梗 概
宝船と堕天の巫女
技術者は飛行船に引きこもり、技術に使われる側の人間だけが地上で暮らす世界。人気のない陸を歩いていた少女型ロボットのシュリーは、海の向こうに大きな船を発見する。
シュリーは飛行機能を用いてその船に近づく。船の側面には砲が並んでいたが稼働していなかった。甲板に降り立つとそこには瓦葺の屋敷が並び立っており、古風な雰囲気が漂っていた。
提灯で彩られて賑やかな風景とは裏腹に静かだった。シュリーは住民の絶滅を直感したが、やがて甲板の先端に一人立っている老人を発見した。
彼はトシと名乗り、この宝船という船の制御者であると言う。そして彼はシュリーにこの船の誕生から今に至るまでの歴史を語った。
トシは技術の独占に反対し、天から地上へ降りた技術者だった。彼は同じく天から降りたフクとロクという二人の男と共に、天の技術を伝えるためにこの船を造り上げた。
そして三人は地上の民から有志を募り、宝船での共同生活を始める。
恵比寿システムによる全自動漁業、大黒天システムによる全自動農業によって食料は賄われた。毘沙門天システムが兵器を制御して船員を守り、弁才天システムが娯楽によって船員を楽しませた。
布袋システムは円滑に経済を回し、福禄寿システムは無限の延命さえも実現した。
ついに理想郷となった宝船の中、三人の技術者は船員たちを相手に技術の継承に取り掛かった。しかし彼らは現状にすっかり満足してしまい、真面目に勉学に励む者はほとんどいなかった。
だが唯一、真摯に学問に打ち込む娘がいた。その名前はコクヤといい、三人の技術者は彼女に望みを託すことにした。
長い時が流れた。生きる目的を失った船員たちの中には延命を望まず死んでいく者もいた。三人の技術者も長引く生に苦痛を感じるようになり、コクヤに彼らの最期を見届けるよう頼んだ。
しかしコクヤは彼らの頼みを拒んだ。血気盛んな彼女の願いは天の技術者を引きずり下ろすことであり、地上に長く留まるわけにはいかなかった。
すぐに彼女は空を目指して旅立ってしまい、残された三人の技術者は急な別れを惜しんだ。
また時は流れ、ついに病床に伏したフクとロクは福禄寿システムに頼らないことを選んだ。
そしてトシだけが残った船にシュリーがやって来たのだった。
話を聞き終えたシュリーは、彼女を操作する者こそコクヤなのだと語った。
天に昇ったコクヤは高い地位を目指して努力するうち、知識を広めようとした三人の技術者の偉大さに気づいた。
そして地上にロボットを派遣し宝船を探したが、とうとうトシ以外の二人とは再会が叶わなかった。
何にも不自由せず、病にも事故にも怯えずに育ったコクヤは、死別の悲しみを予想できなかった。コクヤは勝手に船を飛び出したことを悔いた。
しかしトシは彼女を励まし、改めて自身と船の看取りを頼む。コクヤは快諾し、宝船はシュリーと共に海へ沈んでいった。
文字数:1190
内容に関するアピール
私は他の方と比べてSFの知識もワクワクするアイデアの引き出しも無いと直感しました。普段長編ばかり書いているのもあって、上限16000字という制限も厳しいと感じました。
ですから世界観に拘るのではなく、簡潔なストーリー構築を第一に心がけました。
また、SFに疎い私には他の武器が必要だと思い、寺で育った経験から美しい和風の情景を描くことにしました。屋敷の乗った船という設定から宝船を連想し、七福神までアイデアを膨らませていきました。
トシたちに反発し夢を追うコクヤはまさに私です。親の偉大さを最近実感するようになりましたが、彼らはもう衰弱する一方です。
延命技術が日々進展する現代ですが、死に直面した者の悲哀と覚悟から目を背けてはならないと思います。
私はSF、ひいては肥大する技術の中で、命の重さと尊さを訴え続けたいです。
