量子猫系彼女のトリセツ

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梗 概

量子猫系彼女のトリセツ

シュレディンガーの猫という思考実験がある。
箱の中に生きている猫、検出器、いまにもα崩壊を起こしそうな原子核を入れる。検出器が崩壊を検出したとき毒ガスが流れ猫は死ぬ。原子核の崩壊は確率論に左右されるからマクロな世界で生きる僕らに猫の生死は判定できない。

しかしこの命題を簡単に無効化する方法がある。それは猫を量子力学の原理で振る舞う量子力学的猫に変更することだ。そうすれば二つの状態が共存する量子猫が生まれ、こんな実験をする必要はなくなる。

話は変わるが、僕の彼女、喜美ちゃんは量子猫系彼女である。

僕と喜美ちゃんは付き合ってからちょうど一年目の記念日を迎えようとしていた。
サプライズを計画していた僕はあえて記念日を忘れたふりをする。しかし朝起きると喜美ちゃんから怒りのメッセが届いている。

今日、何の日かわかる?
え?ゴミ出しの日?
アホ馬鹿

サプライズを計画している以上、記念日のことは話せない。とぼける僕に喜美ちゃんは激怒する。授業中に解決策を考える僕。しかしそれは難しい。量子猫系彼女である喜美ちゃんは共存可能な全ての世界の履歴を持っている。

量子猫系彼女 取扱要綱2
あらゆる全ての彼女が彼女である!

複数の履歴を持つ彼女は複数の状態の中に生きている。そのため機嫌が良いと思ったら悪いなんてことも往々にある。今回もそうだった。

解決策が浮かばないまま下校時間に。サプライズを予約している店に向かうと何故か喜美ちゃんがいる。焦った僕は彼女が隠れて毎日通っているクレープ屋に誘導しようとするも「そんな行ってねーよ!」と喧嘩に。

険悪なまま帰路につく二人。僕は他の全ての世界でも僕と喜美ちゃんは付き合っているだろうか?と自問する。けれどこの世界全体の可能性を考えたとき、僕らが付き合っている世界はそのごく一部でしかない。

量子猫系彼女 取扱要綱3
粒子は一つでも干渉を起こす!

つまり喜美ちゃんは一人でもやっていける。誰かとペアになる必要はないし、ペアが僕である必要もない。

そのとき雲の切れ間から丸い月が見える。それを見て僕は、彼女に告白したときも月が出ていたことを思い出す。

観測できなくとも月はそこにある。僕にとってこの世界が唯一の世界であるように彼女の手を繋ぐのも僕のその手だけだった。

僕が喜美ちゃんの手を取ろうとすると彼女も同時に手を伸ばしていた。

喜美ちゃんは怒ってなどいなかった。実は日程アプリを共有設定しており計画は筒抜けだった。だから蚊帳の外にされるのが悲しかった、一緒に準備したかったと言う。

想いと量子の関係は似ている。
想いは観測できない。しかし言葉にした瞬間、確定する。

再び見えなくなった月を見て喜美ちゃんが言う。

私、見えていないものは存在しないと解釈しているの。
僕は応える。でも見えなくとも月はそこにある。それはいつだってとても綺麗な月なんだ。

二人は一緒に帰路につく。経路は違ったが二人は同じ場所に行きついた。

文字数:1200

内容に関するアピール

SFとは何か。これを考えた時、自分はコラージュすることだと考えました。

性質の違うものを組み合わせ一つの作品とする。コラージュとはこのような技法を指します。身近な例で言えば新聞を切り貼りして作るスクラップ帳などがあげられるでしょう。

SFにできることも、これに近いものだと考えています。

普遍的な概念や出来事をまったく別の言葉で言い表す。あるいはガジェットや理論といったフレームワークを通じて提示する。そうして出来上がったSF的概念で逆翻訳された世界を語ること。

今回は量子力学と高校生の恋愛のコラージュを考えました。

恋愛には、様々な出会い、感情の遣り取り、そして衝突があります。

量子の世界にも同様に、様々な粒子の運動があり、エネルギーの遣り取りがあり、干渉があります。

じゃあこの二つを並置して語ってみたらどうなるか?

