スシュランの男

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梗 概

スシュランの男

経過時間は45分。ただし「1秒はセシウム133原子の基底状態の2つの超微細構造準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍の継続時間」には必ずしも従わない。

*

おれはスシュランの男、Sushiレストランに星を与えるひみつの調査員だ。鮨もうまい寿司もやばい寿司も奇想天外な寿司も腐るほど目にしたが、今日はその中でも指折りの妙な店に来ている。場所はパリ、店の名は「離れ寿司〜どれくらい離れると寿司は寿司でなくなるのか〜」

こういう店名のレストランはだいたいろくでもないが、某ガイドブックでは星三つなので調べることにした。入店するなり妙な音が聞こえたのはすこし気になるが、店内は星にふさわしい重厚で快適な雰囲気、少し暗くて給仕の顔がよく見えないこと以外は問題ない。豆腐のアペタイザー、それからパフェのように根菜を盛り付けた前菜、つづいて出汁のスープとスタイルはフレンチだ。スープの後は握りである。

一品目はマコガレイの握り。二品目はカルフォルニアロールで「ふつう」の寿司から離れてみたらしい。三品目はマグロのエキスと酢飯のエキスを抽出したゼリー、いわゆる分子料理だ。いかに寿司の概念から離れるかという遊戯に感じられる。つづいてウニのソルベで口休めをし、ついにメインディッシュである。

ここで給仕から説明があった。メインの二品は体感時間を変える装置を使用する。装置は指輪のような形をしている。これで心拍制御をして体感時間を変えるのだそうだ。はじめが体感時間をより短く、そして次は体感時間を長くする。つまりシャリとネタを味わう時間にギャップを設けてやろうということらしい。距離とはすなわち時間である。1/299792458秒に真空中を光が進む距離が1メートルの定義である。時間のほうをちょっとひねってやれば、すなわち距離も稼げるというのだ。こういう世界観の説明が必要な料理はけしからんが、この二品こそが店名とも深く関わるこの店のコンセプトとなれば仕方がない。

差し出したのはトロであった。口に運ぶととろけるが、それが消えるのをまたずシャリがサーブされる。すかさず口に運ぶと、後味とまざりあい、たしかに寿司のようにおもわれた。時計を見るといつのまにか十分が経っていた。なるほど。これが距離かと理解する。距離とは時間であったのだ。しかし体感時間が短いのでこれは寿司として感じられる。

次はどうなるのかと期待に胸が膨らむ。まずはと出されたシャリの味をよく味わっていると、ここからはお客様の手を煩わせてしまいますがよろしいでしょうかと給仕が謙った。少々ご辛抱くださいませ、最上の寿司を楽しんでいただくための仕掛けでございます。まずは髪をよくくしけずってください。なるほどね、とおれは思う。体感時間を長くするのはいいが、客を退屈させてはいけない。アトラクションじみているから、こういうものを好む客もいるだろう。おれは給仕に言われるまま、背広を脱ぎ、ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、ことに尖ったものはすべてこちらへとうながされ、順々に持ち物をトレーに置いた。トレーに置く前に時計を一度確認する。シャリが出されてからまだ十秒も経っていない。入店してからは四十五分になろうとしている。コースのペースとしては少々早いのではないか?
 いつのまにか店の外は黒くなり、びゅうびゅうと強い風が吹いている。すると給仕は壺を差し出して、クリームを塗れと言う。おかしい。妙だ。これではまるで童話のような――

「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした」

ぎょっとしておれは給仕の顔を見た。彼の青い目玉はピカピカとひかり、瞳孔は縦に長くのびている。まるで猫。そうだ猫だ。給仕は壺を差し出したまま、にい、と口を引き裂いて笑った。その口からとがった歯が覗いて見えた時、おれはたまらず悲鳴をあげた。すると、うしろからいきなり、

*

男の声がした。
「もうだめです。四十五分たちましたから」

文字数:1640

内容に関するアピール

人間は錯覚をしやすいので、これを利用してVRの世界では一秒間に一度振動する人肌くらいの物体を動物と錯覚させたり、熱いものと冷たいものを組み合わせて凸凹の表現をするなどの研究が行われています。これと同じことが体感時間にも応用できるんじゃないかなということを前から考えていました(もっとも人間の時間の感覚は相対的なので、対照実験はかなり難しいのではないかと思いますが)。握り寿司が刺し身と寿司に認識される境目はどこにあるのか前から気になっていたのですが、体感時間の錯覚によって距離をつくればなんかできるんじゃないかと思って梗概を書きました。実作では料理について詳しく書くつもりです。ちなみに四十五分は銀河鉄道の夜からです。

文字数:309

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スシュランの男

おれはスシュランの男、世のすべての寿司をたずねて歩く、ひみつの調査員だ。
 今日はパリのとあるレストラン、その名も「離れ寿司:またはいくばくの距離をもってして寿司は寿司として存在しうるのか」に来ている――はずなのだが、どうもようすがおかしい。
 おれは今、うっそうと木の生い茂る山中にいる。
 現在地の唯一の手がかりは、すこし向こうに見える瀟洒な洋館(パリにいて洋館と呼ぶのもおかしなものだが、しかしそうするほかない外見をしている)だけだろうか。家のを支える柱はローマ時代の建築物のよう、装飾は控えめで質実剛健、壁は赤レンガづくりで、しかも積み方はイギリス式、館のそばには大きなヒマラヤスギが佇立している。おれは別段建築には詳しくないので洋館と西洋の建築物の差異を具体的に指摘することはできないのだが、景色にほんのりと漂う明治大正の匂いは嗅ぎとった。しかも館を取り囲むように生える木々は照葉樹林のシイやクスノキときている。この森はアジアの森、もっといえば日本の森だ。パリではない。
 パリへ寿司の調査にきたおれが、なぜ日本の山中で洋館を目指して歩いているのか?
 どうしてここにいるのかはあきらかだ。しかしなぜここなのかはあきらかではない。
 まぁここはとりあえず、黙っておれの話を聞いてほしい。「離れ寿司:またはいくばくの距離をもってして寿司は寿司として存在しうるのか」というけしからん、いかにもうまくなさそうなレストランをおれが訪れた理由と、そしてここにいたるまでの経緯を。

 

