梗 概
また逢う日まで
2039年。量子計算機は計算に必要なメモリも計算処理能力も量子計算機出現以前の”古典”計算機を圧倒し、量子情報処理に支えられた人工知能は、膨大なパラメータを同時並行的に圧倒的な速度で処理できるようになっていた。また、並行して進展を果たした身体性を有するロボット技術は、身の回りの環境を知覚し、ロボットがシームレスな反応を行うことを容易にさせ、接触を伴うスポーツにおいてもロボットと人間とが競い合うことができるようになった。
ロボットの介在しない、人間同士の試合でも興業の中で命を落とす可能性のある格闘技へのアスリートロボットの導入は大きな議論を巻き起こしたが、とある試作機の試験導入により、一気に広がった。その試作機は、試合を重ねる度に対戦相手へのリスペクトを示しながら成長し、インタビュアーやファンに対しても丁寧に対応する模範的なファイターとして多くのファンを獲得したが、一定以上のランカーとの試合になると、あと一歩のところで勝てず、万年中堅ファイターの位置に甘んじてしまっている。ロボット技術者の間では、一定以上のレベルのアスリートが経験する、”考える前に体が動く”の実装がカギになっているのではないか、どうしたらそれを達成できるのか、誰が初めてそれを実装するかについて熾烈な開発競争が繰り広げられるようになった。
50歳を超えたベテラン技術者である芽唯もそのうちの一人として、ベンチャーキャピタルから資金を集め、キックボクシングのタイトルマッチへの挑戦者決定戦を前に命を失った恋人、順也をロボットとして蘇生させた。電脳空間への意識の移植、故人の電子データとしての蘇生、また、電脳空間上で蘇った故人の意識をロボットへ移植することは一定の資金さえあれば実現が可能となっていたが、蘇生させた順也は、芽唯を芽唯として認識することはできなかった。芽唯は偽名を名乗り、生前、選手だった頃の順也を知る一人のロボット技術者として、”考える前に体が動く”の実装を達成するために力を貸してほしいと、順也に依頼する。
芽唯は、順也のロボットとしてのパフォーマンスの最大化、及び、競技復帰のためのコーチングをビジネスパートナーとして芽唯を支えるAIロボットである正樹に依頼した。正樹は、ロボットとして蘇生させた順也の存在やその開発進捗が芽唯、およびそのサポートAIロボットたる正樹自身にもたらす影響を計算しきれないという現実に直面し、自らの行動最適化の指針を持てずにいる中、順也の競技復帰の仕上げとして、デビュー戦に送り出す前の最終調整としてのスパーリングを行うこととなった。スパーリングの最中、順也に対する不可逆的な破壊がもたらす芽唯及び自らへの影響は?という可能性を計算し始めた正樹は、あらゆる未来の可能性を同時並行的にシミュレーションした上で、順也の破壊を試みる。
文字数:1177
内容に関するアピール
できるだけ、もしかしたら未来はこうなっているかもしれない、という地続きの物語を紡いでいこうと考えて、書き始めました。目標の一つは、格闘シーンを実経験に基づいて丁寧に描写し、格闘技経験のない方にも読むことを通じてひりつく緊張感を体感頂くことです。
各種のSF作品への親しみ・習熟の度合いについて初心者の自覚があるのですが、SFみたいな技術を実装し、地続きの未来をできるだけ精緻に想像して現実に落とし込むべく事業を進めることに興味があります。SFみたいな技術について真摯に話す人の話を聴くことは大好きで、ワクワクします。
本講座への参加はほぼ勢いですが、書いている途中のこの作品を読んでくれたギークで優しい同僚達が、続きを読みたい、続きが気になる、と言ってくれたことに背中を押され、折角ならきちんと取り組みたいと、申し込みました。読んでくれる誰か一人に何かが届く作品を書き続けたいと思います。
文字数:395
またあう日まで
青:2039年3月。入院中の患者の個室を模した柔らかな日差しの届く実験室は、今日も快適な温度・湿度に保たれていた。淹れたばかりのジャスミンティーを持ち、私はベッドに歩み寄った。ベッドには、二十歳前後の男性を模したヒューマノイドが横たわり、布団がかぶせられている。
