Blue Screen of Drivers

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梗 概

Blue Screen of Drivers

いまでは数少ない旧型有人タクシーの運転手である深井は、予約客の乗車を待つべく上野駅前のタクシー乗り場に車を停めた。時刻はもう深夜0時。酒に酔った人々が次々と整列した自動運転の無人車に乗り込み、自ら入力した目的地にむけて出発していく。

深井のタクシーに乗車した行方は、そっと行先を告げる。「七里ヶ浜まで」
 こんな時間に若い女性がひとりで海へ?――深井は彼女の自殺を疑う。顔に装着されたゴーグルのAI(M:e)が、無数に蓄積された過去の事例を眼前に図示した。深井は確信する。彼はどうにかして彼女の自殺を回避させようと説得を試みる。

行方の話によれば、彼女は数日前にある投資で多大な損失を被ったという。原因はそれかもしれない。日本銀行が「仮想円:水流」を発行してからは、誰も物理通貨を扱わなくなった。常時算出される自らの純資産と負債量を、個人が手元で管理するようになった。画面を撫でるだけで手軽に「投資」し、タンクを際限なく拡張できる。いまや総資産は個人のステータス(能力値)そのものとなり、貨幣のイメージは固体から液体に変わった。

 

しばらくして、行方が深井の装着しているゴーグルについて尋ねる。
 深井は、これは自分の運転をAIが安全に補助してくれる便利な機械なのだと答えた。

――しかし、そもそも行方の目的を与えられた情報から容易に結論づけたことからも明らかだが、この男はまだ何もわかっていない。

 

たしかにM:eは安全運転を目指している。ただし、運転手の身体を仮想反射体に置き換えることによって。
 たとえば、運転手が自ら意図的にブレーキを踏んだとする。だがそれは単に「ブレーキを踏まない状態」を仮想反射体が忌避した結果にすぎない。不快感として与えられた危険状態の回避を、深井はあたかも自発的な行動として知覚させられているだけなのだ。

行方の投資先は自分自身だった。体内に埋め込む形式のM:e――資産の総量から期間毎に適切な可能限界放水量を割り出し、損失への危惧を意識から除外するAIを導入していた。仮想反射体が彼女自身の限界を超えた実現不可能な目標を自動的に忌避することにより、つねにより安全な選択がなされている。そして、彼女はそれをあたかも自ら直感的に選択したかのように知覚する。

ではなぜ、行方はM:eを導入したにもかかわらず、多大な損失を被ったのか?

おそらく彼女自身の身体動作が、仮想反射体の挙動に何らかのかたちで反映されたのだろう。つまり、行方の身体動作は、どこかで「不可能」を実現しようとしていたことになる。彼女が海へむかうのは死ぬためではなかった。自分の限界に絶望したわけではなかった。ただ何の根拠もなく、海にいけば何かがあるような気がしたのだ。

 

やがてタクシーは七里ヶ浜に到着する。外に出た行方はゆっくりと地球の上を歩きだす。

M:eはその行方をしばらく深井に見守らせることにした。

文字数:1190

内容に関するアピール

資産の総量が社会行動の経済的な限界として、視覚的に体感される時代のお話です。かつて人々の多くは、自分の所有するものの全体像を意識の外側に隠して生活していました。預貯金の総額や、資産額のわずかな増減など毎日気にしてはいられません。ただそのことによって逆に、たとえ富裕層でなくとも経済的な安定状態を錯覚し、貨幣を万能の切り札として、ときに自身の行動可能範囲が無限に増大したかのような実感を得ることさえできました。

しかし、すでに潜在していた総資産は手元に集結し、その増減に伴い収縮と膨張を繰り返す「水の塊」として描画されます。これが枯れればすべてを失う。そんな環境下で順調にタンクを拡張してきた行方は、その安定性をさらに効率よく維持するためにAIを導入したという流れです。

シンプルな場面設定ですが、三者それぞれの回想などを入れて奥行き感を出したいと思います。たぶん海底に何かあります。がんばります。

文字数:396

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子どもだましの森

 

自宅への帰り道、昼間の駅前広場の片隅に20人ほどの人だかりができていた。普段は見かけないその光景が気になって、ぼくは通りすがりにさりげなく覗き込んでみた。

どうやら通行人たちが足を止め、露天商の実演販売を見物しているようだった。色あせたピンク色のシャツを羽織った白髪の男性が、半円形に群がった人々の中心でちいさな人形を踊らせていた。男性の足元で踊る人形は、柔らかい素材でできた平べったい本体に紐状の脚がついており、その先端には消しゴムのような立体の青い靴を履いている。本体にはいびつな顔で打楽器を抱えて笑みを浮かべるピエロが印刷されていた。

手前のスペースには、透明なビニルで古めかしく包装されたその人形が商品として並べられており、ひとつ1000円で販売されていた。名前はジャンピング・ジョニー。見物人がこの商品に1000円も払う価値を見出すとすれば、ほとんどの場合、その動機は裏側に隠された仕掛けにあるだろう。とはいえ、これは一種の売り逃げ商法。開封してそのあまりに安っぽく原始的な仕掛けにがっかりし、文句をつけてやろうとふたたびこの場所を訪れたところで、明日にはもう誰もいない。つまり、この露店は期間限定のなかなかめずらしい光景というわけだ。

男性の合図とともに、地面に寝ていたジョニーが立ち上がる。身長20センチほどのジョニーはペラペラの身体にもかかわらず、男性の足元で、見事に2本足で起立している。ぐにゃぐにゃしたゴム製の脚をくねらせながら、男性が軽く跳ぶのに合わせて、ジョニーもリズミカルにピョンピョンとジャンプする。

ぼくも以前は奇術師だった。だからジャンピング・ジョニーの仕掛けも知ってはいたのだが、このパフォーマンスには感心した。男性もこの商売をはじめて長いのだろう。現にふたりの息は見事なまでにぴったりだった。ジョニーは声援に応えて宙返りまでやってのけた。彼が踊っているあいだ、男性は商品を片手に見物人の近くまで寄って宣伝をする。観客に疑われればジョニーの頭上に薄い鉄板をかざし、そこに磁石や糸のないことを示した。「ほれほれジョニーくん、ジャンプジャーンプ」と相方に声をかける彼の笑顔がまぶしかった。ぼくはほかの見物人たちに挟まれながら、勝手な想像をして秘かに感動していた。彼の実演パフォーマンスに、そして彼と彼の相方との絶妙なコンビネーションに――。

