お月様が二つ

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梗 概

お月様が二つ

独身を謳歌する田ノ岡まさるは、晩酌をインターホンの音に邪魔された。対応に出ると身に覚えのない宅配物にサインを求められた。梱包を開けると中から出てきたのは3Dホログラムのプロジェクター。そういえばついこの間酔った勢いで、怪しげな外国製の商品を紹介する日本語サイトで注文した記憶がある。

一先ず説明書を読むと、サイトに書いてあった通りのことが書いてある。この機械の謳い文句はズバリ『あなたの部屋に、あなたの月を』。スイッチを押せば、そこにはたった一つの月が浮かぶ。

田ノ岡がスイッチを押すと、そこには謳い文句通りの『月』が浮かんだ。まん丸とした満月で、地球からは見えない月の裏側まで見える。

しばらくは蓄光性の星を百円ショップで購入したりと室内の夜空を楽しんでいたが、満月ばかりだと飽きてくる。そこで再度説明書を読むとネットに繋ぐことによって月の形に変化が起こることを知る。早速ノートパソコンに繋ぐものの、考えてみればノートパソコンはワープロ代わりでネットは携帯を使用している自らの現状を思い出す。明日考えるかと布団に潜り込んだ翌朝、部屋の中に『脳みそ』が浮かんでいた。

スイッチを切る等の試行錯誤は功をなさず、田ノ岡は同僚で自称機械に強い河村千恵に相談する。一先ず家に呼び、部屋に浮かんだ脳みそを見せる。昨夜ケーブルに繋ぎ直してみた為か、脳にはぶよぶよとした皮のようなものがまとわりついていた。

河村がパソコンをいじると『このフォルダは何?』と疑問の声。そこには『人体』と書かれたフォルダに各身体の部位ごとにまとめられた画像が収められている。友人から貰い受けた為田ノ岡の趣味ではないと否定をすると『まぁでもこれのせいね』と一言告げられる。『この月は恐らく、人間になろうとしてるんじゃないかな』

最近部屋に浮かぶ脳みそへの対処法に追われて時事に疎くなった田ノ岡に、河村はここ数日間のネットニュースを話す。曰く、ドッペルゲンガーが目撃されているとのことだ。実害は特に報告されることなく目撃情報だけであるが、恐らくこの月を人間の形に完成させて逃がした人々が少なからずいるのだろう。『なんで人間になりたいんだ?』『さぁ?人間は最初の取っ掛かり程度のことかもよ?』

少し楽しげな河村から、試したいことがあるからこの機械を貸して欲しいと言われた田ノ岡はネットに繋がないことを約束させて貸し出す。数日後、河村に自宅に招かれ行ってみると、そこには中々に造形の整った男性が一人沈痛な面持ちで座っていた。『彼は誰か?』と聞くと『彼はあの月だ』と答える河村。驚きながらどうしたのかと聞くと、事情を話してくれた。

河村は『脳』と皮、つまり『肌』に共通する部首『月編』に着目し、この不可解な機械は『月』という情報を目指してネットの海を流れて変化していくのではないかと仮説を立てた。本来ならばそこから各興味の対象に分かれていくところ、田ノ岡の場合に関してだけはネットに繋がれなかった為、狭いパソコン内の情報を取り入れていくしかなかったのではないか。

実際のところを確認したかった河村は外字エディタを使用して『月編に口』というオリジナルの文字を作り出し、画像を貼り付けた上でファイルを保存した。すると結果が反映し、脳と皮だけであったものに口ができたのだという。コツコツとした地道な作業の結果、会話も可能になったという。

『それで、今日はどうして俺を呼んだんだ?』

『それが彼、帰りたいっていうの』

沈痛な面持ちを顔いっぱいに広げた元“月”がいうには、河村の理想を押し付けられて耐えられないのだという。口をもっと爽やかにだとか、目を涼しげにだとか。元“月”はほぼまとわりつきながら叫ぶ。『私は貴方だけの月でありたい!』

文字数:1530

内容に関するアピール

月のモチーフは昔から大好きです。しかし好きだからころなのか、どんどん深みにはまっていった為すこし単純な方向に思考してみました。

身体の一部を示す月編の成り立ちは『肉』なので、実際は『月』ではありません。しかし視覚情報のみを優先すれば『脳』と『明』の部首が同じと勘違いする場合もあるのではないかと思います。今回実際に外字エディタで文字を作成したかったんですが私の知識不足でご用意できなかった為、実作には対応したいです。

ラストは田ノ岡の部屋に月の彼が浮かび、外と中で二つの月を楽しむ様子。また、人間の姿の”彼”と親友のように過ごしまるで『朋友』というラストにしようかと悩んでます。世界に解き放たれた他の”月”たちの様子も軽く触れられたらいいなと考えています。