「夜逃げは…、できればしたくはないんだよね」
私はつぶやいて、ベッドサイドの椅子に腰をかけた。カップから一口飲む。いつもよりも心拍数は高く、呼吸が浅い気がする。少し震えた手で持ったカップからもう一口飲んで、ベッドサイドの机にできる限りそっと置き、改めてロボットを見つめた。
ヒューマノイドは、三十年前に死別した恋人、順也にそっくりだ。まるで眠っているようだが、生きている人間とは異なり、呼吸による動きがない。
「いよいよって時だけど、あんまり実感ないな」
つぶやきながら、そっとヒューマノイドに触れた。順也はデートの前にしっかりと調髪して待ち合わせに現れるので、青々とした、剃られたばかりのえりあしがまぶしかった。軽々しく触れていいものか逡巡しながらも触りたそうにしていた私を見て、順也は目を細めて笑っていたっけ。ロボットにも同じ髪形をインストールしたが、自分は、眼尻のしわも深く、白髪も目立つようになってしまった。続けている運動のおかげで、周りの人々は実際の年齢より若く見える、なんて言ってくれるけど、三十年前に比べれば肌の張りはだいぶなくなったし、厳しい面立ちになってしまったように感じる。
順也は私のこと、憶えているのだろうか。いや、そもそも憶えているというより、認識できるのか、と言った方が適切なのか。
赤:目を開けると、初老の女性がこちらをのぞき込んでいる。ぼんやりとした頭で相手を見返す。どこかで見たことがある気もするが、思い出せない。誰だろう?
「おはよう、順也、気分はどう?まだ眠たい?」
確かに自分の名前が呼ばれた気がするのと、相手が何か話しかけているのは分かった。重たい体を起こし、周りを見渡す。全く見覚えのない部屋だった。病院かなにかだろうか。ベッドの傍に座っている相手に応える。
「おはよう、ござ、います」
応えて、違和感を覚える。自分の声は、このようだったか?寝起きにしても、こんな声だったろうか。そもそもここは、どこなのだろう。
「あの…、ここは?」
尋ねながら、思い出した。そうだ、俺は試合に臨む直前ではなかったか。こんなところで寝ていていいのか。いや、今は何時だ。指定の時間に間に合うのか。布団から出ようとして自分の腕、手を見て違和感を覚えた。どうものっぺりしすぎていて、作りの物のように見える。布団を剥ぐと、にわかには信じられないものを見てしまった。これは、ロボットの脚?小さな子供の頃、両親とともに観た、恐ろしいロボットが人間を追い詰めていく映画を思い出した。いかにも機械だと言わんばかりの細かな金属製のパーツが組み合わさった下半身。布団を剥いだ手を戻し、目の前の人物に尋ねる。
「俺は…、どうなっているんですか?」
「ごめんなさいね。下半身まではカバースキンが間に合わなかったの。あんまりお金もなくて。でも、普通に歩けるはずだから大丈夫。気分はどう?痛いところとか、違和感はない?」
違和感も何も。これは、なんだ。いや、時間を確認しよう。
「大丈夫です。あの、今、何時でしょうか?」
目の前の女性は少し悲しそうな、しかし優しい笑みをたたえ、腕時計を確認して応えた。
「今は10時32分。日付は、2039年3月9日。あなたは今日これから、計量会場へ行く必要はないの」
青:起動させたばかりのヒューマノイドとのやり取りを通じて、確かな手応えを感じた。生前の記憶をできる限り忠実に再現するべくプログラムを組んだため、恐らくは、起動後すぐ、今の自分の状況の把握に努め、生前実行しようとしていたこと、すなわち、試合の前日計量について気にするだろうと想定していた。ヒューマノイドは、一瞬ポカンとし、ベッドにあお向けに倒れた。右手で両目を覆いながら呟く。
「行かなくていいんですね…」
ヒューマノイドは、息を大きく吐いてから、呼吸を整えているように見えた。ややあって、むくりと上半身を起こし、両目を抑えていた右手を額にずらし、こちらを見て尋ねた。