若輩者ですが、これから一年間よろしくお願いいたします。
文字数:390
宝船と堕天の巫女
永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな
海原を初めて目にしたシュリーの表層意識に浮かんだのは、そんな一節だった。聞いたことがあるはずもない。だのに何故だか懐かしく思う。そんな言葉だった。
月輪と共に宙を巡る人工衛星「高天原(たかあまのはら)」。かつて日本と呼ばれていた国の技術者たちが生み出し、寄り集まって暮らす天上の楽土。そこで生み出された人型のロボットたるシュリーは、とある使命を帯び、暗い宇宙を越えて地球に降り立ったのだった。
空に輝く日の光を受けてシュリーが己の手を掲げると、その甲には決して消えることの無い三文字がある。
SRI。シュリーの識別記号であり、名前でもある無機質な字。
しかしどうしてだかシュリーは、その三文字の下に、自分の本当の名前があるような気がした。任務遂行のため、地球の気候や地形を学んだ覚えは有れど、先の文言を記録したことは無いはずなのだ。
閑散とした地上でただ潮騒がシュリーの耳に届く。「高天原」が天へ昇って以来、地上の文明水準は著しく降下し、その人口も急激に数を減らした。だから今や地球には、雄大な自然ばかりが取り残されている。
生体のリズム特有のゆらぎに満ちた空間。その心地よい囁きの中から異音を感知したシュリーは、視線を果てしない水平線の向こうへやった。ロボットたるシュリーの視力は、遠く小さいその影も手に取るように縁取ることができる。
それは甲板に屋敷を背負った船だった。日光が照らす瓦ぶきの屋根は、まるでさざ波立つ海のようにきらめいている。軒には明かりの消えた灯籠が下がり、祭りの後の寂しさを漂わせていた。
シュリーは海にせり出した岩の上に立ち、思いきり跳躍する。すると空中に投げ出された細い足が変形し、露出したジェットエンジンが勢いよく熱気を吐き出す。あの船こそ探していたものだと、シュリーは何故か確信していた。
そして冷たい風が頬を打ち、シュリーははっと気づく。なぜ自分はあの船へ向かおうとしているのだろう。自分に課せられた任務は、ただ船を見つけることだけなのに。
「高天原」の技術者たちは、あれを「宝船(たからぶね)」と呼ぶ。あの船を見つけ出すために作られたシュリーは、宝というものが一体何を指すのか分からない。その答えを導こうとする演算は、シュリーの深層意識の中でずっとメモリを占めていた。
シュリーは宇宙よりもずっと穏やかな蒼天を飛び、やがてジェットエンジンの出力を緩めながら甲板へ着地する。屋敷が立ち並ぶそこは、まるで数千年前の街並みを再現したかのようだ。
波が船の側面を打つ音に混ざって、歌い上げるような楽の音がどこからか聞こえてくる。それに気づいた瞬間、シュリーの思考演算は聴覚データに引っ張られた。脳内コンピュータは十三弦が六面、十七弦が一面、計七面の箏が使用されていると断定。美しい和音のクレッシェンドから始まり、突如雲を突き抜けて飛翔したような広がりを描くこの曲の題は、『上昇の彼方』。
厳格な自己定義の裏から何かが現れる予感がして、シュリーは三文字が刻まれた手の甲をさすった。深層意識のアラートを表層意識の演算がキャッチし、逆位相の信号を伝達して打ち消す。波だけを残して深層意識は引いていく。地球に降り立ってからというもの、自然の揺らぎに取り囲まれているためか、シュリーの自己像も揺らめいているように思えた。
シュリーは奏楽から逃れるように視線をあちこち彷徨わせる。背後には海が広がっていて、船の進行を示す白波が線を引いている。両手には懐かしい雰囲気の小さな平屋が連なっており、目の前にはひと際どっしりした構えの屋敷があった。
