梗 概
返答腺が腫れた
友栄党党首千田川直美は街宣車を駆け下り、まばらな拍手を背に岐阜駅名鉄名古屋本線のホームに駆け込んだ。次は名古屋駅で応援演説。
2035年統一地方選で友栄党は苦戦中。LLMのせいだ。現代の選挙戦はAIを活用していかに有権者の意見を効率よく集計しリアルタイムに感じのいい回答をするかの勝負だ。つまりAIにお金をかけた政党が勝つ。特に地域ごとのチューニングに莫大なお金がかかるため、資金力のある大政党ほど地方選に強いという現象が起こっていた。
千田川直美は地方の討論会に出席するたび悔しい思いをする。国内最大政党である国和党陣営はどんな質問にも地域に合わせた巧みな答えを即座に返すからだ。
岐阜県の中学一年生の堀皇輝は悩んでいた。留紫亜になんと謝ればいいのか。二人は幼少期からの親友だった。小学校の卒業式、皇輝はほんの冗談で、名古屋の女子中学に進む留紫亜に「お前は俺たちを見捨てて行くんだもんな」と言ったら留紫亜に顔面を蹴られそれ以来没交渉。そろそろ一年経つ。皇輝の家は貧しく高価なLLMをサブスクする余裕がない。ChatGPT無料プランでは上手い言葉が見つからない。
名古屋本線が強風のため運休(本当によく止まる💢)。ホームで途方に暮れる千田川らを見かねた皇輝は犬山線から迂回する方法を教える。暇だからついていってあげることに。
電車内二人の会話。皇輝は千田川の頬に埋め込まれたデバイスについて知る。外部サーバーにあるLLMの声が骨伝導で聞こえる、政治家の必須ツールだと。高性能なLLMを使える身分を羨ましく思う皇輝。「そのAIに留紫亜への謝り方を聞いてくれ」とねだるが「それは自分で考えなさい」と千田川。そこで皇輝は取引を持ちかける。
南美濃市中学校生徒会連盟主催タウンミーティング(MTM)と南美濃市長選討論会が同日に行われる。MTMには国和党の大物議員が来る。MTMは非公開。皇輝はMTMに潜入。討論会での友栄党候補に対する質問を、MTMで国和党議員に答えさせるというスキームで、討論会において友栄党候補が優位に。なお横槍が入らぬよう「控え室です」と言って国和党スタッフらを理科準備室(電波暗室)に閉じ込めておいた。事態を察した国和党議員は「その質問は〇〇問題における友栄党の責任を挙げよという意味ですね」などと質問を捻じ曲げるプロンプトハックで対抗。
一方、一年生から生徒会役員に入っていた留紫亜はMTMを邪魔され怒り心頭。国和党スタッフを解放すべく理科準備室へ。ばったり皇輝と会い口論に。だが準備室に入った途端LLMが繋がらなくなり、うまく言い返せなくなる。「お前の本当の言葉を聞かせろ」と怒る皇輝をつい殴り飛ばしてしまう。戻ってきた国和党議員が止めに入ると、邪魔するなとその頬に肘打ち。議員の骨伝導デバイス破損。
「ずっと友達に決まってるでしょ」。留紫亜は皇輝を踏みつけて出ていった。
文字数:1196
内容に関するアピール
僕にとってのSFといえば『電脳コイル』や『涼宮ハルヒの憂鬱』です。
最近読んだ『アリアドネの声』と『サーキット・スイッチャー』が面白かったので、この作品では社会派路線から攻めてみました。
AIは雑多な文章から意味を抽出することが得意なので、今後政治家の聞く力がもっと伸びるかもしれません。そこまではいいことだと思います。ところが、そのAIを作るのに膨大なお金がかかるとすれば、資金力のある政党がひたすら勢力を伸ばし続ける気がします。その舞台装置として地域ごとの最適化にはお金がかかるという設定を導入しました。
さらに、高額なLLMを使える子ほど当意即妙なトークで人気者になれるという学校世界を交わらせます。
そんな世界で、AI難民たちの抵抗を描きます。
文字数:322
健康で文化的な最低限度のLLM
ずっと友達だと思っていたから、乾 明香里が名古屋のお嬢様中学に行くと聞いた時もそういうものかと思ったし、「あいつは俺たちを捨てて行くんだもんな」と言ったのは冗談で、俺たちの三歩前を歩いていた明香里が突然振り返り、次の瞬間俺の頬に明香里の靴がめり込んで、全身を校門坂のコンクリートに叩きつけられても、彼女の短気はいつものことだからそのうち収まるだろうと思っていたのだけれど、一日待てど二日待てど詫びLINEに返信が来ず、頬に残ったNの跡が消える頃になって、どうやらこれは本気で怒らせたようだと気づき、もう少しマシな謝罪文を作らねばとChatGPTをいじくり回し始め、もう一年が経った。
ChatGPTが悪い。ChatGPTのフリープランが悪い。かといって我が家の台所事情を鑑みるに月2万円のChatGPT有料プランをねだるわけにもいかないし、つまり貧乏が悪い。
通算13回目の陳謝LINEはこれまでとほとんど同じ文面だった。ChatGPTがこれでいいと言うのだからいいのだろうけれど決心がつかず、送ろうか送ろまいか、送信ボタンの上空で親指をウロウロさせている間に辿り着いた木曽川河川敷のベンチ。周囲には黄色と白の花がたくさん咲いていた。
昔、明香里の両親に連れられて遊園地に行ったことを思い出す。愛知と三重の県境にある、ちょっと名の知れた遊園地だ。明香里はバイキングが好きだった。バイキングとは、巨大な船が大きくスイングされる様を楽しむアトラクションである。ひとしきり振り回された帰り道、隣接する植物園に立ち寄った。このどこにでもある花にヒナギクという名前がついていると知ったのはそのときだった。
