侍JK、おじさんを拾う

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梗 概

侍JK、おじさんを拾う

私、内藤葵、16歳。剣道一筋一直線。浅黄色のジャージに背負った竹刀がトレードマークの人呼んで侍JK。警察官だった父ちゃんは、5年前に死んだ。交通事故だった。それ以来、母一人子一人だけれど、寂しくなんかない。学校ではボッチだけど、無問題。私には、相棒のハヤテ号(ジャーマンシェパード♂7歳)がいる。

今日も公園で、ハヤテ号の散歩を兼ねたトレーニングに勤しむ私は、お腹を空かせたホームレスのおじさんに、おやつの魚肉ソーセージを分けてあげた。目つきが悪くボロボロでヨレヨレのおじさんは、「かたじけない」と古風な礼を述べ、「分け前が減ってすまん」とハヤテ号の頭を撫でた。警戒心の強いハヤテ号が、家族以外に頭を撫でさせるなんて! おじさんが記憶喪失だと知り、ほっとけなくて家に連れて帰った。母ちゃんは、「まさかおじさんを拾ってくるとは」と呆れながらも了承してくれた。かくして「記憶が戻るまで」という条件付きで、おじさんはうちの居候となった。

おじさんは、ただメシを食うわけにはいかないと、仕事で忙しい母ちゃんの代わりに家事を申し出る。だが、現代のインフラ設備にも不慣れで、家電の扱い方もまるで知らない。記憶喪失というのは、そこまで忘れてしまうものなのだろうか? 大丈夫かなと心配していると、おじさんは、ものすごい集中力で説明書を読みこなし、あっという間にすべての操作に慣れ、さらに家電量販店に入り浸るようになった。そのうち販売員としてスカウトされ、やがてカリスマ店員として人気者になり、おじさんのお陰で私にも友だちができた。優しくて頼もしい街の人気者――私は、おじさんに死んだ父ちゃんの姿を重ねていた。私はおじさんが大好きだった。けれども、おじさんは、時々寂しそうに空を見上げている。

ある日、若いお坊様がおじさんを訪ねてきた。お坊様のお寺は、先祖代々時空の歪みを管理監督時するお寺で、他の時間軸に飛ばされてしまった人間を元の時間軸に戻すことができるのだという。「彼も、過去から飛ばされて来たのです」――お坊様は、おじさんを連れ戻しに来たのだ。もともとこの世界にいないはずの人間だから、おじさんが元の世界に戻れば、おじさんと私たちが過ごした時間が無かったことになる。そんなの、いやだ。けれど、おじさんは、これでいいのだと笑っている。お坊様に連れられて、おじさんが夕日の中に消えていく。そして、世界が真っ白になった。

私、内藤葵、16歳。剣道一筋一直線。浅黄色のジャージに背負った竹刀がトレードマークの人呼んで侍JK。今日も公園でハヤテ号の散歩を兼ねたトレーニングに勤しむ私は、お腹を空かせた目つきの悪いボロボロでヨレヨレの子猫を拾った。鳴き声がおじさんっぽいので、「おじさん」という名を付けた。「おうちに帰ろうね、おじさん」と呼びかけると、「おじさん」はみゃーと鳴いた。

文字数:1183

内容に関するアピール

『これがSFだ』という課題なのですが、「何がSFか?」と考えると、さて何でしょう?となってしまって全く前に進まないので、自分の中にある「SFっぽいもの」をかき集めて、「これはSFか?」くらいテンションで考えてみました。

最初は、「先祖代々時間の歪みを管理監督するお寺」が舞台の『時をかける僧侶』というお話を書こうと思ったのですが、まずは自分が好きな要素と書きやすいキャラクターでいってみよう!と思いこの設定にしました。

毎回の課題に挑戦しつつ、精進してまいります。よろしくお願いいたします。

文字数:243

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侍JK、おじさんを拾う

観測するまで物事の状態は確定しない――物理学者エルヴィン・シュレーディンガーはそう言った。だから私は、父ちゃんの死を観測しないことにした。というわけで、本日の初七日という儀式も出席はしない。お気に入りの小豆色のジャージで竹刀を背負い、弁当を風呂敷に包んで首に巻く。そして、ハヤテ号(ジャーマン・シェパード♂8歳)と一緒に家を出る。まず、店の前で軽く柔軟体操。店、というのは曽祖父の代から続く電気店のことだ。じいちゃんが死んだ後はママが跡を継いだ。しかし現在は、絶賛開店休業中。それでもなんとか家族が飢えずに生活できたのは、父ちゃんの稼ぎがあったから。父ちゃんは警察官。みんなに慕われていた街のお巡りさん。そして私のスーパースター!――なんてことを考えながら、私は商店街を走り出した。

六月半ばだというのに風が五月のように爽やかだ。今年は空梅雨なのだと天気予報のお姉さんがいってたっけ。私は、通勤通学の群れに逆走する形でハヤテ号と共に街を走る。途中で同級生の安藤博人とその取り巻き達から「侍JK、学校来いよ!」と声を掛けられたが無視。「侍JK」なんてダサいあだ名を付けて、SNSで勝手に人の写真を拡散しやがって。侍はジャージなんて着ないし、竹刀を背中に背負ったりはしない。いい加減でお調子者のアホに構うほど私は暇ではない。学校の校門前には、担任の水巻先生と剣道部顧問の稲取先生が待っていた。葵が「すみません、父の死を観測しないために学校には行きません」と宣言して以来毎日こうして待ち構えて声がけをしてくれる。担当のクラスや部活の中から問題児を出したくないという己の教師人生を守るための行動だとしても、毎日のオツトメに頭が下がる。「近藤、学校来いよ!」とお声がけいただく前に、「おはようございます! 良い一日を!」と元気いっぱいをアピールして走り去る。

