ナイトウォッチ

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梗 概

ナイトウォッチ

 新月の夜は祭りだ。月の監視が及ばない闇夜、〈土の人〉は歌に踊りに夜通し興じる。火を囲んで踊る輪の中のマニを眺めながらハチは、皆が自由なこの夜に、自分の想いを口にできない不自由を痛感している。同時に、月の目が届かない〈塔の人〉は、いつでも自由に自分の想いを言葉にできるのだろうか、とも考える。
 月が見守ってくれない夜。それはそれで恐ろしい――そんなことをハチは思ったりもする。

 新月の翌日、夕方になって太陽の光が弱まる頃になると、〈土の下〉から皮膚の強い大人たちがまず起き出してくる。前日分の〈塔〉からの廃棄物と排泄物を、資源とエネルギーに戻さなくてはならない。鈍い動きの〈土の人〉を見下ろす〈塔の人〉は、侮蔑の言葉を吐き棄てながら、家路につく。
 五本の〈塔柱〉と、それを繋ぐ巨大な壁と三十層のデッキ、そしてその空間に被せられたドーム型の屋根。床、天井、壁――あらゆる面が〈塔の人〉を守るシェルターとして機能する。同時に、それらは〈塔の人〉の行動を管理し、監視衛星を介して国内に残された十二の〈塔〉とのネットワークを形成する。〈塔〉の連帯の管理下に置かれた人々は、太陽からも月からも守られている。天体の脅威から守られている。

 ハチは月を見る。それが、作業中に死んだ母の目に似ているから。しかし、ある日、その月が模様を失っていることに気がついた。まるで、白内障で失明した晩年の祖母のような瞳。誰かに伝えようとするが、夜を生きる〈土の人〉は月を見上げたりしない。月はいつでもそこにいたから。
 その時、村の外れに光が落ちてきた。轟音と地響きは、〈土の下〉に作られた集落の天井をいくらか崩落させた。ハチとマニら子供たちはいち早く光のもとへ急ぎ、ついで大人の男たちが疲れた様子でついていく。クレーターの中心には大きな鉄の塊が転がっており、青白い光をしばらく明滅させた後、黒い煙を吹いて光は消えた。技師であるハチの父フェンは、子供たちを遠ざける。マニの父で、〈塔〉との連絡役を務めるディルは、フェンと言葉を交わすと、月明かりを背に村を立った。

 数日後、二本の〈塔柱〉の上部が、墜落してきた監視衛星によって破壊された。ドームが崩れ、上から七層までが削り取られる。〈塔〉の中に太陽の光が射し込み、衛星に巻き込まれなかった人々の皮膚を焼いていく。残された三本の〈塔柱〉に逃げ込む〈塔の人〉。
 広場に一冊の絵本が残されている。太陽と月が追いかけっこする話だ。しかし、その話で本当に追いかけられていたのは、毎日を生きる人間だった。

 〈塔〉から戻ったディルは〈土の人〉に語る。人工衛星が未確認の天体の接近によって軌道を外れた。これから、順に全ての衛星が地上に落ちてくるだろう。そのうち、いくつがこの周辺に落ちるのかは分からない。しかし、落ちる可能性のある衛星の数は五千を超える。
 フェンは村を離れることを提案する。太陽は脅威だが、〈塔〉と心中する義理はない。今こそ、他の〈土の人〉と繋がる時だ。
 ハチは月を見上げ、そしてマニを見る。自分たちの父親が語る選択に首をかしげる。月はどこまで離れても、僕たちを見ている。模様を失っても、そこから動くことなく。

 無数の人工衛星が地上に降り注ぐ夜、大地は光に包まれ、国中の〈塔〉が土に還っていく。ハチとマニは、瓦礫と化した〈塔〉を登って夜空を見上げる。すると、黒い空に切込みが入り、もう一つの月が目を開いた。二つの満月を見ていると、そのつるんとした表面に、瞳孔のような模様が現れ、二人は安心して目を閉じた。

文字数:1460

内容に関するアピール

 子どもの頃、月が追いかけてくることに不思議を感じた人は少なくないだろう。それはもちろん、月が遠くにあるからそう感じるに過ぎない。
 ――という答えに意味はない。どうして追いかけてくるのは、いつも月なのか。太陽ではなく

「リ・デザインされた世界は、デザインする動物をリ・デザインする。これが、人間であることの真の可塑性である」(ビアトリス・コロミーナ マーク・ウィグリー『我々は人間なのか? – デザインと人間をめぐる考古学的覚書き』)

 月は、人間を追いかけているかのように思われるべくデザインされた。そして、月が人間を追いかけているかのように見えることが、人間をデザインし直した。
 ――そんな風に考えることはできないだろうか。人間は、闇の中で、自分を見つめている月によって作り上げられた存在であると。
 だとすれば、人間が人間自身を監視することができるようになった時、つまり月がその役割を失った時、果たして月と人との関係はどのように変容するのか。
 月は、人間が得た人工衛星という目を、凝視するかもしれない。あるいは、破壊するかもしれない。月と人との、文字通りの蜜月関係を取り戻すために。

