梗 概
山怪に相対す
徹也の祖父は若い頃猟師だったという。辺りの猟場の奥には怪が出ると言い伝えられていた。よくある言い伝えだが、祖父は実際に遭遇した。ある時、祖父が一人の仲間と山中で休んでいると、奇妙な声が聞こえたそうだ。目を閉じて頭を抱えていると怪は去ったが、仲間は死んでいた。仲間の悲鳴は恐ろしいものを見たものだったようだ。以来徹也の祖父は山を下りた。父も地元で勤め人になった。徹也は進学を機に都会に出てそこで就職したが怪の話が心の奥に残っていた。祖父から山を奪った原因だと。そのせいか地元を離れても山に関わっていた。猟友会に入り、都会に近い山地の猟隊にも所属した。そんな折、祖父が死んだ。脳溢血による、入院生活もない死だった。葬儀の後、徹也は郷里に帰って暮らすべきだと感じた。大学まで出してくれた恩を返していないし、猟だって地元の山でしたい。だが山には怪がいる。進学する前は一人で故郷の山を歩き回った。その時に祖父が怪と遭った場所を見つけ、そして怪に遭遇していた。声と、襤褸を重ねたような足先を見た。とっさに目を閉じ伏せると怪は去ったが、その時の恐怖が残っている。側で友を殺され山を去った祖父の無念も心にある。自分の恐怖と祖父の無念。それらを動機に、怪を倒そうと考える。
徹也は今いる猟隊の頭に、故郷に戻るため除隊の挨拶に行く。その折に怪に挑む話を口にした。頭は興が乗ったらしく、送別会に山の怪に詳しい人を呼んだ。その中に秋本という名の大学教員の男がいた。秋本は徹也の話に興味を示し協力を申し出た。徹也は断りたかったが、具体策がないことを指摘されて協力を受けることに。故郷の古い猟師らに改めて話を聞いたが、怪を見なかったため助かった話が多かった。徹也自身もそうだ。怪は正体不明で目視が危ない。罠も銃も許可は都道府県毎のため使えない。どうするのかと秋本に問われ、徹也は目隠しで祖父の山刀を振るうと答える。その無策さに反対する秋本には考えがあった。
地元には目的を隠し徹也たちは山に入った。空振りも覚悟のテストのつもりだ。祖父が怪と遭った場所は少し開けた場所だった。秋本は大量の機材を持ち込み、場所を囲む形で光学、赤外線式併用の動体センサを設置した。徹也はバイザー式ディスプレイを付けさせられる。衛星通信で大学のワークステーションと結び、センサのデータから再現したモデルを表示する。カメラ映像を直接表示する形は簡単だが徹也が拒否した。センサのテスト前に怪が現れる。徹也のバイザーには迫る何者かのフレーム映像が映る。応戦する徹也。一進一退の中、秋本は怪を直視する。目にしたのは化け物ではなく襤褸をまとった異常な人の如き者だった。怪は秋本の視線に反応したが、その隙に徹也の山刀に捉えられる。怪は去り、後には大量の血が残った。怪が熊より弱い、実体があると知って徹也は満足したが、秋本は血のサンプルを取り、怪の来歴を考察する。
文字数:1200
内容に関するアピール
最初からガチガチのサイエンス的なものに挑むと心理的な方向付けが強化されそうな気がして、変則的な物語にしてしまいました。
現代が前近代の山と交差し、対決する話です。
「令和の益荒男VS山の怪」にご期待ください。
あと梗概に書ききれませんでしたが、山刀はナガサと呼ばれるタイプで、主人公の祖父の形見です。
秋本の考察では、実はソニー・ビーンの一族的なものか姥捨ての子孫かみたいなことが挙げられる予定です。
文字数:200
山怪に相対す
「桧山君。次の土日、暇か?」
秋本先生は前触れもなくそう尋ねてきた。
どこかから借りてきたらしい機材の山をチェックしており、こちらに顔も向けていない。
五月のこの日、大学の空は雲に覆われていた。文学部研究棟にあるこの秋本研究室は日当たりが悪く、季節の割にうすら寒い空気が漂っていた。
暇だと答えたらどうなるのだろうか、などと今さら疑問には思わない。先生は僕の指導教官で、准教授で、僕は路頭に迷う寸前に掬い上げてもらった修士課程の一年生である。力関係は明らかなのだ。
「……まあ、暇ですかね。どっちかっていうと」
「じゃあフィールドワークに同行してもらうから、よろしくな。一泊二日程度。二泊かもしれん。頑丈で履きなれた靴を履いてこい。荷物が多いから、前の日はよく寝ろ」
こちらの意思も聞かず、そう言い切られてしまった。さりげなく月曜日までかかる可能性に触れている。これは月曜日は僕がどの講義も受講していない、そのことを把握しているからだろう。
「フィールドワーク。それで、あの、どちらまで?」
「山形」
山形かあ。どこだっけ。日本海側で秋田の下で新潟の上だっけ。小学校で都道府県は暗記したはずなんだけど、あいまいになってるなあ。
遠いなあ。さすがに車移動じゃないよな。新幹線だよな。新幹線なら、東京駅からいけるよな。たぶん。県内移動については知らないけど。
「……もしかして、先生が今チェックしてるのってそれ関係ですか」
「そうだ」
秋本先生がチェックしている機材はコードの束やら一眼レフっぽいもの、手作り感のある電子部品の集合体やらポータブル電源やらなんやらで、ミカン箱三つ分くらいはあった。特にコード類が目立つ。量が多く、とにかく重そうである。