不思議なことに川向こうの土手には全く咲いていない。きっと川を挟んで愛知側と岐阜側の微妙な温度の違いとか風当たりの違いとかが影響するのだろう。俺は元気の良さそうな花をひとつ選び、茎から摘んだ。12時の花びらを毟り取る。「送る」。右回りに次の一枚を摘んで「送らない」。ところが、突然視界に現れた別の手によって花が奪い取られた。顔を上げると鯉牧トモエとその一味が立っていた。
鯉牧トモエが俺の耳からイヤホンを引き抜いた。
「私と木原の運命を占いましょう」
そして俺の前でトランプのカードの束のようなものを広げた。
「一枚選んで」
「やだ」
俺はそう言ってイヤホンを詰め直そうとしたが、その手を掴まれた。乱暴しないでくれ。このイヤホンは俺にとって高いのだ。鯉牧はもう一度低い声で言った。
「選んで」
鯉牧の後ろに控えていた三人の女子が口々に言った。
「皇輝くん、選ぶだけだから」
「選んだらすぐ終わるよ」
「トモエが可哀想じゃん」
仕方ないので風の音に負けないように大きな溜息を吐き、広げられた束から一枚のカードを引き抜いた。鯉牧がそれを取り、無駄にもったいつけて裏返した。俺が引いたカードにはThe Towerと書いてあった。タロットカードだったのか。
「塔は16番ね」
鯉牧はヒナギクの花びらを右回りに一枚ずつ数え、16番目にマジックで印をつけた。
「最後に残ったのがこれなら私と付き合って」
何でだよ。占いと言いながら決定論と自由意志論の混同が見受けられる。
鯉牧は「ど・れ・に・し・よ・う・か・し・ら」と唱えて一枚の花びらを摘んだ。
鯉牧トモエは、中学一年生で同じクラスになって以来、付き纏ってくる女子である。この女、ご実家がなかなかに裕福らしい。母君はあのカニWi-Fiの会社の重役だと言う。カニWi-Fiは公衆Wi-Fiサービスだ。街で青いカニのロゴを見ない日はないカニWi-Fi。Wi-Fiルーターからアンテナが六個生えている様がカニっぽいからという安直さのカニWi-Fi。
納得し難いことにこの女、グループLINEでさらっと気の利いたコメントをするので、教室では人気者なのだ。どうせChatGPTだ。ChatGPTの高いプランだ。金で好感度を買って楽しいか。騙される方も同罪である。俺は鯉牧トモエの舎弟三人衆を眺めた。君の心がわかると容易く誓える女に。
「ど・れ・に・し・よ・う・か・し・ら」
鯉牧が唱えるたびに花びらが減っていく。不自然なほど彼女の指が印の上を通り過ぎていく。これはイカサマである。俺はその花を奪い取り、くしゃくしゃにして捨てた。
「花びらの枚数は大体フィボナッチ数になるから多分34、『どれにしようかしら』は9文字だから、継子立ての公式で16。16のカードはダブルリフトか?」
ダブルリフトとは相手の引いたカードをすり替えるトリックだ。手品でよく使われる。つまり彼女はどの花びらが最後に残るか分かった上で、俺がそれを選んだかのように演出したのだ。
鯉牧は目の前で風船が破裂したようなまぬけ面をしていた。その耳に指を突っ込む。外からは見えにくいが、触れば確かな硬い感触がある。指の腹で擦るようにひっぱり出した。現れたのは肌色の小さな機械だった。ChatGPTにつながる音声デバイスである。
「最近のChatGPTは数学的推論も得意なのか」
こんなもので歓心を買おうというのが浅ましい。俺はふと明香里のことを思い浮かべた。今頃彼女も機械を入れた”感じのいい”友達に囲まれているのだろうか。
鯉牧は全く悪びれる様子もなく言った。
「私と付き合えば、学校で一番美人で人気者でお金持ちの女の子の彼氏になれるよ」
「お前、素の性格酷いな。底抜けに」
俺はデバイスを返してその場を去ろうとした。
「待って。本当の用事があるのです」
彼女はそう言ってカバンから一枚の紙を取り出した。その紙には『東海地区生徒会連盟主催タウンミーティング』と書いてあった。
「中学生が街の不満について国会議員の意見を聞こうという、そういう企画になります」
急にかしこまった口調で言った。この女がやるとギャグにしか聞こえない。
「賢い私は司会者に選ばれました。見に来てくださいませませ」
俺はその紙を丸めて彼女の顔に投げつけた。今度こそ本当に帰る。風が強くなってきた。今日は家の店番が忙しくなりそうだ。
†
2034年4月の統一地方選で友栄党は苦戦していた。LLMのせいだ。現代の選挙戦は、いかにLLMで”感じのいい”受け答えを生成するかの勝負になっていた。LLMの性能は、集めたデータ、投入した計算資源、前処理にかけた手間で決まるので、各党は自前のデータセンターを構築し、膨大な電力代をかけて一票を争っていた。新たな金権政治である。資金力に劣る友栄党にとって不利な戦いだ。
金曜日。党首千代川直美は岐阜市長選の応援演説に向かう。14時すぎに参議院消費者問題委員会を終え、参議院分館から地下通路を通って議員会館に戻る。50mも直線が続くこの通路は、向こう側から来た人に挨拶するタイミングが掴み辛いから苦手だ。動く歩道の上で千代川の足は早まる。議員会館で荷物をまとめ地下駐車場へ。後部座席に乗り込み、絆創膏状の無接点充電機を頬に貼り付ける。千代川の頬にはLLMと通話できる骨伝導デバイスが埋め込まれていた。通信先は岐阜に建てたデータセンターだ。最近岐阜では、友栄党のデータセンターが電力と水資源を消費しすぎていると問題になり始めていた。もしここで市長選に敗れ、夏に取水制限をかけられたら、参院選は必敗である。絶対に負けてはいけない選挙だった。