シュリーは手の甲の文字を指でなぞりながら、その大きな建物の開かれた門をくぐった。なんとなくそれが最短だと思ったのだ。
シュリーが足を踏み入れた先にあったのは、一瞬また海に出たのかと思うほどに巨大な水槽だった。素朴な柵が取り囲むその縁には、電力が通っていないらしく沈黙している機械があり、ただ魚ばかりが水の中でちろちろと動いている。
なんとなく湿って感じられる木の板を踏みしめ、シュリーは廊下へ進む。一面に張られた硝子の向こうには絶景の海が広がっていて、誰かがここに居座って享楽したのか、曲がり角の隅には黒の碁石が一つ転がっていた。
右手に襖、左手に海の道を歩き続け、また曲がり角を迎える。格子戸の硝子の向こうに見えてきたのは、船の上とは思えないほどに、生き生きとした木々の美しい光景だった。
葉の形、樹皮の色からそれらが黒松だと推定したシュリーは、ふとその前に人がいることに気づく。彼もまた、松のように月日を感じさせる姿だった。
「楽土」の人間はみな老化を忌避する。延命技術の発展故に、老化という不可逆な衰えを拒むようになったのだ。ロボットであるシュリーもまた不老の存在であり、衰えた人間というものを見たこともなかった。
だからだろうか。その白髪を目にした途端、シュリーの意識を形成する信号に、乱れが生じたのは。
シュリーは戸をそろりと開け、柔らかな土の上に一歩を踏み出す。老人はシュリーの到来を予期していたかのように、緩慢な仕草でシュリーの方を振り向いた。
「やあ、いい天気だね。おかげで防雨シールドを張らずにすんだよ。君がこの晴れの日に戻ってきてくれて良かった」
まるで旧知の仲のように話しかけられ、シュリーは戸惑った。その機微に気付いたのか、彼は苦笑いをしてゆっくりと首を振る。
「ああ、人違いだったかな。視力が落ちてしまったから、今は脳波で人を判別しているんだ。ただ、脳波に外見ほどの差異は出ないからね。どうやら間違えてしまったようだ。すまない」
老人は遅い動作とは対照的によく回る口で言った。そして謝罪から間を置かず、彼はしわがれた声ですらすらとその名を述べる。
「僕はトシ。この船の長であり、唯一の船員でもある。……ああ、一人だから勝手に船長を名乗っているわけではないよ。昔は本当に皆をまとめる立場だったのさ」
そして彼は焦点の定まらない目でシュリーをぼんやりと見た。
「君の名前は?」
シュリーはただ手の甲を掲げ、何も言わない。発声機能は搭載されていないのだ。
「……なるほど。声を出せないか、他人に言わないようにしているんだね」
何かを読み取ったらしく、トシは残念そうに言った。ロボットであるシュリーが発するのは電磁波は脳が生み出す電磁波とはまた違うはずだが、トシは対面する相手が人であるかのように振舞い続けている。
「それなら旅人さん。僕の頼みを聞いてくれないかな。ちょうど渡り鳥が来るのを待っていたんだ」
トシはそう言って背後の黒松に背中を預けた。そしてシュリーの意志を確認する間もないうちに、彼は数言迷うように呟いた後、「やはりここから語るべきだよね」と前置きして、その辿った道のりを語り始めた。
「僕は元々『高天原』にいたんだ。あれは人造の極楽でね。彼の地に住む人は四苦八苦を忘れた。沙羅双樹の花の色の遷移は二度と起こらない。果たして永遠に続く安寧が人に何をもたらすと思う?」
トシは尋ねるような口調だったが、シュリーが解を導く前に先を続けた。
「それは衰退さ。そもそも僕たち人類は個の存続を前提として成り立つ種じゃないんだ。この地球で僕たちの先祖が紡いだ美しい文明は、今となっては無名の者たちの生と死によって織り成されている。個人という矮小なハードに押し込めるには、知恵という無限のソフトは開かれすぎているんだよ」
