走馬灯アイドル

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梗 概

走馬灯アイドル

マニラのスラムに暮らす〈走馬灯アイドル〉のアビー。彼女の〈走馬灯画〉にしばしば日本製の古いラジカセが映ることは、彼女のファンの間では有名な話だ。彼女がそれで何を聞いているのか、ファンの間では様々に憶測されていた。

人々はみな、今際の際に“走馬灯のように”みるというライフ・ヒストリーを、文字通り日々編集しながら生きている。
 生後すぐに脳内に埋め込まれるチップを経由して、刻刻の出来事の映像が写真のアルバムのように蓄積されていく。映像は、一日ごと、一ヶ月ごと、一年ごとに取捨選択され、最終的に残った映像の連なりが〈走馬灯画〉となる。走馬灯画とはすなわち、個々人の映像記憶の総体である。人々は人生の最期に自分のそれを改めて観るのだ。
 走馬灯画の選択は、設定されたプログラムに則って自動でなされるが、多くの人は有料で他人の画を購入し、それを自分の走馬灯画の中に組み込んでいる。自らの走馬灯画をネット上で公開・販売している人たちがいるのだ。彼ら/彼女らは〈走馬灯アイドル〉と呼ばれる。購入したアイドルの画は、神のような信仰対象として、自分の走馬灯画の中に組み入れられていく。

都築功(33)は、マニラのスラムに暮らす〈走馬灯アイドル〉のアビー(12)に入れ込んでいた。スラムのアイドルは、一部の人たちから熱狂的な支持を得ている。走馬灯画の購入が彼女たちへの援助になっていると信じ、満足感を得られることが、人気の理由のひとつであった。
 都築は、ファン歴四年目にして初めて〈聖地巡礼〉に参加し、アビーの住むスラム街へ足を踏み入れた。そこは想像を絶するほど悲惨な場所だったが、だからこそ自分たちの援助は意味あるものなのだと、巡礼の参加者たちは思うことができた。
 ファンの誰かが、走馬灯画に頻繁に映るラジカセについて尋ねると、アビーは、お祖母さんから譲り受けたものだと答える。何を聞いているのかと訊くと、よく分からないのだという。知らない国の言葉だし、テープが擦り切れているせいで音が不鮮明だから、と。でも、お経のようなものだと思って、時々聞いているという。

ところで--悲劇はいつだって突如として人々を襲うものだ。
 都築らが〈聖地巡礼〉でマニラのスラムにいたちょうどその時、日本で大震災が起こった。それによって都築は、妻と幼い一人娘を共に失うことになる。

長いこと心の整理がつかずにいた都築は、しかしそれから八年後、再びマニラの地に赴いた。しかし今度は、アビーのファンとしてではなく、研究者として、である。
 都築はスラムに暮らす人々を対象にインタビュー調査を行い、スラムの〈走馬灯アイドル〉たちの実態を知っていくことになる。
 ファンたちが購入した走馬灯画の売上は、ほとんど彼女たちの手元には残らない。元締と呼ばれるギャングの親玉に、売上の大半は吸い上げられ、彼女たちの手元に渡った分も、多くはスラムに暮らす人々への貸付で消えていく。そのほとんどは戻ってこない。スラムの内部に強く作用している助け合いの精神から逃れることは難しいのだ。かと言って、スラムの外へ出る決心をすることもなかなかできない。スラムから出れば、しばらくは成功者としてファンももてはやしてくれるかもしれないが、やがて人気が落ちることは目に見えているからだ。
 都築は研究者として、アビーとの信頼関係を築いていった。そして、ついに彼女のラジカセを借りることに成功する。