千代川はノートPCを取り出し、LLMのファインチューニングに取り掛かる。Twitter社から購入したつぶやきがデータセンターに溜まっている。発信元が岐阜であるつぶやきの中から、AIで話題と感情を量子化し、住環境や公共サービスに関する意見を絞り込み、追加学習を回す。データセンターが岐阜を温めている間に品川へ到着。絆創膏を剥がしてリニアモーターカーに乗り換えた。
演説は機械のお告げ。選挙カーの上から聴衆を撮影し、SNSに上がった膨大な顔写真と照らし合わせてアカウントを特定する。普段の書き込みから関心分野を抽出するのはLLMの得意分野だ。それをもとに生成された原稿には、人々が聞きたい話題が散りばめられている。弁士は骨伝導デバイスに流れる言葉をそのまま喋るだけだ。
有権者がこれを知れば不信感を抱くだろう。「そんなことでいいのか」、「機械の言いなりか」、「じゃあお前の存在意義はなんだ」。だが、千代川にはどうでも良かった。勝つことが全てだ。
演説中であっても随時話題を変更できる。聞き手の表情から感情を測定し、反応が悪いと思えばすぐに方向を変える。
最後に一礼し、拍手の大きさを推し量る。しかし、大事なのはここから。選挙カーを降り、道ゆく人にひたすら挨拶を求める。まずは相手の住んでいる町を聞き出すことだ。それをマイクで拾い、データセンターのLLMに転送するとローカルネタを盛り込んだ会話が生成される。地元有名人の出身小学校、毎日渋滞する交差点、国道沿いラーメン屋番付。インターネットにある情報から雑談を生成する。千代川は半導体が作った言葉を人間に向かって喋り続ける。
友栄党のLLMには致命的な欠陥があった。一人の老人がやってきた。
「このみゃじべたに猫おったでかまったらたらばりかかれて病院行ったらえらいほかられてだだくさおもったわ」
「……はい?」
友栄党のLLMは方言に弱いのだ。
友栄党は都市部で善戦できるものの地方に弱い。一方、最大政党である国和の会は更にLLMにお金をかけていた。各地のお祭りを周り、運動会を周り、映像を収集し、公民館に眠る史料をスキャンし、膨大な計算資源を注ぎ込んで各地域へ最適化していたので、日本中どこへ行っても性能が安定していた。
焦りを覚えつつも、名古屋駅の応援演説の時間だ。移動は電車と決めていた。疲れるが快速なら20分。今は時間が惜しい。岐阜駅で名鉄名古屋本線に乗り込む。風が強くなってきた。
なんとか支柱を握れる混雑率だった。秘書にさりげなく壁になってもらいつつも、目が合った人に会釈でアピールする。
Twitterに『千代川直美いたけどいい人だった』などと書いてもらうことを期待している。
車内放送がかかった。
『現在強風のため相生橋で運転を見合わせております。この電車は南美濃駅で折り返し運転となります』
車内に溜息が満ちる。秘書がすぐに経路を再検索した。
「先生、南美濃駅で降りて、タクシーで橋を渡ると、川の向こうでもう一回快速に乗れます」
千代川は頷いた。
だが、南美濃駅に降りた千代川は絶望した。百人を超えるタクシー乗り場の列とそれより長いバス乗り場の列。考えることは皆同じだ。そして何よりこの大渋滞である。駅の前を横切る大通りは巨大な橋になって対岸に渡る。その車道は車で埋め尽くされ一向に動く気配がない。これは無理ではないか。
†
鯉牧トモエを振り切り、駅前の商店街に帰ってきた。電車に乗るのではない。俺はこの商店街に住んでいるのだ。これから店番が忙しくなりそうなのは相生橋の渋滞を見ればわかる。この時期は木曽川の風が強くなりやすく、風に弱い相生橋は度々運休になる。南美濃駅で全員降りる。商店街が賑わう。
相生橋を補修しようという話が上がるたび、商店街のみんながこっそり足を引っ張って頓挫させてきた。
ロータリーの前で崩れ落ちそうになっている3人組を見つけた。俺は話しかけることにした。
「あんたら、橋渡れなくて困ってるんか?」
三人は、まるで廃トンネルで出くわした白服女のようにギシギシと首を軋ませて振り向いた。
「ええ。あなた、高校生?」
「中学生」
俺はその人に見覚えがあった。ついさっきも見た気がする。なんだったろうか。ピロティの柱に貼られたポスターが目に入った。鯉牧が持っていたポスターだった。『東海地区生徒会連盟主催タウンミーティング』。ポスターには顔写真が二つ並んでいた。国和の会鷲尾慎太郎、友栄党千代川直美。俺は右側を指差して聞いた。
「あんた、政治家か?」
「そう」
「急いでいるんか。近くに仕事の早い中古自転車屋がある。連れてってやるよ」
その政治家は左右の従者らしき人に目配せすると、赤べこのように風を切って頷いた。
「こい」
早足で歩いても三人は涼しい顔でついてくるので、遠慮せずスピードを上げる。
「あなた、名前は?」
「皇輝。木原皇輝」
「皇輝君はこの辺の子?」
「そう」
「じゃあ、金池中学かしら」
「そうだよ」
「この辺で一番人気なラーメン屋さんはやっぱりくま八?」
「行ったことないな。一番好きなのは谷爺の塩バターラーメンだ。暇な時に行ってやってくれ」