文字数:326

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お月様が二つ

光あれ、って何のことだ。
腐れ縁からの突然の通知。スマフォの液晶を不意に触ってしまい、SNSのトーク画面を開いてしまったのが運の尽きだ。相手は私が文面を読んだことを気付いているだろうし、存外真面目な私の性格もよく知っている。

ー何か用?
ーインターン中?終わり次第家に来られたし
ー嫌だ、いい予感がしない
ー来なよ。絶対面白いから
ー面白い?
ー光あれ

お前は神じゃない。悪態をつきたいのは山々であったが、優子は既に携帯を仕舞っただろう。面白いと思うことを見つけたら猪突猛進のトラブルメーカー。何度騒ぎに巻き込まれたことか。苛立ちまぎれに液晶画面へのタップを繰り返していると、恐る恐るといった様子で田ノ岡先輩が声をかけてくる。

「千枝ちゃん。もしかして妹から連絡あった?」
「ありましたよ、家に来いって。先輩は?」

目尻を下げた、困りつつも優しげな笑みは私でさえも可愛いと思う。あの妹の兄という不幸は、彼に課せられた試練なのかもしれない。そっと見せられたトーク画面には“酒、料理”とだけ表示されていた。

 

「何で美樹までついてくるの?」
「だって何か楽しそうじゃない?」

私は知っている、どうせ先輩目当てだろう。先輩もそう思いますよね、なんて弾んだ声を投げかけているが、その恋しい男の顔に疲れがにじみ出ている。そのことに気付いているのだろうか。
インターン中の偶然。腐れ縁の実兄が希望企業の社員だとは知りもしなかった。数多いインターン生の中の見知った顔に先輩も親しみを持つのだろう。何かと世話をしてくれてなんて優しい人だろうと思いはするものの、この誤解だけは解いてほしいと切に願う。私と先輩は決してそんな関係などではないし、勘ぐるだけ無駄だ。同じインターン生である林田美樹は、けれどそのことを決してわかろうとはしてくれない。
マンションの入り口に常駐する管理人に挨拶をして、目的の部屋に向かう。到着すればすんなりと開いたドアにため息を禁じ得ない。それなりにセキュリティのしっかりしたマンションに優子が住んでいるのは彼女の母のお陰だが、それに対して報いろうとする気はさらさらないらしかった。お邪魔しま〜す。美樹が律儀にもあげた声を後ろ手に聞きながら、無駄に長い廊下を進む。磨りガラスから漏れる光は優子が根城にしているリビングからだ。
ドアを開けると優子は床に座り、ソファにもたれかかったまま何やら本を読んでいた。こちらに一瞥を加えるも、反応は特にない。

「わぁすごい!先輩の妹さんは芸術家さんなんですね」
「うーん、そんな大層なもんじゃないよ」

室内をぐるりと見渡し歓声をあげた美樹にならえば、確かに以前訪れた時よりも努力の跡が増えている。和式便座(きっと署名がされている)が鎮座し、想像力に限界をきたした裸夫画が壁を彩り、小さな人形が机の上に積まれている状態はもう何を表現したかったのかすらわからない。唯一、ふよふよと中空に浮かぶ球体もどきの仕掛けが気にはなったがそれまでのこと。過去の芸術の逆をいけばオリジナリティが出ると考えたようだが、自分を見失っている状態で独創性など見出せるものなのだろうか。
褒めるなら本人に直接言ってね、と言い残しそそくさと先輩はキッチンへと向かう。フルオープン型の対面キッチンのためリビングとは地続きだが、美樹は優子と向き合うことに決めたらしい。

「はじめまして」
「…はぁ」

何だこいつという表情をありありと浮かべた様子にめげるかと思ったが、美樹は果敢だ。

「林田美樹っていいます。ちなみに年はいくつ?」
「千枝とあんたが同い年なら私もおんなじ年」
「そっ、ならタメ語でいい?」

何だこいつという表情をこちらに向けてこられても困る。助け舟のつもりではないが二人の気があうか判断がつかなかったため、一先ず美樹に声をかける。

「美樹。貴方先輩のこと手伝ってくれば?」
「どうせ兄さん目当てなら手伝ってくれば?」
「…女は料理ができるとかいう固定観念ってなくなればいいって思わない?」
「…あー。ついでに男女が揃えば恋が生まれるとか勘違いしている恋愛脳もなくなればいいと思う」

わかるぅ、私も中学生の時とかにからかわれたとケラケラ笑っているが、私の場合は現在進行形の話だ。何度違う、勘違いするなと言っても解ってはくれない。敵に塩はおろか、砂糖も送る気はないという。全く意味不明だ。
しかし料理に関しては特に問題ないだろう。キッチンからは肉の焼けるいい香りが漂ってきている。さて、皿を出しに行かなければ。

