月は晴れているか

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梗 概

月は晴れているか

「やっぱ乳首っぽい」

郁人のつぶやきに結衣は肘鉄を食らわせた。

「やめてよ不謹慎だな」「今日は晴れてる。よくみえるよ」

相模原クレーターの縁に立つ三鷹天文台。夏休みの間、天文部はここの望遠鏡を借りた天体観測を行っている。すっかり公転周期が速くなった月を自動追尾しつつ、粉塵をすかして昼夜の境界線に照準を合わせ続けるプログラミングを行なったのはオペレーターの結衣である。

男子部員は月に衝突して大きく隆起しているヘルツシュプルング山を「乳首山」と呼んではしゃいでいる。地球を滅亡させる小惑星衝突の名残をそのように呼ぶ感覚が、結衣には理解できないのだが、郁人のつぶやきを聞いて少し胸がうずいてしまったのが恥ずかしかったのだ。

結衣はこのときすでに妊娠していた。結衣の両親がそのことに気づいたのは夏休みが終わった後である。近所のファミリーレストランで、郁人の両親を含めて六人で話し合いが持たれた。話し合いは終始なごやかに進んだ。高校を卒業したら、結婚しても、しなくてもいい。互いの親たちは初対面だったが家に遊びに行き合う二人のことはすでに知っていた。四人の親たちは全力で二人をサポートすると約束した。

十五年前の恒星間小惑星の地球への衝突は、月に遮られたことによって回避された。だが月重力の数パーセントに及ぶ巨大な小惑星は月に自転運動のモーメントを与え、同時にわずかな公転速度の低下をもたらした。衝突の結果飛び散った破片はほとんど軌道外に飛び出ていったが、いくつもの大型隕石が地球に降り注ぎ、日本においては相模原平野に巨大なクレーターを形成した。

月の公転軌道は徐々に縮小し、公転周期は加速に転じていった。月の地球衝突はおよそ二十年後と予想された。それはニュートン力学による宣告であり、そこでは量子力学的な知見の出る幕はなかった。

カウントダウンが始まってから生まれる子供は”ムーンチャイルド”と呼ばれた。

人類はおおむね、火星への移住を目指す人々、人工衛星都市に一時避難して様子をみようという人々、高緯度地方と極点地域のシェルターに移住する人々、そして静かに最期を迎えるべく淡々と日々を過ごす人々に分かれた。

天文台の研究員となった結衣は、月の動向を追い、なんとか生き延びようとする人類のために正確な予想の発信を自分の使命と感じていた。その点で結衣は最期のグループに属していたといえるだろう。地元の工務店で働いて結衣を助ける郁人も同様で、経済的にもそうせざるを得なかったし地球脱出を求める激しい政治的争いからは距離を置きたかった。

”ムーンチャイルド”には優先的な避難権を各国が競うように提供していた。結衣の仕事に憧れて同じ三鷹天文台に就職していた二人の娘は極点シェルターへの避難に当選した。太陽よりはるかに大きく空を隠す月の影の中を飛び立つ、娘を乗せた飛行機を、二人は静かに涙を流しながら見送った。

視界から飛行機が消えるころ、二人の肩を、娘の柔らかい腕が抱いた。

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内容に関するアピール

しずかな滅びの話しです。

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