「たい焼き屋さんの隣ね」
「詳しいな。そう、そのたい焼きのオキタ、最近売り上げ減って困ってるらしい。政治家の力でなんとかしてやってくれよ」
「それはできないけど」
政治家の女は流れるように喋り出し始めた。
「たい焼きの注文口とソフトクリームの注文口を入れ替えたらいいんじゃないかしら。オキタは商店街の南北通りと東西通りの交差点にあって、たい焼きの注文口が南北通りに、ソフトクリームとジュースの注文口が東西通りに面していて……」
線路を渡る地下通路に入ったところで、突然何も喋らなくなった。不安になって振り向くと口をぱくぱくさせながら目を泳がせている。
「ひょっとしてあんた、電波がないと喋られないのか?」
だんまりだった。閃いた。俺はスマートフォンを取り出し、テザリング機能をONにする。SSIDとパスワードはカニWi-Fiで一般的に使われているものにした。彼女が何かの機械を使っているなら掴みにくるはず。想像通り、謎の電子機器が接続された。
地下通路を抜け、お日様と再開したところで彼女はまた喋り出した。
「歩道橋ができて男子高校生が北から帰ってくるようになったから、たい焼きをそちらに向けて……」
Wiresharkで見てみると、不思議なことにOpenAI社のIPアドレスとは通信していない。代わりに、山奥の謎のデータセンターに繋がっている。試しにそのIPアドレスへの接続をブロックしてみる。
「……」
また何も喋らなくなった。ちらりと横目で覗いてみると、彼女の首筋に汗が伝っている。ブロックを解除する。
「今の夏、東口にちびっこ運動場ができるから、そっち向きにジュースとソフトクリームをディスプレイした方が訴求力が高いんじゃないかしら」
もう一度ブロックしてみる。無言。
「あんたら、ひょっとしてChatGPTじゃなくて独自でLLM作ってるのか」
その女は気まずそうに頷いた。
「耳に何も入れてないっぽいけど、もしかしてインプラント? 実用化されてたんだな」
女はため息をついて言った。
「がっかりした?」
「全然。ローカルネタに詳しくて驚いた。なあ、それちょっと使わせてもらえないか?」
「何に使うの?」
今俺の身に起きていることをどう説明しようか。あんまり情けなくならないように脳をひっくり返して修飾語を探したのに、出てきたのは小学生みたいな文だった。
「ちょっと、親友と喧嘩しちゃって」
女は少し考えて言った。
「それは自分で考えた方がいいと思う。私がいうことじゃないけど」
「そうかい」
会話が途切れたところで見えてきたのが『木原自転車』と書かれた看板である。俺の家は自転車屋だった。便利な乗り物がたくさんあるご時世だが、結局頼りになるのが自転車である。人は困った時、最後に自転車に縋る。
彼女とその従者ら三人は駆け足で店に入って行き、即座に三つの自転車を選んだ。
「電動じゃなくていいのか?」
「なめんじゃないわよガキ」
「すまん、ブロックしたままだった」
電波がないと口が悪くなるヤツには覚えがある。俺はカウンターに入り、手早く会計を済ませる。防犯登録と自転車保険は五年前から完全にオンライン化されており、購入者が各自で行うことになっているので、客が店に入ってから出て行くまで3分もかからない。
「この時間帯、風は西から吹くからな。絶対西側の歩道を走れよ」
「ありがとう。分かったわ」
「向こうの駅の前に小島自転車っていう中古自転車買取屋があるからそこに持っていくといい」
「そういうビジネスモデルなのね」
「LLMができる前から人間は賢いんだよ」
三人はものすごいスピードで去って行った。
ふとテレビを見る。政治家の街頭演説が映っていた。国和の会が推薦する市長候補の高橋なる人物が声を張り上げていた。
『相生橋の防風工事を、今こそ実現しようではありませんか』
政治のことなんて俺にはわからない。それでも、これが大変なことであると悟った。相生橋で電車が止まらなくなったらこの店は潰れる。この人が当選してはいけない。さっきの女はこの人の味方なのか敵なのか。俺は女の名前も連絡先も知らないことに気が付いた。そうだ、ポスターだ。俺は店を飛び出した。なぜか待っていたかのように鯉牧トモエが立っていた。
「何しにきた」
「さて、なんでしょう」
「ちょうどいい、さっきのポスター貸せ」
すると鯉牧はくるっと背を向けて空に向かって言った。
「どうしよっかなー」
めんどくさい。俺は鯉牧をその場に置いて駅に戻った。
ピロティのポスターによると、さっきの政治家は千代川直美であり、友栄党という党に属しており、それは国和の会とは対立する存在らしい。防風工事の件を相談しようと連絡先を探す。お問い合わせはこちらと記されていたのはタウンミーティング実行委員の電話番号のみ。コール音を聞きながら、俺は話す内容を頭で整理した。ところが、相手の声が聞こえた瞬間、俺は自分を失った。
『お電話ありがとうございます、タウンミーティング実行委員の乾です』
乾が何人いくらいようと声は聞き間違えない。電話に出たのはずっと話したかったけれど今は話したくない人、乾 明香里だった。俺はスマートフォンを放り投げそうになったが思いとどまり、勤めて冷静に応じた。
「あ、あの、その、千代川直美様の連絡先を伺いたく」
『どちら様ですか?』
「え。ああ、それは……間違えました」
