相互理解

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梗 概

相互理解

人類の恒星間移民が始まり一万年。各植民惑星間の関係が途絶して数千年ぶりに、二つの惑星の人類が再会を果たした。
旧植民惑星フィガロとの接触を果たした惑星霆(テイ)の住人は、フィガロの住人が発声による言語であることを知る。一方霆に音声語は存在せず、住人たちは仕草を使った『姿話(しゅわ)』を用いていた。異星間の交流の準備がなされる中、言語理解を目的としたチームが結成された。

霆のチームリーダー楠はフィガロのチームリーダーロビンと意気投合する。二人はプロジェクトの目的である機械翻訳以外にも、音声語と姿話を共に学習しようと考える。音声語は表現の幅が人間に発音可能な範囲にとどまり、また、発語の際に同じ仕草を取ることで感じ取るニュアンスを共有しない。また、文字の表記は一次元的に一列に書かれて平面に発展せず、不完全性が高いのではないかと楠は考える。
表記文字学の専門化柊、人工テレパスのパロットなども含めプロジェクトは順調に進行する。二人は音声語と姿語の関係についてを議論し、その中で楠はロビンに対してセックスを提案する。ロビンは驚愕し逃げ出す。
翌日、楠は自分が好意を抱いていたほどロビンが自分に友情を抱いていなかった可能性に思い至り落胆していたが、再会したロビンからは昨晩のことを逆に謝罪される。代わりに二人で酒を飲んで話さないかと言われた楠は呆然とし、ロビンの真意を確かめる。違和感に気づいた二人は話し合い、お互いの文化において『セックス』『喫茶・飲酒』の役割が異なる事を知る。
霆ではセックスは『接触語』という一つの言語文化であり、男女年齢問わずごく親しい中でのやり取りのために用いられる。楠はフィオロではセックスが性交にとどまると知り、言語の具象性に乏しい音声語の不完全性への不安を深める。

楠とロビンの関係がぎこちなくなる中、言語チームのメンバー柊とパロットが男女交際の許可を求めに来る。
両星人の間の交際はいまだ例が無く、楠とロビンは二人を止めようとする。パロットは自分が聾唖者であること、第一言語がないことを不安に感じていたことを明かす。しかし楠は触覚と運動能力が健全であり、姿話が習得できるパロットに問題があるとは思えない。逆に柊に自分が接触語唖であることを明かしたかと聞いても、ロビンは何が問題なのか理解しない。ロビンはフィオロでは『性交ができない=EDである』は致命的な問題とは考えられていないのだと説明する。
柊とパロットは、音声語における『愛』は高度な抽象概念であり、それゆえに『愛』を伝えるために重ねられた歴史的努力について訴え、二人を説得する。楠は音声語が持つ可能性をはじめて感じる。二人は交際を支援することを決める。

楠は珈琲を持ってロビンを訪問し、『くつろいだ会話』を学びたいと申し出る。ロビンもまた同じ考えだったと答える。二人は相互理解のため、悲壮な覚悟と共にひとつドアの向こうに消える。

文字数:1200

内容に関するアピール

これは友情と好意と知的好奇心により、お互いを理解しようとしすぎる二人のおっさんのお話です。
聾唖者の言語である手話は、言語として完全な機能を有していると言われています。また手話の話者は脳内で言語を構成・理解するためのシステムが異なり、そのため、空間認識能力において聴者よりも優れているのではないかという推測も存在しています。
なぜ手話やその発展系が汎言語となりえなかったのか? もし音声語以上に発達した手話の話者からは、音声語の不自由さはどう見えるのか?
また、お互いに共通する言語を持たないにもかかわらず、お互いに好意を持ち、理解しあおうとする二者のやり取りは、『過剰な努力』による魅力を持ってはいないでしょうか。

文字数:305

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プライベート・トーク

 

 わたしはCODAを起動させる。
 ここから先おこることのすべてが、ログとして記録される。仕草言語としても、音声言語としても、その双方を記述したものとしても。
 ほんの一瞬、視界に映るものすべての輪郭をにじませるように干渉色の虹色が浮かび、すぐに消える。頭上を振り仰げば、ハニカム構造を持ったドーム状の巨大な天蓋。またたくことのない星空と、空の半分も占めるかと思うぐらいに巨大な惑星の姿。赤や橙、紅と砂色が作り出す、瑪瑙のような文様――― その圧倒的な夜景を背景に、一本の樹がおおきく枝を広げている。
 オリーブの樹だ。空を抱くように伸ばされた梢には緑の葉が黒いほどに濃く茂る。風が吹くたびに何万もの葉がいっせいにざわめき、葉裏の銀をひらめかせてはまたひるがえる。しなりゆらめくそのたびに、枝の間に間に金のしずく、銀のしずくが降ってくる……
 そこでわたしはおもわず目をこすった。梢からこぼれるものは水のしずくではなかった。言葉だった。
 木々の枝から、葉の間から、細い銀色でまるく描かれた文字がこぼれてくる。
 4.7haの巨大なドームの中には、空気の温度と濃度を一定に保つため、常に風が作られている。風に吹かれる梢から、喃語のようにつたなく短いことばがたえまなく生まれては消えてゆく。言葉は枝から滴り落ち、また、風に吹かれてうかびあがる。あれはいったい何なのだろう? 他の被験者たちには、梢からこぼれる言葉に気づいている様子はない。わたしはCODAのモニタリングの担当者に声をかけようとして、……同じように何かを言いかけていたらしい青年と目が合う。困惑した表情。しばらくためらう様子を見せた後、彼は、木のほうを指さした。
「さっきから、あの樹のほうに妙なものが見えるんだ。なんていえばいいのかな、文字が……」
「文字が、あの樹の枝からこぼれおちてくる? それもあまり意味になっていないような文章が」
「そう、それ! ぼくの場合はこぼれるというより、はためいている、って言った方が正しいかもしれないけれど。木の枝の間に文章が引っかかって、リボンみたいにひらひらしているんだ」
 わたしよりもゆうに10歳は年下だろうか、さっきからしきりに首をひねっている。耳には複雑な唸り声としてしか聞こえないものが、視界には、銀色の環のような文章となって表示されては消えてゆく。なら、あの鳴き声はほんとうに『ことば』なのだと、わたしは内心でひどく驚いていた。
 音声話。仕草を使わず、あらゆるコミュニケーションを咽頭から発する『声』だけで作られた言葉を用いる種族。
「どうしたんですか、スパロウ。それと、楠?」
 私たちの様子に気づいたのか、柊がこちらに声をかけてくれた。柊は今回のCODAのモニタリングテストの担当者だ。スパロウというのが彼の呼び名らしい。
「さっきからCODAの様子がおかしいらしくってね。あっちの樹を見ていると、無意味な文節が表示されるんだ」
「ぼくもさ。どうやら姿語バージョンだけじゃないみたいなんだけど」
 柊は眉を寄せると、「ちょっとまってくださいね」と言う。おなじようにモニタリングを行っていた女性を呼び寄せる。たしかパーロットと言ったはずだ。わたしたちはお互いの本名をそれぞれ名乗ることも聞くこともできない。音声言語の話者はわたしたちの名前をうまく表現できないし、視覚言語の話者は名前を聞きわけることがそもそもできない。ここでは皆、サインネームを使っている。霆の人間は好んで樹木の名を名乗り、フィガロの出身者はおおむね鳥の名前を好んだ。
 やや手持ち無沙汰になったわたしたちは顔を見合わせた。
「わたしにはあちらの草はらのほうにも妙なものが見えるよ」
 もう銀色の穂がではじめたすすきのひと群れが、風に吹かれて揺れている。揺れるたびに銀色をした小さな文字の泡がこぼれる。スパロウのほうにはそちらは何ともなかったらしい。代わりに。
「そっちは分からないよ。代わりにたんぽぽがとんでもないことになってる」
 たんぽぽ。いったいどういうことなのだろう。私はちょうど足元でしろい綿毛になっていたたんぽぽを摘み、ふうっと息を吹きかけてみる。いっせいに綿毛が飛んで行く。どう見えるのだろう?
「なんだか、文章が飛んでゆくのが見えるんだけど。透き通ったペンで文字を書いたみたいなやつが、今、あの綿毛をおいかけてひらひら飛んで行ったよ」
 しばらくわたしたちのCODAのパラメーターをいじっていたらしい柊は、「仕様上の問題が発生しているようですね」と答えた。
「CODAがオノマトペを拾って、表示してしまっているんじゃないでしょうか」
 オノマトペ。
「ええと、つまり葉擦れの音だとか、草のざわめきだとか、そういうものをCODAが拾ってしまっているということかい」
 言われてみれば、すとんと腑に落ちる。
「スパロウ。君たちの言葉では、草が揺れる様子を表現する言葉があるのかい?」
「あるよ、ざわざわと揺れるだとか、ざあっと風が吹き抜けるだとか、他にも…… ああ」
「わたしたちの言葉では、たんぽぽの綿毛がとんでゆく様子を表現する言葉があるね。木々の葉が揺れたり、木洩れ日がきらめく様子を表現する言葉もある。けれど君たちの言葉には、そういう表現はないのかい?」
「たんぽぽの綿毛がフワフワだとか、木洩れ日がキラキラだとか、ないわけじゃないけど…… なるほどねえ。誰かがそういったものを『表現として』感じ取っているから、CODAが『言葉として』拾ってしまっていたんだ」
 よかった、謎が解けたよ。そうつぶやいて、にっこりとする。光年の距離、一万年の年月を隔てても、ホモ・サピエンスという種族は同じような表情を浮かべるものなのだな、とわたしは奇妙な気持ちになる。
 このウッドベリー・フィールド基地に赴任して、これでちょうど半年。異星人と『言葉』を交わすのはこれが初めてだった。
 指一つ動かすわけではない、身振り手振りにさしたる意味が込められているわけでもない。おそらく彼の言葉はすべて音、それも、ある種の鳥の長鳴きのような奇妙な音節だけで形作られている。その『声』は上下し、短く細かに区切られ綴られ、奇妙な強弱と節をつけて発音されている。その意味するところがすべてCODAによって文書に翻訳され、彼の姿に重ねられたレイヤの上に表示される。わたしはその様子に、雨だれがしきりに水面を打ち、ちいさな環を作ってはきえてゆくところを連想した。……なるほど、人間はほんとうに、音声で意思表示を行い、充分に複雑なコミュニケーションを取ることが出来るらしい。

