月面車で行こう

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梗 概

月面車で行こう

 今夜も月が、欠けてゆく。
 毎日毎日すこしずつ、夜空の月は小さくなって、そうしていつか居なくなる。
 月が蟲たちに食べられ、蝕まれ、消えてしまうのを、遠く離れたところから、ただ黙って手も足も出せず、見上げているしかないのだろうか。

 月蟲(げっちゅう)と呼ばれる、透き通った薄い帯状の蟲が、月面に無数に漂っている。
「なぁ、キッカ。本当にやるのかよ」
「何言ってんだ。いったい何しにここまで来たと思ってる」
 勇ましく言い放ち、宇宙タイツに身を包んだキッカは、長いとりもち棒を握りしめ月蟲の群へ踏み込んでいった。夢中で振り回すとりもちに無抵抗の蟲たちが絡めとられていく。
「ははっ、何だ、おい、リュー。来いよ、楽勝だ」
 キッカの持ったとりもちにへばりつく蟲が、次第に大きなガラスの珠のようになる。
 リューは月面車の荷台に積まれたとりもち棒を手に取ると、月蟲に向かって駆け出した。まるで空を切るような手応えのなさで、無数の蟲がくっつき、珠になる。
 棒を次々取り換えながら、二人は月蟲を駆除していく。しかし、いくら駆け回ったところで、蟲たちは一向に減る気配はなく、気ままに食事を続けていた。やがて月の裏側で蟲は蛹になるという。
 目の前で月の表面が食われていくのを見て、リューは子どものころに地球から見上げていた、月の欠けていく様を思い出す。

 辺境の地での害虫駆除。期間契約の完全出来高払い。はっきり言って最底辺の仕事だ。基地に戻り、集めた蟲を計量してポイントに変換する。集めた蟲は加工され、様々な用途に利用されるという。仕事を終え、宇宙食を摂る。味気ない。そういえば月蟲は食べることもできるらしい。
 キッカは雇用期間の延長を申請して、もうしばらく月に残るつもりだという。窓の外に浮かぶ青い星を眺めていると、蛹から羽化した月蟲が宇宙の彼方へ飛び去っていくのが見えた。リューは望郷の念に駆られ、故郷に帰ることを決意する。

文字数:800

内容に関するアピール

 月にまつわるお話、といわれて初めに考えたのは「欠ける月」について書きたいということでした。月というと、神秘的であったり、ルナティックというように狂気を誘発するものとみなされたり、何かしら人の気を惹きつける魅力を感じるものです。それでも恐らく実際に月へと赴いて、その場所で日々の生活を送ることになったのなら、変わらない日常の独特の安心感や退屈さだとか、神秘ではない現実的な瞬間を感じることにもなるでしょう。
 この作品で描かれる労働は、ある種、モラトリアム期間の若者が小遣い稼ぎをする腰掛け仕事のような、やや気だるい雰囲気をイメージしています。不安定な時期に、不安定な場所で、不安定な仕事をこなす主人公たちが、無責任に面白おかしく、ときに不安に駆られながら、各々の道を探していく物語としたいです。というのは建前で、本当はとりもち棒を持った全身タイツの若者が月面を駆け回る様子を書いてみたかっただけです。

文字数:400

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月面車で行こう

 

 何もない荒野のような場所を、最先端テクノロジーによって作られた自走車に揺られて突き進んでいく。この辺りはヘンリーロードと呼ばれていて、それはおおよそ八〇年ほど前に、ヘンリーという名の人物によって土地の権利が買われたからだった。
 果たして、この土地を購入したヘンリー氏に先見の明があったのか、なかったのか。未だ開発は進まず、未開のままで放置されている何もない――空気すら存在しない月の表面を、リューとキッカは月面車の窓から眺めていた。
 二人は、月面に巣食う月蟲げっちゅうと呼ばれる害虫を駆除するために、月の土地管理会社「ルナ&シンクレア社」に雇われた期間労働者だ。
 雇用審査の面接会場で二人が出会い、その場で月派遣の契約書にサインをした日から、今日でちょうど二か月目だった。月面作業のためのトレーニングと研修で一月ひとつき半、地球から中継ステーションを経由して月へ到着するまでに一週間、すでに他人とは思えない馴れ合いにも似た親しみが二人の間には育まれていた。
 これから三か月間、パートナーとして協力して月蟲駆除を行っていく相手として申し分ないと、互いに認め合っている。それは年齢が近いからということもあるし、気さくなキッカの性格のおかげでもあるとリューは考えていた。
 変わり映えのしない窓の外の景色に飽きたのか、キッカはチェアの背もたれを倒してタブレット端末を片手に寛いでいた。
「何読んでるんだ」
「あ? コミックだよ。いつものやつさ」
 そんなキッカの返事で、今日が月曜日であるとリューは知った。この二か月で互いの生活習慣については多少なりとも認識し合っていて、キッカは毎週月曜日に配信されるコミック雑誌を欠かさずに読んでいるのだ。
「面白いのか、それ」
 毎週、同じ質問をしているような気がすると思いながら、リューは習慣のようにそう口にしてしまう。
「さぁ、わかんねぇよ。ガキの頃からずっと読んでるんだ」
 キッカの答えもいつも同じ。少なくとも、子どもの頃から読み続けている超長期連載の作品が完結するまでは、読み続けるつもりだとキッカは言っていた。そして多分、連載が終わったとしても、意識に刷り込まれた本能のように、自分はそのコミック雑誌を読み続けるだろうとも。彼にとって、その内容が面白いかどうかは、すでに問題ではないのだ。
「そんなもんかな」
「そんなもんさ」とそっけなく答え「お前も読むか、暇だろ」とキッカが言ったのを「いや、遠慮するよ」とリューは断った。
 以前、一度だけ見せてもらったことがあったが、自分の育った場所とは異なる文化圏の娯楽に敬意をいだきつつも、リューにはそこに描かれている内容に楽しみを見出すことができなかった。
「それに、もうすぐ到着しそうだからな」
 窓の向こうに広がっている月の表面が、薄く発光しながらさざ波のように揺れているのが見えた。月蟲の群が蠢いているのだ。
「お、ようやくか」
 タブレットを放り出してキッカは窓の向こうの景色を眺めながら、「さてと、お互い景気よく行こうや」と言って月面活動用の黒い宇宙タイツの襟元を引き締めた。それから金魚鉢のような透明な丸いヘルメットを手に取って装着しはじめる。
 せっかちな奴だな、と思いつつリューもキッカのペースに合わせて準備を始めた。月面車の走行速度では、仕事場に到着するまで少なくともあと二〇分はかかりそうだ。
 リューは貨物室に積まれた酸素カプセルを二つ取って、一つを放ってやると、キッカはゆっくりと漂うそれを上手くキャッチしてヘルメットの顎のあたりに固定した。
 それから月蟲捕獲用として大量に積まれているマルキ加工製の宇宙用とりもちチューブを適当につかみ取った。
「こんなんで本当に捕まるのかね」
 とりもちを手にしたキッカは訝しむようにチューブの表面に小さな文字で書かれた使用上の注意を見つめていた。
 二人とも、実際に活動している月蟲を見るのは初めてだった。研修中にその標本や、撮影された捕獲活動の映像を見せてもらったことはあったが、半透明の薄い帯のようなそれが月を飛び回っているということに実感は湧かなかった。
 それに、映像で見せられた捕獲作業の様子、全身をタイツに包んだ格好で、とりもちのついた長い棒を振り回している光景は、いかにも滑稽だった。殺虫剤を散布するとか、大型のバキュームで吸い込むとか、もっと効率的な捕獲方法はいくらでもあるような気がしたが、研修の担当官の説明ではこの方法がもっとも環境にやさしく効率的なのだという。
 そんな説明を聞かされて、キッカは「本当マジかよ」と呟いていたが、リューも口には出さずとも同意見だった。
 しかし、捕獲の姿がいかに滑稽だといっても、二人きりの月面で他に誰かに見られるわけでもなかったし、それにこの仕事の報酬は破格だったので、そのことは躊躇う理由にはならなかった。
 はじめて宇宙タイツに身を包んで顔を合わせたとき、リューとキッカは互いの格好を見て笑い合うどころか神妙な気持ちになってしまった。
「お前、笑えないくらいダサいぜ」
 キッカの言葉にリューは無言で肯いた。
 そんな格好にも、この二か月ですっかり慣れきってしまい、こうして月面車のなかで互いに姿をさらしていても、滑稽さを感じるどころかむしろ戦闘服のような感覚で気合が入るくらいだった。
 ときどき冷静になった瞬間に、美的センスが麻痺しているな、と感じつつも、これから三か月間、月蟲駆除の作業を続けるにあたっては、このくらい感覚が鈍くなっているほうが気が楽なのかもしれないとも思われた。
 指定されたポイントに到着して、月面車は音もたてずに停車した。そして降車口の扉がスライドして開いていく。先に車のタラップを降りて月面に立ったキッカは、後部の荷台のほうへ回り込んで、そこに積まれたアルミ製の棒を数本、地面に下ろした。
 三メートル近い長さの棒はそれなりの重量があるはずだったが、月の世界では信じられないくらい軽くて、片手で振り回しているとどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。
 とりもちチューブのふたを開けて、棒の表面にとりもちを塗りたくっていく。月蟲捕獲用に特殊な加工が施されているとりもちは、やや軟質で水あめのように柔らかく伸びていった。これが月蟲に触れると、その表面を流れるように広がっていき、複数の蟲たちを絡めとっていくらしい。
 念のためとりもち剥がし用の油瓶を腰から下げて、アルミ棒を長槍のように構えたキッカは、「よし」と気合の声をあげた。

