あなたが聴いた色

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梗 概

あなたが聴いた色

美穂は、幼少から絵画を学び、愛してきた。しかし、女子高生になったいま、自分の絵に行き詰まっていた。予定調和になってしまい、意外性をどうしても出せなかった。

ある日の放課後、美穂は、音楽室の前で、衝撃に打たれる。流れ出るピアノが、脳内に色彩の奔流を生んだからだ。
――それが、美穂と晴夏が出会ったきっかけだった。

絵描きの美穂と、ピアニストの晴夏は、二人の間だけで行き交う「共々感覚」があることに気づいた。それは、共感覚のテレパシー。例えば、美穂が赤を見ると、晴夏の脳内にはドの音が響く。晴夏がソの音を聴くと、美穂の脳内には緑が浮かぶ。

 

美穂はささやく。「いい海が、聴こえた」
少女は絵の具を溶け合わせると、筆を走らせる。
放課後の音楽室に集まり、ささやきながら創作しあう毎日。「共々感覚」は、5m以内にいるときにだけ発動された。

美穂は、晴夏から受け取ったイメージを描くことで、殻を破った絵画を描けるようになった。脳内に生まれる色や風景を、素直に出力すればよかった。
そして、晴夏もまた、美穂から受け取ったインスピレーションで、斬新な作曲ができるようになった。

 

彼女たちは、独創的な絵画と曲を生み出すプロになった。
晴夏の楽曲に美穂の絵画を起用したミュージックビデオは美しく、再生数と賞を同時に得た。

近くにいないと「共々感覚」は働かないから、卒業後に一緒に暮らし始めたのは自然だった。コミュニケーションは感覚の往復で済まされ、言葉は端的になった。それでも美穂は、晴夏と分かり合えていると思っていた。

 

しかし、あるとき晴夏が入院し、自殺とも事故とも判然としないまま、この世を去った。美穂は、海外の授賞式のため間に合わなかった。

美穂は、インスピレーションを喪失し、絵筆をとる気力を失う。
失意のなか、遺品の中に晴夏が隠していた日記を見つける。

 

その中で美穂は、晴夏の「共々感覚」は衰えて、最後には失われていたことを知る。
実はあるときから、美穂は、自分の共感覚だけで、ずっと絵を描いていたのだ。
美穂は、大脳皮質に眠る感覚野の古い一部が恒常的に刺激され続けたことで、後天的に共感覚を獲得していた。確かに、感覚野のシナプスを発火させたきっかけは、晴夏だった。だが、なぜか美穂だけが、獲得してしまった。

日記のなかで晴夏は、最後までこのことを隠し通し、美穂を芸術家として再起不能にしたい、と願っていた。
「傷跡になれば、美穂は永遠に私を忘れないから」

 

そして美穂は、晴夏が最後につくった音楽を聴く。
自分に共感覚があると信じると、確かに音から風景が浮かんできた。病室の白い壁、緑のリノリウムの床、貧相な灰色のスリッパ。
そのインスピレーションのままに美穂はスケッチをして、破り捨てる。

「晴夏、それでも私は」
美穂は、共感覚を抑え込み、懐かしい想像力を起動させる。
そして、二人がかつて音楽室から見た青空を、描きはじめた。

文字数:1184

内容に関するアピール

私の思うSFの魅力とは、「関係性」だと思います。
時間や距離や次元や様々な常識を超えて、人と人がつながるとき。あるいは、人と人が隔てられるとき。
そのとき、その設定でないと描けない、特別な関係性が立ち上がり、動き出します
(もちろん人でない何かのときもありますし、その対象の発見自体が面白いことも多々)。
その「関係性」はときにとてもエモーショナルで、魅力的に感じます。
SFは、劇的な関係性を生み出すための、優れたギミックがたくさんある世界だと思います。

そこで、今回、関係性を意識しながら書きました。
新しいチャンネルで、二人の感覚がつながる喜び。
相思相愛でありながら、片想いでもある痛切さ。
そうした関係性の妙が、この物語から伝えることができるのではと考えます。

もし実作をする際には、二人の過ごす放課後の音楽室や、同棲する部屋の空気感を通して、関係性の親密な側面を描くことで深みを出せるのではないかと考えます。

なお、この小説で登場する「共感覚」について説明しておきます。
共感覚は、ある一つの刺激に対して、複数の感覚が自動的に生じる知覚現象を指します。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、味に形を感じたりします。レオナルド・ダ・ヴィンチ、マイルス・デイビス、スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、ランボー、宮沢賢治などが共感覚を有していたと言われています。
実作においては、こうした説明を自然に文章に溶け込ませます。

文字数:608

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あなたが聴いた色

青が、響いた。

晴夏の指先が、コバルト・ブルーを奏でる。

オクターブの一つ上で、インディゴが重なる。

わたしは、押し寄せる波を描き始めた。

 

 

高校二年の秋、キャンバスの前でわたしは濁っていた。

この色でよいのだろうか。確信が持てない。

――オリジナリティ。驚き。自分らしさ。

予備校の講師や美術教師に言われた言葉が去来する。

ためらいがちに、下書きに塗り重ねていく。

しばらくして色を間違っていたことに気づく。できあがっていくのは、ありふれた静物画だ。たしかに、果物や花瓶をそれなりに写しとってはいるだろう。だが、それだけだ。芸術である意味がない。

絵筆を置く。放課後の美術室に、ため息が思ったより大きく響き、部員たちを振り向かせた。

 

「美穂は絵がほんと上手ね」

頭を撫でる母の手を思い出す。

小さい頃から、絵を褒められることは多かった。小学五年生のとき、大きな賞をもらい、県民ホールの壇上に、わたしの絵が掲げられた。自転車が走る早朝の田園。稲穂を描く黄金色の選択に、手応えを感じていた。一度だけ行った遠方の親戚家の秋を、想像し描いた絵。指をさして喜ぶ母の顔が、誇らしかった。