 

「それで、“光あれ”ってどういう意味よ」

あーあれね、と缶チューハイを開けながら優子は呟き、次いで黙り込む。人を呼び出しておきながらよもや用件を忘れたのかと見つめていると、予想外の方向から声が飛んでくる。

「旧約聖書の創世記、天地創造の段で神様が言ったやつね。 “光あれ”こうして光があった。神は光を見て、良しとされた」
「予想外。なんで知ってるわけ?」
「子どもの頃教会に通ってた時期があって、まぁその頃の名残」

照れ臭そうに笑う美樹に対して好感度が上がる日が来ようとは。言ってやらないが。
気を取り直して優子に目を向けると、何やら整理がついたらしく指を顎にやり頻りに首を上下している。兄さぁんと酔った雰囲気も見せずに大声を張り上げて、奥の部屋へと行ったきりの先輩を呼んだ。
先輩はものの数分で帰ってくると手に持ったブランケットをさらりと渡してきて、冷房が効いてて逆に寒いだろうからとこちらを気遣ってくれる。おおかた恥ずかしげもなくスカートの中を見せて胡座をかく優子のことを案じているのだろうが、全く気がきく人である。
妹に無造作に呼ばれた兄は此処でもこき使われ、部屋の隅にあった得体の知れない球体を部屋の中心に持ってくるように命じられた。
部屋に入ってきたときにみえた球体は、近くで見るとグロテスクという一言に尽きた。中空に浮き上がった球体は赤黒寄りのピンク色をしており、いびつな上に時折動く。まるで内部に何かが居るようだ。不気味さをテーマとした作品だろうか。いまいち要素が安易すぎるが、視覚的な完成度は今までで一番だ。

「これが何?次の作品展にでも出すの?」

球体は一六〇センチの私が立ち上がった時に少し見上げる必要があるぐらい、恐らく一七〇センチ程の高さで浮いている。人間の顔ぐらいの大きさで、その浮力はどこから来ているのかと思い下を見れば、何やら四角い箱とそこからパソコンに向かって程よい長さのケーブルが繋がっている。あのデジタル音痴の優子がよもやパソコンを取り扱い始めたのかと、わずかな感動さへ覚えた。

「これね、初めは月だったのよ」
「月を作ろうと思ってたわけ?」
「いや違くて。そもそもこれは私が作ったものじゃない」

じゃぁ何よ、と聞くと美樹は話し始めた。

「酒をしこたま飲んだ後、携帯でネットサーフィンをしていたんだけど、どうやらその時に買ったみたいなんだよね」

二ヶ月以上前。ぼんやりとした月が浮かぶ日に、もっと鮮明で美しい月を見たいと思い立った。ネットの海に身を投じていると外国製品の日本語紹介サイトに行き当たり、記事を斜め読みするとどうやら自宅で月が楽しめるといったコンセプトの製品らしい。
正に思い描いていた通りの製品だ。美樹は英語も読めないくせにその製品の販売サイトに飛び、購入を即決した。

「それ大丈夫だったの?法外な額をふっかけられたりしなかった?」
「いやそこは良心的だった。たったの一万ポッキリ」
「…そもそも支払いはどうしたの?まさかクレジットとか登録してませんよね?」
「そこは大丈夫。そもそもカードは作らせないようにしてるから」

一万が高いか安いかは置いとくとして、美樹の疑問には先輩が答えてくれる。優子の信用度の低さは折り紙付きなのだ。周囲の雑音を払うかのような態とらしい咳払いが聞こえ、なおも話は続く。

「まぁそんなこんなで月を手に入れた私は、優雅なお月さまライフを開始した訳」

やってきた製品はただの黒い箱に見えた。しかしベタベタと箱をいじっていると、不意に何かのボタンを押したらしく側面の部分が扉状に開いた。そこにはUSBコードを差し込む為の穴があり、成る程ここに接続すればいいのかと合点がいって、優子にも使い方がすぐにわかったようだ。
コンセントをさした瞬間に浮かび上がった月。

「本来なら太陽の光を受けて月は輝いているでしょ?下手に知識持っているとそういうところがつまんなくなっちゃうんだけど、くっきりとした形で浮かぶ姿は冬の月に似ててね。慌てて部屋の電気を消しに走ったら尚のこと、夜の中にいるみたいだった」

小さな人形たちを使って宇宙旅行、および探検も存分にした。星々の姿が見えないのは輝く光があまりにも強くて霞んでしまったから。裏側の凸凹は隕石が衝突した名残だろうか。表側に海の名をつけた学者たちはどんな気持ちだったのだろうか。