 

人混みのやや後方で見物していたぼくの前に、茶色のハンティング帽をかぶった若い青年が割り込んできた。青年はショルダーバッグから小型のタブレットを取り出し、手袋をした手で何やら操作をはじめた。ぼくがその画面を彼の肩越しに覗くと、何かのアプリを起動したようだった。そしてタブレットについたカメラを、露天商の男性の足元で踊る人形に向けた。日差しがまぶしくてよく見えなかったが、画面のなかではジョニーが地面の上で陽気に跳ねている。青年はマスクをしていて顔はよくわからなかったが、ずいぶんと息が上がっているようにも見えた。ぼくは、彼がただ動画を撮っているだけだろうと思っていた。動画に撮って、せいぜいあとでじっくり仕掛けの推理でもするつもりなのだろうと――。

そんな呑気な推測に、ぼくが自分で納得しかけていたそのときだった。おそらく青年のタブレットに無線でつながれたショルダーバッグ内のスピーカーからだろう。休日の午後の和やかな空気を切り裂くように、冷淡な機械音声が、その場にいる観衆全員の耳に届くほどの大音量で響き渡った。

 

「トリック の解析結果 が出ました 使用されている 道具 の名称は 85.3 %の確率で インビ……」

 

 

話題のトリック解析アプリ「HOLMES」を、ぼくは自分の携帯用端末にダウンロードしてみた。アイコンには太くしなったパイプを口にくわえたあの名探偵の横顔のシルエットが描かれている。――販売元:JJC-herry、サイズ:5.2TB、カテゴリ:写真/ビデオ――

さっそく起動すると、いきなり撮影モードのような状態になり、ぼくの部屋の壁が画面内を横切った。過去に保存した動画を使って実行することもできるようだったが、リアルタイムでフォーカスされた動く物体を解析するのが主な機能らしい。

「HOLMESはGoogle observation APIを活用し、詐術における各物体の運動を観測した際に生じる一定の効果を解析するアプリケーションソフトウェアです。複数の物体同士の位置関係と軌跡からその中枢となる場を導出し、中枢場の可動限界領域としての操作体の外郭を特定します。さらにディレクションの内外に現れるダークマタを4Dマルチアングルで解析し、結果をR-BAKERのトリックペディアと照合することにより最終的にその構造が明らかになります」と説明欄に書かれている。なるほど、よくわからないが、何となく奇術師が奇術を見る視点に似ている気がしなくもない。ネットで見つけた簡明な解説記事によれば、要するに、もともと天体の観測やスポーツ観戦などに使われていた動作解析AIを、はじめてトリックを見破る「探偵」として起用したアプリであるとのことだ。

 

ぼくは端末の画面が手前になるようにして机の上に立てかけ、手元を映してみた。奇術師の手つきというのは独特で、何も隠していないのに少しの動作で何かを隠しているようにも見えてしまう。ぼくは机の上に放置していた古銭の山から500円玉を手にとり、カメラに映るよう角度を調整しながら握って、揉むようにして消してみた。映像はぼくの手と指の動線をいくつものカラフルな点で順番にトレースし、想像していたよりもはるかに迅速にほぼ正確な解答を提示した。機械音声はぼくが使用した技法の名称を告げ、その説明へ飛ぶリンクが画面に表示されている。そのままアプリの誘導にしたがってみると、リンク先のサイトではその技法の大雑把な解説が図像入りで展開されており、その技法の派生形と、その技法が手順に含まれるトリック名の一覧が膨大なリンクの群れとなって下方に並んでいた。指で何度か大胆にスクロールしてみたが、10秒ほど画面を移動させ続けたにもかかわらず、まったく終わりの見える気配がなかった。

このサイトが噂の「トリックペディア」というやつだ。およそ4000年前から蓄積されてきた、きわめて膨大な奇術トリックのほとんどすべては、R-BAKERという企業のAI技術により約4年半かけてデータ化され、百科事典形式で分類されたという。自分の知らないうちに技術がそこまで進歩していたことにも驚いたが、その手がいつのまにか奇術の分野にまで伸びてきていたことに、ぼくはかすかな恐怖に似たものを感じた。

あと、これはデータ収集に協力した一部の奇術師に対するわずかばかりの配慮なのかもしれないが、HOLMESの説明欄には、あくまでこれは詐欺やいかさまを見破るためのツールだと書かれている。しかし、ほとんどのユーザーにとっては、詐欺師や偽霊媒師の被害に遭うよりも、このアプリを試すために奇術を見に出かけてみようと、友人に誘われる確率のほうがはるかに高いのではないだろうか。

聞いた話によれば、約40年前にインターネットが普及したときにも、こうした秘密情報に関するマナーは奇術界で頻繁に叫ばれていた。そもそも奇術トリックには著作権がない。トリックそのものは何もその固有性が尊重されうるような個人の思想も感情も表現してはいないのだから、当然といえば当然なのかもしれない。なので、誰かが苦心の末に発明した奇術のアイデアも、他人が勝手に公の場で秘密を暴露し、その効力を弱体化させたところで法に触れることはまずない。近代奇術の創始からちょうど200年が経過した2045年の現在まで、この状況は何も変わらなかった。

 

トリック解析アプリの登場もあって、日本には40年ぶりにちょっとした奇術ブームが来ているらしい。以前のブームと違うのは、それが有名奇術師の登場や、奇術師同士のネットワーク形成に端を発したものではないということ。つまり、観客の側から起きたことである。これからは奇術を体験した観客が「ふむ、わからない」と、難問に挑む受験生のように頭を悩ませることはもうないだろう。反応に困った友人との間に気まずい沈黙が流れることもなくなった。見たくもない下手な奇術を上司に無理やり見せられても一撃で看破することができる。名探偵のHOLMESが観客に代わって的確に推理し、すべての不可解な難事件を解決してくれるからだ。

 

しかし、そんな流れに逆らうように、一般観客の前で演目を披露する奇術師の数は急速に減りつつあった。ぼくの場合はすでに引退していたし、すでに本業である数学の講師に専念しようとしていたのだが、ジョニーを目撃したあの日以来、解析アプリの存在を知ってからというもの、結局はふたたび奇術のことを考えてしまっている。

 

後日、20年前に卒業した母校からぼくの端末に突然のメッセージが届いた。地方の山麓にある、古くてちいさな小学校だ。ぼくはメッセージが届いたことよりも、まだ母校が(名前は変わっているものの)存在していたこと自体に軽い驚きがあった。手書きの年賀状を卒業後3年間も生徒たちに送り続けてくれていたあの桜木先生が、画面に並んだテキストの向こう側にいるのかと思うと不思議な気分だった。