私は健全に元気いっぱいなのだが、ママは私の一連の行動(看取りの拒否・通夜と葬式の欠席・不登校)を大変憂い悲しみ怒りに任せて鉄拳制裁。その昔、ママが『電撃の朝子』と呼ばれていたのには理由がある。ヤンキー仕込みの喧嘩殺法を私はかろうじて竹刀で交わし、脱兎のごとく隣のタケやん宅に逃げ込んだ。私は自分が納得できないことは、受け入れられないタチなのだ。人はそれを「意固地」という。

受け入れられないといえば、「棺の中のご遺体と最後の対面」。返事もできない肉体に、話しかけてどうすんの。まあ、遺体が返事をしたらそれはそれでホラーだが、返事をしなくなった近しい人の姿なんか見たくない。

だから私は、私なりに考えた結果、シュレーディンガーのネコなのだ。私が父ちゃんの死を観測しない限り、父ちゃんの死は私の中で確定しない。そんな言い訳が、阿修羅と化したママに通用するわけはなく、タケやん宅で女子大生・香奈ちゃんのパソコンをお借りして、ママへのプレゼン資料を作った。ママでもわかるように、シュレーディンガーのネコの話から、私の試みが物理学的な実証実験でもあることを説明し、さらに十年前のばあばの死と一年前の爺ちゃんの死を経験して思索を重ねてきた死に対する哲学を語り、ママの気持ちに寄り添えない愚かな娘で申し訳ないと謝罪の言葉を丁寧に綴り、今後一切の父ちゃんの弔い的な儀式には参加しない断固たる決意をしたためた。最後に、これから一緒に暮らすためのお願いと提案を箇条書きにし、ネットで拾った子猫の画像を表紙に貼りつけた。そして、データを香奈ちゃんのくまモンUSBに落とし込み、コンビニのコピー機で出力し、紐で閉じた。A4五十頁に及ぶ力作だ。ちなみにママ用のほかに先生用にあと二冊用意した。「ふつつかな娘ですが今後も何卒よろしくお願いします」と資料を掲げ頭を下げて家に戻ると、ママは力作の重さに呆れるように、「あんたがそういう娘だっていうことを忘れていたわ」とため息ひとつで怒りのオーラを鎮めてくれた。ちなみに、郵送で送りつけた水巻先生と稲取先生は、誰かの嫌がらせだろうとあっさりと焼却炉に投げ込みやがった。

そんな先生方には申し訳ないのだが、学校に行かなくても勉強は香奈ちゃんが教えてくれるし、剣道は自主トレで続けていくし、私は、このまま学校を辞めても構わないと思っている。しかし、それはそれで改めてママと話し合う必要がある。でもまあ、先のことはさておいて、とりあえず今はもぐもぐタイム。トレーニングの後は腹ペコだ。野球グランドの三塁側ベンチでリュックの中からスポーツドリンクと魚肉ソーセージとあんぱんを取り出す。「ハヤテ号、お座り」と声をかけると、いつも私の目の前でお裾分けを期待してお座りするはずのハヤテ号が、あんぱんに眼もくれず後ろの藪の中に走っていった。走りながらクンクンと甘えた声で鳴いている。おそらく猫だ。猫をみつけたのだ。ハヤテ号は、将来を期待された警察犬だった。それがなぜ働き盛りでうちの子になったのかというと、訓練期間はとても優秀だったのだが、いざ職務に就くとダメ犬になってしまったのだ。猫が大好きで、捜査中に猫ばかり拾ってくる。で、警察犬をクビになった。そんなハヤテ号を父ちゃんが引き取った。中二の秋だった。今でもハヤテ号は、猫を見つけるとすぐに拾ってくる。藪の中に入っていったハヤテ号の鳴き声が、クンクンからクーンクーンに変わった。これは、私を呼んでいる声だ。猫がケガでもしているのだろうか? 仕方なく左手にあんぱんを持ったまま、右手の竹刀で藪をかき分けながらハヤテ号の後を追った。私とハヤテ号は、猫を拾うと知り合いの寺――今家で初七日の念仏を唱えている――の僧侶・イヌッチのもとへと預ける。イヌッチは、元ロックンローラーという変な僧侶で、隣の専業主夫・タケやんと共にママの舎弟でもある。イヌッチの寺は、仏教が日本に伝来したころからあるという古さだけが取り得の小さな山寺で、ボランティアで動物保護などもしているため、気兼ねなく野良猫を預けることができるのだ。ちなみに、我が家はママが猫アレルギーなので猫は連れ込めない。全く残念だ。しばらく藪の中を進むと、ハヤテ号の背中が見えた。ハヤテ号が困惑した顔で私を振り返り、クンクンと鳴く。その先にみえたのは、尻? 尻だ。まぎれもなく人間の尻。ケガをした猫ではない。ハヤテ号が見つけたのは、全裸でうつ伏せに倒れているおじさんだった。