青葉薫る緑の公園から階段を降り、Viaduc des Artsヴィアデュック・デ・ザール通称芸術の高架橋と呼ばれるブティック街にたどり着いた時、おれはけしからんと思っていた。
 かつて打ち捨てられた廃線跡だった高架橋は、いまやギャラリーやアンティークショップで賑わっている。色鮮やかな赤レンガとアーチ型の開口部は洒落た雰囲気をまとっているが、さらに春を迎えて上の遊歩道に生い茂る木々があかるい緑を添えており、美しいのひとことだ。おれの目的地ははそんな洒落た街にある不思議な寿司レストラン、その名も「離れ寿司: またはいくばくの距離をもってして寿司は寿司として存在しうるのか」である。
 店の名前をはじめて見たときも、予約の電話をする前も、予約の電話をしてからも思っていたが、リヨン駅から店に歩いてくるまでの灰色で薄汚い街並みを眺めているうちに、ますますおれの思いは濃くなった。とにかく、店の名前が気に入らない。
 なんせ「離れ寿司:またはいくばくの距離をもってして寿司は寿司として存在しうるのか」だ。
 あまりにも長い。長すぎる。
 おれの経験では、店名の長さと飯のよさはおおよそ逆相関だ。長ったらしいほど、飯がよくない。これは中身を充実させていないせいだとおれは思っている。もし料理やコンセプトに十分な自信があるなら、わざわざ店名を長くして興味を引く必要もないだろう。しかしおれの経験に反し、この店はミシュランガイドで三ツ星を獲得したという。まったく信じられないが、それならば寿司を専門とするスシュランとしても一度くらいは訪問しておかなければなるまい。
Bonjourいらっしゃいませ
 給仕の声に俺はあわてて笑顔をとりつくろった。
 にこやかだが、やりすぎではない笑顔、親しげだが相手を尊重していることが伺われる距離、シルバーグレーの髪の毛をきれいにくしけずり、黒いベストをキメた眉間のシワが渋い老紳士が俺を歓待する。長く有名なレストランのホールを取り仕切ってきたのだろう貫禄たっぷりな紳士だ。やや年はいっているので、きつい有名レストランを早めに退職して、未来ある若いシェフに少しばかり肩をかしてやろうと思ったのかもしれない。
 おれが名前を告げると、彼は「お待ちしておりました」とにこやかに答え、おれを中二階の窓際へ案内した。直接日が射さない、明るい席だ。少し早めの十一時半とはいえ、ランチ時に窓際の席を確保できるとはありがたい。
 席について、おれはさっと店内を観察した。
 アーチ型の大きな開口部からは五月の青葉透かす光が入っている。建物の特質上、明かりが採れるのは前面部だけで、いきおい中が薄暗くなりがちなスペースだが、この店はうまく光を活用しているようだ。中央に十人は座れる大テーブル、両側の壁際にはふた席、さらに中二階に桟敷席然としたフロアが張り出しており、少人数の客はそちらに通されるようである。
 床や壁はむき出しのコンクリートで風情があるし、全面ガラス張りになっている開口部のデザインはシンプルながらアールをうまくつかっており美しい。古いガラスが虹色に光って店内に色を添えているのもなかなかだ。雰囲気を邪魔しないよう椅子や机はナチュラルな色でまとめた北欧風で統一してあるのはさらにポイントが高い。一つ残念なのは厨房とフロアを区切る壁の木材に竹を使用しているところだろうか。しかしメインの客がヨーロッパ在住者なら、多少記号化されたアジアンテイストは我慢するしかない。わざとらしい籐の椅子や、中国風の棚や壺、あるいは金屏風や着物、桜などのディスプレイはなく、そっとさりげなく松の盆栽が飾られているだけなのもすばらしい。これでカウンター席があれば完璧だったのに、と俺は思った。もっともカウンターを設けるとカフェのような雰囲気がでてしまうので、あえてつくらなかったのかもしれないが。
 ここまでは完璧だ。
 あとは食事である。
 離れ寿司のメニューはOMAKASEとTSUMAMIだけである。詳しくきけばTSUMAMIというのは客が酒を選び、それにあうつまみを客の要望を聞きつつ店が選んでくれるらしい。OMAKASEはいわゆるコースで、すべて店に任せる形式だ。酒も料理に合わせてサーブするという。
 おれは口元をととのえ、OMAKASEで、と給仕にメニューを返した。

 

スシュランが評価するのはふたつ、サービス、そして寿司である。
 その料理が美味であることはもちろん、「寿司」という名前を冠するに値するかどうかを評価する点でスシュランはミシュランとは性格を異にしている。当然サービスも「寿司レストラン」としてふさわしいものであるかどうかを吟味する。
 スシュランに対し、嘲笑的な反応は多い。ミシュラン東京版をふくめ、レストランガイドは星の数ほどある。あるいは口コミを集めるプラットフォームなんていくつもあるし、さがせばいくらでも的確な評価を読むことができる。だというのにミシュランを意識した、しかも寿司だけのガイドなんてどこに需要があるんだ。だいたいスシュランなんて名前もただのダジャレじゃないか。
 しかし、そんな声があるかぎり、おれは何度でも言おう。
 スシュランはただの寿司レストランガイドではない、寿司を定義しなおす試みなのだ、と。
 はじめの皿、アペタイザーは押し寿司のような白く四角い料理だった。
 しいたけの煮しめと豆腐をテリーヌにしたものだというのが給仕の説明だ。上に乗せられた大葉が色鮮やかで目においしく、さらに色味づけのためのピンクペッパーの粒が漠然と広がりがちな味をぴりりと引き締めている。なかなかうまいし、寿司にひっかけてきたのは面白い。
 酒は微発泡のおりがらみであった。いきなり日本酒がでてきたので虚をつかれたが、日本酒に関しても詳しいソムリエがいると思うと少々頼もしい気持ちがする。
 次の皿はトマトの吸い物。出汁もうまいが、トマトと意外にマッチしている。椀が下がったところで十五分。少々スピードははやめだ。ランチのコースなのでこのあとは握りだろう。箸休めに出てきた生姜のゼリー寄せをつるりとたべて、俺は気を引き締めた。
 いまのところ、どの料理も一流である。味は申しぶんないし、盛り付けもさすがで、星がつくのも当然といえよう。
 しかし、だ。
 この店の場合、それだけでは不十分だ。
 いまのところ、出てきた料理は和風よりの多国籍料理の域を出ていない。あの長ったらしい店名をつけるに値するものかどうかは疑問だ。もしこの店が東京にあったなら面白いとそこそこ話題にはなるだろうが、寿司屋としてはそれほど高い評価を受けないのではないだろうか。店名のせいでハードルが上がりすぎてがっかりするパターンか、一度いって面白かったと満足し、リピートがないパターンに陥るかもしれない。俺はためいきをついてスプーンを置いた。
 考えてみれば、おれがこうして寿司に夢中になったのは――
「ここからNIGHILYになります」
 俺は顔をあげると、給仕はにこりと口もとだけで笑い、青い目をひからせた。
 彼の差し出した皿に乗っているのは握り鮨、透き通った淡白な色のネタに窓から差し込む光が絡みつき、うっすらとピンクがかったネタはガラス細工のようにさえ見えた。おそらくカレイか、タイか。
「マコガレイの握りでございます」
 おお、とおれは少し感心した。いきなりトロやサーモンを出さなかったことは評価できる。海外の寿司レストランとしては最上だ。
 しかし同時に、おれはうっすらと思った。
 この店はおれの期待を超えてはくれないかもしれない、と。

 

握り二品目はカルフォルニアロールだった。
 マヨネーズを食ったとしか思えない現地の素朴な味付けではなく、スモークサーモンの香りと凝縮された旨味、そして脂のうまさが舌の上でとろける。小ぶりな椿の花が二輪、皿の上に咲いたような盛り付けもいい。シャブリの白ワインをあわせたのも完璧だ。
 しかし、そうはいってもカルフォルニアロールはカルフォルニアロールである。二品目としては少々重い。巻きものはもっと後に出てくると予想していたが、悪い方に期待を裏切られた感がある。
 おれはぐったりとして椅子に寄りかかった。
 いまでこそスシュランのおれだが、子供の頃から良い寿司ばかり食べてきたわけではない。もちろん、夕食が寿司だったら喜んだし、親父がちょっと外食して帰ろうというと(そういうときは決まって回転寿司だった)特別な日のような気がして嬉しかった。
 これはいわば刷り込みだ。親父は盆暮れ正月、冠婚葬祭、四季折々、ついにはなんにもないからと寿司を食う男であった。贅沢といえば寿司、寿司といえば贅沢だ。ふとい無骨な指で大事そうに握りをつまみあげ、ひょいと口の中に放り込む様子は子供心にもうまそうに見えたし、親父の呑んでいる黄金色のビールがとにかくうらやましくて、小さい頃は何度ものみたいと言って泣いては親父を困らせたものだ。
 そんなふうに寿司ばかり食っていても、おれの家は特に裕福ではなかった。贅沢は近くのスーパーにある程度、半額かそうでないかで質が決まる。たまの回転寿司はごちそうだ。だからこんなふうにいい寿司ばかり食っている息子をみたら、親父は腰を抜かすかもしれない。
 俺も一度くれぇ回らない寿司を食ってみてぇもんだなぁ、どんなにかうまいんだろうなぁとことあるごとにぼやいていた親父は早逝したので、東京の水没もしらないのである。もし今もまだ生きていたら、毎日釣りにいっただろうか。それでもやっぱりたまの外食は回転寿司なのだろうか。
 おれがスシュランを立ち上げたのは親父とのそんな思い出と、東京を水没したこんの出現が原因だ。そして直接的なきっかけは、東京は日本橋の小さな藤出見世ふじでみせに出会ってしまったからである。あの小さな店にであわなければ、おれもきっといまごろはスーパーに売っているつつましい贅沢と共に幸せに暮らしていたかもしれなかった。