ぼくが奇術師として活動していたことを、先生はどこかで耳にしたのだろうか。いずれにせよ、メッセージの内容はとてもシンプルだった。ここ最近のブームの影響で、奇術に興味をもった子どもたちがホンモノを生で見たがっており、6年生が卒業してしまう前にぜひ一度、遊びに来てくれないかとのこと。現在の全校生徒は7人だそうで、ぼくがいた頃にくらべて30人は減っているようだ。

かれこれ数時間は迷ったが、結局、ぼくはその日のうちに快諾の意を表す返事を送った。子どもに見せるのもそうだが、人前で演技をするのもずいぶんと久しぶりだった。

 

HOLMESの完全なる推察力を味方につけた人々のなかには、ここ数か月のあいだにネット上で、奇術を古い時代の「子どもだまし」と呼びならわす風潮があった。これまではその性質上、閉じた世界のなかで秘密を保持してきた奇術業界だったが、いざメスを入れて開けてみれば中身は単純、その実態は無知な子どもだけが踊らされてしかるべきくだらない発想の寄せ集めにすぎないと。辛辣な言葉が有名奇術師たちに浴びせられていた。

ある日本人旅行者はエクアドルを訪れた際、現地で見かけたコリオリの力の実演をその場で看破し、憤慨する演者にカメラを向け続けた動画を投稿して話題を集めていた。

GPSの普及によって道に迷う人間が徐々にいなくなっていったように、もしかしたら、大人がトリックに引っかかる時代はもう永久に来ないのかもしれない。ぼくはそんなことを思った。

 

「けっ。おれはワトソンの相手なんてもうごめんだね。これからはなるべく幼稚園とか保育園みたいな現場に絞って、平和に和やかな奇術ができるよう売り込んでいくつもりさ」

かつての同業者であるマーベラス花山は電話でそう語った。彼はHOLMESを使って奇術を解析する観客を「ワトソン」と呼んでいた。マーベラスの言うとおり、以前は子ども相手の奇術こそハードルが高いと云われていたものだが、いまとなっては大人の観客のほうがはるかに手強いのだろう。いくら大人でもある程度の人数がそろえば、撮影・解析禁止のマナーを呼びかけても守らない観客というのはかならずいるものだ。ましてバーで酒に酔っている客ならなおさらその確率は高い。昔もひどいときには現行犯を逮捕するように腕を掴まれ、再演やタネ明かしをしつこく要求され、演技を妨害されたこともあったが、いまでは妨害するくらいなら後ろでこっそり探偵に依頼するのだろう。

 

喫茶店の扉を開けてなかに入ると、ぼくの入店を確認したことを示す電子音が鳴った。観葉植物に隠れたいちばん奥の席に座り、テーブルの表面に映るメニューを非表示にしてから、入店前に注文しておいたアイスコーヒーを壁に設置されたドリンクゲートから取り出した。同時にふたたび電子音が鳴ったのでふりかえると、アメフト選手みたいな巨漢が扉の近くに立っていた。マーベラス花山だ。

ぼくの正面に座ったマーベラスは、ドリンクゲートからぼくと同じアイスコーヒーを取り出すと、先ほど電話で話したことをまた繰り返しながら、目の前でコーヒーがシャーベット状になるまで粉砂糖を投入した。

「おい、そんなに砂糖を入れたら、体に悪いんじゃないか?」

マーベラスの手が止まる。粉砂糖の入った丸いビンを握り潰しそうな太い腕だ。

「森宛さんよ、あんたはもう、ほんとうに奇術師じゃなくなっちまったんだな」彼はどろどろになったコーヒーをストローで混ぜながらつぶやく。「おれがほんとうにこのコーヒーを飲むと思っているのかい?」

ぼくは戦慄した。やはりマーベラス花山はいまだに現役なのだ。あらゆる現場の空気にその身を曝してきた現役のプロフェッショナル・マジシャンなのだ。この男の前ではいかなる先入観や固定観念も早急に取り払わなければならない。どれほど些細な前提も通用しない。常識も慣習も足元から崩壊し、自分の手の動きすら信じられなくなってしまうほどだ。おそろしいことに、この男は喫茶店でアイスコーヒーを注文しておいて、自分好みに大量の砂糖を投入したにもかかわらず、それを飲まない……!

マーベラスはコーヒーを混ぜるのをやめると、ぼくに尋ねた。「ところで、あんたはどう思う? 日本の近代奇術は滅びると思うかい?」

唐突な質問にぼくは驚いた。だが現在のこの状況は、いずれそれほどの大きな事態につながりかねないだろう。「さあ、どうかな。でも名探偵に敵視されてしまっているようだし、少なくとも、これまでどおりというわけにはいかないのかもしれないね」

マーベラスはしばらく沈黙した。やはり彼もぼくと同じことを秘かに考えていたのだ。これが近代奇術にとって深刻な打撃なのは間違いない。特に日本におけるこの解析アプリの流行は明らかに異常だ。にもかかわらず、奇術師以外の誰もがこの流行を何の抵抗もなく受け入れている。それに対する無力感と、隠し切れない苛立ちが彼から伝わってくる。

「ああ、くそ!」マーベラスの声が店中に響いた。彼はぼくがまだ手をつけていないもうひとつのアイスコーヒーのストローを抜き捨てて一気に飲み干した。迂闊だった。彼が砂糖を入れたほうのコーヒーを飲まないことには気づいていたが、まさかぼくの手元にあるものを飲むとは、完全に想定外だった。ぼくは奇術師でありながら、手元にあるアイスコーヒーが自分のものであることを当然の前提にして放置していたのだ。

「大人たちのほとんどは奇術師の敵になっちまった。やつらそのうちトリックを使っただけでおれたちを火あぶりにするつもりだぜ!」

一時的に過熱しているだけなのかもしれないが、多くの人々は近代奇術を「子どもだまし」と呼んでいる。それがなぜなのか、ぼくにもまだ正直よくわかっていなかった。はたして奇術がほんとうに子どもをだますだけにすぎない代物なのか、もう一度、自分の手でちゃんと確かめたいと思っていた。

