白昼夢の星

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梗 概

白昼夢の星

 環境破壊と温暖化が深刻化し、経済社会が衰退したために生活の質を保つことが難しくなった2060年代の地球で、多くの人々は快適な生活を求めて電脳空間“遊離鏡面”で暮らすようになる。
遊離鏡面では、視聴覚、味覚、嗅覚、触覚はすべて現実と遜色ないレベルで再現されているが、完全な電脳空間への移住技術が確立していないため、人々の生身の肉体は半覚醒状態のまま現実で管理されており、健康の維持のため定期的に現実世界に「里帰り」する必要がある。

主人公は遊離鏡面の東京で図書館職員として生活する40代男性である。
まだ移住が始まっていなかった20年前、現実世界で当時の彼女とスイスの山間の湖を訪れた折、夜空が湖面に反射しまるで宇宙のただ中に浮いているかのような絶景を目の当たりにした。環境破壊のため再び訪れることは叶わなくなってしまったが、今でもその光景の記憶を大切に抱えている。

ある日主人公は同僚のタミヤから、別の同僚シキシマが亡くなったことを知らされる。そのころ、「墜落死」と呼ばれる、現実世界への里帰り直後の原因不明の自殺が相次いでおり、シキシマもその一例だった。
主人公は遊離鏡面の治安維持機関「鏡管」にシキシマに関する聴取を受ける中で、彼が「かつて暮らしていた故郷を思い出せなくなった」と言っていたことを知る。

主人公は鏡管職員を伴って里帰りをし、現実世界で暮らすシキシマの姉を訪問する。
現実世界でのシキシマの実家はとうになくなっていたが、シキシマは墜落死の直前、姉に対し存在しない故郷の町や家、家族との思い出を懐かしそうに語っていたという。

「墜落死」の原因は、記憶の中で再現される過去のイメージに巣くい、その人の大切な記憶を書き換えてしまうウイルスだった。そしてウイルスは、感染した人間が病巣となる記憶を他の人間に語ることで伝染していく。
遊離鏡面は現実に忠実に再現されているといってもあくまで虚構であり、現実世界の記憶は人々にとって、自分が確かに生きている、自分は自分であるという地に足の着いた感覚を保つために必要不可欠だった。
感染した人々の多くは自分のよりどころ、立ち帰るべき記憶が現実と食い違っている事実に耐えられず、最悪の場合「墜落死」に至る。

シキシマと接触していた主人公も自覚がないままにウイルスに感染していた。
最終的に、変容している記憶を正しい状態に戻すワクチンが開発され、主人公に投与される。主人公は眠りに落ち、記憶が正されていく中で、これまでウイルスが渡り歩いてきた複数の感染者の「虚構の記憶」を走馬灯のように夢に見る。
それらは、現実と異なっているという意味では偽物に他ならないが、当人たちにとってはかけがえのない思い出だった。
シキシマが語った存在しない故郷の光景もそこにあった。
そして最後に夜の湖が現れ、そして消えていくのを見て、主人公は自分が大切にしていた記憶も存在しないものだったことを知る。

文字数:1200

内容に関するアピール

SFを読むときの楽しみの一つに「不安感」があると思う。未知のテクノロジーや社会規範に放り出される感覚は、言葉の通じない外国を旅するのに似た不安感と孤独感がある。現代の穏やかな日常を一歩越えた先にある、超現実の冷たさに引き込まれる。
本作の舞台「遊離鏡面」は電脳空間だが、架空の世界に移住する人間にもきっとそんな不安が付きまとうだろう。
拠り所となる記憶は、しかし他者と完全に共有することはできない。どれほど言葉を尽くしても自分の記憶は自分の頭の中に閉じ込められている。
本作におけるウイルスは記憶を変容させる装置だが、本来人の記憶は、時間を経て、あるいは繰り返し脳内で描写されるたびに変質していくものだと思う。
本作はカールセーガン「コンタクト」の影響を受けている。自分の信じるものが誰に受け入れられなくても自分にとっての真実であり、その価値は自分で決められることを信じてほしいという願いを込めて執筆した。

文字数:399

課題提出者一覧