「ずいぶん楽しんでた訳ね」
「そう、楽しんでた」

それがどうしてこんなことに。言わないまでもその疑問は優子に正確に届いたようだった。

「それを一緒になって考えて欲しいわけ」

ちらりと目線をグロテスクな球体に移す。中空に浮かぶその物体に月の面影を探したが、何やら生々しいピンク色をしている時点でその想像も難しい。

「しかもしばらく経ったら、ちょっと飽きてきてね」

いくら楽しんでいたとしても、ずっと形が変わらなければ飽きが出てくる。月は満月だけでなく上弦、下弦と移り変わっていく時間的な醍醐味もあるのだ。こんなハイテクな製品にそれぐらいの応用がないはずがないと考えた優子は、またもやネットの海をさ迷いだした。
携帯で検索をしてみると同じ製品と思われるもののレビューを書いているサイトを見つけた。その時になって初めて日本語版があることを知ったようだが、自分の手元にある製品の返品先もわからないような状態だ。まぁ仕様は同じだろうとそのレビューを読み始めた。

「それで、何かわかったの?」
「なんと、ネットに接続すると月の形に変化が起こるらしいことがわかった」

三日月だとか半月だとか、ネットに落ちている情報を解析して、それを本体の方に勝手に反映してくれるというお手軽仕様。

「こりゃやってみなきゃとか思うでしょう?」
「いや、やらない」
「でも気にならない?」

まぁ確かにね、と苦笑いを浮かべながらも相槌を打つのは彼女の兄だけだ。

「どういう仕組みで適切なデータを取り込むのかは気になるかもしれない」
「でしょでしょ?他にも満月はそりゃ球体だけど、それを三日月にするってどうやるんだろう。影をつけでもするのかなぁとか」
「三日月の状態で立体的になるのかなとか」
「そう、それとももう画像データをネットから持ってきてそこは平面的に映す気なのかなとか」
「私だったら情報の抜き取りを疑うわ…」

美樹がどことなくげっそりとした調子でつぶやくのを聞きながら、私も心なしか痛むこめかみを揉むように押した。
床に散らばる缶を適当にゴミ袋に詰め、新しい缶ビールを開ける。なかなか酔える気はしないが飲まずにもやっていられない。

「それで?」
「それでまぁ、あそこにあるノートパソコンに繋げてみたら確かに変化が起きた。だけどこれはそろそろ洒落にならないかもって思い始めたんで、助力を乞うためにあんた達を呼び出したってわけ」

長い前振りであったが一応の経緯はようやく理解した。確かにあの得体の知れない球体がある状態ではさすがの優子も参ってしまったのだろう。目で先を促すとちょっと考えたのちに話し出す。

「まず月はちょっとずつふくらみ始めた」
「ふくらむって、どんな風に?」
「空気を入れた風船みたいに、徐々に」

ネットにつなぐ前、浮かんだ月は別に触れられるものでもなかったらしい。しかし風船のような状態の月もどきは実体を持ち、空気を含んだかのように表面全体が張っていったのだという。

「えっじゃぁもしかして、今のあれも触れるの?」
「触れるかもしれないけど」

触りたいの?との言葉に美樹と一緒に首をぶんぶんと横に振る。先輩はふくらんだ月もどきの段階で触れたことがあるらしい。確かに妙な質量を感じたよ、と情報を補足した。

「で、次に光があった」
「ここでようやく?どうしてその時点で呼ばなかったわけ?」
「確かにこの時点じゃ呼ばなかったけど、一回は救援を求めたわ」

まぁそれはおいおい話すけど。言われた言葉に思い当たる節がなく、もぞもぞと居心地の悪さを感じる。しかし優子は気にした風でもなかった。

「その光の輝きはそりゃもう凄まじくてね。初めは豆電球ぐらいだったのに、最後の方には室内に太陽があるみたいだった」
「太陽ならよかったじゃない。星系全部好きでしょう?」
「太陽じゃなくてLED電気って言えばよかった?視界に入れただけで脳に刺さるような光だった」

ブルーライトが嫌いでデジタル機器を苦手とする優子にとっては、苦痛を伴うものであったらしい。でも実際ほんとすごかったよ、とは先輩の談だ。まるでナイター時に使用される投光器のような光量だったというから多少の同情は禁じ得ない。電気のメーター消費が凄まじかったため、この時点でコンセントを抜いたのだが光はなおも輝き続けた。

「で、ようやく光が消えたと思ったら次には土があった」
「土?」
「説明が難しいけど、球体全体を土が覆っているといえばいいかな。栄養が行き渡ってそうな感じの土で触ると柔らかくて、ちょっと臭った」

