梗 概
四国狸の化して恐竜となる話
谷崎潤一郎の『天狗の骨』という随筆に、高野山の上人が死んで天狗になったという伝説について書かれたものがある。上人ゆかりの華山院に伝わる天狗の頭蓋骨を夫人がスケッチしたものも載っているが、これは今見ると始祖鳥か、さもなくば原始的な歯を持った恐竜の頭骨であるように見える。
同じ随筆に天狗のものだという大きな爪痕の残った沼があり、そこには草も生えなかった話もあり、これは恐竜の足跡の化石について語ったものとも見える。ただしこれは今でいう渋谷のあたりのことであり、天狗にしろ恐竜にしろ現在では跡形もなく東横線の線路の下になってしまっている。
おそらくはその天狗の骨に類しての話だろうが、四国には昔から狸が天狗に化けるという話があった。四国は元来空海上人が法力で狐を追い出して以来狸の土地とされているが、その狸が増上すると天狗になろうと試みるという。これが今思えばやはり恐竜であるように思えるものがある。四国は讃岐丸亀藩の藩士が参勤交代で江戸に来た際、さる漢学者に語ったという話である。
昔、丸亀藩の藩士弥八郎がまだ元服前の少年だったころ、夢枕に狸が立ったことがあった。
狸が天狗に化けようとする際、地面を掘ったところから持ってきた石を被って化けることになる。これが俗に狸の十六日講と言い、天狗道へ至るために十六小地獄の獄卒に一度づつ化けて十六夜続けて化ければ天狗になることができるという。けれども十六夜の満願に至る前に狸は狸の浅ましさでお互いに足を引っ張り合って全滅してしまうため、誰も天狗になれないという。その狸は十六日講が起こるにあたって、ぜひ豪胆で知られた弥八郎に助太刀を頼みたいというのだ。
面白く思った弥八郎はきっと味方をすると約束をして、十六日講が行われるという山の古寺に籠った。するとその晩目の前に現れたのは、狸がエオラプトルに化けたものであった。
狸が語って曰く、十六日講では地獄の古い方から天狗の祖先に順番に化けてゆく。エオラプトルは天狗の最も古い先祖である。山の中から次々と現れる三畳紀の恐竜たちに対し、何某は脇差を振りかざして応戦。無事一晩目を越すことができる。
翌日現れた狸は、コエロフィシスになっていた。一晩に起こったことから武具の準備をしていた弥八郎はコエロフィシス狸の上に鞍を置いてまたがり、薙刀をふるって三畳紀狸どもを振りちぎる。そうやって最初の六日をしのいだ弥八郎だったが、ジュラ紀狸の登場によって雲色が怪しくなってくる。
四国に古くから伝わる妖怪・牛鬼の正体は、実は鳥盤類の恐竜だった。七日目の最後に討ち漏らしたディプロドクス狸がクリークに潜って逃れた翌日、ステゴサウルス狸が讃岐名物和三盆糖の畑を食い荒らしているところが見つかる。六間もあるステゴサウルス狸は畑を見に来た老婆に見つかり、そのまま海へと逃れてゆく。大筋とは別に白亜紀狸の中にはパラサウロロフス狸なるものもおり、山の上に立ってプープーと鳴いている姿は山ほどもある烏帽子をかぶった大女が泣いているように見えて里のものは皆恐れた、あれがおそらく山姥の正体であろうと何某は語る。
さらに十六日講は終盤に至り、一町もあるようなアルゼンチノサウルス狸が表れ、小山のように里を闊歩するに至った。弥八郎は一計を案じ、お上に訴えて一晩の間すべての屋敷の門を閉ざさせることに成功する。悉く灯の消えた藩中で何某が狸と約束した通りにほら貝を吹くと、山中に隠れていたティラノサウルス狸が現れる。弥八郎はティラノサウルス狸の頭の上までよじ登り、弓を引いてアルゼンチノサウルス狸の目を見事射抜いて海へと追いやり、倒すことに成功する。
翌日、ヴェラギラプトルとなって表れた狸は、あと一晩立てば満願叶って天狗になることができると深く礼を言う。全身を羽におおわれ二足であるくヴェラギラプトル狸は確かに天狗に近く、弥八郎は翌日、祝い酒を準備して待っていると約束する。
けれど十六日講の最後の日、弥八郎がいくら待っても狸は訪れない。弥八郎は狸の不義理であることに憤り、憂さ晴らしにそこらをうろついていた野鶏を一匹捕まえて鳥鍋にし、むしゃむしゃと喰って寝てしまった。その後、二度と狸は現れなかった。
後日、ヴェラギラプトル狸は天狗にも似ていたが鶏にも似ていたので、実は最後の日に食べてしまったのはあの狸だったのではないかと弥八郎は思い当たった。言われてみればあの鍋は半分狸鍋のような味がしたとも語るのを聞き、一同は皆、狸が天狗になることは生半なことではないと感じ入ったとのことである。
文字数:1857
内容に関するアピール
作中経過時間は十六日、および恐竜の登場から絶滅までの二億年となっています。
地球ができてから現在までを一年に換算したところ、恐竜が地上に登場してから絶滅するまでがおよそ十六日にあたるという話から構想を得ました。
『天狗の頭』『竜の爪』と称して各地に残っている巨大な頭蓋骨や爪などは、調べてみれば恐竜の化石であることも多いようです。羽毛恐竜は言われてみれば二足歩行で口も尖り、昔の人間が見ればやはり天狗だと思ったかもしれません。それなら実際に天狗が恐竜でもいいじゃないか、でも化け物は次々と化けるところに華があるので、二億年と言わず一気に十六日で登場してもらおうというのがこの話の意図となります。枠としては『稲生物怪録』のような江戸怪奇譚を意識しています。
なお、冒頭の谷崎潤一郎の随筆は、実在の物から引用する予定です。
文字数:356
四国狸の化して恐竜となる話
谷崎潤一郎『天狗の骨』という随筆に、高野山の華王院というところに住んでいた上人が、死して天狗となったという話がある。
この上人は高野山第三十七世執行検校法名を覚海と号し、生前より弘法大師のお告げにより来世は天狗となることが決まっていたらしい。はじめ天王寺海浜の蛤が日夜経が営まれるのを聞いた功徳で来世は馬となり、その馬が主と共に熊野に参拝した善徳がため高野の上人となり、その来世は天狗となることが決まっていたというのだから、天狗というのは人間よりもよほど上品だと考えられていたということが分かろう。後に谷崎潤一郎は同上人を題材に『覚海上人天狗になる事』という小品を物して、幻想小説の大家たる泉鏡花の激賞を受けている。
さて、その『天狗の骨』という随筆に話を戻せば、同作品には上人ゆかりの寺院である華王院が今は増福寺と云い、天狗の頭蓋骨と呼ばれるものが伝わっていると前置いたうえで一枚のスケッチが添えられている。作者はその骨はあくまで寺社伝来の什器であり上人のものであると軽はずみに判断することを戒めてはいるが、随筆のタイトルからもその骨が天狗の物なのではないかと疑っていたことは間違いない。
『太古の怪獣の骨ではないかと思われるが、その方面の専門家に見せても一向説明がつかないという。』と作中にはあるが、随筆が書かれた昭和六年よりもすでに百年近くが経過した現在では、その骨は小型の恐竜類の頭蓋骨であると同定される可能性も高いのではないか。
