永遠の現在

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梗 概

永遠の現在

五分間。それは、死刑台までの時間だった。

刑務官の小山内潤おさないじゅんは、死刑囚の永井晴行ながいはるゆきを独房から死刑台まで連行する。落ち着いた様子の永井は、歩いている間、自分の話を聞いてほしいと言う。

小山内は、永井を嫌悪していた。凶悪犯であることもそうだが、永井が自分の実子を虐待していたことが許せなかった。実は、小山内夫妻の十歳の一人娘は、養女であり、幼少期に実の親から虐待を受けていた。普段は明るい娘だったが、ふとした時に、ひどい怯えを見せることがあった。虐待による心の傷の重さを知っているため、小山内は永井を憎んでいた。

しかし、五分後には処刑される死刑囚の最後の願いなので、小山内は話を聞いてやる。

小山内も知っていることだったが、永井は、完全記憶の持ち主だった。生まれつきの脳の障害により、忘れることができないのだ。どんな些細なことも完璧に憶えている。裁判の際、その障害による精神への影響も審議されたが、責任能力には影響がないと判断されていた。

永井は、完全記憶について、まだ誰にも信じてもらえていないことがあると言う。自分は、ほかの完全記憶者とは違う。ただ忘れることができないだけではない。いくつもの記憶を同時に再生でき、その記憶は、実際に体験しているものと区別がつかない。長年、ほかの人々の話を聞いているうちにわかったことは、自分にとっての過去は、ほかの人たちにとっての過去とは違うということ。過去は、すでに過ぎ去ってしまったものではない。現在とまったく同じ質感を伴った世界だ。自分にとって生きることとは、時間を過ごすことではなく、どんどん質量を増していく世界を眺めることだ。

戸惑う小山内に、永井は、これだけわかってくれればいい、と言う。未来という概念の理解が、自分はほかの人々とは異なっているようだ。自分にとっての未来は、まだ自分の領域に入っていない未知の世界でしかない。ほかの人々にとっての未来は、もっと大切なものらしい。ほかの人々は、未来のために、努力したり、耐え忍んだりする。過去が等しく現在である自分は、その感覚を理解はできるが、実感はできない。

小山内は、なぜそんな話を自分にしようと思ったのかと尋ねる。永井は、この前読ませてもらった新聞に、記憶クラウドの記事が載っていたと話す。一部の富裕層の間で、子供を記憶クラウドに接続し、完全記憶を持たせることが流行しているらしい。もし、それがこれからの世界の常識になるとしたら、完全記憶を持たない古い人間は用心したほうがいい、と永井は言い残し、処刑された。

小山内は、永井が、小山内の娘が記憶クラウドに接続されていることを知っていたのだと悟った。小山内は、たとえ完全記憶を持っていたとしても、つらい過去を克服することはできると信じていたし、娘が常人とは違う世界観を持っているとは思っていなかった。小山内は、永井と娘は違うのだと自分に言い聞かせるが、今までに感じたことのない恐怖に襲われる。

文字数:1228

内容に関するアピール

ハンニバル・レクターの記憶の宮殿みたいな話(記憶を部屋に例えている。ハンニバルは、脳の処理能力が高い?ため、同時に複数の思考を持つことができ、どんなにひどい目に遭っている最中でも、楽しいことを考えていられる)が印象的で好きなので、そこから着想しました。記憶の宮殿が進化すれば、時間の感覚すら変わってしまうのではないかと思いました。人生最後の五分間が意味をなくすというところまで持って行けるかどうかが課題かもしれません…
 そして、何年も前のテレビ番組で、忘れる能力がない人のことを取り上げていたのも印象的だったので、取り入れました。脳の障害によって世界観が変わるというのは、小林泰三『酔歩する男』からの影響です。
 新鮮なアイデアを思いつかず、この課題ならではの面白さを追求することもできませんでした。哲学的テーマを書きたいと思っていますが、力不足を実感しております。

文字数:382

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過ぎ去らない時が訪れる

「別にいらないです」
 死刑執行の朝。特に意外ではない言葉だった。同じことを言う死刑囚も多い。死刑になるまでの十分間、与えられた自由時間。刑務官の小山内潤おさないじゅんには、その意義が理解できなかった。好きなものを食べたいとか、外部と連絡を取りたいとかいう希望を叶え、死刑台へ向かう者もいる。以前、自分が話している様子を撮影した動画を動画サイトに投稿したいと言った死刑囚もいた。その望みも叶えられたが、動画はすぐに削除した。動画を残すとは約束していない。もし削除しなかったとしても、そのくだらない動画は、なんの影響ももたらさなかっただろうが。
 もはや、先進国の中で死刑制度を保っているのは、ニホンだけだ。人道的に遅れた国だと国際社会から白い目で見られているのは明白だが、国内の死刑制度支持率は常に高水準を保っている。国際社会と国民の板挟み状態の中、茶を濁そうとした結果が、死刑囚への待遇改善策だ。日々現場を見ている人間としては、無意味としか思えない。
「本当にいらないのか」
 本当に処刑が十分後に迫った時、小山内は、機械的に念を押した。独房の中の永井晴行ながいはるゆきは、みっちりと形よく詰まった小さな歯を見せて微笑んだ。
 あと十分後には処刑されるというのに、普段となにも変わった様子はない。がっしりとした体は身じろぎもせず畳の上に落ち着き、右は二重、左は一重の目で、まっすぐに小山内を見上げる。
 小山内は、その目が大嫌いだった。気味が悪い。悪寒が走ることさえある。しかし、妙に引き込まれてしまう。
「あ、やっぱり」
 永井は、少し高い声を出した。ごま塩頭の五十代の男だが、一瞬だけ声に宿ったのは、少年のような響き。
「頼んでもいいですか。小山内さん、ですよね」
 永井に名前を呼ばれたのは初めてだった。そもそも言葉を交わしたことが数少ない。
「ああ」
 小山内は、高圧的な態度を崩さずに答える。
「ちょっと話したいんです。あなたと。あと、録音してもらえませんか。あなたのスマートフォンかなにかで」
 まさか、動画サイトに投稿しろというではあるまいな。
「録音して、どうするんだ」
「それは、小山内さんにお任せします」
 永井は、十歳も年下の小山内に、当たり前のように腰の低い態度を取り続けた。
 小山内は、スマートフォンを取り出し、ボイスレコーダーの画面を表示させ、録音ボタンに触れた。
「これでいいか」
 永井に見せると、彼はうなずく。
「ありがとうございます」
 永井は、先ほどの表情をコピーしたかのように、再び微笑んだ。