「すみません、さっき、2039年と、言っていましたか」
「えぇ、今は、2039年です」
「あなたは、誰ですか?どうして僕は、こんなところで寝ているんでしょうか?この体はなんなんですか?」
あなたは誰ですか?か。可能性の一つとして想定してはいたものの、どう応えるべきか考えようとする間を与えないかのように、ヒューマノイドの情報処理状況を監視しているモニターが、演算基盤に高負荷がかかっていることを示すべく明滅し始めた。横目でモニターを確認しながら、場合によっては手動で緊急停止措置を実施し、起動を中止することも必要だと思いながら、言葉を選んで目の前のヒューマノイドへ語り掛ける。
「私は、あなたのファンだった技術者です。あなたが活躍していた頃からずいぶん時間が経ってしまったけど…、今、2039年においては、30年前に比べてずっと色々な技術が利用できるようになっていて、あなたみたいに、かつて生きていた人を、インターネット空間の中や、ロボットの体を通して、蘇らせることができるようになりました」
ヒューマノイドの様子を窺いながら、続けた。
「あなたの生前の記憶は断片的だったから、憶えている部分と、憶えていない部分があるのかもしれません。いきなりこんなことを言われても、困ってしまいますね」
少し、意識して微笑みながら付け加えた。ヒューマノイドは、かつて順也がそうであったように、私の話を真剣に理解しようと、人工網膜によって造られた瞳でまっすぐにこちらを見つめながら話を聞いているように見えた。三十年前と、その様子はあまり変わっていないのではないだろうか。ただ、当時と異なり、目の前の相手は研究目標を達成するための開発対象である。起動という第一段階はクリアできたが、このヒューマノイドを用いて私は、確かな成果を出さねばならない。まずは、演算基盤を守るための緊急停止措置を回避する必要がある。緊急停止を実施した後に、再起動に充当できる資金は十分ではない。
「かつて生きていた、生前って、いや、まるで僕は死んでしまったみたいじゃないですか」
戸惑うような、やり場のない憤りを抑えるような口調でそう言葉を発し、こちらを見つめている。何も言い返せなかった。つばを飲み込んで、情報処理状況の監視モニターの明滅を確認しながら、次の言葉を待った。
「まぁ、でも、2039年とか、起きたらこんな体になっているとか、正直訳が分からないです。そうか…」
しばらく沈黙が続いたのち、ヒューマノイドは、改めてこちらに向き直って言葉を続けた。
「ファンの方だったんですね。すみません、応援に来て下さった時とかに、お会いしたことはあったでしょうか。なんとなく、お会いしたことがあったような気はするのですが、ごめんなさい、思い出せなくて。お名前をお伺いしても、構いませんか?」
まっすぐに瞳を見つめられながら名前を問われた。即座に言葉を発することはできなかった。私だよ、めいだよ、と喉元まで出かけたが、堪えて、私の名前は、と、ロボットが自分を認識しなかった場合に備え用意していた偽名を名乗った。
赤:相手は、「ながおかつばき」と名乗った。聞き覚えのない名前だと思った。今、50代くらいであるとすると、三十年前は20代だったのだろうか。初老と分かるしわの刻まれた相手の顔を眺めて、どこか懐かしい気持ちを覚えるが、やはり思い出せない。
「ながおかさん、ですか。ごめんなさい、やっぱり思い出せないです」
そう口に出した後で、思い出した。芽以はどこだ。今何をしているのだろう。三十年も経てば、目の前の相手と年齢は同じくらいか?あの日、試合後にはこういうものが食べたいと、リクエストしたら嬉々として準備していてくれたっけ。そう、確か、それまではサプライズで準備してくれていたけど、この前、一緒に考えたんだった。準備した焼き菓子を前に、途方に暮れる芽以の姿が浮かぶ。悲しませたに違いない。かなうなら、時間を巻き戻して謝りたい。今、どこへ行ったら芽以に会うことができるのだろう。
