いずれ助詞系女子

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梗 概

いずれ助詞系女子

 実希と知里のは大学2年で同じ一軒家を間借りするルームメイト同士。ある日、知里は実希の目の前で大型トラックに轢かれて即死する。友人の死を嘆くのもつかの間、その日の夜、実希が牛乳を電子レンジで温めていると、牛乳の表面に張った膜に奇妙なくぼみができ、だんだん人間の唇そっくりになる。今度は家にある中で一番大きな器にサランラップを張り、中に牛乳を入れてレンジで温めるとラップの表面に知里にそっくりの顔が浮かび上がる。その口は4桁の数字を繰り返す。翌日、実希は銀行のATMに行ってその数字が知里の口座の暗証番号だと確認。その顔が彼女であると確信する。

 知里の葬式の帰り、実希は彼女の恋人だった高橋に「知里は実は生きている」と告げ、家に招き電子レンジを見せる。高橋は「趣味の悪いいたずらだ」だと激昂し、出て行く。数日後、高橋が大学の学食で知里の友人に悪趣味ないたずらをされたと友人に話しているのを木村という学生が立ち聞きする。理学部の学生だった木村は元々発明好きの子どもで小学生の頃に小さなコンテストを取り、もてはやされて国立大の理学部に入ったが、カリキュラムに馴染めず授業をサボりがちだった。

 木村は実希を特定し、彼女とコンタクトを取る。実希は怪しみながらも彼に電子レンジを見せる。翌週、木村は電池式でサランラップに微量のマイクロ波を流す装置を作って持参。しかし、木村の装置に知里の顔は映らない。二人は、実希の家の電子レンジにかけたサランラップだけに知里が宿ることを発見する。そこで、捨てずに溜めておいた、今までに使ったありったけのサランラップを全てつなぎ合わせて巨大なスクリーンを作り出す。マイクロ波を流すとラップの枚数と同じ人数の知里が現れ、合体と分裂を繰り返す。木村は「何がどうなっているのか、彼女に聞こう」と告げる。

 木村は無線LANを改造して、サランラップに「降霊」させた知里と通話ができる装置を開発。実希は近所の飲食店で知里の両親と待ち合わせる。ラップの表面に知里が現れ、知里の母は半信半疑ながらも涙を流す。しかし、ラップの表面に次々とゾウやキリンといった動物が姿を現し、果物の形をしたものが降り、最後に阿修羅のような複数の顔と腕を持つ怪物が現れる。店にいた他の客が写真に収めてSNS上に拡散する。実希らは急いで会合を中断して帰宅する。拡散された映像が話題を集め、オカルト研究者やメディアが彼女に取材を持ちかける。

 知里は実希に自分が今いる場所について語る。いわゆる死後の世界とは違うようだ。彼女は小さな電気信号として存在し、そこでは信号同士が海のような場所に漂い、絶えずより大きな近くの電気信号の「潮目」に吸い込まれようとしている。電気信号には人間も、動物も、物も、無形の概念もあり、「ニホンオオカミ」や「足利尊氏」や「ヘアアイロン」や「確定申告」がいる。有名であれば強い潮目であるかといえばそうでもなく、思いの強いもの、むしろ強い思い込みの源が権力を持つので、「スナック菓子のCMソング」とか「独り言の止まらないホームレス」といったものが潮目の中心になる。

 そこで最も強い潮目は「に」や「を」や「は」のような助詞だそうだ。知里は「私もいつか助詞に吸い込まれそう。カーナビは『次の角を右折します』って言うけど、自動運転は『次の角を右折しますね』って言うでしょ。そのとき助詞の「ね」一つで運転手が人間から機械に交代する。助詞になるなら「ね」がいいな」と言ってそのまま交信が途切れる。

 実希はサランラップの表面に女子の「に」を降ろすことに成功し、ラップ越しに「に」に包まれることはなんとも形容しがたい幸福感を作り出すことを発見する。木村はSNSでの拡散を契機に、客に「助詞」との交流を体験できるビジネスを始める。実希は夜な夜な木村の店でラップを使い、助詞の「ね」を探し、知里と再会を果たそうとする。

文字数:1600

内容に関するアピール

幽霊がもしも存在するのであれば、肉体というハードを離れて電気信号のパターンだけで存在するなにかであるだろうというのが着想源です。電子レンジに降臨した亡くなった友人の幽霊というのを通して、電子レンジと、サランラップと、もしくは信号だけで存在するなにかの世界との交流を描きます。転じて、幽霊が電気信号であるならば、電気信号でさえあれば人間でなくとも霊になる。何かにまつわる記憶の束であれば「霊」のように存在できると考えました。その電気信号の世界では私たちが普段一番よく使う言葉こそが漂う電気信号の海の中で潮目を作り、より強い「霊体」を作り出しているのではないでしょうか。そのように漂う「霊」たちとのコンタクトの可能性について試みます。