「小山内さんは、わたしが完全記憶の持ち主だということは知っていますよね?」
「ああ」
 脳の障害のせいで、些細なこともすべて憶えているというやつだ。永井は、自分が赤ん坊の時に着せられていた服の模様まで憶えているらしい。
 その永井の障害が、裁判でも争点になったことを憶えている。弁護側は、完全記憶は、「完璧な記憶力を持っている」のではなく、「忘れる能力の欠如」としてとらえるべきだと主張していた。永井は、哀れな障碍者であり、記憶にさいなまれ続ける苦しみを背負っている。情状酌量の余地はあると。
 笑わせるな。忘れる能力がないことが、何人もの人を殺し、実子を虐待したことの言いわけになるものか。
「わたしのほかにも、世界には完全記憶を持っている人たちがいるらしいですね。十代の頃、自分のことをよく知りたくて、調べたんです」
「そうらしいな」
 永井と同じ障害を抱えた人々は、死刑囚などではない。犯罪者でもない。
「調べてわかったのは、わたしは、ほかの完全記憶者とは違うということです」
 永井は畳の上で足を組み替え、わずかに身を乗り出した。
「わたしは普通の人とは違う。でも、ほかの完全記憶者とは同じだと思っていた。でも、違いました。わたしが一番ほかの人とは違うと思っていた点は、完全記憶に関するどの資料にも書かれていませんでした。わたしは、誰とも違っていた。そのことを、今まで何人もの人に話してきました。でも、共感してくれる人も、信じてくれる人も見つけられませんでした。でも、あなたなら信じてくれそうだという気がするんです。小山内さん」
 その言葉を聞いた時、娘の顔が脳裏に浮かんだ。連想などしたくなかったのに。

望叶みか。音楽が好きで、歌が上手い。真ん丸な顔をして、長い髪を毎日自分で結び、学校へ通っている。今年十歳になる、可愛い娘。
 三歳までは、望叶は望叶という名前ではなかった。以前の名前は、思い出したくもない。俺たち夫婦の望叶は、最初から望叶だったということにしたい。望叶は、俺と瑠香だけの娘だ。ほかに親なんていない。過去も、俺たちの愛情で塗りつぶせたらいいのに。
 きっとできる。もうできたと思えることもあるけれど、時々、そうではないのだと思い出す。望叶は聴覚が優れているのだろう。床の軋みや、食器がぶつかる音などに、敏感に反応する。その時の望叶は、怯えきった三歳児そのものだ。
 でもいつか、その怯えも消えるだろう。まだ時間はかかるかもしれないけれど、きっと。
 実の親子でなくとも、俺たちは家族だから。

「どうして、俺なら信じそうだと?」
 小山内は思わずそう尋ねていた。
「さあ。なんとなくですよ」
 その言葉を信じていいのだろうか。わからない。でもまさか、永井が望叶のことを知っているはずがない。考えすぎだ。
「さっさと話せ」