「今度、母校の小学生たちの前で演技をしてくるよ。たぶん、それがぼくにとって最後の奇術だろう」

「……ほんとうにやめるんだな」マーベラスはため息をつくと、テーブルの上を流れる新メニューの広告を指でなぞりながら話した。「小学生には気をつけろよ。困ったときは、あのロベール・ウーダンの言葉を思い出せ。『奇術師は魔術師を演じる役者である』いいか? おれたちは役者なんだ。ところがどうだい。いまの観客ときたらその真逆じゃないか。役者を演じる魔術師になっちまったんだよ。毎日学校に通う小学生なんてもともとその最たるものさ」

彼の言わんとすることはわかっていた。奇術界における役者と魔術師の区別は明白だ。コインを1枚消すにしても、魔術師は呪文さえ唱えればコインがひとりでにその場から消えてくれるが、役者がコインを消すにはまず身体のどこかに隠さなくてはならない。たとえそのコインがどんなに不潔で悪臭を放っていても、役者はその臭いを嗅ぎながらも手元に秘かに保持する方法を考えなくてはならない。逆に、そうやって物体を隠せる身体や隠すための技術があるからこそ、ぼくらは役者なのだとも言える。

「役者になりきる魔術師か。かつては魔術でたくさんのことを実現させていたはずなのに」

「そうだ。やつらは前提によってありもしない不可能をでっちあげているんだ。物体が隠れただけで消えたように感じてしまうのはそのためさ。だから、せめて奇術師だけはいかなる前提にもとらわれちゃいけねえ。いいか? すべての前提を捨て去るんだ!」

さりげなく置いた前提のなかに何かを隠し込む手法を、奇術師たちはサトルティと呼ぶ。観客はいちいち目に見えるすべてを疑ってなどいられない。世間の大人なら誰もが、多くの前提を自動的に了解しながら日々の生活を送っている。つまり、トリックは仕掛人とのあいだにかぎらず、じつはどこにでも潜んでいるということだ。だからこそ、役者として魔術師を演じるには絶えず前提に対して敏感でなくてはならない。彼の忠告はもっともだ。

「わかったよ。ありがとう、マーベラス」

 

 

新関越自動車道の自動運転車専用車線を走行する車内で、ぼくは助手席の下に何かが落ちているのを発見した。拾い上げようとして、手を伸ばしかけた瞬間に気づく。ジョニーだ。売り逃げ露天商の相方、上下に跳ねて踊るピエロの人形だ。

あの日、あの青年が解析アプリでトリックを暴露した途端、それまでジョニーに笑顔で話しかけていた白髪の男性は血相を変えて店を畳みはじめた。徐々に観衆がその場を立ち去るなか、そそくさと仕掛けを片づけて逃げようとする彼に、ぼくは声をかけたのだ。

「あの、ひとつください」

露店商人は想定外の事態にかなり驚いた様子だった。ぼくは彼が動揺しているのを尻目に、彼の腰にぶら下がっていたカードリーダーに自分の端末をかざして支払いを済ませ、地面に落ちていた1体のジョニーを拾った。

「いいのかい? タネわかっちゃったんだろう?」

「いえ、もともと知っていましたし、こんなことが起きる前から買うつもりでした」

ぼくは自分が奇術師だったことや、彼らの実演に感銘を受けたことを率直に話した。そして、あの青年の目的と、彼の鞄から聞こえた機械音声はいったい何だったのか、何か心当たりはないかと、少しためらいつつもさりげなく彼に尋ねてみた。

「あれね。ホームズっていう人工知能の声らしいよ。ほれ、こういう商売だろ? あの人、たぶん前にどこかでこれを買ったお客さんなんじゃないかなあ。若い人のやることはわかんないね」

露店商人は苦笑しながらそう言うと、手に持っていた2体のジョニーを荷物のなかに放り込み、最後に「ありがとね」とだけ付け加えて去っていった。

 

青年の動機は、ジョニーの秘密を知って失望したことの腹いせだろうか。たしかに奇術では、その裏側を知ってがっかりすることはよくある。自分がどれほど考えても見破れなかった問題の解答には、できるかぎり理解不能なすごいものであってほしい、そんなふうに無意識に願っていたのかもしれない。その期待の高さと、原理の単純さとの落差が大きければ大きいほど、裏切られたときの失望は恨みにも変わりうるのだとしたら……。

しかし、売り逃げ露店商人は全国各地を順番に逃げまわっているはずで、同じ人物をふたたび発見するのは容易なことではないだろう。ネットの目撃談を頼りに自ら足跡を追ったか、もしくはプロの探偵に依頼したか……。

 

「探偵」という言葉が頭をかすめただけで、ぼくは不意に逃走中の指名手配犯になったような心持ちがした。子どものころに読んで憧れもした推理小説の名探偵――その名を拝借したAIがいま、奇術師たちが長い年月をかけて精製してきた無数のトリックの効能を打ち消そうとしている。やがては日本だけでなく世界中にこの風潮は拡大し、トリックの苦味をゆったりと笑顔で嗜む文化などは根絶やしにされるかもしれない。

歴史をふりかえれば、たしかにトリックはいつだって人々を子ども扱いしてきた。錬金術とは正反対に、見る者の不完全さを露呈させ、目の前にある事実をあっさりと見逃してしまう愚鈍な自分自身の姿に直面させてきた。考えてみれば、そんな子どもだましの仕掛人がはじめて燕尾服に身を包み、シルクハットをかぶり、劇場の舞台に上がり、物語に満たない原始的なイタズラをあたかも大人向けの立派な劇であるかのように仕立て上げることで、19世紀のブルジョワたちの品性を挑発的に試したのが近代奇術のはじまりだったのではないか。科学によってそれまでの不可能が次々に実現した時代、そしてさらなる不可能さえ実現したかのように思わせる技術が発達した時代、そこからはじまったひとつの文化が、いずれそう遠くない未来にて、誰にも看取られずに息を引き取るのだ。科学の力がすべての秘密を暴くことに成功するのだ……!