作中にスケッチが掲載されているくだんの骨は口吻が長く先端の幅が一寸(3cm)、根元で二寸(6cm)。現存しているのは上顎部のみ。鳥類のものに似ているが、口吻に鋸歯状の細かい歯が備わっていることから現行鳥類の嘴と区別される。眼窩は後方に後退しており奥行きが狭く、後眼窩骨から頭頂部に向けてフリル状組織が観察することができるあたりもまた、白亜紀前期に登場したジェホロニルス類など原始的な鳥類の特徴と共通をあらわしている。
古来、日本には『竜の爪』『天狗の骨』と称する奇怪な化石が各地に伝わっている。古生物学的な調査により、その正体が恐竜の化石であると推測されることも多い。中生代においては地続きであった中国からモンゴルにかけての東北アジアには広く恐竜が分布しており、日本も含めて多数の恐竜の痕跡が発見されている。また同随筆には当時の東京近辺には「天狗の踊り場」と呼ばれる場所が各地にあり巨大な爪をもつ奇怪な足跡が残っていたとも書かれているが、谷崎潤一郎の故郷である中央区日本橋は現在ではたわいもなく土地開発の波に飲み込まれてしまった。仮に恐竜の足跡の化石が残っていたとしても、現在では確かめるすべもない。
天狗の正体が恐竜に類したものであったということは、古来、様々な逸話にも語られていたものであり、全身を羽毛に覆われ鳥に似た顔貌を持ち二足歩行する怪獣が古代に存在していたということは、各地でよく知られていたようだ。恐竜と鳥が同一の存在であるという説が古生物学において定説となるには21世紀を待たなければならなかったが、始祖鳥の化石はそれをさかのぼる数十年前には発見されている。
思うに、本邦においては羽毛恐竜の化石がたびたび発見されており、それが天狗伝説の発展に寄与したものではないか。それに類した伝聞の一つが三坂春編の手になる奇譚集『老媼茶話』の写本の一つに見られる。
春編は会津藩士であり収集された奇譚は会津地方のものが大半を占めるが、この話は例外的に讃州のものであり、春編が江戸詰めをしていた際に収集したものと推測される。付記によれば讃州丸亀藩の多賀越中守という者から聞いた話を書き出したものだという。
万治年間、京極刑部少輔高和に使える小姓に齢十四になる多賀輪弥というものがいた。輪弥は容色甚だしく美しく恰も婦人のようであったが、弓馬の道に殊更に優れ、また、気性の豪儀であることは並々ならぬものがあった。
輪弥の気性を伝える話に、こういうものがある。
京極家御居城である丸亀城は古来怪異の噂の多いところであった。暮れにくき日の黄昏、小姓衆が朋輩と共に四方山話に興じている間に話が城の怪異のことへと至ると、にわかに生臭き風が吹き、俄かに空が暗くなった。すると輪弥、すかさず脇差を手に立ち上がり、「某が灯火をとって参りましょう」と言った。輪弥が座敷を出て間もなく山の崩れるような音がし、たちまち黒雲は晴れて外は星空となった。手燭を手に戻ってきた輪弥を取り巻き朋輩が問い立てると、輪弥、「何やら廊下を進んでいるうちに、壁のようなものに突き当たり、前に進むことができなくなりました」と答える。
「誰が道をふさぐのかと思うと腹が立ち、誰ぞこの輪弥の道をふさぐか、退かなければ斬ってしまうがかまわぬのかと呼ばわっても応えがない。言うとおりに脇差で切りつけましたらスッと道が開き、そのまま手燭を取って参った次第」
その後輪弥の脇差を改めると、確かに血の痕らしきものが残っている。きっと怪しのことがあると朋輩は皆噂し合ったが、輪弥はそれからも平然として、何ほどの祟りが起こることもなかった。
かくてその後、何事もなきままに日数は過ぎると思われたが、翌彼岸の中日近く戌の日に、輪弥の夢に古狸が現れた。狸は破れ袈裟を来て首に数珠を掛け、牙は猪のごとく折れ曲がり針襖のような毛皮をしているが、よく見れば肩から胸乳にかけて刀で斬った痕がある。「もしやそなたは俺があのとき斬った狸か」と輪弥が問うと、「いかさま、あたしはあの折に怪しの事を為した狸でございます」という。今更恨みを為しに来たかと輪弥は疑ったが、狸は逆に手をついて頭を下げ、「多賀輪弥殿を世間に類なき強勇の士と見込み、願いの義があり参上いたした次第」という。
それから狸の言って曰く、輪弥に『狸の十六日講』の助太刀を頼みたい、という。
そも阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の四国は空海上人と定めて以来、狸の天下と決まっていた。けれども狸のごときは所詮は畜生であり、妖の中でも天狗、鬼にはとうてい及ばない。それが狸が成り上がって天狗となるための大秘術が『狸の十六日講』なのだという。
「星辰を占って天狗星が現れる時、四国でも術に優れた狸は金毘羅権現に拝して崇徳上皇にきっと天狗になってお仕えすることを祈り、一夜につき一地獄、十六小地獄の獄卒に化けて合戦し、最後の一日まで生き延びました狸はきっと成り上がって天狗となる。それを狸の十六日講と申します。けれども所詮は畜生の浅ましさ、最後の一日まで生き残るものがいたことは一度もなく、狸が化して天狗となる大秘術が果たされたことはいまだかつて一度もありませぬ」
「それを、俺の助太刀が欲しいと申すか」
「丸亀城に憑いた怪異はかつて二度まで城主を滅ぼしたものが、輪弥どのは恐れることとてない豪胆ぶり。とても並みの士ではないと見込んで一族郎党狸を説得し、こうして参上した次第にございます」
続いて狸は、「あたしがきっと天狗となった暁には輪弥殿を天狗の座敷へ招いて九郎判官義経がごとき兵法をお授けいたし…」と調子のよいことを続けようとするので、輪弥が枕刀の鞘を払って「偽りを申すな」と言うと狸はたちまち口をつぐんだ。
とはいえ輪弥、生まれてこの方狸は見ても天狗というものは見たことがなく、このまま十六日講とやらに手を貸せばきっと天狗を見ることができると考えて、「お前らが真に天狗を見せてくれようというのならば助太刀をいたそう」と答える。古狸は大いに喜んで幾度も手をついて頭を下げ、次の吉日に何某という山の古寺に籠り待ってほしいと輪弥に告げ、姿を消した。
翌日輪弥は「あやかしに出会って無事であったこともきっと金毘羅大権現の加護、お礼参りをしたく候」とがしたいと書き置きをし、さっそく家を出た。
そのころ金毘羅権現はいまだ建立を見てはおらず、屋島の浦の波間にも灯るとうたわれた高灯篭もなく、象山寺のあたりは一面にさみしい芒野原であった。中間を連れた輪弥が象頭山の寺を訪ね事情を語ると、別当は興味深く耳を傾ける。