かなり突飛なコラージュですが…。こうした発想の飛躍、それを楽しんでもらえたらなと思います。

文字数:400

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量子猫系彼女のトリセツ

ぼくの目の前に箱がある。真っ黒でかなり大きな箱だ。一辺は約六十センチほどで、表面はカーボンのような艶を帯びている。一年前ここには別の大きな箱、水槽という箱が置いてあった。その水槽には金魚のアリスとボブが入っていた。アリスは雌のリュウキンで、ボブは雄のデメキン。ぼくは二匹にいつも餌をあげすぎていた。
いま、僕の目の前にある箱には金魚は入っていない。水も入ってなければ餌もあげすぎたりはしない。その代わり猫のベルが入っている。
ぼくは箱に手をかざすと中身が見えるよう表面レイヤーを透明化させる。猫のベルは現れたぼくに気が付いて「うなぅ」と退屈そうに欠伸をあげた。
ぼくはそこで装置を起動させた。箱の中に半減期が一六〇〇年ほどの放射性同位元素と粒子測定装置、そして毒ガス瓶を配置する。
単純計算で〇.一ミリグラムあたり毎秒一万七千回の確率でα崩壊を起こす放射性核子を検知して、箱の中にぷしゅっと音を立てて毒ガスが噴射される。毒ガスを浴びたベルは苦しそうにぱたっと倒れて動かなくなる。
ぼくはそこで装置をストップさせるとタイムレコードを数秒前に巻き戻す。床に伸びていたベルはふたたび立ち上がると前と同じように前脚を舐め始める。
そしてもう一度、装置のボタンを押す。今度は検出レンジを広く取って、より多くの核子を捉える設定にする。一、二、三、四……。十を数えあげたところでふたたび毒ガスが噴射され、ベルはまたしてもこてんと倒れて静かになった。
放射性同位体の崩壊は確率論によって決められる。半減期で一六〇〇年後には半分になることはわかっているけども、それがいま起こるか、それとも二〇〇年後、三〇〇年後に起きるかは本質的にはわからない。
これがぼくらの生きる、いわゆるマクロの世界だ。
一寸先は闇、というのは例えじゃなくて、実はこの世界の真理を表していることに多くの人は気付いていない。ぼくらはこの瞬間にも様々な可能性を帯びて生きている。一秒後には死んでるかもしれないし、世界がなくなっているかもしれない。そして誰かのことを好きになっているかもしれない。
この黒い箱を作ったのは、ぼくがもっと彼女のことをわかるようになるためだ。
プログラムの猫「ベル」はどんな子供でもお金と親の許可さえあれば、ネット経由で何億円もするスパコンや量子コンピュータにアクセスできるようになった時代に作られた計算機上の猫だ。
プログラムの猫だから、こんな酷い実験をしても、ぼくの心はちょっとしか痛まない。それに何千、何万回と実験をする上で計算ノードを量子的に隔離できるベルは役に立つ。
ぼくはこれまで何千匹ものベルを殺してきたけれど、それと同じくらい平然としているベルも眺めてきた。ベルが生きているか死んでいるか、それは均等に半分の確率だ。実際は微妙にズレが生じるけれど、ぼくが設定した仮想の同位体の放射線を検知して、箱は五十%の確率でベルを窒息させる。
ベルは死の瞬間、あるいは生きる?――瞬間、どれも違った反応を見せる。
毛繕いしているときもあるし、飽きて眠っているときもある。まずいことに箱の中にある毒ガス瓶を爪でガリガリやっている時だってある。分子配列レベルで、現実の猫を真似て作られたベルは、現実の猫同然の愛くるしさと気まぐれさを振りまいている。
ベルが箱の中で経験する何千何万回ものシチュエーションは、ベルにとっては全部違う。もちろんぼくにとっても違うわけだけど、とりわけベルにとっては殊更違う。
だからぼくはベルに聞きたい。
いま君は何を思っているのだろうかって。
何千何万回の別バージョンのベルとの違いを少しでも感じているのか。それとも感じてないのか。自分の別バージョンのシミュレーションがすぐ隣のノードで計算されているとき、その認識は自身の選択に影響をもたらすのか。
ぼくがなぜベルを飼い始めたか、ひいてはこんな回りくどいやり方でベルの量子的実在性を確かめている理由はここにある。ひとえに喜美ちゃんがベルと同様、量子的な存在であるからだ。

ぼくの彼女、喜美ちゃんは量子猫系彼女である。
箱の中で死んでるかもしれないし、生きているかもしれない量子猫は、つまるところ、あらゆる世界に分布する確率論的な猫のことだ。そして喜美ちゃんもそれとまったく同じ仕組みでこの世界に存在している、らしい。
らしいと言ったのは、ぼくにもそれが具体的にどういうことだかわかっていないからだ。というより、厳密に言えば、ぼく――ひいては、ぼくらにはその存在様式を理解することは絶対にかなわない。
量子猫の存在は経験不可能性に満ちている。それは女の子の気持ちと同じくらい未知のもので、その話でいえば絶賛ぼくもその乙女心なるものに惑わされ中だ。
今日でぼくと喜美ちゃんが付き合ってからちょうど一年が経つ。つまり交際記念日というわけで、ぼくはそこであるサプライズを計画していた。
学校からの帰り道、通学路からは少しそれた小高い山の上にあるおしゃれなカフェ。そこでぼくと喜美ちゃんの記念日を密かに、そして盛大に祝うのだ。もちろんすでに予約の電話は入れてある。記念日お祝いプランにメッセージプレート付きケーキセット。当日の誘導も自然な感じになるよう頭のなかで何度もシミュレーションした。
そうして、さあ明日は頑張るぞといつもより早めに就寝し、翌朝起きたらものすごい数のメッセが喜美ちゃんから届いていたのだ。

0:13 今日、何の日かわかる?
0:19 既読つかん笑
0:29 あれ、もしかして寝た?
0:30 着信
0:31 着信
0:50 本気?

しまったと思ったときにはもう遅かった。ぼくは起き抜けの頭で急いで返信する。

7:10 おはよ、普通に寝てた笑
7:14 え、なんだろ? ゴミ出しの日?

喜美ちゃんからの返信。

7:15 アホ馬鹿

結局これ以降ぼくのメッセは無視されている。
とまあ、こんな感じにぼくは彼女を怒らせ、記念すべき交際一周年を早々ぶち壊してしまったのだけれど。でも正直たいしたことないだろうとぼくは高をくくっていた。学校で会えば、ちょっぴり機嫌が悪いくらいで、すぐにいつもの喜美ちゃんに戻るだろうと思っていた。けれど廊下で声をかけるぼくを無視して、そのまま自分の教室に早足で入っていく喜美ちゃんを見て、ぼくは考えを改めた。
馬鹿なぼくはここでようやく気が付いたのだ。喜美ちゃんがめちゃくちゃ怒っているということに。ぼくは生徒たちが行き交う廊下にひとり立ち尽くし、その手がむなしく空を切るのを他人事のように眺めていた。