ぼくは勝手な想像でひとり静かに興奮していた。これから最後の現場に向かう途中だからか、普段よりも大げさなことを考えるようになっていた。

 

突然、フロントガラスのワイパーが動きだした。気づけば窓の外ではいつのまにか雨が降っている。そんなのはお構いなしに高速ですれ違う対向車の列。ぼくはハンドルから手を放してただ座っているだけなのに、車は時速110kmものスピードで走り続けている。不意に自分の置かれている状況が不思議に感じられてきた。

ワイパーがうっとうしい。自分で運転していれば、意識は前方の景色に集中するので気にならないわけだが、いまはそのリズミカルな動きが自分を挑発しているようで不快だった。

さいわい雨は小降りだったので、ぼくは車載AIに向けて昔ながらの呪文を唱えた。――「Hey, K2 ワイパーを止めて」

ワイパーは畏縮したように減速し、ゆっくり下へ格納されていった。いまだにこういった仕組みはよくわからないが、ぼくには特に専門知識もないし、仮に詳しい説明を聞いたところでますますわからないだろう。

ぼくはおもむろにジョニーを袋から出し、以前グローブボックスに入れておいた予備の道具で仕掛けを設置し、彼をダッシュボードの上に立たせてみた。じつに単純な仕掛けで、こうして見るとほんとうに「子どもだまし」そのものだった。車のかすかな振動が伝わり、ジョニーの両足が奇怪な動きを見せた。あの露店商人の笑顔が頭に浮かんだ。

ぼくはふと思いつき、助手席に置いた携帯用端末を手にとって、HOLMESの販売元および開発者名の「JJC-herry」を検索にかけてみた。ネットで噂されているように、このディベロッパアカウントはおそらく個人のものだ。R-BAKERが秘密裏に編纂していたあの膨大なトリックのデータベースを一般公開してからわずか1週間後に、この解析アプリはリリースされている。とすれば、この開発者はR-BAKERに何らかの関わりがあるか、さもなければよほど先見の明がある人物に違いない。何度検索を重ねてもその正体は謎に包まれているようで、予想どおりネットではR-BAKER内部の人間であるとの説が最有力とされていた。ぼくはしばらく画面を凝視ながら奮闘するうちに、偽名か本名かはわからないが、少なくともその両方の候補にはなりうる、怪しいひとつの姓名にたどり着くことができた。

「……今野独流」

ぼくが小声でそうつぶやいた瞬間、ダッシュボードの上でジョニーがしゃべりだした。

 

「はっはっは。そういうことだよ、森宛恭樹くん。ワタシが誰か、もうわかるね?」

HOLMESの機械音声を模してエフェクターで加工されたような声が響く。

ぼくはすぐさまジョニーの胴体を真横に手で引きちぎった。声の発信源は、この踊る人形の本体に挟まれた厚さ0.3mmほどのアルミのような金属でできた硬いカードだった。しかもポーカーサイズだ。

「お前は誰だ!どうしてぼくの名前を知っている!?」と、ややドラマチックな口調で尋ねてみた。第一声で「もうわかるね?」と言われたが、ぼくは何もわかっていなかった。なぜなら探偵ではないからだ。ふつうに考えれば、ジョニーがしゃべりはじめたタイミングからして今野独流本人なのだろうが、ぼくはあくまで奇術師なので、無条件の前提を飲み込むわけにはいかない。

「……はっはっは。ワタシの名前は今野独流だ。キミのことは昔からよく知っているよ!」

「ぼくのことを昔からよく知っているだと!? どうしてぼくのことを昔からよく知っているんだ!?」

「……はっはっは。続きはキミが雷辺場小学校に着いてからにしようじゃないか!」

 

さっきまでジョニーだったカードはそれきり応答しなくなった。ぼくの台詞に対する返答までの妙な間と、相手が発した言葉の当たり障りのない内容から考えて、いまのは事前に録音された音声である可能性が高い。

ぼくは念のため、そのカードは破棄せずに懐のポケットにしまっておくことにした。ジョニーがぼくの声に反応してしゃべりはじめたことから盗聴の疑いもあるので、到着するまではK2に話しかけるわけにはいかない。パネルのディスプレイを指で操作し、手動でサイレントモードに切り替えた。車内が一気に真空になったように外部からの音が遮断され、かすかな走行音だけが座席の下から響くようになった。

車は高速を降りて一般道に入り、見覚えのある景色と山々がすでに前方に広がっていた。

 

 

母校の校庭は記憶していたよりもだいぶ狭く感じた。車は無防備に開け放された校門を抜け、ぼくは運転を手動に切り替えてから、校舎の向かいの隅にある花壇へ隣接するようにして車を停めた。後部座席からおなじみの装備一式を詰めたアタッシュケースを手早くつかんで外に出ると、雨上がりの湿った空気と校舎を囲む山麓の木々の匂いによって、ぼくは体内にある時計のネジを強引に20年前まで巻き戻されたような感覚になった。

校舎は手前側に突き出た部位だけに不自然な改修が施されていて、まるで首から下が死んでいるのに、残された頭だけでしぶとく生きている巨大な生物のように見えた。校庭には200メートルトラックのラインがかすかに残る赤土の地面が広がっており、雑草が至るところに生えている。

そしてその中央に、若い男がひとりで立っていた。

ベージュのコートのポケットに両手をしまい込み、頭にはあの茶色いハンティング帽をかぶっている。ぼくは徐々に距離を詰めつつも、その青年の横へまわり込むように早歩きで移動した。青年はずっとこちらの様子をうかがっているようだった。

ぼくと青年との距離が10メートルと迫ったそのとき、彼がポケットからゆっくりと右手を下に出して指先を広げた。その腕を地面に垂らすような格好で、手のひらをそっとこちらに向ける。はっきりとは見えなかったが、ぼくはその歪んだ手の形状に見覚えがあった。というよりも、その一角に限定すればあまりにも見慣れた光景だったために、ほんの一瞬だけ、親近感にも似たものを感じたほどだ。青年の手のひらの中央では銀色の物体が、曇り空の隙間から差すかすかな陽光に反射してキラキラとその存在をこちらに示している。

(あれは……、クラシック・パーム……? いや……、)

コインを扱う奇術師にとって必須の課題でもあるクラシック・パームは、手のひらの筋肉を絶妙な力加減で中央に寄せ、母指球と小指球のあいだにコインをつっかえさせて保持する、あくまでも基礎的な隠匿の技法である。ところが、1980年代に活躍した稀代の名手ジョン・コーネリアスはあるとき、そんなクラシック・パームの状態にある手のひらの筋肉にさらなる力を加えることによってコインを勢いよく弾き飛ばし、もう片方の手へ瞬間的に投げ渡すという革命的なアクロバットに成功した。その瞬間、のちに数十年にも渡って一部の物好きな技巧派たちに偏愛され、やがて常軌を逸した修練のかぎりを尽くされることになる、このあまりにも奇特なひとつの技法が誕生したのである。

(マッスル・パス……!!)