鯤とは中国の故事にある巨大魚のことである。北の海に住み、その全長は数千里、すなわち500kmを超える。
 この怪物は長く伝説の生き物であると思われていた。ところが2019年の秋頃にとある海底調査隊が「動く海底」を発見したことによって、存在が人智の及ぶところとなった。
 「動く海底」は太平洋をほぼ横断するほどの大きさがあり、動くスピードは一日で数センチメートル程度、なまけものよりずっとのろまな生き物だ。ながらく深海でくらしていたらしいこの生き物は、ある日なにを思ったか、自分の巨体を顧みず南シナ海からインド洋に抜けようとした。それで頭が岩礁につっかえ、もがいたあげく、人の目に留まる浅い場所まで浮上してきたのである。そして浅瀬に無数の卵を産み付けて死ぬと、世界は大混乱に陥った。
 最初は腐乱した死骸が人々を困惑させた。バラバラにちぎれた体が環太平洋海岸はもちろん、海流にながされて南アメリカ大陸、インド、アフリカ、はては紅海を抜けてギリシャ沿岸のビーチを壊滅的な状況に陥れた。腐敗した肉のピークが過ぎ去ると、巨体の体積ぶんだけ海面は下降し、気象の変動が起こった。ユーラシア大陸の内陸部は砂漠化が一気に進行し、水没の危機にさらされていた南洋の島々は一命をとりとめたように思われた。しかしそれから数カ月後、死の直前に鯤が産み落とした数千万の卵が孵化するとまた状況は変わった。急スピードで成長する稚魚のせいで、今度は海面がぐんぐんと上昇を始めたのである。
 研究調査によれば鯤の稚魚は最初の一月で十メートルまで成長し、その後一年かけてシロナガスクジラを超える四十メートルほどの大きさまで成長する。そこまで成長した稚魚は全体の数%にすぎなかったが、五十メートル、百メートルと年々成長を続けて、とどまるところを知らないらしい。そんな巨大な魚が何百匹も海中に入れば、当然海面は上昇する。
 鯤の卵が孵化する前の海面は、今より十メートルも低かったそうだ。
 おれが覚えているのは東京オリンピックのころ、あの頃はまだ東京東部の海抜ゼロメートル地帯はまだ陸の上にあった。満潮になると河川敷にひたひたと水に濡れるので、あまり水際まで行かないようにと親や学校に口を酸っぱくして注意された記憶がある。
 しかし大阪万博の頃には江戸川区・江東区・中央区の東京湾岸沿いは水没しはじめ、指定水没区域を通るために水上バイクの免許を取るかどうかがおれたちの話題の中心になった。その後も海面は上昇を続け、住宅密集地かつ低層住宅の多い隅田川左岸側の水没が確定的になると、隅田川沿いの堤防建設が本格化、押し寄せてきた水をさばくため、暗渠上や江戸時代に使われていた水路跡は指定水没区域として使用し、あちこちに軽量堤防が建てられるようになった。日本橋もその頃に指定水没区域になり、進んでいた首都高地下化プロジェクトを再編、水の街日本橋再生プロジェクトとして再始動したことは記憶に新しい。
 とにかく、東京はそんなふうに海にじりじりと舐め取られ、世界屈指の水上都市へと変貌したのである。
 案外、おれたちは楽しくやっている。水は静かに押し寄せ、静かに土地を奪っていったから、あまり危機感を抱かないまま、徐々に順応していったからかもしれない。
 日本橋などは昔よりずっと賑やかになったくらいだ。
 昭和通りは主要水路である。水路脇の堤防には水上デッキが整備され、遊歩道となっている。遊歩道からは水路に降りるための階段や、ちょっと腰をおろして休むためのベンチが設置され、柳の木が等間隔に植えられている。これだけでもなかなかの雰囲気なのだが、伝統技法と最新の建築技術を融合させた木造の欄干橋がならぶ光景は圧巻だ。
 欄干橋程度なら水郷の街にはあっただろうと思うなら、堤防から水路を覗き込んでみてほしい。鯤出現後、水没化した日本の街にあらわれた新しい賑わい、藤出見世がずらりと軒を並べているのが見られるはずだ。
 藤出見世はもともと船がつくのを待つまでの間、一休みするためのカフェやコンビニができたことが始まりだそうだ。潮位が上がっても浸水しないよう、潜水艦のような構造になっており、流されないようにがっちりと堤防に固定されていて、水没時も出入りできるように上部に穴が空いている。その様子がまるでフジツボのようなので、藤出見世と呼ばれるようになったのだ。
 日本橋の藤出見世は魚料理が多い。寿司はもちろん、てんぷら、塩焼き、刺し身、丼、茶漬け――あの店も、そんな藤出見世の一つだった。
 昔を思い出している間に次の寿司がやってきた。
 白色透明の小さなキューブが積み上げられ、上には赤い球体の粒が乗っている。それに海苔のような黒い繊維状のものを巻き付けて、いくらの軍艦にみたてているらしい。分子料理だ。
 たぶんいくらの軍艦の味がするだろう、と予想して口の中に放り込むと、想像通りの味がした。いくらだけ本物なのは分子料理に対するエスプリというやつだろうか。しかしこれだけ多様な料理を出すにはどれくらいの料理人を揃えなければならないのかと少々心配になる。何でもできるオールラウンダーにしてはどの料理も高次元のところにあるし、ミシュランが星を与えるのも納得だ。しかしスシュランとしては――
 もっと――
 ことばが浮かばず、おれがもどかしい思いに顔を歪めたとき、給仕がワゴンを押しておれの席へやってきた。使い込まれた銀色のワゴンの上には黒い布張りの箱が一つあるだけだ。
「料理はお気に召されましたか?」
 très bienもちろん、とおれはあまりうまくないフランス語で答えた。とたんに給仕が今まで見せなかった満面の笑みになる。おれはほっとして、ワゴンの方へ顔をむけ説明を求めた。フランス語では複雑なことはわからないから英語にしてほしいと伝えると、彼はますます相好を崩し、もちろんですよと笑った。

 