いかにして、ぼくらは他者の感情というものを理解し得るのだろうか。
一限目、生物の授業中にぼくはそんなことを考えていた。
「さて、教科書の六十七ページを開いてください。先週の授業に引き続き、今日は動物の進化と遺伝の項目です」
そう言って、生物の田中先生は慣れた手つきで授業用のスライドを黒板に表示する。
これは個人的な印象だけど、生物っていうのは物理と違って滑らかなイメージがある。もちろんそれは教科の印象ってことだけど、実際、堅物な物理の原先生と比べると、パリッとした紺のワイシャツに穏やかな笑みを浮かべた田中先生はいくらか親しみやすい。
でも、ぼくはこの田中先生が苦手だったりする。田中先生と原先生、どちらか選べと言われれば、ぼくは絶対原先生を選ぶだろう。何故かといえば、田中先生は何を考えているかわからないからだ。
たしかに、常にむすっとした表情でぶっきらぼうな口調の原先生と比べれば、田中先生は親しみやすい。でも田中先生はいつだって温和で無口で、感情を表に出したり声を荒げたりはしない。ぼくにはその見えない感じが不気味だった。
でも、ぼくはこうも思う。きっと田中先生は本当に温和で感情を表に出したりしない人なんだろうな、と。心のうちに何かを秘め隠しているわけでもないし、感情を必要以上に抑えているわけでもない。それがありのままの田中先生の素の人格なのだ。
さて、それでは本題。喜美ちゃんはどうだろう。
喜美ちゃんはとてもわかりやすい女の子だ。楽しいときに笑い。悲しいときに泣く。少し気分屋すぎるきらいはあるけれど、至ってストレートに感情表現をする魅力的な女の子だ。
今日は例外的に無視という形でぼくに不満を示してきたけれど、彼氏が交際記念日を忘れていたと考えれば、対応としてはわからなくもない(かな?)。
でも残念ながら喜美ちゃんは普通の女の子ではない。彼女は量子猫系彼女なのだ。

量子猫系彼女の取扱要項その1
事業者は、私(春田喜美)と交際するにあたって、この要綱を熟読し必要な措置を講じなければならない!

一年前の今日、勇気を出して告白したぼくに喜美ちゃんはこのトリセツを差し出した。まるでぼくが告白するのを知っていたかのように、ああやっぱりねという表情で、喜美ちゃんは驚くほど自然にぼくの手を取り言った。
「ほら、私たち付き合うんでしょ?」
彼女は量子の世界に生きている。それがどういうことだか、ぼくはいまだに呑み込めていない。彼女と同じような存在の仕方をしている人はほかにもいて、それはクロノスティック・何ちゃらとか、量子的自己同一性とか、やたら長い用語で呼ばれている。彼らはどんな場所にも同時に存在する(ように見える)し、どの世界の履歴も共有している。
ぼくらにそれはできない。デコヒーレンスにより枝分かれし、互いに無関係になった世界を認識することは、ぼくらにとってセーブデータの複数あるゲームを同時にプレイするようなものだ。
だけどそれがどういうことなのか、ぼくは少しだけ理解した気がする。
今朝ぼくの目の前を澄まし顔で通り過ぎていったときの喜美ちゃんの表情。あれは一年前、彼女が見せた「やっぱりね」と同じものだった。
喜美ちゃんのあの妙に達観した表情は、たんに彼女がサバサバした性格だからというわけではない。
彼女は実際、本当に達観しているのだ。
彼女はあらゆる世界を同時に生きている。あらゆる世界の歴史――履歴を持っている。それはつまるところ、あらゆるあり得たかもしれない世界を見てきたということで……。時間こそ越えることはできないらしいけど、彼女は量子の不思議な性質によって、ぼくと現在進行形で付き合いながらも、ぼくと別れたことあるはずなのだ。
つまり、喜美ちゃんは「ぼくと付き合っている世界」と「そもそもぼくとは知り合わなかった世界」、そして「なんやかんやあって、ぼくと別れた世界」の全部を知っている。だから今日この瞬間が、ぼくと喜美ちゃんが別れた世界への分岐点であってもおかしくない。
「これって結構、マズいんじゃないか?」
「なにがまずいのかな?」
気づけば、田中先生がぼくの真横に立っていた。
「教科書、六十七ページ」
そう言って、先生はトントンとぼくの机を叩いた。
「授業はちゃんと聞くように。追試を受けたいなら別ですが」
訂正。田中先生は普通に嫌な性格だ。