トシが浮かべるのは無念、そして興奮だ。決して太刀打ちできない絶対的存在を前にした者が、己の命と引き換えに消えることの無い信仰を手にしたときのような顔だとシュリーは思った。
「ただ、僕も若い頃は死が怖かったのさ。目の前に拓ける無限の可能性が一気に断絶するわけだからね。それで僕は、外法を生み出してしまった」
灯籠の火がふっと消えるように、トシの表情は暗くなる。その目はずっと、どこか遠い一点を見つめている。
「白状するよ。人類を傲慢に仕立てたのは僕なんだ。僕の専門は神経工学でね。人の脳を機械の身体に移植する技術を確立させた。そして朽ちることの無い器を手にした人類は、変化すること自体を厭うようになっていった。少しでも己と違う者、少しでも劣っている者は容赦なく切り捨てる、余りにも冷酷な世間になったんだ」
トシはそこで一呼吸を置き、懺悔するように瞑目した。シュリーは「高天原」のデータベースに接続して確かめたが、トシの言葉を裏付けるような資料はどこを探しても見つからない。
「ああ……。君はまさに『高天原』から来たんだね。でも、僕の情報はそう簡単に見つからないと思うよ。君が天の人ならば、僕は堕天の人だからね」
シュリーの通信すらトシは感知できるらしい。やはり彼が読み取っているのは電磁波そのものなのだ。そしてシュリーは、電磁波の変化から状況を推察するような芸当をやってのける存在を他に知らない。
つまりトシという男は、「高天原」すら凌ぐ技術者なのだ。
「褒めてくれたところ申し訳ないんだけれど、君にとって僕は紛うことなく敵だよ。なにせ僕は天の技術をまるっと盗んで地に寄こしたわけだからね。そういうわけで、『高天原』に僕の跡は塵の一つすら残っていないはずだ。どうせ彼らは技術的進歩のことばかりを考えて、たとえ直視に耐えない歴史でも、過去を蓄積する大切さを忘れているんだから」
シュリーの狼狽を見透かしたようにトシは言った。その顔は薄い笑みを形作っており、老獪が表出している。その命が経た年月は伊達でなく、また「高天原」へ積もった恨みも並のものではないようだった。
「そう。僕は天を恨んでいる。知己が二人死んだからね。たとえ神の怒りであっても、納得できるものか」
松の肌に添うトシの手が固く握られる。
「彼らもまた僕と同じように、幸運が成功をもたらした技術者だった。僕がフクと呼んだ彼は、ゲノム編集技術の第一人者。人の胎児の遺伝子操作を実現し、優生思想を加速させたことを悔やんでいた。そしてもう一人。僕がロクと呼んだ彼は人工知能工学の天才で、資本価値の推移を的確に予測する人工知能を作り、資産家にたっぷりと金を儲けさせたんだ。そのせいで社会の分断が進み、弱者はますます追い込まれた」
トシの笑顔はいつの間にか消えていた。その無表情は、諦めを感じさせる。
「僕と彼ら二人は手を組み、天人の驕りを消し去ろうとしたんだ。過ぎた技術を制限するため、各界の有力者に協力を乞うて回った。だが首肯した者は誰もいない。そればかりか『そんな馬鹿なことは止めろ』と誰もが言ったのさ。来た道を戻る勇気を持つ者は誰一人いなかった」
語尾には嘆息が混じり、彼の言葉は力無く空に消えていった。
「それでも僕たちは信念を曲げなかった。すると見せしめのように、まずはフクが、次にロクが死んだ。きっと殺されたんだ。可能性が閉塞する順に。僕たちは元々記憶のバックアップを保存していたから、死んでもその知恵が失われることは無かったのだけれど、脳という臓器に記された個人特有の内部変数は、二度と蘇らせることができなかった」
外から漏れ聞こえる、ぽんぽんと拍を打つ箏の音が、まるで鼓動のように聞こえる。シュリーの内蔵コンピュータは、じりじりと燃え尽きるような音を立てる。