給仕が取り出したのは小さな銀色のリングであった。
 径はビール瓶の口くらい、厚みや幅は指輪そのものだ。しかし輪の途中からつまみのようなものが二本のにょっきりと突き出し、ネジで繋がれている。給仕が何食わぬ顔でそのネジを動かすと径が大きくなったので、おれはなるほどと思った。おそらく指に装着させるのだろう。
 拷問器具じゃないだろうな、とおれは冗談半分、心配半分で思ったが、拷問という英単語を思い出せなかったので黙っていた。給仕はぺらぺらと口上をまくしたてている。
 このデバイスは指に装着するものであり、時間の経過を錯覚させるために使用する。それから彼はねじを完全に抜き取り、指輪をすこし開いておれに内側を見せてくれた。内側は動物の毛のようなものがはえている。触るとふわふわして冷たさは感じない。給仕によれば、これは毛状の針なのだそうだ。皮膚に対して電気信号を送ったり、後にのこらない薬物を極微量に皮下に注入したりするらしい。電気信号は触覚の再現、薬物は脳の働きをすこし変え、時間の流れを制御するために使用するという。いずれもほんの少量の刺激であり、体に影響はない――
 にわかにおれは不安になって、そっと給仕の顔を伺った。彼は深い眼窩の奥の瞳を指輪に落としている。
 おれは緊張が顔に出ないよう、できるだけ鷹揚な口調をとりつくろい、薬物と聞くとなんだか恐ろしい気がするな、ドラッグみたいに依存症になったりしないだろうね、と念のため確認した。
「そうおっしゃるお客様は多いですが、今のところ健康を害された方はおられませんね。お客様もご存知かもしれませんけれども――と呼ばれる治療法に使われる薬物でして、昏睡状態の患者の蘇生に使われることもある……」
 おれは眉間に力を入れた。給仕の口にした単語はききとれなかった。医療用語はよくわからない。しかし蘇生という単語はわかった。
「蘇生というと強い作用があるように思われるんだが……」
「ええ、蘇生は複合的なアプローチが必要ですし、強い薬物も使います。ですが、このデバイスで使用する薬物はそれに使ううちの一つだけで、作用としてはちょっと夢を見る程度だそうですよ。完璧に副作用がないことが証明されていますので、どうぞご心配なく」
 配慮していると言ってもね、とおれは苦々しく思った。給仕の説明は店のWebページにも記述があり、それを十分に読んで同意しなければ予約はできない。安全には十分配慮しており、従業員は全員救急医療のトレーニングを受けているので、不測の事態にも対処できるとも書いてあった。
 おれは息を吸い、吐いた。給仕もにこやかな笑顔はどこへやら、きりりとした眉毛のしっぽをおしさげている。困惑と非難のないまぜになった表情だ。この東洋人は予約前にきちんとレストランのポリシーを読まなかったのではないか、と彼は心の中でたぶんおれを責めているだろう。
 おれは右手を軽く上げ、念のためだよ、と断った。Webで何度も読んだんだが、なにをするのかイメージができなくて。時間は誰にでも一定量与えられるたぐいのものだと思っていたから、ほんとうにそんなことができるのかと疑ってしまってね。
 ああ、と息をはいて給仕はやっと表情を緩めた。
 説明の通り親指にリングをはめる。給仕がねじをひねると軽い圧迫感があったが、きつく締め付けられるような感覚ではない。内側に生えている針は優しく肌に密着し、痛みも、ちくちくとしたかゆみも、それどころか金属の冷たささえ感じなかった。
 おれは念のため時計を確認した。ここまでで三十分、時計の針は短い方も長い方もどちらもてっぺんを指している。ここからがいわゆるメインディッシュになるわけだが、すこしペースが早いのではないだろうか。店はまだ混雑していないが、この後にも予約が入っていて、おれを急かしているのだろうか?
 おれの心配をよそに給仕は下働きと思しき若い給仕にワゴンをはこばせ、かわりにグラスに酒を注いだ。瓶の中身は白ワインのようにみえるが、ラベルはついていない。とくとくと緑色の瓶の口が音を立て、すこし黄みがかった液体を吐き出している。
「ここからのお料理はできるだけすばやくご賞味くださいませ」
 おれは背をのばした。調子を取り戻した給仕は落ち着いた仕草で皿をおれの前に差し出し、縁を握ってきゅっと方向を回転させた。
「ミナミマグロのトロでございます」
 おお、とおれは思わずため息をついた。
 皿の上には一切れのトロが乗っている。ネタだけでシャリはなしだ。表面には脂が浮き上がり、サシも入っているが、身は赤みが強く透き通って美しい。ようやく面白そうなことが始まったという予感におれの胸は踊った。
「一皿目は時間が短く感じられる効果を楽しんでいただきます。時計を確認されましたら、すぐにこちらを召し上がってください」
「ゆっくり食べたほうが?」
「いえ、お客様のペースでようございますよ」
 時計を確認する。入店して三十二分。おれは念のため時計のボタンを操作して、ログを記録した。それから箸でトロをつまみ、一息で口の中に放り込む。もったりとした脂が口の中で溶け――
 その時、なにか音が聞こえたような気がしておれは窓のほうへ視線を送った。
 なんの音なのかよくわからなかった。硬質で、大きなものがぶつかりあった音だったきもするし、耳の中に埃が入ったときの音だった気もする。どこかで事故でもおきたのだろうか?
 ガラス窓のむこう、広い歩道にはカメラを首にぶらさげた観光客が歩いている。のんびりとした足取りで、ウィンドウショッピングを楽しんでいるようすだ。
 気のせいだろうか?
「SHALYでございます」
 はっとしておれは声の方へ顔を戻した。いつの間にか給仕は新しい皿をおれの前において、口元に笑顔をあしらっている。おれは操られるように、わさびをちょんと乗せたしゃりをつまんで口の中に放り込んだ。
 最初に来たのは酸味だった。鼻に抜ける米酢と大トロ特有の酸味、そしてわさびのツンとした辛味が混じり、その後にじわりと甘みがやってくる。二回ほど咀嚼したところでトロの後味は消え、米の甘みだけが残った。まったく、寿司だ。完璧な寿司である。
 なるほど、とおれは満足に思った。ずっと気に入らなかった離れ寿司の店名だが、ネタとシャリを物理的に分離する技はたしかにその名にふさわしい。しかも、うまい。
「たしかに寿司だね」
「お客様、時計をご覧ください」
 にこにこと顔をほころばせて給仕は手のひらを差し出した。その表情ははじめ店に入ったときの熟練の紳士とはほどとおかったが、しかしおれはなぜだか嬉しくなった。仕事がうまく行ったときの喜びは万国に共通する。おれまでなんとなくうまくやれたような気分になる。
 なかば高揚した気持ちのまま、おれは腕時計に目をやった。十二時十二分、店に入ってから、四十二分――
 四十二分。
 目をむいておれはもう一度針を確認した。もしかして記憶違いかと履歴も見返したが、直近のログは十分前だ。
 信じられない。
 給仕はますます顔をほころばせ、お気に召されましたか、とたずねたが、おれはなにもこたえられなかった。たぶんきっと、どうしようもないほど間抜けな顔をしていただろう。