「美穂は画家さんになれるよ」

あの頃、絵を描くのが純粋に楽しかった。

成長するに従って、褒められることが減り、アドバイスを受けることが増えた。もっとオリジナリティを出したら? 自分らしさを出したら? 真面目、という言葉は褒め言葉じゃないと知った。

高校では美術部に入った。二年から美術予備校に通うようになると、アーティストとして大切なものが欠如していることを痛感した。講師が口を滑らせた「色彩センスが凡庸」という言葉が忘れられない。

コンクールの受賞作と自分の落選作を比べるたび、うまく息ができなくなった。将来を期待していた母の言葉は、呪いになった。

わたしには、「上手に逸脱する」方法が分からない。

前衛的な画家たちを研究したが、出来の悪い模倣品がうまれただけだった。なぜマティスは緑で顔を、なぜモネは黄色で池を、塗れたのか。

現代美術の旗手たちにも、芸大に合格した予備校の先輩たちにも、確信的な独自性があるように見えた。魅力的な破綻。それがわたしにもあったなら――。

わたしは行き詰まっていた。

晴夏と出会ったのは、その秋だった。

 

美術室で描くことを諦めたわたしは、外へスケッチに行くことにした。旧校舎の裏手に、紅葉したもみじの林があったはず。描けなくてもいい。わたしは部員たちと離れ、ひとりになりたかった。

渡り廊下を通り、旧校舎に入る。少し前に使われなくなった校舎は、どこかよそよそしい。うっすらとした埃の匂い。視聴覚室、実験室と通り過ぎ、音楽室。その先に裏手への扉がある。

そのとき、ピアノの音が聞こえてきた。聞き覚えがあるけど、なんて曲だったか――次の瞬間、わたしは衝撃に打たれた。

頭の中が、色で満たされたからだ。

青、赤、緑、紫。まるで色の洪水。視界とは別に、鮮やかな色の数々が脳内で弾けて混乱する。

ビビット・グレープで頭のなかがいっぱいになる。ハーモニーが乗ると、レディース・ピンクと絶妙に調和した。転調し、クレッシェンド。パーマネント・グリーンとマゼンタの円環が膨らんでいく。旋律が、次々に色へ変換される。

目を閉じると、色彩の奔流で世界が埋まった。まっすぐ歩けない。目眩がする。

主旋律が駆け上がる。赤から紫から青から緑へ、虹のグラデーションを描く。

思わず音楽室の扉に寄りかかると、あっさりと開いてしまった。音が止まった。

目が合う。そこには、美しい少女がいた。

背中まで伸びた髪。大きな瞳。ピアノの前に座り、凛と背筋を伸ばしている。

「いまの色、何?」

彼女は、わたしが言おうとしたセリフを言った。

 

「え? あなたも?」

聞き返したわたしの顔は、さぞかしまぬけだっただろう。

「ピアノを弾いてたら、急に音が色になって、頭に流れ込んで。綺麗でやめられなくて」

「そうそう、なんか、絵の具垂れ流し、 って感じで」

まだ動揺しているわたしの話し方は、下手だ。初対面にふさわしくない。

「そうなの、どばーって感じ!」

あはは、と清楚な見た目に似合わず大きな口を開けて笑う姿を見て、この人はいい人だ、と思った。

「でもめっちゃきれいだったよ、あ、色もだけどピアノの方が」

「ふふ、ありがとう」

「わたし、おかしくなっちゃったかと思った」

わたしは、彼女につられ気安くなってしまう。

「あなたも頭のなかで色が見えたってことだよね?」

「うん、そうみたい」

「ちょっと試してみていい?」といって彼女は、鍵盤の一つを押した。

「「赤」」

わたしたちは、声を合わせた。彼女につられて、笑ってしまう。

「「青!」」……「「緑!」」

わたしたちは、声を合わせる。彼女は、鍵盤から指を離して、澄んだ瞳でわたしを見た。

「わたし、晴夏。あなたは?」

「わたしは、美穂。二年生」

「わたしも二年」

「晴夏さん、ピアノ、うまいね」

わたしは美人と話すのが下手だけど。距離感がバグっていないか不安になる。

「晴夏でいいよ。ありがとう! ――ずっとピアノやってて。あなたは?」

と、晴夏はスケッチブックを指差して言う。

「えーと、わたしは美術部で。スケッチしに来たんだ」

「わたし絵も好き!」彼女は目をキラキラとさせた。「見せて」

彼女が、わたしのスケッチブックをパラパラめくる。

「この絵なら、こんな音楽? あ、こうかな?」

彼女が細い指で、鍵盤を押さえた。ピアノに合わせて、脳内にオレンジが舞う。

二人きりの音楽室で、色といっしょに心まで混ざり出していくみたいだと思った。

 

