魔法使いの長女

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梗 概

魔法使いの長女

 1999年の9月、東海村の事故が起こった時、私の父は横浜の大学に通っていて一人暮らしをしていたそうです。だから事故が起こったことによる直接の影響を父は被らなかった。でも私の祖父母の家は、その当時東海村に隣接する日立市にあり、事故が起こった現場からたった20キロしか離れていなかった。だから避難指示が出てから引っ越し先が見つかるまでの数週間、祖父母と叔母は父の住んでいたアパートに「疎開」しなければならなかったので、六畳の部屋に四人がギュウギュウ詰めになって暮らしていたんだよ、と。

 でも、生まれも育ちも東京の私にとって、それはどこか遠い国のおとぎ話のようでした。私が12歳になるまでは。

 

 私が12歳の時、祖父が亡くなりました。葬儀が終わって1ヶ月ほどたった日曜日の午後、父は、私と母に緑色の書類を見せてくれました。土地の<トーキボ>というものだそうです。書類には何人かの名前が書いてありました。父が一番始めに指を置いた名前は、苗字は私と一緒でしたが、私は知らない名前でした。この名前は父のお祖父さん、つまり私の曽祖父の名前だということです。その下には祖父の名前があり、更にその下に父の名前が書いてありました。祖父が亡くなったことで、東海村のすぐ近くにある先祖代々の土地の権利を父は相続したのだ、ということでした。

「茨城に帰ろうと思うんだ」

父がそう言葉を発してからの数ヶ月は、あまり思い出したくありません。父と母が顔を合わせるたびに、結論の出ない口論が始まってしまうからです。

 

 結局、翌年の4月、私が中学校に入学するのと同時に父は家を出ていきました。父と母の間には、私に関する契約書が交わされたということです。その内容は、父は私に年に3回だけ、ゴールデンウィークと8月中旬のお盆の時期、そして年末年始のみ面会することが出来るというもののようでした。

 だから2029年3月31日に東京駅で父と別れたその次に、私が父と会うことが出来たのは、2029年4月28日の東海駅だったのでしょう。私を送り出す時の母は、なんであんな汚染されたところに私が行かなきゃならないのか、とため息ばかりついていました。確かに父が移った先は、数年前に避難指示の解除がなされ、人が住むことの公的な制限はなされていなかった。でも元々過疎化が進んでいたのもあり、よっぽどの物好きでもない限り、その区域に好んで進入してみようと考える者もいなかったことも確かでした。私自身も東海村なんかに行っても健康に問題は無いのか、全く不安では無かったといえば嘘になります。

 

 でも東海駅から父の運転する自動車に乗せられて、父が「事務所」と呼ぶ仕事場兼住居に着くと、そんな不安はどこかに飛んで行ってしまいました。私が小さかった頃、写真で見せてもらった曽祖父母がかつて住んでいて、祖父も成人するまで住んでいた<先祖代々の土地>、そこには三階建ての一棟の建物がたてられ、その中は東京のIT企業のように大量のサーバーで埋め尽くされていたからです。

 この建物は一階がサーバールーム、二階が事務所で三階が父の住居になっているんだよと、父の会社でプログラマーの仕事をしているという若い男の人が教えてくれました。そして12歳のゴールデンウィークから16歳の夏休みまで、契約通りに茨城の事務所で父と面会し続けた私は、東京では決して見ることの出来なかった、キラキラした眼で未来と夢について語る父の姿を見ることが出来ました。いい歳をした大人が子供のように眼を輝かせるのは危険な兆候だということが若かった私には分からなかったので、当時の私は年に3回だけ聞ける父の話に熱中していました。

 父の夢は壮大でした。自分はこの事務所で未来の貨幣/所得分配システムを作成しているんだ、このシステムが正式にリリースされれば、資本主義でも社会主義でもない、新しく自由で平等な経済システムを持つ社会を生み出せるのだ。あれから何十年も経った今でも、父の夢のエッセンスは容易に想起できます。

 

 でも殆どの夢は叶わず、殆どの起業は失敗するように、父の事業もうまくいかなくなりました。私が17歳になった直後の年末、父に会った際に私はびっくりしました。夏休みに会ったときとはまるで違う、憔悴しきった表情の彼の周りには、それまで幾人もいたスタッフが一人もおらず、独りで何とか会社を永らえようとする中年男性がいるのみでした。

 その年末年始の面会の次に父と会ったのは、次のゴールデンウィークではありませんでした。その年の二月、父が自死したという報せを受け取った私は、母と共に茨城の病院で亡骸となった父と最後の面会をすることになったのです。

 

 それから30年が過ぎました。今では私が所有権者となっている<先祖代々の土地>は、その当時にもまして人影がありません。私はこの広大な空間を利用して、最近ようやく実現出来るようになった、絶滅生物復興技術を使って、マンモスを、そして恐竜をこの土地で歩き回らせてみたいと思っています。

文字数:2052

内容に関するアピール

私は茨城県日立市出身です。今から丁度20年前、私が高校生だった1999年に日立市に隣接する茨城県東海村で原子力事故が起こりました。その事故を基盤に小説を書いてみたいと思います。

 

もし1999年の事故がINESレベル7の規模となっていて、事故が生じた場所から半径30キロ圏内(その圏内には私の実家も含まれます)が立入禁止区域となったとしたら。その区域の30年後・60年後、もしくはその20年前・40年前の世界を描いてみたいと思います。

物語を一文で表現するとしたら、「放射性物質で汚染され立入禁止となった区域で共産主義社会を建設しようとする男の話」となります。

 

視点・文体・語り口は須賀敦子「ヴェネチアの宿」、ビクトル・エリセ「エル・スール」等の「ファザコンもの」を参考に。物語の粗筋は未開の土地に男が乗り込んで事業を切り拓いていくものですから、フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」を参考にしたい、がフォークナーの良い小説はどれも尺が長いので、どの程度刈り込めるかがやや不安です。しかし絶対に完成させる!ので宜しくお願いします。

文字数:463

課題提出者一覧