青年の手から低く鈍い破裂音が聞こえるとともに、直径3センチほどの銀色の物体が球体状に回転しながらゆるやかに上昇し、ぼくの顔のわずかに横を高速で通過した。背後でガキンと衝突音が鳴り、ふりかえるとサッカーゴールのポストの上部に黒い跡がついていた。その足元にはケネディ暗殺の翌年に発行されたアメリカの50セント銀貨が落ちている。

「どうした! 奇術師なんだろう? 見破ってみろよ!」青年はそう叫ぶと、さらにコインを飛ばしてきた。彼がポケットからコインを装填し、発射するまでの時間は3秒とかからず、ぼくは危険を感じてアタッシュケースで顔を隠し、校舎のほうへ走って逃げようとした。すると彼はそれを阻止するかのように、ぼくの進行方向の先へコインを飛ばしてきた。

彼の言う「見破ってみろよ」とはいったいどういうことなのか? あの技法がマッスル・パスであることは、奇術師のぼくにとって火を見るよりも明らかだ。何か隠している秘密があるということなのだろうか?

青年はゆっくりとこちらへ歩み寄りながら、続けて叫ぶ。「奇術なんて所詮この程度なんだ! 子どもだましもいいところさ! ぼうっ! ぼうっ!」

言葉とともにコインが次々に飛んでくる。ぼくはどうにか隙を見てとびかかって青年の動きを封じようと考えたが、それは難しかった。距離を縮めるほどコインは速度を増すために回避することができなくなり、ちょっとの怪我では済まなくなってしまうのだ。

事実、彼のマッスル・パスはかなりのものだった。これだけ連射しているのに威力の衰える気配がまるでない。どんな訓練をしてきたのかは想像もつかないが、速さだけならマーベラス花山のそれにも匹敵するかもしれない。

 

マーベラス――、そうか! ぼくはまたもや奇術師として肝心なことを忘れていた!

つくづく己の未熟さを思い知る。唐突に見慣れた技法を披露されたせいか、思わぬサトルティを自ら引き寄せてしまっていたらしい。

はじめからすべての前提を捨て去れば、真実は至極単純なものだったのだ。つまり、

 

これは奇術ではない。

 

ぼくは青年の動きを横目で見て、かろうじてコインの弾をかわしながら、ジョニーに入っていたあの金属製のカードを懐のポケットから取り出した。右手人差し指と中指でカードの上隅を挟み、肘を曲げ、大胸筋をしならせながら後頭部まで大きく振りかぶる。この構えによって指先のエスティメーション感覚は全身に拡張され、わずかな空気の流れから青年の挙動を肌で感じ取り、正確に標的までの距離を把握することに成功した。一般的には「トランプ手裏剣」と呼ばれるこのテクニックもなかなか奥が深いもので、たとえ紙でできたふつうのカードを使ったとしても、けっしてその威力を侮ってはいけない。真に正しい投げ方さえマスターすれば、大抵の野菜くらいは容易に切断することができるだろう。ましてこの重量と強度を併せ持つ金属製のカードと、10年前にスピリット百瀬師の映像を見ながら腕のちぎれるような鍛錬の末に体得したこの「神の手」投法が合わされば、その切れ味はぼくの想像などはるかに超えているはずである。

 

放たれたカードがゆるやかな弧を描いて空を切った次の瞬間、青年の右手首より下が地面に落ちた。彼は自分の身に何が起きたのかわからなかったようで、発射されないコインに違和感を覚えて手元を見ると、ようやく手首から先がないことに気づいた様子だった。

 

「やっぱり、それはサードハンドだったんだね」ぼくは息を切らしながら青年のもとへ近寄り、敵意のないことを示すようにして声をかけた。彼は切断された義手の断面を袖から覗かせて、落ちた右手を呆然と眺めていた。彼の右手は手のひらにセットしたコインを、高速で回転させながら射出できる仕様になっていた。かなり多くの部位が独立して稼働するらしく、まだいくつかの関節が痙攣するように動いている。義手の技術がここまで進歩していたことを、ぼくはいままで知らなかった。こうした特殊能力の面では、すでに生身の手を十分に超えているだろう。

 

青年は校舎のほうへ目をやりつつ、口を開いた。「桜木先生に会いに来たんでしょう? 奇術師として」

「いや、ぼくはただ」先生に会いに来たのはほんとうだった。ただそれが本来の目的ではなかった。「子どもたちに奇術を見せに来ただけだよ……奇術師として」

青年がはじめてぼくの目を見た。「失敗しますよ? いくら子ども相手でも、いまでは簡単に見破られる」

ぼくは少し間を空けてから話した。「きみは少し勘違いをしているよ。奇術師はトリックを見破られても、失敗することはありえない。観客がトリックを見破ったとしても、それを伏線に利用した別のトリックに移行するだけなんだ。なぜならそれが奇術師の仕事だからね。観客の行為が招くのは奇術の失敗でも成功でもない。その行為が生んだ新たな展開と結末にすぎない。大事なのは、その過程で生まれてくる現象にどう向き合うかだ。見破られないことを目的としたトリックは単なる詐術でしかない。詐術を繰り返せば探偵は何度でも召喚される。ぼくら奇術師が危惧しているのは、すべての奇術が詐術になって、無限にイタチごっこを繰り返してしまうことなんだ」

青年は切断された右手を見つめながら言った。「……つまり、おれや先生が追いかけていたものは、奇術ではなかったと」

「わからない。ただ、奇術師は追われればどこまでも逃げるが、追われないかぎりは絶対に自分からは逃げない。それだけは間違いのないことさ」ぼくは口角を微妙に上げて自然な笑顔をつくった。青年もかすかに笑みを浮かべ、そのまま無言で立ち去ろうとした。

ぼくは彼を止めるようにして尋ねた。「やっぱり、きみはここの卒業生だね?」

「もういいんです」青年はこちらをふりかえると、どこか満足そうな表情で言った。「自分のやることはもう終わりました。桜木先生によろしく伝えてください」

 

 

校舎の玄関口を抜けると、事務室の脇に初老の女性が立っていた。桜木先生だ。頭には白髪染めの跡が目立ち、派手な眼鏡をかけていたので、自分の現在の視覚と昔の記憶とがちょっとした摩擦を引き起こしそうになったが、ぼくは彼女の目つきや動作からあの桜木先生に違いないだろうと判断した。自分が小学生のときは40代だった先生の面影は、もう写真で残せるような外見では識別できないものになっていた。