暗くなるまで、この力について二人で調べた。

彼女は自分の耳を入念にふさいで、わたしは言われるままに小さく鍵盤を押す。色が浮かばない。次に、わたしは自分の耳をふさいで、晴夏は鍵盤を鳴らす。色が浮かぶ。

「わたしが聴いた音が、二人が見える色になるってことみたいだね」

何度やっても、再現性があった。

晴夏とは、うれしいことに帰る方向が一緒だった。

「これ、共々感覚って呼ぼう」

彼女は言う。

「きょうきょう……かんかく?」

「共感覚って知ってる?」

「うん……文字が色になったり、匂いが音になったりするんでしょ」

「そう、それ」

「でも共感覚って、一人の中での話だよね」

「うん。わたしたちの場合、共感覚がテレパシーになる。わたしが聴いた音が色になって二人に見える。だから、共有する共感覚、共々感覚」

「共々感覚。なるほど」

わたしは晴夏の言語センスに関心した。

「共々感覚ってググっても0件っぽい」

晴夏はスマホに手をすべらせている。

「共感覚/テレパシー/音/色……色々検索しても出てこないね」

「大発見かも!」

「気になるけど……誰にも言わないでおく?」

「実験台にされちゃうもんね! ヤバい研究者に!」

晴夏は、いたずらっぽく笑う。わたしも笑いながら、今日の音楽室を思い返しながら言う。

「もっと二人で……共々感覚のこと知らなきゃ」

「うん、一緒に調べようね」

彼女は、ニコニコして言った。

手を振ったあともう一度、晴夏を振り返ると、手を振る彼女と目が合った。

すれ違う乗用車のヘッドライトが晴夏を照らす。長い髪が、夜の街にたなびく。高い腰の位置が、足の長さを強調する。彼女は完璧だ、と思った。

玄関でローファーを脱ぎ捨てると、階段を駆け上る。実は、今日頭のなかに湧き出た色を描きたくて、うずうずしていたのだ。

しかし、ペンタブレットを前にしても、記憶のなかの色彩は薄れ、うまく再現することができなかった。

彼女の隣にいるときは、あれほど鮮明だったのに。

 

 

次の日、放課後を告げる鐘が鳴ると、わたしたちは早々に旧校舎の音楽室に集った。

「今日も実験しよう」

晴夏は好奇心に満ちた瞳で言った。ピアノの鍵盤を3つおさえて、授業開始チャイムの和音を叩く。頭の中に、トリコロールが浮かんだ。

「どのくらい近づいたら色が浮かぶのか、調べてみましょ」

晴夏は用意周到に、通学バッグの中から巻き尺を取り出した。わざわざ家から持ってきたらしい。

「はじっこ持つね」わたしは巻き尺の片側を伸ばしていく。音楽室の反対側まで行く。晴夏がピアノを鳴らした。

「見えた?」

「うん、黄色。いま3メートル20cm」

音を「見」ながら、少しずつ下がっていく。廊下の窓際まで下がると、ぷつん、と色が頭から消えた。音が無色で鳴っているのが、妙に空虚だ。

「見えなくなった!」

「わたしも!」

「5m!」

わたしは空虚さを打ち消すように、大きな声で言った。

共々感覚のルールが分かっていく。晴夏が聴いた音が色になって届くのは、5m以内。それより離れると、晴夏もわたしも色が見えなくなる。つまり、わたしが5m以内にいることがトリガーになる。

「一緒にいなきゃだね」

笑いながら晴夏は、わたしに端正な顔を寄せる。緊張する。

「次の実験は……どうしよっか」

「試したいことがあるの!」

わたしは被せ気味に、早口でしゃべってしまう。あわててバッグからスケッチブックと、色鉛筆を取り出す。

「描いてみたい」

晴夏は、一瞬ぽかんとした後「だよね!」と笑った。

 

晴夏が鳴らすピアノに合わせて、色鉛筆を滑らせる。脳内の色を追いかけるのに必死だ。

「この曲は、ユーモレスク。作曲家のドヴォルザークが、アメリカから故郷のヨーロッパへ帰るとき見た光景を表現した曲だよ」

情景が浮かぶ。色鉛筆を持ち変えながら、色を重ねた。

インスピレーションのまま描き上げたのは、蒸気船が煙をあげながら、大海原を航行する絵だった。蒸気船はリッチ・レッドで、煙はロスト・ブルーで、海はフォックス・イエロー。描いているときは疑問に思わなかったが、現実離れした色使いだ。不思議なことにそれが正解だと確信が持てた。

晴夏は、興味深そうにスケッチブックをのぞきこんだ。

「――めっちゃいい感じ」

「そうかな? ……そうかも」

「センスいい」

「ありがと。見えた色、っていかモチーフ? 風景? あわてて描いたんだけど」

「絵にできるのがすごい」

「共々感覚……って」

「「ヤバい」」

わたしと晴夏は顔を見合わせた。

 

 

朝の人混みの中で、晴夏を見つけるのは簡単だ。

色が聴こえたら近くにいる。晴夏は一人のとき、いつもイヤホンで音楽を聴いていた。モルディブ・ブルーのときが多くて、今日もそう。きっと、晴夏のお気に入りの曲の色。

肩を叩くと、クールビューティな顔が一変して、笑みが弾けた。

「おはよう!」

イヤホンをとるとき、長い髪から彼女の耳がこぼれた。この小さな耳と、わたしがつながってる。そう思い、まじまじと見てしまう。晴夏は不思議そうに首をかしげる。

ちょっと離れて後ろを歩く。平凡な容姿のわたしが、晴夏と並んだら彼女が変だと思われてしまうんじゃないか。そんなことを考えて。

晴夏は歩くテンポをゆるめた。染まった頬がバレそうで焦る。

教室の前で、じゃあ放課後、と言った。待ち遠しいね、と返してくれた。

 

 

「いい海が、聴こえた」

わたしはささやく。絵の具をマグノリア・ブルーに溶け合わせ、筆を走らせる。

晴夏の指が鍵盤を舞う。持ち込んだキャンバスに、海ができていった。

「澄んでるね」

「ほら、波来たよ」

旋律がリフレインする。わたしは、押し寄せる波を描き重ねた。音が強まると、濃い青が打ち寄せ、音が穏やかになると、薄い青が引いていく。スイート・ピンクが、水面できらきらと反射している。

「泳ぎたい」

「気持ちよさそう」

話している内容を聞かれたら、おかしな二人に見えてしまうから、耳元でささやき合うのが癖になっていた。

わたしたちは、放課後の音楽室に集まる日々を続けていた。

言葉よりずっと、たくさんの感覚を交換した。

 