二人の目の前にはまるでイナゴの大群が空を覆っているかのように、大量の月蟲がその帯状の身体を揺らしながら蠢いていた。その異様な光景に、リューは思わず尻込みしてしまう。
「なぁ、キッカ。本当にやるのかよ」
「何言ってんだ。いったい何しにここまで来たと思ってる」
 勇ましく言い放ち、アルミ棒を両手で握りしめて前に突き出したキッカは、突進するように月蟲の群れに向かって駆け出していった。重力の軽くなった世界で、一歩一歩の跳躍が二人の距離をぐんぐん引き離していく。
 吹き荒れる嵐のようにうっすらと光りながら飛び交っている月蟲のなかで、キッカは夢中でとりもち棒を振り回していった。無秩序に飛び回る蟲がヘルメットにぶつかるたびにバチバチと小さな音が響く。タイツを撫でるように流れていく蟲の感触は不快だったが、どこかくすぐられるようなもどかしい感覚もあった。
 強く握りしめながらSOSの旗のように必死に振り回していた棒の先に、月蟲たちは次々と無抵抗に絡めとられていく。
「ははっ、何だ、おい、リュー。来いよ、楽勝だぜ」
 ヘルメットの通信機からくぐもったキッカの声が聞こえてくる。その言葉に勇気づけられて、リューも意を決してとりもちを塗りたくったアルミ棒を手に、不気味な蟲の群のなかへと突き進んでいった。
 飛び交う蟲の勢いに圧されて転倒しそうになるのを何とかこらえて、リューは身を護る盾のようにとりもち棒を前に突き出してキッカのいるあたりへ向かった。
 ようやくキッカの姿が視認できる距離まで近づくと、彼の手にしている棒の先には巨大なガラス珠のようになった月蟲の塊が付着していた。
 リューの姿を認めたキッカは、棒をもった手を軽く振りながら「ぞっとしねぇな」と笑った。「まったくだ」と返事をしたリューの手の先の棒にも、いつの間にか大きな月蟲の珠ができあがっている。
 棒を交換してくると言ってキッカが月面車のほうへ戻っていったので、リューはしばらく一人で棒を振り回しながら、蟲のなかを駆け回っていた。不意に足元を見ると数匹の月蟲を踏みつけていたが、研究によると月蟲に痛覚はないらしく、もともとかなり薄い躰をしているので、多少踏まれたくらいでは何ともないようだった。半分に引き裂かれてもまったく問題なく飛ぶことができるとさえ言われている。
 月蟲は、吸いつくように月の表面に触れて、それを少しずつんでいく。リューは立ち止まって、足元で食事をしている月蟲の様子を見つめた。月の表面を食べたからといって、月蟲の躰が大きくなるようなことはなく、口にしたはずの月の欠片がどこへ消えてしまうのか、その透明な躰に隠された秘密は、まだ解明されていなかった。
「おい、リュー、少し休んできたらどうだ」
 新しいとりもち棒を手に戻ってきたキッカに声をかけられて「ああ、俺も交換してくるよ」とリューは応えた。見ればキッカの手にした棒の先はすでに小さな珠状になっている。
「このペースだといくらでも稼げそうだな」
 舌なめずりするキッカの表情を想像してリューは思わず笑いながら「違いない」と返した。
 棒を次々に取り換えながら、二人は月蟲の駆除を続けていった。しかし、いくら駆け回ったところで、蟲は一向に減る気配はなくて、どこから湧いてくるのかむしろどんどん増えていっているようにさえ感じられた。
 仲間たちを捕獲して回るリューとキッカの存在を無視するように、月蟲たちは漂いながら、気まぐれに食事を続けて月を蝕んでいく。十分に栄養を蓄えた月蟲は、月の裏側にある巣穴に返って、そこで蛹になると言われている。
「こいつら、食えるらしいぜ」
 キッカの言葉に、リューは生のまま月蟲を口にするのを想像してしまい、軽い吐き気を催した。たしかに、月蟲を加工した食品や、油で揚げてカリカリになった月蟲に醤油をつけて食べる、という話は聞いたことがあった。そして入手が困難な月蟲の蛹は珍味として高額で取引されているとも聞く。
 自分はご免こうむりたいと思いながら、むしろリューは月蟲たちの食べている月の表面はいったいどんな味がするのだろうかと興味を覚えた。しゃがみ込んで、タイツに包まれた指先で月の大地に触れてみるが、特別な感慨は湧いてこない。
 いつの間にか、月面車の荷台は月蟲の絡みついたとりもち棒でいっぱいになっていた。持ってきた棒も使い切り、とりもちのチューブも二人合わせて八本も消費してしまった。
「これでいくらになるのかなぁ」
 積み上げられ、薄く発光している月蟲を見上げながらリューが呟く、棒の本数を数えていたキッカが「三十三本か、半端だな」と呟いた。
「適当に積んできたから……」
 半端分の一本は先陣を切っていったキッカのものということで話はすぐに落ち着いて、二人は月面車のなかへ戻り、金魚鉢状のヘルメットを外した。
 車窓から見える月蟲の群れは、来たときとすこしも変わっていないように見えた。あれだけ必死に駆け回り、絡めとったところで、月蟲たちにとってはたいした影響もなく、このままひたすら増え続けていくのだろうと、リューには感じられた。
「これだけいれば、まだまだ稼げそうだな」
 どうやらキッカは自分とは違う感想を抱いたらしいと思いながら、リューは頷いて「せっかくこんな辺境まで来たんだ。稼げるだけ稼がせてもらうさ」と同調した。
「さっきの話」
 大漁にすっかり満足した様子でチェアに深く腰かけていたキッカが、思い出したように呟いた。
「え?」
「月蟲が食えるって話だよ」
「ああ……」
 あまり思い出したくない話だったとリューは小さくため息をついて「何だよ」と張り合いのない声で応じた。
「月蟲の蛹は、大金で取引されてるらしいぜ」
「蛹……ね」
 そんなもの余計に食欲が減退しそうだと思いながらも、リューは実際にそれを見たことがなかった。研修所には捕獲対象である月蟲の標本はあったが、その蛹についてはテキストで軽く触れられているだけだった。
「金持ちや食通グルメの考えてることはよくわかんねぇけど、そいつを見つけて売りさばけば、一つで今日の稼ぎの数倍は儲けられるだろうな」
「でも、どこに行けば獲れるのか、わからないしな」
「ほら、見てみろ」
 そう言ってキッカは窓の外を指さした。リューがそちらに視線をを向けると、遠くで煌めいていた月蟲の群れのなかから数匹が離れてどこかへ飛び去っていくのが見えた。
「あれを追いかけていけばいいんだ」
 月の表面を喰らい、十分に栄養を蓄えた月蟲は、月の裏側の巣穴へ帰り、そこで蛹になると言われている。その話が本当であれば、飛び去っていく月蟲を追いかけていけば、いずれはその巣にたどり着くことができるだろう。
「でも、どうやって」
 月面車は自動操縦で、基地と仕事場の間を往復するだけなのだ。マニュアル運転も可能ではあったが、燃料の問題もあるし、緊急の場合を除いて勝手に移動経路を変更することも許可されていなかった。
「そうだな……歩いていくっていうのはどうだ」
 冗談めかして笑ったキッカも、どうやら本気で月蟲の巣を見つけるつもりはないようだった。それから放り出してあったタブレットを拾って、往路の続きからコミックを読みはじめた。
「一攫千金、狙いてぇな……」
「まったくだ」
 肯いてから、リューはチェアをリラクゼーション・モードにして横になり、目を閉じた。