 

 はるか昔、今では存在すら定かではないひとつの惑星から、移民船がいっせいに宇宙へと旅立った。
 なぜ彼らは旅立たなければならなかったのか、いったいどれぐらいの数の船がどれだけの場所を目指して飛び立ったのか、今では知るものは誰もいない。中には目的地にたどり着くことなく落ちてしまった船もあったのかもしれない。けれどもその移民船の中には無事に生き残って他の惑星に根付いたものもいた。そのうちの一つが、霆。わたしたちの故郷の惑星だ。
 わたしたちの祖先は旧惑星時代のことを忘れ去ったり、もしかしたら何らかの形で受け継いだりしながら――― 何千年もかけて、ひとつの星系の惑星資源すべてを利用しながら、文明を発達させてきた。
 旧惑星時代のことについては、学問でいうならば考古学の世界に類する問題だ。はるか古代の先祖たちが残したものから何かを得ようにも、遺構のほとんどはわたしたちの先祖が生き残るために徹底的に利用しつくした後の状態でしか残っていない。それでもたったひとつ、おぼろげながら確信として残されていたものがあった。
 どうやらこの宇宙には、わたしたち以外にも、人類がいるらしい。
 本当なのか、どうなのか。結論が出たのは今からたった二十年ほど前のこと。はるか光年を隔てた異なる星系に、わたしたち以外の人類の子孫が存在している。未だ大気圏の中にとどまっているとはいえ文明をもち、文化を持ち、そして、彼らもまた、人類の子孫を探している。
 そうしてわたしたちはそれぞれの星でお祭り騒ぎをし、でかける準備とむかえる支度をそれぞれ整え、それから、再会を果たした。
 幾分かの困惑と共に。
 彼ら自身が”フィガロ”と呼んでいる惑星の住人は、言葉を話すことができなかった。正確にはわたしたちに理解のできる言語を使っていなかった。
 旧惑星時代をすぎて既に数千年。フィガロ人たちはわたしたちのように仕草で話すことができなくなり、代わりにある種の鳥や虫のように、音声でコミュニケーションを取るようになっていたのだ。
 

 スパロウは分子生物学に関わるチームの一員としてこの基地に派遣されているものの、より興味を持っていたのはわたしたちの言語に対してであったらしい。わたしが医師だと名乗るのを聞くと、「へえ!」と目を輝かせる。
「医師といっても、わたしの専門は脳神経に関わるものではないよ。それなら柊の担当だ」
 わたしの専門は疫学だ。おかげで基地にいるかぎり、一瞬も気が休まる暇がない。わたしたちは日々お互いに、致命的な感染症を宇宙人からうつされる可能性にさらされている。そのせいでどちらかの惑星が滅んでしまうかもしれない。冗談でもなんでもない。
「ぼくが気になっていたのはもっと大雑把なことだから。ねえきみ、ぼくたちの星の人間の解剖とかしたことある?」
 宇宙人に誘拐された人間が解剖される。妙なジョークを言う子だ。フィガロ人はわたしたちと比べると総じて小柄なせいで年齢が分かりにくい。子どものように見えてしまう。わたしは苦笑した。
「幸いにして、まだチャンスに恵まれていないよ。ただきみたちの生理学的な特徴については色々と教えてもらっている」
「じゃあ、ぼくたちの言語の違いは、お互いの体の差に基づくものなのかな」
「どちらかというと逆だと思うね。霆では仕草言語が用いられていたし、フィガロでは音声言語が用いられていた。おそらくこの歴史は一万年昔にまでさかのぼれるんだろう」
 さっきからCODAはスパロウの言葉をしきりに『翻訳』して、透き通る環のように文章を生成してはすぐに消してゆく。おそらくスパロウの側から見ても同じだろう。わたしは自分の言葉がすべてあの黒いツブツブとした文字を並べたような形に変換されている様子を想像して、ひどく奇妙な体験をしているような気分になる。
 植生ドームから居住エリアに移動すると、例のオノマトペが視界にちらちらすることもなくなり、わたしは内心ほっとした。
 このウッドベリー・フィールド基地は、フィガロ星系の惑星の一つにたどり着いた長距離航宙船を中心として広がっている。増築に増築を繰り返して広がってゆく基地は、やがては移民ドームとしての役割を果たすほどの規模を目指しているのだろう。さいわいなことに、元から豊かな自然環境に恵まれたフィガロ人たちの宇宙進出に興味が薄かった。おかげでこの星系にはおあつらえ向きの星が手つかずで残っている。
 スパロウの興味はもっぱら、わたしたちとフィガロ人の言語の差がどこに由来しているのか、というところに向いているようだった。CODAの被験者に手を挙げた理由もそれだ、と彼は言った。
「フィガロの人たちは咽頭が非常に発達しているね。声帯ヒダの構造もだが、喉頭隆起の進化が著しい。君の喉のところに尖がって突き出しているのは、それは、軟骨が発達したものだと思うのだけれど」
「喉ぼとけのことかい? 確かに骨だけど……言われてみれば君のはずいぶんと小さいなあ」
「わたしたちにも甲状軟骨は存在するけれど、きみたちほど外から見て明瞭な喉頭隆起は起こさなない。総じて、フィガロ人の咽頭は呼吸や食事以上に『発声』のために発達を遂げている印象があるね。そこが疑問と言えば疑問なのだけれど。フィガロ人の発声は最終的には声帯に依存しているように思えるんだが、そう考えるには、声帯というものの不安定さが気になるんだよね。器官を形成しているものが薄い筋肉性のひだ一対でしかない」
「不安定、不安定ねえ。言われてみればたしかにそうかもしれない。風邪をひいて喋れなくなるとかいうのはよくある話だし、普段から歌ったり大声を出したりする職業の人たちが声帯ポリープにかかって手術が必要になる、なんていうことも起こるし。きみたちには声帯はないのかい? そういえば霆人が声を出しているのを聞いたことが無いな」
「全くないわけじゃないよ。構造としてはきちんと存在するし、文化圏によっては色々な理由で後天的に発声訓練を行うところもある。けれどきみたちよりは退化している傾向があるのも事実だし、そもそも成人するまでに一度も声を出さないなんてことはざらにあるから、咽頭周りの筋肉が未発達のままになっているんじゃないかな?」
 スパロウは面白そうな顔をする。「じゃあ君たちは?」と言って、手のひらを立てて胸の前でスッと横に動かすような仕草をしてみせた。「どこがぼくたちより発達しているんだい?」 たぶん私たちの言葉の真似をしているつもりなのだろうけれど………思わず笑ってしまう。
「一番大きな差は、関節の可動域の広さだろう。それと眼筋の発達、あと、君たちは耳が動かせないっていうのは本当かい?」
 ほら、と耳を軽く動かしてみると、スパロウは目を丸くする。そんなに驚くようなことかな、とわたしは思う。人間には元々三つの耳介筋があり、そこにこめかみの動きを加えることで耳を動かしている。
「さっきからきみと話している時にも、ずっと動かしていたと思うけど」
「後でログを確認してみる。……驚いたよ。ぼくてっきり、君たちは腕や指の動きだけで会話しているのかと思ってた」
「人間の言語が必要としているニュアンスは、そんな単純なものじゃないだろう。頭から袋でもかぶせられた『カタコト』だったら話は別だろうけど」
 わたしたちの言語は主に前方の空間を三次元に利用する。主に指や腕で作った型である『型素』と、それらをどう動かすかの『動素』、さらに目線や眉、顔の動きという『姿素』、その三つのシームレスな運動と変形によってわたしたちの言語は形成されている。言葉の本質は運動と空間なのだ。だからこそわたしたちはフィガロでの言葉、咽頭からの発音のみで形成される『音声言語』の存在に驚愕した。
 あなたたちは耳が聞こえないのか? とはじめ、彼らはわたしたちに問いかけたのだという。その問いかけこそが驚きでもあった。音声言語は一次元的な形態を持った言語であり、一番最初に発音された一音から最後の一音までの一連の音の連なりだけで形成されている。この『言葉』は常に過去から未来へと向かった時間の流れの上にしか存在できず、途中で言葉を固定することも、発音を逆転させることもできない。さらにわたしたちを戸惑わせたのは、フィガロ人の言葉が持つ具象性の乏しさだった。
 たとえば、何かを指差すというひとつの言葉の最小単位。わたしたちの星では『何かを指差す』ことの意味は何語であっても直感的に共有できるものの一つだけれども、フィガロ人の言語では『あれ』『それ』という言葉と『言葉の示す対象』は完全に切り離されている。[are]と[sore]という音、『あれ』『それ』という言葉の意味、さらには[are][sre]を耳で聞き取る能力がすべてバラバラに存在しているのだ。
 なのに今、わたしの目の前の青年が話している言葉は、リアルタイムで文章として生成され、緻密な渦状の『字幕』としてあらわされては消えてゆく。何かの癖なのか顎のあたりに手を当てているのには、何の意味も含まれてはいない。かれが動かしているのはあくまでくちびると喉、その奥の複雑に入り組んだ器官だけ。
「ぼくたちが霆の言語を取得するより、逆の方が手っ取り早いのかもしれないなあ」
 スパロウは嘆息する。わたしは目をぱちくりさせる。そんなことを考えていたなんて知りもしなかった。
「ねえきみ、霆の人の咽頭が具体的にはどれぐらいぼくたちと違っているか確かめてみないかい? 完全に発音が不可能だってわけじゃないよね。聴覚も正常だって聞いたことあるし」
「そもそも、なんできみたちがすぐに『言葉が喋れないのか』『耳が聞こえないのか』って聞いてくるほうがわたしには疑問だけどなあ。それをいうなら君たちにはちゃんと両手両腕が揃ってるし、わたしたちと同程度の視力だってあるじゃないか。そもそもさっきからきみは」
 あっちを、とわたしがひょいと向こうの方を指さすと、スパロウもそちらを見る。当然だが、『そこ』には別に何もない。
「常にこういうボディランゲージを交えて会話をしているよね。わたしとしてはそれだけボディランゲージに頼って会話をするんだったら、いっそ、音のほうを取っ払ってしまった方が自然のように思えるんだが」
 スパロウが唸った。恨めしそうなニュアンスはCODAの翻訳さえ必要がないぐらいはっきりしていて、吹き出しそうになる。