掛け布団にぽたぽたと、水滴がこぼれた。自分が泣いていることが判った。ロボットでも泣いたりするんだな。のっぺりとした手指で涙らしきものをぬぐう。だめだ、涙が止まらない。申し訳なさと、会いたさと、ふがいなさとでぐちゃぐちゃな気持ちに押しつぶされそうになり、嗚咽が止まらなくなる。
ながおか、と名乗った女性が手触りのよいタオルを手渡してくれたので受け取り、目頭を押さえた。優しく背中をさすってくれているのを感じた。触れられた部分は暖かく、そこから背中の感覚が広がっていくような安堵を覚え、更に涙が止まらなくなった。背中をさすられ、とんとんと叩かれていたが、しばらくして、
「お水、このテーブルに置いておきます」
と言われた。顔をあげることはできなかったが、小さく頷いた。
「ティッシュも、置いてあるものを使って下さい。お手洗いは部屋の外にありますが、私、向こうの部屋にいるので、落ち着いたら隣の部屋へ、歩いてきてもらえますか?」
俺が再び頷くと、とんとん、と優しく背中を叩かれ、足音が遠のいていった。顔をあげることはできなかった。
しばらくして、テーブルの上に置いてあったコップの水を飲みほし、布団から出ると、畳まれている衣類が目に入った。自分の身体は、先ほど言われたように、上半身は人間を模した体に見えなくはないが、下半身は、いかにもロボットそのものに見える。両手を握ったり開いたり、体を動かしたりすると、思うままに動いたが、明らかに自分の知る自分の身体ではない、少なくとも見慣れてはいない体を思うままに動かし服を身に着けるのは、変な感じだった。用意されていた服を身に着け、隣の部屋に移動すると、一人の男性がソファに座って穏やかな顔つきで本を読んでいる。こちらには気が付かないようで、男性は頁をめくって読み続けている。本に夢中なのだろうか。男性が座っているソファ、テーブルを挟んで置かれた椅子の他は、大きめの観葉植物が一つあるくらいのシンプルな部屋には、先ほど「ながおか」と名乗った女性は見当たらなかった。沈黙に耐えかねて、俺は声をかけた。
「あの…」
男性は顔をあげてこちらを見た。
「あぁ、歩くのに問題なかったみたいだね。まぁ、この距離でつまずかれても困るけどさ」
少しとげのある調子でそう言うと本を閉じて立ち上がり、俺を見ながら言葉を続けた。
「僕はまさき。君よりずっと年上の、ロボットだよ。僕は、君の身近な相談役としてながおかさんに訓練された、君の教育係だと思ってくれたらいい。まぁ、ながおかさんとは、君の相談役・教育係というだけではなくて、もうずっと長い付き合いになるんだけどね。自分の操り方、動かし方が判らなかったら、ながおかさんではなくて、僕に言ってくれ。ほら、トイレに行くとか、身の回りのこととかは、女性に教えてもらうより、同じ男から話を聞いた方がいいだろ」
端正な顔立ちで少し得意げに、こちらの様子を確認しながら伝えてきた。ロボットと自分で言っているが、話している様子はまるで人間だった。さっきの女性はどこへ行ったのだろう。
「えっと…、」
「あぁ、ながおかさんか。もう少ししたらまた会えるんじゃないかな。何はともあれ、よろしくね、順也くん」
歩み寄られ、手を差し出されたので、促されるままに握手をした。俺はあまり力が入らなかったが、相手からは、少しの緊張と牽制のような力強さで手を握られた。
「まぁ、座りなよ。少し話をしよう」
まさき、と名乗ったロボットは俺が声をかける前に座っていた三人掛けのソファに座り直し、促されるまま、その左側に、俺も腰を掛けた。
青:私は部屋を後にし、隣室で待機していた正樹に目配せをした。私を見た正樹は私と目を合わせ、微笑みながら、右手のサムアップのしぐさで応えた。ぎこちなく微笑み返し、「お願いね。」と伝える自分の声は震えていた。廊下に出て、自室の扉を開けた。少なくとも、起動は成功した。泣きじゃくる順也の背中をとっさにさすったが、高強度スポーツに耐えるヒューマノイドの背中は起動後しばらくたってもひんやりとしていて、その背を小さく縮めながらしゃくりあげていた。順也を蘇生させたのは私の勝手だ。どうしてわざわざ、改めて辛い思いをさせているのだろう。