俺は終話ボタンを五連打した。
「木原」
後ろから声をかけられ、ずっと呆けていたことに気づいた。鯉牧トモエだった。
「私、千代川直美の連絡先知ってる。態度次第では教えてあげてもいいけど」
「いらん」
俺は鯉牧を置いて立ち去った。名前と所属はわかったのだ。あとはインターネットで調べれば連絡先くらい出てくる。
「ネットで出てきた番号にかけて、まともに取り合ってくれるかしらね」
無視した。地下通路に入ったところで、鯉牧が言った。
「私のお婿さんになれば、家を継がなくてもお金の心配はないわよ」
俺は振り向いた。鯉牧が顔を両手で覆っていた。なんだその動きはと思い、俺は俺が拳を握り固めていることに気づいた。相手をしても仕方がない。身を翻して家路を急ぐ。
「あの、待って」
待たなかった。すると、鯉牧の指が俺の裾を摘んだ。
「待って。ごめん。私のChatGPT、ゴールドプランなの」
だからなんだ。
「プラチナプランは高校生になるまでやめておきなさいってパパに言われて。こんな会話になるなんてChatGPTが予想してなかったから」
酷い言い訳の後、彼女は一拍置いて続けた。
「高校生になったらもう少し優しくなるから」
しばらく意味がわからなかった。三秒考えてようやく、精神的成長によって優しくなるのではなく、高校生になったらChatGPTのプランをパパが上げてくれるから優しくなりますと言いたいのだと気づいた。逆に聞きたいのだがお前はそれでいいと思ったのか?
鯉牧が俺の掌に何かを捩じ込んだ。ちくりという感触。
「秘書さんの名刺。使って」
それで許されようと思うなよ。俺のこめかみからうっすら黒煙が上がったように思う。
†
千代川直美は中学生を応接室に通した。皇輝から秘書に電話がかかってきたのは夕方のことである。今日は夜中まで用事があるので明日でいいかというと、それならばと夜中に押しかけてきたのだ。本来こんな時間に中学生を部屋にあげるなど言語道断であり、来るならもう少し中学生に見えない格好で来て欲しかった。終電が無くなる時刻だがと聞くと自転車で来たから大丈夫だと。田舎の中学生が自転車に抱いている全能感はなんなんだろうかと千代川には不思議だった。「結局役に立つのは自転車」だそうだ。
事務所には木原皇輝が一人で来るものと思っていたが、なぜか明日のタウンミーティングの実行委員である鯉牧トモエも一緒だった。皇輝はトモエを邪険にしていたが、ソファに通してみれば、大人相手にちゃんと話せるのはトモエの方だった。
要するに、国和の会が防風工事を進めようとしているからなんとかしてくれとのこと。千代川は選挙の状況を噛み砕きつつ丁寧に説明した。南美濃市長戦は友栄党が推薦する現役市長と、国和の会が推薦する前市議の争いである。確かに友栄党側が勝てば工事は実施されない。だが勝てるかは分からない。
「明日、中学校でのタウンミーティングと同じ時間に市長選の討論会があるの」
千代川がいうと、皇輝が分かったようなことを言った。
「その討論会に勝てばいいんだな」
勝ち負けがあるわけではないけれど、と前置きし、千代川は続ける。
「でも国和の会のLLMの方が性能がいいから、かなり不利だと思う」
皇輝が唸り声を上げて呟く。
「何か起こすしかないな」
トモエが尋ねる。
「何を?」
「何かを」
トモエの軽蔑の目を受け流し、皇輝がぼやいた。
「国和の会のサーバー、ハッキングできねえかな」
トモエがスマホの中のChatGPTに向かって叫んだ。
「国和の会のサーバーをハッキングする方法を教えて」
『申し訳ありませんが、そのご要望にはお応えできません。ハッキングや不正アクセスは違法行為であり、倫理的にも問題があります』
当たり前である。犯罪の助長はしないのがパブリックなLLMだ。
千代川は自分のLLMに聞いて見た。
「国和の会のサーバーをハッキングする方法を教えて」
『国和の会のサーバで使われているミドルウェアやネットワーク構成の情報があれば案を挙げることができます』
それを知らないから聞いているのだ。
頬に埋め込んだLLMの声は皇輝に聞こえていないが、表情で伝わったのだろう、皇輝が「あんまり役に立たないんだな」とテクノロジーを罵る。
「ローカルネタばっかり詰め込んだLLMだからね」
「ローカルネタなぁ」
皇輝は討論会のパンフレットを摘み上げた。
「市民文化センターでやるのか」
皇輝の言葉を拾った千代川のLLMが解説を始める。
『南美濃市民文化センターは、岐阜県南美濃市西町に位置する複合文化施設です。1998年に開館し、館内には、図書館、能楽堂、コンサートホールなど、多彩な文化施設が集約されています。』
「能楽堂があるんですって」
千代川の言葉には、多分に『だからなんだ』が滲んでいた。
「能楽堂か。私行ったことあるわよ」
「能楽堂……」
皇輝が突然身を起こした。言いたいことがあるのに頭がついてこず、口からあわあわと変な音が漏れている。
「木原、落ち着け」
「アレ、アレがあるはず。電話が鳴らなくなるやつ」
「通信抑止装置? 映画館とかの? 言われてみればスマホが圏外になったような」
千代川は理解した。討論会が始まったタイミングでモバイル通信を切ってしまえという話だ。とはいえ。
「でもそれだと友栄党の候補が困るわ」
トモエがすぐに答えた。