「森宛くん、久しぶりねえ。よく来てくれたわねえ」と、いかにも定型的な歓迎の言葉をかけられ、早々に廊下を歩いて校長室まで案内された。桜木先生は現在この学校の校長らしい。校長室には歴代校長の写真が遺影のように並んでおり、その更新は20年前で止まっていた。古い大型のデスクトップPCが机の上を占拠し、奥にあるカーテンの開いた窓からは校庭の様子を見ることができた。

卒業した当時の思い出、同級生の現状などをひとしきり話した直後、窓の外を眺めながら、桜木先生は唐突にぼくに言った。「……門名くんに会ったのね」

先生はすべてを知っている。そして、ぼくがそれに気づいていることにも、すでに気づいているのだろう。

「あなたは、今野独流さんですね?」思い切ってそう口にしてみたが、先生は何も答えなかった。襲いかかる沈黙を払うように、ぼくは続けた。「車でジョニーに話しかけられたときは驚きました。ここが雷辺場小学校という名前だったのは、もう20年も前のこと。その名前と、ぼくの本名を同時に知っているのは桜木先生、あなたしかいません。おそらくあなたは、ぼくに気づかせるためにわざと……」

先生はぼくに背中を向けて言った。「ええ、そうよ」

「門名くんというのは校庭にいた青年で、あなたのかつての教え子ですね?」ぼくは思ったことを素直に訊いた。

「HOLMESをつくるときはあの子にいろいろと教えてもらってね。でも、苦労したわ」先生は窓ガラスを指でなでながら、次の言葉を探しているようだった。「……でも、ほんとうはずっと後悔していたのかもしれない。ほんものの奇術を、いつか自分の目で見て確かめたかっただけなのかも。それであなたをここに呼んだ」

ぼくは自分がまるで探偵のような台詞を発していることに驚いていたが、いまはすべてを話しておきたかった。「ぼくの想像ですが、彼はR-BAKERの関係者ですね。ここまでしてあなたに協力したのは、彼にもまた奇術に対する何らかの敵意が……」

「R-BAKERは門名くんの起こした会社よ。彼はもともと奇術が好きだったの。でも8歳のときに事故で右手を失ってからは、テレビで見た奇術のタネを徹底的に分析して、あたしに夢中で解説してくれるようになった。あたしはもともとトリックをネットで検索するのが好きだったから、彼にはすごい才能があると思ったわ。あたしの世代はテレビ番組で、視聴者を挑発するような演出を施された奇術をずっと見て育ってきたし、奇術といえばタネを見破るものでしかなかったから……解析アプリの開発はずっと夢だった。マルチアングル解析ができるグーグルのAIで奇術を見破るアイデアは、門名くんが大学生のときにあたしが思いついて話したの。けど、そのためには膨大なトリックのデータベースが必要だった。彼は大学の仲間と起業して、様々な媒体からトリックの類型を学習できるAIの開発に挑んだ。そして5年前、ついに彼からトリックペディアの構想を聞かされたの」

ぼくは目の前にいる人が、あの桜木先生だとは信じられなかった。いまは、あくまで今野独流に話しかけているのだと、心のなかで自分に言い聞かせていた。

「露店商人を妨害したのも、あなたたちですね? 彼はおそらくあなたの……」

「夫よ。あの人が失業したとき、街で見かけたジョニー商法のやり方をあたしに尋ねてきたの。この学校も廃校寸前だったし、仕方なく手伝ってきたんだけど、ほんとうはああいう奇術はやりたくなかった」

「やはり、あなたはあの場にいたんですね」

「森宛くんは気づいていたはずよ。あの実演販売はひとりじゃできないもの。夫の近くで、ほかのお客さんに紛れてジョニーを動かしていたのがあたし。きっとあなたならジョニーを買うと確信していたから、夫を誘導してあの場所に店を構えさせた。HOLMESがタネを明かしたあと、カードを仕込んだジョニーをどさくさに紛れて地面に置いてから、その場を立ち去ったわ」

ぼくが語るまでもなく、今野独流はあっさり真相を話してくれた。おそらく彼女はさっきまでずっと、この部屋から校庭の様子を見ていたのだろう。青年がぼくにコインを乱射し、ぼくが青年の義手を切り落とす一部始終を……。

 

「ごめんね、森宛くん。正直、あたしはずっと奇術が嫌いだった。奇術を生で見るのも怖かった。ここを卒業したあなたが、リミテッド森宛の名で奇術師をしていたことをネットで偶然知ってね、それを軽い気持ちで角名くんに話したのが、すべてのはじまりよ」

ぼくは桜木先生の背中に向けて言った。「先生はさっき、ほんものの奇術を自分の目で見て確かめたかったとおっしゃいました。それが本心だったのなら、ぼくは今日、そのためにここへ来たのです」

「……ありがとう」先生は窓によりかかるようにしてこちらを向き、しばらく間を置いてから話しはじめた。「あたしね、じつはかつて一度だけ、ジョニーがこの手を離れて、あたかもほんとうに生きているように見えたことがあるの。操っているのは自分なのに、変な話でしょう。でも、もしかしたら心のどこかで、あの裏側から見える不思議な一瞬の喜びを、世間にもっと広めたいなんて気持ちがあったのかもしれない」

「その一瞬の喜びがあるから、奇術師はトリックを手放さないのです。タネを知らない期間に限定されない、もっと別の楽しみが奇術にはある」ぼくの考えは徐々に変わりつつあった。たしかにマーベラスの言うとおり、いずれ日本の近代奇術は滅びるのかもしれない。だが、もし人々が名探偵の力で暴いたトリックの真実に触れ、かつて驚いたその不思議な現象をほんの少しでも、自ら手を動かして再現しようとしてみるのなら……。不意に昔の記憶が頭をよぎる。考えてみればぼくだって、もとはタネへの好奇心からその秘密を見破りたくて奇術をはじめたのではなかったか。台詞を唱えるだけで直感的にどんな目的も叶えんとする魔術師ではなかったか。たくさんの数えきれない前提があったからこそ、すべてを忘れて夢中で眺めていられる光景があったのだとすれば……それが奇術に精通したいまでも、じつは何ひとつ変わっていないのだとすれば……。「桜木先生、こんな話があるのをご存知でしょうか。奇術をはじめたての頃、鏡の前で練習したことのある奇術師なら、おそらく誰もが経験したことのある不思議な体験です。鏡のなかの自分が起こした現象に、自分でびっくりするのです。馬鹿みたいでしょう。でも、その感覚が妙におもしろくて、奇術師は練習と称して何度も何度もひとりで同じことを繰り返しては、自分で自分をだますのです。どんなに秘密が明かされても、昔からずっと、その喜びだけはなくなりません。奇術師はほかの誰よりも奇術の裏側を知っていながら、いまだに奇術を見て楽しんでいます。あのとき、ぼくはジョニーの仕掛けを知っていたはずなのに、あなたの存在をしばらくのあいだ忘れていました。あなたはあのときたしかにジョニーそのものだった。あの公衆の面前で、あまりにも自然に姿を消すことができていたのです」