 あの後もCODAの第一テストのセッションの最中、わたしはもっぱらスパロウとのおしゃべりを続けていた。おかげでいろいろと音声言語について理解を深めることができたものの、代わりに多大な疑問が発生したような気がしてならない。
「フィガロ人は抽象思考にこだわる傾向でもあるのかな? それと、あれだけ『時間』を気にする理由がようやくわかったよ」
 話している間中、わたしはスパロウの『声』と『言葉』の関係を気にし続けていた。CODAが作り上げてくれる字幕とスパロウの発声の間には明確なタイムラグ発生することが何度もあった。おそらく、スパロウの言葉は、止まることができなかったせいだ。
 音声言語は言葉にした瞬間から消えて行ってしまう。最後の一音を発音するまで文章が完成しないにもかかわらず、その一音が発音されるときには最初の一文字はすでに跡形もなく消えてしまっている。時間の流れの上に配列されるようにしてしか、彼らの言語は存在しえないのだ。
 フィガロ人は常に時間と共に生きている。思考を形成する言語そのものに多大な時間圧が存在し、発声した瞬間から消えて行ってしまう音声によって認知が形成されている。空間と共に停止することができる言葉、というものがそもそも思考の外にあるのだろう。書かれた文字を解読する際にすら、脳内で音として読み上げてしまうせいで言葉が時間に追いかけられてしまう。
 どうにか動作言語があらわす世界を理解させようとして、なんとかスパロウとの間で共有することができたイメージは『彫刻のような言語』というものだった。わたしの言葉は一度受け取った後に消えてしまうということはないし、さまざまな方向から眺め、確かめ、意味を咀嚼する行為にはいっさいの時間は立ち入らない。もっともいちいちひとつの言葉を撫でまわしひねくりまわしていられるほど、わたしたちは無口ではないのだけれど。
「それで、わたしたちはいつまで、ああやって無駄なおしゃべりを続けていればいいのだい?」
「CODAが通訳者として立派に独り立ちしてくれるまで、ですね。ともかく可能な限りたくさんあなた方の『おしゃべり』を食べさせてもらえれば、それだけ早くCODAも僕たちの手を離れてくれるはずです。ところで、今日はずいぶんと話し込んでいたようですが、何か不自由を感じたところは?」
「たくさん。けれど、上手く伝わらない時には別の言い方をすれば良いだけだったからね。文章生成のアルゴリズムはもう完璧なんじゃないかな……問題はたぶん、言語としての特性に差がありすぎるところにあるのだと思うよ」
 わたしは慎重に言い足した。
「わざわざ『サイナー』に、『CODA』なんてバージョンを付け加える必要なんて、あるのかい?」
 柊は軽く片眉を持ち上げた。わたしは反論をあきらめた。この同僚がどれだけ気難しく、また、いちど言い出すと頑固で手に負えないかはわたしが一番よく知っている。
 CODAの原型であるサイナーは、本来、他言語のリアルタイム翻訳を行うためのソフトなどではない。人間の言語のより前のところ、脳の言語野で言葉になるまえの素材である『前言語』同士を接続しあうためのソフトウェアだ。フィガロでの科学は外よりは内に向かうことを好み、精神や神経に関わる部分での技術には霆では理論さえ存在しなかったものすら存在した。同じホモ・サピエンスであるというハードを共有しているため、フィガロで開発された技術はほぼすべてわたしたちにも応用が可能だということが素晴らしい。遠い星に住む従兄弟をわざわざ訪ねるだけの意味があった成果のひとつ。
 たとえば、『そこにリンゴがある』と思うとき、思考に用いる言語がなんであれ―――それこそ動作言語であれ音声言語であれ―――同じように、人は『そこにリンゴがある』と考えている。もちろん実際には本質的な、その思考だけを取り出すことはできない。ただサイナーは脳内でも言語の生成に関わる部分、人間の思考がまだそれぞれの言語として分岐する前の『前言語』として存在する時点で取り出してくることができる。言語を共有しない人間同士がコミュニケーションで躓くのは、さらにその先の文法や単語の使い分けで分岐していった後のこと。ならばその段階をすっ飛ばしてやればいい。サイナーのユーザーの間ではその『分岐』が発生する以前のデータを相手のサイナーに送り込み、理解するための文章化は対話相手の中で行ってもらう。相互でイメージを共有していないものについて伝えることはできないという問題はあるが、実務レベルで問題になることは少ない。
「『サイナー』での対話自体に何か問題があるんですよ。あなたは基地に来て何か月になりますか? サイナーを差した者同士ならコミュニケーションに問題はない、にもかかわらず作業外では霆人とフィガロ人はほぼ完全に没交渉になってしまっている」
「その話ならば知っているけれど。原因はサイナーの欠陥ではなく、文化的なものが由来なんじゃないかな」
 ただ歴史と距離を隔てているというだけでなく、霆とフィガロの間には極端な環境の差があった。豊富な水に恵まれて穏健だったフィガロの環境とは異なり、霆は恒星からの距離が遠く水に乏しい。最初期の入植者は人類が生存することができる環境を作るためだけに、何世代分の時間を必要としたのか…… 現在も惑星のほとんどが人類の居住可能環境とは程遠い霆から見ると、地表の大半を海で覆われたフィガロの存在は驚きに他ならない。
「彼らは無口でおとなしいし、考え方が抽象的で刹那的すぎるんじゃないか? 向こうから見ればわたしたちは、現実的で口やかましくて粗暴な連中だろう」
 そして多分それは、過ぎ行く時間と強く結びついたフィガロ言語とも、切り離せない関係をもっている。
「それでも、わたしたちは協力し合わなければいけない。お互いに学ぶべきものがこれほどまでに多いのに、言葉遊びを続けることがそんなに必要なのかい?」
『必要だと思います。楠、あなたのフィガロ言語への考察はとても熱心なものでした」
 CODAの作る不完全な字幕ではない。きちんとした言語、『サイナー』だ。柊の共同研究者のパロットだった。さっきまでの話も聞かれていたんだろうか? 柊はしれっと答える。
「彼女がいるときは、傍受モードにしてるんです。特に霆人はですが、自分たちの言葉だけで通じると思ったときにはすぐに『サイナー』を切ってしまいますから」
 わたしは自分を恥じた。同じ部屋にパーロットがいることを知っていたのに、サイナーを落としていたのだ。サイナーはもともと音声言語に対応して作られたものだから、視覚言語の話者が日常的に用いるには上手く表現しにくい不快感が伴う。すぐに機能をオフにしてしまいがちになる。
『サイナーは視覚言語話者に対して完全に適応できているとはいいがたい部分があります。ストレスを与えやすいのでしょう』
 パーロットはさして気にしていない様子だった。
 髪を長く伸ばし、総じて細身で小柄な体形はフィガロ人に共通したものだ。だが全体が薄紫色をした白目のない瞳は欠損した資格を補うためのインプラント由来のものであり、ファッションを目的としたものではない。視聴覚を完全に欠いて産まれてきたという彼女は、それ故にごく幼いころからサイナーを用いて他者とのコミュニケーションを取ってきた。CODAをこれだけ早くリリースできたのも、パーロットが柊への協力を惜しまなかったおかげだろう。
「わたしとしては、フィガロ言語と霆語が共通した基盤で物事を理解していたということのほうが驚きだったのだけれど」
「霆人では空間認知と視覚認知、それに、体性感覚が言語野で処理されている代わりに、フィガロ人では聴覚・発声に関わる部位が言語野と強く結びついていました。ただ、言語生成の中枢にあたる部分自体は共通して変わらない」
 当たり前ですよね、と柊は言う。
「一万年は文明にとっては長いかもしれませんが、種としてのホモ・サピエンスにとってはそれほど長い期間とはいえません」
『現行のサイナーでは、音声言語の理解を優位に行おうとします。意思疎通に用いることしかできないということが、サイナーの問題です』
 もともとフィガロの音声言語の話者同士に用いられていたことを考えると、サイナーで扱う『前言語』が音声言語のほうに半歩はみ出しているというのも仕方のないことだろう。視覚言語の話者と、音声言語の話者とで最も異なっているのは咽頭や顔筋といった器質的な部分ではない。脳神経の編成と発達の差のほうがはるかに大きい。
 たとえば、わたしたちの言語は常に空間の中に三次元に展開する。指、手、腕、それに表情などのさまざまな運動を視覚で捉え、その中から適切なものだけを『言葉』として認知するには、それだけの空間認知能力が必要となる。逆に音声言語を構成しているのは、舌やくちびる、声帯までの一連の器官によってつくられる極めて複雑な音声だ。必然的に彼らの脳内には音声認識のためだけに膨大な領域が割かれている。
無論わたしたちにも、動物の鳴き声と岩の転がり落ちる音を区別することはできる。彼らにも目の前で手を振られたときに、それを目で追うことはできる。けれどわたしたちにはフィガロ人の言葉とある種の動物の鳴き声とをうまく聞き分けることはできないだろうし、フィガロ人の多くには目差しで中空を差した時に具体的にはどのあたりを示しているのかを理解するのは困難だろう。
 その点、CODAはサイナーよりもずっと不器用にできている。基本的にはCODAのユーザー同士も、サイナーと同じように前言語のやりとりを行う。けれどCODAはそこに加えて、発話者のほうが何を言いたかったのか、そのために体のどの部位をどのように動かしたのか、というタグをごてごてとくっ付け、内的言語ではどう語られていたのかも同時に記録する。さらに裏では常に発言内容を文章化することを要請しており、そのログもまたCODAによって巻き上げられてゆく。
 最終的に聞き手は前言語をアウトラインとしてこれらの情報の塊を受け取り、翻訳文を自力で生成しなければならない。CODAがオノマトペを読み取ってしまったということは、誰かが以前、風にひるがえる木の葉の中に、誰かがささやくような声を『聴こうとした』ということだろう。そのログが残ってしまっている。読み取ろうと思えば、読み取ることができてしまうようになっている。
「視覚言語と音声言語では、共有不可能なニュアンスが多すぎる。サイナーの機能を拡張しようとしても、早晩、概念的な部分のとりあつかいでつまづいてしまうでしょう。それならば今のうちにCODAになるべくおおくの言葉を食べさせておく方がいい」
「共有できない抽象的な概念、ねえ」
 フィガロの人間は耳を動かすことができない、という話を、わたしはなんとなく思い出した。
 お互いに理解しあおう、という試みそのものが無駄な労力なのではないか、という疑問は、どうしても消えてくれそうにない。
 