共々感覚を使って絵を描く。それは、予想以上にうまくいった。

わたしは、「正しい色」を簡単に見つけることができた。テーマをもっとも際立たせる色、たいていは大胆なその色を。

のみならず、楽曲に込められたモチーフ――例えば海、森、建物、乗り物、人――までも具体的に浮かび、作画を助けてくれた。
調べたところ、一般的な共感覚は、「色聴」と言われる色が浮かぶ程度が多いようで、形も浮かぶ人は少数派だった。わたしたちの共々感覚には、強力なイメージ喚起力があるようだ。

 

海の絵を眺めながら、晴夏はゆっくりと言った。

「わたしも、つくりたい」

晴夏は、ピアニストを目指している、と会ったばかりのとき言っていた。

「本当は、演奏だけじゃなく――ずっと曲が作りたかったの」

わたしが創作する姿を見ているうちに、曲をつくりたい気持ちが溢れたのだという。

「作曲、音楽教室の授業でやったことがあって。でも、難しかった」

「作れなかったの?」

「作れた。――好きな曲に似てる曲、だけ」

「枠からはみ出せない感じ?」

「そう。それでやんなっちゃって」

「分かる。わたしも、そうだった」

そう言って、わたしはスケッチブックを渡し、以前の凡庸な絵を見せた。神妙な顔でページをめくる顔に言う。

「昔から絵うまいけどなあ」

返す言葉を見つけられず、代わりに言う。

「晴夏なら、作曲できるよ」

「美穂と一緒なら、できそうな気がする」

晴夏は、顔をあげてにっこりとした。

彼女の指先がメロディを探り出す。晴夏の横顔は真剣だ。目を閉じて音を見ている。

長い時間、色が野放図に舞っていた。

やがて音の粒が揃い、色のパズルが組み上がっていく。

「あっそれいい」

つい声を出す。彼女の口角が柔らかく持ち上がる。

「できたかも」

晴夏は、深く呼吸してから、指を鍵盤に置き直す。

左手が、四分音符で低音を刻む、クイーン・チャコールの連なり。2オクターブほど上を、パワフルなメロディが彩る。ハーモニー・グリーンが、濃密に生い茂る木々のよう。リフレインされるたび樹木が立ち上がり、緑が溢れていく。ときどき、ホース・ホワイトの装飾音が、枝のあいだから陽光のように差し込まれる。わたしたちはいま、森にいる。

「どうだった?」

音楽のことは詳しくはないれど……。

「すごいよ! かっこよくて、凛々しくて、力強くて、――晴夏みたいな曲」

「ありがとう! そっかあ……うれしい」

「尊敬する……!」

「頭の中で色を塗りながら曲をつくってみたの。美穂が絵を描いているところを思い出しながら」

わたしは、いつもの音から色をつむぐ作業が逆回しになった映像を思い浮かべた。

「共感覚を持ってた作曲家は結構いて」

晴夏の頬はほんのりと紅潮していた。

「そうなんだ。画家もいるもんね」

「そんな人たちみたいに作れたらって思って、調べてみた」

「うん」

「作曲家のスクリャーピンは、音に色が見える共感覚を持ってた。ピアノの鍵盤と照明の色を連動させた改造ピアノを作ろうとしてたんだって」

「現代アートっぽい」

「メシアン、リスト、シベリウス、リムスキーも共感覚持ってたみたい」

ちょっと分からない名前が出てきた。わたしの表情を見ながら晴夏は言う。

「レディー・ガガも」

「好き!」

「ガガは、作曲するとき、音が色の壁に見えるって言ってた。そういう感覚、つかめそう。――ね、一緒に描いてよ!」

あたたかいオリジナルの旋律が、紡がれ始める。音が誘うままに、わたしは、人混みの生徒のなかで振り返る晴夏を描く。淡いパープルを基調に。ひとりだけこちらを見る少女へ、伸ばす手。晴夏が絵を横目で見る。スモーキー・パープルが、メロディへ再構成された。八分音符の和音が刻まれる。少女に向かって駆けるリズムだ。絵の中で彼女へ追いつく瞬間、晴夏が力強く最終和音を奏でた。

彼女はペダルからゆっくり足を離しながら、陶然としたわたしへ言った。

「次は、どんな色の曲が聴きたい?」

 

 

予備校の先生が、いかにわたしの色彩構成が斬新かを生徒たちへ語っている。

「美穂さんは、殻を破りましたね」

美大の入試課題を意識した習作。描くとき、わたしは脳内に生まれる色を、素直に出力するだけでよかった。作品は教室の中央に置かれ、予備校生たちの視線を独占した。嫉妬は、受ける側になると、こそばゆく、こっそり嬉しかった。

 

この話をすると、晴夏も自分のことのように喜んでくれた。

ピアノ椅子に二人で座りながら、今日も、お互いの創作がはかどる。色とりどりのスケッチブックの上に、音符に満ちた楽譜が重なっていく。

季節はすっかり冬になっていた。

わたしたちは旧校舎の音楽室に、こっそり小さなストーブを持ち込んだ。息は白い。

雪は、わたしたちをいっそう二人の世界に閉じ込めた。

 

掲示板の前に、人だかりができている。

「おめでとう! ダブル受賞! 3年A組 野口美穂さん 3年C組 月城晴夏さん」。太いペンで書かれた模造紙が、掲示板に画鋲で留められていた。となりに、絵画コンクール受賞と、作曲賞受賞の新聞記事の切り抜きが並んでいる。

ドヤ顔に見えないように表情を整えながら記事を見上げる。好奇の視線を感じる。不意に、頭の中に色が飛び込んできた。人だかりの向こうに、イヤホンをした晴夏が見える。彼女は、イヤホンを外し、小走りで駆け寄ってくる。

耳元で、やったね、と晴夏はささやく。♩♪♪。やったよ。二人の頭の中を多幸感あふれるカーマイン・レッドが満ちた。

 

 

全校集会で3度目の表彰がされた夏、わたしへのいじめがはじまった。

ショート動画の上で、スケッチブックが乱暴にめくられている。非現実的にデフォルメされた、土色の半獣――人の上半身と牛の下半身――の絵が大写しになり、「キモくない?」という太字ゴシックのキャプションでついていた。晴夏が弾いたドビュッシーからヒントを得た絵だった。