実験室から持ち出したカップのジャスミンティーはすっかり冷めてしまったが、飲み干し、散らかったデスクに向かい、投資家に向けた開発進捗の報告のためのメールの下書きを確認する。
私が順也を模したヒューマノイドとやり取りをしている間、正樹がすっかりその様子を簡潔かつ十分な形で報告にまとめ、あとは送信するのみとなっていた。いつものことながら、その確かな仕事ぶりには頭が下がる。この内容であれば次の取締役会で開発の進捗についてなじられることはなさそうだし、資本業務提携先からマイルストーンfeeを獲得した上で、順也のさらなる開発に向けて資金を投じることができるだろう。役員、オブザーバー権を有する投資家へ簡潔な報告のメールを送り、資本業務提携先には振込の実施について念を押すべく改めて別のメールを送った。続けて、正樹の的確な仕事に対するお礼のメッセージを送ると、椅子に深く腰掛けて眼をつむり、天を仰いで長く息を吐いた。
赤:「喉、渇いている?もう少し水を飲むかい?」
まさきは俺が横に座った後、問いかけた。
「いいえ、さっき頂いたので」
「わかった。飲みたくなったら、すぐにとってくるから。少し、今、2039年の話をしておこうか。君が生きていた2009年だと、そうだね。ロボットといえば、少し小柄だけど、指揮を振ったり踊ったりすることができる、人型のロボットとかは覚えているかな。あとは、犬みたいに動くペットロボットとか。30年の間に、色んなことがあったんだよ。君のように、一度死んだ人間が電脳空間の中で意識を持ち続けたり、また、ロボットの体でよみがえったりすることも、今では珍しくなくなった。それと…、まぁ、見たほうが早いか」
そう言ってまさきは腕時計を操作し、ソファの前の壁に据え付けられた、大きな画面に映像を映し出した。画面には、派手なキックパンツをはいた選手が上半身から汗を噴き出させて青コーナーの椅子に座り、セコンドからの指示に耳を傾けていた。どうやら、第1ラウンドを終え、第2ラウンドに向かう前のインターバル中のようだった。驚いたのは、赤コーナーの選手にカメラが向けられた時だ。
頭髪のない頭。顔は、少し大きな目と、操り人形のような口回りが気になった。どことなく、愛嬌のある顔に見えなくもないが、明らかに人間ではなく、ロボットのようにしか見えなかった。ロボットは、おおむね、相手選手と同じくらいか、より筋肉の丸みを帯びた、ややずんぐりとした作りに見えたが、その胸板には、直接スポンサーと思しき企業の名称が掲載されており、よく見ると、丸々と大きく形作られた肩回りの筋肉にも、複数のスポンサーロゴが見えた。ロボットには、セコンドにしては線の細い二人の男性がついていたが、ロボットは肩で息をすることもなく、男性たちから体の様子についてチェックされながら、手を閉じたり開いたり、首周りの動きを確認し、青コーナーに目を向け続けていた。
第2ラウンドが始まった。両選手とも構えは左手足を前に出したオーソドックスで、左手同士を軽く触れ合わせるグローブタッチの後、ステップを踏みながら互いの間合いを読みあう。人間の方のステップの切れが悪いと思ったら、前足の太ももがだいぶ腫れあがっており、思うようにステップが踏めていなさそうに見えた。青コーナーの人間の選手がジャブを出すものの、ロボットは冷静にさばき、かわし、丁寧にカウンターのパンチと重たそうなローキックを返していく。第1ラウンドは見ていないが、2者の間には、だいぶ力の差があるように見えた。ただ、人間の方は粗削りというか、そもそもそこまで強そうにも見えなかった。セコンドの指示を受けた人間の選手が、勢いで畳みかけようとしたその瞬間、懐に入ったロボットが放ったアッパーに続く左右ボディーのコンビネーションをまともに受け、人間の選手はたまらず膝をついて倒れ、そのまま試合終了となった。
まさきはモニターの画面を消して、「どうだった?」と聞いてきた。