わたしが完全記憶のことを自覚したのは、六歳の時でした。それまでも、自分がほかの人とは違うということは感じていましたが、それが完全記憶のせいだとわかるのに時間がかかったのです。親がわたしの言動から、障害のことに気づいたんです。お前はほかの子とは違う、特別な能力を持っているんだと言われました。でも、わたしにはそのような自覚は生まれませんでした。
 わたしは問題児で、学校をサボってばかりで、勉強なんてしなかった。同級生やほかの人たちには、自分のような記憶力がないのだということは理解していましたが、どうして嫌がりながらも勉強しているのかが理解できなかった。なぜ嫌なことをするのだろう、覚えられないなら、覚えなければいいのにと思っていました。
 中学生の時、上級生に怪我を負わせて、少年院に入りました。そこで出会った人たちと、いろいろな話をしました。それまで、わたしは自分のことを深く誰かに話すなんてことがありませんでしたが、少年院では娯楽が少なかったので、話すくらいしかすることがなかったのです。当時のわたしでは体力的に敵わない人たちのほうが多かったので、上手く輪に入っておかないといけないと思ったというのもあります。
 わたしは、子供の頃のエピソードを面白おかしく話すことで、みんなに気に入られようとしました。それは成功したかに思えましたが、やはり、わたしの記憶力を気味悪がる人もいました。
 その中の何人かに軽く殴られて、顔に青あざをつくったあと、ある人に言われました。いつも一緒にいた人たちの中の一人で、わたしより年上の人でした。仮にA君とします。
「どうしてお前はいつも楽しそうなんだ?」と。そう言われ、わたしは、「どうしてみんなは楽しそうじゃない時があるの?」と言いました。
 それから、さらにA君と話してわかったのは、わたしの「今」と、みんなの「今」は違うということです。わたしの「今」は、頭の中にたくさんある場面のひとつでしかありません。「今」が気にくわなくても、楽しかった時のことを「思い出し」ていれば、なにも問題はありません。「思い出す」という行為も、わたしとほかの人では違っているようです。わたしにとって「思い出す」ということは、過去に戻るということです。その時、「今」のわたしの精神は、同時に存在していますが、「過去」には存在していません。「過去」と「今」という別々の世界が、わたしの頭の中では、まったく同じ質感を持って両立しているのです。でも、みんなにとっては、「今」がすべてであるらしいのです。「思い出す」過去は、「今」とは別の質感を伴っているらしいですね。
 わたしにとって、それは驚きでした。少年院から出たあと、完全記憶について調べましたが、よくわかりませんでした。少なくとも、「今」というものの認識がほかの人とは違っているという記述は、どこにもありませんでした。
 それから、わたしは低い学歴でも雇ってくれる職をなんとか探して働きました。A君と再会した時、少年院を出てから五年が経っていました。
 A君は、わたしを探して会いに来たそうです。詳しいことは話そうとはしませんでしたが、かなり追い詰められている様子でした。なんらかの事情があったんでしょう。
 A君は、わたしのようになるにはどうすればいいのか、と言ってきました。彼は、「たくさんの世界が欲しい」と言いました。彼は、わたしが「たくさんの世界」を頭の中に持っていることを理解し、憶えていた。彼は、わたしのようになれば、苦しみから逃れられると思ったようです。
 わたしは、当時転がりこんでいたわたしの彼女の家で、A君と話しました。A君は、わたしの記憶力は脳の障害によるものだから、脳を傷つければ、完全記憶を得られるのではないかと思ったようですが、わたしは彼を諭しました。確かにわたしは脳の障害を持っているけれど、それは先天的なもので、下手に脳を傷つけたりなんかすれば、死んでしまうと。
 それに、一度明度が落ちた記憶は蘇らない。もし、A君が完全記憶を得たとしても、A君の過去は戻らない。現在がどうしようもないのであれば、どうしようもない世界が積み上がるだけだと。
 A君は、やっぱりという感じでうなずいて、「じゃあ、一緒に死んでくれないか」と言いました。
 わたしが「いいよ」と言うと、今度は驚いたようでした。「彼女がいるんじゃないのか」と言ったので、わたしは、もう彼女とは十分一緒にいたし、A君のことは嫌いじゃないから、頼みを聞いてあげたいと答えました。
 でも結局、一緒に死ぬには至りませんでした。練炭自殺がいいよね、という話になって、わたしが練炭を買ってきたのに、A君は姿を消していました。わたしは裏切られた気持ちになりました。
 記憶クラウドのことを知ったのは、そのずっとあとでした。記憶クラウド自体は、その当時も存在していたようですが、まだ一般的に知られるほどではなかったのです。あの時、記憶クラウドのことを知っていれば、A君に教えてあげることができたのに、と人生で初めて、悔やむという気持ちを知りました。
 まあ、お金がないと、記憶クラウドを契約することはできませんし、基本的には、新生児の子供のために親が契約するものらしいですが、おそらく例外もあるでしょうし、記憶クラウドのためにお金を貯めることが新たな生きがいになったかもしれないですからね。
 他人を顧みないわたしには珍しいことなのですが、時々、A君はどうしているだろう、生きているのだろうか、と考えても無駄なことを幾度となく考えたものです。

友情物語かなんのつもりか知らないが、A君とやらについての話には虫酸が走った。永井が誰かと通常の人付き合いをしていたということを想像することさえ、小山内には難しかった。
 まあ、A君という人も、永井の話が事実だとするならば、相当変わった人物らしい。マシンを体に注射し、記憶クラウド管理企業のコンピュータで記憶を管理するようにすることで、苦しみから逃れられると考えるなんて。クズがクズのような記憶を脳以外で保持して、なんの意味があるというのだろう。
 小山内は、記憶クラウドについては、一般の人々の平均よりもかなり詳しい知識を持ち合わせているという自信があった。成人でも、自ら契約する人が増えていることも知っている。有名企業の経営者や科学者、芸術家など、様々な分野を牽引している人々の中で、契約していることを公表している人も多い。公表していないが、実は契約しているという人々もかなりいると考えていい。
 これからも、契約者は増え続けるだろう。しかし、小山内は、誰も彼もが契約すればいいというものではないと考えていた。世のために働こうという気持ちや、人との関わりを大切にする気持ちを持ち合わせていない人間が利用することに意味はない。記憶クラウドは、確実に知識を身につけ、思い出を色あせさせないようにするためのシステムだからだ。
 もちろん、新生児の段階で、どのような人格が形成されるのかを測ることはできない。ただ言えるのは、子供を持った親が、我が子に豊かな人生を歩んでほしいという気持ちで契約するのが基本だということだ。
 もちろん、例外もある。そのことなら、小山内は骨の髄にしみるように知っている。富裕層のステータスとして契約する親もいるのだ。子供のことなんて、少しも考えていない。いや、考えてはいるのかもしれない。その考えが、恐ろしく歪んでいるのだ。
 子供に金をかけることがそのまま愛情を示すわけではない。当然だ。肩書や装飾品のためには金を惜しまない人々がいる。そしてその中には、子供を肩書や装飾品としか思わない人々もいる。
 きっと、永井はそうではないだろう。小山内が知る限りでは、無欲な人生だ。自己顕示欲のために子供を利用するような思考回路は持ち合わせていそうにない。
 永井にとって、我が子はどんな存在だったのだろう。お荷物か。ゴミか。道具か。