文字数:491

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 一、二、三――そして四つ目は半拍で折り返す。
 火を囲んで踊るマニのステップは、周りのみんなより半拍短く、少しずつ動きがずれていく。いつもは結んでいる長い髪が、この夜だけは自由に広がり、ステップにあわせて楽しそうに跳ねる。
 ハチは、短く刻まれる四拍目の時の脚の伸びが好きだった。炎の赤をそのまま染め抜いたような衣服を巻いて、その布地を裂きながら左足が現れる。その速くて強いステップは、マニだけじゃなく、それを見ているハチのことまで、新しい音とリズムの世界へ連れて行ってくれる。
 月が瞳を閉ざしている新月の夜だけ、〈土の人〉は自由に振る舞うことができる。多くは祭りに興じ、何組かは手を取り合って暗がりに消え、わずかに数人が誰にも見とがめられることのない孤独の中に身を置く。
 ハチは、新月の夜は決まって、村外れの〈はなわ〉の上から祭りの様子を見ることにしていた。皆が戸惑うマニの四拍目で、気持ちよくリズムを取りながら。残念だが、一緒に踊ることはできない。ハチの左脚は、素早いステップや回転に耐えられない。古い傷だ。決して回復することがないくらい。
 冷えた夜風に疼く脚をさすりながら、マニと闇夜を交互に見比べる。その視界の端に、同じく祭りから距離を置くフェンの姿が見える。マニの父親フェンは〈組み頭〉だ。堅物のフェンは、新月の夜であっても仕事の手を休めることはない。しかし、その繊細で鋭い指先が生み出すのは、この夜ばかりは単なる仕事道具や〈絡繰カラクリ〉ではない。少しでも〈土の人〉の暮らしが楽になるように、あるいは、不当に命が脅かされることのないように、月の目のない闇夜に新しい〈絡繰カラクリ〉を考え、生み出している。
「月は何も悪くないよ」ハチは時々、父親の態度に反論してみることがある。「月の明かりがあるから、僕たちは夜の暮らしを続けることができるんじゃないか」
 フェンは傷だらけの拳で腰を叩きながら応える。
「月は俺たちの仕事ぶりを監視する。しかも、監視するばかりで俺たちを救いはしない。お前も分かってるはずだ。月も、そして〈塔〉も、俺たちの生活にとってはどちらも同じ。高みの見物を決め込む、いけ好かない隣人だ」フェンの言葉に、ハチの左脚は一歩後じさる。
 〈土の人〉の多くは、月に対していい印象を持っていない。昔語りの中に、月と人とが戦った話が多いせいかもしれない。太陽が命を脅かす存在である以上、月も同じであると考えているのかもしれない。あるいは、闇に隠れることを赦してくれないからかもしれない。
 ハチは村から視線を上げて、北東の空を見やる。天を割ってそびえ立つ〈塔〉の周りには、何十もの小さな監視プローブが周回軌道を描いている。いわば、〈塔〉にとっての月がこれらのプローブだ。
 僕たちの月は、たった一つ。代わりはない。
 もしも、〈塔〉の天辺から月を眺めることができたなら――。月にもっと近い場所で、その光を感じたい。白く、囁くような光を。
 祭りの火が穏やかに揺れ始めると、〈塔〉の彼方の空が白み始める。火を囲んで座っていた〈土の人〉は、いそいそと祭りの片づけを始める。祭りの間に散々飲み食いしたので、この日ばかりは朝食はなしだ。早々に手伝いを終えた子ども達は、普段よりも寝つきがいい。大人達も、ゴミの〈還し〉は今夜に回して、〈ねぐら〉に引き上げる。
 太陽が照りつける間、〈土の人〉は眠り続ける。陽射しは強く、熱せられた土は乾いてひび割れていくが、風通し良く作られている〈塒〉は快適だ。逆に〈塔〉は外から見ると黒く輝いていて、日光が中へ影響を及ぼさないようになっている。プローブも忙しく回遊し続け、その眼差しだけは〈塔〉の外壁を透過する。
 やがて日が傾ぎ出すと、まずは大人達が〈塒〉から這い出してきた。皮膚の抵抗力は、年齢を追うほどに強まる。だから、西の空に太陽の光が残っている時間帯でも動き始められる。昨日休んだ分、今日は普段の倍の仕事量をこなさなくてはならないが、新月明けとあって気力は十分だ。
 四十年以上生きることが滅多にない〈土の人〉の中で、三十五歳のフェンと、三十八歳のマニの父ディルは、現在の村の中心だ。毎日の仕事も、この二人の掛け声から始まる。
 村に一人しかいない〈語り屋〉であるディルは、村の長であり、指導者としての役割を担うと同時に、唯一〈塔の人〉との交渉を許された〈土の人〉でもある。誰よりも長い巻衣をゆったりと着こなし、胸のところには星をあしらった金属の留め具が輝いている。ディルの風を震わせる声は、村のどこにいてもよく聞こえ、誰もが畏敬の念をもって接していた。
 一方、〈組み頭〉であるフェンはいかめしい風貌で、大地を揺るがすようなその声は、〈土の人〉に緊張感を与える。〈組み屋〉は、仕事と生活のための道具を作り、直し、暮らしの全ての土台を担う。フェンの与える恐怖感は、〈組み屋〉の仕事への安心感の裏返しであり、彼もまた畏怖の念をもって遇されていた。
 フェンの指示のもと、〈組み屋連〉は、起き出してきた〈土の人〉たちに、各々が必要とする道具を渡し、それぞれが仕事に取り掛かる。一方で、ディルの命令で〈還し屋〉が祭りで消費した〈煉擬ネルギ〉の残骸を土に還していく。これは、月が目を開く前に終えなくてはならない。
 〈土の人〉の全ての仕事は、〈煉擬ネルギ〉に始まり〈煉擬ネルギ〉に終わる。仕事の道具も、道具の動力も、全てこの〈煉擬ネルギ〉によって賄われる。
 煉擬ネルギ〉の材料の一つは、〈塔〉から移送される〈灰品ハイヒン〉と呼ばれる物質だ。これは、〈塔〉で出る廃棄物を焼却してできるもので、三日に一度、地下の〈灰水路ハイスイロ〉を通って届けられる。
 もう一つは、〈塔〉から降り注ぐ〈落垢ラック〉だ。〈塔〉の壁面は太陽に照らされて乾き、夕方になると風に吹かれて剥がれ落ちる。これを集めるのは〈拾い屋〉の仕事だ。
 ハチたち十歳以上の子どもは、まだ十分に日が落ちていないのに外に出ようとする小さい子らを押しとどめながら、〈組み屋〉から回ってきた道具を手に、日没を待つ。〈拾い屋〉のハチは、先端に五本の爪と網のついた竿を手に、特に爪の手入れに余念がない。爪が鋭すぎると、〈落垢ラック〉を不用意に傷つけてしまうおそれがあるし、爪の磨きが甘ければ、地面に落ちた〈落垢ラック〉を拾い上げられない。
「ハチ、二本目が鋭すぎるぞ」一つ年上のソラが、やすり石を放ってよこす。
「ソラのだって、同じぐらい磨いてるだろ」
「俺は〈拾い〉がうまいからいいんだよ。お前は不器用だから、すぐ引っ掛けるだろ」
 ハチは不満の声を上げながらも、二本目の爪を削っていく。ソラの言うことに間違いはない。
「降ってきた!」小さい子らが目を輝かせて、感嘆の声を上げた。
 真っ赤に照った空から、光を浴びた薄片が降り注いでくる。一つひとつはゆっくりと回転しながら夕日を反射し、風に乗って〈塔〉から村へと流れてくる。大人達も手を止め、空を見上げて嘆声を上げる。毎日目にしていても胸躍る光景であることには変わりない。ただ一人、フェンを除いて。
「ティワズ! もう、行ってもいいでしょ」ハチが〈拾い頭〉のティワズに声を掛ける。二十八歳のティワズは、大人達の中でも一際背が高く、手にした竿も長い。子ども達の憧れの的だ。
「そうだな。もう太陽は山の向こうだし」ひと呼吸おいて、にやりと口元をゆがめ「野郎ども、〈落垢ラック〉を残さず回収だ!」
 地響きのようなティワズの声に、〈拾い屋連〉は竿を振り回して応えた。女達の迷惑そうな視線を無視して、ハチもソラも五本の爪を頂いた竿を掲げた。
 〈拾い屋連〉が竿を振りながら、宙を舞う〈落垢ラック〉を集めるのを遠目に見ながら、マニはゆっくりと体を起こし、両手を上にして背筋を伸ばした。昨日の踊りの熱が、体のあちらこちらに凝っているような気がする。〈捏ね屋〉の作業は、他の仕事よりも少し遅くに始まる。〈拾い屋〉の集めてきた〈落垢ラック〉が必要だからだ。これを熱湯と一緒に適量の〈灰品ハイヒン〉と混ぜて、捏ねていく。そうやって出来上がった〈煉擬ネルギ〉のうち、四分の一は〈土の人〉の生活の資材として供されるが、残りは全て〈灰水路ハイスイロ〉を経由して〈塔〉へと納められる。
 虫を追う子どものような〈拾い屋〉と違って、〈捏ね屋〉はひたすら忍耐の仕事だ。〈塒〉に隣接する〈捏ね場〉では、火にかけられた巨大な釜を相手に、長く幅広のへらを使って、ひたすら混ぜ続ける。にもかかわらず、マニはこの仕事が好きだった。釜の中を行きつ戻りつする動きの中には、リズムがあった。〈落垢ラック〉の不規則な動きに踊らされる〈拾い屋〉と違って、そこには自分だけのリズムを織り込むことができる。
「ほら、マニ。とりあえず、一杯目」息を切らせながらハチが戻ってきた。荷台の上の籠には、南国の巨大な花びらのような〈落垢ラック〉がいっぱいに入っている。ハチが籠を両手で抱え、ふらつきながら釜に近づく。
「無理するなって」横からソラが手を添え、〈落垢ラック〉が釜へと滑り落ちていく。炎の赤を受けて、光を溢れさせながら、水の底に消える様もまた神秘的だ。
 〈拾い屋〉の籠から次から次へと〈落垢ラック〉が投入され、足元の火力が追加されていく。燃料となるのも、もちろん〈煉擬ネルギ〉だ。釜の上から覆いかぶさるようにして、全身を使ってへらを動かす。汗を拭う暇もない。〈落垢ラック〉の一つひとつは雲母に似た形状をしているが、それらに力を加えても、簡単には壊れない。それが、水に反応すると軟化し、空気を含ませながら混ぜることで、粘性のあるペーストへと変化する。〈灰品ハイヒン〉をどの程度混ぜるかによってその粘度と性質が異なり、それぞれ違った用途を持つ〈煉擬ネルギ〉となる。
「マニ! この子はまた変な拍子を刻んで!」〈捏ね頭〉フロージの叱責が飛ぶ。誰よりも大きな釜を相手取って、大量の〈落垢ラック〉を溶かしこんでいる三十三歳のフロージは、村の女性の中では最年長だ。年齢だけでなく、〈捏ね屋〉で鍛え上げた腕っぷしの強さには、男達も頭が上がらない。しかし、マニはそんなフロージの言葉も意に介さない。普通のリズムなんて御免だ。それに〈落垢ラック〉達も、複雑なリズムを欲している。
 それを証明するように、周りの〈捏ね屋〉よりも、マニの釜の中の変化は速い。光沢のある灰色だった〈落垢ラック〉は、水と混ざるほどに青みを帯びて、釜の所々に透明の塊が生まれる。へらに加わる抵抗が少なくなってきたところで、必要量の〈灰品ハイヒン〉を加える。粉状の〈灰品ハイヒン〉が混ざることで粘性が生まれ、マニのリズムはますます楽しげに釜の中を踊る。もうしばらく捏ねれば、〈煉擬ネルギ〉の完成だ。
 この精製の早さを目にしてしまうと、フロージといえども唸る以外にない。マニのせいで、〈捏ね屋連〉全体が困惑していることは確かだが、マニの技術には誰も敵わない。
「退避! 退避!」
 突然、ティワズの警告の叫びが村に響き渡った。〈塔〉を周回するプローブが軌道を逸れて、村へ向かって落ちてくるのだ。各作業連の頭がティワズの言葉を反復し、子どもを優先しながら〈塒〉の奥、土の下に掘られた〈貝堪シェルタ〉へと誘導する。〈塒〉から離れて作業に当たっていた〈拾い屋〉は、ティワズを殿に、竿を置いたまま駆け足で戻るが、ハチの脚は走ることができない。
「ティワズ、先に戻ってください」
「ハチ、担がせろ」脇の下に手を挿し入れて抱き上げようとするティワズを、ハチは両手で押しとどめた。
「マニが見てるから」小声の返事に、ティワズは耳を近づける。「大丈夫。今日は一つだけみたいだし、絶対に当たりません」
 〈塔〉を見上げてハチの言葉を確かめたティワズは拳をハチの胸に押し当てて「お前は目がいい。焦らずに戻って来い」と言うと、竿を回収しながら、飛ぶように〈塒〉を目指した。
 ティワズの忠告通り、ハチは一度足を止めると、改めて〈塔〉の方角を見据えた。墜落するプローブは、舞い散る〈落垢ラック〉を吸着しながら、次第に隕石のような姿へと変容していく。いつの間にか、薄く目を開けた月が、そのプローブを流し目で見据えている。大丈夫、当たらない。ハチは力強くうなずき、プローブの落下地点の予測計算を始めた。
「どいてろ」
 背後から大地を踏み鳴らすような声が響き、ハチの胸が驚きに震えた。振り返るまでもない。「父さん」
「俺の後ろに来い」〈組み頭〉フェンの手の中には巨大な馬上槍のような物が握られている。目を細めてプローブの動きを見定める。落下が加速し、周囲に貼りついた〈落垢ラック〉が赤熱し始めている。こうなると、距離が取りにくい。
 フェンは腰に掛けた計算尺を取り出し、プローブの高さと速さから、落下地点を割り出す。この、三枚の円盤を組み合わせた計算尺を使いこなすことができるのは〈組み屋〉の中でも限られた人間だけだ。それでも足りない計算は、右足を使って地面に展開する。フェンの視線は〈塔〉とプローブと大地を忙しく行き来し、いくつかの数式がイコールで結ばれた。
「絶対に離れるなよ」フェンの声に緊張が混じる。ハチは、促されるように空を見上げると、〈落垢ラック〉を巻き込んだプローブが巨大な火の玉へと姿を変えている。「思ったより、大きいな。時間帯が早すぎる」〈落垢ラック〉は日暮れ頃に最も多く降り注ぐ。
「直撃? 移動した方がいいんじゃ――」
「父親が守ると言ってるんだ。黙ってろ」
 フェンが足を止め、槍状の物体の持ち手の部分を地面に突き立てた。内部で低く唸るような駆動音がし、派手な音と共に本体の部分が花のように開いた。
「これだけ?」ハチが驚きの声を上げた。フェンはいつも妙な〈絡繰カラクリ〉を発明をするが、今度ばかりは失敗だ。「ただの傘じゃないか」
「傘と言うな。〈サン〉と呼べ」フェンは振り向き、歯を見せた。ハチの落胆をむしろ喜ぶような様子だ。「東洋の傘を参考にした」
「やっぱり傘なんじゃないか」
 フェンが柄の部分を操作すると、再び内部から〈絡繰カラクリ〉の駆動音が響く。今度は軋るような甲高い音がし、開いた部分が回転を始めた。
「もう二度と、プローブに命はやらん」
 回転音の中に消えたその声は、ハチをしゃがませたその手の中に、プローブを睨み付ける決然とした表情の中に、はっきりと刻まれている。
 プローブは二人の人間くらい簡単に飲み込んでしまう程に巨大化し、強い熱を発しながら大地に接近する。〈サン〉と接触した瞬間、岩の砕けるような音を立て、フェンは腰を落として柄を握る両手に全力を込めた。プローブは、外側を覆っている〈落垢ラック〉を削られながら、その速度を殺されていく。ハチは目を見張った。興奮に、思わずフェンの腰帯を強く握った。
 燃える〈落垢ラック〉が周囲に飛び散り、強い閃光を放って灰になる。速度を完全に殺されたプローブ本体は、〈サン〉に弾かれて地面に転がった。
「さすがだな」すぐ後ろから聞こえた声に、フェンが驚いて振り返る。「プローブが直撃したのに〈土堕クレイタ〉ができていない。完全に勢いを相殺した」長い巻衣が風に舞い上がり、星の留め具が金属音を立てる。
「ディル! どうして避難していない!」
「自分の子どもには逃げるなと言っておいて、それはないんじゃないか」
「これはまだ初号機だ。〈サン〉の陰にいれば安全だが、プローブの勢いを完全に殺せるかどうかは未知数だった」
「そうか、俺は随分と危険な賭けに乗ってしまったんだな」ディルが大口を開けて笑い、手を差し出した。〈サン〉の回転を止めたフェンは、その手を握って応える。
 〈塒〉から次々と〈土の人〉が飛び出してきた。ハチは左脚をさすりながら、父親が助けたかった人のことを思った。僕は、手遅れになる前に、その手段を手に入れられるだろうか。人波の向こうで再び釜に火を入れるマニを見ながら、ソラ達の抱擁の中に飛び込んだ。