秋本先生は民俗学の研究者だ。こんな機械類とは今まで無縁だったはず。またよその学部から無理に借りてきたのだろうか。
これを持っていこうというのか。山形まで。冗談じゃないぞ。
だって、先生は四十手前で体力も落ちてるだろうし、そうでなくても細身の女性で、ノートパソコンだって一キロ未満のものじゃないと嫌だという人だ。こんな機材、全体の二割も持てないだろう。ここにだって自分で持ってきたとは思えない。借りるついでに持ち主に運ばせたのではないだろうか。
「ほかに同行する人はいます?」
「ああ、いるとも。今回、その人が山に行くというのでな。私が同道を願い出たのだ」
そうじゃないんです。
「いえ、こっちの学生とかでほかにいないのかな、と」
僕の他に荷物持ちがいないか知りたいんです。
「……桧山君。わかってるだろう? 私が指導教官をしている修士課程以上の学生は君だけだ」
「学部の四年生たちは……」
「就職活動の時期だ。彼らの邪魔はできない。私ではどこかの企業を紹介してやることもできないしな」
「……なるほど」
先生の言うことはもっともだ。僕も去年経験したのだから、理解できる。
つまり、これらの荷物は僕と先生で運ばなくてはならない。
しかも、僕は聞き逃さなかった。先生は〈山に行く〉のに〈同道〉と言った。頑丈な靴でと指定したのはそれが理由か。どうせなら服装にも言及してほしかった。
「心配するな。研究補助扱いで、旅費は出す」
問題はそこではないのだが、出すというならありがたくいただこう。しかし旅費は出すということは、旅費しか出ないということだ。ティーチングアシスタントのような時給もなければ謝金という名の手伝い賃もない。旅費とは交通費と宿泊費と日当だけど、うちの学部では学生は日当を辞退するのが慣例になっている。実費だけもらえるただ働きなのだ。
しかしそれでも、研究費に乏しい文学部では、学生に旅費が出るのは贅沢と言ってもいい。だからこれはありがたい話なのだ。
それでも、最後に聞いておきたいことはいくつかあった。
「さすがに登山靴なんて持ってませんけど。あと服装はどうしたら」
「やむを得ないな。低山だし日帰りだ。テーピングとアイゼンでしのいでもらおう。私の方で山用の服や鞄と一緒に借りておく」
どこから借りてくる気なんだろうか。
「それと、こんなコードとか機械とか、なんに使うんです?」
「物の怪の観測だ」
秋本先生は短くえると、話は終わりとばかりに研究室のドアから出て行ってしまった。さっそく山用品でも借りにいったのだろうか。
しかし、物の怪の観測とはどういうことだろうか。怪談の収集のことを指しているのか、あるいは何かの比喩なのか、さもなければ冗談を言われたのか。しばらく頭を巡らせてもわからなかったので、考えるのをやめて自分の勉強に戻ることにしたのだった。
出発日の土曜日は朝から大忙しだった。夜明けとともに起きて大学に寄り、そこから大荷物を背負って東京駅に移動。東京駅から北に向かう新幹線に乗り、山形駅のさらに先の天童という駅で下車。新幹線停車駅なのにガランとしたその駅前から、レンタカーで延々と走る。
窓から見える風景は田畑八割人家二割といった感じだったけれど、山に向けて進むにつれてさらに家が減ってくる。晴れた空に六月の鮮やかな山並みが霞みがかって見える。
「……先生。そもそも僕らはここになにをしに?」
「だから、物の怪の観測だって言っただろう」
ハンドルを握りながら、秋本先生は口を尖らすように返してきた。
「……それ、やっぱり聞き間違いじゃなかったんですね」
「電車の中で詳しく説明してもよかったんだが、君がよく眠っていたものだから」
五時起きだったんだから仕方ないじゃないですか。
「この土地には、山に鬼だか妖怪だか怪物だかが出るという言い伝えがあるそうなんだ。今回同行させてもらう人は沖谷氏というんだが、彼からからその言い伝えを聞いたときには少し興奮したよ」
「民話採集にしては、機材が多すぎますね」
「民話採集だけじゃない。沖谷氏は実際に❝出る❞と主張するんだ。因縁があって、討伐したいらしい」
「…………討伐って、そのなんだかわからないものと戦うって意味ですか」
先生がまた変なことを言い出した。
「そう聞いている。鬼だか妖怪だか怪物だか、面倒だから物の怪と呼ぶ。その物の怪の観測が今回のフィールドワークの目的だ」
「そんなぼんやりした目的でここまで、こんな機材の山を持ってきたんですか」
先生は車を停め、カバンから二枚の写真を取り出すと渡してきた。
二枚の写真。一つは森の中にいる目が光る猿のようなもの。もう一つは、近くからピントを合わせて撮られたなにか干からびたもの。よく見ると、人か猿のようなものの首のミイラだった。箱に入れられ、包まれていたらしい布が解かれている。
寺社には人魚のミイラや河童の手のミイラが奉納されていることがよくある。そういうものは昔の見世物に使われていたイミテーションであると想像できるが、この首もにたようなものだろうか。
「この種のものには、ごくまれに出くわす。私のように民俗学のフィールドワークをやっているとな」
「そりゃそうでしょうよ」