次の皿は体感時間を長くするという。
 まずはシャリだけがでてきた。ふっくらとした米粒がきれいにならんだ銀シャリだ。時計は十二時十五分をさしている。店に入って四十五分だ。おれは夢中でシャリを口に運んだ。
 すると、またなにか音が聞こえた。今度は店の奥の方から聞こえたような気がしたが、なんの音かはやはり判別できなかった。鍋でもおとしたのか? 誰か倒れたのか? それとも店の外から聞こえた音なのか?
 ともあれ給仕に聞いてみようと顔をあげると――おれは森の中に立っていたのである。
 あまりに予想外の事態に、おれは思わず笑い出しそうになった。
 まさかレストランがかき消えるとは思わなかった。消えたのはレストランだけではない。座り心地のいい椅子もテーブルも消え失せ、おれもいつの間にか立ち上がっている。湿気の多い空気が頬を包み、肌寒さを感じる。
 こんなふうに幻覚を見るなら、やはりドラッグのたぐいなのではなかろうかとおれは思った。脳に直接働きかける薬をつかうのだから、体質によってはこういうこともあるのかもしれない。このあと、疲労がどっと押し寄せて他のレストランをキャンセルするはめにならなければよいが、とおれはすこしばかり気を揉んだ。
 ともあれ、立ち止まって気をもんでいても仕方がない。せっかくだからすこし歩き回ってみるのもよいだろう。いい腹ごなしだ。
 足を踏み出すと腐葉土につま先が沈み込んだ。厚く積もった樹の葉が地面を埋め尽くし、硬い地面を足裏に感じられない。あたりを見回すとすこし先に獣道か、登山道かという短い下草がはえるだけの道がみえたので、おれはころばないように両手をひろげ、えっちらおっちらと歩き始めた。
 枝を広げた背の低い灌木の隙間を通り抜けるとき、トゲの付いた草が服に引っかかり、かすかな音を立てた。そっと指ではがし、密集するシダと苔の岩場を飛び越えて道へ出る。ようやく息をつく余裕ができて、おれはあたりを見回した。
 すこし先は開けているようだ。右手側が斜面になっていて杉林が植樹されているらしい。杉林があるということは人里が近いのだろう。
 おれの立つあたりは両側ともブナが背比べをするように青い新芽を空に向かって伸ばしていて、空が見えない。斜面に顔を出す巨岩の際にはシダが生い茂り、その根っこあたりからちろちろと水が湧き出している。湧き出した水が岩肌を伝って落ち、おれの足元まで忍び寄っていた。
 どこかで見た風景だな、とおれは思った。登山をしないたちだが、スシュランの仕事をしていると体に肉がついてしまうので、健康のために友人とハイキング程度に山を登ることはある。行き先はだいたい関東近辺なのだが、その時見た風景に似ているような、似ていないような、ともかく今いるレストランに近いヴァンセンヌの森のような雰囲気ではない。寒冷地帯にある平地の森と、亜熱帯および温帯地域にある山岳地帯の森の違いはおれのような素人でもわかる。
 それにしても――
 ぐるりとその場で一回転して、おれは思った。
 なぜここなのか。
 あの給仕や店のシェフがここまで日本に詳しいだろうか? 寿司のことは知っているかもしれないが、海と全く逆方向にある山のことまで知りうるだろうか?
 たぶん、とおれは顎に手をあててさらに考えた。たぶん、これはおれの心象風景だ。脳に刺激を与える薬物をつかっているから、記憶の引き出しから忘れてしまった景色が引っ張り出されたのかもしれない。夢を見るのに近いと思えばありうる話だ。
 なるほど、とそこまで考えておれは納得した。夢の中なら時間を長く感じさせることも短く感じさせることも難しくない。難しい説明をしていたが、なんということはない、ちょっと眠っているだけというわけだ。
「困ったな」
 風の音がするだけの世界にうっそりとした恐怖をおぼえ、おれはわざと言葉を口に出した。
 こたえる声はない。
 前へ進むか、後ろへ行くか――
 杉林の方へ行ってみようとおれは思った。杉林のほうがまだ人間の息吹が感じられる。夢の中で遭難することはないだろうが、おれの原初にある自然に対する畏怖がそんな選択をさせたのかもしれない。
 ともかくおれは歩き始めた。夢の中のように突然場面が切り替わるわけではなく、歩いたぶんだけ体は前にすすみ、しだいに濃緑の杉林が近づいてくる。下生えの草はきれいに取り払われ、枝打ちが施された管理された森だ。赤い杉の落ち葉が地面に厚く降り積もっており、木々の隙間から漏れる太陽の光がその上に縦縞をつくっている。
 最近ではこういった杉林も少なくなった。海面上昇が著しくすぐに河が氾濫するので、上流の水資源のコントロールがシビアになっているせいだ。保水力があまり高くない杉林は全国でも減少傾向にあり、かわりにシイやブナなどの植樹が進んでいるとどこかで読んだ記憶がある。
 舗装されていない道を一歩一歩、転ばないように慎重に足をすすめる。ぬかるんだ場所は飛び越え、子供のあたまほどの大きさのある岩を迂回し、くぼみに足を取られないように気をつけているといつの間にか額に汗が滲んでいる。まったく、寿司をたべにきたはずがこんなことになるとは思わなかった。
 右手に杉林を眺めながらさらに歩いていくと、景色がぱっと開けた。
 山の尾根が青く太い動脈となって大地を掴んでいる。尾根の落ちる先は谷だ。枝分かれし、地面に落ちてる尾根の先に目を凝らすと白い河原と、その中をのたうち回る青い小川が見える。河原には根で岩を抱き込んだまま流されてきた大木が横倒しになり、青い葉を茂らせている。おそらく上流に大きなダムがあるのだろう。
 となれば、ここは比較的人里にちかいはずだ。どこかに痕跡がないか――
 あった。
 木陰に階段がある。パイプと廃材で作られた、手作りとおぼしき階段だ。
 ふと既視感を感じておれはまばたきをした。
 あの階段をおれは以前に見たことがある。忘れもしない、おれが寿司に傾倒するきっかけとなったあの店の階段が、あんな階段ではなかったか? 今はもうない、鯤の鱗を出す藤出見世の――

 

堤防から店の中を覗き込んだとき、おれは後悔した。階段はぼろく、足を乗せると下まで真っ逆さまに落ちてしまいそうな気がした。しかしおれを呼び出した友人は意気軒昂の足取りでもう階段を降りている。
 きしむ階段におそるおそる足をのせると、階下の店内が見える。
 うなぎの寝床のように狭い店だった。黄みの強い木のカウンターはラッカーで塗装された安っぽい雰囲気で、窓はなく、水上デッキを人が歩くたびにごうん、ごうんと不気味なほど反響がある。荷物を持っているとカウンターの奥まで歩いていくのも難儀する。
「あ、いらっしゃい」
 首をはねあげておれたちの方へ顔を向けた大将は、脂ぎった額をひからせて気さくに言った。顔はまんまるだが、体は痩せぎすのアンバランスな男だ。でもシワの寄った目尻はひとが良さそうに見える。
「あ、あの」友人は席につくのももどかしいというようすで身を乗り出した。「ここにアレがあるって聞いたんですけど……」
「ああ、アレかい? お客さん、運がいいねぇ、ちょうど入ってきたとこですよ。それで、どうしましょうね」
「おすすめあります?」
 おすすめねぇ、と大将は真っ白な調理服の胸元をちょっとひっぱって小首をかしげた。
「うちのは新鮮なんでねぇ、刺し身でもいけるよ。あとは、そうだなぁ、酒蒸しだと旨味がぎゅっと凝縮するから、はじめての方にはおすすめかね」
 じゃぁそれで、とおれを振り返ることもなく友人が言ったので、おれはさすがに肘でつついた。大将は笑みをこぼし、二人いるんだから、少しずついろいろ食べてってくださいやと言った。おれは礼を言い、差し出されたおしぼりを受け取った。
 アレとは鯤の稚魚である。それも鱗だ。珍味であると評判になっているのだが、稚魚とはいえ百メートル近くまで成長した鯤を捕獲するのはとても簡単なことではない。いきのいい鱗がほしければ鯤が海面に浮上してくるのを待ち、鱗をモリで突いて剥がす。もっともそんな漁は危険極まりないから、流通しているほとんどの鯤の鱗は死骸から採取したものだという噂があった。おれも居酒屋で食ったことがあるが、糸のように細く千切りにされているうえに水っぽく、タレの味がしただけだった。
 ところが生きている鯤から剥いだ鱗はまったく違うという。人によって感想は異なるが、とにかく一言で言い表せない複雑な味がするのだそうだ。しゃきしゃきとした歯ごたえがあるのに、すっと口の中から消えるという食感もいいらしい。どうしてもたべてみたいんだ、でもひとりで藤出見世に行くのはなぁ、誰か来てくんないかなぁと友人がうるさくいうので、おれは恩着せがましくついてきてやったというわけである。
 熱いおしぼりを手におれはまた後悔した。そのころのおれは、まだあまり食にこだわりがなかった。なんとなくうまいとかまずいということはわかるが、言葉たくみに語ることはできない。それがなぜなのか、あの頃のおれはよくわかっていなかった。ただ舌が馬鹿だと思っていたのだ。それで「人に教えたくない店」とか「名店」というものに引け目を感じていた。
 最初の一品は〆鱗だった。ほどよく酸味があり、圧縮した雪を食べているような食感が癖になる。おれたちの顔がおかしかったのか、大将は福顔をほころばせ、寿司にもできるけど食べ比べるかい? 特別に一貫ずつだしてやるよ。いつもはあんまり量もないから軍艦で出すんだけど、今日は特別に握りもできるよ。
 特別といわれれば拒むすべはない。おれたちは両手を腿の上におき、プレゼントを待つ子供のように皿が出されるのを待った。
「おれは若い頃、寿司屋で修行をしてたんでね、ホントは寿司が一番得意なんだ」と大将はおれたちに話をはじめた。存外喋り好きらしい。
「寿司は奥が深いからねぇ……おもしろかったんだけど、途中で海外によばれてさ。ちょっと腕試ししてみないかなんてね、おれも若かったらさ、やってやるなんて思って言葉もわかんねぇのに行っちまったんだよ。海外にゃ変な寿司もいっぱいあるだろ、全部駆逐してやる! なんてね。はじめのうちはそれでさ、敵視もしてたんだけど、やっぱりうまいかもななんて思うようになって――まぁ、なんでも食べようと思えば食べられるもんさ。新しいネタってのはなかなか難しいけどね。鯤の鱗なんてのは特にそうだね。捌き方によっちゃ固くて食べにくいし、煮付けたら食感が悪くなる。漬けにするにしても、配分が悪けりゃ味が染み込まないしな。それでいま、有志で研究会を作ってね、いろいろと試してるんだよ」
「みなさんで鱗の調理法を披露し合うんですか?」
「そうそう。最初のうちはレシピの披露だったんだけど、最近じゃ旨さの定義を決めようなんていって、おもしれぇだろ。なにをもってうまいとするかか、だよ。ものさしがなくちゃ発展させようもないからね」
「じゃぁ、おれたちは実験台なんですね」
 息をはいて大将はわらった。そんなふうに話している間も手元にずっと視線をおとして料理をしている。カウンターがすこし高いのでなにをしているのかは見えないが、キビキビと動く腕におれは安心感を抱いた。
「だな。この店も実験みたいなもんだ。お客がうまいっていった料理を品評会にもってって、どこがうまいのかってやりあうんだ。これは酸味じゃないかとか、いや甘みが強すぎるだけだとか、大学のセンセイなんか成分分析までしてきやがる。機械を使うなんてずりぃよな」
 おどけた口調で大将が顔をしかめたので、おれたちは笑った。
 おかげで色々捗るんだけどね、と急に真顔に戻って大将は首を横に振った。しかしすぐにまた笑顔に戻り、お待ち、と小皿にのった寿司をおれたちの前に差し出す。
 青みがかった透明の鱗は、うすく削いだイカの身のようだ。鱗といえば平たいビーズのようなものを想像するが、鯤の鱗は一枚の直径が一メートルを超える。厚みは少なくとも五センチメートル以上あり、角質を削り取れば内部のゼリー状の組織を取り出すことができるのだ。
「これは一番外側んとこでね、歯ごたえがあって甘みが強いんだ。ただちょっと脂も強いから、かぼすをふって中和してるんだよ。まずは醤油をつけずに食ってみな」
 はい、とおれたちは同時にうなずいて、慎重に握りをつまんだ。友人はさっと口の中に放り込んでしまったが、おれは念のため匂いをかいだ。
 生臭さはなく、なにかを焦がしたようなパリッとした匂いがする。おそるおそる口にはこび、一口噛むとりんごのような華やかな酸味と海鮮物特有の潮くささが鼻に抜けた。あとからやってきた甘みはくどさがなく、カンパチに似たコリコリとした食感がいい。他にももっといろいろな味がした気がするが、おれの頭の中に残ったのはそれだけだった。
「どうだね」にたにたと笑いながら大将はおれたちの顔を交互に見た。
 うまいです、とおれは半分放心しながらほとんど条件反射で彼にこたえた。しかし喉の奥に残る鯤の鱗の甘みが邪魔をして、それ以上の言葉は出てこなかった。
「……知らない味がたくさんして、うまいっていうしかないというか」
「正直でいいや」
 からからと顎をそらして大将はわらった。うれしそうである。
「いろんなもの食ってりゃそのうち言葉にできるようになるさ。なにごとも経験だね」
「でも、おれ、舌があんまりよくないし、グルメでもないんで」
 おれもグルメじゃないなぁ、とビールを片手に友人もぼやいた。ふたつ並べたら味の違いはわかるけど、どっちがうまいとかよくわかんないな。複雑っぽいやつのほうがうまい気がする。
「そんだけわかりゃ大したもんさ。筋が良いよ。あれこれ食べてちゃんとことばにする訓練すりゃ、もっと色んな味がわかるようになる。今気づいていない味だって、そのうちわかるようになるよ。なんせ鯤の鱗っていうのは他の食材に比べて味の引き出しが多いからね、よっぽどじゃなきゃ味わい尽くせないよ」
「もっといろんな味がするってことですか?」
「たぶんね。お客が言ってたんだけど――」刺し身の盛り合わせをカウンターの上において、大将はようやく手を休めた。「鯤の鱗は今まで食った美味いものの全部の味がするんだってさ。ただの刺し身だと思ってたら、テキーラと鹿肉のタルタルの味がちょっとかすめてったから腰が抜けたなんていうお客もいたよ。ま、料理に限らずなんだって経験をつまなきゃわからねぇ。だろ? あんたたち、まだ若いんだしさ、これからきっといろんなもん食うんだろうから、そしたらもっぺんうちに来ておくんなよ。きっともっとうまく感じられるようになってるはずさ。で、そんときゃどんな味がするか教えてくれよな」