 〈塔〉の五角形の頂点には、それぞれ巨大な〈塔柱〉が据え付けられており、〈塔〉を支える柱の役割を果たすと同時に、〈塔の人〉の階層間の移動を担っていた。上昇と下降、二つの可動フロアが階層ごとに十五秒間停止し、人々を吐き出し、あるいは飲み込みながら、絶えず移動し続ける。
「一つ、落ちたな」スーツ姿の男が吐き捨てるように言う。
 可動フロアの外面は極厚のアクリルガラスに覆われているが、外光を遮断する加工が施されているので、外はほとんど見えない。それでも、炎をまとって墜落するプローブは、宵闇とのコントラストで嫌でも目に飛び込んでくる。
「いくらだ」隣にいた、同じような背格好の男が聞く。
「三ヶ月で一万八千は徴収されそうだな」
「甘いって。今回のは、ほら、先月の報道で言ってた新型だろ。三万は堅い」少しだけ背の高い三人目の男が、二人の後ろから溜め息交じりに割って入る。
 五本の〈塔柱〉の内、最も西に位置する〈金柱〉の可動フロアには、彼ら以外にも三十人ほどの勤め人が同乗している。この時間の下降は〈居住層〉に帰宅する人々だ。皆、同じようなスーツを着込み、誰もがプローブの墜落を苦々しげに語っている。
「プローブに、〈塔〉を周回させる意味があるのか」別の集団の男が口を開く。
「その方が、動作の安定性とセキュリティの安全性が高い、って聞いたぞ」
「それだって〈管理層〉の言い分だろ。それを鵜呑みにできる根拠はないっていうのに」
 一人が苛立ちを声に出した瞬間、エレベーター全体が赤い警告色に染まり、降下速度が低下した。男は慌てて詫びの言葉を口にする。
 同乗者たちが右手を上げて、詫びを受け入れると、即座に警告色は消えたが、その男はうつむいて口を閉ざした。
 その可動フロアと逆行するフロアには、それぞれ二、三人の男しか乗っていない。行き先は〈勤務層〉のさらに上、地上部分全五十層の最上層に位置する〈管理層〉だ。皆、同じスーツ姿だが、下降する人々と違って、軍服のような金ボタンと徽章が光っている。
「プローブのあの燃え方、付着する〈落垢ラック〉が多すぎるな。代謝速度を調整しないと」
「ああ、剥離量を抑えなくてはな。肌トラブルは早めのケアが肝心だ」
 〈塔〉の外壁は有機物によって構成されており、この細胞壁の新陳代謝によって、生命を脅かす太陽から〈塔の人〉を守る役割を果たしている。そして、太陽光によって細胞壁の表皮が死んだ結果、剥離したものを〈落垢ラック〉と呼んでいる。
 落垢ラック〉は、晴れの日一日分の陽光を十分に浴びると、日の傾ぐ頃から少しずつ剥落し始め、空が赤く染まる頃には、風に削がれるようにして薄片が降り注ぐ。無数の〈落垢ラック〉が夕日に照り映える様を、〈落垢ラック〉の一つひとつが乱反射しながら、複雑精妙な光の輪舞を踊る様を、〈塔の人〉が目にすることはない。彼らは外光を通さないガラスと、陽光を往なす細胞壁、そして〈塔〉の最上階に据え付けられた先端の尖ったドームとによって、光と風の世界から閉ざされていた――いや、それらは防護壁として〈塔の人〉を外界の過酷な環境から守っていた。
 〈塔〉の周囲を回遊する大小三十機余りのプローブは、〈塔〉の内部環境を管理し、人間関係を監視している。国内十二の〈塔〉はプローブを介して相互にネットワークが形成され、収集された情報は、人類種の延命という崇高な目的のために供されている。