 月が満ちたり欠けたりしていることに気がついたのはいつだったのか、はっきりと覚えているわけではなかったが、リューが初めてそのことについて誰かと話をしたのは、おそらく五歳くらいのときで、その相手は祖父だった。
 はじめ、夜空に浮かぶ真ん丸の大きな月を、ただ綺麗だと思いながらぼんやりと眺めていたリューは、一夜、二夜と日が経つにつれてそれが少しずつ欠けていることに気がついたのだ。
 そして今夜も、月が欠けてゆく。
 毎日毎日すこしずつ、夜空の月は小さくなって、そうしていつか居なくなる。
 そんなことを想像したリューは、どうして月が小さくなってしまうのかを祖父に訊ねたのだった。幼かったリューにとって、祖父は何でも知っていて、難しいことでもリューにもわかるように面白可笑しく話してくれる特別な存在だった。
――月にはたくさんの小さな蟲が住んでいて、そいつらが毎日少しずつ月を食べてしまうんだ。だから、月はどんどん小さくなってしまう。でも、安心しなさい。生物は食べたものから必要な分だけ栄養を取り出して、そして残ったものは再び土に還すんだよ。
「うんち!」
 リューが喜んでそう叫ぶと、祖父は嬉しそうに笑って「リューは賢いな」と言って、頭を撫でてくれた。
「お義父さん、また変なこと、教えないでくださいよ」
 そう言って苦笑する母を、リューは不思議に思った。祖父が間違ったことを言うはずがないのに。
 実際に月の観測隊によって月蟲の存在が確認され、その大量発生が問題視されるようになったのは、その話を聞いてから数年後のことだった。その頃には、祖父は自分がリューにそんな話を聞かせたことなど覚えていないようだったけれど、リューは内心密かに祖父の話が正しかったことを嬉しく思ったものだった。