隠される上履き。水浸しになる教科書。調子のってんなよ、と言われながら押される肩の痛み。特に、スケッチブックが奪われて、わたしの絵が動画でいじられたのはきつかった。これからはこの作品を見るたびトラウマが蘇るのだ、という絶望。

目立ちすぎてしまったのだ。キャラクターやスクールカーストに似合わないほどに。

晴夏にしがみついて、胸の中で泣いた。彼女は、何も聞かないで抱きしめていてくれた。ぽつぽつと話し出すと、優しく聴いてくれた。

「学校やめたい」

わたしの弱音は、共々感覚を通して、とげとげしいスチーム・ブラックを滲ませる。

「どうしてもつらかったら、やめてもいいと思う。けど、推薦で美大に行きたいって言ってたよね。美穂に後悔してほしくない。だから、ちょっと休むのはどうかな」

……ぐす。鼻をすする音が恥ずかしい。

「それに、学校やめたら、会える場所減っちゃうじゃん」

そう言って、晴夏はハンカチで涙を拭う。いつの間にか、彼女は黒鍵に指を載せるみたいに、わたしの手にやさしく指を重ねていた。

わたしは、毎日登校した。歯を食いしばり、放課後のことだけを考えて授業に出た。放課後になれば晴夏に会える。一人でいるときも背筋を伸ばした。晴夏の姿勢を思い出しながら。

昼休みは、旧校舎の音楽室で晴夏と弁当を食べるようになった。ますます、わたしは晴夏といるようになった。

「……嫌なことがあったとき、晴夏はどうしてる?」

「わたしだったら、書くかなあ」

「書く?」

「汚い言葉を殴り書きしたらすっきりするじゃん。ばーっと」

「晴夏が汚い言葉考えるとか想像できない」

「えー? わたしも考えるよ、クソとかゴミとか」

そう言って、晴夏は美しい顔で笑った。

このところ、話す時間よりも、黙って絵を描く時間や、曲を奏でる時間が増えた気がする。尊い時間。

灰色の学校生活は、晴夏と分かち合う鮮やかな色が上書きしていった。

その頃のわたしは、推薦入試を受けるために、必死だった。

ひとつには、晴夏と同じ美大にどうしても行きたかったから。

もうひとつには、共々感覚なしで受けることが怖かったから。実技試験がある大学の試験会場5m以内に彼女がいることは、もちろん難しかった。

だから、推薦入試を受けられることになったときは、嬉しかった。高校生後半のコンテスト受賞歴が助けてくれたのだ。けれど同時に、わたしは不安だった。実技試験はなくとも面接がある。もともと話すのは下手だし、最近はますますおどおどするようになってしまった。

「ちゃんと伝わるし、熱意も感じるし、全然問題ない!」

面接の練習に付き合ってくれた晴夏は、断言してくれた。強張ったわたしの拳を包み込む。こういうのにまだ慣れなくて、頬が熱くなる。

「もう一回だけ自己紹介してみていい?」

「心配しすぎ。大丈夫だよ」

彼女がそういうと、大丈夫かも、という気がしてきた。自己紹介の練習はそのあと十回くらいしてしまったのだけれど。

 

試験前夜、わたしは眠れなかった。

あいつらから投げつけられた、しゃべり方キモいから受かるわけない、という言葉が頭から消えない。

「おやすみ。明日はいつも通りで!」と可愛いスタンプと一緒に送ってくれた晴夏のメッセージを、布団にくるまって何度も見る。

迷惑だろうか、そう逡巡したあとに送った弱音は、すぐに既読になった。

少しあとに突然、いつもの青が頭のなかにゆらめいた。彼女を人混みの中から見つける目印の、モルディブ・ブルー。

急いで窓を開けると、イヤホンに手をかけながら自転車から手を振る晴夏がいた。

青が、応援旗のようにわたしの中ではためいた。

 

 

わたしも晴夏も、無事、東京の美大へ合格した。同じ大学の、油彩科と作曲科。

受験当日まで大騒ぎしたわたしと違って、晴夏は淡々と実技試験も筆記試験も突破し合格した。わたしのときあんなに喜んだ晴夏は、自分が合格したときは、なんだか落ち着いていた。美穂が泣きすぎたから冷静になった、と微笑んでいた。

東京は、地元から遠い。

一緒に住みたい。そうと言おうと逡巡したが、なかなか言えなかった。普通のルームシェアとはわけが違う。共々感覚によって、彼女の耳に入るプライベートな音のありようが、わたしも感知できるものになってしまうから。

にもかかわらず、彼女の方から話を持ちかけてくれた。「同じ家で、一緒につくろう」。言いたかった言葉を代わりに言ってくれた彼女を、カフェという場所もわきまえず抱きしめるほどに、喜んでしまった。

同居するアパートは、大学まで30分、直通の駅にある2LDK。

一緒に暮らしはじめると、晴夏が完璧な女の子ではないことが分かった。朝は必ず二度寝をするし、食器もすぐ洗わない。せっかくの白磁のような肌を、ろくにケアしないで寝たりする。でも、そんなところも含めて愛おしかった。

一緒に住んでいると、彼女の聞く音をたくさん見ることができた。それは、彼女の美しい顔を見続けることと同じくらい、豊かなことだった。

 

 

シーツの衣擦れの音は、うっすらと虹色を描く。

月の光がカーテンの隙間からそっと差し込んでいる。セミダブルのベッドで身動きするたびに、シーツが擦れる音があたらしい色を生む。柔らかなラベンダー・イエローからオーキッド・パープルへ。陶然とした表情の彼女も、同じ美しさを感じているのが分かる。