 仕事の声が聞こえ始める夕暮れの空の下、ハチは村外れの〈塙〉の上から、昨日の夜に降ってきたプローブを眺めていた。周りにはフェンをはじめとした数人の〈組み屋〉、プローブの解体を担当する〈還し屋連〉、そして村の代表〈語り屋〉のディルが言い争っている。
「また揉めてるのか」〈塙〉を上りながら、ソラが声を掛ける。
「父さんは〈塔〉とプローブを憎んでるから」
「他人事みたいな言い方だな。ハチはどうなんだよ」
「プローブで死ぬのはしょうがないことだって」ハチは〈塔〉を周回するプローブを見上げた。何十もの規則正しい軌道が、いつ牙を剥くかは予測不能だ。三ヶ月間、全く落ちてこなかったこともあれば、二週で次の墜落が起きたこともあるし、三機続けて落下したこともある。「確率の問題だから」
「それは、大人の理屈だろ。まあ、フェンさんは違うわけだけど」〈塙〉を上り切ったソラが、片足立ちでバランスを取る。「俺は、フェンさんの考え方は好きだけどな」
「うん、そういう人が増えてるって――〈塔〉に対する反感を抱く人が増えてるって、マニが言ってた。……マニは、困ってた」
「なんだよ。マニは父親がディルさんだから困ってるんだろ。同じ理由で、お前はリリルさんの死を受け入れるっていうのか」
「……よくわからない」
 母親のリリルがプローブの墜落に巻き込まれて死んだのは、ハチが五歳の時だ。
 フェンとリリルは同じ〈拾い屋〉の仕事の中で愛情を深め、程なくハチが産まれて結婚した。出産から四年間、母親は〈育て屋〉として、自分の子どもだけでなく、〈土の人〉全体の食事と生活を支える仕事につく。やがて、ハチも五歳になり、リリルが〈拾い屋〉の仕事に戻ると、フェンは自ら申し出て〈組み屋〉に転向した。それから半月もしない頃に起きた事故だった。
 幼かったハチには、強い光と炎のイメージが刻まれている。〈塔〉から光が降り注ぎ、大地が炎に包まれた。その炎の中から母を抱きかかえた父が現れた。二人とも、背中に光を背負っていた。夜空が赤々と輝き、月の姿が見えなかった。
 そう、月は見えなかった――。
 地面に横たえられたリリルの目は閉じられていた。ハチは、最後に自分を見てほしかったが、大人達に引き離された。立ち尽くす父さんの後ろでプローブがもう一つ炸裂し、全てが炎と熱風とに吹き飛ばされた。
 イメージは残っている。それでも、その事実に対して、どんなふうに心を働かせることが正しいのか、ハチには分からなかった。
 無表情にうつむく様子を見たソラが慌てて言う。
「ごめん。意地が悪かった。俺は、まだ親とか兄弟とかハチとかみたいに、自分に近い人を亡くしてないから」ソラがゆっくりと息を吐く。「でも、少なくとも、俺はお前に死んでほしくない。しょうがないって思わないことが、大事な気がする」
「うん。それは分かってる。でも、ディルさんの考えは、単にあきらめろ、っていうんじゃないと思う」
「そらそうさ。何か考えがあるに決まってる。なんせ、史上最強の〈語り屋〉だぜ。うちの親父なんか、口を開けばディルさん自慢だもな。〈塔〉のやつらに、こんなにたくさん〈煉擬ネルギ〉を割り当てさせるなんて、これまで誰もできなかった芸当だ! ってな」
 ディルと〈還し屋連〉は納得したのか諦めたのか、フェンを残して〈塒〉へと戻っていく。フェンは、何事もなかったかのようにプローブに向き直り、腰の袋から工具を取り出した。壊れたプローブが一瞬、瞳孔をきらめかせるように動いた――ハチにはそう見えた。
 〈塔の人〉を監視するために周回するプローブ。でも、何のために監視するのか。
 大人達は、月が〈土の人〉を監視していると言う。それなら、月は何のために監視するのか。
 〈塔の人〉も〈土の人〉も、今とは違う生き方を求めることはできない。それなら、人々の何を監視するというのか。
 ハチは視線を空へと泳がせる。薄く瞳を開けた月が、奇妙に白く輝いていた。月を見ることが好きな、そして月が見つめてくれることに安心を覚えるハチは、首を傾げるしかできない。ティワズの集合の合図が一帯に響き渡り、ソラに手を引かれて〈塙〉から滑り降りた。
「今日の月、ちょっと白すぎない?」
 ソラが怪訝な表情で振り返る。
「月って、白かったっけ」
 ハチは頭を掻いて、ソラの肩に手を置いた。

 月の白さは、日を追ってひどくなっていくように、ハチには感じられた。月を見つめ返す人がいないなら、僕がそうするしかない。ハチは太陽が山の端に消えると、すぐに〈塙〉に上って、ティワズの声がかかるまで、その様子を観察した。三日目まではソラも隣で付き合っていたが、四日目には竿の訓練に戻ってしまった。
 一週間が過ぎる頃になると、その異変は明らかだった。半月まで瞳を開いた月の模様が、跡形もなく失われていた。
 月の表面には暗い影があったはずだ。その模様は、様々な昔語りの中で、恋人の語らいだとか、狩人と巨獣だとか、祭りの夜の踊りだとか、いろんな言われ方をしていたが、その影が、そっくり消えてしまっていた。
 〈塙〉から転げ落ちるように駆け下りると、ハチは左脚を引きずりながらフェンの元へ急いだ。途中、竿の訓練に勤しむソラと〈拾い屋〉の仲間が声を掛けたが、ハチの耳には入らない。
「父さん!」
 〈捏ね場〉のそばの広場では〈組み屋連〉が車座になって道具を手入れしている。道具の補修にも〈煉擬ネルギ〉は欠かせない。この広場に入れるのは、〈組み屋〉と〈捏ね屋〉だけと決められていた。
「やかましい! 見てわからないのか。今、道具の手入れ中だ」フェンの怒鳴り声に広場の空気が凍りつく。
「まあまあ、フェンさん。ハチがこんなに慌てるなんて、尋常じゃない」フェンの隣に座っているのは、〈組み屋〉の二番手ドローミだ。目の前に並べた十を超える道具を次々に検査し、若手の手元に投げ返していく。するとすぐに、今度は先端が波型に切られた太い棒がドローミの手元に集まった。「どうした。何があったよ。落ち着いて話してみな」
 喉が渇いて貼りついている。言葉がうまく出てこない。この左脚のせいで、これまで全力で動いたことなどなかった。息をすることが、こんなに難しいなんて。
 その時、〈捏ね場〉からマニの悲鳴が上がった。短くわめくような悲鳴ではなく、獣が遠吠えするような悲鳴だ。広場の外れで作業中だったディルが飛び上がって駆け出し、その様子を見たフェンも立ち上がる。〈捏ね場〉からは、他にも何人かがマニの叫びを支えるように、声を上げている。皆、一様に空を指さしている。
 月だ。
 ハチが満足げに振り仰ぐと、さっきまで半月だったはずの月が、その腹を膨らましている。のみならず、見る見るうちに満月へと近づいていく。そしてやはり、どこにも影が、模様がない。ハチは、死ぬ間際に失明した祖母の目を思い出した。虹彩が真っ白に染まって、村中をさまよっていた姿を。
 ハチは驚いて周囲を見回した。しかし、立ち上がる〈組み屋連〉の視線は、月よりももっと北の方角、〈塔〉の方を向いている。
「フェン、〈サン〉は使えるのか」ディルの怒号が空気を震わせ、混乱と叫び声を捻り潰した。「女、子どもは急いで〈貝堪シェルタ〉へ! 男達はサポートしろ! 命を張れ」
「〈組み屋連〉! ありったけの〈サン〉を出せ!」地を這う声でフェンの命令が飛ぶ。混乱は為すべきことの中に溶けて消え、男達は無駄なく統制の取れた動きの鋳型へと流し込まれていく。それは、〈土の人〉の運命として、確率論的に死ぬことの覚悟ができているからでもあるし、体を張って死ぬことに価値を置いているからでもある。
 だが、子どもはそうはいかない。ハチは、空を見上げた姿勢のまま、膝がすくんで動けなくなった。プローブの墜落は何度も見た。命の危険だって感じたことがある。しかし、こんなにも大きな、まるで天の宮殿が火事で焼かれ、炎に包まれた建物がそのまま降ってくるような、圧倒的で絶望的な光景は、見たことがない。ハチの中にあったはずの様々な思いや感情は、恐怖という一点を除いて、塗りつぶされてしまった。どうして、大人達は、こんな状況でもいつも通りに動けるのだ。ハチは、逃げるために立ち上がることすらできない。
「プローブの数は全部で十三。全てほぼ同時に墜落すると思われます」
 サン〉を持った〈組み屋〉の隊列に指示を与えるフェンの横で、ドローミが三枚組の計算尺を五つ広げている。天球を操るように、全部で十五枚の円盤を回転させていく。そばに二人の〈組み屋〉が付き、ドローミの指示に従って、土の上に円と五角形を書き加えていく。
 マニの声はもう聞こえない。叫んでいないのかもしれない。〈捏ね屋〉は重要な仕事だし専門的な技術なので貴重だ。きっと、〈貝堪シェルタ〉の奥の方に避難したのだろう。〈拾い屋〉はそうではない。専門性も知識もそれほど必要ない。だから、すぐに交換が利く。
 死んでも交換が利く。
「約七分後に墜落します!」
 ドローミの報告が、口伝えに〈土の人〉の間を駆け抜けていく。フェンが墜落予測地点を細かく聞き、〈サン〉を持った隊列に細かな指示を与えていく。〈組み屋〉に声はなく、ただ少し伸ばした左手で隣り合う仲間の位置を確認する。そして、安堵する。ドローミによる再計算と、フェンからの微調整の指示が入るたび、〈組み屋〉は身じろぎする巨大な獣の細胞がこすれ合うように、少し動いて、心を落ち着けた。
 フロージに首根っこを掴まれて、〈貝堪シェルタ〉へと投げ飛ばされたハチの目には、月も炎の壁も、父の姿も〈組み屋連〉も、もはや何も見えない。ただ、大地そのもののように堅くて厚い〈土屋根〉が、武者震いでもするようにびりびりと震え、落ちてきた砂が立てる音に、この辺りではめったに降らない雨を思い出した。
「墜落まであと一分です」
「ドローミ、お前は〈貝堪シェルタ〉の中へ」フェンが近くの岩にもたせ掛けていた〈サン〉を手に歩き出す。
「待ってください。私が前に出ます」
「黙れ! 俺の次はお前だろうが」押し殺した声だが、有無を言わせぬ怒気をはらんでいる。ドローミが唾を飲み込む。「いや、すまない。お前は悪くない。俺は〈組み屋〉になるタイミングを誤った。もっと早く、あるいはもっと遅く……」
 ドローミが一歩前へ出て、フェンの右腕に左手を置いた。フェンの強張った表情が解け、ゆっくりと目が閉じ、そして開いた。その一度の瞬きで、フェンの目は指揮官のそれに変わった。左手をドローミの左手に重ね「頼んだ」と言うと、隊列の中央に躍り出た。
「〈傘開サンカイ〉!」
 炎に包まれたプローブが大地を押し潰し、燃えるもののないはずの〈土〉を焼き尽くしていった。〈塒〉の〈土屋根〉は衝撃で吹き飛び、〈貝堪シェルタ〉に入りきれなかった〈土の人〉は、熱と爆風に巻かれて煙になった。