「天狗と言いましたら、当山にも並々ならぬ縁がございます。狸が天狗になるという話などは利いたこともございませぬが、これも御仏のお導き。ようござんす、十六講の終わった後には見聞きしたものすべてを教えてくださるというのならば、喜んで宿坊をお化しいたしましょう」という。この別当、別伝では後に神体を守るため天狗となったとも伝えられており、並々ならぬ縁を感じていたものとみえる。それより後別当が書き残させたものが後に金毘羅宮に奉納されており、輪弥が見た狸の姿をありありと後世に残している。
その夜、輪弥が庵にて座禅を組み狸の訪いを待っていると、にわかに山中から騒ぎが聞こえてくる。刀をひっつかみ庵の外へと飛び出すと、そこにいたのは寺で飼われた犬に吼えられ長い尾を噛まれ、悲鳴を上げて逃げ惑う天狗の姿であった。
輪弥が脇差を振りかざし犬を追うと、天狗は庵の影に逃げ込みぴすぴすと鼻を鳴らしてうずくまっている。なんという臆病者かと呆れつくづくと姿を見れば天狗の胸には確かに斜めの傷があり、これは実は古狸が天狗に化けた姿なのだった。
『老媼茶話』にはそう書かれているが、寺に奉納された画図を見れば、これは一般に想像される天狗の姿とはずいぶんと異なっている。
長い首、尾を持ち、頭は小さく細かな歯を持った口は耳まで裂ける。二本の足で立ち前足は短く、身の丈はおよそ狼のごとし。足の蹴爪を見れば確かに鳥のようにも見えたが短い前足には五本の指が備わり三本の指には大きなかぎ爪、と記されているところを再現してみれば、ごく原始的な三畳紀の恐竜、エオラプトルのものとほぼ一致する。
「輪弥様ありがとうございます、こうして二度も命を救われましょうとは」とエオラプトル狸、二本の短い手で目元をぬぐう仕草をするも、恐竜に涙を流す機能があったかについては輪弥も語ってはいない。エオラプトル狸のあまりの惰弱さに輪弥は呆れかえったが、一度助太刀すると言ってしまったからには武士に二言はない。エオラプトル狸を座敷に上げ、円座に座らせて茶を一服進めた。
「今日から狸の十六講が始まったそうだが、お前のその姿はすでに天狗となっているようにも見える。これから一体何をしようというのだい」
「いえ、これはまだまだ天狗の成りはじめでございます。この姿はおよそ二億五千年前の天狗の先祖のもの。それを一日目は小地獄から借りてまいるということで」
仏典によれば地獄で亡者が受ける責め苦は人間の五十年を地獄での一年とし、さらに亡者の寿命は五百年であるという。二億年は長いなとは輪弥思うが、この世の理でないと思えば疑うほどではない。
「これからは進化と申しまして、一晩づつ新たな姿に変じてゆきます」
「進化と。それは蚕が繭を出れば、蛾の姿となるようなものか」
「いえ、進化というものはひとつの生き物が世代を重ねるによって、周囲の環境の変化によって別の姿へと変わってゆくことをもうします。それを一日ごとに一刻みとして、数千万年先の姿へ変わってまいります」
畜生が天狗にまで成り上がろうと思えば、実際には数億年にわたる世代を重ねることが必要であるらしい。それをたった十六日の修行で終わらせようというのだから、確かにすさまじい話であるとも言えた。
「しかし貴様、犬に吼えられて逃げ出すような有様の木っ端天狗で、これからどうしようというのだ」
「だから輪弥さまの助太刀をいただきに参ったのですよぅ」
そのとき、ふいにばりばりと音がひびき、にわかに庵の屋根へと一本の木が倒れこんだ。エオラプトル狸は悲鳴を上げて飛び出すが、輪弥、はっしと大刀を抜き放ち外へと駆け出した。銀光一閃、狼藉者を切りつければ、まるで丸太に切りつけたような心地がする。ばりばりと音を立てて木を踏み倒し頭上を悠々と過ぎてゆく。さながら祇園祭りの山鉾に化けたかのようでもあったが、これが離れてみれば四本の足で歩き長い長い首に尾を持った象とも牛ともつかぬ怪物である。
「なんと、見越し入道ではないか!」
このとき輪弥が見たものの正体はプラテオサウルス、三畳紀に登場したやはり竜脚類の恐竜であった。当時四国では頻繁に牛鬼が現れて人々を脅かしていたのは、狸がプラテオサウルスに化けることが多々あったためと思われる。
プラテオサウルス狸、己が踏み倒した木の影より輪弥が現れるのを見て、長い首を巡らせてゆっくりと振り返る。エオラプトル狸はというとたわいなく尻尾を巻いて輪弥の背中に隠れている。プラテオサウルス狸は瞼を持ち上げ、小袖に襷をかけ、鉢金を巻いた輪弥を見下ろした。
「何かと見ればそこにいるのは人間ではないか。まさかエオラプトル狸、この小童に助太刀を頼んだか」
「なんの、輪弥どのを小童と呼ぶか。この方は並みのお方ではないわい」
エオラプトル狸、輪弥の肩に手を置きぴいぴいと言う。正直なところ重くて仕方ないが、輪弥、ここはぐっとこらえた。エオラプトル狸のような天狗の成りそこないではプラテオサウルス狸の尾で一薙ぎされればひとたまりもないのは火を見るよりも明らか。ぐっとこらえて刀の鞘でエオラプトル狸の尻をひっぱたくと、ぴいっと悲鳴を上げる。
「何をする、輪弥どの!!」
「逃げよ!三十六計逃げるに如かずじゃ!」
そのまま輪弥、エオラプトル狸と共に転がるように山を駆け下る。プラテオサウルス狸はやや唖然としていたが、やがて、後ろ二本の足でぐわりと立ち上がり、大きな声で笑い始めた。あまり長いこと後ろ脚だけで立っていることはできぬと見えて、ふたたび前足を下ろしたときには踏み倒された木が折れてめりめりと音を立てた。「逃げ出すだけとは情けない」と嘆くエオラプトル狸の頭を、「阿呆」と輪弥、再びひっぱたく。
「勝てぬ相手に戦を仕掛けてどうなる。おぬし、その姿では逃げる以外に何のとりえもなかろうが!」
これは確かに正解で、エオラプトル狸は他の恐竜の卵を盗むか死体の肉をかすめるか、さもなくば草を食べて生活していたと推察されている。一人と一頭は逃げに逃げ、深く茂った熊笹に滑り足を取られ、木の枝に頬をかきむしられながら山を駆け下っていると、気づけば隣をまた別の恐竜狸が走っていた。
「おぬし、ようやく知恵をつけたか。一日目のうちにさっさと死んでおればよかったものを、残念な」
あざ笑う恐竜狸、やはり二本の足に長い尾をしていたが、口吻はより細くとがって牙も鋭くとがっていた。眉間に大きな傷が一筋走っているのは向こう傷か、けれども気づけば二頭と一人で逃げるうちに、森のあちこちからは雄たけびやら木々をなぎ倒す音やらが聞こえてくる。
走り走り、水場までたどり着いたころには皆息も切れ全身泥だらけ、ぜいぜいと息をしながら山を見上げれば、プラテオサウルス狸が大きな頭を振り上げている姿が木々の合間から垣間見える。「おのれ、憎いやつ」とエオラプトル狸は涙にくれた。
「おなじ天狗の先祖でもずいぶんと力に差があるものじゃ」
「小童、おぬし何も知らぬのだのう。十六日講のうちには、弱いものも強くなり、強いものも弱くなるわい」
眉間に向こう傷をつけた恐竜狸は、どうやらエオラプトル狸よりも幾分か賢いようだった。「今夜のわしはエオドロマエウスじゃ」と親切に名乗った向こう傷の狸、改めエオドロマエウス狸は、河の水を一口飲むと、再び山を見上げる。