そのあと、ぼくは何度か喜美ちゃんとコンタクトを取ろうと試みた。
会って話せば、ぼくが記念日を忘れていないことを伝えられるだろうし、その流れで予約した喫茶店に誘導することもできるかもしれない。
でもぼくが会いに行くと、決まって喜美ちゃんは席を立ってどこかへ行ってしまう。追いかけても小走りで女子トイレに行くものだから、これは完全にぼくのことを避けているのだろう。一度なんか、ドアの前でばったり出くわして「どいてよ」とキッツい口調で言われたものだから、ぼくも完全に意地になった。そのまま十分休憩が終わるまで、トイレの前で待っているつもりだったのだけど、周りの女子の視線が凄かったのですぐにやめました。
結局、午前は上手い具合に避けられて、ぼくは喜美ちゃんとまともに話すことができなかった。ぼく自身、もう少し上手く立ち回れないものかと思ったのだけれど、喜美ちゃんの逃げっぷりは凄まじく堂に入ったもので、さすが猫系彼女を自称するだけのことはあるなと感心してしまった。
「いやいや、こんなしょうもないこと考えている場合じゃない」
このままではせっかく予約したサプライズがおじゃんになってしまう。それどころか、ぼくと喜美ちゃんは本当に破局することになる。それだけは何としてでも防ぎたかった。
お昼休みに入り、ぼくは本格的に喜美ちゃんのあとを追った。案の定、教室に喜美ちゃんはいなかったので、ぼくは惣菜パンを片手にあてどなく喜美ちゃんを探し回ることになった。
食堂、中庭、体育館に、校舎裏ベンチ。ぼくは喜美ちゃんがいそうな場所を逐一まわって、そこに彼女の痕跡がないかチェックした。もはやほとんどストーカーと言ってもいいが、そこは初志貫徹の精神でやりぬいた。階段裏やカーテンの隙間に姿を隠している可能性も考慮して、念のため何度かフェイントも織り交ぜる。
そして結局、喜美ちゃんは教室で他の女子たちと和気藹々とお喋りに興じていた。徒労にうなだれたぼくのことを、喜美ちゃんは「ふふん」といった顔つきで横目に見た。
あなたの考えることなんて手に取るようにわかる。だって実際見てきた﹅﹅﹅﹅から。以前、喜美ちゃんはぼくにそう言ったことがある。
もうここしかチャンスはないと思ったぼくは思い切ってその輪の中に突撃した。そのまま呆気に取られている彼女の手を取って、教室の外まで引っ張っていく。抵抗されるかと思いきや、喜美ちゃんは案外、素直についてきてくれた。
「ちょっといったん話そう」
「話すって何を?」
「喜美ちゃんがぼくのことを誤解していることについて」
「私、なにも誤解してないけど……」
喜美ちゃんはそう言うと、つまんなさそうに吐きつぶした上履きの踵を直し始めた。
「いや、だから、それを話すんだって」
「話して、どうなるっていうの?」
「それは話してみないとわからなくない?」
「目的のはっきりしない会話は時間の無駄だと思います」
なんだか学習指導の先生みたいな話し方だな。失礼にもそう思った矢先、喜美ちゃんはぼくの鼻先にビシッと人差し指を突き付け、
「あなた、いま失礼なこと考えている」
そう言って、喜美ちゃんはいつもの倍くらいの大股で教室へと戻っていった。
ぼくは呆然とし、そのうしろ姿を見送っていたわけだけど、時間――ここでは運命と言った方が自然かもしれない――とは面白いもので、ちょうど昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴ったのである。

午後の授業が終わり、ぼくはとうとう諦めた。
もちろん喜美ちゃんとの関係を諦めたわけじゃない。そっちは絶対に諦めないけれど、サプライズの方はもう間に合わないので普通に諦めた。気合を入れてキャンドルセットまで予約したのに、来店したのがひとりとあってはなんだか立つ瀬もないし、身の置き所もない。
というわけで、ぼくは気が進まないながらも喫茶店にキャンセルの電話を掛ける。
電話を掛けながら、ぼくは教室から校門の方をちらと覗いてみる。普段ならそこで文庫本を読みながら待っている喜美ちゃんの姿が見えるのだけれど、今日に限ってはそんな気配はない。
「はい、喫茶CHROME CATです」
電話に出た店員さんにぼくはキャンセルの旨を伝えると早々に電話を切った。
最終的にサプライズ関連のものはキャンセルし、ケーキはそのまま持ち帰ることにした。メッセージプレートに関してはそのままケーキと一緒に持ち帰ることも可能だったけれど、お店の方で廃棄してもらうことにした。残念だけど、いまのぼくにはそれを直視する勇気はない。
ぼくは一仕事やり終えた時の、あの満足したような疲れたような感じの息を吐いて、窓からふたたび校門を覗いた。けど、やはり喜美ちゃんの姿はない。
下校中の生徒に紛れても、喜美ちゃん特有のあの平行移動するみたいな重心の低い歩き方は遠くから見ればすぐにわかる。本人は猫の歩き方だよと言っていたが、どちらかというとペンギンみたいな歩き方に見える。と言ったら、ものすごい勢いでシバかれるだろうから直接口には出さなかった。
けれど、喜美ちゃんは何となく口を尖らせて、ぼくの言わんとしていることを理解していたように思う。理解して少しキレていたように思う。
そう、このときから喜美ちゃんはぼくのことを見通していたのだ。
ぼくが大概、物事が顔に出やすいタイプだっていうのもあるけれど、おそらく喜美ちゃんはそこに、ぼくではないぼく﹅﹅のことを見ていた。無数にいるぼくを、無数の一人の喜美ちゃんが見ている。そんな想像が頭の四隅を掠めていった。
ぼくはそこで鞄からあのトリセツを引っ張り出した。

量子猫系彼女 取扱要綱2
あらゆる全ての彼女が彼女である!