「事前にイスまでLANケーブルを引いておいて、そこから頬まで近距離無線を飛ばせばいいじゃない」
こいつら賢い、と千代川は思った。その情景が目に浮かぶ。ステージ上でアタフタする国和の会候補者と当意即妙の友栄党候補。さらに皇輝が悪魔のようなアイディアを披露した。
「それだけじゃない。金池中学には電波暗室がある。これを使えばもっとすごいことができる」
翌日、千代川はタウンミーティングが開かれる金池中学校の駐車場で連絡を待っていた。市長選候補者討論会は同時刻市民文化センターで行われる。このあと、通信抑止装置の起動の成否が伝わるはずである。ちなみに、通信抑止装置の使用は総務省に届け出が必要である。この度はちょっとした沙汰になるだろう。「ステージが暗かったので照明をあげようとしたら秘書がボタンを押し間違えた」で乗り切るつもりではある。
恐ろしい子供達だと千代川は感じた。どこからそんな発想が出てくるのかと、彼らの思考をトレースしてみると、多分シンプルな話だ。そのロケーションの特性を考えたから思いついたのだろう。このLLM課金額で勝敗が決まる世界で、彼らも貧者の戦いに挑んでいたのだ。
スマートフォンに成功のメッセージ。駐車場に国和の会鷲尾慎太郎の車が入ってきた。千代川は今来たかのように車を降りる。出迎えたトモエに連れられ鷲尾らと共に校舎に入る。本来は応接室が控室になるが、トモエは全員を3階に連れて行き、銀の扉を開くとその中へ入るよう手で示した。二人の政治家と四人のスタッフ、そしてトモエが中に入ると、扉がひとりでにしまった。鍵がかかる音。鷲尾のスタッフが慌ててノブを掴んでドアを揺するが動かない。
「これはなんだ?」
鷲尾が鋭い目をトモエに向けた。鷲尾のスタッフがスマートフォンを取り出して眉間に皺を寄せる。電波が通じないことに気づいたようだ。千代川の秘書も同じように困惑の表情を浮かべる。これは演技だが。トモエが悪びれもなく言った。
「お二人の本当の言葉を聞きたいと思いまして」
トモエは部屋の一辺に設置された長机とその後ろのパイプ椅子を指差した。
「さあ」
そして、部屋の中央に立つもう一人の登場人物、大型カメラの後ろに回った。鷲尾はトモエの主張を理解した。「政治家なら電波暗室でもタウンミーティングができるでしょう」。鷲尾が顔を真っ赤にした。
「こんなことが許されると思うな。早くここを開けろ」
「残念ながら、私は鍵を持っておりません。私を怖がらせても扉は開きません」
千代川の秘書がドアを殴り、大声でここを出せと叫ぶ。演技だが。そのとき、鷲尾のスタッフの中で年少の者が、怒りに震える鷲尾に耳打ちした。そのスタッフは何かに気付いたのだ。すると鷲尾は突然態度を変えた。挑発するように千代川へ笑みを向けた。
「やろうじゃないか。タウンミーティング」
鷲尾はパイプ椅子の一方に座り、もう一方に座るよう手で千代川を促した。腕を組みカメラを睨みつける。カメラの赤いランプが点り、配信開始を告げた。
モバイル通信を止められているはずなのに鷲尾は快調だった。トモエからのあらゆる質問、県内の就職状況、ダムの建設問題、第三名神高速道路完成で渋滞がどうなるのかという真面目な質問にはデータを元に堅実な答えを、恋愛相談や弟に腹が立つという中学生らしい悩みにはウィットに富んだアドバイスを返す。
一時間の問答が終わった。鷲尾は「もういいかな?」と紳士然と微笑んで立ち上がった。
「楽しませてもらったよ。そろそろここを出してくれるよね」
秘書が素早くカメラに近寄り、ボタンを押すと、赤いランプが消えた。鷲尾たちに手を出されるのではないかと鯉牧は身構えた。しかし、鷲尾の標的は千代川だった。
「もう諦めたまえ、千代川君。君はなんのために政治家をしているのかね?」
千代川が何も答えないのをみて一方的に語り始めた。
「今、政策は全て中央のコンピューターによって計算されている。コンピューターは人間に比べはるかに質の高い答えを出す。政治家の役割は機械が決めた政策を国民に納得させることだ。もはやこの世界に政治家はいらない。必要なのはモーセでなくアロン。そしてそれは国和の会のLLMが一つで十分なのだ。それなのに、わざわざ無駄な政党を作り、無駄に対抗馬を立てるのはなぜなのか。君がLLMを作ったために電気が二倍消費された。Twitterのライセンスを購入したせいで外貨が二倍流出した。そこに正義はあるのか?」
そして千代川を振り返りもう一度言った。
「君は何のために政治家をしているのかね?」
千代川が答える。
「勝ちたいからよ」
バカじゃないのかという口調だった。鷲尾は勘違いをしていた。人は騙したときこそ騙されるというのは有名なマジシャンの言葉だ。鷲尾はこれを中学生のいたずらだと思い込んでいた。大人を舐めている中学生が、電波暗室に政治家を閉じ込め、質問を浴びせ、しどろもどろな様子を撮影してやろう、と。しかもその中学生は致命的なミスを犯していた。室内にWi-Fiがあったのだ。この部屋にはカニWi-Fiが設置されており、たまたま秘書の一人がアカウントを持っていたため、そのスマートフォンを経由してLLMに接続できてしまったので、鷲尾は質問に答えることができた。中学生から一本とってやったと考えた。だが、それこそが罠だったのだ。カニWi-Fiを設置したのも、千代川がWi-Fiの存在に気づかず困っているように見せたのも、鷲尾を乗せるために意図したことだった。友栄党の本当の目的は、同時刻に市民文化会館で開かれている市長選討論会に勝つことだったのだ。