「どうって、あまり、人間の方はうまくなさそうな感じもしました。そもそもロボットって人間より圧倒的に強いんじゃないですか?全然疲れなさそうだし。不公平な気がしました」
「人間がうまくなさそうというのは、そうだね、確かに、さっきの選手は上位ランカーではなかったね。ただ、不公平にならないように、競技用ロボットの規格や関連法規はだいぶ厳格に定められているんだ。人間ではありえないような出力は出せないようになっているし、そう、全く疲れないというのも不公平だから、人間同様に、持久力・耐久力も大体同じくらいの仕様になっている。人間を超えたレベルで動き続けることはできないし、人間がケガをするくらいのダメージをロボットが与えられたら、それなりに動けなくなったり、修理が必要になったりもする。
順也、君の体もロボットとはいえ、人間と同じくらい、もろいものだと思っておいた方がいい。もう一つ言うと、君の体は、僕とながおかさんが役員を務める会社の資産であって、君個人の所有物ではないんだ。僕も、ながおかさんも、君の衣食住は保証する。しかし、君の体、君自身は、君一人のものではないんだよ」
あっけにとられて話を聞いている途中で、先ほどの女性がお盆に湯呑と大ぶりのポットを載せ、部屋に入ってきた。
青:椅子に腰かけたまま、少し眠ってしまったようだった。三人分のほうじ茶を淹れ、応接室へ向かう。先の報告用のドラフトといい、正樹の仕事ぶりに大きな不安はないが、近頃、どうもぼんやりとしているようにも見える。加えて、気のせいかもしれないが、順也のサポートについてはどこかつっけんどんな雰囲気を感じることがある。サポートAIの不具合に関するレポートの中で似たような事例を探したが、一種の赤ちゃん返りのようなものなのだろうか。いや、彼らはサポート対象の便益最大化のためのアルゴリズムを組まれている筈であり、そういった勝手な擬人化はよくない気もするが…、逡巡しながら部屋に入ると、正樹はちょうど、競技用ロボットに関する説明を順也にしているようだった。二人の会話が途切れたところで、
「お茶、よかったらどうぞ」
二人の目の前に湯呑を置き、様子を窺った。正樹は、
「ありがとうございます」
と言ってから湯呑を取って飲み始め、順也はそんな正樹の様子を見ながら、
「いただきます」
と、おずおずと湯呑に手を伸ばした。順也が恐る恐る、一口、二口と飲んだことを確認し、声をかけた。
「順也さん、正樹から聞いたかもしれませんが、私達は、競技用ロボットの開発を通じて、人間ならではの”考える前に体が動く”の実装、及び、現象理解のために資金を投じています。……力を貸して頂けませんか」
赤:以降、俺は主に正樹によるトレーニング・コーチングを受けることになった。一体のヒューマノイドとして正樹と長岡さんの事業に貢献するべく、規則正しい生活と適切なトレーニングさえこなしていれば、そのほかの時間は、概ね自由な時間と、ある程度自由に使うことのできるお金が与えられた。但し、あまりに好きなように食べたり飲んだりしてしまうと、正樹から、
「いやしくも格闘家を名乗るロボットがそのような食生活を送るのはねぇ…」
と、ネチネチと言われてしまう。正樹は教育係の仕事だからと、俺に食べるものを報告させた。控えるよう指示されている食べ物を隠れて一定以上食べたり、偽った報告をしても、正樹は俺の様子からうそを見抜いてしまうようだった。監視されているようでいい気分ではなかったし、面倒くさいと思いながらも、ロボットの体を得る前と比べると、随分と健康的な食生活を送るようになっていた。しばらく経ってから、長岡さんは俺と正樹にこう話した。
「お二人のおかげで、ついに、順也さんのデビュー戦が決まりました。試合は1か月半後。追い込み期は2週前までにしましょうか。まずはデビュー戦、勝ちましょう」
青:気味が悪いくらい、起動後の順也のパフォーマンスはよかった。ただし、やはり気になるのは正樹の挙動だった。順也のパフォーマンス最大化のためのTodoは私から見ても最大限実行してくれており、確かな成果をあげている。しかし、当の正樹はまるでその進捗に興味がないようで、口癖のように、
