梗 概
レミニセンス
経過時間:二〇四〇年~二年後~五年後~十年後~十二年後~十五年後~二十年後
私には赤ちゃんがいる。生まれたばかりの珠のような子だ。夫は優しく、私は幸せな眠りにつく。
起きると、赤ちゃんはいなくなっていた。かわりにフローリングをぱたぱたと駆ける幼子がいる。「ママ起きた」幼子がしがみつく男は夫だが少し老けている。
どういうこと? 戸惑う私に夫は語る。妻はお産で亡くなった。きみは妻の生きた証――ライフログを縒り合わせできた〈レミニセンス〉だが……どうやらエラーがあったらしい。眠ったきり、二年間起動しなかった。
私はおののき、棄てないでいた夫になぜと訊ねる。夫は答える。きみを、二度も火にくべたくはなかったし、頭をいじると〈きみ〉から外れていくと技師に言われた。だから、起きるのを待つことにしたと。
私は夫に感謝と呪いをかけた。棄てないでほしい、中が機械じかけであっても〈私〉は本物そのものだ。愛する夫と、かけがえのない我が子の成長を見守りたい、と。
それから私は眠るのをやめ、失われた二年間を取り戻すように日々を過ごす。しかしまばたきをしただけのあるとき意識はまたもやブラックアウトする。
次に目覚めたときには五年後だった。我が子は七歳、小学生になっていた。夫と私は技師に仕組みを訊ねるが、風船に空気を送り続けるようにブラックアウトは避けられないという。ならばこの日々を駆け抜けよう。七つの我が子はまっすぐなひとみで寂しさを受け止める。ママがもしまた寝ちゃったら、次に起きたときにあたしが大きくなっているのをたのしみにしててね。
つねに目を開けていてもブラックアウトは訪れる。
私はさらに十年後、高校生となった我が子の恋愛相談に耳を傾け、その十二年後には式場で孫を抱く我が子の花嫁姿を見届け、そのさらに十五年後には離婚した我が子を抱きしめる。
八十が近い夫とは、病床で再会を果たす。夫は優しく笑い、安堵する。たぶん、次にきみが起きるときまでぼくは生きてはいないからね。夫の死を看取れないことを私は悟り、ふたりのスナップショットをとる。
さらに二十年後、私は三十六歳となった孫に責められる。あなたがいつ再起動しても動けるようにと母はメンテナンスを手配した。ずっと家を離れずにいた。花嫁姿を見せるためだけに式を延ばした。不和は広がり、離婚を招いた。あなたは祖父だけでなく、母にも呪いをかけていた。
むろんすべては理解していた。それでも〈私〉は生きようと願ったし、愛する相手といたかった。憎まれていても、愛する娘が産んだ子だ。その孫を、どうして愛せないわけがあるだろう?
「ひとつたのまれてくれないか」病床での、夫のことばがよみがえる。「ぼくの〈レミニセンス〉はつくらないで。〈ぼく〉だけが、きみに愛されていたいからね」
身体の耐久期限が来るのが先か、孫に棄てられるのが先か。それとも再び起きるのか。
「おやすみ」皺の増えた娘の前で、私はいつかのような、幸せな眠りについていく。
文字数:1229
内容に関するアピール
たまにはベタな直球を投げたっていいだろう。
どのみち、バックネット裏や中継の向こうにはそうそう届かない。
開き直った、純粋な愛(夫婦、親子、家族)が「表」のテーマです。
長命の種族(人物)が「愛する相手を見送る」話はよくあるが、(達観や絶望などの変容をしない)「ふつうの人間」と同じ意識・感覚であるためには経過時間すべてを生きるのではなく「空白」があるべきで、その「空白」を小説構造における場面転換に寄託する。つまり、ブラックアウトを「構造」として織り込むことにより、短編小説としての要請である「章の区切り」と「意識の流れ」の一致を図る。
読者には、経過時間そのものと、断絶し描かれない空白の時間・積み重ねに起きた事象に想いを巡らせるように仕向ける。それはたとえば――とある作家が死に物狂いで研いでいた「なにか」を想うことにも似ている(作品をあたためている間の作家とは何者か、そしてその孤独の本質とは、との問いに読み替えられるかもしれない)。
「返歌」とまでは至らなくても、そんな感想――あるいは「付箋」となるよう願う。
そう――届かなくても(ボール球でも)球は投げたっていいだろう?
文字数:487