「小童、おぬし、狸の十六日講では一日ごとに進化が進むということを知っているか」
「俺には輪弥と言う名前がある」
「おう、ならば輪弥。あのプラテオサウルス狸は今は山鉾程度の大きさしかないが、これからどんどん大きくなるぞ」
あやつには大きくなるほか能がないわい、とエオドロマエウス狸は言う。「これ以上おおきゅうなるのか」とエオラプトル狸が訪ねる声はたいそう情けなかった。
「おう、大きゅうなる。しまいには小山のようにでかくなるわい。だが、でかい以外にはなんの取柄もないうどの大木じゃ。そんなものを恐れていては、おぬし、二億五千万年かけても天狗にはなれぬわ」
輪弥、幼いころに乳母より聞かされてきた昔話を思い出し、いやな予感を覚える。四国には狸こそいないが古来妖怪が多く、牛鬼の他にも様々な山海の怪が表しては人を脅かした。
「エオドロマエウス狸よ。これからも妖怪変化の類がぞろぞろと現れると申すか」
「妖怪変化と言うのならば、わしらは皆妖怪変化であろうが。だが、山海の怪と呼ばれるものの正体の多くは、狸じゃ。四国は大師様が狸の国と決めなすってから、狸の天下に決まっておるわい。いいか、エオラプトル狸よ」
とエオドロマエウス狸は、輪弥の背中に隠れるエオラプトル狸に言う。それにしてもこやつ、妙に十六日講に詳しいと見える。輪弥が己をにらみつけていることに気付いたのか、「なんじゃ、その目は」とエオドロマエウス狸は鼻を鳴らす。
「お前はずいぶんと十六日講に詳しいようだな。こちらの狸とは大違い」
「輪弥様、ひどいですよぅ」
「当たり前じゃ。わしは代々狗神刑部にお仕えし、八百狸に四書五経の教えを解くが役割の学狸の家柄よ。西行上人がこの四国においでになった時、これを筆になさってくだされと尻尾の毛を献上したのもわしの先祖よ」
エオドロマエウス狸は、鼻高々、まだ天狗でもないのに増上慢も著しい。その上、口が軽いこともこの上ない。
「そもそも、狸の十六日講は天狗星空をよぎるときには代々行われてきた大秘術。様々な言い伝えが四国狸の間にも伝わっておる」
「つまりは牛鬼も山姥も針おなごも、海赤子も天狗も皆、正体は十六講の狸と申すか」
どれも人を喰う恐るべき妖怪、それをエオドロマエウス狸は「さよう」と答える。
「だが、牛鬼が長じて天狗となる等とは聞いたこともない」
「何、それが十六日講の落とし穴というもの。後は天狗となろうと思って化け始めたものが、結局は他の妖怪変化に成り下がってしまっては世話はないわい。わしはどうしても天狗になる、その一念がなければとうてい満願かなうことはない……やっ、もう夜が明ける」
ずいぶんと話が長くなったもので、気が付けばようよう東の空の端が白くなりはじめている。のっそりと立ち上がったエオドロマエウス狸は「余計な話をしたわい」とぶつぶつとつぶやきながら藪の向こうへ隠れようとする。その背中に、「おい、待て」と声をかけたのは輪弥であった。
「エオドロマエウス狸、おぬしほど賢い狸を俺は見たことがない。明日も伽を申し付けたいが、どうだ」
「なぜわしが小童の伽などせねばならんのじゃ。ふざけるでない」
「輪弥さまぁ」
肩にずっしりとしがみついてくるエオラプトル狸の重みに耐えながら、輪弥は声を張り上げた。
「いいや、お前ほど賢い狸は関八州に一匹もおらぬ。ぜひ話を聞かせてくれ。その礼に、明日はあずきの飯を一升炊いて待っているぞ!」
輪弥の言葉が聞こえたか聞こえないか。遠く鶏の声がひとつ、ふたつと聞こえたと思えば笹藪に消えたかと思うか思わないかのうちにエオドロマエウス狸の姿はすでに無く、気づけば肩の重荷もなく、エオラプトル狸の姿もまた、夢のように消え去っていた。
「輪弥さまぁ、ひどいですよう。助っ人を頼んだのはあたしじゃございませんか、どうしてコエロフィシス狸のやつの味方をなさるんです」
翌日、夕暮れとなったと思ったかと思えばすぐに現れた狸は、昨日壊れた庵の屋根からこぶのついた鼻先を突っ込み、輪弥にさっそく泣き言を言った。
「コエロフィシス?何者の事を言うておる」
「昨日のあのいけ好かない向こう傷のやつですよう!」
この言い分、胸の傷を見るまでもない。鼻の先にはこぶをくっつけ、身の丈は昨日の倍以上にも膨れ上がって飴牛ほどもあり、口の中にはずらりと牙を並べている。ずいぶんと図体がでかくなったものと見えて、屋根からつっこんだ頭以外のところがどうなっているのかは分からなかった。エオラプトル狸が進化し、プロトケラサウルスとなった姿であった。
「輪弥さまはあたしの味方をしてくださるんじゃなかったんですか。あのコエロフィシス狸のやつめに鞍替えなさるんですか。ああ悔しい、情けない」
「武士に二言はないと言っているだろうが。お前こそ女々しいことを言うものではない」
「そうじゃそうじゃ、おぬしのような化けそこない、八百八狸の名折れじゃ」
プロトケラサウルス狸と話しているうちに、一体いつの間に上がり込んだものやら、コエロフィシス狸が庵の煙出しから顔をのぞかせる。輪弥は昼のうちに寺男に申しつけ、あずきの飯を一升も炊かせていた。障子をあけてやるとコエロフィシス狸はさっそく座敷に上がり込んでくる。図体のでかいプロトケラサウルス狸は、物欲しそうに壊れた屋根の間から中を覗き込んでいるだけである。
「それで小童、わしに何が聞きたい」
コエロフィシス狸は昨日よりも幾分か小さくなったぐらいか、足も尾もほっそりとしてすらりと長く、長い首の先についた頭もまた小さく目ばかりが丸くて大きい。輪弥が大きなしゃもじで茶碗にこてこてとあずきの飯を盛り付けてやると晴れているはずなのに雨漏りがする、見れば頭上のプロトケラサウルス狸がよだれを垂らしているのであった。
「おぬしはずいぶんと十六日講に詳しいようだ。子細を聞きたい」
「ふん、人間の小童に話したところで、わしにはなんの得もないわい」
コエロフィシス狸、細長い口を椀に突っ込み、あずき飯を食おうとする。だが細くとがった歯ではうまく米の飯を食えないのか、不満げなうなり声をあげた。
「得はないやもしれぬが、そなたのような知恵者に出会いながら、何一つ学ぶことがないというのはあまりに惜しい。俺はな、コエロフィシス狸よ。儒学者にも学び、兵学者にも学び、四書五経を修めてはおっても、そなたほどに賢い者には出会ったこともないのだ」
「いいよるわ、小童」
所詮は狸の浅はかさ、「ならば聞かせてやろう」とコエロフィシス狸は長い尾の先で満足気に畳をたたいた。プロトケラサウルス狸の呆れ顔にも気付かぬ様子であった。
「そも狸の十六日講とは、崇徳上皇にお仕えするために十六小地獄をめぐり畜生道から天狗道へと狸が成り上がるための大儀式で……」
「そこはもう聞いた」
コエロフィシス狸、ひどく不満げな様子で鼻を鳴らすが、そのまま続ける。