 

 丈高く茂った木々の向こうに日が暮れる。夕暮れの赤い光が重なり合った梢に複雑な陰影を織りなし、真鍮色をした草の穂を照らし、水草浮かぶ水面をあかがね色に輝かせる。
 わたしはひどく不思議な気持ちで、夕暮れの投射されたドームを振り仰ぐ――― 人工の夕焼け。この基地の中でも最も巨大なセクションのひとつである植生ドームは、居住エリアの一部としても働くように設計されている。半球状のドームに投射されるまぶしい青空、ちぎれ雲、もしくは真空にきらめく星々の示す時間の変化は体内時計の調整を行うための役割も果たしているが、居住環境の管理チームのメンツによるキャンパスとして重宝されているものらしい。そうでなければ、ただの映像にすぎないはずの夕暮れの空に金色に縁どられながら千切れゆく雲が散らばることも、西の空に二つの明星があかるく光る必要もない。
 フィガロのものでしかありえない目もくらむほどに豊穣な植生と、故郷の空との組み合わせには、どこか、違和感と同時に強烈なノスタルジーを感じさせるものがあった。今日の天空デザイナーは何を考えてこんな取り合わせを作ったのだろう? 
 楠、と呼びかける声が、唐突にあらわれる。ぱちんとはじける。びっくりして振り返ると、そこにはスパロウがいた。一体何をされたのか分からずに目をぱちぱちさせているわたしに、スパロウもまた不思議そうな顔をする。
「きみ、今、何をやったんだい?」
「何をって、きみがそこにいるから呼んだだけだけど……ああ」
 そういえば、視界の外から呼びかけても聞こえるはずがないのか。スパロウは納得してしまったらしいが、わたしの方は釈然としない。突然目の前に『声』があらわれてすぐ消える、その不可解さを何度も頭の中で反復する。
「横から脅かされて迷惑してるのは、ぼくたちだけだと思ってたよ。CODAを入れていて困るのは……なんというか、視界がうるさい」
「そういえばきみたちは、あまり多人数での会話ということをしないねえ」
 霆人に限らず人間の脳が処理できる音声にはある種の限界があるらしく、CODAを使っての対話であっても音声言語にはある種の指向性があると感じることがままある。向かい合っている相手の話は理解できても、同時に複数人の会話を聞き取ることは難しい。目の前の相手としか対話ができないことが『普通』だとしたら、視界いっぱいに大人数がおしゃべりをしている光景はたしかに『視界がうるさい』のだろう。
「では、あの空もうるさいのかな?」
 わたしは笑って、双子の明星を指差す。涙にうるんだようなふたつの星は、さまざまな言葉で形容される、詩に歌われる、心に語りかける。「うるさくはないね」とスパロウは笑う。
「雲が流れゆくさまが風のざわめきに聞こえる、きらめく木洩れ日は小鳥のさえずりに聞こえる。なかなか詩的でいいよ、ただ、目が回りそうになるけど」
「そこまで敏感にいろいろな景色を拾っているのかい?」
「ちょっと興味があってね、CODAの閾値を下げてもらったんだ。人の仕草だけしか認識できないんじゃつまらない。霆の言語や芸術がどこに由来してるのかを知ろうと思ったら、まずは素材になってる環境の部分から入らなきゃ」
 わたしは呆れて、おもわず笑ってしまう。好奇心が旺盛なのは良いことだけれど、そこまで見ようとしたらそれこそ『視界がうるさく』て仕方がないだろうに。
「ところで、今回はフィガロ側のチームでワークショップを企画したと聞いたのだけれど」
「そう、演奏会。歌曲の夕べ。ぼくたちにとってはただのレクリエーションだけど、きみたちにとってはもっと興味深いイベントになるんじゃないかな?」
 すこし興味を惹かれる。これだけ音声の認識能力に差があるのだと考えれば、フィガロにおいての音声芸術がどれだけ様々なニュアンスを与えられて複雑なものになりうるのだろうかとも思うだろう。
「不思議だよね、きみたちにも聴覚はあるのに、音楽は発展しなかったの?」
 スパロウが砂色の石畳を敷かれた通路を歩きだす。背丈よりもはるかに高く伸びたウィンドグラスが、トンネルをつくるように左右から覆いかぶさっている。
「それをいうのだったら、きみたちの文化圏にもダンスは存在しているだろう。ただ霆の時間芸術は、あくまで空間芸術の補佐という意味合いの方が強いかな」
「空間芸術…… 建築とか、彫刻とか、絵とか」
「フィガロには『舞曲』というものがあるんだろう? 逆にわたしたちの星には『楽舞』というものがあるんだよ。音楽を演奏し、楽しむための舞踏だ」
 ダンサーの跳躍が、四肢の交差とまなざしに漲る力が、時に一糸乱れぬ、時にあざやかに散開する群舞が、舞踏による歌を奏でる。管楽器や打楽器、さまざまな器楽の音をみちびく。群れ飛ぶ渡り鳥の羽ばたきを奏で、蝶のはばたきを演奏する。―――彼らはどうなのだろう? 打ち付ける波頭の崩れる音や、とどろく雷鳴を踊ってみたいと思うのだろうか?
 たしかにこれは『サイナー』に頼っている限り、想像もしなかった内容かもしれない、とわたしはしみじみと思った。
 人間の思考や行動は、かなりの部分を言語によって規定される。わたしは視界に入る限りのおしゃべりをうるさいと思ったこともうっとおしいと思ったこともあるけれど、人がたくさんいるのに目の前の誰かとしか話をしていない、という状況は想像もしたことがなかった。それでは重要な話を聞き逃したりはしないのだろうか? でも、完全に背中合わせになった相手とも会話をすることができるというのは、考えてみればやはりどうにも奇妙なことだ。後ろにいる誰かと会話をしている―――と思ったのに、振り返ったらそこに誰もいなかったら、いったいどうするんだろう?
「それじゃよくある怪談だよ」
 わたしの疑問に、スパロウは笑った。
「ベッドの下に怪物がいて話しかけてくるとか、夜道を二人連れで歩いていたと思ったのに気が付いたらほんとうは一人だったとか」