「彼らの知恵を脳の外部記憶に取り込んだ僕は、地上にその知恵を伝達することに決めた。それが『高天原』に対抗する一歩になると考えたんだ。そして命からがら堕天した僕は、各地を巡って技術を伝えるための船を建造することにした」
そう言うとトシは晴れがましく、この美しい船上の景色を見渡した。
「地上の技術では『高天原』ほど堅牢なものは作れない。それでも地上には、地上のための技術が伝統として残っている。同志と共に木を伐採したり、土を練って焼き固めたりしたのは良い思い出になったよ。地上で暮らすために必要な資源の量に驚きもしたけどね。……そうだ。ここは一つ、君にこの船の素晴らしいところを案内しようじゃないか」
シュリーの返事を待たず、トシはゆっくりと、しかし確かな足取りで歩き始める。その有無を言わせぬ態度に、仕方なくシュリーは彼の後を追った。
乱立する木々に深く分け入ると、そこには先ほど見た水槽に負けず劣らず大規模な温室があった。木で組まれた枠の中に硝子が嵌められ、清々しい空を反射している。その内側に小さな機械が綺麗に並べられているのが見えた。
「これは大黒天システムによって統制されている硝子温室でね。全自動で作物の種まきから収穫までできるんだ。フクの知識でゲノム編集を施したから、塩害の心配もない。この屋敷の入り口にある生け簀と合わせて、この船の食糧を賄う大切な場所さ。もっとも今は食料供給を必要とするのは僕だけだから、これも生け簀を制御する恵比寿システムも停止しているけどね。一人でのんびり畑を弄って釣りをするのは良い気分だよ。それに採れたての野菜も、純度の低い塩で味付けをした焼き魚も、ものすごく美味しいんだ。天人を心底気の毒に思えるぐらいね」
トシはいたずらっぽく笑い、また歩き出した。シュリーは味わったことのないはずなのに、野菜の瑞々しさや焼き魚の温かさが、やけに胸に迫って感じられた。
道中、息が切れるのも構わずトシは語り続けた。
「綺麗な音楽が聞こえるだろう。これは弁才天システムが制御していてね。音源は単なる音響機器なんだが、風向きを計算して立体的に聞こえる位置から流しているんだ。それに加えて単なる信号の反復になるのを避けるために、音声データに毎回異なる微弱で自然な揺らぎを与える。だからいつも、誰かがそこで実際に演奏しているように思えるんだ。昔は本当に演奏してくれた人もいたけどね……」
その一言はやけに感慨深く聞こえた。シュリーは記録された聴覚データを見返してみたが、彼の音声に変わったところは見当たらない。
「この船の防衛は毘沙門天システムが担っている。でも今は迎撃くらいならできるけど、継戦するほどのエネルギー貯蓄はない。他のシステムにほとんど回してしまったからね」
トシの語りを聞きながらシュリーが足を踏み入れたのは、シュリーが降下した場所と似たような平屋の景色だ。今にも誰かが通りを走ってきそうな、生活感に満ちた温かな空間だった。
「全てのシステムはロクの技術を継いだ僕が組んだけど、この建物やシステムが統制する機械たちはほとんど、地上で出会った人々が作ってくれたんだ。地上に取り残された人や『高天原』を追放された人の子孫である彼らは『高天原』を憎んでいる人が多く、その恨みが僕に手を貸す動機になっているみたいだった。でも、彼らがこの船で極楽の時を過ごすうちに、その燃え上がる火は消失してしまった。『高天原』の技術を習得するには、彼らに残った年月は少なかったんだ」
トシの語り口と同じように、その足も迷いがない。密集する建物が形成する迷い路を、彼はすらすらと辿っていく。
見たことのないはずなのに、やけに見覚えのある光景だとシュリーは思った。「高天原」で学習したパターン認識が、全く別のものをクラスタリングしてしまったのだろうか。