それから何年かしてもう一度あの店を訪ねると、店のあった場所にはぽっかりと隙間が空いていた。堤防には張り紙があり、「修行のため、閉店しました」と書いてあった。
 おれは悔しかった。あんな大見得をきってもう一度来いといったくせに、店のほうが先に消えるとはひどいではないか。その怒りに突き動かされるようにおれはスシュランにとびこみ、ありとあらゆる寿司を言語化しようと目論むようになったのだった。
 いつか、あの大将が握った寿司に出会うかもしれない。その時は、かならずあのときの悔しさをぶつけてやる、そしてまた鯤の鱗を握ってもらうのだと心に決めたのである。
 不安な気持ちを覚えながら階段をおり、クローバーのはえる原っぱにおりたっておれはほっとした。まだ夢はおわらないが、一体どれくらいの時間がたったのだろうと思う。時間を長く感じさせるとは聞いていたが、もはやカンパチの味は舌の上にない。さすがにこればかりは失敗なのではないか。
 原っぱから続くカーブする道の先へ視線をおくると、しだれて絡み合うヤブの向こうに家らしきものがあった。
 そう、なぞの洋館である。
 長くなったがここまでがことの顛末だ。ここまできたらもう、洋館の中にはいるしかないとおれは腹をくくった。足早に下生えの草を踏み、消えかけた道をたどっていくと広場に出る。短い芝生がはえた、よく手入れされた広場だ。玄関の扉の前には三段ほどの短い階段があり、階段の手前には立て看板が立っていた。おれは近づき、迷いを吹っ切るためにあえてそれを口に出して読んだ。
「離れ寿司 山猫軒」
 この名前なら悪くない。そして、目を覚ます時が来た予感がする。おそらく中に入って席につけば、あの給仕がおれになにかをサーブしてくれるのではないか。すこし希望が見えてきた。
 今度はどんなふうに期待を裏切ってくるのかな、とおれは扉を前に思った。古い木の扉はふれるとあたたかく、重厚な引き手がついている。両方掴んでみたが、片側はがちゃんと音がして動かなかったので、おれは右側の引き手を両手で引いた。
 扉をあけると白い瀬戸のレンガで組まれた立派な玄関がおれを待っていた。奥にはガラスの開き戸がたっている。いささかレトロな玄関だ。靴をぬぐところはなさそうだったので、おれは躊躇せずガラス戸を開けた。
 戸の向こうにあったのは石造りの真っ直ぐな廊下であった。床は大理石のタイルで、左側は壁、右側はガラス壁だ。奥にやすっぽい水色の戸がみえる。なんだかゲームの中のようだとおもいながら、おれは廊下をずんずんと歩いていった。
 太陽がさんさんと照っているので、汗ばむほどにあたたかい。ガラス壁の向こうにはよく手入れされたイギリス式庭園があり、おれはすこし感心した。おれの想像力も捨てたものではないのかもしれない。
 水色の扉のノブは銀色がすこし残るばかりで錆びついており、握ると赤いくずがぼろぼろと落ちる。すこし迷ったがおれは思い切って扉を引いた。とたんにどう、と向かい風がおしよせ、おれは反射的に腕で顔をかばった。ガタガタとガラス壁を揺らす音が響いた。
 風がすっかりおさまってから、おれはおそるおそる部屋の中を覗いた。
 四畳半ばかりの小さな部屋だ。床には四角い白いタイルが敷き詰められている。吹き寄せてきた風と同じひんやりとした空気――
 どくん、と心臓が大きく動いて、おれはとっさに胸をおさえた。
 人影がある。
 しかしおれはすぐにため息をついた。人影は鏡に映る自分の姿だった。扉の向かいの壁に大きな丸い鏡がかかっていて、そいつがおれを見つめていたのだ。鏡の横には長い柄のついたブラシがかかっていて、ぶらぶらと揺れている。鏡の横には張り紙があり、

ここでみなりを整えてください。

とある。おれは照れ笑いをしながら髪の毛をちょいちょいとなでつけ、靴の裏を確認した。山道を歩いてきたせいか、確かに泥がこびりついている。
 が、まあいいだろう。
 扉は鏡に向かって左だ。おれは迷わず突き進んだ。文字が書いてあった気はするのだが読まなかった。
 扉を開けると、先ほどと同じくらいの広さの部屋がある。装飾などは特になく、真ん中にどっしりとした黒檀の机があるきりだ。机の上にはやはり書き置きがあって、

靴の裏は確かめましたか? 泥はここで全部落としてしまいましょう。

どきん、としておれは足元を見た。まあいいだろうと思ったのに、それを見透かされていたようだ。おれの良心が咎めたのかもしれない。やはり靴の泥は落としておいたほうが良かった、と。
 おれは靴をぬぎ、靴裏を打ち合わせてどろや枯れ葉のかけらを落とした。これでいいだろうと靴を履き直し、もう一度台を見るといつの間にか書き置きの文字が書き換わっている。

靴の隙間に泥がのこっていませんか?