 

※ ※ ※

 

侍JKこと近藤葵がハヤテ号と倒れたおじさんを見つけた頃、五月雨商店街の近藤電機店のリビングで、七回忌を終えた葵のママこと近藤朝子は、舎弟のタケやんこと竹橋(隣人で専業主夫)とイヌッチこと乾(山寺の僧侶)の三人でビールを飲んでいた。

「イヌッチ、あれはないわー、16ビートのお経はないわー」

「あれはマイケルっす。勇さんに捧げるスリラーのビートっす」

一週間前に死んだ朝子の夫・勇一朗は、マイケル・ジャクソン信者で「スリラー」が死ぬほど好きだった。なので死んだ勇一朗のために16ビートを捧げたとイヌッチは言っているが、元ロックバンドのドラマーだったイヌッチが、木魚を叩くときはいつも「ポク・ポク・ポク」ではなく「ポポポーックポポポ」だということを朝子は知っている。

「ふざけんな。何がスリラーのビートだ。途中でWhoooo!とかシャウトすんな。普通にやれ、クソ坊主!」

とタケやんがイヌッチの坊主頭をぱしぱしと叩く。

「うるせえ、おれの普通がロックなんだよ!」

とイヌッチがタケやんの太鼓腹にパンチを入れる。オッサン二人のど突き合いをやれやれと見つめる朝子。舎弟たちの戯れは、子どもの頃から変わらない。二人のじゃれ合いを勇一朗はいつも「やめろやめろ」と笑いながら仲裁に入っていた。我が夫ながら、本当に勇一朗はいいヤツだったと朝子はコップのビールを飲みほした。

「勇さんのスリラーダンス、もう見れないんスね」

とイヌッチが寂しそうに勇一朗の遺影を見つめる。タケやんも涙を流すまいと天井を見上げる。勇一朗は、交番勤務の警察官だった。出世街道からは外れていたが、昔から『町のお巡りさん』として人気があった。だれもが勇一朗を『勇さん』と呼び、慕っていた。おおらかでひとたらしで不器用な勇一朗。交差点で信号無視してきた猫を助けて転んで打ち所が悪くて死んでしまうなんて。そういう訳で殉職したら二階級特進なのだが、信号無視で転んで死んだので階級は巡査のまま。最後まで出世とは縁のない勇一朗だが、朝子はそんな勇一朗が大好きだった。だから、父親っ子だった葵が勇一朗の死を受け入れられない気持ちもわかる。だがしかし。

「葵を、どうしたらいいんだろうね」

思わず漏れてしまう弱音。朝子はテーブルに置いてある紙の束に眼をやった。表紙には『猫でもママでもわかる、シュレーディンガーのネコ』とタイピングされている。そして、かわいらしい子猫の写真。葵が作成したプレゼン資料だ。もちろん、何をいっているのかさっぱりわからないが、とにかく父親の通夜も葬儀も法事も欠席することと学校に行かない理由を書いているらしい。偏屈なのは、朝子の父親に似たのだろう。最愛の夫の死は悲しい。けれど、今の大問題は娘の暴走だ。正々堂々と不登校を宣言し、社会から逸脱しようとしている葵を朝子はどう扱っていいのかわからない。どうにかしなくてはいけないが、食べていくために父親から継いだ電気屋も何とかしなくてはいけない。朝子の父親の借金の返済で、近藤家の家計はカツカツだった。店を畳んで働きに出た方がいいのだろうか。

今後のことを考えて弱気になっている朝子の耳に、懐かしいイントロが流れてくる。マイケルの「スリラー」だ。

「おれ、iPhoneに『勇さんのMJリスト』入れていつも持ち歩いているんです」

イヌッチのiPhoneは、直ちにテーブルの上に置いてあるブルートゥースのスピーカーに同期され、リビングいっぱいに音が広がった。

 

※ ※ ※

 

朝子たちが号泣しながら「スリラー」を踊っている頃、葵はハヤテ号と共に藪の中で倒れているおじさんを前にどうしたものかと思案していた。おじさんは、素っ裸でうつぶせに倒れている。変態だろうか? 酔っぱらって寝ていたところを追い剥ぎにあったのだろうか? しかし、無防備に晒している後半分の裸体は、かなり鍛え上げられた筋肉で覆われている。見せかけのハリボテ筋肉ではない。使い込まれた強そうな筋肉。酔っぱらっていても追い剥ぎを追い払うくらいは出来そうだ。全裸で倒れている時点で一般的にはひとまず交番に知らせるのだろうが、それは父ちゃんの死を観測してしまう可能性があるので避けなければならない。では、どうする? 普通の人間なら見て見ぬふりで立ち去るのだろうが、父ちゃんならきっと助けるだろう。だから、私も逃げるわけにはいかない。思案しているうちに、ハヤテ号がおじさんの頬をペロリと舐めた。低く唸りながらおじさんの瞼が薄く開く。目の前に座っているハヤテ号を見て、おじさんが言った。