「だけどある日、偶然停泊した土地で僕は、小さな子供を拾ったんだ。技術者たちがこの星を離れる前に栄えていたらしい街の、崩れてしまった廃墟の横でその子供は震えていた。僕は一目で分かったんだ。この子の親は、彼女の傍の瓦礫の下で息絶えてしまったんだろうと。そこに建材にしては温かく、生物にしては冷たい程度の熱が見えたからね。それで僕は、その子を船に連れ帰ったんだ」
トシは語りを続けながら一軒の小さな平屋の前で立ち止まった。なんとなくシュリーは、その建物に近づけば近づくほどに、違和感が強くなっていく気がした。
シュリーがシュリー固有のものとして保持する記憶の量は少ない。「高天原」で作られてほとんどすぐに、地球へ送り出されたためだ。必要な知識を得るための学習は一瞬で終わった。シュリーの閉じられたデータベースに情報を詰め込み、感覚パーツから伝わってくる信号と詰め込まれた情報の整合を学ぶだけだったのだから。
自分の保有する知識の源泉は知っていても、それらを統合する意識がどこから来たものなのか、シュリーは見当付けることすらできなかった。
「その子の名前はコクヤ。彼女は親から『高天原』のことを聞いていたのか、誰よりも天を憎んでいた。だからだろうか、彼女はめきめきと天の技術を、僕たち三人の技術さえも身に着けた。もう心身の衰えが見え始めた僕は、彼女にこの船を継がせようと思ったんだけど、それは叶わなかったんだ」
トシは平屋の入り口でシュリーを振り向く。その表情は、痛々しいほどの切なさに満ちている。
「僕は一人になってからの日々を、新たなシステムを作ることに注力した。毘沙門天システムのエネルギーを蓄え、最後の時を待ち続けるその存在こそ、吉祥天システム。つまり、この船の自壊装置さ」
少女の話から突然飛躍したように思えて、シュリーは彼の言葉の行く末を予測することができずにいた。
一体そのコクヤという少女はどこへ消えたのか。シュリーの訪問に、彼はどんな意義を見出したのか。言葉にして尋ねることができないのを、シュリーは初めてもどかしく思った。
「『高天原』より来たる旅人よ。僕の願いを聞いてくれ。どうかこの船の、浅薄な夢の抜け殻の終わりを、君の目で見届けて欲しい。フクやロクが残して逝ったこの宝は危険すぎる。だからといって露も残さず消すのは惜しい。だからどうか、君が僕たちの願いと技術を継いで、人の未来に役立ててほしい」
トシは一歩シュリーに踏み出す。抱擁をするかのように、その両腕は大きく開かれる。途端、上空が眩しく輝いた。即座に天を仰いだシュリーの優れた視力は、見たくないものも明確に視認してみせる。
轟音が箏の音色をかき消した。猛烈な風がシュリーの髪を揺らし、甲板の上の平屋通りを吹き抜けていく。閃光が火を残す青空の向こうから現れたのは、渡り鳥のように群れる何隻もの飛空艇だった。
「……そうか。君が天から堕ちたのは、そういう理由だったのか」
トシの呟く声すらも、シュリーの耳は聞き分けた。でも、その感情を伺い知ることはできない。
シュリーの表層意識に何かが介入する。まず、任務の遂行を確認したという報告。そして次に、今すぐシュリーというロボットの活動を停止しろという命令。
いつもならシュリーは命令に従順だ。しかし今は、迅速な状況判断のために備えられた意識が、外部に従うことを拒絶する。そしてシュリーは初めて、拒絶を唱えたその正体を理解した。
トシの願いをこの手で叶えなくてはならない。その気持ちの典拠はデータベースのどこにもない。発生源は、シュリーの秘された深層意識。それはつまり、シュリーの意識のチューニングのために用いられた、誰かの記憶と神経回路だ。
そうだ。思い出した。いつの間にか忘失していた、旅立ちの理由と、故郷への愛を。