民俗学の研究領域は民話や地域信仰が含まれる。お化けやらはよくあるテーマだ。
「話を耳にするという意味とか、ミイラがあるとかではない。本当に出くわすんだよ。実際にいるんだ、そういうやつが」
はあ。
「今回の話は当たりの可能性が高いんじゃないかと踏んでいる」
なにを言い出すのだろうか、この人は。
「写真もミイラもいくらでも作れるじゃないですか。根拠にはならないですよ」
「その写真はね、フィルムカメラで撮影されたものなんだ。ネガもある。ミイラの方はわからんが」
「三メートルの宇宙人だって写真はありますよ」
「あれはイラストしかないよ。捕獲された宇宙人と混ざっていないか? そっちだって偽造写真だが。君はあれかな。そういうのが好きなのかな」
そんなことはないのだけれど、一時期オカルト誌を読んでいたことは自分の中にしまっておきたい。
「まあ、それはいいんです。僕としては、沖谷さんの方も気になります」
「うん。彼は実直な好青年だよ」
「へえ」
「彼とは数か月前に会ったんだ。秦野にある猟隊の、彼自身の送別会でね。猟隊って言うのは、猟友会の下部組織、というか、実際に狩猟に出るときのチームみたいなものだ」
「ハンターの方ですか。それで、なぜ先生がそんな会に出てるんです」
「面白いだろう? その隊の隊長に有識者枠で呼ばれたんだよ」
それがわからないんです。
「沖谷氏は山形から上京して、東京の大学を卒業後にそのまま残って就職したそうだ。地元で山と猟が身近にあったためか、職場に比較的近い猟隊に入って活動していた。しかし最近、彼の祖父が亡くなって、地元の山形に戻って両親と暮らすことにした。そこでいままで参加していた猟隊を辞めるために隊長に挨拶に行ったんだが、その際に彼は隊長に一つの相談をしたんだ。地元の山に物の怪が出るが、それを倒すにはどうしたらいいか、というね。隊長は物の怪の話など聞いたこともなかったそうだが、面白がってね。詳しそうな知人を何人か読んだんだ。怪談に詳しい山屋とか、民俗学者とかね」
「呼ばれた中に中に秋本先生がいたというわけですか」
「そうなんだ」
「それで、先生自身も興味を持ったと」
「そうだ」
「その沖谷さんの地元が今いるこの辺りで、物の怪の出る山もこの辺りだと」
「そう」
「物の怪がいるいないはこの際置いておくとして、ですよ。その沖谷氏は、なぜそれを倒したいんですか?」
「それがな」
秋本先生が沖谷氏に聞いたところによると、こうである。彼の祖父は若い頃猟師だったという。そして元々、猟場を超えた奥の山には物の怪が出ると言い伝えられていた。それの顔を見ると祟られるというのだという。よくある話だが祖父は実際に遭遇した。ある時、祖父が一人の仲間と山中で休んでいると、奇妙な声が聞こえたそうだ。なんと言っているかはわからない。見てはいけないというし、恐ろしいから目を閉じて頭を抱えていると物の怪は去ったが、仲間は死んでいた。仲間の悲鳴は恐ろしいものを見たものだったようだ。以来、彼の祖父は山を下りて二度と近寄らなかった。
そして沖谷氏は東京に出たものの、心の奥にこの話がわだかまっていた。祖父から山を奪った原因だと。
「それで、物の怪を倒そうというわけだ」
「昔話みたいな話ですね。まあ、沖谷さんの方はなんとなくわかりましたけど……」
「けど、なんだね?」
「先生が、物の怪が実際にいると考えた理由がわかりません」
秋本先生は、またそれかという視線を僕に向けてきた。
「彼は上京する前、その物の怪が出るという山に何度も行っていたそうだ」
「間違って撃たれたりしそうで僕ならごめんですね」
「猟期は冬だけだ。彼が踏み込んだのは夏場だそうだよ。雪もないし少しは楽だろ。もっとも、熊に出くわしたり迷って悲惨なことになる可能性もあるだろうが」
「それで、山でなにかあったということですか?」
「そう言っていた。さっきのボケた写真も彼が撮ったものだが、何度か目撃もしたらしい。五体を持ち、人より大きく犬より早く走る異形の姿だと」
「実際に見た?」
見てはいけないのでは。
「若き沖谷氏は襲われはしなかったものの、追い回されたり喚かれたりしたとと言っていた。❝あだまかえすてけ❞と聞こえたと。あだまかえすてけ、すなわち頭返してくれというのは、もう一枚の写真、首のミイラを思わせる。面白いなあ」
「見てはいけない物の怪を見たんですか?」
「それは私も突っ込んで聞いたが、見てはいけないのはあくまで物の怪の顔で、追われた時は相手は木々の間を動き回ったり離れて暗がりにいたりしたそうだ。それに沖谷氏も注意して視線を外すようにはしていたと」
「今の話ですと、追ってきた怪異は五体、手足に頭があったんですよね」
「よく聞いていたな。その通り。そこから考えるに、返してほしいのは自分の頭ではないということではないだろうか」
「この写真のミイラはどちらに?」
「近くの神社だそうだ」
「ミイラの耳がないですね」
「私も気になったが、詳細は不明だ。まあ、ミイラだし脱落もするだろうとは思うが」
なるほど。そんなよくわからないものがはびこるところに、今向かっているということはわかった。
「ほかに質問は?」
「……今のところは別に」
「では、事前説明は以上だ」