ぞっと背中に寒気が走った。書き置きの上にはさきほどまではなかった小枝がのせられ、これを使えと暗に示しているようだ。おれはすこし考え、きっと次の扉を抜けても同じことを言われるに違いないな、と棒を手にとった。靴の溝にはまり込んでいた泥を落とし、もう一度靴底を打ち合わせて靴を履く。そしてすこし足早に台の向こうに見える扉に突進した。
 今までとは違い黒い、鉄の扉だ。押してもびくともしないので、引っ張ってみると、ギギ、と錆びついた音がして扉がすこしばかり動いた。僅かな隙間から温かい風が漏れてきたので、すこしほっとする。腹に力を入れ、一息に扉を引き開ける。
 すると三畳もない狭い部屋があった。壁際にはストーブが赤く燃え、逆側の壁には木製のハンガーがいくつかかかっている。ハンガーの下には猫脚の華奢なビューロデスクがぽつんとあり、その上に紙と鍵がおいてあった。

ここにメガネ、財布、その他貴金属、ことに尖ったものは全部おいてください。貴金属は引き出しにいれ、鍵をかけてください。盗難・紛失について当店は一切責任を負いません。

なるほど、夢の中でなくしちゃ責任の負いようもないな、と俺は笑った。先ほど感じた気味の悪さの反動か、声はいやに甲高くなった。まったく自分の夢に恐怖を感じるなどほんとうにどうかしている。もっと鷹揚にかまえていちいち細かいことに動じないようにしなければならない。
 とにかく早くテーブルに辿り着こうとおれは思った。そのためには素直にこの文字に従うほうがよさそうだ。しかし財布は鞄の中だから椅子の下、ジャケットは店に入ったときにあずけたし、おれはメガネをかけていない。金属類といえば――ベルト、スマートフォン、時計くらいだろうか。
 そうだ、時計だ。
 どれくらい経ったのかみなければ、とおれは思った。その時、おれの目の前で書き置きの文言がぼんやりとにじみ、変化した。

時計はそのままでけっこうです。

けっこうもかっこうもあるかと反射的におれは思ったが、よくよく考えてみれば、食べ終わったあとに時間を確認したほうが驚きは大きいはずだ。短慮はおれの悪い癖である。たしかに時計はそのままでけっこうかもしれない。
 おれが納得すると同時にまた文字が四散し、文言が変わる。

引き出しの中にクリームがあります。よく手や顔に塗ってください。

さすがにおれは顔をしかめた。おれはあぶら性なので冬でもひび割れや乾燥とは無縁だ。それに料理を食べる前に匂いのついたクリームを手につけるのはどうにも気が進まない。たとえ匂いがなくても手がベタつくのはいやだ。
 無視をしておれがきびすを返すと、ちょうど目の前の壁にパチン、と音をたてて文字が投影された。

クリームは無香料です。また、よくぬりこめばさらっとしたテクスチャにかわります。

そんなこといったってクリームはクリームじゃないか。だまされないぞ、とおれは憤慨した。だいたい寿司は素手でネタをつまむのだ。きれいに手を洗えと言うならともかく、手にクリームを塗れなんて、まったくおかしな話ではないか?
 こればかりは受け入れられない。おれは無視して扉を押し開け、隣の部屋へ抜けた。
 入ってすぐに目に入ったのはガラス戸だった。ガラス戸は外で不気味な音を立ててふいた疾風風に身震いするようにガタガタと音を立てたが、すぐにまたしんとしずかになってしまった。部屋の中にしゅんしゅんとお湯のわく音が満ちている。おれが右側をみやると、前の部屋にあったものと同型のストーブがあり、その上でやかんが白い湯気を吹いていた。
 それにしても寒い。部屋には小窓があり、青白い光が差し込んでいるが、その光も頼りなく今にも消えてしまいそうだ。ガラス越しに見上げる空には黒い雲がたちこめ、通り雨がやってきそうな空色に変わっている。おれは反射的に二の腕をさすり、背中を丸めてストーブに身をよせた。
 ストーブのすぐ脇には流し台があり、銀色の蛇口が冷たくひかっている。蛇口が取り付けられた壁の上には張り紙があり、

外から戻ったら手洗いうがいをすること!

「外」と「手洗い」は赤文字の、やけに古びた張り紙である。ずいぶん高圧的だが、クリームを濡れという注文よりはマシだ。それに山道をあるいたり、錆びついたドアノブを握ったりしたことだし、手は洗いたい。
 黄ばんだ張り紙は端が乾いて丸まっている。丸まっているところを指でのばすと、ほとんど見えないほど薄い字が端の方に書き込んであり、

ご不便・ご迷惑おかけしております。せっけんのかわりに塩を使って清めてください。

とあった。たしかに蛇口の右斜め下に塩が三角に盛り付けられている。まるで盛り塩だ。おれはまたもやぞっとしたが、塩で清めるという文言にはいささかの疑問も抱かなかった。ありがたくひとつまみ手に取り、手のひらと手の甲にすりつける。

肘までよくすり込んできれいに洗ってください。
余った塩はどうぞ洗顔にご利用ください。

洗顔っていったってタオルがなくちゃなぁ、とおれはぼやいた。それともここで顔をあらえば冷たさで目が冷め、あのレストランに戻るのだろうか? 一応ポケットにハンカチが入っているので顔は拭けるが、洗顔するには役不足と言わざるを得ない――

タオルは洗面台の下にかかっています。

それならそうと早く言ってくれとおれは思わず文句をいった。たしかにタオルは洗面台の下にとりつけられた細いタオル掛けのパイプに引っかかって、寂しそうに揺れていた。きづかなかったおれも悪いが、こんなところにかかっていたら雑巾だと勘違いしてしまう。
 おれは冷たい水で塩を洗い流し、それから洗面台に水をはり、ストーブの上でしゅんしゅんと音をたてる湯をすこしさした。ぬるま湯で顔をあらうと実にさっぱりとした気分になる。
 しかしそろそろここから抜け出したいな、とおれが思った時、それに呼応するようにぱらりと黄ばんだ紙が風にめくれ上がった。壁には金色の文字が彫り込まれており、