 目を閉じて休んでいるうちに、転寝うたたねをしていたらしく、リューが軽くあくびをして横を見ると、キッカもタブレットを腹の上にのせて気持ちよさそうに眠っていた。初めての月蟲駆除ではしゃぎすぎてしまい、思ったよりも疲れたのかもしれない。
 だから、子どもの頃の夢など見たのだろうとリューは思った。
 月蟲の研究がすすむにつれて判明した事実のなかには、祖父の話とは違っていることが一つだけあった。月を食べた月蟲は、それを糞として還元することはないのだ。ただ、ひたすら月を食べて、蛹となって羽化し、それを宇宙の彼方へと持ち去ってしまう。
 月蟲の群れが飛び回る場所は、数週間で小さなクレーターのように凹んでしまう。まだ月蟲が少なかった頃には、その影響は軽視されていたが、あちこちで大量発生するようになってからは、さまざまな対策が講じられるようになった。
 研修で聞かされた薬の散布や、バキューム、さらに火炎放射など、どれも月蟲にはたいして効果がなく、現状、とりもち以上に有効な手段は見出されていない。
 そのため、月面にはリューやキッカのような、地球で職にあぶれた大勢の若者たちが派遣され、日夜とりもち棒を振り回しながら月蟲を追いかけているのだ。
 月の裏側にある月蟲の巣は、地下深く、迷路のような大空洞として広がっていると言われているが、実際に証拠となるような映像は確認されていない。
 月蟲駆除が本格的に実施されるようになった初期のころからずっと月に残って活動を続けている古参のグループのなかには、独自の方法で月蟲の巣への侵入ルートを確保して、蛹を密猟して大儲けをしている者たちもいるらしい、という噂はあったが、今のところリューはそうした者たちと接触を持つ機会はなかった。
「着いたぞ」
 声をかけるとキッカはあくびをしながらチェアの上で大きな伸びをした。その拍子に腹の上からタブレットが滑り落ちていく。
「さてと、換金といきますか」
 嬉しそうに笑ったキッカに「たまには旨いものでも食おう」とリューは頷き返した。
「だったら月蟲でも焼いてみるか?」
 からかうように言いながらキッカは月面車のドアを開いて、さっさと基地の駐車スペースへ降りていった。
 受付に帰還の連絡をしてタイムカードを記録し、運搬用の台車を借りてきて月面車の荷台から月蟲の絡みついたとりもち棒を下ろしていく。それを受付に提出すれば、その場で捕獲した月蟲が計量され、その量に応じたポイントを手に入れることができるのだ。ついでに使い切ったとりもちチューブを返却して新しいものを補充し、明日の仕事に備えておく。
 地球で最低賃金でアルバイトをしていた頃の時給では考えられないくらいのポイントを手に入れた二人は、大満足で基地の商業スペースを歩いていた。
「月は天国パラダイスだな」
 地球の繁華街とまったく変わらない喧噪のなか、建ち並んだ飲食店の看板に目をやりながら歌うようにキッカは言った。
「月蟲の刺身か……」
 何となくその姿は想像できるが、味はまったく予想がつかない。リューが和食店のメニューを眺めていると「けっきょく興味があるんじゃねぇか」と言って、キッカはリューの背中を押しながら店へ入っていった。
 カウンター席しかない狭い店内に、ほかに先客はなかった。
「いらっしゃい」
 リューたちと同い年くらいの若い板前に促されるように、奥の席へと収まった二人は、メニューのなかから月蟲の刺身を注文した。月では月蟲がほとんど無尽蔵に手に入るため、他のメニューに比べても値段は格安だったが、これが地球では一桁ほど高くなってしまう。
 食用に新鮮な月蟲を輸送するのには特殊な技術や高速運送が必要なため、運搬費用が高額になってしまうのだ。
「初めて食べるぜ」
 珍しくやや緊張した面持ちでキッカが呟いた。見ると出されたコップの水はすでに半分ほどに減っていた。
「俺もだよ」
 月に来てから月蟲を口にする機会はいくらでもあったはずだが、研修によって害虫というイメージが刷り込まれていたため、あえて食べようと思うことはなかった。その印象は今もそれほど変わらないが、初仕事の成功祝いと、今後の景気づけのつもりであえて食べてみようという気になっていた。
「どんな味かな」
 コップの水を飲み干し、期待と不安の入り混じった声でキッカは半笑いで言った。
「さぁ、まったく想像がつかない」
 しばらくすると黒い漆塗りの皿の上に扇状に盛り付けられた薄切りの月蟲の刺身が二人の前に並べられた。
 生きている間、月蟲は薄っすらと発光しているのだが、その光は命とともに消えてしまうらしい。一ミリ以下の薄さにスライスされた月蟲は光を帯びておらず、しかし、もともと半透明だった白い躰はさらに薄くなり、刺身の下の黒が透けて見えていた。
 丸い皿の半分を覆っている刺身は、夜空にぼんやりと光る半月のようにも見える。
 その薄い一切れを、リューはチョップスティックスを器用に使ってつまみ上げた。そして月蟲を熱湯で溶いて作られているという特製のたれにサッと付けて口へ運んだ。
 歯ごたえはなく、舌先で蕩けるように丸まったかと思うと、そのままジェル状になって口内一杯に広がっていく。はじめのうち、感触だけでほとんど味がなかったのが、口の中で溶けていくにつれてほんのりと品のある甘味を帯びはじめる。
 咀嚼して押し潰すたびに、特製たれの風味が柔らかい月蟲と絡みあう。それはいつまでも味わっていたいような、至高の口蕩けだった。
 少しずつ、柔らかく、さらさらと溶けていった月蟲は、優しく撫でるような喉越しを残して胃のなかへ収まっていった。
「初めての味だったな……」
 リューが呟くと、キッカは軽く首をひねって「上品すぎて俺にはわからねぇ」と苦笑した。
 最初の一口を存分に味わい、それを確かめるようにリューは二きれ目を口に運ぶ。キッカは特製たれの上品な味では物足りないらしく、二きれ目からは醤油を使って食べていたが「意外といけるぜ」と満足そうだった。
 他に客もなく退屈していたのか、あるいはリューが月蟲をじっくりと味わうように食べていたのに気を良くしたのか、板前の若者が「生でもいけますよ」と教えてくれたのを、早速、リューは試してみた。すると、これまで味わっていたのはたれの風味がかなり強く、月蟲本来の味はもっと薄いのだとわかった。味覚の鈍い者にはほとんど感じられないのではないだろうか。
 現に、リューを真似て生で刺身を口にしたキッカは「何の味もしねぇぞ」と顔をしかめて舌を出し、水で流し込んでしまっていた。
 そんなキッカの様子を見て板前は軽く笑い、それが普通なんですけどね、と言ってからリューのほうを見て「お客さん、わかりますか?」と訊ねた。ほんの微かだけれど、たしかに舌先に月蟲の味を覚え、リューは探るようにゆっくりと咀嚼を続けながら小さく頷いた。
「それじゃ、お客さんの舌は特別だ」
 こっちにいる間、あまり月蟲を食べ過ぎないほうがいい、と板前はリューに忠告してくれた。月蟲の味がわかる者は、味わうほどに、次第にそれから離れられなくなるという。月にいる間は、安くいくらでも食べられるけれど、地球に戻れば月蟲は最高級の食材となる。
 その味が忘れられず、無為にエンゲル係数を高めてしまう者や、けっきょく月に戻ってくる者もいるらしかった。それから「月蟲を一匹食べるとほんの少し寿命が延びる、なんて言われてますね」と板前は冗談めかして言った。
 そういえば統計的にみると月に長く暮らしている者は一生を地球で過ごす者に比べて寿命が長い傾向にあるというデータを見たような記憶があると、リューは学生時代に目を通した論文を思い出そうとしたが、はっきりとは覚えていなかった。
「俺はもっと庶民的なものがいいね
 文句を言いながらも結局キッカは出された月蟲をすべて平らげ、それでは足りずに月蟲丼を追加注文して、それも空にしていた。
 すっかり満腹になって店を出ると、キッカは繁華街を裏通りのほうへ向けて歩き出した。月蟲のおかげで大量のポイントが手に入ったので、もう一軒酒でも飲むつもりだと言い、それから気が向いたら久しぶりにお楽しみと行こうかな、と笑う。
 たしかに、トレーニング期間を含めてしばらく禁欲的な生活が続いていたので、十分な収入を得て遊びたくなる気持ちはリューにも理解できた。しかし、自分のことだけを考えていればいい気ままなキッカとは違い、リューは収入の一部を地球の家族へ送金しなければならず、無駄な出費は控えなければならなかった。
「ま、お前の分まで楽しんでくるさ」
 そう言ってリューの背中を思い切り叩くと、キッカは人ごみのなかへと消えていった。
 一人になったリューは、ルナ&シンクレア社のロゴが入ったジャンパーのポケットからパーソナル端末を取り出し、ポイントの残高を改めて確認する。たった数時間、月蟲を追いかけただけで、これほどの額をもらってもいいのだろうかと不安になってくる。忘れないうちにポイントの一部を母と妹のポイント口座に振り分けるための手続きを行っておく。これで明日になれば二人は数日暮らすだけのポイントが手に入るだろう。
 それからファミリー口座のほうへ、妹の学費積立分を振り込んでおいた。まさか彼女にまで自分と同じように月に来て蟲を追いかけるようなことをさせるわけにはいかないのだから。
 月とは違い、地球は実力主義の世界だ。リューが子どもの頃には、まだ国が安定していたが、祖父と父の命を奪った十年前の内戦以降、まともな暮らしを続けるためには、他人よりも秀でた能力が必要で、それを常に示し続けなければならなくなった。
 遺されたリューの一家は妹と母の三人で、そのなかで最も出世が期待できるのは妹のジュリだった。残念ながら、リューには地球社会で成り上がっていくだけの力はなかったのだ。まだ十五歳ではあったが、ジュリの学業成績は優れていおり、初等課程を二年飛び級している。
 他にも同程度の経歴を持つライバルは何人かいるらしいが、先月の試験ではトップの成績だったというメールを受け取っている。彼女がそのままトップ成績を維持し、連邦大学へ入学、そして連邦政府に就職して広域市民権を得ることさえできれば、家族であるリューと母の暮らしも安泰だ。
 それはまだ数年先の話だが、ジュリならば間違いなく連邦大学に合格できるだろうとリューは信じていた。
 初めて会ってリューの出身地を聞いたとき、キッカは少し驚いて「まだあったんだな……」と呟いた。異国の者にとってみれば、十年前に内戦で国が崩壊したというニュースが世界中に流れた際に、一瞬だけ名前を聞いたことがあるという程度の、小国である。
 実際、国を捨てて難民となって出ていく者も少なくなかった。しかし、彼らを受け容れてくれる先を見つけることは簡単ではなかった。結局、今のリューと同じように月までやってくる者もいたらしく、独自のコミュニティが形成されているという話は聞いていたが、接触を持つつもりはない。
 リューは契約期間内、精一杯働いて稼げるだけ稼ぎ、妹の学費が用意できればまた地球に戻るのだ。今のところ、家族と離れてずっと暮らしていたい思えるほど、リューにとって月は魅力的な場所ではなかった。
 何となく、先ほど食べた月蟲の味が忘れられなくて、リューは宿舎に帰る道すがら、月のコンビニエンスストア・チェーン「ムーン・レイ」に立ち寄って、そこでパック入りの月蟲の燻製と、月面農場の麦から作られたという月限定ビールを購入した。
 部屋に戻って月蟲をつまみにビールを飲むと、仕事の疲れからか、すぐに眠気が襲ってきた。月のビールの味は、どこか月蟲に似た甘味があって悪くない、と思って成分を見てみると、ごく微量の月蟲が含まれているらしい。やはり、自分の舌は特別なのかもしれないと満足して、リューは酔いと疲れで重たくなった瞼をゆっくりと閉じた。地球で暮らしていくには、どんなことだって「特別」であることは悪くないのだから。