ふくらむぐらいならまだしも視界をやられるわ嗅覚を刺激されるわの状態で鷹揚と楽しんでいられる精神は、長所と言うべきなのかもしれない。褒める気はしないが。

「…それでもしかして次に来るなら人間かなって思ったら案の定」
「案の定?」
「次に浮かんでいたのは、脳だった」
「脳?つまり人間の?」
「猿だったかもしれない。でも私は人間のだと思ってる」

脳?突然の生々しさに、けれど驚くのとは別に冷静である自分も感じていた。わざとらしく落とされた声量に興ざめしたのもあるだろう。酒宴の戯言。今の状況はそれに近いし、いまいち実感を伴った危機には思えない。けれど優子の言葉には考えに考えた末のある種の熱がこもっていて、どうやら私の態度はいささかの不満を感じるものであったらしい。

「ノリが悪い」
「バカげた妄想よ。何でそもそも“人間かな”なんて発想になったの」
「だって脳よ?」
「脳が浮かぶ前に“人間になるかも”って思ったわけでしょ?それがなんでって話」

優子は何かを考えるかのように首をひねる。その隙間を縫うようにして呟かれた私の言葉には先輩の方が答えてくれた。

「というかなんでその段階で連絡してこなかったわけ?」
「いや、してたよ」

した、したよねと兄妹が揃って頷く。えっ何時?と本気で不思議がればほぼ半月前と明朗な答え。記憶をたどっていけばあぁと思い当たった。

「私が風邪をひいていた時か」
「兄さんと一緒にお見舞いに行ったでしょ。“脳が浮いてる”って連絡したら“私も”って連絡がきたっきり音信不通になるんだもの。それで心配して行ってみたら驚いた。あの時のあんた、本当に脳が浮いてるみたいに言動行動全部ふわふわしてたもん」

ふてくされたような気持ちが急激にしぼんでいく。続きをどうぞ、というように掌をさし向ければ我が意を得たりとでもいうように話し出す。

「まず私なりに考えてみた結果、これは小規模な創世のやり直しなのではないかという結論を得たの」

創世に小規模などあるのだろうか。顔をしかめ不同意を示すと、シミュレーションを行ってるってことよとにべもない答えが返ってくる。

「まずはふくらむという現象。これはビックバンを表している」
「ビックバン…?」
「そう、宇宙の膨張」

ちらりと球体に目を移す。心なしか大きくなっているような気がするが、酒が回り出したのだろうか。水をはさみ、酔いをほぐす。ビックバンについては私も浅薄な知識しか持たないが故、何も言えることはない。美樹もそれは同様だろう。困り顔でお互い顔を見合わせたが、否定も肯定もできない以上先を進めるしかない。
顎をしゃくり続きを促す。美樹は日本酒に手を出し始めた。

「そして次に光があった」
「…光あれ」
「私はここにきて予兆を感じ始めてた。光あれ。真っ先に頭に浮かんだの」
「そりゃぁもう有名な言葉ですから」

呆れたような美樹の声。同意だ。それは予兆ではなく、反射的なものだろう。光があった。神の一節。光あれ。

「そもそも光があったのは確かに第一の日だけど、順に行くなら次は空だしね」

いつの間にかいなくなっていた先輩が戻っている。湯気の立った湯飲みが四つ。急須もあって重いだろうと慌てて奪い取れば、ありがとうと微笑まれる。いやいやそれはこちらのセリフです。
隣に座った先輩がなにやら分厚い書物をテーブルに置く。覗き込めばそれは聖書だった。

「優子の持ち物ですか?」
「そう、西洋画はキリスト教の素養も必要とするからね」

探すような場所でもないけどと、数ページの後、目的の部分はすぐに見つかった。

「光あれ。こうして光があった。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」

美樹が続きを引き継ぎ、第二の日の様相がようやく私の知識になってやってくる。すごい物知りねと感心して呟けば、聞こえたのか心なしか誇らしげな顔で見返してきた。

「優子がご所望の土は第三の日、人に至っては第六の日」
「創世記に絡めるならこじ付けが過ぎる」

ってわけね、と締めくくり優子の方を見るとまぁそうねと特に反発することもなく自分の非を認める。バカげた理論だけに、特にこだわってもいなかったのだろう。

「最初の光を太陽と考えるのだって無理があるし…」
「太陽が現れるのは第四の日だからね」

可能性の可の字も信じていない様なことを言うと、すかさず先輩から声が上がる。まぁそれはそうだろう。

「でもさぁ、じゃぁあれをみんななんだと考えるわけよ」

不満げな声。元・月の球体は依然としてフヨフヨ浮いているし、あろうことか時々確かに動いている様にも見える。ボコリと一部が盛り上がるその様子は、何かが中にいる様な気もしないではなかった。