「……一度天狗に化けると決めたものは、同じ種類の天狗へと成り上がってゆくことしかできぬという決まりがある。鯉は滝を昇れば成り上がって龍となるが、どうしても鴻にはなれぬ。燕雀は天竺へ渡って鴻となるが、どうしても龍になることはできぬ。そうやってどこから入るかで入り口が違う」
「ならば、最初から天狗になることができぬと決まっている者と、そうでないものがおるということか」
「さよう。だが、十六日講では何者となれば長じて天狗となることができるかを誰も知らんのだ。ゆえに一番初めに何者になるかでおのずと先は決まっておる。見ろ、そこの屋根から首を突っ込んでいる阿呆とわしの姿は似ておろう。だが、昨日のプラテオサウルス狸とわしであっては、似ても似つかんわ」
輪弥は考え込んだ。
確かに昨日のプラテオサウルス狸などは、大きな図体でのそのそと四足で歩き、さながら牛鬼のごとき姿であった。あのまま育てば天狗ではなく本当に牛鬼の類となってしまうのかもしれない。だとすれば不味い。天狗は増上慢の末魔道に堕ちたもののけであるやもしれぬが、仏法鎮護の志を確かに持っている。しかし牛鬼や山姥の類は違う、人を喰う物の怪にすぎぬ。
これは十六日講どころではない。狸が誤って物の怪となってしまう前に、退治せねばならぬかもしれぬ。
「何を考えていらっしゃるんですか、輪弥さまあ。あとあたしにもあずき飯をくださいよう」
頭上から降ってくるプロトケラサウルス狸のよだれを避けながら、「しかし」と輪弥は首をひねる。
「おぬしは何故それだけのことを知りながら、いまだに天狗となっておらぬのだ。それだけ十六日講のことが分かっておれば、畜生の身の上に甘んじていることもあるまい」
コエロフィシス狸は、苦々しい顔をする。しようとしたのだろう。表情というもののおよそうかがえぬ顔ではあったが。
「十六日講は合戦よ。皆で仲良く天狗となろうというものは、そもそも大人しゅう狸穴に籠り、せいぜい豆腐屋を化かしておからでも食っておるわ」
「お互いに攻めあって、最後まで残ることができぬと?」
「ただしく天狗となることができるものに化けた筋が残らなんだら、何の甲斐もありはせぬわ。皆そのことをろくに心得ておらぬ」
「ならば何故、皆で天狗とならない? おぬしがそれを皆に解いてまわればよかろうに」
「なぜわしが先祖伝来の十六日講の秘伝を、言いふらして回らねばならんのじゃ」
ふん、とコエロフィシス狸は鼻を鳴らす。なるほどこれが狸のあさましさか、と輪弥、ようやく得心が行った。頭上を見上げ、プロトケラサウルス狸と顔を見合わせる。
「天狗となることができる化け筋が初めから定まっていたとは、まるで源氏と平家のよう。狸にも天命というものがあるものなのだなあ」
哀しいかな、すべては天命の定めるところ。天狗に成り上がることができるか、それとも物の怪に成り下がってしまうかは、合戦がはじまった時にはすでに定まっていたということか。しかし、それでは何かがおかしいような気もする、と輪弥眉をひそめる。
輪弥は立ち上がり、庵を出る。今だ早春の空気は冷たく、遠く見はるかす山々の稜線が細い銀色に縁どられて見える。木々の間に間に何者かの影が見える。鋳られたばかりの銅貨のようにぴかぴかと光る眼が木々の合間に垣間見えてはまた消えた。長い尾の先が藪の間から覗いては消え、二足のものたちが身をかがめて木々の合間に息をひそめる気配がする。
「今だ干戈を交えるものもなし、か」
「皆、まだ合戦の準備も整っておらなんだ。勝ち目もないのに暴れるのは阿呆のすることよ」
輪弥に並んで庵を出てきたコエロフィシス狸は、後ろ脚の爪で器用に頭を掻く。輪弥は目をすっと細めた。
「まだみんな、大きさは五分五分と言ったところでしょうからねえ。下手に戦って傷を負って、そこで漁夫の利を狙われちまったらたまりゃしない」
「何を臆病なことを」
つぶやいて、ふと、庵の中へと取って返す。戻ってきた輪弥の手には弓が握られていた。「屈め」と命じられたプロトケラサウルス狸が慌てて身をかがめる。輪弥はその背中を覆う羽毛をつかむようにしてすいすいと背中を昇ってゆく。短く太い尾、たくましい二本の尾、頑丈な脚。プロトケラサウルス狸の体は昨夜の三倍ほどにも膨れ上がっていた。立ち上がれば頭の先は櫓の先にも届くほどになる。プロトケラサウルス狸の頭を踏みしめてすっくと立った輪弥は、重籐弓に鏑矢をつがえる―――ひいふっ、と音を立てたかと思った瞬間、怪鳥のような悲鳴を上げて、なにやら、座布団ほどの大きさのものが丈高く伸びた木の梢から落ちた。
「見ろ、木っ端天狗よ」
鹿が崖を駆け下るように、プロトケラサウルス狸の背中をトントンと軽やかに下りてゆく。その輪弥が藪の中に分け入ってゆき、拾ってきたのは二本の脚に長い首、曲がった二本の前脚の間に被膜を持った生き物だった。イーという名の小恐竜である。輪弥があっさりとその首をひねると、プロトケラサウルス狸もコエロフィシス狸も、ひいっと悲鳴を上げて抱き合うようにすくみ上った。
「これは戦だと言うたのはおぬしらだろうが。こやつめ、木っ端天狗とはいえもう天狗になりかかっている。生かしておけばもっと大きゅうなってしまうのだろう。はよう討ち果たさねば戦をするよりも前に負け戦となるぞ」
哀れ、被膜をもった恐竜は、だらんと輪弥の手から垂れ下がって、死んでも元の狸に戻る気配はなかった。ふと思い立ったように輪弥は二匹のほうを見る。
「食うか?」
二匹はもげそうなぐらいに首を横に振った。
次の夜。向こう傷の狸はディロフォサウルスとなり、胸に傷の狸はシンラプトルとなっていた。どちらも相変わらず後ろ脚二本で歩行し、短く筋肉質な尾、長い首の先にある小さな頭、ただディロフォサウルス狸のほうは口が細く歯は細かく、おそらく大きな獲物を喰う類の姿ではない。
恐ろしい姿をしているのは、シンラプトル狸のほうであった。
二本の脚には巨大な鉤爪があり、赤松の幹のごとくに地を踏みしめるさまもたくましく、大きな口は開けば耳までも裂けただろう。尾の先から胴、太い首にまでを覆った強靭な筋肉、その上を覆った分厚い皮膚。
しかし、青銅の鐘もかみ砕きそうな恐るべき恐竜は、短い二本の前足で顔を覆い、べそべそと泣き言を言っていた。
「輪弥さま、あたしは戦なんぞしたくありません。逃げるが勝ちと最初の日に輪弥様も言ってらしたじゃないですかあ、今夜ぐらいはやり過ごせばよいのですよう」
「何を臆病なことを言うておる。あの牛鬼めはますます大きくなっておるぞ、今のうちに始末せねばどれだけ大きくなるか知れたものではない」
シンラプトル狸はもはや十分に大きく進化した。今こそ打って出るべき時。輪弥はそうシンラプトル狸の首に手綱をかけてぐっと引き、二本の足を掻ける場所を確かめる。その姿はもはや昨日までの振袖に襷姿ではなく、よりはっきりと合戦に挑む装束と変わっている。