 ハチは竿を掲げて、〈塔〉から降り注ぐ〈落垢ラック〉を集める。〈土堕クレイタ〉で乱れた地面に、自由の利かない左脚が引っかかって、うまく動くことができない。
 一命をとりとめたフェンは、この三日間、〈塒〉の奥でずっとうなされている。左脚に重傷を負っていて、回復したとしても、これまでと同じ生活を維持することは難しいだろう、という見立てだ。
 壊された〈土屋根〉は、動ける〈組み屋〉と手の空いた〈還し屋〉が協力して補修しているが、まだ全体の五分の一にも満たない。何より、材料とすべき〈煉擬ネルギ〉が足りない。不測の事態に対応できるほど十分には、割り当てられていないのだ。
 〈語り屋〉ディルは、二日前に〈塔〉へ向けて発った。プローブの大量落下――これは明らかに異常事態だ。〈土の人〉は無駄に命を浪費するためにいるわけじゃない。普段、怒りを露わにすることのないディルが、全身に火傷を負った〈組み屋連〉の姿を見て、声を震わせた。
 ハチは、父を褒める言葉を、父に感謝する言葉を、この三日で何度も耳にした。
「フェンの生み出した〈サン〉が、〈土の人〉の宿命を変えた」
 折角の熱っぽい言葉も、フェンの耳には届かない。それは、フェンが意識を回復しないからではない。〈サン〉が多くの人の命を救うほどに、フェンの後悔はリリルの記憶の上に強く彫り込まれていくだろう。ハチには、それが分かっていた。
「もっと早く〈組み屋〉になっていれば」
 その言葉の後に、助けられたかもしれない命の名が続くことはない。ただ、その言葉が繰り返されるたびに、救われる命が増えていく様子をハチは見てきた。
 風が強くなってきた。白内障のような月に、〈落垢ラック〉が流星のようにきらめいている。竿を振る腕にかかる重さがあっという間に増していく。その時、視界に白い衣がちらついた。次いで、甘い香りが漂ってくる。
「みんなはまだ仕事はじめてないのに、どうしてハチは働いてるの」
 マニの柔らかな声が、背後から聞こえた。マニから話しかけてくるのはとても珍しい。
「〈捏ね屋〉もまだ始まってないの?」
「〈拾い屋〉が持ってこないと、仕事は始まらないよ」
 ハチは自分の質問の馬鹿さに、頭を掻いた。
「フェンはすごいね。うちの父さんと違って、みんなを助けてくれる」
「ディルさんだって戦ってる。何もしてないわけじゃないでしょ」
「〈塔〉に媚売って〈煉擬ネルギ〉を分けてもらうのって、そんなにすごいことなの? 煉擬ネルギ〉は、私たちが作ってるんだよ」マニは〈塔〉から視線を外し、南の空に首を巡らせた。ハチは話題を変えるべきだと思った。
「月が白くなって、急に満月になったの、気づいてた?」
「あ、うん。ハチも気づいてたんだ」言いながらマニは、まだ残されているプローブの残骸に手を置いた。使える部品は取り尽くされているようだ。
 〈還し屋〉はまず、再利用可能なプローブの部品を全て引き上げる。その後、ゴミにしかならない部分は鉄塊にして〈塔〉へと還す。〈土の人〉にも村にも、鉄を自由に加工できるだけの〈煉擬ネルギ〉は与えられない。だから、保管しても無駄だ。
「月のこと、誰も何も言わないから、気のせいだったりして、とか思ってた」
 マニが同じ風景を見ていたことに気をよくしたハチは、竿を止めて振り返った。マニの横に転がる半ば解体されたプローブは、球体の中にある内蔵めいた機械が露わになっている。
「真っ白な満月って、新月みたい」
 マニに向けて一歩近づこうとしていたハチは、その言葉に足を止めた。網の中の〈落垢ラック〉の重みが、全身にのしかかるようだ。
「曇りのない瞳が、私の内側まで見通してくれている気がするんだ」
 マニがプローブを突き放し、強く右足を蹴り出すと、そのままステップを二つ、三つと踏み、半拍削った四つ目のステップで、白い巻衣を割って左足が――月の光に照り輝く左足が現れる。間近で見る肌の生々しさに、ハチは思わず視線を逸らした。視界に再び〈塔〉が、周回するプローブの姿が飛び込んでくる。
「マニ! 仕事の支度をするよ。〈拾い屋連〉も、とっとと取るもん取っといで!」フロージの声が〈塒〉から響き渡る。その声は、村そのものを抱きしめるように大きく強い。ついでのように怒鳴られた〈拾い屋連〉も、一人の例外なく――誰より背が高く頑強な肉体を持つティワズですら――首をすくめずにはいられない。
 マニの背中にさよならを言うと、白い巻衣が夏の夜の夢のように尾を引く魂になって飛んで行く。ハチは月に視線を戻した。
「新月みたい、だって?」ハチは、不快を奥歯で噛み潰しながら独り言つ。「新月は僕らを見ていないじゃないか」
 網の中身を荷台の籠に空け、再び竿で空を掻き始めた。白濁した月は、夜空で虚ろに光っている。この月も、もう僕らを見守ってくれてはいない。そのせいで、あんなにたくさんのプローブが降ってきたんだ。それなのに、内側を見通してくれてるだなんて、マニは何を見てるんだ。
 ハチはそう思いながら、マニに対して苛立ちを止められない自分を、不可解にも感じていた。月に見守ってほしい思いは、マニには共有されてる。それなら、どうして僕はこんなにも落ち着かない気持ちになるんだ。
 遠くでソラが叫んでいるのが聞こえる。水の中で聞いているみたいに、ぼやけてはっきりしない。顔を上げて目を凝らすと、どうやら北東の空、〈塔〉の方角を指差している。首を傾げ、振り返ると、そこには三日前よりも規模は小さいものの、炎の壁が現れていた。
 いや、さっきまで、ほんのついさっきまで、そんなものはなかった。プローブはみな、行儀よく〈塔〉を周遊していたはずだ。見えていないのは、月じゃなくて、僕の方だった。なんて、冗談にもならない。
 ソラの横で、ティワズが投擲の姿勢を取る。手には竿ではなく〈サン〉が握られている。十分な助走と、全身の力が乗った〈サン〉は、巨大な槍のようにハチの方に飛んでくる。空から飛来する炎の壁は、今は四つのプローブの塊だと、はっきりわかる。だが、その一つひとつは、これまで見たどのプローブよりも小さく、そのせいで接近に気づけなかったのだと、ハチは恐怖に麻痺した頭の中で考える。
 命が自分のものじゃないような感覚――自分の体が自分のものでないような感覚。だから、命をすぐにあきらめたくなる。しかし、ティワズの体から放たれた〈サン〉は、過たずにハチのそばに突き刺さった。竿を〈サン〉に持ち替えた瞬間、炎の壁が大地に倒れ掛かってきた。

「きれいだね」
 〈居住層〉では、夕餉を終えたいくつかの家族が、夜の公園に集まっていた。寝間着に着替えた子ども達が〈塔〉の外壁に張られたガラスの巨大窓に顔を寄せて、暗闇の中に浮かび上がる真っ赤な塊を、溜息交じりに眺めている。
「ねえ、お父さんもお母さんも、見てよ! すっごく明るいよ」
 騒ぎ立てはしゃぐ子ども達を遠巻きにしながら、ベンチに腰掛けた大人達の表情は暗い。
「三日前も、随分と落ちたでしょう」
「十三機だって聞いてます」
「多すぎませんか」
「また税金か。まったく――」
 男の妻が、その口をふさぐ。「滅多なこと言わないでよ」
 窓の向こう側では、炎の塊が四つの小さな鬼火に分かれて、地上に炸裂した。周囲の闇がいつもよりいっそう深くなり、その分、大地が光り輝いて燃え盛る様は、子ども達の胸を興奮で満たした。いや、その赤々と燃える光の魅力は、金のことが頭から離れない大人達ですら、抗うことができない。思わず洩れる溜め息に、お互いの顔を見合わせて、困惑した笑みでごまかした。
「この本にかいてある花火って、あんな感じなのかな」
 一人の女の子が、大事そうに抱えた本を広げて、友達に見せている。画家の筆の動きが見えるような印象的な筆致の絵柄だ。遠景で捉えられた公園から空へと向かう光の帯――それが、天上の一点に至って、花が開くように極彩色の輝きを散らす。友達の女の子達は一緒になって、外の風景と見比べ、両の瞳を赤くきらめかせている。
「でもさ、花火は空の上だろ。あれは、下じゃないかよ。だから花火じゃないんだよ」
 一人の男の子がはやし立てると、女の子達は冷たく笑って「そんなの、分かってるよ」と言い放った。そんな風に言う女の子達の頬が赤く染まる様子を見て、男の子は頭の奥がぼんやりと靄がかかったようになるのを感じた。
「税金と花火と初恋か。のんきなもんだな」
 〈居住層〉の人々の音声と体性反応をチェックする傍ら、〈管理層〉は戦々恐々としていた。国内十二の〈塔〉はそれぞれ、太陽と月の運行を詳細に記録してきたが、どこの〈管理層〉でも、月の重力異常を観測していた。百年近く前の太陽の放射線異常より、さらに遡った時代のデータを参照しても、これほど強大な重力場の発生を記録したことはない。
 〈塔〉の最上階で、〈管理官〉は窓ガラスの光を反転させる。真っ白な月と真っ赤な大地に挟まれて、不安定な軌道を描く大量のプローブ――それが地獄以外の何だというのか。
 時を見極めるのが、人の上に立つ人間にとって、最も重要な資質だ。ボタンを一つ押し、〈管理層〉に召集をかける。
 決断は苦しいが、早いほどいい。
 〈管理官〉は窓を元に戻し、暗闇の中、椅子に深く腰を下ろした。

