのを待った。灯台を仰ぎ見る。その力強い光は、私の迷いと決意の全てを照らし出してくれているよう感じる。
 太陽は沈みかけ、光の道は弱まり細く揺らいで伸びている。私は左手の指輪を外した。この指輪には、私が見つけた永遠が閉じ込められている。私は最後にもう一度だけ、彼女の名前を口に出した。
「葉子」
 私は光へ向かって指輪を投げた。

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