その後、彼女が妊娠し、籍を入れ、息子が生まれました。わたしは、もしかすると、完全記憶が息子に受け継がれているのではないかと思い、息子の言動に注意していました。しかし、かなり言葉を話すようになっても、息子に完全記憶がある兆候は見受けられませんでした。
 わたしは少しがっかりしました。身近にわたし以外の完全記憶者のサンプルがあれば、もっと自分のことを理解できるのではないかと思っていたからです。しかし、息子は完全に、ごく普通の幼児でした。その時もまだ、記憶クラウドのことは知りませんでした。知っていたとしても、契約することはなかったでしょうが。
 それからわたしは、それまで以上に長時間働くようになりました。妻が子育てのために働きに出ることができなくなったし、子供にはいろいろとお金がかかるし、これからのことを考えると、貯金もしなくてはと思ったからです。
 将来のことなど、考えたこともなかったのに、わたしはごく自然に、「将来」という未知の世界のことを考えて行動するようになっていました。やはり、子供ができると、考え方が変わるようです。
 ほかの人にとっての「将来」とは、やがて自分の世界になる「未来」のことらしいですね。人々は、「将来」のことを心配して、いろいろなことを努力したり、我慢したりする。でも、わたしにはそんな必要はなかった。わたしの「将来」は、やがて自分のすべてになる世界ではなく、新しく加わる世界の一側面でしかない。わたしの「過去」は、消えておらず、目の前にあるわけですから。
 好奇心を持って、次々と世界を取り込んでいく息子の姿を見ていると、彼は自分とは違う存在なのだということをひしひしと感じました。彼は、「時間を過ごして」いるのだなと。刻一刻と成長し、昨日の彼とは違う存在になってゆき、過去を脱ぎ捨てるように、未来へ向かっていっているのです。わたしにとっての生きることと、彼にとっての生きることはまったく違うのでしょう。わたしは、「時間を過ごして」いるというより、どんどん質量を増していく世界を眺めているのです。時は過ぎ去らず、たまっていく。しかし、その世界は単調で、日々、同じことの繰り返しでした。息子が生まれてからは特に。
 わたしは、息子に、わたしの世界観を理解してほしかった。その時すでにわたしの親はいなくなっていましたから、肉親は息子一人でした。血のつながりというのは、具体的にはわからなくても、なにか力を持っているように感じられるじゃないですか。
 それでも、自由奔放な息子の様子を見ていると、息子が大人になっても、やっぱり理解してはもらえないのではないかと諦めかけていました。しかし、ある日、息子がジュースを畳にこぼして拭かなかったことをこっぴどく叱ってから、息子は同じ種類のジュースを飲もうとしなくなったのです。わたしは、息子も過去から学ぶことを覚えたのだと思い、息子の成長を嬉しく思いました。
 それから、わたしは何度も息子を叱りました。すると、息子は、わたしにいつも同じ目を向けてくるようになりました。前までは、機嫌がよかったり、悪かったり、甘えていたり、すねていたりしていたのが、まったく同じ石のような目しかしなくなりました。その変化は、わずか数週間のうちに起こりました。
 息子は、五歳にして、わたしのおかげで大人になったのです。息子が、「今」だけでなく、「過去」を見るようになったのだと、わたしにはわかりました。わたしの世界観を理解することはできなくても、少しはわたしに近づいたと言えるでしょう。「今」の欲望にだけ従っていた小さな獣が、「過去」に従うことのできる人間になったことが、わたしは大変嬉しかった。
 それからです。わたし自身が自分のことを理解できないなら、理解してくれる人をつくればいいのだと思ったのは。

永井の表情は穏やかで、口調は落ち着いていた。異常だ。狂っている。
 永井の語り口と、実際に起こったことの間には、大きな乖離がある。小山内が知っている情報は、報道から得たものだけだが、軽く思い出話のように話せることではないのは明らかだ。今、永井の息子と元妻がどうしているのかは知らない。ただ、縁を切っているのは確かだ。一度も面会に来たことはないし、手紙なども届いていないはずだ。
 もし連絡があるとすれば、それこそ異常だろう。永井が息子にした虐待の数々を思えば。暴力は妻にも及び、逃げ出すことはできなかったらしい。
 思いたくないのに、再び望叶のことが頭に浮かんでしまう。
 もちろん、望叶の親は永井とは大きく違っているだろう。ただの予想だが、おそらく、社会的地位の高い富裕層だ。
 しかし、心臓を汚物で拭かれるような不快感とともに考えてしまう。あの子の実親も、この永井のような異常者なのか。

わたしが住んでいたところは田舎でしたが、休みの日には、車で街に出て、街を歩き回るようになりました。しばらくそうしているうちに、なにも予定がなさそうな人、寂しそうな人、なにも考えていなさそうな人の見分けがつくようになりました。わたしは、そのような人たちに声をかけ、話をしました。その中のたいていの人は、わたしの話をきちんと聞いてくれ、わたしが笑わせようとすれば笑ってくれました。わたしの完全記憶の話も、完全に理解はしてくれなくても、興味を持って耳を傾けてくれる人はたくさんいました。世の中、捨てたものではないなと思いました。案外、優しい人は多いものです。
 でも、わたしは仲良くなった人たちを何人も殺してしまいました。本当は死なせたくなかったのですが、わたしの拷問が下手だったのでしょう。山の中へ連れて行って、切ったり突いたりあぶったりしました。苦しませれば、過去の記憶に逃げ込む人も中にはいるのではないかと思ったのです。そうなれば、わたしと同じではなくても、わたしに近づくのではないかと。その時、その人と会話すれば、わかり合えるのではないかと思いました。
 できるだけ長く続く苦しみを与えられるようにと、わたしなりにいろいろと研究したのですが、やはり、わたしは不器用なようです。一番長く持った人でも、一週間でした。
 最後に殺した人は、若くて綺麗な女性でした。身なりは地味でしたが、顔立ちが整っていて、守りたくなるような可愛らしさがありました。そのような人が、わたしのような無骨で薄汚れた男にホイホイとついて来るとは、わたしも意外でした。ただ、スーパーの服飾売り場で、ぼんやりと靴を眺めていた彼女は、とても寂しそうに見えたんです。だめもとで声をかけると、まったく警戒する様子はありませんでした。わたしの観察力は当たっていたのでしょう。
 出会ったその日に、彼女をいつもの山の中へ連れて行って、身体を縛ってペンチで爪をはがしました。なにも塗っていない爪が長かったからです。
 舌を噛まないように、猿轡をさせていたのですが、彼女は悲鳴を上げる様子がありませんでした。ただ、ボロボロと涙を流して、痛みに耐えているようでした。そのような反応は珍しかったので、彼女は特別なのではないかと思いました。普通は叫ぶものですから。
 わたしは彼女と話そうと思い、猿轡を外してあげました。すると彼女は、「なにをしてもいいから、早く殺して。そして、死体はすぐに見つかるところに、所持品と一緒に捨てて、身元がわかるようにして」と、必死な様子で言いました。
 どうしてだと尋ねると、彼女は口をつぐみました。わたしは、それは置いておくことにして、なにが見えるか、なにを考えているのかを尋ねましたが、彼女は答えませんでした。結局、彼女もほかの人たちと同じなのかと思い、わたしはがっかりしました。
 彼女を車の中へ入れ、翌日、仕事を終えてから再び彼女のところへ行きました。わたしにとっては、いつものパターンです。彼女はかなり衰弱してしまっている様子で、もう長く持たないかもしれないと思いました。あまり体力があるようには見えませんでしたから、仕方なかったでしょう。
 トランクから彼女の体を起こし、買ってきた水とパンを口に当てがったのですが、水を飲もうとすらしませんでした。
 彼女は、ひび割れた唇からぼたぼたと水を滴らせながら、目をギラギラさせて言いました。
「家に子供を置いてきてるの。帰らせて」
 わたしは興味がなかったので、生返事をしましたが、彼女は、
「あの子はずっと待ってるはず。助けて。お願い」
 とか、同じような内容の言葉を繰り返しました。
 その晩、彼女は死にました。わたしは深夜に帰宅して寝ましたが、翌朝、目覚めると、なぜか彼女の言葉を思い出しました。
 彼女自身は山に放置してきましたが、彼女の所持品は、まだトランクの中に転がりっぱなしになっていました。それを見てみると、住所の書かれた身分証明書がありました。
 その日は休日で、特に予定もなかったので、わたしは、彼女の家へ行ってみることにしたのです。