 隣の席で、キッカが不機嫌そうにタブレットでコミックを読んでいる。昨晩、何か面白くないことがあったらしいのだが、リューは自分からそのことについて訊ねるつもりはなかった。
 二人は月面車のなかに居て、もう間もなく仕事場に到着する。
「あのアマ、ぶっ殺してやる」
 月面車が停止すると、キッカはタブレットを放り投げて、怒りが収まらないといった様子で叫んだ。
 ぴったりと宇宙タイツが密着しているキッカの身体は、怒りのせいか、心持ちいつもより大きく、逞しくなったようにも見える。金魚鉢のヘルメットをしっかりと被り、長いとりもち棒を鉾のように構えたキッカの姿は、いつになく勇ましかった。
 車のタラップを降りて月面に足をつけたキッカは「一匹残らず狩り尽くしてやる」と怒気をはらんだ声で罵るように呟くと、そのまま勇ましく駆け出していった。一緒に仕事をするパートナーとしては、気合が入っていることは頼もしい限りだが、いわれのない怒りをぶつけられる月蟲たちにとってはたまらないだろう。
 昨日よりも乱暴にとりもち棒を振り回しながら、キッカは袈裟斬りするように月蟲たちを絡めとっていく。一方がどれだけ頑張ったところで、軽量してもらえるポイントは折半になるのだから、リューとしてはキッカが頑張ってくれるのは単純に有り難い。
 昨日ははりきりすぎて疲れてしまったこともあり、今日のところはキッカに頑張ってもらうことにして、リューはなるべく無理をしないようにとりもち棒を振って歩いた。
 しばらく暴れ回っているうちに、だいぶ気分が晴れたのか、「別に、またこうやって稼げばいいだけだからな」とキッカは笑いながら昨晩のことを話しはじめた。
 それは別に特別なことではなくて、酔っぱらって寝ている間に、一緒にいた女にポイントを全部盗られて逃げられた、というしょうもない話だった。
「今度会ったらただじゃおかねぇぞ」
 月蟲を絡めとりながら、キッカは叫ぶ。
 昨日よりも大量に用意しておいた棒とチューブのとりもちが、見る見るうちに減っていく。疲れを知らずに働き続けるキッカの活躍もさることながら、リューもまたうまく月蟲をとるためのコツを少しつかみはじめており、一日目よりも効率よく作業は進んでいった。
 月面車の荷台に山積みになった月蟲の付いたとりもち棒を満足げに見上げて、キッカは「よし」と大きく肯いた。
「これで、昨日の負けは取り返したな」
 いったい何に負けたというのか疑問に思ったが、そのことは口にせず、リューは「いくらになるだろう」と建設的な言葉を述べながら声を弾ませた。
「そうだな……倍、とまではいかないが、昨日よりだいぶ多いんじゃないか?」
「だな」
 このペースで稼げれば、すぐに妹の学費も貯まりそうだとリューは小さく頷く。月面車のタラップから作業場のほうを振り返ると、あれほど狩ったはずの月蟲は、まったく減ったように見えず、大量に群がって月を喰らっていた。
「もっと棒が積めたらなぁ……」
 口惜しそうに呟きながらキッカはさっさと車のなかへ戻り、ヘルメットを外して大きく深呼吸した。リューもヘルメットを外してタイツの締め付け設定を緩め、チェアに腰を落ち着けた。
「それにしても……信じられねぇくらい、いい女だったんだ」
 先ほどまで怒りの矛先となっていたはずの女のことを思い出して、キッカはにやつきながらそう呟いた。全財産を奪われてもなお、そんな感想が出てくるものなのかと、変に感心しながら「俺も行けばよかったかな」とリューはキッカの呟きに応じた。
「バカ野郎、俺にそんな趣味はねぇよ」
 リューは単純にその女を見てみたいと思っただけだったのだが、キッカは何か勘違いをしたらしく、睨みつけるような視線を向けて怒鳴った。
「それに、もし二人してすっからかんじゃ、俺たち本物の間抜けじゃねぇか」
「たしかに」
 頷いてリューがハハッと笑うと、キッカはその倍の声をあげて笑う。
「今日は奢るぜ、何でも好きなもんを喰えよな」
 遠慮せずに、有り難くその申し出を受けて、その分を妹の学費に回させてもらおう。リューは何が食べたいだろうかと考えて、最初に思い浮かんだものが、昨日食べた月蟲の刺身だったことに戸惑った。若い板前の言っていたとおり、どうやら月蟲には中毒性があるようだ。彼の忠告通り、あまり頻繁に口にしないほうがいいかもしれない。
「昨日、月のビールを飲んだんだ……」
 そう言いかけて、その成分のなかにも微量の月蟲が含まれていたことをリューは思い出す。
「お、酒か。そういや、一緒に飲んだこと、なかったな」
 てっきり飲まないやつかと思っていたぜ、とキッカは言って、それなら今夜は存分に飲み明かそうと機嫌よく歌い出す。その歌は、十年ほど前に世界的に流行した曲で、歌詞はわからないがリューも聞いたことがあった。キッカの歌はお世辞にも上手いものとは言えなかったが、気分よく歌っているのを邪魔する理由もなく、リューはキッカが放り出したままになっていたタブレットを拾い上げると、キーボード・アプリを起動させて、歌に合わせて伴奏をはじめた。
 歌の合間に「お前、ピアノ弾けるのか」とキッカに問われて、「少しだけ」とリューは答えた。いま弾いているのだって、別に楽譜を知っているわけではなく、ただキッカの歌に合わせているだけだった。よく聴いてみるとキッカの歌詞もうろ覚えで、適当に言葉を補っているのだから、何もかもがでたらめの歌と演奏だ。
 どんなに滅茶苦茶で大きな音を出したって、月面車の外には無音の空間がどこまでも広がっているのだから、誰の迷惑にもならない。二人が楽しければそれでいい。仕事帰りの月面車のなかは、そんな空間なのだった。