「スサノオ班より報告。識別コードSRIは停止せず。敵対意識あり」
飛行艇から滑るように降りてきたのは、「高天原」の防衛を担う戦闘用ロボットたちだった。シュリーと同じように足にジェットエンジンを備えた彼らは、高い空から宝の船を見下ろしている。
「その脳波……。やはり君はそうなんだね」
空を見上げるシュリーの背中に、トシが声を投げかけた。
「どんなときでもここは君の故郷だ。コクヤ」
シュリーは、シュリーを操作するコクヤという意識は、トシの目を真っすぐ見据えて頷いた。
コクヤの母はいつも言っていた。「真の地獄は空にある。真の救いはどこにもない」と。コクヤの名は、母がこの地球から初めて目にした故郷、それを包む黒々とした夜から付けられた。底冷えする夜空の丸く光る月の横に、母を追い出した“地獄”はこうこうと輝く。あの日の夜は何かの予兆のように、月輪の姿は無く、ただ“地獄”の照らし返す光だけが、この地に降り注いでいた。
海風が忍び難く吹きすさぶ夜、眠る母の上に突如瓦礫は降り注いだ。抜け出して夜空を見ていたコクヤの背後でそれは起きた。母と交わした最後の言葉が何だったか、コクヤは思い出せない。最後の表情すらコクヤには分からない。そして何の因果だろうか。トシという人がコクヤを見つけたのも、同じ日のことだった。
閑散とした街ばかりを見てきたコクヤにとって、いつも賑わう船上の景色はまるで別世界のようだった。人々の表情は満ち足りていて、誰もがコクヤに優しかった。コクヤはそこで採れたばかりの野菜の瑞々しさを知った。自分で釣った魚の味わいを知った。
母も船の人々も、コクヤに彼らの願いを託した。空に浮かぶ“地獄”を、「高天原」を滅ぼすという希望だ。それを叶えたい一心でコクヤは努力した。トシは「まずは僕を超えることだね」と言い、かなりの難題をコクヤに突き付けた。だがそのおかげでコクヤは、彼の作り上げたシステムの整備を担えるほどにまで成長した。
「君はもう僕を超えた。生身でありながらこれほどの技術を身に着けるとは、この船の行く末が楽しみになるよ」
ある日、甲板の端で海を眺めながら、トシはそう言った。
「コクヤ。僕の頼みを聞いてくれないかな。君にこの船を任せたい」
その言葉を聞いた途端、コクヤは何も言葉が出て来なくなった。
「これは衝撃を受けているのかな……。ええと、びっくりさせたよね。でも僕はそろそろ、自分が死んだ後のことを考えないといけないんだ。目も耳も悪くなってきてる。いつ歩けなくなるかも分からない。そんな老いぼれに舵取りは任せられないだろう。だから君に引き継ぎたいんだ」
「そんなのできません。だって私には……『高天原』を滅ぼすという悲願がありますから」
自分の口から出た言葉は本心であるはずなのに、嘘のようだとコクヤは思った。
「……そうか。それなら早く悲願を達成してきてくれればいいよ。僕が生きているうちにね」
トシはそう言って話を終わりにした。まるでいつもの世間話のような調子だった。
その数日後、久しぶりに船が停泊したと思いきや、トシは急に切り出した。
「コクヤ。『高天原』を滅ぼしたいという気持ちに変化はないかな」
コクヤは彼が、否定と肯定のどちらを望んでいるのか分からないまま頷いた。
「もちろんです。母の願いでもありますから」
トシはコクヤの返答に頷くと、船の外、荒れてしまった市街の姿を見つめた。
「『高天原』の人々は究極の少子化に苦しんでいる。不老不死に近づいたとは言うものの、やはり不慮の事故で死ぬ人は絶えない。だから彼らは、地上の人間を天に連れ去るため、降りてくることがある。僕が傍受したところによると、彼らは今夜この街へ降り立つらしい」
そこまで聞いたコクヤは、もう彼が言わんとすることを理解した。