文字数:315

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いずれ助詞系女子

 1

レジスターの前では思いも寄らぬことに思いをはせるものだ。ある7月の水曜日の午後、佐久間恭子は4月に始めたばかりのバイト先、百貨店の地下のスーパーで商品と商品との会計の間にその日の朝のことを思い出していた。

 寝苦しいのと喉が渇いたので目が醒めると恭子は自分の部屋を出て両親を起こさないようにキッチンに進み、冷蔵庫の中に牛乳がないのを確認すると、家を出て自宅のすぐ前にある平成31年8月に完了と表示されたもしかしたら永遠に終わらないかもしれない工事現場に沿って西にまっすぐ行ってまず最初にぶつかる交差点を渡った先にあるコンビニで目当てのブランドのパック牛乳を購入した。レジの奥の時計は午前4時を指していた。店を出て、帰りの横断歩道の前で信号機が青になるのを待っていると、交差点の斜向かいにカートを押すおばあさんが信号待ちをして立っている。恭子が帰るのとは別の向きの信号機が青に変わるとおばあさんは道路を渡り始めるが、決してまた信号機が赤に戻る前までに渡りきれない。それでも変わらない速度でカートは進み続ける。すると今度は、おばあさんに向かって北のほうから軽トラが、ものすごくゆっくり走ってきて、このままだとおばあさんにぶつかる速度と方角なのだが、さすがにそれだけ遅ければ少なくとも車のほうは避けることはできるだろうと恭子は思う。しかし、運転手が酒に酔っているのか半分眠りながら運転しているのか、軽トラはたらたらと進み、おばあさんにぶつかる。おばあさんはまるでそういう形のおもちゃみたいに、カートを押す形のまま横転する。事故はあまりにゆっくりと起きたので、全く深刻な事態には感じられず、恭子はそれを何かの予兆だと思った。

 今思い返してみると、その後どうやって家に帰ったのか全く思い出せなかった。そこで記憶はぷっつりと途切れていた。なぜだろうか。そこで一人で驚いている彼女の前にどさっ、と何本ものサランラップが置かれる。誰がこんなものをまとめ買いするんだろう、と思って顔を見る。意志の強そうなくっきりした眉、くりっとした丸い眼、よく筋の通った鼻には見覚えがある。

「実希。」

「恭子、ここで働いてるの?」

「そうそう。4月から。いつ帰ってきたの?」

「先週。」

「夏休み?」

「それもある。いろいろあってさ。ねえ、恭子、これ何時に終わんの?」

「17時半。」

「それから暇?」

「割と。」

「うち、来なよ。」

「まあ、考えとくわ。」

「つれんなあ。」

「さみしがるなよ。終わったらラインするからさ。携帯、変わっとらん?」

「携帯は変わったけど、ラインのアカウントは変わっとらん。」

「はいはい。」

 結局、サランラップは27本あった。実希がレジの前で一万円札を数えるのがおかしくて、二人で笑うのをこらえた。恭子はすぐに仕事に戻る。

「次の方、こちらどうぞ。」

 恭子はバイトが終わるとすぐに実希に連絡して、まっすぐ彼女の実家に向かった。高校3年間、クラスが同じだった二人。当時は毎日一緒に過ごしていたのに、実希が都内の私立大に、恭子が地元の国公立にそれぞれ受かって通うようになってからはお互いにほとんど連絡を取っていなかった。

2

 恭子は百貨店の裏の従業員用駐輪場に停めてある、本当は母親の錆だらけの青いママチャリに乗るとで建物の正面に回って、駅前のロータリーから西に伸びている通りに沿ってまっすぐ進んでいく。その辺りは一階に外食チェーンか本屋、コンビニ、銀行のATM、二階より上は歯医者か学習塾の入った貸しビルが並び、そのままペダルを漕いで右手に最初に見えるガソリンスタンドの横を通り過ぎた後でもう一つ右の通りに逸れるとすぐに住宅地に入る。少し曲がりくねった坂を登った後、一階がガレージになった3階建てのコンクリートの建物、実希の実家が見えてくる。

 ガレージの左半分だけが開いて、中ではキャンプ用の椅子に腰掛けた実希がサングラスをしたまま、昨日、割ってしまった小皿の比較的大きな破片を灰皿がわりにしてタバコをふかしている。彼女の口からふぃーっ、と吹き出され、夕陽に照らされた煙はまるで、その身体の窮屈さから抜け出した魂のように自由。家の前に、きーっ、と音を立てて自転車は止まり、恭子はタバコの匂いに鼻をむずむずさせる。