ほかに車の走らぬ道を、秋本先生は再度発車させた。僕は今交わしたばかりの常識に外れた話を頭の中で反芻しながら、窓の外を眺めていた。
それから約三十分、停車していた時間を抜いて合計で九十分程度で目的地らしき場所についた。
山と田に挟まれた集落。東京郊外で生まれ育った僕から見ても、古くて敷地が広めの宅地にしか見えない一画だ。
秋本先生はナビに従って一軒の家の前の道路に車を停めた。
「着いたぞ」
車から降りると、冷たさが残る風が吹きつけてきた。東京とも駅前とも明らかに空気が違った。
運転席から降りてきたスーツ姿の秋本先生は、煙草を吸いもせずにスマートフォンをいじっている。ちらりと見えた画面から、誰かに連絡を取っているようだ。
そうしているとすぐに目の前の家の玄関戸が開いて中から男性がゆっくり近づいてきていた。そして我々の元まで来ると、先生に会釈をする。
「どうも、秋本先生。よくいらしてくださいました」
「沖谷さん。今回は無理を聞いていただきました」
「いえ。集落の人間には相談できませんし、だからといって単独の山行は心細かった。見届けてくれる人がいるならむしろありがたいです」
沖本さんは三十前後のがっしりした体格の人だった。秋本先生は実直な好青年と言っていたが、眉間にしわを寄せた大男のどこをそう感じたのだろうか。僕としては、大学運動部にいる怖いコーチみたいな雰囲気を感じる。
「それは幸い。さて、紹介します。こっちは桧山君。私の教え子で、今回の助手といったところです」
僕は肩に力が入るのを自覚しながら、沖谷さんに会釈した。
「あ、どうも。桧山蒼といいます。田ノ淵大学文学部の修士課程にいます……」
「ウス。沖谷といいます。よろしくお願いします」
沖谷さんも挨拶を返してきたが、意外なことにその口調には緊張が感じられた。
「お二人とも、昼食はお済ですか」
そう問うてくる彼は、こちらに気遣いはしてはくれているらしい。
「せっかくですが、駅前で済ませてしまいました。それより、地元の方のお話の方を」
「承知です。話は通してますので、さっそく向かいましょう」
そして沖谷さんの車に乗せられて十分ほど山に向かう方向に移動すると、
に囲まれた屋敷が現れた。屋敷と言ったって大き目の建売住宅に見えないこともないけれど。
案内された襖の、すでに楽しげな話し声が響いて来ていた。
襖を開けて挨拶を始めた沖田さんの脇から、日本酒の臭いが漂ってくる。どうやら秋本先生の取材にかこつけて、昼間から集まって宴会をしているらしい。
沖谷さんに続き先生が入ると、卓の人たちから歓声が上がった。一方で、続いて僕が入っていくと、急に妙な空気になった。
「奥の三人が、今回お話を伺えないかとお願いした方々です。皆さん、古くから猟師をやってる方で」
沖谷さんが秋本先生と僕に示してくれた。先生が挨拶をしようと口を開きかけたところで、
「徹也よう。この人らはなんだい」
「嫁さんかい」
「そっちの若いのはなんだ」
そう三人から言葉が降ってきた。口々にしゃべるので、誰がどれを言ったのかわからない。
全員が木の幹のように皺が刻まれ、声は地響きの様な強さを持っていた。
「田ノ淵大学の秋本先生と、その助手の桧山さんす。研究で、山に出るアレの話を聞きたいと」
「初めまして。田ノ淵大文学部の秋本三鈴と申します。こちらは助手の桧山君です」
僕は黙って頭を下げる。
「いやあ、どうもどうも」
「こんなきれいな方が話を聞きに来てくれるたぁ、猟師もまんざらわるくねえなあ」
「さっそく一杯どうかね」
同席していた女性が、先生も沖谷さんも車だと止めてくれたおかげで、飲酒を無理強いされることはなかった。コンプライアンスの波はどうにか微妙に届いているものと思われた。
「早速ですが、山に妖怪だか何だかが出るとか。それのお話を伺いたいのですが」
先生は、さらに一言断ってサウンドレコーダーを卓上に乗せる。
老猟師たちはお酒のためか口が滑らかになっており、口々に語ってくれた。関係ない昔話が多かったが、まとめると次のような内容だった。
自分の祖父母の世代以前から出ていたという話を聞いている。
でかくて毛が無く、異様な姿の物の怪だと聞いている。顔を見ると呪われると。
進駐軍がいなくなったころ、猟に出た昭三という人が殺された。徹也(沖谷さんのことだ)の祖父と一緒にいるところだった。それ以来、徹也の祖父は山に近づかなくなった。
それ以降も遠くから見るだけならたまにあるが、被害は出ていない。
「ここいらの山じゃ、十年猟師をやりゃ、何度かはそれらしい奴を見るもんだ」
その言葉で、一応彼らの話は締めくくられた。
沖谷氏の話と食い違いはないが、一点出てきていない話がある。
「聞くところによると、その鬼だかのミイラもあるとか。拝見できればありがたいのですが」
「ああ、あるある」
「しかしまだ見れねぇぞ」
「再来月の祭りの日までまっとけ。特別に拝ましてやっからな」
「そうそう。嬢ちゃんなら歓迎だ」
また三者が口々に言う。
「なるほど。それは楽しみです。拝観日は年に一度、その日と決まっているというわけですかな」
「いや、拝観日とかじゃねえんだ。無事に中身がしまわれているか確認さして、匂袋を取り替えて。その間だけ見れんのよ」