「熊?」

由緒正しきジャーマン・シェパードを熊呼ばわりするとはけしからん。

「熊ではない、ハヤテ号だ。おじさん、変態か?」

と葵は竹刀の先端を突きつけておじさんに聞いた。おじさんは、うつぶせのまま自分の両手で自分の体をまさぐり、自分が素っ裸であることを確認した上で葵に言った。

「わからん。何も思い出せない。おれはいったい、どうしたんだ? ここはどこだ? いや、おれは誰だ? 変態か?」

おじさんは、うつぶせのまま激しく動揺している。動揺しながら激しくおじさんのお腹が鳴った。腹ペコなのだ。葵は手ぬぐいをおじさんに投げてやり、左手に持っていたあんぱんをおじさんに差し出した。おじさんは、局部を手ぬぐいで隠しながら起き上がり、あんぱんを受け取ると無我夢中で齧りついた。齧りつきながら驚愕するおじさん。

「なんだこのふわふわのでか饅頭は。うまい、うますぎる」

自分だけではなく、あんぱんのことも忘れてしまったというのか。これはヤバイ。ヤバイくらいの記憶喪失だ。

「おじさん、ちょっとここでハヤテ号と待っていてくれ」

葵はハヤテ号に「マテ」と命令して走り出した。向かったのは、剣道部の部室だ。校内の端っこにある部室は、先輩たちがサボりに来るためにいつも鍵が開いている。葵が中に入ると三年生の田中先輩が喫煙中であった。「お邪魔します」と葵は田中先輩に一礼し、自分のロッカーに置いてある剣道着を抱え、「喫煙は持久力の低下を招きます、ほどほどに」と再び田中先輩に一礼してて部室を出た。河原に戻ると、おじさんは腰に手ぬぐいを撒き、胡坐でハヤテ号の頭を撫でながら途方に暮れていた。午後の日差しを浴びた肩先まである髪の毛と伸び放題の髭のおじさんは、ジーザスのようだ。記憶喪失のジーザスなら、救ってもバチは当たるまい。葵はおじさんに剣道着を渡した。

「小さいかもだけど、手ぬぐいよりましだから」

おじさんは、こくんと頷いて紺の剣道着を受け取った。

 

※ ※ ※

 

店の客の訪れを知らせるチャイムの音で、朝子は目が覚めた。乾と竹橋が帰った後、いつの間にかリビングで寝てしまっていたようだ。店から誰かの声がする。客? 珍しいな。さびれた近藤電機店に来る客は滅多にいない。街の人たちは国道沿いの大型量販店を利用するので、めったに客は訪れない。由々しき事態だが、仕方がない。葵ももうすぐ帰ってくることだろう。急いで仏間の障子を閉め、喪服を着替えた。勇一朗の「喪」に関わる全てを自分の前に晒してくれるなという葵の要請を、朝子は渋々受け入れた。受け入れなければ家を出ていくというのだから仕方がない。思春期の小娘の言いなりになるなんて、かつて『電撃の朝子』と呼ばれ恐れられていた女番長のこの私がと、朝子はイライラと、たまに訪れる客のためにあつらえた『近藤電機店』と染め抜いた藍染めのエプロンを装着しながらリビングから廊下に出て店へと向かう。電気屋と居住区を隔てているのは曇りガラスの引戸だ。ガラスの向こうに葵の小豆色のジャージが見える。その隣に紺色の人影。ガラリと引戸を開けると、葵の隣に剣道着を着たオッサンが立っていた。オッサンの剣道着はつんつるてんで、まるでごわごわの甚平を着ているようだ。そのつんつるてんの胸元に『近藤』というネームが刺しゅうされている。つまり、オッサンのつんつるてんは、葵の剣道着ということだ。おっさんの髪と髭は伸び放題。獣臭がするのは葵の隣でお座りをしているハヤテ号ではなく、オッサンが醸し出しているものだ。どう見てもホームレスのおっさんなのだが、なぜ娘と一緒にいるのか。なぜ娘の剣道着を着ているのか。朝子は言葉を失い、オッサンを指さして葵に「?」という視線を投げかけた。葵は、確固たる決意の表情で朝子に言った。

「河原でジーザスなおじさんを拾った。記憶喪失で可哀そうだから、うちで引き取りたい。ママ、頼む」

衝動と情熱で生きてきた自分とは似ても似つかず、娘の葵は呆れるほど熟考を重ね納得してから行動するタイプだ。「葵には理由(ワケ)がある」というのは死んだ勇一朗の口癖で、理解不能な葵の行動に怒り心頭する度に「朝子さん、葵にはワケがあるんだ。落ち着いて」と宥められてきた。だがしかし、朝子を宥めてくれる勇一朗はもういない。自分で宥めるのだ朝子と、朝子は心の中で「葵にはワケがある」と十回唱えて深呼吸をひとつし、

「お風呂、沸かすから。そこで待ってなさい」

と葵に告げた。

 

※ ※ ※

 