一つの答えが量子から見た世界の成り立ちから説明される。
それはこの窓から見下ろす世界と似ているのかもしれない。
ここから見える景色。ぼくの通う高校は街の中心部から離れた小高い丘の上に建っているから、ここからだと街全体が良く見える。右手には駅を中心に菌糸のように広がる街並みが、左手には巨大な高速道路の橋脚が知恵の輪のように絡み合っている。
その一つ一つをぼくはクローズアップする。
近場の公園では子供がブランコに乗って遊んでいる。通学路沿いの古本屋では腰の曲がったお爺さんが杖を片手に本を読んでいて、その向こうには同じ形をしたクリーム色のマンションが延々と連なっている。そしてその部屋の一つに主婦がちょうど鍵を開けて入ろうとしていた。
ぼくはそれらの光景をつぶさに捉えて、互いに連動する鳥瞰図みたいなものを頭の中で組み立てようとした。鳥瞰図というより、構造図と言った方がいいのかもしれない。世界という大きなミニチュアセットの中で人々の半透明な軌跡が、それぞれ動き回って、互い互いに交わっていくようなイメージ。
そこでは物事は一つ一つが全部セットになっている。
こういうふうに言うと、そこに因果関係があるような言い方になってしまうが、そうではない。ぼくがいまピックアップした一つ一つ光景には何の繋がりもない。そのあいだに、どんな数式も、どんな相関も、どんな運命の巡り合わせもない。
もし子どもがブランコではなく鉄棒で遊んでいたら、もし古本屋でお爺さんが本ではなく新聞を読んでいたら、もし鍵を開けて家に入る主婦が卵を買うのを忘れていたことに気付いたら――。
その瞬間、ミニチュアセットAはまったく別のミニチュアセットA’Bに分岐する。ここで肝心なのはミニチュアセットA自体は失われていないということだ。ミニチュアセットAでは、ブランコで遊ぶ子供も、杖をついた老人も、うっかりな主婦もめいめい楽しくやっていて……。けれど、その世界は根本的にミニチュアセットA’Bとは無関係のデコヒーレンス(非干渉)な世界となる。
それはちょうど一つの幹から分かれた枝が、互いの枝と交わらないよう共存しながら成長していくようなものだ。その枝をぼくらは決定論という名前で呼び、束ねた枝を共存度、あるいは確率分布と呼んでいる。そして喜美ちゃんはというと、ぼくと違って枝単体ではなく、樹木全体を見ることができる。
そういう意味では、今日ぼくが起こした裏切りは、喜美ちゃんにとってぼく全体が起こした一つの大きな裏切りに見えているはずだ。彼女にとって、世界Aのぼくと、世界Bのぼくにさしたる違いなど無いのだから。
だって、ぼくはぼくだ。
どれだけ枝を手折っても、ぼくの根幹となる幹がある限り、その世界はぼくA、ぼくB……と、無限にパラレルなぼくの鏡像体を生み続ける。喜美ちゃんにとって、その無限に並び立つ膨大な可能性のフィールドそのものがぼくという一つの人格の擁立していた。
そして最後にはその無限に分岐し続けるどこかの地平で「間違い」は起きてしまう。というより、そこではどんな物事も起きざるを得ない。それがどんな低い確率でしか起こらないことだとしても、それが起きる世界は必ずどこかに存在するのだから。
そう考えると打つ手はどこにもないように思われた。いや、探せばたぶんきっとどこかにあるはずなんだろうけど、文字通り、砂の数ほどの世界から、ぼくは全知全能なる喜美ちゃんのお眼鏡にかなった言い訳を見つけ出さなきゃいけない。
それって本当に可能なのだろうか……。