匂袋とくるか。ミイラは干からびるくらい古いと思ったけど、いまだに臭い消しがいるということか。それとももしかしたら必要不必要ではなく、決まり事になっているのかもしれない。
「それ以外の期間はしまわれているのですか?」
「そうだとも。誰か悪さすっといけねえからな」
「ミイラを一日中外に出していると、化け物に見つかってしまう、とかそういうのもあるかもしれませんね」
「……まあ、そういうこともあるかもしれんわな」
一瞬だけだが、空気が重くなった。ここの人たちは本当にそれを恐れているらしい。
「……それで、あんた山を見に行くつもりかね」
「はい。沖谷さんが案内してくれると」
「あんたの足ならあまり奥まで行けないだろうが、気を付けた方がいい。俺らの言ってることは嘘じゃねえんだ」
「嘘だなんて考えておりませんとも。それを見たくて、ここまで来ているのですから」
それまで淡々としていた秋本先生が、最後にそう言って笑みの形に顔を歪めた。老猟師たちは先生の様子に驚いたのか、そうか、と言ったきり黙ってしまった。
翌日の朝六時。日の出を過ぎ、山際からも太陽が顔を見せる時刻。
集落を過ぎた山のふもとで合流した沖谷さんは、手には杖を持ち、巨大なバッグを背負っていた。登山用のバックパックだそうだ。さらにその上に畳んだテントを乗せている。
「ほとんど食料と着替えだから、見た目ほど重くない。重いのは水ですね」
僕と秋本先生は観測機材を設置したら帰るが、沖谷さんは何日か山中に留まるらしい。
それより、と彼は僕の方を見る。
「桧山さんの方が重量過多っぽい。慣れていない人がそんなに背負ったらきついですよ」
沖谷さんはそう言って、僕の背負う機材のうちの重いものを引き受けると申し出てくれた。
「秋本先生。計測されるみたいなことは聞きましたけど、かなりの大荷物ですね」
「必要なものを厳選したつもりなんだがね」
ちなみに秋本先生も、登山部から借りてきたというバックパックに荷物をいっぱいに詰めて背負っていた。もちろん沖谷さんのものより二回りは小さいが。
沖谷さんはそのポータブル電源を引き受けると言って、自分のバックパックを下ろすと中身を押し込んで、一番上に詰め込んだ。重量物は上に配置するのが鉄則なのだそうだ。
「着替えと食料がメインだから、詰めればばまだ入る。これくらいは大丈夫」
「バックの中にさらにリュックっぽいものが入っていたようだが」
「これはアタックザックです。拠点から離れる時に使います」
「なるほど。勉強になる」
「では、行きましょう」
そう言って先頭に立つ沖谷さんの姿に僕は違和感を覚えた。よく見ると、杖と思ったものは木刀だった。
「ああ、これですか。物の化と戦う武器ですよ。背負うと引っかかって邪魔だし、手に持つなら杖代わりにしようと思って」
なるほど、とは納得しにくいが、持ち運びに難があるのもわかる気がする。
「武器が木刀で大丈夫なのかい」
「あとは祖父のナガサ……いわゆる山刀も腰に差してあります」
「武器はその二つ……それで物の化を倒すというわけだ」
「夏は猟期じゃないですからね。銃は持ち込めない。それに俺は剣道をやってます。木刀でやってやります。そのために鍛えてきたんです。爺ちゃんは山に登れなくて寂しそうだった。この前死んじゃったけど、その無念は晴らします」
秋本先生は、研究とはいえどこか興味主体でここに来ている。荷物持ちの僕には、それほどの理由はない。だから僕たちは、そんな沖谷さんの言葉をただ聞くしかできなかった。
そして沖谷さんを先頭に、山道に踏み込んだ。
踏み固められた細い道の頭上から、やたらに鳥の声が聞こえてくる。
「この辺の山は、昨日の爺さんたちの土地です。まあ、山といっても標高は低いんですが、木も草も伸びるし動物もいる。しっかりついてきてください」
確かに仲谷さんの言う通り、東北の遅い春を謳歌しているのか草や木の若芽が繁茂し始めているようだ。
ある程度までは山菜取りやキノコ採りに来る人がいるらしく、踏み固められた道があるという。それでも、夏場などは藪の中を進むような感じになってしまうのではないだろうか。
森の臭いを吸い、若草を踏みしめ、休憩を挟みながら五時間ほど進んだ。真上の梢を透かして太陽が真上にのぼっているのが見える。
「思ったより進めていないですね。お二人は機械を設置したら戻るそうですが」
何度目かの休息の折、仲谷氏が時計を見ながら言った。
「帰り道なら、山用の地図アプリがある」
「その部分も心配ですが、このままだと明るいうちに戻れないと思います。一晩山に泊まることも覚悟してください」
「しかたない。山を甘く見た私のミスのようだ」
「夏ですし、なんとかなるでしょう。虫はいますが」
「物の怪もいるしな」
疲れて座り込み肩で息をする僕の横で、二人は楽し気に談笑している。秋本先生がタフなのが意外だった。
「……ところで、なにか聞こえませんか」
遠くから、今まで聞こえていた鳥やら葉擦れとは異なる妙な音が聞こえた気がした。
僕は二人に呼びかける。なにかしゃがれた声というか、形容しがたい音が近づいてきている気がする。
二人もすぐに黙って耳を澄ませている。