「あんぱんを忘れてしまうほどの記憶喪失」であるおじさんは、河原から家まで歩いてくる間、目にするもの全てに驚いていた。道路に出るといきなりしゃがみ込んでアスファルトを撫で、車に驚き、信号機にトキめき、飛行機を「デカい鳥」と指さし、チャリンコに感嘆し、木造以外のすべての建物にため息をついた。おじさんは、世界の全てを忘れてしまったようだ。家に到着した葵は、おじさんの記憶喪失度を確かめるために、玄関まで回らずに、表の店先から家に入った。そして、誇りを被った売り物の家電たちをおじさんに見せたが、おじさんは電子レンジを金庫と言い、洗濯機を漬物桶と言い、扇風機をデカい風車と言った。それぞれの役割を説明すると、おじさんは目をキラキラと輝かせ、使ってみてもいいかとワクワクし始めた。世界を忘れたというよりも、世界を知らない生まれたばかりの子どものようだ。ママになんと説明しようかと考えていると、ママが現われた。くどくど説明しても仕方がないので、とりあえず端的に、おじさんの状況と自分の要望をママに伝えた。怒鳴られるのを覚悟していた。が、ママは怒鳴らなかった。何やらぶつぶつと呪文のようなものを唱え、「風呂沸かすから待て」と言い捨てて家の中に戻っていった。正直びっくりした。ママが感情を炸裂させずに私の要望を受け入れるなんて。思わずハヤテ号と顔を見合わせてしまった。

「あの人は、ママ殿というのか。葵殿に似ているな。母君か?」

とおじさんに言われて二度目のびっくり。私はずっと父ちゃん似だと言われ続けてきた。ちなみに性格は、ママの父である爺ちゃんそっくりだと言われている。ママの名前が朝子だと訂正するのも忘れて驚いていると、隣のタケやんが割烹着姿で駆け込んできた。ママが呼びつけたのだろう。

「その変態から離れるんだ、葵ちゃん!」

タケやんの手にはオタマが握られている。タケやんは専業主夫なので、おそらく夕食の支度にとりかかっていたのだろう。本当にママがいつも呼びつけてすみません。タケやんにおじさんが変態でないことを説明している間、ハヤテ号を伴って狭い店内を散策していたおじさんが、「これは、知っているぞ。姿を写し取る機械だ」と興奮している。それは、古い型番のデジカメだった。名前は覚えていないが使い道を憶えている、ということはおじさんは写真関係の仕事をしていたのだろうか。そうこうしているうちに風呂が沸き、おじさんは風呂場へと直行させられた。なぜかハヤテ号も一緒に。ママがタケやんを呼んだのは、おじさんとハヤテ号を風呂に入れるためだった。「絶対に変態だ。俺にはわかる」とおじさんに絡みつつ、タケやんは見事なホスピタリティでおじさんを風呂に入れた。ちなみにママはイヌッチも呼び出したのだが、イヌッチは「ボランティアの人探しで今から北海道に行く」ということで「おじさんをどうするか会議」には不参加となった。入浴後、髭を剃り、サラサラヘアになったおじさんには、父ちゃんの緑色のジャージを着ている。

「あら、ぴったり」

とママ。タケやんは、「夕食のクリームシチューを仕上げてすぐ戻る」と一度家に戻った。

 

※ ※ ※

 

自宅に戻ったタケやんは、猛スピードで作りかけのクリームシチューに取り掛かった。姉御は強い。葵ちゃんも強い。だから、変態オヤジの毒牙にかかることはないだろう。けれどもダメだ。勇さん亡き後、姐御のそばに見ず知らずのオッサンが居候をするなんてことは、絶対に阻止しなければならない。あいつの裸体にはいくつもの傷跡があった。彫り物こそないが、絶対に堅気ではないだろう。さらに気に入らないのは、髭をそり落とすとかなりの男前になったということだ。そんなやつが、未亡人になった姐御と女子高校生の側にいていいわけがない。そんなのは絶対に許せない。許してはならない。タケやん出来上がったシチューの半分をお裾分け用の小鍋に移し、割烹着を脱ぎ捨て、小鍋を抱えて再び近藤家へと戻っていった。

 

※ ※ ※

 

タケやん差仕入れのクリームシチューで夕食を終えた後、葵と朝子・タケやんの「おじさんをどうするか会議」が始まった。記憶が戻るまで面倒をみるという葵と、すぐに警察に引き渡すべきだと主張するタケやんのバトルが続いた。朝子は二人の主張を黙って聞いていた。だが、「父ちゃんだったら、絶対にうちで面倒をみるはずだ」という葵の一言で、心を決めた。「うちで預かる期限は一か月。記憶が戻ったら即リリース。記憶が戻らなくても、一か月たったら警察に相談する。この条件が嫌だというのなら、今夜からタケやんちに預ける」という決断をくだした。朝子は、一か月後の勇一朗の四十九日の法要までは葵の望みを聞いてやろうと思ったのだ。おじさんとハヤテ号は、ソファでテレビに夢中になっている。タケやんは、おじさんに「おれはいつだってお前を見張っているからな」と凄んで自宅へと帰っていった。