晴夏の肩に触れる。彼女の小さな息の音は、ペール・ミントの輝きを放った。その色は夜の冷たさを和らげる温かさで、わたしたちの意識を包み込む。

晴夏がわたしの髪を撫でると、パープルがちらついた。晴夏の爪は、ピアノを弾くために短く切り揃えられていて、くすぐったい。

目を見つめ合い、同じ感覚を味わう。

晴夏がつばを飲み込む小さな音が、紅い波紋となって広がる。

わたしは、その色から晴夏が何を求めているのか分かった。

「美穂から聞こえる色は、特別」

つぶやきから生まれたサファイア・ブルーが、わたしたちのなかで広がった。

共々感覚は、わたしたちを身体より近くにつなげている。言葉は、いらなかった。

わたしたちはきっと同じ色の夢を見ながら、眠りについた。

夜にしじま、夢の狭間。深海のような黒に、小さな銀色がまたたいた。

 

わたしたちは、いつも一緒にいる。部屋の中でも、出かけるときでも。

晴夏の存在が、なによりのインスピレーションになる。彼女の顔を見ながら、彼女の音を描ける幸せ。晴夏がいなかったら、絵を描き続けられなかった。大学にも入れなかった。ずっと一人だった。

晴夏もまた、わたしの絵でインスピレーションが湧くのだと言う。

「美穂がわたしの曲を素敵に描いてくれるから、次の曲を作りたいと思うんだよ」

わたしも、彼女のためにもっと描きたいと思う。二人でいれば、世界は鮮やかだ。

 

 

「そうそう、この曲こんな夕焼け!」

晴夏が、楽譜を握りしめながら、わたしの肩越しにタブレットをのぞき込む。

わたしは、デジタルとアナログどちらの手法も使うが、晴夏は手で音符を書くことや生のピアノを使うことを好んだ。DTMソフトに打ち込むぎりぎりまで、紙の譜面に鉛筆で書いては消し、試行錯誤していた。「書くと整理できるんだよね」。格闘している彼女の後ろ姿で、長い髪が揺れていた。

「ビルの向こうに日が沈んで、最後に太陽が膨らんで」

わたしは、タブレットの上で、タンゴ・レッドを塗り重ねた。彼女の音は、郷愁の色。わたしの役割は、その繊細なクオリアを絵で再現すること。

完成すると、わたしは背景と人物をレイヤーに分けた原画を、アニメーションスタジオへと送付した。協力してくれるのは、アニメスタジオ「プリポスト」。地上波のアニメも手がけている。彼らは、わたしの原画をもとに動画を制作することになっている。

二人にしか作れない、誰にも制作過程の分からないミュージックビデオ。

わたしたちは、現役女子大生アーティストとして商業的な仕事をはじめていた。レコード会社と契約した晴夏は、デビュー曲のミュージックビデオに、わたしの絵を起用することを希望した。一足先にわたしの名前が売れていたおかげで、希望は通った。

完成したミュージックビデオが公開されると、珍しいインストゥルメンタルにも関わらず、瞬く間に再生回数は10万を超えた。「神MV」「曲とビジュアルが完璧に調和」「美人すぎるコンビ」コメント欄は、おおむねポジティブといえる声であふれた。

「晴夏、うれしい」

わたしはYouTubeのコメント欄をスクロールする。二人でつくったものがたくさんの人に届いていることに、胸がいっぱいになる。

「美穂の絵を、じゃましなくてよかった」と晴夏は微笑んだ。

 

観客席が、静まっている。晴夏が鍵盤に指を落とすと、最初の音が会場に響き渡った。

わたしはピアノの隣で巨大なキャンバスと向き合っている。音に合わせて、最初の一筆をモンドリアン・レッドの色をのせて走らせた。

晴夏が奏でる音が、キャンバスへと導かれていく。メロディーが真紅のうねりと変わる。アルペジオが、ホワイトの彩りを加える。

「ライブペイントライブ」。そう銘打たれたイベントは、音楽と視覚が一体となる特別なパフォーマンスだ。ライブペイントと音楽ライブを組み合わせた造語。晴夏が即興を絡めながら自作曲を演奏し、わたしがリアルタイムに絵を描いていく。共作したMVが好評だったため、広告代理店からオファーが来たのだ。

32分音符が駆け上がる。情熱的な紅が跳ねる。歓声のパリ・ゴールドを、わたしはドリッピングして散らす。

赤と黄金が、グランドピアノの筐体にプロジェクションされた。描く色が、打鍵に合わせて、ピアノを次々に染める。スクリャーピンの改造ピアノの発想をヒントに提案した演出。音と色のシンクロニシティが、観客を魅了する。

そのとき、わたしのこめかみに痛みが走った。集中のし過ぎだろうか。こちらを見た晴夏が、微かに眉をひそめる。指が迷うように鍵盤を滑り、リズムが一瞬揺れる。色が滲む。かすかな違和感。観客にはわからないだろう。すぐに立て直したわたしたちは、再び音と色に没入していく。

フォルテッシモの旋律が会場を包む。最後のフレーズを、バーン・レッドの流線型に変えて、パフォーマンスは幕を閉じた。立ち上がって拍手と声を送る観客の反応が、成功を物語っていた。

どちらからともなくハイタッチをする。

「美穂と音楽作れるようになって、ほんとによかった」

ステージの上に、本日演奏した曲数分、6枚のキャンバスがそれぞれの魅力を湛えて並べられていた。

ステージを降りると、広告会社の営業が満足そうに「最高でした! 次のプロジェクトもぜひお願いしたいですね」と話しかけてきた。

歓声は、まだ黄金色に響いている。

 

 

わたしと晴夏は、リビングで次のイベントの企画を練っていた。

窓の外は薄暗く、街灯が灯り始めている。晴夏はピアノの前に、わたしはフローリングに座っている。それぞれに楽譜とタブレットを広げ、音楽と絵をどう組み合わせるかを話し合っていた。