 サン〉の回転の後ろで、ハチは目の前に墜落したプローブが一つしかなかったことに、慄いた。無力化された熱と爆風が、〈サン〉の向こうで小さなプローブになって転がるのをよそに、残りの三つのプローブが、炎の壁のまま、ソラやティワズの方へ飛んで行く。
「逃げて!」
 叫びながら〈サン〉を閉じる。なんて重いんだ。それでも、こんな場所で一人で、みんなが危険にさらされているのを眺めているだけなんて、耐えられない。ハチは〈サン〉を引きずって、〈塒〉の方へ歩き出した。左脚を地面に叩きつけるようにして、必死に体を前へと進める。
 三つのプローブは、低空の状態を保ったまま、取って返そうとする〈拾い屋連〉の上を通り過ぎるかと思われた。しかし、そのうちの一つが軌道を変え〈拾い屋連〉の只中に墜落した。大地が炎そのものになって、空を明るく照らし出す。
 ハチは泣いていた。何が起きたのか、まだはっきりしていない。誰も傷ついていないかもしれない。それなのに、どうして僕は泣いているんだ。誰も、傷ついていないかもしれないのに。
 サン〉を引きずる腕に、力が入る。さらに二つのプローブが〈塒〉に向かっている。〈組み屋連〉は何人が意識を取り戻していただろう。補修の済んだ〈サン〉は何本あるのだろう。この一本だけ、ということはないはずだ。父さんが――稀代の発明家であるフェンが、自分の心の傷と向き合いながら生み出した希望が、こんな時に無力であっていいはずがない。
 残りの二つのプローブは更に多くの〈落垢ラック〉を巻き込みながら、四つだった時よりも激しく燃えながら、〈塒〉の上空へと飛来した。〈貝堪シェルタ〉から、動ける大人達が這い出してきて、壊れかけの〈サン〉を手に〈塒〉の外に陣形を組む。
「プローブの火を中に入れるな! フェンが与えてくれた希望をつなげ!」
 〈組み屋〉の二番手、ドローミが〈サン〉の扱いを指示しながら、発破を掛ける。この時のために、自分はフェンに守られたんだと実感する。それなら、この命、今使わずに、いつ使うんだ。
 ドローミは、フェンが使っていた〈サン〉――最も損傷がひどく、回転の〈絡繰カラクリ〉がほとんど働かない――を手に取り、空に向けて掲げた。皆が、左手で隣の仲間に触れ、安堵と誇りの中に身を置いている。ドローミは彼らを背に、二つのプローブが、計算不能の軌道を描きながら墜落するのを、両目を見開いて睨み付けた。

 ハチは二つ目のプローブが落下した場所に立っていた。巨大な〈土堕クレイタ〉が、その破壊力の大きさを思わせる。幸い、プローブの直撃を受けた者はいないらしい。
 周辺を見回すと、墜落の衝撃で飛び散った〈落垢ラック〉の塊があちらこちらでくすぶり続けている。〈拾い屋〉のうち五人が、〈落垢ラック〉の直撃を受けて、動かなくなっていた。肉の焼ける臭いが漂ってくる。
 そして、流れ続けていたハチの涙が、止まった。次の瞬間、ハチは声を上げて泣き叫んでいた。〈サン〉から手を離し、左脚を引きずりながら、一つの体に駆け寄る。
 ソラだった。
 最後のソラの声を思い出そうとするが、頭の中を引っ掻き回されたみたいに、何も考えることができない。失うっていうのは、こういうことなんだ。リリルを亡くしたフェンの悲しみが流れ込み、体の中で暴れているようだった。
 叫ぶしかできなかった。
 喉が枯れて、声が出なくなっても、叫ぶしかできなかった。
 やがて、叫び疲れて、ソラの体の上に倒れ込んだ。ソラの動かない体が、焼けた〈落垢ラック〉に貫かれた体が、ハチの下で冷えていった。
「少しは落ち着いたか」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、ティワズが立っていた。竿に体をもたせ掛けて、やっとのことで立っている様子だ。声を出そうと口を開いた、ちょうどその時、ティワズの左脚が無くなっていることに気が付いた。
「すまない。止血をしていて、遅くなった。お前が助かってよかった」
「よくないです! 僕に〈サン〉を投げていなければ」
「投げていなければ、俺はこの先、後悔を抱えたまま生きていくことになっただろうな。この〈サン〉は、フェンが、自分の守りたい者を守るために作られた。その思いをないがしろにする人間に、これを使う資格はないよ」
 ティワズの言葉は力強いが、その声に以前のような力はなかった。ハチは立ち上がり、ティワズの左脇の下に体をさし入れた。
「ありがとうございます」ティワズの顔が見えなくてよかった。見えたら、こんな気丈な態度は取れない。「戻りましょう。生きている人を助けないと」
 動ける〈拾い屋〉は七人いたが、怪我人を残してはいけないと、三人が残った。
 拾う者のない〈落垢ラック〉が降り注ぐ中、〈塒〉に炸裂した火が見えてくる。補修された〈土屋根〉は再び崩れ落ち、生き延びた人々が火を消し、怪我人を手当てしている。その中心で指揮を執っているのはフロージだ。〈育て屋〉の経験も豊富なフロージの指示は的確で、一ヶ所に並べられた怪我人に対する処置を次々と指示していく。
 その横で、何もできずに座り込んでいるのはマニだった。その目は、空の一点を見据えたまま、瞬きもせずに固まっている。
「マニ、大丈夫」
 ハチはマニの前に立つ。マニの両方の目に、くすんだ満月が閉じ込められている。頬に涙の痕が残っているのを見て、ハチは自分の頬を拭った。
「みんな、いなくなった。みんな、死んだ」
 うわごとのように発せられた声は、誰か別の人のもののようだ。ハチは座り込んで、マニの肩に手を置いた。マニは、ハチに今初めて気が付いたかのように視線を動かした。瞳から月が消え、右目から涙がひとしずく、こぼれた。
「どうして」
 消え入りそうな声に、ハチはマニの肩を抱き寄せ、口元に耳を近づけた。
「みんなを助けられないのに、どうして、助けようとするの。助けられないなら、諦められたのに、どうして嘘の希望を掲げるの」
 嘘という言葉が、ハチの胸に刺さった。ソラが死んだのは、誰のせいなのだろう。
 村に響き渡るフロージの指示の声に、狂気じみたものが混じりはじめた。命を繋ぎ留められない。掌から零れ落ちる砂のように、指の間から漏れる水のように、命が消えていく。〈捏ね屋〉の仲間がいる。愚痴を言い合う友人も、そして、お腹を痛めて産んだ子どももいる。それが、みんな死んでいく。必死に動けば動くほど、無力感に苛まれていく。その時、壊れかけていた〈土屋根〉が落ち、砂埃が〈塒〉の中に舞い上がった。フロージの言葉が消えた。
 マニが突然、ハチから自分の体を引き剥がして立ち上がった。三歩だけ前へ進むと、立ち込める砂埃に向かって拳を振りぬいた。肉と骨がぶつかる鋭い音がして、マニの動きが止まった。
 フェンだった。
 マニの拳を顔に受けたまま、周囲を見回す。冷静と言うには、あまりに無感動な目で〈塒〉の混乱を眺める。遺体にすがったまま動けなくなったフロージを見つけると、マニの拳をそこに残したまま、フロージの元へ歩み寄った。
「君が傷つくことない。全て、俺の力不足だ」フェンの手がフロージの肩に置かれた瞬間、弾かれたようにフロージが振り返り、フェンの胸に顔をうずめて泣き崩れた。フロージの頭をなでながら、〈塒〉の外の光景がフェンの視界に入った。男達が、壊れた〈サン〉にもたれかかったまま絶命している。開いた〈サン〉の向こうには二機の小型プローブが転がっている。そのうち一機の下には、フェンが使っていた〈サン〉が、無残に破壊されており、更にその下には血溜まりが見える。
「ドローミ……。どうして俺は、いつも間に合わないんだ」フロージを横にすると、虚ろな目のままフェンは立ち上がった。フェンに気づいた何人かが、目に希望の色を浮かべる。フェンが意識を取り戻した。この状況をどうにかしてくれるに違いない。そんな眼差しだ。俺はお前たちが思っているような人間じゃない。なあ、ディル。早く戻ってきてくれ。
「動ける人間を集めろ。怪我人を救う」フェンの声が、崩れた〈塒〉に響き渡る。「ありったけの〈落垢ラック〉と〈灰品ハイヒン〉を持ってこい。釜に水を。火を熾せ」
 指示を聞いたハチも立ち上がった。希望を感じたからではない。きっと、今は父親と同じ目をしていることだろう。だから、拳を突き出したまま止まっているマニを見ることはできなかった。空に浮かぶ月を見ることも。