話を聞いているうちに、戸惑いが大きくなってきた。どうしてこんな話を俺にする? それに、なぜ録音させる? 録音したものをどうするかは俺に任せるってどういうことだ?
 永井本人の口から聞くと、また別物の不快感がこみ上げてくることは否めないが、内容自体は知っていることだった。小山内が永井のしたことを知っているは、当然永井自身もわかっているだろう。
 永井の左右非対称な形の目は、しっかりと小山内をとらえて、あえて小山内も知っている事実を話しているのだということを表していた。自分の話に酔っているわけではないことは明らかだ。永井と何度も話したことがあるわけではないが、無意味に同じ話を何度もするタイプとも思えなかった。それどころか、ほとんど口を開かない性格ではなかったか。
 それはそうと、被害者の子供の話は初耳だった。永井は、実子を虐待していたが、子供を殺したことはなかったはずだ。
 まさか、まだ明かされていない罪状があるというのか?

彼女の家であるアパートの部屋のチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開きました。目の前に誰の姿も見えなかったので、一瞬驚きましたが、目を落とすと、子供がいました。五、六歳くらいの、十月に入って肌寒くなってきたというのに半そでTシャツを着た男の子でした。
「ま」
 と、男の子は口を丸くして、わたしを見上げて固まりました。あまりにその口の開き方が真ん丸だったので、わたしは笑いそうになりましたが、男の子は真顔に戻り、まったく興味のなさそうな目でわたしを見ました。
 明らかに期待を裏切られた反応をしていたので、「ごめんね、お母さんじゃなくて」とわたしは言いましたが、男の子は無反応でした。
「お腹空いてる?」と尋ねてみても、男の子は返事をするどころか、ドアを閉めようとしました。そのゆっくりとした動作が子供らしくなかったので、わたしは興味をそそられ、ドアを押さえて、「お父さんは?」と尋ねました。
 家の中には、他に誰かがいる気配はありませんでしたし、この子の母親の口ぶりからは、家に一人でいるのだろうということは推測できましたが、一応の確認です。その子の反応を見たい気持ちもありました。
 でもやはり、その子は無反応でした。わたしは自分の観察力をそこまで誇るつもりはありませんが、「お父さん」という言葉に、なんの思い入れもなさそうに見えました。
 わたしは、部屋に上がり込み、そこにあったわずかな野菜くずと米で雑炊をつくり、男の子に食べさせてやりました。男の子は、子供用の欠けたお椀から、吸い込むように雑炊を平らげました。つくっている最中は、そんな様子は微塵も見せなかったのですが、食べ物を前にした途端、空腹を思い出したみたいでした。床には、お菓子の袋がいくつか転がっていて、そのすべては空でした。
 わたしは食器を洗って片づけたあと、「お母さんはもう帰ってこないから、誰か知っている人のところへ行ったほうがいいよ」と言いました。殺そうと思ったわけではないが、わたしが間接的に殺したということも話しました。
 それでもやはり無反応なので、障害があるのではないかと思い、わたしはその子の肩を揺さぶり、「大丈夫? 耳が聞こえないの? 話せないの? 俺の言ってることわかる?」と質問攻めにしたのですが、それでやっと、男の子はわたしのことを見ました。
「大丈夫。聞こえる。話せる。わかる」
 という男の子の答えに、わたしは感心しました。普通、人は一度に複数の質問をされると、ひとつにしか答えないか、ひとつも答えられなくなるものですが、全部にあっさりと答えたので、この子は特別賢いんだなと思ったのです。
 それからわたしはもう一度、お母さんはわたしが殺してしまったからもう帰ってこないということを噛んで含めるように言い聞かせましたが、男の子は、「あ、そう」と言っただけでした。
「寂しくない?」と尋ねると、男の子は、「ママは今もいる」と当たり前のように言いました。
「どこに?」と尋ねると、「ここに」と言い、「幽霊?」と言うと、かすかに馬鹿にしたような表情をしました。本当ですよ。
 わたしは男の子を連れだし、わたしが殺した彼の母親のところへ連れて行きました。彼は従順で、大人しくわたしの車に乗り、寒そうでもなく、しんどそうでもない様子で一緒に山を歩いて、母親の死体と対面しました。
 もちろん、死体の状態はまだとても良好で、顔をつぶしたわけでもないので、誰かということはすぐにわかったと思います。わたしは、悲しみも恐れも見せない男の子に、「この人がお母さん?」と確認しました。男の子は、「うん。ママ」とうなずいたあと、「一緒に埋める?」と言いました。わたしの手間を気にかけてくれているようでした。でも、小さな男の子に手伝ってもらってもたいした助けにならないので、ありがたく断りました。わたしは男の子を家に送り、たまたま車内にあった飴を持たせて、「知っている大人のところへ行きな」と繰り返しました。
 その子がそのあとどうなったかを知ったのは、わたしが逮捕されたあとのことです。その子が通報したことがきっかけで、わたしは逮捕されたのです。その子の保護者となったその子のおじいさんとおばあさんの意向で、そのことは公表されないことになったらしいです。注目されてしまうと、いろいろ大変でしょうから、賢明な判断ですよね。
 負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが、わたしは、その子が通報する可能性は十分にあると考えていましたよ。でも、別にそれでよかったんです。捕まりたいと思ったことはありませんが、捕まりたくないと思ったことも一度もありません。同じことを弁護士の先生に言ったら、そんなことを言ったら、逆に心証が悪くなると言われましたが。
 刑務所に入ったら人生が終わりなんて、そんなことはないと思っていましたから。出られると思っていたという意味ではありません。刑務所だろうが拘置所だろうが、人生は人生だという意味です。だから、別に捕まってもよかったのですが、わたしの探求は終わるだろうなと思っていました。判決を受けて拘置所で暮らすようになってからは、ただ穏やかに過ごすことだけを目標にしました。でもある日、ちょっとだけわくわくすることがあったんです。