「うーん、確かに中に何かがいる様な気がしないでもない」
「優子さんは結局、あの中に何がいるのかを知りたいってことですか?」
「いるとしたらね」

可能性の幅を広げる物言い。けれど優子は何かがいると信じているのだろう。

あまり近づく気がしなかったが、そうも言ってはいられない。近くで見たとしても大して印象は変わらず、ピンク色っぽく、割に艶やか、よくよく見れば小刻みに震えている様にも見える。触れてみると妙な弾力があって説明しがたい気持ち悪さがあった。

「うわぁ、手洗ってきなさいよ」

優子の不快そうな声に若干のいらつきを感じたものの、素直にお手洗いに向かう。しかし席に戻ると話はまた妙な方向に流れていた。

「イザナギとイザナミが結婚する時、プロポーズする方が女のイザナミからだと不具の子が生まれて、男のイザナギからだと立派な子が生まれたって話。知ってる?」
「いや知らないけど」

なんでそんな話になってるわけ。声に出さずも首をかしげると、美樹がフォローを入れてくれる。

「そもそもね、どうしてこういう時の発想ってキリスト教に行くんだろうって話になって」
「うん」
「日本の神話とかでもいくないって話になった後、そういやぁそもそもこの卵みたいな球体は何から生まれ、何者で、何になるのかって話になって」

あれ、結局どういう話してたんだっけ。呟きはグラスの奥に消えていく。というよりこの子飲み過ぎだ。ビンに移し替えた水を酒と偽って差し出すと、美味しいお酒だねぇと言って飲み出した。

「しかし何から生まれたか…」

黙り込んでいた先輩がふと「そういえばどこ製の製品なんだ?」と至極もっともなこと聞く。「うーん、エジプト製?」
しばしの沈黙。どういう意味かと詰め寄る前に、優子は製品が入っていたのだという箱を取り出し、ついで説明書を差し出してくる。

「…象形文字?」

綴られていたのは英語やフランス語といったものはなく、絵から成立したと言われる象形文字だ。しかもヒエログリフなどといった一度は見たことのあるものですらなく、解読するにもとっかかりが一つとしてない。

「なんでこんな怪しげなものを戸惑いもなく…」

さすがの先輩ですら二の句もつけず黙り込み、しからば優子もまずいことをしたとようやく気付いたのだろう。しかし生来の性質が悪いのか、神妙な顔をしつつも反省の色は薄い。

「もう買っちゃったし、コンセントは挿しちゃったし、月は良く分からないものになっちゃった。でももう過去には戻れないんだから、今をどうするべきか考えるべきでしょう」
「いやそりゃそうだけども」

美樹が称したように、球体は何かの卵のようでもあった。卵といっても鳥のようなものではない。体外に発生する卵は厚い殻に覆われているが、叩けば割れるものだ。けれどこれは弾力を持ち、中身を取り出すならば切らねばならない類のものだろう。

「ねぇもうあれ切ってみません?」
「それはちょっと短絡的すぎるね」

美樹がなかなかに物騒な言葉を吐く。切って捨てられたのは当たり前だが、そう思ってしまう気持ちもわかる。正体がつかめなくては次の行動ができない。しかしこの情報が少ない状態では次に踏める手段など限られている。

改めて考えてみれば、こんな正体不明の球体をこんな脆弱な布陣でどうする気であったのだろうか。

「ごめんね、妹が」
「…いえ、先輩のせいじゃありません」

そうだ。そして優子も全部が全部悪いわけじゃない。月が部屋に。私だってほしいと思う。すまなそうに眉を下げる先輩に、正座で姿勢を正し始めた優子。美樹は完全なとばっちりだが、まぁ付いてきたのは自分だと思って諦めてもらおう。
「よしっ」と両手を合わせ、気分を引き締める。少し驚かせてしまっただろうが構うものか。
さぁ、はじめから情報を整理しよう。

「まず、この製品の購入先は外国製の日本語サイトでいいのよね」
「酔っ払っていたためどういう形でどういう風に検索に出てきたサイトなのかは良く覚えておりません」

優子の自己申告にまずサイトを確認するというアプローチ法にバツをつける。じゃぁ次に確認すべきは製品の説明書だが、こちらも現時点で解読技術を誰も持っていない。

「というより疑問だったんだけど」
「何よ兄さん」
「いつの間にWi-Fiの契約を結んだんだ?」

優子は言われた意味がわからないのか顔をしかめ小首を傾げる。しかしその仕草で答えは言ったようなものだろう。
Wi-Fi契約を結んでいない。有線も繋がっていない。ということはネット回線を使用できていない状態。本来であればネットに繋ぐことによって情報を読み取る生き物であったこの月もどきは、優子の無知によって少なくともノートパソコン内の情報しか読み取れていないということだ。

