梗 概
静寂の滴る街
床にだらしなく広がった赤褐色の液屍体を、阿久津鏡二はクリーナーで回収する。その体は全身防護服で鎧われていた。
十年ほど前、未知のウイルスが世界中で猛威を振るった。それは感染すると、心拍数の上昇をトリガーとして、細胞の大量自然死を引き起こす。結果、人は溶けるように死ぬ。未だ治療法は存在せず、感染者を隔離するしか術はない。
鏡二が作業員として収容者の管理、液屍体の回収に従事するのも、そんな隔離区域の一つ。寂れた海辺のリゾートを再利用した街だ。
鏡二は、回収現場で度々顔を合わせる収容者の女と親しくなる。彼女は真瀬伶。外では女優だったという伶は、街でも劇団を率いている。拙く演じられる退屈な芝居は、この街の数少ない娯楽だ。感情の昂りは心拍数を上昇させ死に繋がる。それ故、収容者は心が動かされぬよう静かで平穏な暮らしを強いられていた。
伶は芝居の稽古中に淫らな演技で男を溶かしてしまう。伶には他者を誘惑して溶かし回っているという噂があった。そんな彼女に鏡二はなぜか無性に惹かれていた。
滅菌処理を経て、寮代わりのホテルに戻った鏡二は、昨夜捕らえた脱走者の女と対面する。防護服を着させた女に角材を渡し、鏡二は彼自身を打つよう懇願する。
鏡二は罰を求めていた。死の危険が伴う作業員は犯罪者から選ばれている。鏡二は浮気した恋人を暴行して逮捕されたのだ。鏡二は自傷して手本を示すが、女は恐怖のあまり心拍数が限界を迎えて溶け落ちる。伶なら自分を罰せるだろうか。
その時、集団脱走者が見つかったと連絡が入り、鏡二も現場に向かう。
脱走の首謀者は伶だった。彼女は収容者を見張る内通者を探しあて、溶かしていたのだ。鏡二の上長は、この街唯一の劇場で、伶を見せしめに罰すると宣告する。
連行されながらも、伶は収容者の解放を鏡二に迫る。裏切られた思いだが、それでも鏡二は彼女への情念を捨てきれずに悩む。
翌日、劇場には街中の収容者が集められていた。舞台奥はガラス窓になっており、海岸線が見晴らせる。
弁舌を振るっていた上長が、突如苦しみ出す。それに動転した部下たちも苦しみ出す。ホテルの貯水槽に液屍体の詰まった防護服を鏡二が投げ込んだために、全員がウイルスに感染していたのだ。鏡二は伶の行く末を見届ける覚悟をしていた。
拘束を解いた伶は、衣服を脱ぎ捨てあられもない姿で踊り始める。突然の混乱と伶の痴態に、収容者たちは次々と溶け始め、鏡二は彼女の真意を悟る。
溶け混ざって原初のスープに還ることが彼女の望む解放なのだ。
舞台に上がった鏡二は伶の唇を奪うが、彼女は彼をなじる。
「こんなことがしたかったの?」
思わず鏡二が伶の首を絞めると、彼女は恍惚の表情を浮かべながら溶けていく。既に舞台上はスープで溢れていた。自身も溶け始めた鏡二は最後の力でガラス窓を叩き割る。
解き放たれたスープは、静かに海へと流れ込んでいく。
文字数:1200
内容に関するアピール
読前読後で自分が思いもよらなかった場所に連れてこられた感覚に浸れることが、SFの魅力かなと思っています。
そんなわけで今回は、初めに狭い範囲に状況を絞りつつ、終わりには広大な世界へ視点を解放することによって、更にその先へ読者の意識を飛ばすことを目指しました。同時に、複数の対立物とその反転を繰り返す仕掛けで、読者に揺さぶりをかけることも試みています。
内容自体は割とストレートなパンデミック×ディストピア物ですので、少々屈折したキャラクターを配置し、歪んだ人間ドラマを全体の軸にすることで、何か新しいヴィジョンを描ければと考えています。
ふと気になって「溶ける SF」で検索したところ、一番上にゲンロンSF講座の過去実作が出てきてのけぞったことを白状しておきます。(とってもいい作品でした)
文字数:346