「夜に通りかかると話しかけてくる樹がいて近づくと首を吊られるとか、人が死んだところで火を焚いたら犯人の名前を言い始めたとか、そういう類の話かい」
「なんだい、やり口が違うだけで、結局誰のところにも幽霊は出るんじゃないか」
 植生ドームの中央には砂岩で作られすり鉢状にくぼんだステージがあり、ちょっとした儀礼やイベントを行うことができるようになっている。中央では長い髪をしたフィガロ人が何人か弦を張った楽器、管楽器の調整を行っており、すでに周りに集まっていたいくらかの観衆の中にはわたしの同僚もいた。CODAを差していないはずの顔を見つけてすこし驚く。わたしの隣にスパロウを見かけたのか、「あとで感想を聞かせてくれよ」と言われて、そういうことかと納得する。
「この距離でも話が通じるのって、すごいよね」
 スパロウがつぶやく。どうやら『聞こえて』いたようだった。この様子であちこちでわたしたちの会話を『聞いて』は、そのたびに驚いていたのだろう。それは彼らのあまりの『無口さ』に驚いたわたしも同じことだったのだけれども。
 彼らの声はあまり遠くまで届かないし、耳が音を選択してしまうため、向かい合った相手としか話をできない。そのためか総じて彼らは対話相手ごとに話す内容を厳選しているし、感情をあらわす表現はおどろくほどに彩り豊かだ。
「珍しい。彼女もいるんだ」
 視界の端にスパロウの言葉が泡のように浮かんで消える。視界をやればちょうどステージの反対側に、柊と並んで座っているパロットのすがたが見えた。
「今回のセッションは彼の発案なのかい?」
「いや、柊はそんな愛想のいいやつじゃないよ」
 サイナーとCODAの差異について、柊と話したことを思い出す。サイナーの目的はあくまで意味を伝達するための会話を成立させることだが、音楽には明文化できるような意味はないだろう。舞踏と同じだ。サイナーのサポート範囲を超えた言語サンプルを蒐集することが彼らの目的なのかもしれない……なんのために?
 そのとき、今まで聞いたことのない音が、空気を震わせた。
 はじまった。
 ステージには奏者が三人。弦楽器が二台、管楽器が一台。中央に立っているのは、驚いたことに普段は生態学のセクションにいるフィガロ人の男性だった。たくわえた髭のほとんどが白くなり、周囲をぐるりと見回すまなざしには自信と茶目っ気とがたっぷりと含まれている。
 そうして、はじまった―――
 音の高さがちがう二台の弦楽器が、お互いに音を重ね合わせるようにして、ゆるやかに奏でられる。指でふれたくなるほど滑らかな何かの音色。それが管楽器の奏でる音だと気づいて、わたしはひどく驚いた。
 ひとつひとつを聞き分けることに集中しても意味はないのだとすぐに気づく。音と音、音と音とはそれぞれに違ったうねりと流れを持って奏でられ、それが相互に絡みあうことによってひとつの流れを作ろうとしているのだ。ときにゆるやかに流れゆき、いたずらに一つが跳ね上がれば、すぐにもそれに続くように跳躍が続く。
「面白いものだね。三台の楽器を、一台の楽器のように使うのかい?」
 わたしが問いかけても、スパロウは答えない。顎を引いてうなずくだけだ。……すぐに気づく。ここで声を出して答えると、この音楽を壊してしまうのだ。
 音声言語の世界では、音楽は、言葉の中で奏でられることはできない。

 そして視界の端を文字がかすめる。
 わたしは初めて、歌手がうたいはじめたのだと気づく。それぐらいに人の声が、音楽になっている。声が奏でられている。

  ふるい落とされ、
   ライラックの花、
  こなごなになって、
   紫の原子。

  葉は緑を滴らせ、
   樹皮はさらに暗く、
  影はさらに長く。

 歌は紫や銀の色を帯びて、細く、レースを編み上げるようにして屹ち上がってゆく。わたしは古いレース刺繡に編み込まれた詩を思い出した。
 普段はただ雨だれの描く同心円のよう、水に浮かぶ泡のようにプツプツと細かくとぎれて描き出されるはずの言葉が、CODAというレンズを通した向こうで滑らかな一列の流れを作ってゆくのが見える。その優美な曲線、蔦草模様のように滑らかにつなげられた言葉の連なりは、いったいどこから生まれてくるのだろう。これは散文ではない。かといって、フィガロの詩文を訳したものともまた違う。
 たった今編み上げられた詩が、けれど、捉えることもできずにすぐに端から消えて行ってしまう。ただ現実に重ねられたレイヤの上の存在、仮想の文字だと知っていながら、わたしは思わず手を伸ばしてしまいそうになった。歌を捕まえてしまいたくなった。
 けれど、不可能なのだ。歌は時の流れと共に流れ、時と共に消えて行ってしまう。
 それだからこそ、音楽なのだ。

  ポプラの整然とした列、
  無数の銀ときらめき
  年を経た古い庭の奥
  荒廃と物語の崩れた塀の中、
  薔薇は紅い雨の記憶によみがえる。

 声で編まれた詩。
 細糸で編まれた、古いレース詩にも似た。
 昔の女たちの細工、詩人たちの筆致。中央から丸く展開してゆく言葉を糸のなかに編み込み、モチーフ同士をつなぎ合わせ、文字通り詩を編んでゆく。細い糸同士がねじれあい、うつくしく繊細なモチーフを作り上げながら、同時に読み込まれてゆく優美なことば。
 繰り返すモチーフは、おそらく、韻をふんだ言葉。なめらかに言葉と言葉をつないでゆくのは、旋律という流れ。
 わたしだけではない。霆のひとびとはきっと誰も、こうやって歌というものを聞いたことがなかった。驚き。ざわめき。まだ納得のいかない顔をした誰かに向かって、興奮した様子で話しかけているものがいる。きっとCODAを差していなければ、これは、人の声までが溶け込んでひとつとなった、不思議で優美な異星の音楽にすぎないのだ。