こうして葵が拾った記憶喪失のおじさんは、「リストラされ、仕事が決まるまでの間住み込みのバイトで店番に雇った親戚のおじさん」になった。

おじさんは記憶はないけれど、呑み込みの早い脳みその持ち主だった。あっという間に家中の家電の扱い方をマスターし、朝子や葵の知らない機能まで使いこなした。さらには、店の帳簿管理にしか使用していない古いノートパソコンでインターネットを覚え、店に並んでいる家電について調べ、それがいかに時代遅れであるかを把握し、店の経営状態が最悪だということを確認した上で、おじさんは「店の商品を自分に売らせてくれないか」と朝子に打診してきた。記憶喪失のオッサンに商売ができるとは思えなかったが、売れるに越したことはない。「やってみな。売れたら歩合で報酬を払う」と朝子はおじさんの申し出を承諾した。次におじさんは、「こういうの、やりたいのだが」と葵にノートバソコンの画面を見せた。それは、家電を紹介するYouTubeの動画だった。おじさんは、その動画を真似て、近藤電機店の商品を紹介したいのだという。つまり、おじさんはYouTuberになろうとしているのだ。店を宣伝しつつ、自分の顔を晒せば、もしかすると自分のことを知っている人に繋がるかもしれない。おじさんは、必死だった。必死に元の自分を取り戻そうとしているのだ。葵は、協力しないわけにはいかなかった。動画の撮影は、隣の香奈ちゃんに協力を仰いだ。チャンネル名は『近藤電機店のおじさん』。おじさんは、型落ちした店の商品を愛情と情熱をこめて紹介する。最後は「こんな素晴らしい商品が、売れ残っていいはずがありません。近藤電機店は、あなたのご来店をお待ちしています」というキメ台詞で〆る。「いいねえ。おじさんって、なんか独特の色気があるんだよね」と香奈ちゃんはいうのだが、葵にはその色気というのがさっぱり分からない。こんな動画誰が見るのだろうと思ったけれど、緑色のジャージを着たイケオジが型落ちした家電をマニアックに紹介して最後に絶妙な流し目でキメる、と徐々に話題になり、再生回数が伸び始めた。今では見かけなくなった二層式洗濯機を紹介した回などは、脱水機に洗い終えた洗濯物を移す動作をしてみせるおじさんの後姿がセクシーだと軽くバズった。極めつけは、マイケル・ジャクソンのスリラーを踊りながら、災害時用懐中電灯とコードレス掃除機(紙パック)を紹介する回だ。マイケルダンスは、朝子とタケやんが手取足取りみっちりとレッスンし、おじさんは実にキレキレのマイケルのフォーを決め、イイネと再生記録を更新した。こうして、おじさんは、次第に有名になりはじめた。

 

※ ※ ※

 

おじさんを拾って二週間目の朝、おじさんは、私のトレーニングに同行した。今朝も梅雨だというのに爽やかな晴れの天気だった。通勤通学の群れと逆走するようにハヤテ号と共に街中を走る。おじさんは、走りながら店のチラシを配る。なんでも土曜日に動画の視聴者との『オフ会』を兼ねて店頭販売をするので、そのチラシを作成したらしい。途中で同級生の安藤博人とその取り巻き達とすれ違う。「侍JK!」と声を叫んだまま、安藤はおじさんを見て「緑のイケオジ!」と叫んだ。おじさんは、「よかったら来てください」と安藤にチラシを渡した。さらに、校門前で待ち構えていた担任の水巻先生と剣道部顧問の稲取先生が「おじさん、昨日のMDプレーヤーの動画、良かったです!」と私を無視しておじさんに話しかけた。おじさんは、先生たちにも「三台あります。土曜日、買いに来てくださいね」とチラシを渡した。先生たちは推しのアイドルに話しかけられたファンのように、手を取り合ってはしゃいでいる。

すれ違う人々が皆、熱い眼差しでおじさんを見ている。私が拾ったおじさんなのに。イケオジYouTuberなんかじゃないんだよ。マッパで河原に倒れていた、あんぱんのことすら忘れてしまった可哀そうな人なんだよ。おじさんの人気が面白くないんじゃない、すっかりみんなが父ちゃんのことを忘れているということに腹が立つのだ。父ちゃんはみんなの人気者で、みんなの「勇さん」だった。父ちゃんの死を観測しないために、いつかみんなが父ちゃんのことを話題にしなくなる日がくればいいと願ったが、それはいつかであって今ではない。世間の人々よ、せめて四十九日が過ぎるまで、父ちゃんのことを忘れてくれるな。笑顔で街の人にチラシを配るおじさんを振り切るように、私はハヤテ号と全速力で駆け出した。

 

※ ※ ※

 

土曜日になった。店の前には人だかりができている。老若男女、北は北海道から南は九州まで。おじさんのファンが店を埋め尽くしている。商店街には出店が並び、子どもたちがりんご飴を舐めながら、ひと目おじさんを見ようととんだり跳ねたり。

店内では、『男はつらいよ』の寅さんの口上を完全コピーしたおじさんが、次々と商品を掲げて売りさばいていく。家電を買うというよりも、おじさんから何かを買いたいという客たちは、どんなに年式が古いモノでも嬉々として購入の名乗りを上げる。朝子がおじさんのアシスタントをし、葵がレジを担当する。隣のタケやんは、店の前で客の整列係に駆り出されている。

「侍JK、きてやったぞ」

安藤だ。安藤の目当ては家電ではなくおじさんだ。

「おじさんに、おれの動画にでてくれないか頼んでくれないか」

安藤は、「アンドゥナッツちゃんねる」という自分の動画チャンネルを持っている。取り巻き相手に自慢話をしているだけの頭の悪い番組なのだ。誰も話題にしないし、再生回数も伸びていない。