沖谷さんは木の根元にバックパックを降ろすと「離れていてください」と僕たちに言った。
「あれが?」
「おそらく」
会話する間も、道から外れた木々の密集する空間に下がった。
「あれの顔を見ないでください!」
「見ると、どうなるんだ」
「わかりませんけど!」
言いながら、沖谷さんはバンダナを目に撒いている。あれで戦えるのか。
「そうかい。ああ、センサー設置は間に合わないな。カメラもあっちに置いた鞄の中か」
「先生、スマホ使ったらどうですか?」
木々と空間越しに沖本さんと言い合う秋本氏に、僕はささやいた。
「いい考えだ!」
すでになんだかの声は近くまで来ている。喚き声に聞こえるが、強いて言えば、あだまかえすてけ、と言っているように聞こえなくもない。
枝を擦る音や土を蹴る音が急速に近づいてきて、沖谷さんの気合の声も響き渡る。
僕はと言えば木の後ろに隠れてしゃがみこんでいるのが精いっぱいだった。
秋本先生は僕のとなりで片膝をつき、スマートフォンの画面を覗き込みながら写真を撮ったり動画に切り替えたりしている様だった。
「私のスマホじゃ、カメラの性能が足りん! 暗いしブレるし追いきれない」
そして見た目に似合わずちくしょうと喚きながら、さらにスマートフォンをいじっている。
十何歩か向こうでは、沖谷さんが木刀を振るっているらしく、いまだぶつかる音が響き渡っている。
いるのだ、物の怪と呼ばれるものが。顔を見てはいけないらしいとは思いながら、そっと顔を出すと、大柄の沖谷さんより頭二つくらい大きな人のような影が沖谷さんとにらみ合っていた。腕が異常に太く妙に長い以外は、シルエットは人に見える。
「あぁぁだまぁがえずでげぇ」
それが吠える。
沖谷さんが飛び込んでくるそれに、タイミングを合わせて木刀を叩きつけた。それは悲鳴を上げてのけぞりながらも手で木刀を奪い取り二つにへし折ると、駆け去っていった。
僕は物の怪の顔に視点を合わせることはなかったけれど、見た扱いになったらどうしようと思って怖くなる。地域的な禁忌だろうとは思っていても、やはり得体のしれないものの得体のしれない話は恐ろしい。実際に物の怪はいたのだから。
「桧山君。君も見てないで、スマホで撮ってくれたらよかったのに」
唖然としていると、隣で秋本先生が不満そうに言った。
「す、すいません。異常な出来事だったんでそこまで考えが及びませんでした」
「まあいい」
先生は立ち上がると、肩で息をしたまま立ちすくんでいる沖谷さんのところまで戻っていった。
「大丈夫かね」
「……凌げました。なんとか、ですけど」
「座って、水でも飲め」
先生は言い置いて、放り出してあった荷物の束のところに向かう。僕もそれを追うと、辺りにはまだ土の匂いや生木の臭いが漂っていた。土が蹴立てられ木が削れるような戦いだったのだろう。
そんなことを考えていると、先に荷物の確認を始めた秋本先生が、先生には珍しく大きな声を出した。
「どうしました?」
「キミのバックパックが乱闘に巻き込まれていてな。カメラが……」
先生の手に握られたデジタル一眼カメラはレンズ部分が接合部でもげ、ボディは大きく歪んでいた。
「借りものなんですよね。高価そうですし……」
「保険に入ってきたから、それはいい。しかし、今回の撮影には使えない。あれを高画質、高シャッタースピードで撮影できないんだ」
肩を落とす先生を置いて沖谷さんの方に歩み寄ると、腰を下ろしたまままだ放心していた。
「どうぞ」
「……ウス」
自分の荷物から持ってきた水を渡すと、彼は一気に煽った。
「大丈夫でしたか」
「……ええ。特に怪我とかは」
「話が違うな、沖谷さん」
秋本先生だ。気づいたら僕の後ろまで歩み寄ってきていた。
しかし話が違うとは。
「物の怪は奴のテリトリーに近づかないと姿を現さないし、そもそもここ何十年も襲われた人はいなかったはずだ」
「……」
「それに、君には妙な確信があったように思う。あれに会えるという」
僕は気づきもしなかったが、確かに先生の言う通り聞いていた話とは異なる。
「持ち出したな」
「……ええ」
「なんのことです?」
「ミイラの頭だよ」
そう言って、沖谷さんのバックパックに入っていたアタックザックをその場に置いた。
「臭いが漏れないようにパッキングしたり消臭剤を詰めたりしたんですけどね」
「知っていることを教えてくれるか」
そう言って、秋本先生は彼の前に座り込んだ。自分だけ立っているわけにもいかず、僕も腰を下ろす。
「別になにか知っているわけじゃありません。ただ、自分が昔山に入っていたとき、あれを目にするのにある法則があったんです。それが、ミイラの開帳日の直後だと確実に見る。時間が経つごとにだんだん減っていく。夏であっても、開帳日の直前は見ない。日付に意味があるかもと思ったんですが、自分が開帳に立ち会わなかった年は、奴は全然出てきませんでした」
「ああ、それであれはミイラの頭の臭いだか気配だかに引き寄せられると考えたんだ。頭返してとも言っていたしなあ」
「はい。爺様たちが山に入るのは猟期の冬場だけ。夏の間は野良作業で山にはあんまり入らないから、なかなか気づかないでしょう」
「そして見事、予想は当たったわけだ」