    五月よ!
   外の世界に
  太陽があらわれてあなたの顔をみつける。
  あらゆることを思い出して。

「きみ、ほんとうはぼくたちの言葉をすこし侮っていただろう」
 スパロウが小声でささやいた。皮肉めいた調子でもなければ、怒っている様子ではなかった。
「不確かで、人の心を伝えるのに向かないって。実体にとぼしくて不便だって。確かにそうかもしれないね、でも、それだけじゃないんだよ。……どう思う?」
「すごいね」
 わたしは、脱帽するしかなかった。スパロウの言う通りだった。
「たしかに、すごい」
 ひとつの歌が終わり、一拍の後にはもう、音楽が見事に色を変えていた。楽しげに跳ねる、踊る。音階を転がるように駆け下ってゆき、そこから魚のように跳ね上がる。銀のうろこをきらめかせ、流れの中を飛び跳ねる。
 手拍子がはじまる。観客たちが、楽し気に足を踏み鳴らしはじめる。

  あなたの紅いスカーフを
  早くもっと早くふりまわせ、踊り手よ!
  いまは夏、太陽は百万の緑葉
  緑の団塊をいとおしむ

  あなたの紅いスカーフは
  その中を呼びながら呼びかけながら輝きひらめく!

 ステージの向かいから、おおい、と手を振られる。同僚だ。CODAをさしていないのだ。意味は分からないはずだ。それでも膝がうずうずと動いている。言葉の意味を知りたいのだ。手拍子に誘われ、足踏みに誘われて、体が動かしたくてたまらない。でもこれを翻訳することなんてできない。わたしはどうにか答えようとする。けれどそれよりも先に、ぱっと、背の高い女のひとりがステージの中央へと躍り出た。
 奏者たちはびっくりした顔をするが、彼女はにやりと笑うと手を叩き、足踏みをする。容姿ですぐにわかっただろう、フィガロ人ではない。けれどCODAを差している。彼女はくるりと片足を軸に回転すると、全身を使うようにして、ともに『歌い』はじめた。
 
  スカーフの絹と炎は
  中心となるすばらしいソプラノ
 
  世界の心臓にせまる狂乱の歌声!
  ともに響く大合唱。

 わたしたちの歌はダンスだ。一瞬もとどまることのない舞踏が、ひるがえる指先が、地を踏み鳴らすかかとのリズミカルさが、全身に歌をみなぎらせる。体中のすみずみにまでリズムが満ちる。まなざしも指先もゆれる髪やジャケットの裾まで、すべてが言葉になる、そのまま歌になる。
 指先をひるがえすとき、地をけって跳躍するとき、全身に感じる感覚を知っている。肩から腕へと連なる運動の伸びやかさ、重力が体に刻むリズムを、自分のことのように自らの中に感じる。それがわたしたちの言葉だ。詩だ。
 演奏団の中には霆の言葉なんてわからない者のほうが多いだろう。サイナーでの直訳では即興音楽は意味不明の言葉の羅列になってしまう。けれども今、ともに歌おうとしているという姿だけは伝わる。管楽器の奏者がにやりとする。花弁のように広がった金色の楽器がひときわ高く鳴り響き、夕暮れの名残の光をまぶしくはじいた。

  あなたの足先は歌っている
  あなたの腕の唄にあわせて歌っている

  赤いスカーフをいよいよ早くひるがえせ!
  夏と太陽があなたにそう命じるのだ!

 たぶん、夢中で聞き入っているのはフィガロ人ではなく、わたしたちの方だった。おそらく皆がようやく『理解した』のだ。
 音声言語はその瞬間ごとに消えてゆく。音の上下と大小、ぷつぷつと細かくとぎれた音の流れだけで出来ている。けれども、それは決して弱点だけではない。彼らの言葉は音に愛されている。時間と共に走ることができる。そこに喜びがある。楽しみがある。わたしたちの言葉にはない、輝きがある。
「大騒ぎじゃないか」
 小声でスパロウがささやく。たった今、大声を上げることができない。それだけをわたしはひどく悔しく思う。だって、こんなにも素晴らしいのに。面白いのに。
「すごい、本当にすごい」
 もどかしい。どうやって伝えればいいのかわからない。わたしはスパロウの手を強くにぎりしめる。びっくりした顔がこちらをみる。両手でスパロウの手を腕ごとゆさぶる。伝わっていない。どうして? 太ももを叩き、背中に腕を回す。
「おい、ちょっと待ってくれ、ちょっと!」
 なんだか様子がおかしい。翻訳が間に合っていないのだろうか? 下から上に向けて背中をなぞり上げる。鼻に鼻をこすりつける―――
 次の瞬間、私はなかば蹴り飛ばされるようにして、スパロウに突き飛ばされていた。
「おい楠、待ってくれ! きみ、一体なんなんだい!!」
 床にまで転がり落ちて、わたしは目をぱちくりさせた。だが、スパロウの大声も誰の目を引きはしなかったらしい。気づけば音楽が止まっていて、代わりにきゃあきゃあわあわあと大声が響いている。ステージを見ればさっき乱入したダンサーが、見事な歌を披露したシンガーの首ったまにかじりつくようにして、情熱的な感謝と感動のキスをしている。
 わたしたちは目を見合わせた。
 おそらく一番慌てているのはシンガーその人で、ダンサーのほうは何が騒ぎになっているのかさっぱり理解しておらず、ほとんどパニック寸前の大騒ぎになっているのはフィガロの人たち、何が起こっているのかとオロオロしているのは霆の人々。中には周りの出来事そっちのけで抱き合っていたのが何事かとあわてて周りを見回しているものもおり、騒ぎに気づいたのかセッションに参加していなかった筈の誰かまで駆けつけてくる気配がある。
 そんな中、立ち上がったのは柊だった。段飛ばしでステージまで駆け下りた。管楽器を手に取った。

 大音量で楽器を吹き鳴らした。

 全員がさすがに振り返った。柊は思い切り大きな身振りでいう。
「おちついてください、話し合いましょう!」
 ふたたび私たちは目を見合わせた。スパロウの反応は早かった。立ち上がるなり、大声で叫ぶ。
「みんな落ち着いて!! ちょっと話し合おう!!」
 その間わたしは席と席との間に転がって、呆然とその様子を見上げているだけだった。