 東の空が白み始める頃、ようやく釜の火は落とされ、五十人以上の怪我人は、みな一様に〈貝堪シェルタ〉の奥に寝かされていた。崩れた〈土屋根〉は、壊れた〈サン〉を軸にして補修され、太陽を迎える準備はすんでの所で間に合った。
 ハチは〈土屋根〉の下から東の大地を見据えた。後ろには杖をついたティワズの気配を感じる。〈拾い屋〉の仲間の、ソラの、遺体を持ち帰ることはできなかった。太陽に焼かれるままにするしかない。ハチは頭を深く垂れた。肩にティワズの左手を感じる。誰かが生き残ることが誇りなんだ。もう泣くことはできない。強く目を閉じて、涙を振り払った。
「あれは、一体どういうことなんだい」フロージが、怪我の手当てを担当した仲間に茶を振る舞いながら、フェンに尋ねる。フェンはと言えば、冷めた釜に残った〈煉擬ネルギ〉を指ですくって舌の上に置き、何かを確かめている。フロージの声をあえて無視している様子だ。
「〈落垢ラック〉と〈灰品ハイヒン〉を混ぜてできるのは〈煉擬ネルギ〉じゃないのかい。あれは、単なる資源で素材だろう。どうして、傷が治るんだい」フロージは立ち上がると、先程の涙など無かったかのようにフェンの腕を掴んだ。「あんたの傷もそうだよ。とても三日やそこらで歩けるようになるような傷じゃなかった」
「いいじゃないか。こいつらは助かったんだ。それ以上に、何を望む」掴まれた腕を振りほどいて立ち上がると、〈貝堪シェルタ〉から出て行こうとする。
「あんたは、何に怯えてるんだ」汗で衣の張りついた背中が、フロージの言葉に強張る。「リリルのことじゃないね。もし、リリルの死に、本当に囚われているなら、あんたの性格だ。〈塔〉への復讐を真っ先に考える」
 フェンが凄い勢いで振り返る。フロージは殴られることを覚悟し、思わず身構えたが、振り向いたフェンの顔には、どんな微細な感情も込められていなかった。
「好きに考えればいい。俺は、ただ助けられれば、それでいいんだ。それ以上に、何を望む?」フェンは力なく笑った。これまで、少なくともフロージには見せたことのない表情だ。「配合は覚えたよな。あとは任せた」
「どうしようっていうんだよ」
「ディルの戻りが遅い。嫌な予感がする」
 〈語り屋〉はその責務として、月に二、三度〈塔〉に赴き、直接〈塔の人〉と折衝する必要がある。〈塔〉までの道は、日中の陽射しを避けるために、地下の〈灰水路ハイスイロ〉を使う。〈灰品ハイヒン〉〈煉擬ネルギ〉や食糧等の物資は、運搬用の小型の舟を使ってやり取りされている。その脇には細い通路があり、これを上流へ半日も歩けば〈塔〉の地下部分に到着する。
 ディルが村を発ったのは、十三機のプローブが飛来した翌日――あれから既に丸二日が経過した。これまで、それほど長くディルが村を開けたことはなかった。もちろん、先代の〈語り屋〉も、その前も。
「〈灰水路ハイスイロ〉を遡ろうと考えている。何もなければ、途中で行き会うだろうし、どのみち、この状況は〈塔〉にも報告を入れるべきだ。これまでの〈煉擬ネルギ〉の精製量は維持できない」
「村はどうするんだよ。ディルがいない間は、あんたが頭だろう」
「そうだな。俺は三十五、フロージは三十三。同じ三十三歳のドローミが死んだ今、誰が次の頭かははっきりしている」
「……覚悟を見せろ、っていう意味だね。分かったよ、あんたらが帰ってくるまで、きっちり仕切っといてやるよ」フロージが自分の両頬を張った。鋭く高い音が〈塒〉のぼやけた眼差し達にも届いた。「しっかり行って、やることやってきな」
「一人でなんて行かせない。私も連れて行って」
 見ると、両手を腰に当てて、マニが仁王立ちしている。殴られたフェンの頬よりも、殴ったマニの右こぶしの方が、赤く腫れあがっている。
「これ以上、ここで待ってるだけなんて、耐えられない」マニがフェンを正面から睨み付ける。「それに、あなたのこと、信用できない」
「信用できないのは、俺も同じだ。二人きりになった途端、いきなり、後ろから刺されても困る」マニの視線を正面から受け流すフェン。言葉とは裏腹に、警戒する様子はまるでない。急に声を張り上げ、「ハチ、お前も来い」
 ティワズと共に無言の祈りを捧げていたハチは、突然のフェンの声に、何が起きたのかと首を巡らせた。フロージが状況を説明し、マニも承諾し、ハチが事態を把握する時には、行動選択の余地は残されていなかった。
 その間に、フェンは三人分の携帯食料と水筒と角燈を用意し、日が昇る前には〈灰水路ハイスイロ〉の入り口にいた。フロージはじめ何人かが見送りに立ち、そのうち何人かはあからさまに眠そうにしていた。
「お前たちは大丈夫か、眠くないか」
「子ども扱いはやめて」
 マニがぴしゃりと言い放った。
 とはいえ、〈灰水路ハイスイロ〉を遡り始めると、歩いているにもかかわらず、ハチもマニも、眠気を覚えざるを得なかった。一つは、水路を流れる水がほんのり熱を持っており、その発散された熱によって、水路を取り巻く空間が生温い空気に覆われていることによる。もう一つは、天然の洞窟を人工的に補強したと思われるその空間は、見た目に単調で、自分たちがどこを歩いているか分からないからだ。
「ここは、何なの」ハチが思わず漏らす。
「〈灰水路ハイスイロ〉だ。〈塔〉からの〈灰品ハイヒン〉も食料も、全てここを通ってくる」
「そういうことじゃなくて、この壁って」ハチが左手を壁面に這わせる。「なんだか、温かい」
「何だろうな。俺には分からない」フェンはうつむいて首を振る。
「フェン、何か隠してるでしょ。その脚だって、どうして治ってるの。さっきの〈煉擬ネルギ〉の使い方、絶対におかしい」マニがこらえきれないという様子でフェンに詰め寄る。
「信用できないからついてきたんだろ。だったら、信用できないで構わないさ」
 それきり、フェンは黙ってしまった。マニがどれだけ煽っても何の反応も返さないので、そのうちマニも口を閉ざした。ハチは、二人の巻衣の裾を引っ張るが、そのうち空しくなってやめた。
 ハチは、興味を壁に集中させることにした。表面は、くすんでしまった月と同じ乳白色で、まるで呼吸でもしているかのように、温かく柔らかい。にもかかわらず、力をくわえると、強い抵抗を感じさせ、決してもろくはない。天井を見上げると、角は丸められていて、継ぎ目がない。土壁というより、〈灰品ハイヒン〉をそのまま用いて作る漆喰のようにみえる。足元は土が剥き出しで、壁との継ぎ目の処理は荒い。土はどこにでもある土で、所々、大きな石が転がっている。
 ハチは、石を一つ拾い上げると、壁に叩きつけた。想像とは異なる、甲高い金属音が響き、削れた薄片が一つ落ちた。拾い上げて、首を傾げた。これは何かに似ている。
「父さん。これ、〈落垢ラック〉と同じだ」
「ハチ、様子がおかしい。フェンの様子がおかしい!」
 マニの押し殺した声に視線を上げると、フェンが両腕を抱きかかえるようにして、立ち尽くしている。爪が食い込み、巻衣から血が滲む。
「父さん! どうしたの!」
 飛びつこうとするハチを、マニが押しとどめる。「だめ、近づいちゃ。違う。何か流れてくる」
 フェンが不意に体を屈め、水路を流れてくる舟に向かって飛び出した。フェンの腰に揺れる光源が、舟に乗る小さな人を照らし出す。
「あれ、子どもだよね」マニが目を凝らす。
「だめだ、父さん!」フェンの手の中に光るものを認めたハチは駆けだそうとするが、左脚はハチの言うことを聞かない。その様子を見たマニは、勢いよく飛び出した。
 フェンは、舟に躍りかかり、水路から舟ごと子どもを引きずり出した。子どもがまとっていた巻衣を剥ぎ取り、その留め具を引きちぎった。ハチの目には見える。星の飾りの入った金属製の留め具は、〈語り屋〉の証だ。
「どうして、お前が持っている!」左手に握った留め具をかざし、右手には今ははっきりとナイフが見える。「ディルはどうした!」
 マニの走りは、野生動物の狩りのように静かで素早い。最後の瞬間に、地面を鋭く蹴って跳躍すると、巻衣を広げてフェンの右手を薙ぎ払った。ナイフが吹き飛び、壁面に突き刺さる。
「何してるの。子どもじゃない」
「子どもでも〈塔の人〉だ。容赦する必要はない」
「同じ人でしょ」
「そこに入っているのが、誰だと思ってるんだ」
 引き上げられた舟の上には、固形食糧の詰まった箱と、〈灰品ハイヒン〉で満たされた櫃が乗っている。
「誰もいない」
「〈灰品ハイヒン〉は、単なる資源の再利用のための素材じゃない。遺灰だ。それは、お前の父親が灰になった姿だ」
 マニの動きが止まった。壊れた〈絡繰カラクリ〉のように首がぎこちなく動き、厳重に蓋のされた櫃の方を向いた。
「こうなったら、隠しておく意味はない」フェンが足元の子どもを踏みつけたまま、巻衣を整える。「ハチ、それは〈落垢ラック〉そのものだ。ここの壁は〈塔〉と同じ素材でできている。つまり、人間の細胞だ」
 ハチは驚いて、手の中の薄片を取り落とした。
「太陽に対する最低限の耐性と、絶え間ない再生――二つの機能を果たす素材が、人間の細胞だった。それだけのことだ」
 フェンの下でもがいていた子どもが大人しくなった。諦めたのか、それとも――ハチは、その子どもの様子を必死に観察した。子どもを傷つけては、死なせてはいけない。その考えにすがることが、自分が人間であることの証明だとでもいうように。
「マニ、お前が日々、釜の中で混ぜていたのは、人間の細胞が太陽光の照射によって剥落した〈落垢ラック〉と、人間の遺灰である〈灰品ハイヒン〉だ。〈煉擬ネルギ〉は人間の細胞の精髄そのものだ。だから、配合さえ間違えなければ、資源にもなるし、細胞を補修する薬にもなる」
「そんな……そんな大切なこと、どうして」
「大人の男達は、みんな知っていることだ」ハチの声を遮って、フェンが言う。「二十歳になると、知らされる。分かったうえで、俺たちは、命の上に命を繋ぐ。女達は命を産むことができる。しかし、男達には奪うことしかできない。そうやって生きるしかないように、できている」
 マニは櫃を抱えるようにして、再び止まってしまった。蓋を開けることはできない。このままにしておけば、生きたディルが出てくるという可能性を残しておける。
「さあ、〈塔の人〉。どうしてお前がここに送られてきたのかは知らんが、せいぜい交渉の役に立ってもらうぞ」
「僕にはそういう価値はない、と聞かされています」
「どういう意味だ」
「〈塔〉は終わりだ、と聞かされています。だから、僕の命にも、これ以上生きる価値はありません。〈塔〉でみんなと一緒に死ぬか、〈塔〉から離れてここで死ぬか。それだけのことです」
「〈塔〉が終わり?」
「二つの月のせいです」
 フェンは子どもから足をどけ、壁に刺さったナイフを抜くと、付近の壁を探り始めた。しばらくすると、何かを見つけたらしく、ナイフで壁を縦横に裂き、その部分を引き剥がした。分厚い肉のような塊を地面に放ると、壁に埋め込まれたパネルが現れた。フェンの操作に応えて〈灰水路ハイスイロ〉に〈絡繰カラクリ〉の駆動音が響き、圧力を制御するような音と共に、壁が動いた。
「横穴だ。〈灰水路ハイスイロ〉にはこういう場所が五十メートルごとに用意してある。ここから外に出られるように」
 ハチとマニに伝えているようだが、二人の耳には何も届かない。それでも、ハチの方は、フェンをこのまま一人で行かせてはならないと、後について行こうとするが、左脚が、地面に打ち込んだ杭のように言うことを聞かない。
 やっとのことで、横穴を抜けると、外は既に日が暮れているにも関わらず、空が異様に明るい。方向感覚が分からずにフェンの眼差しの先を追うと、〈塔〉が松明のように真っ赤に燃え上がっていた。