 これじゃ金を巻き上げられても無理はない、というくらいキッカは簡単に酔っぱらってしまい、とても機嫌がよくなってどんどん酒を注文していく。アルコールに強くはないという自覚があるリューは、度数の低い酒を少しずつ、間に烏龍茶を挟みながら飲んでいた。おそらくキッカには酒に弱いという自覚はないのだろうな、と気持ちよさそうに笑っている顔を眺めながらリューは思う。
 これほど見事に酔っぱらうくせに、二日酔いになったことはないのだと、自慢げにキッカは言った。よほど代謝がいいのか、いくら酔っても目が覚めるといつもすっきりとしているらしい。羨ましい限りだと、頭痛持ちのリューはキッカの自慢話を聞いた。
「エラルダ……」
 酔ってテーブルに突っ伏しながら、キッカは昨日騙されたという女の名前を呟いた。
「畜生!」
 とつぜん、身を起こして叫び、再び突っ伏して、それから寝息を立てはじめたキッカを、そのまま放って帰るわけにもいかず、リューは仕方なくパーソナル端末でスクリーン・ブックを読みはじめた。
 その小説は読みかけたまま、地球を出てから数週間放っておいたので、どんな話だったのか曖昧になっていた。
 酔いのせいもあってろくに集中できず、ただ文字の列を目で追うばかりで内容が頭に入ってこない。それでもひたすら読み進めていくうちに章の区切りまで読み終えて、ブックのアプリを停止させた。
 いつの間にか店は混みはじめており、このまま何も注文せずに居座るのも気が引けて、軽くキッカの肩を揺すって起こすと、「お、悪りぃ。寝ちまったか」とだいぶ酔いの醒めた様子で苦笑する。
 約束通り会計をキッカに任せて、リューが先に店を出て待っていると、キッカがご機嫌な笑顔を浮かべながら「まだまだポイントはいくあでもあるぜ」とパーソナル端末を振ってみせた。
「そういえばお前、会いたがってたよな」
「え?」
「エラルダ……昨日、俺が騙された女だよ」
「ああ、そのことか。別に、すこし気になっただけだ」
「ちょっと探してみるか」
 そう言うとキッカは繁華街の奥の狭い路地のほうへ入って行ったので、仕方なくリューもそのあとに続いた。
 羽振りがいいせいか、キッカは妙に勢い込んでいたが、そんな彼の肩を透かすように目的の相手は簡単に見つかった。
 路地を進んでしばらくすると、「ハーイ、キッカ」と軽く手を振りながら、薄布を重ねたような白いドレス姿の女が近づいてきた。
「てめぇ」
 女は、睨みつけるような視線を向けるキッカを気にする様子もなく、微笑を浮かべたまま傍までやってくると、そのまま寄り添うようにキッカの右腕に手を回した。
「昨日はとっても素敵だった」と微笑んだ女は、「俺のポイント……」と言いかけたキッカの言葉を遮って、「それから、ありがとね。初めてなのにあんなに羽振りがいいなんて、貴方、とってもお金持ちなの?」と礼を言う。
「お、おう」
 見栄を張っているのか、女のペースに簡単に呑まれてしまい、キッカは曖昧な返事を返す。
「私、貴方みたいなポイントの使い方、好きだな」
 女と視線を合わせたキッカは、その瞳に魅入られるように無言で頷く。
「わざわざ月まで来て、ケチケチしてるなんて、退屈じゃない。今夜も一緒に楽しみましょう?」
「そ、うだな……」
 傍で二人のやり取りを聞いていたリューは、女のつけている香水の匂いに覚えがあって、それが何だったのかを思い出そうとした。近づかなければ気がつかないくらい、淡く微かなその匂いには、品がありながらどこか人の心を惑わすような蠱惑的な妖艶さがあった。
 キッカをすっかり籠絡した女は、リューのほうに視線を向けて「そちらは、お友達?」とどちらへともなく訊ねた。
「ああ、そいつは……相棒、パートナーみたいなもんだ」
「へぇ、貴方、そっちも行けるクチなんだ」
 二人をからかうように女はそう呟く。
「いや、仕事仲間なんだ」
 リューが誤解のないよう補足すると、女はリューへの関心を失ったように、向けていた視線を外してしまう。キッカのほうへ向き直った女の白い首筋から、香水の匂いがひときわ強く香り立った。
「月蟲……」
 その匂いは、何故か月蟲を思わせる。仕事中、群れのなかにいるときは金魚鉢のヘルメットをかぶっているため、周囲のにおいを感じることはない。しかし、昨日、生で月蟲の刺身を口にしたとき、ほんの微かに、似たような風味を覚えたような気がする。
「貴方、鼻がいいんだ」
 一度失った関心を取り戻したように、女はキッカの腕を離すとリューのほうへ近づいてきた。月蟲の甘い匂いが、強くなる。
「月蟲香」
 呟いた女は、右手を伸ばして撫でるようにリューの頬にそっと触れた。手首のあたりから月蟲香の匂いが鮮明に感じられて、リューは思わず顔をそむけた。
「貴方、月には向いてない。敏感すぎるから」
 あまり長くいると蟲たちに見入られてしまうだろうと、女はリューに忠告した。昨日も似たようなことを言われたのだったと、リューは思う。
「エラルダ」
 キッカの呼びかけに女は彼のほうへ戻りながら、振り返り「お友達はどうする? よければいい娘を紹介するけど」と笑った。
「今日のところは遠慮しておく」とリューが答えると、「そう。それじゃ、遊びたくなったら、いつでも声をかけて」と言うと、エラルダはリューの存在など忘れてしまったようにキッカに寄り添い、彼を闇の奥へと導いていった。
 暗がりに消えていく二人の後姿を見送り、リューは踵を返して狭い路地を繁華街へ向かって歩いていった。女の香水のせいなのか、何故か無性に月蟲の味が恋しくなる。