料理はもうすぐできます。
十五分とお待たせはしません。
すぐたべられます。

にわかにおれは奇妙な気分になった。
 どこかでこんな文面を読んだことがあるような気がする。そう考えるとゲームだと思っていた様々な注文も既視感を持って迫ってくるから不思議なものだ。たしかそんな童話があった、とおれは黙って文字をみつめたまま思った。まるで――そうだ、まるで注文の多い料理店だ。内容はよく覚えていないが、確か客のつもりでレストランに入ったら捕食される側だったという話だったような――
 とりとめもなく思いを巡らせながら、おれは張り紙をそっと壁から剥がし、金色の文字に触れた。触れると冷たく、しかも縁はさびて赤く変色した地金が覗いている。おれは爪をたて、文字の端の方をひっかいた。カリ、カリと乾いた音がやかんの吹き出す音と融合して、虚空に消える。
「お客様。どうかなさいましたか?」
 おれの意思とは無関係に、ひゅっと喉が音をたてて息を吸った。
 まぶたの影が目の前を横切ってもう一度光がおれのもとに戻ってきたとき、底冷えのする寒さは煙のように失せ、かわりにやってきたのはざわざわとした喧騒だった。聞こえる音は英語でも日本語でもない。よく聞かなければわからないから、多分フランス語だろう。古ぼけた洋館にこんなに外国人が――
 違う、とおれは黙ったまま頭の中身を否定した。
 ここはパリだ。パリの「離れ寿司:またはいくばくの距離をもってして寿司は寿司として存在しうるのか」の店内だ。
 おれを見下ろす給仕、北欧インテリア、大きな開口部から燦々と降る太陽の光、古いコンクリートづくりの建物特有の冷気、薄暗さ――ここは芸術の高架橋だ。春に華やぐパリであり、不気味な洋館ではない。
「ああ、いや――……」
「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした」
 突然視界がクリアになった錯覚をして、おれは給仕の顔を仰いだ。
 彼の口から出てきたのは英語ではなかった。もちろんフランス語でもなく、違和感なくおれの耳になじんで意味を伝えることば、すなわち日本語だったのだ。
 給仕の顔には影がさしている。おもては明るい春の光にあふれているはずなのに、彼の目の中にはその光は届かないように思われた。そのくせ空よりすこし濃い青い目をピカピカ光らせ、にっと口元を歪めている。瞳孔は縦に長く伸び、顔中に短い錆色の毛がはえていた。
 まるで猫。そうだ、猫だ。
「最後によくクリームを塗り込んでください」
 大きな瀬戸ものの壺を差し出し、給仕はにい、とさらに口を歪めた。唇の端から尖った歯が見えたとき、おれはたまらず悲鳴をあげた。

 

おれは目を開いた。開くと同時に喉が広がり、鼻が息を吸い込む。膨らんだ肺にぎしぎしと体が悲鳴をあげたが、おれは構わず力いっぱい息をすった。
 おれの口をこじあけるなにかがある。歯の隙間からどろりとした液体が染み込み、おれの喉の奥を蹂躙しようとする。
 泥臭い。
 やめてくれと言いたいが、口を開くと液体をのみこんでしまう。歯の隙間から流れ込んでくる苦味が強く、少し舌先がふれただけでびりびりと強い刺激が頭の中を揺らす。おれはうっかり悲鳴をあげた。異臭がする。粘度の高い液体が押し寄せている。舌の上を味が駆けぬける。もったりとした生臭さ、あるいは苦味、えぐみ、この世のすべての苦しみが一瞬にしておれの口の中に凝縮し、爆発し、次の瞬間にはまったく消え失せてしまった。おれがまばたきをするよりも早い変化だった。苦しみが消えたあと、喉を塩のほんのりとした甘みが通り過ぎ、そして――
 味の洪水であった。
 口の中にありとあらゆる味が流れ込んでくる。つぶさに目をこらそうとするのになにひとつとして捕らえることができない。手を伸ばせばしっぽがすり抜け、これだと飛びかかってもすぐに振り落とされる。足に力が入り、ぶるぶると二の腕の筋肉が震えた。
 だめだ。耐えられない――!
 目の奥で光がスパークし、おれは弱く息を吐いた。手のひらがいつの間にか顔にふれている。額は汗ばみ、顔がくしゃくしゃとゆがむのを止められなかった。唇の先から嗚咽が漏れ、指を震わせている。姿勢をまっすぐに保っておくことができない。刺激。刺激。どこもかしこも刺激しかない。おれの体のすべての神経が暴露され、そこに強力な電気信号を流されているような錯覚をする。
 奔流は十秒も続かなかっただろう。もしそれ以上続いていたら、おれの精神が安定を欠いていたはずだ。最後に残ったのはさわやかな青りんごの香りと、酢飯のあまみと酸味だった。それがおれの舌をクリアにし、喉の奥に消えた。
 なにもわからなかった。
 おれはたくさんの味を定義し、頭の中に蓄えたはずだった。しかしそのどの情報も、この暴力的な味の奔流の前には意味がなかった。
 なにも、わからなかった。
「水を――……」
 これは鯤だ。
 鯤の鱗の味だ。
 おれは確信していた。いつのまに、どうやって口にしていたのかわからないが、最後に消えた香りと味はまちがいない、おれがかつて日本橋の藤出見世で口にしたあの鯤の鱗と寸分も違わない味が最後におれを正気に戻してくれた。
 いったいいままでなにをしていたのだと顔を覆ったままおれは思った。はじめて鯤の鱗を食べたときはいままで一番うまいと思った。知らない味だが、うまい。ごく単純におれはそんな感想をいだいたはずだった。
 もっといろんな味を覚えれば、鯤を味わい尽くすことができる。きっともっとうまいと感じるようになる。そう聞いたから、おれは西に旨い店があると聞けば顔を出し、東に珍しいものをだす店があるといえば駆けつけ、そうして自分の体の中にデータを蓄積したのに。
 なのに。
 なにもわからなかった。
 スシュランなんてはじめなければよかったと、おれはうなだれた。
 たしかに味は一つ一つ輪郭を持っておれに迫ってきた。でもおれはそれに対応できなかった。鯤を味わう器になかったのだ。そんな残酷な事実をこんなふうに目の前に突きつけられることになるなら、なにも知らないほうがよかった。ただ珍しいものによろこび、よくわからないけどうまい、うまいと喜んでいたほうが良かった。親父が半額のパック寿司で喜んでいたように、回転寿司にいくと一週間は上機嫌でいたように、それがおれの身の丈にあっていたのだ。
「お客様」
 その声はかっちりとした輪郭をもっておれの耳に飛び込んできた。おれにも理解できる言語だった。
「お加減はいかがですか。すぐにシェフが参ります」
 ゆっくりと息を吸う。口の中にはどんな味もない。完全にクリアだ。おれは目を開き、震える手でワイングラスを手にとった。すこし気分が落ち着いて、泣き出したい気持ちは消えている。ワインでも水でも構わないが、喉を潤せばすこし落ち着くだろう。
「大丈夫。すこし刺激が、強く――」
 腰をかがめて給仕はおれの手首に指を押し当てた。深い眼窩の奥に潜む瞳は人間の目をしている。顔に黒い短い毛も生えていない。彼の指は乾いている。おれの指先に視線を落とし、無表情で脈を数えている。彼の左手の時計で秒針がゆっくりと時を刻んでいる。
 おれは目をみはった。
 十二時十五分。
 四十五分だ。レストランに入ってからたった四十五分、シャリを口にほうりこむ直前から針がほとんど動いていない。あんなに長くさまよっていた気がするのに、たった数秒しかたっていないというのか。
 そんなバカな。
「お客さん、すいませんねぇ」
 流暢な日本語がおれの胸元までやってきて頭を下げた。おれの脈をとっていた給仕が目玉だけを動かしてすこし顔をしかめたが、声の主はそれに気づいていないらしかった。
 おれはそろそろと視線をうごかして声の主をみやった。
 外から入ってくる光を浴びたシェフは真っ白なシェフコートを身につけている。顔はまんまるで、体は痩せぎす、アンバランスな男だ。目尻によったシワのおかげで柔和な目元をしているから、人が良さそうに見える。刈り上げた短い髪の毛は白髪が混じり、時間がいかばかりか経ったことを示していた。おれは目を開き、そっと息を吐いた。
「いや申し訳ない、こんなに効いちまうとは思わなくて。気分はどうですかね」
「あなた――」
 おれの声は震えている。いや、声だけではない。体全体が震えている。
 しかしそれでもおれは言葉を続けずにはいられなかった。あなたは、日本橋にあった藤出見世の大将じゃ――
 男は少し目を大きくしておれを見返した。

 

おしまい

 

 

【補記】
この後出た皿は順に「マッシュポテト 鴨のコンフィ乗せ」、「穴子巻き」、デセールは「いちご大福」であった。どれもうまかった。デザートの前にお詫びとしてなんでも握ってくれるというので、鯤の鱗をリクエストしてみた。なんだかよくわからないままだったが、やはり、とてもうまかったことはここに記しておきたい。

文字数:24011

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