カセットテープから流れてきたのは、日本語だった。
 アビーのお祖母さんが暮らしていたというフィリピンのルバング島に、昔、小森幹郎という日本兵がいた。彼は終戦後も戦争が続いていると信じてルバング島のジャングルの中に三十年隠り続け、最終的に島民との銃撃戦で撃たれて亡くなった。テープに録音されていたのは、彼の肉声だった。亡くなる約一年前に、彼は島民の家からラジカセを盗み出し、そこに三十年の間に島で起こった出来事を軍に報告するつもりで記録していた。
 ある時、島に異様なコンクリートの建物が建ったこと。その建物に、島民が頻繁に出入りするようになったこと。やがて身分の低い島民の一人が周囲から崇められるようになったことなどが、語られる。
 ある日小森は、ジャングルの中でハニという女の子に遭遇する。子ども時代のアビーのお祖母さんである。小森はハニの話から、この島で起こっている事の全容を徐々に掴んでいった。
 録音を聞いた都築は、当時ルバング島で米国主導で〈走馬灯実験〉という人体実験が行われていた事実を知る。そして、自分たちの脳に埋め込まれているチップが何なのか、また〈走馬灯アイドル〉というビジネスがなぜ生まれたのか、その真実に気づくに至る。それは、搾取される側の〈走馬灯アイドル〉を神のような位置づけにすることで、搾取–被搾取の関係を固定し、資本主義というシステムを永続させるためのものだったのだ。

文字数:1999

内容に関するアピール

あの日、私はマニラの貧民窟にいた。廃墟と化したコンクリートの建物の中に、数百世帯が不法に住みついている。黒ずんだコンクリートの高壁に服が擦れるほどに狭くて暗い通路を進んでいく。通路の片側に、4畳ほどに間仕切られた住居スペースが連なる。ドアがないため中は丸見えである。部屋の片隅に、布団代わりに使われているのであろう布類が積んであり、鍋が転がり、あとはこまごまとした日用品が置いてある。日中、住人のほとんどは出払っていていない。大人も子どもも、路上で労働をしている。この廃墟で暮らす者たちのために、日用品や食料品をバラ売りしている店(たとえばクラッカーも一枚から買える)が数世帯おきにあり、そこで店番をしている老女と、狭い通路で、金だらいで洗濯をしている女の子を時々見かけるくらいだ。しかし夜になれば、この廃墟は、あまたの老若男女がうごめく無法地帯になるのだろう。私はその蒸した闇を知らない。ただ想像するだけである。このような貧民窟では、夜にどこかの世帯で火事が起こると、千にのぼる住人がほぼ全滅するという。逃げ道が、狭い通路の一本しかないからだ。フィリピンの首都マニラには、このような貧民窟が無数に存在する。

あの貧民窟の中で、我々一行(村役場の役人と大学教授と当時大学院生だった私)は、完全なる異物だった。私たちはサリサリストア(貧困層向けに日用品・食料品をバラ売りしている店をこのように呼ぶ)の調査のため、店番をしている彼女たちにインタビューをする目的で廃墟に入った。が、路上で労働している貧民たち、あるいは路上にあるサリサリストアとは違い、廃墟の中はあまりにも異世界だった。路上では、私たちは彼ら貧民の関心の対象となっている。なぜなら、仕事なり金銭なりを与えてくれるかもしれない存在だからだ。しかし、ひとたび廃墟の中に入れば、私たちは、彼らにとって全くの役立たず、用無しの人間であった。彼らにとって本当の生活の場は、路上ではなく、あのコンクリート塀の廃墟の中にあったのだ。そこは、私たちが無闇に立ち入るべき場所ではなかった。

東日本大震災は、私がマニラの貧民窟にいたあの日に起こった。移動の車の中でかかっていたタガログ語のラジオの報道を、運転手が英訳して伝えてくれた。「東京の近くで、ものすごく大きな地震があったようだ。詳しいことは分からないけれど」と。私たちは青ざめ、近くの役所に入ってインターネットで事実を確認した。各々身内に連絡を取り、幸い同行の者たちの身内は全員無事だったため、予定通り調査をつづけることにし、十日ほど後に帰国した。しかし、帰り着いた東京はもう、以前と同じ東京ではなかった。成田空港から電車を乗り継ぎ、見慣れた駅のホームに降り立った瞬間、眼前にあったのは私の見知らぬ光景だった。空気の粘度が違う。彩度が違う。靴音の残響が違う。ホームの片隅で私は、マニラの貧民窟にいた時以上に、この東京で異物の存在だった。私は、日本の(東京の)人々が共有すべき決定的な何かを、共有していなかった。

八年前のあの日、私はいるべきでない貧民窟にいて、いるはずの東京にいなかった。あの日からずっと、私は、この事態を思考するための枠組みを探している。この小説は果たして、その思考を可能にする枠組みとなり得ているだろうか。

文字数:1359

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