「もう少し柔らかい世界観がいいと思うんだよね」わたしは提案する。次は、有名な歌い手を起用することになっている。彼の中性的な声の魅力を引き出したい。

「淡いピンクとブルーでおとぎ話の世界みたいな……」

晴夏は鍵盤を鳴らし、少し間をおいてから、柔らかな笑顔を浮かべた。

「うん、方向見えた気がする」

彼女はわたしの提案にぴったりのフレーズを鳴らした。いつだって最短距離で、わたしたちはインピーションを与え合うことができる。

嬉しくなり、彼女の肩にもたれかかる。

「ね、新曲はつくらないの? もちろん前の曲も最高なんだけど」

「……ちょっと待っててね! すごいのつくるよ」

「楽しみ!」

晴夏は、じっとわたしの顔を見つめた。「あのさ」

「ごめん、一瞬」

わたしは、唐突にインスピレーションが湧きタブレットに落としこむ。

「……そろそろ夕飯にしようか。頑張りすぎもよくないからね」

晴夏の声はやさしい。もうそんな時間か。過剰に集中しがちなわたしをよく見て、バランスを取ってくれるのも好きなところだ。

「久しぶりにシチューでも作ろうか。晴夏が好きな、野菜いっぱいのやつ」

「一緒につくろう」

晴夏はにっこりと笑って、キッチンへ立ち上がる。わたしたちの日常はこんな風に、創作と生活が溶け合うリズムでできていて、心地よかった。

包丁の音と野菜を切るリズムが、幸せなトイ・イエローを描く。この色のイメージ、新しいMVに使えるかも――そんなワクワク感を感じていた。そうだ、そろそろ二人をユニットにして名前をつけてもよいかも。あの広告会社の営業に相談してみようか。

彼女の横顔は穏やかだ。シチューが煮込まれるぐつぐつという音が、おいしそうなリヨン・ベージュになり部屋を満たしていく。

 

 

晴夏が救急車で運ばれたと連絡を受けたとき、何かの間違いだと思った。

わたしは大学で講義を受けていた。久しぶりに、一人の時間が長い日だった。

今朝も一緒にいた晴夏が、どうして急に? 何が起きたのか理解できないまま、病院へ急いだ。

病室に着くと、すでに晴夏は処置を受けた後で、静かな表情でベッドに横たわっていた。規則正しく胸が上下している。瞼は固く閉じられていた。

「睡眠薬を過剰摂取したようです。レコード会社の方が早めに発見してくださって。一度、ほんの短い時間だけ意識を取り戻したのですが、それきり――」

看護師から、そう告げられた。

彼女は、そのとき混濁した意識で、歌声ともうなり声ともとれる声をスマホに入力していたという。電源が切れた真っ暗なスマホがベッド脇のテーブルに横たわっている。それは否応なしに死を連想させた。奥歯が、知らずにかたかたと鳴る。

晴夏が睡眠薬を? なぜそんなものを? 明るくて、いつも笑っていた彼女がどうして? 嗚咽も混乱も、止めることができない。

少し疲れている様子はあったけれど、わたしたちは未来のことを話していた。次のMVについて、ユニットのネーミングについて、開設する公式SNSについて……。信じられない気持ちと、目の前の現実が交錯して、胸が締め付けられる。

わたしは彼女の手を握り、ただ祈った。

 

何が晴夏を追い詰めたのか。

意を決して、晴夏の部屋を探ることにした。彼女の匂いが詰まっていて、それはわたしを苦しくさせた。

部屋を探っていると、机の一番下の引き出しが施錠され開かないことに気づいた。

鍵は、机にも、クローゼットにも、本棚にも、どこにもない。

わたしは、夜半に晴夏から届いていた、かすかな共々感覚を思い出した。

小さく光る銀色が、海底のような黒に落ちる感覚。あの色は――。

わたしは、ピアノの蓋を開け、隠された鍵を見つけた。

引き出しのなかには、書きかけの楽譜。わたしからの手紙。二人の写真。そして、ノート。ためらいながらページをめくると、それは晴夏の日記だった。

わたしは、晴夏にいつか質問をしたことを思い出していた。嫌なことがあったとき、彼女がすること。

震えながらページをめくる。語られなかった言葉が、彼女の筆跡で叫んでいた。

 

 

9月9日

いい曲ができた。

美穂にも新しい装丁の仕事が来た。

うれしい。

今日は美穂が家事やってくれたから、明日は私がやる。

 

9月11日

変だ。音が色に見えないときがあった。

美穂もそばにいた。気のせいだと思ったけど、二回あった。

色が、ぼやける。

 

9月18日

イベントをこなせてよかった。

音が色にならないことが増えてきた。今日は五回。

曲がつくりにくい。

あの感じが、消えていく。

自分が自分じゃなくなる。

 

わたしはページを握りしめていた。

何も知らずにいた間、彼女はこんなにも孤独に囚われ、戦っていたのか。

彼女らしくない乱雑な文字に、変わっていく。

 

9月20日

隠すのしんどい。

音楽を色に変えるから、一緒にいられるのに。

感覚を分かち合えなくなったら、どうなるんだろう。

こわい。

 

9月24日

クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ

やだやだやだやだやだやだ

色が見えない

いっしょに作れない。いる理由がなくなる

私はゴミだ

あなたに言えなかった

 

9月25日

なんで、あなたはきづかないのだろう?

ぜんぜん音が見えなくなったのに

もしかして

 

息をのんだ。

確かに、わたしはずっと不自由なく、色を聴いて描いていた。

 

9月26日

美穂だけ色を聴けてる?→私からのテレパシーじゃない→美穂の中だけ共感覚→いつも一緒にいるから気づかない→一緒にいないときはなんで?