「君は何も知らないふりをして彼らに着いて行くんだ。そうすれば『高天原』に入り込むことができる」
コクヤは覚悟をして頷いた。
「分かりました。……今までありがとう。トシさん」
コクヤが街へ降りると、その故郷はすぐに彼女を置いて出航した。一緒に住んでいた船員たちが、甲板の縁に立ってコクヤにずっと手を振っていた。賑やかな光が遠く離れていくのを、コクヤはいつまでも見送っていた。
がらんとした街の中で夜を迎えたコクヤは、夜空を突き抜けてやってくる一筋の光を見た。それはだんだん大きくなり、やがてトシの言っていた通りの場所に、無機質な乗り物が派手な音を立てて着地した。次々に降りてくる人々は、星の明かりしか頼るもののない暗闇に臆することなく、我が物顔で地上を歩いた。物陰から覗いていたコクヤを彼らが捕まえるのも、そう時間はかからなかった。
それからの記憶はシュリーのどこにもなかった。
シュリーというロボットに搭載されているのは、複製されたコクヤの意識だ。知識の定着が早く、「宝船」が辿る道の癖を知るコクヤの神経回路は、「宝船」を発見するための任務に最適だ。記憶の想起さえ抑えられれば、「高天原」への憎しみも生じることは無い。
つまりコクヤは体良く利用されたのだ。それを思えば、シュリーの小さな回路の中で、ますます怒りが燃え上がる。
「“宝船”の乗員に次ぐ。今すぐこの船から降下しろ」
天の兵士はそう言って腕を掲げた。そこに砲の類があることは、いちいちデータベースを参照しなくても相手の動きで分かる。
シュリーは勝手知ったる宝船のシステムが織り成すネットワークに入った。その通信に気づいたらしく、トシがにんまりとした顔を向ける。弁才天が奏でていた『上昇の彼方』がふっと消え、代わりに澄んだ声が響いた。
「この船の操舵は決して渡さない」
それはシュリー、もといコクヤの声だった。シュリーが操作したのは弁才天システムだけではない。重々しい音が船上の街に響き渡ったかと思うと、あちこちの木板が開いて無数の砲塔が姿を現す。
「発砲許可を要請――承認。アームのロックを解除」
天の兵士が揃って腕の内部機構を露出する。シュリーは迎え撃つように、飛び上がって足のジェットを吹かした。
「頼んだよ、コクヤ!」
トシは少年のように嬉しそうに言った。老獪とは程遠い、純粋な笑顔だった。シュリーは一瞬の葛藤も無く、いや、優れた演算機能で葛藤を一瞬のうちに終わらせて言う。
「吉祥天システム、起動します」
その瞬間、シュリーの真下で防雨シールドが展開される。毘沙門天システムから切り替わった砲塔が、一斉に光を放つ。遅れて吹きあがる風が、シュリーのジェットエンジンをすくい上げる。
「――総員退避。『宝船』の大破を確認。任務続行は困難と推定」
天の兵士は荒れ狂う上昇気流を避けて散開する。シュリーは上体のバランスを崩し、仰向けになって海へ落ちていく。コクヤという少女として育った記憶が、シュリーの手を空へ伸ばす。虚空を掴もうとするその手の甲には、決して消えないSRIの文字がある。
神経転移学習。それこそがトシが「高天原」にいた唯一の証であり、シュリーの機体にコクヤの使命を刻んだ奇跡なのであった。
シュリーは海面に背を打ち、やがて水の底へ沈んでいく。「高天原」で作られたロボットは、宇宙空間を飛行できても水中を浮遊することはできない。
シュリーは目を閉じた。トシが残した技術を通じて、「高天原」に残るコクヤがシュリーの前に姿を現す予感がした。シュリーは一つ一つ、トシが託したデータに破損がないかチェックをし、それも終わるといよいよ深い眠りに入った。
永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな
文字数:10840