 その晩、〈塔〉を取り囲む二十五機のプローブは、螺旋状の軌道を描きながら、その中心にある〈塔〉に直撃した。地上五十層のうち、地面に接した基層を成している〈居住層〉は、八機のプローブに削り取られ、〈塔〉はバランスを失った。同時に十機のプローブが中層から上層にかけて広がっている〈勤務層〉に直撃した。太陽は既に沈み、残っているのは仕事熱心な勤め人か、〈居住層〉に持ち帰れない不実な関係性に耽溺する男女だけだった。
 残った七機は全て、最上層二層にあたる〈管理層〉に降り注いだが、ここに人はいなかった。
 二日前、月の異常行動を監視するために、超小型プローブ七機が新たに射出された。しかし、その翌日には、月からの重力的な干渉によって、四機が墜落した。即座に〈塔〉の〈管理者権限〉の停止が決定され、〈管理官〉はその任を解かれた。彼らは、国内十二の〈塔〉が共同で出資し、開発が進められていた避難壕へと移動していった。
 この十二の〈塔〉は、ものの二時間で瓦礫の山と化した。
 死傷者数は、数万から十数万に及ぶと見られているが、何より、その正確な数字を把握しようとする主体そのものが、この国には欠けていた。

 ハチの視線の先で、〈塔〉が崩れていく。プローブに食い荒らされるようにして。
「これで〈灰品ハイヒン〉は二度と手に入らない。我々もここを離れなくては」
 気が付くと、マニと〈塔〉の子どもも外に出てきていた。声もなく目を見開くマニとは対照的に、子どもは頭を抱えて泣きわめいている。
「どうして泣く、〈塔〉の子ども。お前の言っていた通りの結果じゃないか」
「だって、だって……本当に、こんな……終わりって……あれじゃ、みんな……」
「そんな風に言えば、命を取られないとでも言い含められていたんだろう。馬鹿なことを」フェンは、子どもの背後に回り、首にナイフを滑り込ませる。
「父さん、何を」
「殺す」
「殺すことないじゃないか」
「それならどうする。村に連れて行って、一緒に暮らすとでもいうのか。こいつらの、〈塔〉のやつらのプローブのせいで、何人が死んだ。大切な人を、何人亡くした。俺たちが失った命と、こいつの命は同じじゃない」フェンが怒りを露わにする。体中に力が入り、腕の傷から再び血がにじむ。
「でも、子どもだ」フェンとは逆に、ハチはどこまでも落ち着いている。フェンと向き合う位置からは、月の姿がはっきり見える。見開かれた満月そのものの瞳は、灰色の光彩のせいで、かえって神秘的に見える。
「子どもだからなんだ」ナイフが子どもの首に当たり、赤い筋が走る。
「だったら、どうして、僕たち子どもに、本当のことを隠してたんだよ。どうして二十歳まで本当のことを教えないんだよ」月が見ている、マニの言葉の意味が分かる気がする。「子どもは命の責任を負えない。だから、自分たちの命の下に、どれだけの命が眠っているのか、知らせないんだ」
「だったらどうだっていうんだ」
「その子どもも一緒だ!」
 フェンの強張った肩から力が抜ける。右手が後ろに消え、ナイフが鞘に戻された。マニがハチの後ろから抱きつき、耳元で囁く。
「月が喜んでる」
 今ならその意味が分かる。そして、月の横にうっすらと見える光の筋の意味も。
「村に戻る。今後のことを話し合わなくては」
「僕たちは〈塔〉に行ってみる」
 ハチの顔の横でマニが深くうなずく。柔らかい頬が自分の頬に触れ、ハチは体の中が熱くなるのを感じた。右手で〈塔〉の子どもの手を握る。
「君も行こう。誰か、生き残りがいるかもしれない」
「馬鹿なことを――」
「父さんが!」フェンを遮ってハチが声を荒げた。しかし、すぐに穏やかな声に戻る。ざわめきを捨てた月の表面のような声だ。
「父さんが……意識を失っている間、いろんな人が感謝してた。父さんがどう考えてるか、僕には分からないけど、そんなことは関係ない。父さんの発明で救われた人がいて、その人が救われたおかげで、不幸にならずに済んだ人がいる。死んだ人は、救わなかったんじゃない。救えなかったんだ。救おうとしたけど、救えなかったんだ。大事なのは、救おうとすることだ」
 フェンが静かに目を閉じる。息子の言葉を聞いているのか、自分が気を失っていた間の光景を思い浮かべているのか。柔らかな表情には、どんな気負いも見当たらない。
「ソラは、僕を救おうとした。そして救われた。でも、僕はソラを救おうとすることすら、できなかった。その時、僕はソラのおかげで、ティワズのおかげで、そして、父さんの作った〈サン〉のおかげで、みっともなく気絶していた――気絶していられたんだ」
 フェンがうなずくように下を向き、そのまま背中を向けて歩き出す。
「今の僕には意識がある。意志もある。だから、誰も救えないとしても、救う努力をしたい。父さんと同じように」
 月明かりの下、残された三人の子どもは、互いの顔を見合わせる。〈塔〉の子どもの涙は止まらないが、固く引き結んだ唇は、選択をした人間のものだ。
「君、名前は」
 マニの瞳が子どもを正面から覗き込む。子どもの目の奥に、わずかに残った迷いが漂っている。マニは両手を広げて、子どもを抱きしめた。強張っていた体の力が少しずつ抜けていく。深く吐き出された息が、胸の辺りを温かく湿らせるのを感じて、マニは子どもを放した。もう一度、同じ問いを口にする。先程よりも、柔らかく、温かい声で。
「名前は」
「ユミル」
 三人の間に風が吹き込み、白い巻衣を吹き上げた。〈落垢ラック〉の混じらない夜空は、見たことないほど清冽で、南の空に浮かぶ月は、真っ白な鏡のようだ。その横では、もう一つの月が、闇を割ってゆっくりとその瞳を開こうとしている。ハチは、母親の瞳を思い出して、マニとユミルの肩を抱いた。

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