「黙っててすいません」
「まったくだ。言ってくれればよかったのに。そうすれば、事前にいろいろチェックでき。いや、今からでも遅くないか。返す前に一度CTにかけていいかな」
先生はそう言いながらアタックザックを開け、厳重に梱包されていたミイラの入っているらしい箱を剥いて行く。
どうやら先生が不満を言っているのは、無断だったとか物の怪に襲われたことではなく、ミイラをチェックしたかったかららしい。
「そういえば、このミイラの耳がないのはどうしてなのか気になっていたんだ。お、反対側はあるな。これは毎年チェックされてるんでしたね?」
先生は口を開きながらも、スマートフォンのカメラでミイラをいろんな角度から撮影している。
「ああ、それですか。なんでも、爺さんの仲間が襲われた次の年にはそうなっていたみたいです」
「それまではそうじゃなかった」
「たぶん」
先生、それどころじゃないでしょう。まずはあの物の化のことです。どうするんです。沖谷さんはあれを倒したいわけですし、僕らは機械類を設置して観測するんでしょう。でも予定が狂っている。撤退しますか。そう言ったことを僕がしどろもどろに申し出る。
「ああ、そうだった。どうします、沖谷さん」
「自分としては、木刀が折れた他は特に。手ごたえもありましたし」
「では予定通りで。もう物の怪のテリトリーまで進む必要もないですし」
「いつ来るかわかりませんし、移動するのも危険です。幸い、ここは樹林が途切れてぽっかり空いている。このままここにしましょう」
「よし。では桧山君。センサー類の設置を始めよう。君はあっち側、私はこっち側だ」
「では自分は、地面の石や枝をどかしておきましょう。あと、少し離れてテントを設置しますか」
太陽が傾くころ、機材の設置や設定が完了した。
その空間を円形にぐるっと囲むようにセンサーを設置し、通信や電源のケーブルを離れた指揮所に引き込み、アンテナ等を設置、という感じだった。
「沖谷さん。やはり相手を見ずに倒すかね?」
「はい。いると言われていたあれはいましたわけですし、見るなと言われているものを見たくはないです」
「よろしい。ではこれを付けてくれ。以前にちらりと説明した気もするが」
秋本先生はそう言って、いわゆるヘッドマウントディスプレイ、略してHMDを沖谷さんに渡した。
「センサーで相手を見れるようにする、みたいな話でしたっけ」
「まあ、そうなんだがね。モーションキャプチャ―の複雑なものと考えてもらったらいい。センサーで物の怪の動きを測り、データ化して再描画し、それをそこに表示する。カメラ映像でもなく、動きをコンピューター処理したものを表示するだけだから、見たことにはならないというわけだ」
テストとして僕が沖谷さんの前に立って跳んだり踊ったり、沖谷さんにタッチしたりして見せた。
「棒人間が動いているのが見えます。確かにすごい。しかしわずかに遅延がありますね」
「遅延は我慢してもらうしかない。なにしろ大学のスパコンに送って処理してまたデータを返してもらってるんだから」
「ここ、携帯電話も通じないのに……」
「空が見えてるからね。値段は張るけど通信はできる」
「わかりました。ありがたく使わせてもらいます。目を閉じているよりよほどいい」
「よし。じゃあ桧山君。我々はPCとアンテナのところに引っ込んでいるぞ」
そしてその場にHMDを被った沖谷さんとミイラの頭を残し、二十メートルほど離れたテントに移動する。
とはいえ、あの物の怪がもう一度来ると断言はできない。木刀の傷のせいで来ないことだって考えられる。
もう日暮れだ。しかし我々が設置したセンサーには昼も夜もない。問題は体力が持つかだった。陽が上ったら沖谷さんも含めて引き上げる予定だった。
そんな状態で何時間も緊張感を保ってはいられない。
僕と先生は食事をとったり、それを沖谷さんに届けたり、仮眠を取ったりしていた。
しかし、その時は来た。
物の怪は深夜と明け方の間に現れた。最初の時のように駆けてきたりせず、ゆっくり現れたにもかかわらず、例の雄たけびを上げてから沖谷さんに、いや、おそらくその足元のミイラに向かってきた。
「先生、来ました」
「データは取れてるな?」
「映像データ以外は」
そしてまた激しい戦いになるかと思われた。しかし、物の怪は低い位置にあるミイラの頭にむかって体を下げ、沖谷さんは短い山刀で切りつけた。
大きな吠え声、さもなければ悲鳴がそれから上がった。
物の怪は仰け反り身を捩り、身をひるがえして駆け去っていった。
それだけだった。
「沖谷さん!」
「ナガサに手ごたえがあった!」
「しばらくは警戒を続けろ」
その妙な緊張状態のまま数十分が経った。
山の端に朝日が指し、平地より少し遅い夜明けがやってきた。
明るくなったことで少しあんしんした。根拠はないけれど、物の怪は去ったのではないかと。
秋山先生と共に沖谷さんに歩み寄ると、彼もHMDを外してわずかに明るくなった周囲を見回していた。
「ミイラの頭は持っていかれたようです」
彼の言う通り、そこにはミイラの下にしていた布だけが残っていた。
「地面に血が残っている。物の怪のものか? その山刀はどうだ?」