ぼくは浮かない気分のままカフェの前まで来ると真鍮製のドアノブに手を掛ける。そのままチリンチリンとドアベルが鳴って、オレンジ灯が印象的なシックとモダンの掛け合わせみたいな店内がぼくを迎え入れた。
「すみません、さきほど電話で予約キャンセルした者ですが……」
受付でそう言うと、店員さんがなぜか不思議そうな顔でぼくのことをじっと見た。驚いているような、焦っているような、そんな顔。ぼくは一瞬、キャンセルの電話が通ってないのかもしれないと思い、再度話しかける。
「あの、サプライズのキャンセルって……」
「あ、いえ、そちらはちゃんと承っています。でも、さきほどお連れの方がいらして……」
「え、お連れの方?」
「はい……」
そう言って、店員さんはおずおずと店の奥に視線を向けた。その視線につられて、ぼくも店内の方へと振り返る。窓際の奥まった席にひとり女の子がちょこんと座っている。栗毛色のボブカットに勝ち気で大きな瞳。そして遠くを見つめるつまんなさそうな横顔。
見間違えようもなく、喜美ちゃんがそこに座っていた。
え、なんで?
思わず、頭の中でぼくはそう突っ込んでいた。頭の中だけとは言わず口も動いてそう言っていた。
たしかに喜美ちゃんとぼくはこのお店に何度か足を運んだことがある。下校ルートから外れているせいで、頻度はそんな多くないけれど、学校が早めに終わった日などは二人してここのケーキを食べに来たものだ。だから、喜美ちゃんが一人でこの店に来ていたとしても何らおかしなことではない。
しかし今日に限っては事情は異なる。
なにも、彼氏を全無視した日にカフェでケーキを食べに行くことを否定したいわけではない。問題は、ぼくがサプライズを予約していた日に限って、いつもは行かないお店にピンポイントで来ていることだ。統計学的に見れば、これは確率変数に何らかのバイアスがかかっている事象だといえる。バイアス、つまり何らかの意図があるということだ。
そのときキッチンの奥からケーキとキャンドル、そしてクラッカーを持った二人の店員が現れた。まさかと思って見てみると、ケーキの上にはぼくが夜なべして考えたメッセージ入りのプレートが燦然と輝いている。
幸い、喜美ちゃんは窓側を向いて座っているので、後ろの二人には気付いていないようだった。ぼくは急いで、受付の店員さんに「いま、ぼくら喧嘩中なんです!」と言う。言外に秘めた渾身のSOSを理解した店員さんが、矢のような速度で二人に駆け寄ると、クラッカーとキャンドルを没収し、ケーキからメッセージプレートを引き抜いた。そして無事、飾り気のないただのショートケーキが喜美ちゃんにリザーブされた。
ぼくはひとまず胸をなで下ろし、喜美ちゃんのもとに歩いて行く。そして開口一番、「あれ、今日はひとりなんだ?」と言った。
喜美ちゃんは、いきなり現れたぼくにも動じることなく、ぼくの目を真正面から見据え、ミルクティーを啜り、さらにはその余韻を楽しんだあと、ようやく言った。
「違いますけど」
いやどうみても違わないじゃん。
ぼくは内心そう突っ込みたいのを抑えながら、喜美ちゃんの隣に座る。喜美ちゃんは相変わらずの澄まし顔でぼくとは一ミリも視線を合わせようとはしないけど、心なしかその表情は引きつって見えた。やはり面と向かって無視するのは流石の喜美ちゃんでも心が痛むらしい。逆に言えば、それだけ怒っている証拠なのかもしれない。
「ねえ、機嫌直してよ」
ぼくは言った。
「別に機嫌悪くないけど」
「いや、それは機嫌の悪い人の返事だよ」
「それは君の主観だよね」
「うん、そうだよ。もうそういうことにしておくよ」
ぼくは喜美ちゃんのいちゃもんを華麗に躱しつつ、頭の中でこの事態をどう収めるかを考えていた。正直なにも思いつかないけど一つだけ方法がある。
結局いまこうして話がややこしくなっているのは、ぼくが喜美ちゃんにお祝いの言葉を送らなかった――ひいては記念日を忘れていたと誤解されているからだ。ならその誤解を解く以外に喜美ちゃんに許してもらう方法はない。
つまりサプライズを計画していたから黙っていたと正直に言うのである。
そしてその場合、サプライズ自体はご破算になる。せっかくなら上手いこと、このすれ違いを解消してお祝いのケーキで喜んでもらう――というのが理想なのだけど、これ以上ぼくと喜美ちゃんの関係がこじれるようなら諦めるしかない。
ぼくは何度か深呼吸し、息を整えてから、
「記念日のことさ。お祝いできなくてごめん」
喜美ちゃんがこちらを振り返った。ぼくは今度こそ、喜美ちゃんの顔を真正面に捉えて、
「でも忘れてたわけじゃないんだ」
「うん、知ってる」
「そう、知ってたんだ……。え、そうなの⁉」
喜美ちゃんは、はあーとため息をつくと雑に首を振って「そこまで察しが悪いように見える? 私」と一言。
「じゃあ、なんでそんな怒ってるの?」
「だから怒ってないって」
「怒ってんじゃん」
「仮にそうだとして、じゃあなんで怒っていると思う?」
「え」
逆にそう訊かれて、ぼくは思わず鼻白んだ。
「喜美ちゃんが怒っている理由……」
「うん」
「えっと、それは……」
「本当にわからないんだ」
ぼくは言葉に詰まる。いきなりそんなことを言われても記念日以外のことで思い当たる節はない。なんだろう、いったいぼくの何が喜美ちゃんをそんなに怒らせたんだろう。
顔を上げると、喜美ちゃんと目が合った。
あの目だった。いつもの「ああ、やっぱりね」の目。
ぼくは頭をフル回転させて考える。とりあえず心当たりのあることは全部あげてみるしかない。
「えっと、このあいだ待ち合わせに遅れたこと?」
「違う」
「喜美ちゃん家のお煎餅、勝手に食べたこと?」
「違うよ」
「髪切った?」
「違います」
「デートのご飯が毎回サイゼなこと?」
「うーん、それはちょっと怒ってるかも」
「前に借りた漫画にコーヒー溢したこと?」
「あれ、あなただったの⁉」
漫画と文庫本の扱いに関しては口うるさい喜美ちゃんがとてつもない勢いで怒り始めた。喜美ちゃんはぼくのことを鬼の形相でにらみつけ、いよいよぼくの顔に穴でも空くんじゃないかと思った瞬間、「はあ」と大きくうなだれて、がっくりと椅子の底に沈んでいった。
「もういい。私、帰るね」
「え、まだ話は……」
「無理に当てようとしなくてもいいから」
「無理だなんて、そんなことない」
「わかっている振りもいい」
ぴしゃりとそう言われて、ぼくは持ち上げかけた腰を下ろした。
「じゃあね、さよなら」
喜美ちゃんはそう言うと、フォークで二等分にしたショートケーキをそれぞれ一口で平らげ、ぼくが驚いているあいだにカフェから足早に出ていってしまった。
残されたぼくは店員さんからクラッカーとキャンドル、そして溶けかけのメッセージプレートを受け取ると、急いで喜美ちゃんのあとを追った。