鎖帷子に胴丸を重ね、白の元結できりりと髷を茶筅に結び、鉢金姿もみずみずしい。えびらを背負い弓を持ち、腰には大小の太刀を佩き、薙刀を持ったその姿。心の底から帰りたい、とシンラプトル狸が震える声でつぶやくのを、ディロフォサウルス狸は同情に満ちた目で見た。
「それで輪弥殿、一体何を狙というのじゃ」
「あれよ。あの山入道のごときもの」
輪弥の指さす先を見れば、そこには、巨人がもっこに一杯の土を担ぎ上げ、そのまま丘に置いたような影がある。
否。
長い長い首がある。それよりもなお、長い首がある。その先端に小さな頭がある。動いている。雄大な背中は丘のごとくに盛り上がり、ゆったりとした足取りで、悠々と山間を歩いてゆく。
小山のごとき巨獣――― ディプロドクスであった。
「あれがあたしと同じ狸だとは、到底思えませんよ」
「わしもじゃ」
「とうに本性など忘れ、山入道に成り果てているのやもしれん」
ずうんと地を鳴らして歩んでゆく、その四本の足が山の斜面を踏み損ねてずるりと滑った。アッと声を上げるよりも先に輪弥駆け上るようにシンラプトル狸の背を駆け上り、長く伸びた羽毛を手綱のごとく掴んで「あそこに!」と叫ぶ。見れば老僧がひとりあんぐりと口を開け、長い長い尾が空を薙ぐようにゆうるりと木立を薙いでゆく様を見上げている。すんでのところで頭を低くし尾をかいくぐり、身を低くかがめたシンラプトル狸、二本の前足で見事老僧を掴み上げた。キュウと声を上げて失神してしまうのも仕方がなかろうが、小山のごとき巨獣の前ではそのようなことも言ってはいられない。めりめりと音を立て麻を薙ぐように杉が倒れる。地雪崩がおきる。なるほどこれが天狗倒しというものかと輪弥思い当たる。古来山中で空より降るような怪音の後、大木が倒れる轟音が誰もおらぬのに聞こえてくる。そのような怪異を天狗倒しと称した。
「でかぶつめ。あれだけ大きゅうなってしまえば、そこにおるだけで災難ではないか」
ディロフォサウルス狸、崩れる山肌、転がり落ちる大岩を器用に避けて走ってくる。どうにか山肌を駆け上り足を止めたころ、山間の川のほうから鐘を割るような吠え声が聞こえた。ディプロドクス狸がふたたび彷徨をあげ長い尾を振り回し、何かを打ち払おうとしている。
水辺に群れていたのは剣竜と呼ばれる恐竜どもの群れ、牛のような巨体に背筋から尾までずらりと並んだ棘、身の丈六メートルほどもあるギガントスピノサウルスであった。背中を踏みつぶされた者がいる、その棘が足を貫いている。振り回された尾の棘がディプロドクスの胴に打ち込まれる。流れ出した血が真っ赤に渓流を染め、まさしく血の池地獄の様相を呈している。
何やら念仏が聞こえると思えば例の老僧、シンラプトル狸の手に掴まれたままで目を覚まし、一心に題目を唱えていた。この世のあり様とも思えぬのだろう、最もな話だと輪弥考え、老僧を下ろしてやるようにとシンラプトル狸に命じる。地面におろされた老僧は腰を抜かしてへたり込み、「御坊、無事か」と問いかけた輪弥を振り返る顔は死人のような土気色。
「あなた様は何者でございますか。ここは地獄でございますか。立山の山中の地獄でなくとも、あのような亡者を責める鉄の羽、銅の爪、ああ情けない、こうして出家の身となった上にも地獄におちるとは。これもももんじ屋を開いて鶏肉を鶴と偽って売ったせい」
「とんだにわか入道、なんじゃ、その因業な商売は」
どちらの狸がぼやいたのやら、ひとまず輪弥にはどうでもよい。おたすけくだされおたすけくだされと袖にすがる老僧をなだめながら考える、この様相を山の下まで漏らしてはとんだ騒ぎとなってしまう。
「ディロフォサウルス狸よ、これは、前の十六日講の時にはどうして騒ぎにならなんだ。このままでは山狩りになるぞ」
「そのようなことを言われても、先の十六日講は前の天狗星が飛んで来た折のことだからのう。山里に人などおらなんだ」
天狗星が飛んでくのは七十五年と五か月に一度といわれておると、妙に正確なことを言う。そのころならば豊太閤の御代、讃州では一体なにが怒っていたころだったやら。とりあえず輪弥、益体もないことを考えるのをやめる。
「おい、これは狸ばらを一度あつめ、合戦場所を決めるわけにはゆかぬか」
「どうなすったんです、輪弥様? ああして同士討ちをしてもらえるんだったら、あたしたちにとっちゃあうまい話じゃありませんか」
「卑怯者め。……否、卑怯はこの際構わぬ。だが狸ども、このまま十六日講が人里へなだれ込んだら如何にする。畜生が人の暮らしを乱しては世の道理に逆さま、お大師様にも申し訳が立つまい」
お大師様の名前を出されれば、四国八百八狸は弱い。シンラプトル狸、ディプロドクス狸、顔を見合わせ、おそらく苦虫を噛みつぶしたような顔でもしたかったのだろう。
「御坊、いつまでも腰を抜かしていても仕方がなかろう。じきに夜が明ける、さすればこの輪弥が山の寺まで案内いたそう。この妖怪変化どもは俺がどうにか収めてみせる」
老僧、ねぎらうように肩を叩かれてハッと顔を上げ、再び数珠を揉んで南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱える。一体何事か。顔をしかめる輪弥に老僧が言って曰く。
「地獄に仏とはまさにこの事、あなた様はもしや、観音菩薩の化身ではございませぬか」
「あー、うん、それでよい。それでかまわん」
輪弥、あまりのことが続くせいか、すでに大分面倒くさくなっていた。
古来日本には地獄と称される土地があり、有名なところが立山修験の地獄谷、後に昭和天皇の御幸のために名を改められたが元の呼び名を箱根の大地獄小地獄、そして何よりも恐山の賽の河原などがあり、これは多く火山性ガスが噴き出すために草木の育たぬ不毛の地とされた場所を称したものであった。
讃州高松の周りには爾来多くの温泉があり、高松市南部の仏生山周辺は江戸時代初期には草木も育たぬ不毛の地とされその上を鳥も飛ばぬと称された山中地獄、けれどもその由来を後にボーリング調査によって調べたところ、これは1530万年前に直径1Km弱の巨大隕石が衝突した2重リング・クレーターに由来していることが分かった。当時輪弥にも十六日講狸にも知る由もないことであったが、ゆくりなくも恐竜絶滅の原因と同じ彗星ゆかりの土地が白亜紀狸の雌雄を決する土地となったのである。
「ステゴザウルスの姿が見えぬな。ギガントスピノサウルスも」
輪弥、ここまできてもうすっかり恐竜になじんでしまっている。妖怪変化なのか天狗の生成りなのかもはやどうでもよく、ただ、ほんの二日前にディプロドクス狸を討ち果たした剣竜の族が見当たらないのをいぶかしんだ。「絶滅しちまったそうですよ」とごく簡単にすべてのことの原因たる胸の傷の狸に言われ、「何?」と思わず目を見張る。
「絶滅とは? 一体何が起こったのだ」