 毎日、大量の月蟲を狩ってポイントを稼ぎながら、キッカはそれをエラルダに貢ぎ、リューは月蟲を味わうために使った。
 若い板前の忠告も虚しく、リューは自分が半ば月蟲中毒になっていることを自覚していた。それでも最低限、妹の学費の積立は続けており、まだ辛うじて理性を保っているつもりではいた。
 キッカのほうは浪費を気にする様子もなく、その日を楽しく暮らせれば満足だと豪語しており、リューも他人のポイントの使い方について、とやかく言うつもりはなかった。
 その日も、リューはいつもの店で月蟲の刺身を食べていた。すっかり常連になってしまったリューに対して、板前は諦めた様子で黙って注文に応じている。
 リューが一人で月蟲を味わっていると、たまに見かける初老の男が店に入ってきた。彼はリューよりも前からこの店に通っているベテラン客で、店の入口脇の席が彼の定位置だった。しかし、男は空いているその席には座らず、わざわざリューの座っている席までやってきて、隣に腰を下ろした。
「お兄さん、好きだねぇ」
 声をかけられて、リューは男を一瞥し、無言で頷く。
「大将、私にもいつもの頼むよ」
 注文し終わると、男はリューのほうに身体を向けながら「いい食べっぷりだね」と話しかけてくる。一人でじっくり味わっていたいのだが、と思いながらも無視するわけにもいかず、リューは「はぁ」と気のない返事をした。
「アンタ、ルナ&シンクレア社の人だろう」
 リューの羽織っている上着のロゴを見つめながら男は言った。
「まぁ、いちおう、期間契約ですが」
「もっと儲かる仕事、興味ないか?」
 月蟲を咀嚼していたリューの口の動きが止まる。
「もう一人、あんたの相棒もいるだろう。二人まとめて仕事を頼みたいんだが」
 男の持ちかけてきた話は、月蟲駆除を始めた当初にキッカが言っていた月蟲の蛹を集める仕事についてだった。男にはある組織とのパイプがあり、見込みのありそうな月蟲駆除業者のスタッフを極秘裏にスカウトしているという。
 独自のルートで入手した業者のスタッフリストのなかから、成績が優秀であり、かつ契約期間がまもなく終わる者を選び、声をかけるのが男の役目だった。
「この通りの先に、『跳馬車亭』という酒場がある。もしその気があったら、そこのマスターに「アンディに用がある」と声をかけてくれ。詳しい話はそのときにさせてもらう」
 お互いにとって悪い話にはならないはずだ、と言い残して、男は出された刺身をさっさと平らげて店を出ていった。リューの皿に残っていた最後の一きれは、すこし乾燥して鮮度が落ちはじめていた。
 蛹集めの仕事について話をすると、キッカは大いに乗り気になった。現在の仕事で得ているポイントでも日々十分に暮らしていける額を手にしていたが、蛹を売ればその数倍が手に入るのだ。
「俺たちにも運が回ってきたな」と、キッカはすでに仕事を受ける気でいる。彼の横に座って微笑を浮かべていたエラルダも「面白そうじゃない」とキッカの肩に腕を回しながら耳元で囁きかける。彼女はキッカの収入が増えればその分だけ自分もいい思いができるとわかっていて、キッカもそんな関係をすっかり受け入れている。
「どうした、リュー。何か気になることでもあるのか」
「いや、別に。ただ、月蟲の巣は月の裏側にあるって話だろ。そこまで行くのにどれくらいかかるのかなって」
「そうか、お前は仕事が済んだら地球に戻るつもりなんだったな」
 エラルダがいるからなのか、それとも月蟲駆除の仕事が気に入ったのか、キッカはルナ&シンクレア社との雇用契約期間が終わった後も月に残るつもりらしかった。
 月に残る最も簡単な方法は契約期間を延長することだった。キッカとリューの業務成績は悪くなかったので、申請すれば簡単に通るだろう。キッカはそのつもりだったようだが、リューから蛹集めの話を聞いてどうやら考えが変わったらしい。
「俺は行くぜ」
 何事も瞬時に判断して素早く決断を下すのはいかにもキッカらしい、とリューは思った。
「依頼は二人で、って話だ」
 リューが呟くと、交渉次第だろう、とキッカは笑った。契約期間が終わったら地球に戻る、と以前から話はしていたが、実際にそのときが迫りつつある今、リューにはまだ迷いがあった。もう一期間ワンシーズン残って仕事を続けるのも悪くないと思いはじめていたからだ。
 妹の学費はあと少しで目標額に達するので、残りの期間真面目に働いていれば問題はないだろう。だが、地球に戻ったところでまともな仕事に就けるあてはなかったし、妹だってすぐに試験に合格して就職するわけでもない。
 もうしばらく、あるいは数年、リューが月に残っていても何も問題はなく、むしろその分安定した収入が得られるのだ。それに、月にいれば好きなだけ月蟲を食べることもできる。
 それでも、自分はキッカほど月での生活に馴染むことができていない、とリューは思う。単純に基地内の人工的に管理された気候や低重力が合わないのか、思っていたよりも自分が神経質な性質たちなのか、はっきりとした理由はわからなかったが、リューには時折、無性に地球での暮らしが恋しくなる瞬間があった。
「とりあえず、聞くだけ聞いてみようや」というキッカの一言で、二人は『跳馬車亭』に出向いてアンディに会うことに決めた。ルナ&シンクレア社との契約はあと十日残っていた。
「来ていただけると思ってましたよ」
 店でアンディを呼んでもらうと、先日、リューに声をかけてきたのとは別の男が現れてキッカの隣の席に遠慮なく腰を下ろした。
 男はテーブルの上を一瞥し、リューとキッカがビールを飲んでいるのを確認してから、アイスコーヒーを注文した。
「済みません、まだ仕事中なもので」
 男は運ばれてきたコーヒーに口をつけると、「月の生活には慣れましたか」と微笑した。その笑顔をみて、この男は自分たちと同年代のようにも、ずっと年上のようにも見えるとリューは思った。
 男は事務的な口調で依頼内容を説明し、キッカはときどき相槌をうちながら黙ってそれを聞いていた。すでに依頼を受けることに決めているキッカにとっては、多少のまどろっこしさはありつつも、話の内容は自分の利益に直結することなので、聞き漏らさないよう注意を傾けているようだった。
「で、結局いくら儲かるんだ」
 話を終えた男に、キッカは単刀直入にそう訊ねた。たしかに男は話のなかで具体的な数字については触れていなかった。
「それは……あなた方の活躍によりますね」
 そうあっさり言って「それに……運もあるでしょう」と付け加える。
「もちろん、そのときの蛹の取引レートも大いに関係します。我々が押さえているのは、いくつか見つかっている巣穴の一つにすぎません。今後、より大きな巣が見つかればレートが下落する可能性もあるでしょう」
 幸い、しばらくの間は需給のバランスは安定しているでしょうけれど、と男は言葉を結んだ。
「仕事は受けるぜ」
 リューに確認することなく、キッカは言った。
「ありがとうございます」
 男は隣の席のキッカに軽く会釈し、それから視線をリューに向けた。視線の鋭さに射すくめられるように、リューは思わず頷きかけてから「考えてみます」と曖昧に答えた。
「前向きに、ってことで頼むぜ」とキッカが笑った。
「良いお返事を期待しています。それから、出発までの間、連絡はすべてこちらからさせていただきます。仕事のための準備もこちらですすめておきますので、お二人は現在の契約を無事に終えて、コンディションを整えておいてください」
「では、仕事に戻ります」と席を立った男は、一度振り返り「素晴らしいパートナーと仕事ができることを楽しみにしています」と笑う。それは最初にみせた微笑よりも歳相応の、少し疲れた笑顔のようにリューにはみえた。