「私はおじさんのマネージャーではない。直接交渉しなよ」

と葵が突っぱねると、安藤は尚も食い下がってきた。

「この動画、やるからさ」

安藤が葵に見せたのは、父ちゃんの葬式の動画だった。次の瞬間、店内に「バシッ」という音が響き渡った。同時に安藤の取り巻き達が「キャー」と悲鳴を上げた。葵が安藤の左頬をひっぱたいたのだ。叩くと同時に、葵は店を飛び出した。後からハヤテ号が追いかけてくる。葵は、とにかく走った。河原まで全速力で走った。観測してしまった、自分はついに父ちゃんの死を観測してしまったのだ。油断していた。気を抜いていた。みんなが父ちゃんの話をしなくなったからといって、人前に出てはいけなかった。あんな場所であんな時に安藤なんかによって、父ちゃんの死を観測してしまうなんて。

父ちゃんは死んだ。父ちゃんは本当に死んだのだ。しばらく川面を見つめて立ち尽くしていた。ハヤテ号が心配そうに鼻を鳴らしてくれたが、葵は一歩も動くことができなかった。

「葵殿」

振り返るとおじさんが竹刀を日本持って立っていた。おじさんは無言で竹刀を葵に投げてよこした。そして、手にした竹刀を構えた。剣先が下を向いている。剣道の構えではない。

「いやなことは体を動かして忘れるに限りる」

とおじさんは葵に竹刀を持てと顎でいざなう。葵は竹刀を拾い上げ、正眼に構えた。

「かかってきなさい」

と葵を促すが、おじさんは素人だ。躊躇していると、おじさんが葵に言った。

「葵殿は、まだ子どもだ。子どもなら遠慮せずにかかってきなさい」

葵は、ド素人のおじさんに子ども扱いされ、頭に血が上った。剣道部時期大将と言われた実力をみせてやる。 「メン!」と鋭い立ち声と共に葵が前に踏み込み、おじさんの額を狙う。が、おじさんは軽やかに一歩後退し、葵の一撃を避けるとそのまま葵の竹刀を跳ね上げ、手首を返して葵の脇腹を狙う。「打たれる」と葵が身構えたが、おじさんは竹刀を寸止めにした。滅茶苦茶だ。けれど、強い。

「葵殿には葵殿なりの理由があるのだと思います。けれども彼は、父上と最後の別れができなかった葵殿のために、あの動画を撮影したらしいのです」

安藤には安藤の理由があるというわけだ。

「安藤に謝るよ」

きっと父ちゃんが生きていたら、おじさんと同じことをいただろう。父ちゃんは死んだ。けれども、私にはおじさんがいる。だから、きっと大丈夫だ。

 

※ ※ ※

 

街は黄昏。葵は河原に座って缶コーヒーを飲みながら、おじさんとこれからのことを話していた。葵は学校に行く。そして、安藤に謝る。不登校はもうおしまいにして、これからは秋の大会に向けて剣道に集中する。おじさんは、店の看板おじさんとして正規雇用してもらえるように、朝子に相談をする。近藤電機店の近くにアパートを借り、そこから店に通う。タケやんとイヌッチに、おじさんを葵の本当の親戚のおじさんとして認めてもらうよう説得する。お盆もハロウィンもクリスマスもお正月も、おじさんは、家族として葵たちといっしょに過ごす。

家に帰ると、葵はまっすぐに仏間に向かい、父親の遺影に手を合わせた。

「シュなんとかのネコ実験はもういいの?」

と驚く朝子に、

「そもそもいないネコをいるはずだと思い込みたかっただけなんだって気が付いた」

と葵。さっぱりわからないと頭を抱える朝子だが、それよりなにより今日の売上だ。葵が客を張り倒すというアクシデントがあったものの、売上は朝子が見たこともない数字を叩きだしていた。張り倒された安藤は、おじさんが一緒に動画を取ってくれたことですっかり上機嫌で帰っていったので問題ないという。

「タケやんを呼び出して、寿司でも取るか!」

と朝子も上機嫌だ。今のうちに、さっきおじさんと話していた未来計画を朝子に伝えるのだ。そして、ついでにタケやんにもおじさんを認めてもらう。

とそこでインターホンの音。「戻りました!」という声は人探しのボランティアで留守にしていたイヌっちだ。イヌッチは、手ぶらだった。タケやんが、「北海道まで行って、手ぶらかよ。蟹とか鮭とかないのかよ」とイヌッチを小突く。いつもなら、ここで醜いオッサンプロレスが始まるところだが、今日のイヌッチはタケやんをスルーして、おじさんを見てにっこりと笑った。「なんだよ、無視かよ」とタケやんがイヌッチに中指を立てている。

「あんたが噂のイケオジYouTuber? ロックだねえ!」

そうだ、イヌッチにおいじさんを紹介しなくては。そして、タケやんを説得してもらわねば。イヌッチならきっと――葵はイヌッチに駆け寄った。

 

  • ※ ※

 

おれは、眼の前で起きてことが信じられず、ただ立ちつくしていた。葵が、坊主頭の男に駆け寄ろうとしたとき、まるで動画の静止ボタンを押したようにすべての動きが止まったのだ。朝子さんは寿司屋のデリバリーメニューを手にして固まっている。タケやんは、いつものように戯れ返さない親友に「なんだよ、無視かよ」と拗ねて中指を立てたまま固まっている。葵は、まるで子どものように目を輝かせながら、坊主頭に駆け寄ろうとして右足を前に踏み出したところで固まっている。ハヤテ号は、坊主頭に尻尾を振ったまま固まっている。動いているのは、おれと―――。