「どうもこうもありゃしません、一晩立ってまた天狗化けをしようと思ったら、みんなコロコロ倒れて死んじまったんですよ。あいつが絶滅ってやつなんですねぇ、誰も殺さなくとも滅んじまうんです。あんな無情なことったらありませんよ」
さすがにしんみりとした口調は、ともに十六日講へと挑んだ狸への同情ゆえか。輪弥も思わずうなり声をあげてしまった。
「奢れるステゴサウルスも久しからずと言ったところか。なるほど、確かに源氏と平家のようなものよ」
一番初めは皆似たような二足で走る犬ほどの大きさの恐竜からはじまったものが、途中で分岐するように別の物へと化け別れてゆき、後の日まで残ることができるか否かはすでに前世からの因縁によって定められている。これも畜生道から天狗道へと生まれ変わろうとする者ゆえの業といえば詮方なき事とはいえ、あれほどの栄華を極めたステゴサウルスの末路と思えば憐れを催さずにはいられない。
しかし、今夜はとうとう決戦の時、諸行無常の憐れさに思いをはせる時間はすでに無かった。輪弥、一度屋敷へと取って返して鎧兜に身を包んだ姿はさながら華のごとき武者ぶり、この世に武芸者は数多かれど、輪弥ほど億さずティラノサウルスを乗りこなすことができる者はほかにあるまい。
そう、十六日講もすでに佳境、かつての臆病狸もとうとう成り上がり、成り上がり、見事、全恐竜一の兵たるティラノサウルスへと変じていたのであった。
ここまでくればもはや輪弥も、ティラノサウルスが天狗であると疑うことはなかった。身の丈12mに及ぶ巨体、二本の脚に備わった恐るべき鉤爪、羽毛に覆われた肢体は仁王像のごとき逞しい筋肉に覆われ、顔貌の恐ろしいことは迦楼羅天もかくやというもの。これがもう少し成り上がり、羽をもち、空を飛び、天狗の団扇を持ったならば、愛宕太郎坊天狗もかくやの大天狗となろう。知恵がちと足りぬことは気になりはするものの、なんの、善天狗となれば修行の時間もたっぷりとある。修練はそれより後に積めばよい。
そうしてぐるりと仏生山地獄を見渡してみれば、そこは、すなわち白亜紀地獄の妖怪変化の群れ集う、異界のごとき有様であった。
飾り兜のごとき頭蓋の周りに後光のごとくずらり角を巡らせたトリケラトプスの類がいる、鉄鉢被ったパキケファロサウルスがいる、ヤクの毛の佩楯付けたプシッタコサウルス、わけても異様にも異様を重ねたものは、捲土重来、一度は倒れたはずのディロフォサウルスが生き残りまた進化を果たした、歩く山のごときアルゼンチノサウルスの姿である。
巨きい。
尾の先端から頭にかけては一里もあると言いたくなるが、それは白髪三千丈のような誇張というもの。実際のところは全長40mほどの大きさであるが、輪弥、ほかの狸ばらのみならず、これほどの巨躯を持った生き物を見たことがあるものは他にはどこにもおるまい。それも道理、アルゼンチノサウルスはかつて地上に存在した中でも最大の恐竜なのであった。
「輪弥様、あたしは本当に天狗になりますよ」
「うむ、あっぱれな心掛けよ」
それでもティラノサウルス狸、憶する様子はない。その頭にまたがった輪弥、やさしく頭を叩いてティラノサウルス狸を褒めたたえる。
「ぬかせ、図体ばかり大きくなりよって。生き残りさえすれば、天狗となるのはこのわしよ。見よ、この見事な羽、見事な爪」
そのティラノサウルス狸の頭の上よりグッと下がったところを見れば、目は皿のごとく大きく銅のごとき蹴爪、天狗よりはグッと鳥に近い姿ながら、いかにも知恵者らしき様子のデイノニクス狸がいる―――こちらも今日この日まで生き残り、とうとうここまで成り上がった。
今宵は満月、山の端より真っ赤な月が上る。上天に天狗星はいよいよ眩しく青白く異様な燐光の尾をながく引く。
仏生山地獄をぐるりと取り巻く頂のなかでも、ひときわ高い岩の上。頭に烏帽子をかぶった八尺ほどもありそうな山姥―――もとい、パラサウロロフスが、高々と鳴いた。
パロロロロロロ――――
パロロロロロロ――――
鳴り響くそれは、出陣を知らせるほら貝の音。陣太鼓を打ち鳴らす音。がっとティラノサウルス狸の爪が地を掴み、一飛びに、一里も駆けるような勢いで走り出した。
アルゼンチノサウルスはその四本の足で立っているだけで、歩く山、四足の城塞。ゆうるりと尾の先がしなり、先端が勢いよく振り回される。その巨躯と遠心力から生まれる力は破城槌ほどの力があった。折あしくその行く先を駆け出そうとしていたマイアサウラの頭が、西瓜のように破裂し、頭を失った身体が殺しきれない勢いのまま走り、走りながら地へと崩れ伏せた。ティラノサウルス狸の頭を覆う鬣に体をきつく縛り付けて、輪弥、とっさに頭を伏せた激しい上下にも耐えおおせた。
巨体はそれだけでひとつの暴力である。この山入道、どうして生き延びてきたのかがよくわかる。これで八つに首が割れれば、八岐大蛇となるのではないかと思うほどだ。この体躯で押しつぶされればどのような恐竜だろうとひとたまりもなく、長大な尾も首も、力任せに振り回すだけで恐るべき破壊力を生み出す。
そして、アルゼンチノサウルスの足元より、その腹の下をかいくぐるようにして、角竜の群れが突進してくる。トリケラトプス、セントロサウルス、スティラコサウルス。デイノニクス狸は俊敏な脚に鎌のようなかぎづめを備えていたが、馬鎧を掛けた騎馬隊のごとき群れ相手に単身勝ち目はないと見えた――― だが。
耳まで裂けた口が嗤うように開く。細かに並んだ牙がずらりと覗く。そうして高々とデイノニクス狸が鳴いたとき、背後の斜面を駆け下り、駿馬のごとくかけ寄せてくる群れがある。
デイノニクスの群れ。
「馬鹿な!」
うろたえたディアブロケラトプス狸が口走る。デイノニクス狸はただ一匹、ほかの仲間は皆すでに今日の合戦までに滅んだはず。だが答えは「阿呆はおぬしじゃ」という高らかな笑い声。
「わしは、『十六日講を行うのはわし一匹』とは言うたが、『わしには一族郎党がおらぬ』とは言うてはおらぬわ!」
左様、押し寄せるデイノニクスどもは十六日講に加わった古狸ではなく、ただの化け狸がデイノニクス狸をまねて化けたものにすぎなかった。笹の葉を張り付けた爪にはいうほどの強さもなく、恐竜の頭を骨ごと噛み砕くほどの牙もない。だが、群れに混じったデイノニクス狸一匹を見分けることもまたできない。同様でちりぢりになる角竜の群れの間へと、どっと偽デイノニクス、そして、デイノニクス狸が駆け入った。
「偽馬もまた馬よ」
輪弥、己の仕掛けた策が成功したと見て、会心の笑みを浮かべる。偽デイノニクスを仕立てるようデイノニクス狸へと進言したのは、輪弥であった。
さほど大きくもなく、素早くまた長い距離を走り、鋭い爪と牙、高い知性。そのような獣が狩りをする方法などひとつに決まっている。群れを成し獲物を追うこと。狼や山犬と同じだ。偽デイノニクスの爪にひるんだ瞬間に、ぱっと眉庇を切り裂かれたディラブロケラトプスの頭から血しぶきが飛ぶ。
それでは、アルゼンチノサウルスはどうか。