「じゃぁもしこの製品の生産者の目的が情報の抜き取りだったとしても、ひとまずは安心ってこと?」
「まぁここにある奴に限ってはそうなるわね」

ふくらんで、光になって、土の後に脳になる。関連性もなければ連続性も見出せない。優子が創世記に絡めて考え出すのも、設定としてわかりやすかったからだろう。

「…けどやっぱりビックバンからの創世記はないな」
「まぁ確かにこじつけに近かったけど、でもわかりやすい目的っていうと、ジェノサイドだとか人類の抹殺とかにならない?」
「誰が何の目的でこんなよくわからないものを売ってたとしても、最後に出てくるのが化け物だっていうなら話はわかりやすいのはわかる」

美樹が話に乗っているのを聞きながら、まぁわかるけどもと一応の納得は示そうとした。しかし、やはり無理があるだろう。
だってどうだ。実際に考えてみて、神が休みを返上してまで創世をやり直す事などありうるのだろうか。手を加えるならば星を一から作り直した方がはるかに手っ取り早い。別の可能性を探ってみるにしても、乗っ取りを行うほどに地球という地は異星人にとって魅力的なものなのだろうか。戦争をやめない地球人を宇宙から追放するために派遣されてきたり、はたまた地球人という高等知性体に感服した異星人が敬意を示しにはるばる遠い星からやってくることが。
いやないだろう。今回の製品を見る限り、ふくらんで、光になって、土の後に脳になる。そんなまどろっこしくも無意味なことを何かの意図を持ってやっているのならば本当に話の通じないやつか、人間よりもだいぶ上位の存在だろう。
考えに考え抜いた思考はポロリと口からこぼれてしまう。

「確かにこれは地球外生命体と言って差し支えがないと思うし、百歩譲って今から何か生まれようとしている卵だとしてもよ?地球外生命体がすべからく人類を抹殺するために行動しようとしているなんて発想は貧相よ」
「…まぁそうね、女が料理すべきだって思い込みのように安直だわ」
「…確かに、男が女に告白すべきだっていう設定ほどに安易だ」

概ね同意によって返されたが、いささか内容に不備があるように思われる。

「惚れた方の負けっていうのは普遍だと思うけどね」
「ほんとそう思う」

あぁ諦めたのと優子が言い、ブランケットもお茶も優先順位が決まっているんだものと美樹が言っているが、同意を得られているなら満足だ。慌てて立ち上がった先輩のことは見て見ぬ振りをする。

「それで、千枝ちゃんは何か思いついたわけ?」
「今言った通り。多分いきなりビックバンが起こったりするもんではないと思うけれど、何かの卵ではあると思う。全部予想でしかないし、予想しかできないけど」
「まぁそりゃそうよ、情報が足らないもの」
「ただ卵だとしたら何が生まれるんだろう…」

不安そうな声。それはそうだろう。得体の知れない何か。どうなるかわからない未来は人を不安にさせる。けれど決めたのならば腹を括らねばならない。

「いつ生まれるのかな」
「…実は生まれるとしたら今日ぐらいだと思ってた」

優子がおずおずと告げる言葉に、まぁそうだろうなと納得する。製品を購入したであろう日から逆算してみてというのもあるが、優子が連絡するタイミングを考えてというのもある。長年の付き合いから考えてみれば、初めから呼んで楽しさを共有するか、最後の方に呼んで助けを求めてくるかの二択しかない。
今回の場合はそれが後者だったという話だ。

 

球体は静かに変化し始めていた。

 

気づいた瞬間、悲鳴はなかった。固唾を飲んで見つめ、各々が何をするでもなくお互いの手にまとう。かたくぎゅっと握り合った掌は汗をじんわりと帯始めていた。
厚く閉ざされているように見えた肉の殻は今や徐々に薄くなり始め、中にいる“何か”の存在が見えて来る。時折動くその様子を見る限り、複数いるようにも思えたが、もしかしたら個体が断裂しているのかもしれない。
想像は現実を目にしても尚もふくらみ、刻一刻と時が経つ程に緊張感が増していく。うっすらと見えて来る影は小さく、今ならばこの手で殺せそうだ。しかし、足が動かない。
フヨフヨと浮くばかりであった球体が高度を下げ、地面に近くなっていく。

生まれ出ずるのか。

何が?と囁く言葉に返事をする勇気を持てず、決意はしたもののやはり恐ろしさは拭えない。吐くばかりの呼吸で脳がガンガンと痛み出す。
その場にいるものたちが緊張感に殺されそうになっていたその瞬間。