 演奏会はあっという間に、両惑星出身者による懇親会の場に変身した。丸いステージの周りにぎゅうぎゅう詰めに集まって、真ん中には神妙な顔の柊とパロットが座った。同時通訳を果たす構えだった。
 思い切りスパロウに突き飛ばされたとき、ぶつけた腰が痛い。一番最初に口を開いたのは、そのわたしを突き飛ばした当のスパロウだった。
「最初に聞いておきたいんだけど。楠、きみ、ぼくに何をするつもりだったんだい?」
 何をするって、いったいどういう意味なんだ。
「だって、すばらしい演奏だったじゃないか。きみが誘ってくれたんだろう? 今日のたった今になるまで、わたしはきみたちの言葉の持つ力に気づけていなかったんだ」
 だからうれしい。感動したし、感謝もしている。そう手を取ろうとして、わたしはすぐに慌てて手を引っ込めた。どうやらこの辺りに齟齬が発生しているらしい。
「じゃあ逆に、何故フィガロの方々はあんなに驚いていらっしゃったんですか」
 水を向けられたのは、どうやら単に演奏を聴きに来たらしい二人連れだ。誰もCODAは差していない。彼ら彼女らはお互いに顔を見合わせ、「だって、ねえ」と困惑の色を浮かべる。
「そっちの霆の人は、結婚してると聞いていたし」
「ええ、子どももいますけど……」
 途中からダンスに加わった彼女は、でも何故そんなことを聞かれるのか分からない、という顔で頬に手を当てる。
「俺なんて孫がいるんだよ! 驚くに決まってるじゃないか!」
 こたえるこちらはさっきの歌手のほう。そのままガヤガヤとまた大騒ぎになりそうなところを、『静粛に!』とパーロットがサイナー越しに怒鳴りつけてくる。
『ではあなた方は、一体何を相手に伝えたかったのかを教えてください。サイナーで伝えることができる範囲でかまいません』
「できれば霆のみなさんも、一体どんな話をしていたのかを教えてください。あなた方の対話を目撃したこと自体が、フィガロの方々にとっては驚きだったようですから」
 最初に音楽の環に飛び込んだ彼女は、は困った顔のまま、「嬉しかったのよ」と答える。
「わたし、元から詩舞は好きだったけれど、こういう形の音楽があって、こういうかたちの歌があるなんて想像したこともなかったし… 自分で『踊れる』ってこと自体がすごくおもしろかったのよね。だから感動したし、すばらしい人たちだと思ったし、感謝したの。それを伝えたかった」
 どうやら友人同士らしい二人組は、顔を見合わせた。
「俺は途中で彼女が詩を入れてくれるまでは、あの音楽が何のことかよくわからなかったんだ。それが分かったときにはおどろいたね。正直なところを言うと、俺は今まで音声言語の聞き取りがうまくできなかったんだ。それでもサイナーがあれば十分だと思っていたんだが…… 想像とはまるで違ったよ。そしたらこいつは、『知ってる』なんていうんだよ」
「おれはもうCODAで慣れてましたから、音声言語っていうのはもっと繊細でニュアンスに溢れたものだ、っていつもこいつに言ってたんです。それがさっぱり信じてくれないもんだから、今日のセッションに無理やり引っ張ってきたんですよ。そしたら途中から、わかった!わかったぞ!って大興奮で」
 話を聞いていて、ようやくわかったような気がしてくる。スパロウが複雑な顔でわたしを見ると、なんともぎこちない様子で、わたしの手の上に手をかさねてきた。
「途中から翻訳がずっとエラーを吐いていて、きみが何を言いたいんだかさっぱりだったんだけど」
「うん」
「これはどういう意味なんだい」
 わたしの腕を握り、そのまま体ごと前後にゆさぶろうとする。正直なところまるで言葉にはなっていなかったが、私が何を言ったときのことを差していたのかは分かった。
「『君はすばらしい』っていう意味だよ。あとは『友人としてうれしい』『わたしは誇らしい』」
「じゃあ、これは?」
「他の言葉でなんていえばいいんだい…… 『感動的だ』『心が揺さぶられる』『はじめての親しみを感じる』」
「こっちは?」
「『カッコいい』、いや、違うな、他になんて言えばいいのか……」
 あれはこれだし、それはどれだし。文字では表記不可能なニュアンスなんて、言葉にはいくらでも存在するだろう。けれどもわたしにも薄々分かってくる。音声言語ではコミュニケーションのほとんどが耳で聞く音声で成立している。
 つまり、相手の体にも自分の体にもいっさい接触することなしに、言語が成立している。
『接触語ですね』
 パーロットが、サイナー特有の冷静さで答えた。
『フィガロにもありますが、霆語での方がずっと発達している言語ニュアンスの一部です。主に感情表現のために用いられます』
 今度のざわめきは、さっきとはずいぶんと種類の違うものだった。
 たしかに、感情を表現する言葉はどの言語においても多彩であり、その言語特有で翻訳不可能のものも珍しくはない。ただ接触語自体は誰だって使う。普通にある。そもそも一番最初に赤ん坊が言葉を覚えるとき、母親の乳をつかんで『ママ』と呼ぶ、その最初の一言がなければいったいどうやって言語を取得すればよいというのか。……そもそも、音声言語圏の赤ん坊は、どうやって言語を取得できるというのだろう?
「スパロウ。君たちの言葉だと、赤ん坊は一番最初になんて言葉をおぼえるんだい?」
「なんだい、いきなり。……それは、人によるよ。最初に名前を呼んでほしいと思うのはお父さんもお母さんも一緒だし、かと思ったらどこでおぼえたのかわからないことをいう赤ん坊も多いし」
「悪いね、これから君に触るよ。わたしたちの言葉ではこれが、赤子のいう『ママ』っていう意味だ」
 できるだけそっと触ったつもりだ。どうやらフィガロ語には接触語がほとんどないらしいので。
 けれども、わたしにひらたい胸をつかまれたスパロウは、それでも、なんともいいがたいものすごい顔になった。
「ちなみにこれが『おっぱい』で、これが『パパ』になる」
「……うん。なんとなくわかった。これは、言語の発達に由来する問題でもあるんだ。きみたちの言葉だと接触語に感情表現がより多いのは、乳児の時代から取得するものが多いからだ」
 そこまで断言できるかどうかは、わからないけれども。
「ぼくたちの星では、相手の体を触る行為はあんまり一般的じゃないんだよ」
「でも、握手をしたり、抱き合ったりしているところを見たことはあるけれど」
「それは例外的なもので―――」
 わたしはさすがに気が遠くなりかける。このままだと決別だ。やっぱり異星人と理解しあうというのは簡単にできることじゃないんだ。それをいうのだったら、おなじ霆の住人であってさえ、国が、年齢や地位が違えば、分かり合うもへったくれもないじゃないか。その上、時に隔てられてすでに一万年。言葉も何もここまで隔たってしまった相手と、分かり合えという方が無理なんだ。
 けれど。
『では、「愛している」とはどう言いますか』
 無感情で、無感覚な、機械的な声が聞こえる。
 パーロットがそこにいる。薄紫色の硝子のような目、耳も聞こえず話すこともできないフィガロ人。
『私には、あなたたちの話は等しくわかりません。サイナーは感情を伝えることに適していません。ですが』
 パーロットは手を上げる。自分の右の手のひらのくぼみに逆の手の指を三本あてて、握りしめる。
『霆の言葉ではこれを『愛している』というそうです』
 いちばん単純な言葉だ。誰でも知っている、なんでもない言葉だ。
 たとえば、家で飼っている鳥のことを愛しているだとか、おさない弟を愛しているだとか、演劇を愛しているだとか、そういった意味合いの。
『ですが、感情を表す言葉は、とても数が多い。そして、言葉にしてもけして伝わらない。同じ脳波を神経細胞に感じたとしても、神経謬の発達の構造そのものが誰一人として同じでないかぎり、おなじ感情を持つことはできない』
 言葉には限界があります、と彼女は繰り返した。
『限界があるから、おしえてください』
「―――そう、限界があるからこそ、『伝えよう』とする行為そのものの中にだけ、相互理解が存在しうるんです。分かり合うということは、現象です。結果じゃない」
 まるで柊の言葉は、パーロットの言葉の足らなさを補おうとするかのようだった。サイナーの不完全さ、と私は思う。完全にお互いに理解することができるニュアンスだけを伝えるから、サイナーは錯覚を生み出してしまう。内容さえ伝えれば、すべてが伝わったことだと思い込ませてしまう。それで十分な時も、むろん、あるだろう。けれども。
「君はわたしのすべて、とは言うな」
 最初に、誰かが唸るような声で言った。さっき皆の前で歌を披露してくれた彼だった。目線で促されたのは管楽器の奏者。彼もしばらく考えた後、ためらいがちに言う。
「可愛い人、っていう表現もあるよね。単なる『可愛い』じゃなくて、『私のかわいい人』とか、そういう使い方をする」
 おずおずと手を挙げたのは、隅の方で話を聞いていたフィガロ人らしい一人だった。らしい、と言ったのは、彼女の髪の色が周りと違い、オレンジ色に近い色合いをしていたから。
「私の国の言い回しだと、『目に入れても痛くない』というものがあります。自分の子どもやペットに使うような表現なんですけれど」
 そのあとは、思い出した言葉を皆が口々に言い始めた。
「僕の国だと『私よりも10分だけ長生きしてほしい』っていう言い回しをしていたよ」
「劇なんかだと『ここで死にたい』というのもあったな。幸せの絶頂でそう言うんだ」
「『あの人がここにいればいいのに』なんていうのは文脈に由来してるんじゃないかな。逆に『あなたがいない』っていうのも文脈によっては『愛してる』だ」
「『食べちゃいたい』はよく言わない?」
「慣用表現だと『あなたは私のオレンジの半分』という表現もある」
 次々と出てくる言葉、そのどれもが知らないものばかり。たったひとつの意味を、これだけの言い回しで表現することができるのかというものばかり。
 どうして愛する人がいるのに死にたいと思うのだろう。子どもは目には入らないだろう? 食べてしまいたい、だけはすこし分かる。ごく親しい仲だったら、相手の体のどこかをかるくかじることはよくある。ただし食いちぎるほど力を込めて噛むわけじゃない。
 そのとき、誰かがトントンと背中を指でつつく。見知らぬフィガロ人だ。どこかひかえめな様子で、「あなた方の言葉では、どういいますか?」と尋ねる。
「できれば、肘から先で済む内容のもので知りたいんですけど」
 彼女はCODAを差していないから、純粋に仕草としてしかわからないはずだ。わたしは思わず破顔した。
「スパロウ、翻訳を頼むよ。だったら、私だけじゃなく皆に聞いた方がいいね。他にも声をかけるから、どこからどこまでなら触れていいか教えてくれないかな? いろいろな言い回しがあるんだ」
「なんでそこでぼくを呼ぶのかなあ…… でも、同じことを聞きたい人は多いんじゃないかな? ちょっとそのあたりでボーっとしてる霆の人にも声をかけてくれないか」
 同じことを考えたのは、わたしたちだけではなかったらしい。
 誰かが大声で怒鳴る。「おい、手が空いてるやつ全員に声かけてこい! あと踊れる奴と歌える奴と楽器ができるやつ! とりあえず全員呼んでこい!!」