「奴を切ったのは間違いありません。こちらにも血はついています……」
秋本先生はすぐにプラスチックのような小さな容器とスポイトを取り出すと、最初にナガサに付いた血を、次いで地面に垂れたものを回収していった。
「血が赤いということは、ヘモグロビンを含むということか? 案外普通の生き物なのか?」
先生は沖谷さんの感慨など無視して、一人ぶつぶつ言っている。
仕方ないので、僕は僕で明るくなってきた視界を頼りにセンサー類の回収に入った。ここからまた帰路を歩かなければならないことを考えると、憂鬱だった。
「血液の分析結果が来たよ。暫定版だが」
先生が何の前触れもなくそう言いだした。
夏の秋本研究室は、エアコンの設定温度が高いせいで少し汗ばむ陽気だ。
「……ああ。山形の物の怪のですか」
「そうだ」
「それで、なんだったんですか、あれ」
「わからんとさ。人間ではない。ニホンザル、チンパンジーでもない。ツキノワグマでもない。ともかく、よく分からないものがいたという結果が現れたわけだ」
「血が出た、血からDNAは取れた、染色体数は人間と違う、この三点しかわからん。一部の塩基配列はわかったものの、それを他の生物と照合するのも手間と金がかかるそうでな。解析してくれた友人の所感でもよくわからんらしい。しかしともかく、DNAが取れるなら地球の生物であるのは確かだ」
「未知の生物ってことですか」
「今のところな。UMAかな。山奥に未知のヒューマノイドがいるとなれば、それはそれで発見だ。宇宙人説は外れだったが」
「宇宙人説なんてありませんでしたよ。写真云々の話をしただけです」
「そうだったね。ともかく、ミイラを持ち去られてしまったのが、一番残念な点だな」
ありましたね。首のミイラ。
「ミイラ、沖谷さんが持ち出したのを写真撮ってませんでしたっけ」
「スマホでな」
そう言って棚から何枚か、プリントした写真を出して見せてくれた。
「最初に見た写真からはわかりませんでしたけど、ないのは左耳だけなんですね」
「いいところに気が付いた」
先生はそこで嬉しそうに表情を変えた。
「これがなんなんです?」
「私も気づいたことがあるんだ。その左耳の痕、滑らかだろ? あとからは物みたいなもので切り取られたんだ。それは沖谷氏の祖父と仲間が山で物の怪に襲われた年。首を持っていると物の怪に襲われる」
「沖谷氏の祖父たちも、この首を持ち出していたってことですか?」
「クビそのものではなく、耳を切って持って行けばいい。それに襲われたのは仲間の方だ。我々が見たように物の怪は尋常じゃないし、首を持っていた人が殺されたならそのまま奴に回収されていただろう」
忘れていた一連のことを思い出しながら整理していると、先生の話について行くのも大変だった。
「沖谷氏の祖父がミイラの耳を切り取って持ち出し、その仲間に持たせるとか服に忍ばせるとかしたんじゃないか、という想像だよ。そうやって物の怪に襲わせたんじゃないかってな」
それは、衝撃的な話だった。
それでも辻褄はつく。見かけるだけで襲ってくることのなかった物の怪が、その時だけ人を殺した理由の説明にはなる。
「もしかしたら、物の怪の顔を見ちゃいけないって話も、この時できたのかもね」
「なぜです」
「沖谷氏の祖父は仲間が襲われている間、顔を伏せていた。その理由付けになる。それに怖い逸話が着けば、現場に近寄る人もいなくなるだろう。ここは想像のさらに想像だよ」
「……殺人ですね」
「七十年近く前の話だ。本当のところはわからない。だからここだけの話だよ。沖谷氏に私の想像をわざわざ告げて、気分を悪くさせることもないだろうし」
それはその通りだろう。
しかし、UMAの証拠一歩手前という妙な発見の付録にしては、後味が悪い。
「まあ、それはいいのさ。忘れてくれ」
はあ。そうですか。
「わたしとしては、取れたのがわずかな血液だけで、パッと検査して新種だ、という訳にもいかないのが不完全燃焼だけどな」
「追加で生体捕獲に行こうなんて言わないでくださいよ」
「それはもう私の研究分野から離れてしまうからなあ。論文にはするし、サンプルを霊長類研究所に送っとこうか。いや、研究対象じゃないかな。それに民俗学者から送られても困るかもしれない」
はあ、そうですか。と僕は表情だけで答える。
「まあ、今回はもう十分だよ。だいたい、結局のところ地上の生き物だったというのはロマンが足りないと思うんだ」
そう言って、秋本先生は眉を寄せた。
「まあそれよりも、もっと追求したいテーマもある。今回で言うと、ミイラというのが面白かったな。そういえば、長野の寺に河童の腕のミイラがあるそうだが、すごいことにその寺に河童の霊が出るそうなんだ」
はあ、そうですか。
この研究室に入ったのは間違いだっただろうか。いまさら別のところに移るつもりもないけれど、荷物持ちはもうしたくないなあ。
考え込む僕を尻目に、秋本先生はうまそうに煙草を吹かし始めた。この建物は喫煙所以外禁煙ですよ、先生。煙草に付いた口紅の跡を見ながら、僕は心の中だけでそう注意した。
了
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