「灯台下暗し、ってね。ほんと、まさかここにいるなんてねえ」

確かこの男は、イヌッチと呼ばれているママさんの弟分。

「あんた、もうすっかり思い出しているんだろう? 葵ちゃんとのあれ、あの竹刀の構えが記憶を取り戻した何よりの証拠だ」

この男は、河原で葵とのやりとりを見ていたのだ。そして、このおれが何者であるのかも知っている。

「気持ちはわかるよ。せっかく生き延びたんだ。誰だって新しい人生を送りたいと思うよ」

生き延びたくはなかった。おれは、あの時本当にやっと死ねるとホッとした。けれど、この世界はあまりもキラキラと眩しくて――もっと未来を、葵の成長を見届けたいと思ってしまった。

「すまないね。あんたがこの世界で生きてしまうと、かなり大きな綻びができてしまう。あんたをもとに戻さなければ、葵の未来も変わってしまう。すでに変化はもう始まっているんだ。あんたがこの世界にきた時点で、死ななくていい人間が死んでいる」

それは、葵の父親のことだろうか? 自分のせいで葵の父親は死んだのか?

「あんたがもとに戻れば、みんなの記憶からあんたは消える。あんたのことは、きっとおれも好きになっていたと思う」

この二週間。おれは侍JKに拾われて、濃密な時間を生きた。進化した未来を見ることができた。救われた。おれたちの死がこの未来を作ったというのなら、おれのせいで葵の未来を奪うわけにはいかない。

坊主頭が手をかざすと、空間に光のゲートが現れた。ゲートがゆっくりと開く。おれは、最後にもう一度葵を見つめた。おじさん、と呼ぶ声が聞こえた気がした。光の中に消えていくおれに、坊主頭が声を掛けた。

「ありがとう。土方さん」

おれは、坊主頭に背を向けたまま、「Whoooo !」とマイケル・ジャクソンのポーズをキメた。

 

※ ※ ※

 

観測するまで物事の状態は確定しない――物理学者エルヴィン・シュレーディンガーはそう言った。妄想実験だろうが何だろうが、猫を実験台にするなんて、けしからんやつだと思いながら、お気に入りの小豆色のジャージで竹刀を背負い、弁当を風呂敷に包んで首に巻く。そして、ハヤテ号(ジャーマン・シェパード♂8歳)と一緒に家を出る。まず、店の前で軽く柔軟体操。店、というのは曽祖父の代から続く電気店のことだ。じいちゃんが死んだ後はママが跡を継いだ。しかし現在は、絶賛開店休業中。それでもなんとか家族が飢えずに生活できたのは、父ちゃんの稼ぎがあるからだ。父ちゃんは警察官。みんなに慕われている街のお巡りさん。そして私のスーパースター!――なんてことを考えながら、私は商店街を走り出した。

梅雨入りした六月の風は湿っていて、ハヤテ号の肉球の匂いがした。午後から再び雨になると、天気予報のお兄さんさんがいってたっけ。私は、通勤通学の群れに逆走する形でハヤテ号と共に街を走る。途中で同級生の安藤博人とその取り巻き達とすれ違った。「おはよう、アンドゥ」と声をかけると、「近藤、ずりーぞ」と羨まし下な目を私に向けた。私は今日、ある用意のために、正々堂々と学校を休む。なんという優越感! 用事というのは、骨折で入院している父ちゃんの退院の手伝いなのだ。父ちゃんは、交差点で信号無視してきた猫を助けて転んで肋骨を三本折った。猫を抱いていたため受け身が取れなかっらしい。さすが父ちゃん。弱気を助ける私のヒーロー。

トレーニングの後は腹ペコだ。野球グランドの三塁側ベンチでリュックの中からスポーツドリンクとあんぱんと魚肉ソーセージを取り出す。「ハヤテ号、お座り」と声をかけると、いつも私の目の前でお裾分けを期待してお座りするはずのハヤテ号が、あんぱんに眼もくれず後ろの藪の中に走っていった。藪の中に入っていったハヤテ号の鳴き声が、クンクンからクーンクーンに変わった。これは、私を呼んでいる声だ。猫がケガでもしているのだろうか? 仕方なく左手に魚肉ソーセージを持ったまま、右手の竹刀で藪をかき分けながらハヤテ号の後を追った。しばらく藪の中を進むと、ハヤテ号の背中が見えた。ハヤテ号が困惑した顔で私を振り返り、クンクンと鳴く。小さくて真っ黒で涼し気な目元のクロネコが、うずくまっている。怪我はなさそうだ。魚肉ソーセージをちぎって差し出すと、あっという間に奪い取り、魚肉ソーセージを飲み込んだ。腹ペコで動けなくなっていたのだろう。もしかすると、父ちゃんが助けた猫かもしれない。「うちに来るか?」と聞くと、クロネコは、「ぶにゃ」とまるでおじさんの様な声で鳴いた。私はそのネコを「おじさん」と呼ぶことにした。

 

 <完>

 

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