しなる尾は何もかもをなぎ倒し、首を叩きつけられた恐竜もまた骨を砕かれて吹き飛ばされる。だがその足は元の場所からほんの数歩も動いておらぬ。己の体重を支えるのが精一杯なのだろう、と輪弥は推察する。そのような生き物が生きてゆけるのかと思うところもあるが、所詮は妖怪変化だと思えば、理屈はわからぬこともない。
十六日講の狸ばらは、過去に地獄へと落ちた天狗の生成りに化けていると称しているが、まったくそのままの姿に『化けて』いるわけではないのだ。
十六日講をはじめたものは何者なのかはわからぬ。だが、その何者かは自ら地獄へ降りて、生きた恐竜を見てきたわけではなかった。地上に残された骨や爪、足跡などを見て、かつて天狗の生成りがいたとするのならばこのようだったろうと想像しただけなのだ。
ゆえに、アルゼンチノサウルスは満足に歩くことができない。あまりに体が巨大であるゆえ、見つかった骨が全身を想像するには足りぬものだったのやもしれぬ。あるいは見つかったとしても、その圧倒的な巨躯がどのように生きうるものかを想像しきれなかったのかもしれぬ。
だが、結論として、たった今ここにいる『アルゼンチノサウルスに化けたもの』が不完全であることに違いはない。
ティラノサウルス狸は、駆けた。その重たい一歩一歩が、地にめり込み土煙を上げ、砂と石とを背後に蹴立てた。頭を低く下げ太い尾をあげた姿で疾走するティラノサウルスは、頭上を振り回されるアルゼンチノサウルスの首をかいくぐった。そうしてその頭上には輪弥、重藤弓に漆塗の矢をつがえる。鏑矢には桜花の透かしが入り、矢羽は俵藤太が百足を討ち果たしたる十七節の山鳥の尾羽。長さ十二束三伏の小弓にすぎぬが、その弦、常人ならば五指をかけても針金を引くがごとくの強さに張ってある。
「南八幡大菩薩、三上山の天之御影神、讃州産土の金毘羅大明神。この一矢を的らせ賜えばきっと輪弥は天狗の頭奉納致し、この大魔縁を調伏させたもう神徳を関八州に轟かせましょうぞ」
輪弥、破魔の一矢をその手に取り、みるみる満月のごとく引き絞る。はるか頭上に仰ぎたるアルゼンチノサウルスの頭が赤き望月と重なって見えたとき、ひいふっ、と必殺の一矢を放った。
絶叫が響いた。
見事、輪弥の一矢はアルゼンチノサウルスの左目を射抜いた。痛みに暴れる頭が力任せに振り回され、地にこすりつけるように頭を地面へと打ち付けた。体が斜めにかしぐ。輪弥、ティラノサウルス狸の頭上から飛び降りる。その体を足元へと走り入ったデイノニクス狸の背が受け止める。
頭上の小兵を下ろしたティラノサウルス狸は、とうとうその顎を一杯に開き、アルゼンチノサウルスの頭へと食い入った。
小山の巨躯ながら、そのけして大きくはない。めりめりと音を立てて食い込む牙が頸椎を食い破り、わずかな時間の後、とうとう頭蓋を噛み割った。小山のような巨体がゆらぎ、尾がのたうち、けれど、確かに体は左の側へと、射抜かれた目がため傾いだ側へと、倒れ伏した。
がっしと太い足でアルゼンチノサウルスの頭を踏みつけて、ティラノサウルス狸は勝利の咆哮を上げた。まさしく天下に轟く大魔縁にふさわしき、雷霆のごとき雄たけびであった。デイノニクス狸の首の羽を掴み、馬を御すごとくに御しながら、輪弥もまた、会心の笑みを浮かべた。
果たして、次の夜。
明日には満願かなって十六夜を迎えんという日。
かつて屋根を踏み破られたままの破れ庵で、輪弥は二頭の恐竜と向かい合っていた。
朱塗りの大盃になみなみと酒を注ぎ、輪弥と向かい合ったものは、けれど、もはや恐竜と呼ぶにはあたらなかったやもしれぬ。長い口吻には細かな牙を備えながらもほとんど嘴となり、羽を備えた前脚の先には一本の指、総身を覆った羽毛。左右についた目は大きく、二本の足であるいていなければ、人ほどに大きくなければ、鳥とも見まがう姿である。
この姿については、象山寺の絵姿を確かめても、同定できる恐竜は存在しない。
白亜紀末、恐竜は鳥類を残して絶滅した。鳥類は恐竜の中の一分類だが、現行鳥類へと進化する過程の一分にはミッシングリングが存在している。想像上の姿は複数存在しているが、実際にはどの程度鳥であり、どの程度恐竜であったのかは今後の研究を待つ状態である。
「輪弥様、ありがとうございます。まさかあたしが本当に天狗となることができようとは、思っておりませなんだ」
「わしはおぬしの力など借りぬとも――― 否、礼を述べねばなるまい。おぬしのような不敵者はなかなかおるものではない」
「何、楽しい戦であった。おぬしら二匹が天狗となれば、輪弥一生の手柄にもなろう」
空を見上げれば、尾を引いて飛ぶ天狗星。今夜遅くに最も近づき、明日にはまた去ってゆくだろう、と向こう傷の狸は言った。そうして十六日講は成り、晴れて二匹は双天狗となりおおせるのだ。
「あたしらは善天狗となり、きっと金毘羅様にお仕えして、修行をいたしたいと思います」
「うむ、それはよいことだ」
「天下に名をとどろかせる大天狗となり、いつか、おぬしの恩に報いよう」
「それは期待せずにまっている」
輪弥は笑い、盃から酒を煽った。今となっては願うことはただひとつ。
「おぬしら、天狗となればきっと一番にこの輪弥に会いに来い。三人共に盃を交わし、満願叶ったことを祝いあおうぞ」
そう笑い、空へと高く高く、盃を差し上げて―――
そして二度と、輪弥が二匹の狸と会うことはなかった。
三坂春編『老媼茶話』にはこうある。
あれから二日、三日立っても狸が庵を訪うことはなく、輪弥は数夜を空しくした。そうしてある夜ほとほとと戸を叩くものがあったが、外を見れば野鶏が二匹ほどうろついているばかり。輪弥は腹立ちまぎれに野鶏を叩き斬り、水炊きにして食ってしまうと、象山寺の別当に暇乞いをして屋敷へと戻ったという。
天狗に成り上がろうと思うほどの化け狸であっても、所詮は畜生。恩知らずを恨んだところで仕方がない、と輪弥は後に語ったという。
後に輪弥は家を継いで藩の中老となり、名を多賀越中守と名乗るようになった。その越中守が江戸詰めを勤めていた際に春編に語ったものが、以上の沙汰となる。けれどもその数年後、再び春編と出会った多賀は「あの後、ずっと考えていたのだが」と付け加えた。
十六日講では、狸は日を重ねるごとに成り上がり、姿を変えた。それもただ化けるといった具合のものではなく、一つの姿に化けたらその次には、数万年後の子孫の姿に化けるといった具合であった。
ゆえに、ひょっとしたら――― 十六日講を経て天狗となったものがいないというのは、皆、最後にはただの鳥となってしまうからだったのやもしれぬ。
「そう思うとあの時の水炊きは、鶏肉のような、狸肉のような味がしたような……」
そう多賀が語るのを聞いた者は皆、狸が天狗へと成り上がる難しさを思い、たいそう感じ入ったとのことである。
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