 まるで部屋が移動しているようだ。
 キッカと二人、毎日乗っている月面車のなかは、リューにとって基地内にある寮の狭い一人部屋よりもずっと落ち着く場所になっていた。黒い宇宙タイツも部屋着のように身体に馴染んでおり、仕事のあとの私服姿のほうが違和感があるくらいだ。金魚鉢のようなヘルメットも生命を守ってくる重要なアイテムとして愛着がわいていた。
 すっかり手に馴染んだアルミ棒を握りしめ、慣れた手つきでチューブを操り手早くとりもち棒の準備を済ませる。
 準備が万端に整い、キッカが小さく頷いたのと同時に、月面車が停車して扉のロックが解除される。
「さぁ、狩りの時間だ」
 呟いて歩きだしたキッカのあとに続いて、リューも車のタラップを降りて月面に立つ。
「盛大に行こうや」
「おう」
 二人、駆け出す。これが最後の月蟲駆除だった。
 この三か月間、狩りに狩った。疲労を抑えながらとりもち棒を振るう術も身につけたし、月蟲の群のなかを流れるように駆け回る方法も編み出した。これまで数えきれないほどの月蟲を絡めとってきた。使ったアルミ棒と空にしたチューブの本数など、もう覚えていない。
 しかし、二人が最初に仕事を始めたときと比べて、果たして月蟲は少しでも減ったのだろうか。リューの目にはまったく変わっていないか、むしろ増え続けているようにさえ見えていた。それでも二人は狩り続けた。それは生活のためであり、遊ぶためであり、月の侵食を防ぐためでもあった。
 山のように積んできたはずのアルミ棒が、見る見るうちに減っていく。こと月蟲駆除に関していえば、自分たちは最高のコンビなのではないか、とリューは思う。
 リューが最後のとりもち棒を振り終えたとき、月面車の荷台には月蟲の珠が山積みになっていた。先に仕事を終えていたキッカが、荷台に登って月蟲のついた棒を整理して並べなおしていた。
 先ほどまで二人して暴れ回っていた月蟲の群が、月面車から少し離れたところで渦巻き、うっすらと輝いていた。その光景は来たときとまったく変わっていない。そのなかから数匹が群を離れて飛んでいくのが、小さく見えた。
「あれを追いかけていけば、月蟲の巣に行けるんじゃないのか」
 同じところを見ていたらしく、金魚鉢のヘルメットのなかに、ノイズ交じりのキッカの声が響いた。
「見つけてみるか。俺たちだけの金の鉱脈をさ」
 冗談とも真剣ともつかない気分で、リューは応じる。そして、初めてとりもち棒を振り回した日にも、たしか同じようなやりとりをしたな、と思い出す。
「そいつは最高のアイデアだぜ」
 話している間にも、飛び去った月蟲はゆっくりと、しかし確実に離れていってしまう。
「さて、それじゃ、どうやって追いかけようか、相棒」
 アルミ棒を片づける手を止めて、キッカは荷台の上に立ったままリューに呼びかける。
「それはもちろん、月面車で」
 基地と仕事場を往復するだけの、自動運転の月面車。ほんの短い間だったけれど、しかしそれは確実に二人の生活の中心だった。これから車に乗り込んで、チェアに腰を下ろしたら、あとは基地に帰るだけだ。そしてもう二度と、この車に乗ることはないだろう。
 すでに飛び去った月蟲の姿は見えなくなっていた。
「逃げられちまったな」
 笑いながら、キッカは荷台を降りて月面車のなかへ戻っていく。
「ああ」
 曖昧な返事をしながら、リューはもう一度遠くを見つめた。虚空に大きな青い星が浮かんでいるのが見えた。不意に、自分はそこに帰るのだとリューは思った。車内に戻って金魚鉢のヘルメットを外してしまえば、月での自分の仕事は終わるのだと、直感した。
 遠くの故郷を見上げながら、リューはゆっくりと月面車のタラップを昇っていった。扉に手をかけながら、月蟲の群に視線を向ける。恐らくこれから先も月蟲は増え続けて、いつか月を食べつくしてしまう。しかし、リューが生きている間は、まだ地球から月を見上げることができるだろう。
 そして、そこにはキッカがいる。月を離れれば、もう二度と会うことはないという気がした。それでもきっと月を見るたび思い出すだろう。たった三か月、一緒に月蟲を駆除し続けた最高のパートナーのことを。そして口のなかにかすかに残る月蟲の味を。
 車内に戻るとすでにキッカはヘルメットを外してチェアに深々と腰を下ろしていた。
「遅かったな。蟲にお別れでも言って回ったのか」
 ヘルメットを外しながら、リューは「いや」と応え、「行こうか」と続けた。
 行こう。二人それぞれ、次の場所へ。月面車に乗って。

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