また望叶のことが頭に浮かんだ。
 望叶の五歳の誕生日、前々からどうしても欲しいと言っていたので、ジャンガリアンハムスターを買ってやった。部屋にケージを置いて、「はむか」と名づけ、望叶はずっと、ちょこまかと動き回るハムスターを眺めていた。ネーミングセンスはどうかと思ったが、望叶は瑠香の手を借りながら、餌をやったり、ケージの掃除をしたり、かいがいしく世話をした。飽きるようなこともなく、二年ほど経って、ある日突然はむかが死んでしまうまで、ずっと可愛がっていた。
 はむかが死んだことに最初に気づいたのは望叶だったらしい。俺が仕事から帰ると、瑠香が、「はむかが死んじゃって、望叶と一緒に庭に埋めたの」と話した。ケージはすでに片づけられていて、望叶は部屋で寝ていた。
 瑠香は、望叶があまり取り乱していないことが逆に心配だと言った。望叶は瑠香のところへやってきて、「はむかが死んじゃった」と言ったそうだが、特に悲しそうには見えなかった。あんなに可愛がっていたのに不自然だから、もしかして、望叶はまだ「死」というものを理解できていないのではないか。そう瑠香は言った。
 俺は瑠香をなだめた。もしそうだとしても、すぐに自然と理解できるようになるだろうし、あんまり取り乱しすぎるよりはいいじゃないかと。
 しばらくして、望叶と一緒に出かけた時、はむかを買った店でもある、望叶がいつも寄りたがるお気に入りのペットショップの前を通ったが、望叶は反応しなかった。「寄らなくていいの?」と思わず尋ねると、望叶は、「もうペットはいいの。はむかがいるもんね」と言った。俺は焦って、「はむかはもういないよ?」と言うと、「うん。死んじゃったから、もう会えないね。でも、心の中にずっといるんだよ」と、当たり前のように、望叶は言った。

判決が出たあと、拘置所に入って約五年が経ったある日のことです。珍しくわたしに面会に来た人がいました。もちろん、わたしはその人のことをはっきりと憶えていましたが、普通レベルの記憶力を持っていたとしたら、忘れていても不思議ではない関係でしかありませんでした。しっかり学校に通っていた人なら、高校一年生の時の担任教師のことは、たとえ三十四年間、まったく会ったことも噂を聞いたこともなかったとしても、憶えているかもしれませんが、わたしはほとんど高校に行かず、一年で自主退学していました。親に無理やり推薦を受けさせられ、高校に入学したはいいものの、やはり通う気にならなかったのです。
 平凡な中年の理科教師という印象しかなかったのですが、一度だけ、学校をサボっていた日の夕方に駅で偶然会ったことがあり、そこで言われたことが意外でした。彼はわたしが出席しないことを一言も責めず、ただ、どこに行くのかと尋ねたあと、「きみ、記憶力がすごくいいんだってね。だったら、カードマジックとかやってみない? 麻雀とかもいいかも。きっとすぐに一流になれるよ。初期投資的なお金は僕が全部出すからさ、稼いだお金の何割か、僕に回してくれない? ね? ね?」と言いました。そのあとも連絡が来て、マジックショーに行こうとか、カジノに行こうとか、雀荘に行こうとか誘われたのですが、話し方と声が気持ち悪かったので、関わりたくなくて断り続けました。彼との関わりは、それで終わりでした。
 そんな下劣なオーラの教師は、杖をついた老人になっていましたが、当時の面影がありました。彼は面会室で、涙ながらにわたしが死刑囚になったことを惜しんでくれました。わたしとしては、赤の他人も同然な昔の知人がいきなり現れて、わたしの才能と可能性を惜しんでくれても、戸惑うしかなかったのですが。
 彼は自分の今までの教師生活での経験などを話し始めましたが、わたしはさえぎって、どうして面会に来たのかと尋ねました。すると、雑誌の記事でたまたまわたしのことを知ったのだと言いました。特にたいした理由があって来たわけではないようです。物好きですよね。
 その雑誌を持ってきたと言うので、見せてもらいました。
 それは、記憶クラウドに関する記事でした。普通の人に完全記憶を授ける技術があることを、その時初めてわたしは知りました。その記事では、完全記憶が他人の精神に及ぼす影響について取り上げていたのですが、その中で、わたしのことが引き合いに出されていました。大量殺人犯であるわたしの動機の中に、完全記憶があることによって人とは異なっている自分を理解してくれる人を探したいというものがあり、それは記憶クラウドと契約した人にも当てはまってしまうのではないかという疑問に対し、わたしの人格の異常性と、生来の完全記憶と、記憶クラウドの違いが詳しく説明されていました。要するに、記憶クラウドは安全ですよということを伝えたいようでした。
 わたしはそれを読んで、あの男の子のことを思い出しました。わたしが最後に殺した人の息子です。もしかすると、あの子は記憶クラウドと契約していたのではないかと思いました。だから、ママは今もここにいるなどと言ったのではないかと。あんな古いアパートに住んでいた母子家庭が、記憶クラウドの高い料金を払えるとは考えにくいのはわかっているのですが、そう考えると、男の子の態度に納得がいったんです。
 記憶クラウドの機能は、生来の完全記憶よりも、もっと便利というか、融通が効くもののようですね。感情がモニタリングされ、嫌な記憶は自動的に思い出しにくい領域に移されるとか。かといって、学習能力が損なわれるのもまずいので、そのあたりは自動的にこまめにAIが記憶をメンテナンスして、マイナスな記憶も、必要な分だけが意識に上がるようにしてくれるんですよね。
 その記事には、わたしが実感しているような「過去が等しく現在である」という感覚のことは書いてありませんでしたが、もしかすると、あの子もそのような感覚を持っていたのかもしれないと思うと、俄然、あの子と会った時のことが輝いて思えたんです。「ママは今もここにいる」という言葉。これが仲間意識というものなんでしょうか。わたしには詳しい原理はよくわからないのですが、記憶クラウドというのは、なんだかすごく素敵なもののように思えました。