 

 

桜木先生に連れられて図工室へ移動すると、7人の子どもたちが席に座って待っていた。高学年と思しき2人の生徒は自前のタブレットを盾のように構えている。やる気満々といったところだ。ぼくは構わないと言ったのだが、桜木先生は彼らからタブレットを没収した。その2人だけが探偵の力を借りるのは不公平との理由だったが、本心はそうでないことがぼくにはわかった。彼女は生徒たちの後ろで、ぼくの演技を見守った。

机を移動させ、その上にマットを敷いて、クロースアップ・マジックを演じた。このスタイルでは客席との境界線がほぼないに等しく、奇術師は観客と同じ空間に立ち、自分を疑い怪しむ相手と対話することで信頼関係を築く必要がある。子ども相手の奇術にこれほど適さない形式はないだろう。

子どもたちはずっと静かなままだった。よくあることだ。全員がぼくの手の動きを食い入るように見つめ、自ら推理した考えをみんなにわかるように解説しはじめる子もいた。見覚えのあるトリックには遠慮なく「それ知ってる」と牽制球を投げてくる子もいた。

どの子もぼくの声などほとんど聞いていない。すべての意識はタネに集中し、ぼくの姿はどこにもない。ここで目撃した不思議な現象を、きみたちはいつかふとしたときに思い出すだろう。幼い頃のかすかな記憶として、顔も名前もわからない奇術師の、手の動きだけをかろうじて思い出すだろう。それでいいのだ。きみたちはまだ子どもなのだから。

 

すべての演目を終えると、子どもたちからまばらな拍手が贈られた。後ろにいる桜木先生はずいぶんとおおげさな拍手をしていた。彼女の目元には涙の跡のようなものが見受けられたが、ぼくはまだ前提にとらわれない習慣から完全に自由ではなかった。

 

ぼくが帰ろうとすると、7人のなかでいちばんちいさな男の子が上着の裾をつまんで声をかけてきた。「ねえねえ、もっとすごいの知ってるよ」

「すごいのって、何かできるのカイくん?」桜木先生が割って入る。

彼はそうじゃないとばかりに首を横に振った。どうやら奇術のことではないらしい。ぼくも何のことか尋ねてみたが、彼によれば学校の裏にある婆南無の森で見かけた何かのことらしい。その様子を見て、ほかの6人が群がってきた。みんなも次々にカイくんに質問をぶつけた。彼はひとりだけ歳が離れているせいか、妙にみんなに可愛がられているようだった。

 

ぼくは子どもたちとともに、カイくんに案内されて婆南無の森へ散歩に出かけた。そろそろ日も落ちはじめる頃なので、なるべく早めに戻ってくるつもりでいた。

この森にも少年期の思い出が詰まっていそうなものだが、不思議とあまり記憶にない。そんなことを考えながら、ぼくは子どもたちと木々の生い茂る山道を登っていった。

 

「こっちこっち」とカイくんが指を差した場所はちいさな草むらになっていて、その先は5メートルほどの急な崖が下に伸びていた。柵が設けられてはいるが、子どもなら容易にくぐり抜けてしまいそうな高さだ。

森の奥から雷辺場の滝の音が聞こえる。崖の下には湿った草がまばらに生えており、周囲は樹木のない開けた場所になっていた。傾きはじめた太陽が雲間から顔を覗かせると、やや奥のほうには木漏れ日に照らされた1メートル半ほどの高さがある岩が見えた。ぼくはすぐに、カイくんがみんなに見せたかったのはまさにこの岩だったのだと気づいた。子どもたちは戸惑ったように、静かに、そして少し警戒しながら驚嘆の声を上げた。

 

岩は宙に浮いていた。いや、正確に表現すれば、浮いているように見えているだけだろう。きっと何らかの原因で足元が奥に深く抉れ、縦長の主部分が首を前に伸ばす人の顔のように、あるいは大きな扇風機のようにこちら側へ突き出ているために、この角度から眺めたときにあたかもそのように見えているだけだろう。岩の周辺に落ちているいくつかの丸石からして、もしかするとあの場所にはかつて川が流れていたのかもしれない。しかし、たとえそれなりの水量を伴った流れと長い年月をかけたとして、あんな形状に岩が削れるものだろうか……?

ぼくは子どもたちに崖の下へ落ちないよう注意を促すと、ふと思い立って、ポケットからこっそり携帯用端末を取り出し、HOLMESを起動した。自然現象を相手に解析結果が出るのかはわからなかったが、そっとカメラで岩を撮影してから後ろへ下がり、音声をOFFにして、秘かにわくわくしながら画面の表示に注目した。

ぼくがその結果を子どもたちにも教えてあげようか迷っていると、ちょうど桜木先生から電話がかかってきた。暗くなるから早く帰るようにとのことだった。ぼくは子どもたちとすごい大発見をしたと伝え、詳しい話はあとで彼らから直接聞いてほしいと言った。

「おーい、そろそろ帰らないと暗くなっちゃうよ」ぼくは崖のほうを向いて、みんなに声をかけた。しかし、カイくんを含む7人の返事は崖の下のほうへと細く響いただけだった。彼らはいつのまにか地面にうつ伏せになり、息をのんだように浮遊する岩の姿をじっと観察していた。この場所からでは、あの岩の全体像を把握することはできない。それくらい、みんなはわかっているはずだ。物事をすべての角度から同時に見るなんて誰にもできない。あのマーベラスですら、光に頼らなければ何も見えないのだから。このHOLMESが易々と超えてしまった、ぼくたちの限界がここにある。

 

しかし、どうやらいまだけは、みんな事件の全貌は後回しみたいだ。

 

ぼくは端末を片手に近づいて、さらに声をかけようとした。ほんとうは帰ることよりも、名探偵が出してくれた意外な答えを、早く教えてあげたくて仕方なかったのかもしれない。

でも、結局はみんなと一緒に、もう少しのあいだだけ、あの宙に浮かぶ不思議な岩をじっくりと眺めてみることにした。

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