市民文化会館では、通信抑止装置のおかげで国和の会側候補者がLLMを使えなくなっているのに対し、友栄党側は持ち込んだLANケーブルで通信できている。だが、LLMの性能は友栄党より国和の会の方が高い。そこで、討論会で投げられた質問をこの理科準備室に転送し、鷲尾に回答させ、それを討論会会場で話すことで、国和の会のLLMを利用していた。
Wi-Fiが繋がっていたら、外部からのメールなどで事態に気づいてしまうのではないか、ということは考えた。そこでWi-Fiルーターの設定を変更し、LLM以外との通信は遮断しておいた。きっと鷲尾がこの部屋を出たときに、彼のスマートフォンが大量の緊急通知を発することだろう。
激しい音を立てて銀の扉が外側から開き、中学生が二人入ってきた。
†
控室が理科準備室というのはどう考えてもおかしいのだけれど、来賓を3階に連れて行くという怪しさ満点の任を堂々と完遂した鯉牧の厚顔無恥さは一種の才能ではないかと思った。俺は銀の扉を素早く閉め、鍵をかける。
本来、本日のタウンミーティングは体育館で行われることになっており、今そこでは鯉牧を除く実行委員が準備を整え、出演者二人の登場を待っているはずである。ヤキモキしているだろう。残念ながら彼らは電波暗室にいる。
俺は机と椅子を廊下に積み上げバリケードとした。まるで密閉教室だ。
静かさと後ろめたさが俺の聴覚を鋭敏にさせたので、遠くの足音が聞き取られた。安普請の校舎に上履きの音は響かない。画用紙に垂らした色水のように隙間隙間から苛立ち混じりの足音が滲み出てくる。それは徐々に慌ただしさを増していった。渡り廊下の窓越しに黒い稲妻が横切り、バリケードの向こうに人影が踊りでた。壁に乗り上げんばかりの強引なコーナリングでこちらに向きを変え、そのまま突っ込んでくる。俺は机の隙間を覗き込む。消えた。頭上でスチールパイプが軋む音。セーラー服を着た女が積み上げた机の頂上を蹴り、俺の頭上へ舞い上がった。
「明香里」
机が雪崩れかかってきた。俺は両手で顔を庇う。その手首が小さな手のひらに包まれた。まずい。俺は咄嗟に両足を踏ん張った。しかし、俺の右腕が彼女の肩に回されると、腰から下が浮き上がり、バイキングのように天地が流れ、衝撃と共に肺から息が抜けた。
「鍵を出しなさい」
「嫌だ」
「出しなさい」
肘を極められては抵抗の余地がない。ズボンの右ポケットに入っていた物が探り当てられた。明香里が理科準備室のドアノブに飛びつく。させるまいとくるぶしに縋りついた。だが彼女は流れる動作で解錠し、ドアに体当たり。俺は準備室に引き摺り込まれた。
部屋中の視線がこちらに注がれた。明香里は足を振って俺の手を払い、踵を揃えて鷲尾に頭を下げた。
「大変失礼いたしました。会場にご案内いたします」
鷲尾は俺に同情するような視線をよこし、少し苦笑いを浮かべると、何も言わずに俺を跨いでいった。千代川もスタッフたちも出ていく。明香里と鯉牧が無言の圧をせめぎ合わせ始めたが、鯉牧の方から視線を外し、俺の上を歩いていった。
なんでかわからないけど、俺は今しかないと思った。咄嗟に立ち上がり、背中を押しつけて出入り口を封鎖する。部屋には俺と明香里が残された。
「久しぶりだな」
明香里は俺を睨んで口をへの字に曲げた。何度も謝ったじゃないか。なんか言えよ。明香里がスカートのポケットからスマートフォンを取り出す。しかし画面を見て眉根を寄せた。ここが電波暗室であることに気づいたのだろう。俺は明香里に歩み寄る。明香里が後ずさる。その両肩を掴み強く揺すった。
「お前の気持ちを言え。まだ怒ってるのか、許してくれるのか。ChatGPTの話は聞いてない」
目を覚ませ明香里。明香里は鬱陶しそうに手を払いのけた。
「あんただってChatGPTでしょ?」
まあ、それはそうだ。今までの謝罪文は全てAI製である。突然、二人の距離がゼロになった。鳩尾に拳がめり込む。両足の力が抜けた。支えを求めて俺の手が宙を掻いたが、明香里は身を捩って交わす。膝に、胸に、頬に床の冷たさが伝わってきた。
「ちゃんと謝りなさい」
「ご、ごめんなさい」
不本意にも五体投地の俺。明香里はふんと鼻を鳴らし、俺の横をすり抜け、乱暴に扉を開けた。
「べー」
振り返る力がなかったので、幸いにも煽り顔を見ずに済んだ。
†
「ねえChatGPT。木原に聞こうと思うの、あの明香里って女とどういう関係なのか。私を励まして」
鯉牧トモエの極小イヤホンの小さな震えが外耳道を通って彼女の心臓に伝わった。無神経な彼女にも、昨日駅の地下通路でいらないことを言って木原皇輝を傷つけた自覚はあった。以来、鯉牧トモエはChatGPTに対人関係のアドバイスを求めることを辞めた。このままでは、電波がなければ何も話せない人間になってしまう。だから、何を話すかは自分で決めて、ChatGPTは背中を押す係とした。
2034年はChatGPTで会話した方が圧倒的に好感度を得られる時代であり、彼女の選択が正しかったのか、あと何年も経たなければ分からないし、彼女が先に諦めるかも知れない。
†