 

 

まさしくそれは一瞬のうちに終わってしまった。退出していた先輩が段ボール箱を片手に戻ってきて、そっと球体にかぶせたのだ。

「えっなにやってんの兄さん」
「いや、もしかしたら破裂するかもしれないと思って」

部屋が汚れてしまうかもだろう。先輩の一言に、そりゃそうかもしれないけれどと思いつつ、急な脱力感は隠しようがない。そうこうしている内に被せられた段ボールは地に落ち、中でなにが起きているか、その様相がなにもわからなくなった。
一二分が経った頃であろうか。がたりと段ボールが大きく揺れ、次いで甲高い声が聞こえてくる。驚いた拍子に美樹が瓶を倒すと、段ボールも一層大きく揺れはじめる。いきなり触手が飛んでくることなどあるだろうか。小さな危惧を胸に恐る恐る段ボール箱をどけると、そこには予想外の生き物がいた。

「えぇ…豚?」

 

 

昨夜の後片付けをしていると、先輩が戻ってきた。

「優子は置いてきたんですか?」
「あぁまぁそれぐらいの責任は持たないとね」

無害な子豚に見えても、元は得体の知れない球体から現れた地球外生命体もどきである。何かあった時のために、と動物病院に優子を置いてきたらしい。朝ごはんも買ってきたといってコンビニの袋を差し出してきた先輩は存外タフである。
段ボールによって被害が最小限に抑えられたリビングから酒宴の痕跡を消した後、先輩は深夜にもかかわらず自宅に一時帰宅した。お陰でメイクを落とし、朝を迎えられた私たちは上機嫌である。
豚の世話などしたことがない私たちに代わり一先ず動物病院へ向かい、それだけでも有り難いのに朝食の気遣いまで。まさに完璧である。
準備を済ませ、リビングのソファに各々座ると、先輩は話したいことがあると口火を切った。

「昨日の出来事を総括していくと、あれはおもちゃの類だったのではないかなっていう結論に至った」
「おもちゃ? 誰のですか?」
「誰の、を特定する情報は持っていない」

けれどまぁ、地球の技術ではないだろうね。そういいながら先輩が取り出したのは国語辞書だ。

「まず、製品は不完全な状態で起動していたんだと思う」

考える。ネット回線不使用、象形文字が読めないのは私たちもだが、同様にして日本語をあの製品の回路が読みこめたのだろうか。もしも地球外生命体とするならば、地球で使用されている言語など大体把握されているのがセオリーだ。けれど本当にそうなのだろうか。答えはわからない。

「それでね、これを見て欲しいんだけど」

取り出された一枚の紙には簡単な単語しか書かれていない。

 

膨。明。肥。脳。胎。豚。

 

ふくらんで、光になって、土の後に脳になる。胎から豚が生まれたという事か? 頭を抱えて黙り込むと、美樹は同様のことを察したのだろう。しかしその発言は素直で可愛らしい。

「なるほど。一応、月を探していたってわけですね」
「そう、あの製品は確かに月になろうとはしてくれてたんだ」

こっちの期待通りではなかったけどね。コーヒーを一口すすって総括する先輩の表情に、なんだか全てがどうでもよくなる気持ちだ。今回巻き込まれた形になる美樹がそこまで気にしていないようならば、私が何時迄も脱力している意味はない。

「まぁ今回結局一番大変なのは優子ですしね」

結局、優子ちゃん引っ越すのかなぁ。
国語辞書をパラパラとめくりつつ美樹がつぶやく。飼うことを選択するならばペット禁止のこのマンションを引っ越さねばならないし、それをするには母親に説明も必要になってくるだろう。子豚を二頭も唐突に飼育する理由とは一体どんなものなのだろうか。
あっ、と国語辞書をめくっていた美樹が声を上げる。急にどうしたの。顔を向ければ、みてみてと楽しげな声。

「昨日の私たちにぴったりじゃない?」

朋友。
辞書を覗き込めばまさしくちょうどいい言葉。昨日以前だって友達のつもりだが、騒動の発端である“月”に掛けたのだろう。

「先輩は違う奴がいいですかね」

返答をしようとしたら、からかうような声と慌てるような否定の言葉。
むっ、そんな拒否することないではないか。

「先輩!」
「千枝ちゃん!?」

ぎゅっと手を握る。びっくりしたような表情に気分が上昇するならば、惚れさせられた方だって結局負けなのだろう。
仕方なさそうに笑う彼女には申し訳ないが、つまりはこういう事だ。勿論、美樹と優子、私は友達。
でも先輩とは違う。
私たちに、月は二つも必要ない。

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