「素敵なものなんかじゃない」
 小山内は、思わずそう言ってしまってから、我に返って息を飲み込んだ。
「え? どういうことですか?」
 永井は、わざととぼけているような口調で言った。
「別に。そう上手くいくものじゃないんじゃないかってことだ。記憶を管理するなんて」
「確かに、記憶は人それぞれであって、どういうものがいい記憶で、悪い記憶なのかを分けるということ自体がナンセンスなのかもしれませんね。そもそも人というのは自然発生した生き物で、歪んだ存在であるので、法則を組み込んだ機械で制御すること自体が合わないのかも」
「いや、別にそういうことを言いたいわけでは」
「しかし自然界というのは法則に支配されていて、人間もその一部だと考えることもできる。だとすると、人間が自らの精神を管理するように進化するのは必然かもしれない」
「なにが言いたいんだ?」
 小山内は苛立ちながら言った。
「わたしは人類の進化に感動したってことですよ」
 なんなんだ、心からそう思っているようなまっすぐなその言い方は。
「わたしの弁護をしてくれた先生は、わたしを哀れな障碍者だとみなさんに印象づけようとしてくれたようですが、わたしは自分のことを哀れだと思ったことはありません。わたしは、普通の記憶力があるというのはどういうことなのか実感できないので、比べようがないのですが、いろいろと考えて、やっぱり、完全記憶を持って生まれたことはよかったんじゃないかと思っています。わたしには、ほかの周りの人たちは、いつも余計なことに惑わされて、右往左往しているように見えてしまいます。もっと自分に素直に、落ち着いて生きればいいのにな、なんて、口には出さないですが、ずっと思ってきました。でも、わたしが落ち着いて生きてこられたのは、完全記憶のおかげなんじゃないかと思ったんです。わたしには、たいしてつらい記憶はないんですよ。つらい時でも、わたしはいつでも、幼い頃に見た夕陽を見ていられるので」
 過去というほかの世界を持っていることで、いつでも穏やかな気持ちでいられるということか。どうしてこんな人非人がそんな特権を。世界は理不尽だ。
「……あと一分くらいで行くぞ。そうしたらもう全部終わりだ」
 今まで何人かを死刑台に連行してきたが、あえて動揺させようとしたのは初めてだった。といっても、陳腐な言葉でしかないが。これはただの仕事で、感情を殺すべきだと、わかっているのに。
「はい。わたしのつまらない話を聞いてくれて、ありがとうございました」
 小山内は、録音を終了した。もちろん、永井が動揺した気配はない。
「録音はしたが、どうするかは本当に俺に任せるんだな」
 小山内は確認した。
「はい。どうしてこんな話をしたんだと思ってるでしょう?」
 永井は、返事をしない小山内を真剣に見つめた。
「たまたま、あなたの娘さんのことを聞いたんですよ。記憶クラウドと契約してるんですよね。娘さんは養女で、実の親が契約させたんだとか。解約することもできたのに、あなたは完全記憶の有用性を鑑みて、解約させなかった」
「誰から聞いたんだ?」
 娘のことは、本当に親しい人にしか話していない。長年付き合いのある同僚には話したが、口外しないように言ったのに。
「それは言わないでおきます」
「言えよ。誰なんだ!?」
「わかってるんじゃないですか? 彼、言ってましたよ。あなたの娘さんは、わたしと同じなんだって。娘が完全記憶を持ってるなんて、もし自分だったら気味が悪くて仕方ないのに、よく耐えられるよなって」
「馬鹿が。そんな考えは時代遅れも甚だしい」
「そうですよね。あなたはきっと、娘さんの将来のことを考えたんでしょう。記憶クラウドと契約していれば、勉強に苦労しなくて済む。いろいろな可能性が広がるわけです」
「娘はお前とは違う」
「そうでしょうとも。しかし、完全記憶を持つことによって、常人とは異なる精神構造になるということもあるということを、直接あなたに伝えておきたかったんです」
「残念だが、賛成できないな。お前は異常者なんだ。それは完全記憶のせいじゃない。それとはまったく関係なく、狂ってるんだよ」
「勘違いしないでください。娘さんがわたしのような殺人犯になるなどと言いたいわけではありません。娘さんが、あなたのような普通の人とはまったく違う時間感覚の中を生きている可能性があるということを知っておいてもいいんじゃないかということを言いたいだけです」
「もう時間だ。行くぞ」
「もうすぐわたしは死ぬんですね。やけに落ち着いていると思っているでしょう。それは、わたしが時間を過ごしていないからです」
「は?」
「わたしはあなたと話している間も、自分の人生を何千周もしました」
「意味不明だな」
「さすがにわたしでも、自分の全人生を一度に俯瞰することはできません。脳の処理能力の限界があるんでしょう。でも、数秒もあれば、すべてを思い出せるんです。わたしの人生は終わりません」
「ふざけるな。数分後にはお前は首くくり死体になってるよ」
「それは、わたしの世界を眺める『わたし』がいなくなるだけです。普通の人は、『今、この瞬間』にしか立ち会うことができません。わたしにとって、死刑台から落ちて首が折れる瞬間は、唯一無二の『今、この瞬間』ではありません。わたしは、同時に複数の場面に存在できる。そのすべてのわたしが、死の瞬間に消えたとして、それがわたしにとってなんの意味があるでしょう? 消えた時、わたしはすでにどこにもいないのに。わたしの人生は、わたし以外の人にとってだけ終わる。わたしにとっては、終わりません。死の場面は、わたしにとって、数多くのどうでもいい場面の中のひとつでしかありませんから」
「お前が死を恐れていないことはわかった」
「わたしが、自分とほかの人との違いを決定的に意識したのは、四歳の時、母親に言われたことがきっかけでした。あなたも、娘さんに訊いてみたらどうですか。『悲しい? 嬉しい?』と『今、悲しい』や『今、嬉しい』と言ってはいけません。なにをされたら、とか、なにをしたら、とかいう言葉もつけ加えてはいけません。ただ、感情を尋ねるのです」
「なんだそれは」
「もし、娘さんも、同時に複数の場面に存在できるとしたら、全部の感情を肯定するはずです。もしそうなら、『今』には、通常の感情しかなくても、彼女の世界全体には、同時に彼女が知っているすべての感情があるということになります。それは、感情がないことと同じです」
「娘はお前とは違う」
「それをはっきり確かめて安心してください。もし娘さんがわたしと同じだったら、娘さんに、あなたと同じような感情を期待することは難しいですから。あなたが死んでも、娘さんは悲しみません」
「それがなんだっていうんだ。悲しまないのは、いいことじゃないか」
 いや、望叶と永井は違うのだ。望叶は悲しむ。
「本当に娘さん思いなんですね。じゃあ、将来、娘さんがあなたのお孫さんを産むことになった時のことも考えてあげてください。その時、娘さんはどうするでしょうね。その頃は、記憶クラウドはもっと進化しているかもしれません」
「だから、それがなんだっていうんだ」
「もういい加減時間じゃないですか」
 永井は、電車の時刻でも気にするように言った。