当然ながら、帰り道は非情に気まずいものとなった。
暮れかかる夕暮れの中、いつもと違う表情を見せる通学路をぼくと喜美ちゃんは縦に並んで歩いていた。喜美ちゃんはぼくから一定の距離を保って歩き、そしてぼくは喜美ちゃんから一定の距離を保ってその後ろを歩く。まあぼくが追いかけているから当たり前なのだけれど、カフェを出てからぼくは喜美ちゃんに徹底的に避けられていた。
想像してみてほしい。ついてくんなオーラをバリバリに出してる女の子とその後ろを申し訳なさそうについていく男子の構図を。辺りの空気はひりついていて、道行く人は「あーやってるな」と何かを察して道を開ける。そんなマジでもう最悪の雰囲気がぼくと喜美ちゃんのあいだには形成されているのだ。
それでも、ぼくは喜美ちゃんの後をついていく。ぴょこぴょこと揺れる彼女の丸い後頭部を眺めながら、その中にある移り気な女心というものについて考えてみる。女心と秋の空とは言うけれど、実際そんなものが存在するのであれば、話はことのほか単純だ。
だって実在するのであれば、それについて検証を重ねることができる。仮説を立て、然るべき手法を考え、そして、その存在に対して何らかのアプローチを試みることができる。
でもそれが不確かなもの、たとえば量子の世界のような、観測するまで決して定まらない系に左右されるものだとしたら……。それはもうお手上げだ。ぼくは永久に喜美ちゃんの心うちを知ることはできないし、知らないものに対して何のアクションも起こせない。
結局、喜美ちゃんは、ぼくのことをどう思っているのだろうか。
ぼくはそこで夕日に照らされた彼女の横顔を見た。
相変わらずツンと澄ました顔に猫のように大きな瞳。飾り気のないボブカットの髪はそよそよと風に揺られて、その顔に暗い陰を落としている。ぼくはそこにうかがい知れない世界の真理のようなものをかいま見た。
それはぼくの知る世界とは全く異なる機序で動いている別の世界の理だ。厳密に言えば、ぼくらはその世界を知っている。そこで息をし、食べ、笑い、日々そこに根を下ろして暮らしている。
だけど、それは世界の全てではない。電子や陽子、さらには素粒子のような、それ以上分割できないものから成る世界は、ぼくらのような大きすぎる構造には超えることのできないギャップに満ちている。
だけど喜美ちゃんは違う。喜美ちゃんはそのギャップを越えられる。粒子が飛び飛びのエネルギーの値を取るように、ひょいと別の世界に遷移して、その世界の様相をのぞき見ることができる。
そして、その先に無数のぼくが共存しているだろう。
ぼくの何が喜美ちゃんを怒らせたのかはわからない。でもぼくにそれがわからないのは当然だった。なぜなら、ぼくにはそれが理解できない。それはもっと微視的な視点で見ないといけない、非情に大きな﹅﹅﹅問題だからだ。
あるいは、もっと別の可能性――。
一方には不甲斐ないぼくの居る世界。もう一方には不甲斐なく無い﹅﹅ぼくが居る世界。そこでは恋愛上手な女の子が今カレと元カレを比較してしまうような現象が量子力学的なスケールで展開される。
それは最悪な見方をすれば、喜美ちゃんはぼくと全く同じディテールを持つ赤の他人と複数交際していると言い換えることができる。それはぼくから見れば、大きな大きな裏切りだけど、量子な世界の基準で言えば、それはごくごく小さな過ちにもならない。
ぼくはそこでもう一度、喜美ちゃんの顔をのぞき込もうとした。彼女の猫のように大きな瞳がくるんと回って、信号待ちで並ぶぼくの姿を捉えた。
そしてそこにはやはり、あの「やっぱりね」がぼくとぼくの世界全体を貫いている。ぼくはそこで気が付いた。喜美ちゃんの見せる「やっぱりね」とは、ぼくを通して、ぼくではない誰かを見ていた故の「ああ、やっぱりね」なのだ。
そしてトリセツにはそのことについてきっちり言及がされていた。

量子猫系彼女 取扱要綱3
粒子はひと粒でも干渉を起こす!

つまり喜美ちゃんは一人でもやっていける。誰かとペアになる必要はないし、ペアが僕である必要もない。一人で千の世界を渡り歩くことのできる喜美ちゃんにとって、特定の世界と絡み合うエンタングルメントする必然性はどこにもありはしない。
ならどうでもいいじゃないか。むしろこのまま別れた方が無数の世界の僕と比べられなくても済むようになる。ぼくの求める相互作用とはつまりところ、ぼくの世界パラメータを変更することのない個人的シングルトンなものなのだ。