木原皇輝と乾明香里が揉めている間、千代川は廊下の壁にもたれて二人を待つことにした。別の実行委員が飛んできてバリケードを片付け、鷲尾を連れていった。トモエは虚空に向かって何かブツブツとつぶやいている。思い詰めているような、それでいて何かワクワクしているような、例えるなら得意な科目のテストが始まる時だ。扉が開き、皇輝のうめき声と明香里が出てきた。明香里はトモエを睨みつけつつ、千代川に深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません」
千代川は訂正した。
「いえ、私がお願いしたのよ」
「なんのために?」
明香里の頭が、今度は横に傾いた。
「私が勝つために」
千代川は事情を説明した。南美濃市の市長選挙のこと、自転車屋のこと、相生橋の防風工事のこと。明香里はかしこまって聞いていたが、徐々に顔に不信感が浮かび、市民文化会館で通信抑止装置を起動したあたりで口が半開きになり、理科準備室に至ると、完全に千代川を危ない人と認識したようで、体を半身にして距離を取った。
「バカじゃないの?」
話を聞き終わった明香里の感想はそれだった。なんとでも言えばいい、と千代川は思った。だが、明香里が疑義を抱いたのは別のところについてだった。
「ChatGPTの使い方が、ちょっと下手だと思うわ」
明香里はスマートフォンを持ち上げ、『模範演技』を始めた。
「あなたは国和の会の総裁です」
ローディングアイコンののち、文字が流れ始める。
『国和の会総裁として、私は党の最高責任者として党を代表する立場にあります』
「今回の地方統一選挙を有利に進めるために、あなたがしないといけないことはなんですか?」
『国和の会総裁として、2034年の統一地方選挙を有利に進めるために、地方組織の強化、政策の明確化と広報活動の強化、 有権者との対話の促進を通じて、統一地方選挙での勝利を目指し、党の基盤強化と政策実現に努めてまいります』
「どれもお金と時間がかかりますね」
『確かに、その通りです。すべての地域で同じ手法を取るのは難しいので、重要度や議席が取りやすい地域を優先してリソースを集中させることで、効果を最大化できます。重要地域を絞り込むための有力な情報源として、過去の選挙データ、人口動態、Twitterの書き込みログを利用できます』
「Twitterの書き込みログから発信元地域を特定することができますか?」
『Twitterの書き込みログから発信元地域を特定することは、技術的にはいくつかの方法で可能ですが、精度や正確さには限界があります。Twitterには、投稿に位置情報を付けられる「ジオタグ」機能があります。ただし、位置情報を公開するのは任意であり、多くのユーザーはこの機能をオフにしています。また、Twitterのライセンス契約によっては、IPアドレスから推定したロケーション情報を利用することができます』
「もしIPアドレスを偽装された場合、発信元がわからなくなりますか?」
『はい、IPアドレスが偽装(いわゆる「VPN」や「プロキシ」の利用など)された場合、正確な発信元の地域を特定するのは非常に難しくなります』
「スマートフォンの設定を変更できない場合、どのようにVPNを利用できますか?」
『Wi-FiルーターにVPNを設定することで、ルーターに接続するすべてのデバイスがVPN経由でインターネットにアクセスできるようになります。これは、スマートフォンやPCなど個々のデバイスにVPN設定をする必要がなく、簡単にネットワーク全体を保護する方法です』
明香里はスマートフォンを持ち上げていた手を下ろした。
「つまり、国和の会は接戦地域に重点投資し、逆に勝てるところと勝つ見込みがないところは捨てるから、Wi-FiルーターにVPNを設定しロケーション情報を偽装すれば、接戦地域を負け確と誤認させて手を引かせることができる」
千代川は明香里が怖くなった。ChatGPTの使いこなしかたと、解答の正しさと、道徳的倒錯さ。おぞましい。
「できるでしょ?」
「まあ、多分」
千代川は考えた。この市長選の候補者は森と高橋だ。この統一地方選、全国を探せば大きくリードしている森と振るわない高橋を見つけることはできるはずで、その二つの地域のTweetの発信元を入れ替えれば、南美濃市を捨てさせることはできる。それどころか、そういう組み合わせは無数にあるはずで、国和の会の選挙戦略を全て狂わせることができる。スケーラビリティの大きい作戦だ。
千代川はパソコンを取り出し、コンソールにSQLを打ち込む。しかし問題がある。
「そんな簡単に大量のWi-Fiルーターを用意できない」
と言いかけ、千代川は明香里と目を見合わせ、そのまま首を90度旋回。二人はトモエを見つめた。
いや、Wi-Fiルーターがあってもダメだ。Tweetの多くは街頭演説や後援会から発せられる。誰かがWiFiルーターを背負って町中の演説会を回らなければならない。人的リソースなら党職員や支援者を募ればいいとして。
「問題は街中の移動手段ね」
そこまでいってもう一度千代川と明香里は目を見合わせた。そして揃って首を回し銀の扉を見た。結局、役に立つのは自転車である。
明香里が扉を蹴りあけた。
「いつまで寝てんのよ」
首根っこを掴まれた皇輝が引き摺り出されてきた。
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