「芽以として、今のアウトプットは及第点?だったらこのまま進めるね」
と、冷たく言い放つことが多かった。順也を起動する前の、ともに事業を作るにあたって一つ一つのマイルストーンを達成する度に喜び合っているような、そんな瞬間を感じにくい状況が続いていた。それでも、順也のデビュー戦は刻一刻と近付いていき、ついに私は、今回の追い込み期の仕上げとなる、順也と正樹のスパーリングを見届けることになった。
赤:追い込み期も終盤になり、今日の正樹とのスパーを最後に、調整期に入ると聞いた。ロボットの体ながら疲労もそれなりに溜まっているなと実感していたし、このスパーを終えれば調整に入れると思うと、きついながらも、今日、もう少し頑張っておくか、という気持ちにもなる。今日は、練習の後は広い浴槽のある複合温泉施設にでも行ってリカバリーしようか。体重もそれなりで問題のない状態だから、整った後の飲み物や軽食はさぞ美味いだろう。
そんな気持ちでいつものジムに足を踏み入れたが、正樹の様子はいつも以上に冷徹で、底知れない冷たさを宿しているように見えた。アップをしていても、何をするかわからないような凄みを感じる。複数のメニューをこなした後、正樹は言った。
「じゃぁ、スパーをしようか。今日は調整前ラストの追い込みだから、3分3ラウンドをフルにやってみよう。試合当日だと思って、僕をKOできそうなチャンスがあれば狙ってくれて構わない。僕も、順也を無事に試合に送り出すことが仕事とは言っても、半端な選手を送り出すわけにはいかないからね。それなりにやらせて頂くよ」
そう言って始まったスパーは、これまでの練習の比ではなかった。今までの練習でも正樹にはまだ余力があるのでは、と思ってはいたが、正樹は俺のレベルに応じ、俺に合わせていたことがよく判った。隙のない圧倒されるようなコンビネーションを見舞われ、第1ラウンドは凌ぐので精いっぱいだった。正樹からの攻撃をさばくのに必死で終始ペースを握られてしまい、予想以上に息が上がっていた。これであと2ラウンドも、もつのだろうか。そんな事を考えているうちに、インターバルはあっという間に残り30秒を切った。だめだ、あと2ラウンドをどう凌ぐか、じゃないだろう。今日が試合前最後のスパーなのだから、今日追い込まないでいつ追い込むんだ。マウスピースの上から奥歯を噛み締め、第2ラウンド開始のタイマー音とともにグローブタッチをする。
とはいえ第2ラウンドでいきなり差が縮まるわけでもなく、正樹の攻撃は絶え間なく続いた。正樹の素早く的確な前蹴りを腹に受け、距離を縮めることができない。まずは基本に立ち返ってカウンターを狙う。前蹴りをさばきながらすぐ軸足を狙い、できることから返していく。相手だって、人間並みの持久力なのだ。地道にできることをやるしかない。
第2ラウンド終盤、俺の息も上がっていたが、正樹の左手のガードがわずかに下がった瞬間、迷わずに右手でフックを放った。正樹は僅かに後方に体を下げてその流れのままに回転し、右脚の踵で俺のこめかみを狙ってきた。とっさに右手を戻して頭をガードしようとした瞬間、したたかに右脇腹から少し内側の、肝臓部分に鋭い蹴りを撃ち込まれた。たまらず倒れこみ、俺はリングの隅に転がった。打たれることによる痛みはこれまでのスパーや練習でもある程度判ってはいたが、ロボットの体でも、血の気が引いて立てなくなったりするのか。息をするのも精一杯だ。倒れこんだまま正樹に眼をやると、息を切らしてロープにもたれかかりながら長岡さんに何か言っているのが、とぎれとぎれ聞こえてきた。長岡さんは片手で正樹を支えながら、倒れた俺と正樹を交互に見つめている。
「めい、順也の仕上がりは順調だ。考える前に体が動く、も、何とかなるかもしれない。俺なら、あいつをチャンピオンにだって…」
と、言いかけて足元から崩れ落ちた。長岡さんはすぐにリングに入ったが、正樹はピクリとも動かない。めい、と聞こえたのは、俺の気のせいだったのだろうか。
文字数:10190