「喜美ちゃんはさ、別にぼくでなくてもよかったんだね」
思いがけず、そんな言葉がぼくの口をついて出た。
驚きに目を丸くする喜美ちゃんをよそにぼくは続ける。
「だってそうでしょ。初めからわかってたんだ。ぼくが喜美ちゃんに告白するってことを」
「うん……」
「そして、それを知ってたうえでOKした。つまりほかにも色んな世界のぼくが喜美ちゃんと付き合っていたし、ぼく以外の色んな人とも付き合っていたかもしれない。だからぼくと付き合ったのもそれが予定調和だったから」
「そう、だね」
喜美ちゃんはそう言って俯いた。いつかは、ぼくがそれを訊いてくることを彼女はわかっていたはずだ。喜美ちゃんにはそれを予期することができた。だからそこに何の唐突さも意外性もないはずだった。なのに喜美ちゃんはなぜこんなにも辛そうなのだろうか。
「喜美ちゃんはどうしてぼくの告白をOKしてくれたの?」
「それはあなたが告白してきたから」
「それって、ぼくのことを少しでもいいと思ってくれたってことだよね。それとも告白する前から少しは意識してくれてたってこと?」
「その両方。あなたに告白されて、一からあなたのことを考えてみたの。そしたら、いいなと思って、だから付き合おうと決めたの」
一から? ぼくのことを?
それを聞いて、ぼくはつい反射的に言葉を返してしまった。
「別のどこかの世界でぼくとすでに付き合っていたのに?」
「……」
あまりに思いやりのない言葉を言ったがために自分自身が傷つくときがある。そして喜美ちゃんはぼくよりもっと傷ついていた。取り付く島もなかった無表情な仮面がくしゃくしゃに歪んで、いまにも泣き出しそうになっている。
ぼくはなんて酷いことを――。
けれど、喜美ちゃんは目をきっと見開いて、
「なにか勘違いをしているようだから言っておくけど、私はゲームの選択肢を全て知っているプレイヤーなんかじゃない。私は一人の普通の女の子なの。ほかの世界を覗けるからって、私が選んだどんな決断も、私の意思とは無関係に決められるってわけじゃない。だから……」
「だから?」
「だから、誰かを好きになった理由も、そんなふうに決定されたりはしないんだよ……」
そう言って喜美ちゃんは目を伏せ、唇を噛んだ。涙こそ浮かべてないけれど、ぼくはそこに、これまで流されたかもしれない想像上の涙を見る。けれど、もっとも最悪な想像は、この手の言葉を別の、これまで喜美ちゃんと出会ってきた全てのぼくが言っているであろうことだ。
気付けば、あれだけ眩しかった夕日が地平線の向こうに沈みかけていた。そして昼と夜の境界が空の大部分を浸食していき、そこに見え始めた星の瞬きにぼくは絶望する。あの星の輝きも、あの宇宙の暗闇も、きっとぼくには一生理解できない類のものだ。ぼくらとは文字通り、天文学的な隔たりのある理解や認識の埒外にあるもの。
ぼくはそこに怖れを感じる。地に足を付けているからといって、ぼくはそこに森羅万象との繋がりを感じるような人間じゃない。ただ漠然と寂しさをおぼえるだけだ。
ぼくらは結局ひとりなのだ。他者の存在は、本質的にはぼくらにとって外部でしかない。
宇宙の初めから終わりまで、ぼくらはずっとひとりぼっちだ。その事実を覆してくれるような出会いコヒーレンスも、結びつきエンタングルメントも、このマクロな世界には存在しない。そこにどんな例外もありはしない。
だから、喜美ちゃんという特別はぼくにとっては荷が重い。
ぼくは言った。
「ごめん……。だけど、ぼくにはその理由がいちばん大事なんだ。誰かを好きになった理由﹅﹅それ自体が、ぼくにとって誰かを好きになるということなんだ。ぼくの言っていること、わかる?」
喜美ちゃんは小さくうなずいて「わかるよ」と言った。
「ぼくにとって互いに伏せられたカードを捲りあうみたいなことが誰かを好きになるってことで……。それは恋愛だけじゃない。そのほか一般の関係にも当てはまる。そこに伏せられた手札が、そのままその人を好きになる余地になる」
「うん……」
「でも、喜美ちゃんの持ってる手札はぼくには永久にわからない。そして反対にぼくの手札はいつもオープンになっている。だとしたら、それは成立しないゲームだ」
「私にだって君の全部はわからない。それに恋愛はゲームなんかじゃないよ」
喜美ちゃんはあくまで冷静に言った。その冷静さはいまのぼくにとってはいちばん堪えるものだった。
「じゃあ、ゲームじゃない人間関係をぼくに教えてよ。笑顔の裏を探る必要も、驚きも、ときめきもない、そんな決定論に従った関係性をぼくに教えてよ。それでも、それがゲームじゃないっていうんなら、そこにぼくの人格は存在しないことになる。だって数ある選択肢のなかで人は常に最善の選択を取ろうとする。なら喜美ちゃんがぼくを選んだ理由は『ぼくのことを選ぶことが決まっていた』ってことなんだ」
「そうだけど、そうじゃない……」
喜美ちゃんはそこで感情的に叫んだ。
「世界の全てを覗けることは、あなたの全てを覗けることを意味しない。別の世界のあなたと付き合っている私も、そうじゃない私も確かにいっぱいいるけれど……。でもあの日あの場所で告白してくれたあなたはまぎれもなく今ここにいるあなただけなんだよ」
「ねえ、それがどんな意味かわかる?」
喜美ちゃんはそこで自分のポケットから端末を出した。
「これを見て」
喜美ちゃんがそう言って見せたのはカレンダーアプリの共有予定だった。
そこには今日の日付で「記念日!」、「カフェ予約」、「ケーキでサプライズ!」とでかでかと書いてある。
「日程共有アプリ、切るの忘れてたでしょ」
ぼくは急いで自分のアプリから共有先を確認する。そこには喜美ちゃんのアドレスが設定されていて、いまもぼくのメモ帳やら予定表やらをせっせと同期にかけていた。
「じゃあ、初めから……」
「そう、初めからわかってた。あなたが私のために色々準備してくれているってことは。嬉しかったよ。でも同時にすごい悲しかった。私と君の二人の記念日なのに、わたしだけが蚊帳の外みたいで……。私は君と二人でお祝いしたかった」
ぼくはそこで愕然とした。答えがこんなすぐそばにあったのに、ぼくはそれを全く見ようとしなかった。それは、付き合うとか付き合わないとか、それ以前の問題で……。喜美ちゃんはそのことでずっと怒っていたのだ。
「もういいよ。全部私の思い込みだったみたい」
そう言って、喜美ちゃんはぼくに背を向けた。
ぼくは踏み出せなかった。喜美ちゃんが決定的に去っていくその分岐の瞬間にぼくはその手を掴むこともできず、ただ漠然と空を見上げることしかできなかった。
そして、そこには丸い大きな月が輝いている。
一年前の今日、その月はやはりぼくと喜美ちゃんのことを照らしていた。別にそれを特別だと思ったことはない。ただし、いまはもう違う。いまこの瞬間から、それは特別になった。
「あそこに見える月は一年前の今日、ぼくらが見た月と同じものだ」
喜美ちゃんははたと立ち止まると、ぼくの方に振り返った。
観測できなくとも月はそこにある。
ようやく気付いた。僕にとってこの世界が唯一の世界であるように、彼女の手を繋ぐのも僕のその手だけなのだと。
再び雲のあいだに隠れてしまった月を見て喜美ちゃんが言う。
「私、見えていないものは存在しないと解釈しているの」
「でも見えなくとも月はそこにあるんだ。そしてそれはいつだってとても綺麗な月なんだ」
ぼくは今度こそ、喜美ちゃんのその手を握った。
想いと量子の関係は似ている。
想いは観測できない。しかし言葉にした瞬間、確定する。それは魔法のようでいて、けれど紛れもなくこの現実に根ざしたものだ。

ぼくらは二人で暗くなった夜道を歩く。
道は暗く、先は見えなかったけれど、二人で並んで同じ道を歩く。
経路は違ったがぼくらは同じ場所に行きついた。

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