何度も、自分の判断が正しかったのかどうかと悩んできた。瑠香は、もう決めたことなのだから、望叶に愛情を注ぐことだけを考えようと言ってくれた。それはそうだろうと思う。生まれてからずっと記憶クラウドとともに生きてきた人が契約をやめると、慣れるのにかなりの時間を要すると言われている。それは、精神にダメージを負う可能性があることを意味していた。
 しかし、ふとした瞬間に怯えを見せる望叶を見ていると、胸が締めつけられる。もしかすると、望叶の意識の表層には、過去の記憶は上っていないのかもしれない。学習能力とやらが、無意識下の危機感を機械的に反射として表しているだけなのかもしれない。
 しかし、そう考えたとしても、記憶クラウドとの契約が娘のためになるという考えは、もしかすると自分勝手なものではなかったか。
 物心がつく前の記憶が消えてしまうのは、赤ん坊の頃に恐怖や不安を感じることが多いためだと言われている。しかし、望叶の記憶は消えていない。いくら意識に上らないと言っても、記憶クラウドには、三歳以前の記憶が残っているのだ。
 俺は、かつて虐待されていたつらい過去を娘が克服するより、学業でいい成績を収め、いい仕事に就くことのほうが、自分にとって利益があると、そう無意識のうちに思ったのではないか。
 いや、俺はそんな汚い人間ではない。俺は心から望叶を愛している。
 どうしてこんなことを考えているんだ。永井の話なんかを聞いてしまったからか。だから、望叶の記憶クラウドの契約を維持したことを後悔してしまったというのか。
 そんなの理屈に合わないじゃないか。永井の話のどこに、望叶との関係があったというのだ。
 小山内はスマホの中の録音データのことを考えた。この部屋を出たら消去しよう。
『娘さんがあなたのお孫さんを産むことになった時のことも考えてあげてください』
 なにが『考えてあげてください』だ。お前は、誰かのことを考えたことなんてあるのか。
 正直、まだそんな将来のことを考えたことはなかった。望叶はまだ十歳だ。でも、あと八年後には成人なんだよな。
 望叶が子供を産む時がきたら、今日、録音したものを聞かせればいいのではないか。あくまでも、参考としてだ。親として、教えられることはすべて教えないと。
 いや待て。そんなことを考えてしまうってことは、やっぱり俺は、望叶を受け入れられていないのか。これから、望叶と同じか、望叶と少し違っていて、俺たちとはかなり違う子供たちが、たくさん生まれてくるかもしれないというのに。
 俺たち? 俺とか瑠香のことか。望叶も俺たちの中に入っているだろう。そうだよ。そうなんだ。そう考えなくちゃ。
 小山内は気分が悪くなってきて、口を押えてドアから出た。同僚に呼びとめられたが無視し、制服のポケットの中のスマートフォンを握りしめながら、永井がぶら下がった部屋をあとにした。

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