 

 何故、愛の言葉だったのか。
「だってぼくたち、お互いに生き残ってきたわけじゃないか、一万年も」
 それだけ生き延びようとする執念が強かったってことだよ、とスパロウは言う。
「虫だろうが鳥だろうが魚だろうが、みんな同じじゃないか。ぷーぷー鳴いてるとこを見かけたら、相手を威嚇しているか、発情してるかのどっちかに決まってる。だから言語がどれだけ分岐しようとその概念は残っていた、ってことなんじゃないかな」
 だとしても、あれだけ大騒ぎをする必要はなかったと思うのだけれど。
 手が空いているやつが覗きに来て、交代が入ったやつは悔しがりながら代わりのやつを送り込んできて、途中からはいったい誰が持ち込んだのか、美味いものに酒、歌に踊り。お気に入りの劇の筋を熱弁しているものもいれば、その隣には自分の星にしかいないと思われる生き物の繁殖行動について熱心に語っているやつもいた。そしてわたしとスパロウはというと、自分の話をしている暇なんてほとんどなかった。
 わたしとスパロウだけでなく、CODAを差している者たちは、ほとんど全員がそうだった。

「なぜわざわざCODAを開発しなければいけなかったのか、ようやくわかったような気がするよ。結局わたしたちは皆、予想していたよりもずっと相手のことが気になっていたのだねえ」
 必要なことを伝えることと、おしゃべりをするということは、まったく別のことだ。今夜のばか騒ぎにしたって、話がお互いにどこまで通じていたのかはあやしいところだろう。ただ皆それぞれ手を振り回し、声を張り上げ、目を見張り、耳を澄まして、それぞれがそれぞれの話に熱中していた。わたしの話をしたいし、あなたの話を聞きたい。そうして話がいつまでも尽きないぐらい、わたしたちは異なっている。だから楽しい。
「ぼく、今日はじめて気づいたんだけどさ。パーロットには今まで、自分の言葉がなかったんじゃないかな? 彼女、柊の共同研究者だろう。だから柊も早々にそのことに気づいていて、『言葉』を学ぶことにあれだけ執着してたんじゃないか」
「ああ、そういえば、彼女は――― 耳が聞こえない」
「そう。そういう人はべつに珍しくない。パーロットみたいにサイナーを差して、それで問題なく生活できているんだと思っていたんだ。でもきみ、ぼくに聞いたよね。もし一番はじめに母親の乳に触れるときに言葉を学ぶんじゃなければ、いったいどうやって言語を習得するのかって。どの段階で彼女がサイナーを差したのかは知らないけれど、口語ベースの言葉をそとから『押し付けられている』ことは間違いないんじゃないかなって思ったんだ。そうだとしたら……」
「彼女が自分の言葉として使ってみせたのは、霆語の方だったね。おそらく彼女には根本的に音声言語が向いていないんだ。でもそのことに今まで誰も気づいていなかった。パーロットが自力で取得して、使うことができる言語に出会ったことがなかったから。サイナーはたしかに対話のために過不足ないだけの機能を備えてる。でもそれ以上の余計な言葉は含まれていない。……知らない言葉の概念は『存在しない』か」
 たぶん柊がCODAに執着した理由のひとつがそこだったのだろう。視覚言語と音声言語の間には、互換不可能な概念が大量に存在している。『愛している』ただ一つをとっても、お互いに知らない表現があれほど大量に存在していたとは予想外だった。しかもそのどれもが、少しづつ意味が違う。わたしたちはまだ出会ったばかりで、言葉よりも優先すべきものが大量にあり、CODAが躓かせてくれなかったら『わたしたちはどれだけおたがいのことを知らないか』にすら、気づきそこなっていたかもしれない。
 それにしても、とわたしはさっきまでの騒ぎを思い出す。
「多分、霆の連中はみんな驚いているだろうね。きみたちがあんなに騒がしくなれるなんて想像もしていなかったし、あれだけ詩人揃いだなんて思ってもみなかっただろうから」
「たしかにきみたちから見たら、ぼくたちはみんな棒立ちで口だけパクパクさせてるようにみえるかもしれないけどさ。その口をパクパク程度でずっと今までお互い仲良くしたり騙しあったり結束したり裏切ったり、まあ、とにかく色々してきたんだよ。その分表現力豊かにもなる……」
 言いかけて、立ち止まる。なんだろうとわたしは振り返る。スパロウはなんとも形容のしがたい顔をしていた。
「そのう、楠。さっき君たちと、『愛』を意味する表現がお互いの言語でどんなものがあるかって話をしていたわけだけど」
「ああ、そうだね? もしかしたら、まだ続けている連中もいるかもしれないけれど」
「ひとつ気になったんだけど、君たちのほうの表現が不自然に少なかったように思えるんだよ。でもその前に、僕たちの方だと、こう」
 そういって、スパロウは指先から肘にかけてを指でなぞる。それから頬と、ひたいの一部。
 ここならば触ってもいい、と限定されていた部位だ。
「ここ以外を触ってもいいなら、もっと他にもいろんな表現がありうるってことなのかい?」
「そりゃあ、そうだよ」
 だって愛情表現だ。一番最初、生まれた時に、素っ裸の赤ん坊を親兄弟が抱えるところからはじまるようなたぐいの表現だ。
 接触語はたしかにより私的な内容、情緒的な部分に属する内容が多い。おそらく視覚言語には音声言語でいうところの『ひそひそ話』がない、というところを補っているのだという部分も大きいのだろう。声量さえ絞れば対話する相手を限定できるというのは、音声言語のおおきな特性のひとつだ。
「でも、きみたちは体に触られることを好まないんだろう?」
「嫌だよ! そりゃあ、君とは恋人でもなんでもないんだし。……けど、やっぱり気になるじゃないか。体のどの程度の部分まで触れる表現が存在するんだい」
「待ってくれ。きみたちの世界では、誰かに体を触らせるっていうのは、恋人関係でもなければ成立しないようなものなのかい?」
「えっ? 恋人関係じゃなくても…… いや、そうか。キスはしてたな。じゃあ、どの程度の関係でどこまで触れるような関係が成立してるんだい? たとえば、その…… ぼくと程度の距離感だったら?」
 わたしたちはお互いに顔を見合わせた。
 なんだか話が双方にとって非常にデリケートな部分に踏み込んでいるらしいということにはさすがに気づいた。
 だが、このチャンスを逃したら、もう二度と、肘から先以上の突っ込んだ話ができるとは思えなかった。そうしてスパロウ以外に、このあたりの話に踏み込んでくれる相手も、踏み込ませていい相手もいるとは思えなかった。わたしにだって羞恥心ぐらいある。スパロウは本心からわたしたちの言葉を知りたがっているようだが、あまり親しくもない相手に伝えるのははばかられる言葉というのはいくらだってあるものだろう。
 思うに、彼らの心は見えないもので、触れられないものなのだ。だから無数の言葉を連ねてどうにか心に触れようとする。わたしたちの心は、指先にまでいっぱいに詰まっている。彼らが心に言葉で触れるように、私たちはお互いの心にはお互いの指で触れあうものなのだから。
「ええと」
 こういうときにどういう言い方をすればいいのかさっぱり分からなかったし、なんだか超えてはいけない一線を越えてようとしてしまっているような気もしてならなかったが。
「もうすこし話がしたいのだったら、ひとまず、わたしの部屋に来るかい?」
 どれぐらいの接触までなら、感染症の危険を考えなくていいだろうか、とわたしは考える。そこまでして伝わりもしない接触語をスパロウに伝える意味があるのだろうかと思わなくもないけれど、わたしの『ことば』をスパロウがどう感じるのかと思うと、正直なところ、期待と好奇心がおさえられそうにない。

 わたしたちは、相互理解を望んでいるのだ。
 

作中詩:『シカゴ詩集』(カール・サンドバーク 安藤一郎訳)

文字数:26476

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