 

9月27日

わかった

あなたは思い込んでる

 

9月29日

ずるい

あなたは私がいなくても色を聴ける

盗られた

私だって作曲に色が必要なのに

笑ってる顔がつらい

よろこぶふりしたくない

私は空っぽなのに

 

うまく呼吸ができない。

晴夏は、共々感覚を失ってしまっていた。隠し通していた。

わたしは、自分だけの力で、色を聴いていたのだ。

彼女が聴いた色を見ていると、信じ込んでいた。

わたしだけが得たのは音を色にする、ある意味一般的な「共感覚」。

 

わたしは、自分の脳を思う。

幾度も刺激されるうちに、感覚野に特殊な電気信号の通り道が生まれる様子を思う。

電気信号の通り道をうしなった彼女の脳を思う。

シナプスとシナプスのつながりが永久に損なわれる様子を思う。

 

最後の日付の日記は、殴り書きに近かった。

 

10月5日

あなたは描けなくなればいい 

私は消える あなたはもう描けない

私がいないと色が聴こえないと信じているから

暗示を自分にかけてそうなってるから

 

あなたはいつかユーモレスクを聴いて蒸気船を描いた

作曲家は汽車をイメージしてあの曲をつくった 鉄道が好きだったから

けどあなたは、アメリカからヨーロッパ、という言葉に引っ張られた

あなたは先入観を持ちやすいと分かってた

かんたんにだませた

 

傷跡になれば、あなたは永遠に私を忘れない

絵が描けなくなれば、私を、恋しく、痛く、思い続ける

血が流れつづける

 

頬をぬぐいながら、わたしは汽船の絵を思い出す。

いつも具体的にイメージしていたモチーフたちは、共々感覚の恩恵などではなかった。暗示や先入観や思い込みにまみれたものだった。

彼女は、絵を奪うことで記憶させることを望んだ。存在を絶望で刻むことを望んだ。

 

わたしはずっと、晴夏と同じ色を聴いていると、信じ込んでいた。

 

 

暗い部屋のなかで、スマートフォンの四角だけが明るい。

もう何十回目かわからない、ふたりのミュージックビデオのリピートがされた。

どれくらい、こうしているだろう。着替えることも、クレンジングシートを手に取ることも億劫だ。

ぼんやりと、色のような何かが頭に浮かんでは消えていくような気がする。

スマホを雑に縦スクロールすると、コメントに目が止まった。それは、小さな猫のキャラクターがアイコンだった。

 

@asuka2011 ガチでこの曲好き 1000は再生数貢献してる 聴いてるから生きてける 

中学クソだしいじる奴タヒねばいいけど 聴きながらがんばって登校してる

 

わたしは、泣き顔をうずめた晴夏の胸のあたたかさを思い出した。

少しずつ、現実にピントが合ってくる。

再び楽曲の冒頭が流れ出す。このAメロを紡いだとき、晴夏ははしゃいでいたっけ。このBメロに、晴夏は苦労していたな。この大サビ、どのパターンが伝わるか、ずいぶん相談された。ぜんぶ、切実で、あたたかかった。

音楽の中に、晴夏がいた。あの日記のなかに晴夏がいたように。

机の上の、錠剤を見る。乱雑に散らばっている。しばらくのあいだ、じっと見つめていた。

なんとか、立ち上がる。

立ち上がらなければ、ならない。

もう、カーテンの向こうは明るくなりかけている。

 

 

わたしは、病院のベッド上に横たわったままの晴夏に話しかけた。

「ねえ、晴夏。――本当は、見つけてほしかったんじゃないの。あの日記を。

本当は、気づいてほしかったんじゃないの。

わたしが弱いから、あなたは強くい続けなきゃいけなかった。

わたしが泣くから、あなたは笑っていなきゃいけなかった。

ごめんね。

気づいてあげられなかった」

ベッドの上の晴夏は、静かに呼吸している。

「色なんかより、心を見なきゃいけなかった」

点滴が一滴、したたり落ちた。

「――お医者さんから聞いたよ、睡眠薬、死ぬためにはぎりぎりの量だって。

家にはまだいっぱい転がってたよね。

本当は迷っていたんだよね? 

しがみつくことを。

あなたにしがみついたわたしには、分かるよ。

わたしは、そうだって信じる。信じるのは得意だから」

 

膝のうえには、スケッチブックと高校時代に使っていた色鉛筆。

彼女のスマホの暗証番号は、わたしの誕生日だった。ごめんね、と目の前で眠る晴夏に小さくつぶやいて録音アプリを開くと、果たしてそれはあった。

最後に晴夏が吹き込んだ曲。

再生ボタンを押す。か細く音程の不安定な声が、ノイズ混じりに聴こえてくる。

自分に「共感覚」があると実感した今、音から色や風景が浮かんできた。

――緑のリノリウムの床。黄色く日に焼けたカーテン。白い壁。灰色のスリッパ。

わたしは、スケッチする。脳内の色の奔流に従う、いつもの方法。深く身体に刻まれた、手癖。

あっという間に、ページの上にこの寂しい病室の風景が再現された。

 

わたしは、ページを破り捨てた。

 

「晴夏、それでもわたしは」

――描く。

色鉛筆を持ち直す。

わたしは、「共感覚」を抑え込んだ。

音から浮かぶ色を、強引にねじ伏せる。力づくで。ねじ伏せられると暗示をかけるのだ。自分へ。

湧き出す色に頼らないわたしは、荒野に放り出されたようだ。

支えるものがない。どこに行けばいいのかわからない。

けれど進む。晴夏の音楽が鳴っている。

わたしは、あの懐かしい想像力を起動させる。

想像しろ。絵を描く喜びを知ったときのように。

 

音楽室から見える青空。

古びたグランドピアノ。

かたわらに座る美しい少女。

素敵なことを思いついた表情。

鍵盤を舞う指。

スケッチブックの上に、たどたどしく絵が生まれていく。

 

わたしは描き続ける。

ぜったいに目覚めるはずの彼女に、まっさきに見せるために。

文字数:15871

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