「タバコ吸うの? いつから?」と訊ねる。

「嫌なら、やらないからいいよ。自転車こっち。」

 ガレージの奥に自転車を止めると、二人は店に電話をしてビールとピザとシーザーサラダを注文して配達してもらう。

 

 実希の話はこうだ。彼女は大学に受かったとき四谷三丁目にアパートを借りて一人暮らしをするつもりになっていたのに、入学前の3月、入学手続きで大学に行ったときに渡されたチラシで知って来てみた軽音サークルの新入生歓迎飲み会が全く面白くないので、面白くないよね、と言って意気投合した鉤爪のような鼻に、黒縁の細いメガネがかかった知里というほとんど笑わない同級生の女の子と飲み会を抜け出して、受験とか好きな映画とか音楽とかの話をして気がつくと打ち解けていた。知里が代田橋に借りた家賃12万の部屋に「友達と住む予定だったんだけど、そいつが彼氏と同棲するって言い始めてさ。今、新しい同居人募集中。」と言うのを聞いて、その日は最後、夜の公園で酔っ払って取っ組み合うくらい仲良くなった二人は四月からルームシェアを始めた。

 そうして二人の楽しく怠惰な共同生活はいつまでも続くはずだった。

 今年の3月。夜中に牛乳を買いに行くと言って家を出た後、知里は信号機のない交差点を曲がってきた貨物トラックに轢かれて亡くなる。

 一方美希は、彼女が忘れていった財布を届けようと家を出た後で、近所の交差点に救急車とパトカーが集まっているのに気がつく。「何かあったんですか」と彼女が近づくと、美希はとっさに、もしやと思って、警察官に「一緒に住んでる友達が帰って来ないんです。私くらいの歳の女です。」と言うと、救急車の中に案内され、病院に向かう直前のまだ「重体」と診断されていた知里の身元確認を求められる。そのまま彼女は病院まで、同行。そこで医師が正式に彼女が死んだと承認する。実希は、その日の晩に血糖値が上がって自分で救急車を呼んだおじいさん以外には誰もいない深夜の待合室で、担当の警察官からいろいろと聞かれたはずだけれど、その内容は、何も思い出せないな、と言うと、

「そうか、大変だったね」と恭子が頭を撫でる。

「ビール、もう一杯飲む?」と実希が尋ねると、恭子は、

「もうないよ。」

「中に親のがある。あと、ちょっと寒い。」

「ピザ、余ってるんですけど。」

「持っていく。」

 外は十分暗くなっていたので、ガレージの中でLEDのランタンを点けて夜の住宅街に光を漏らしている彼女たちを横目に、ジャージに着替えたランニング中のサラリーマンが家の前を走り去って行く。恭子が、

「痩せたいんかな。」と言うと、実希は口を押さえて笑いを堪えながら、恭子をばんばん叩き、食べ物と飲み物を片付けて電気を消し、シャッターを閉め、二階の玄関に上がる。

 実希の実家には電子レンジが2台あった。コンロの上のガラス戸棚からフグの刺身でも並べられるような巨大な皿を取り出すとそこに牛乳を入れて、サランラップで包み、そこで恭子が「さっきのやつ」と言い、二つのうち小さい方のレンジに入れて温め始める。実希が、

「こっち来て」と言って、言われた通りに寄ってきた恭子に指示を出すように少し高い位置からレンジの中のラップフィルムの表面を指差す。恭子はその指と同じ角度に目線を揃えてラップフィルムの表面を覗く。

 すると、表面には楕円形の突起が出来上がり、一見中に入った空気がぼこぼこと膨らんでいるだけにも見えるがしばらく見ているとそこだけ固まって膨らみ続けていることがわかる。もう少し見ていると楕円に細かいシワが刻まれ、回りながら直径の長い方に合わせて中央を貫く裂け目ができて割れ、ぱくぱくと動き始める。まさにその動きがぱくぱくと形容するのに相応わしい感じなのですぐにそれが口だとわかる。続いて「口」の割れ目と垂直方向にまっすぐの稜線が浮き出て、根元が丸みを帯びて歪んだ三角錐になる。口の上に穴が二つ開いてそれが穴だとわかる。口とは反対側の鼻の付け根にはほとんど左右対称の楕円が出来て、楕円の鼻側に長い毛がさざ波立って生え揃い、反対側の少し離れたところにはもじゃもじゃと短い毛が群生する。そして二つの楕円の表面が、まるで同時に表面の薄皮が一枚剥がれるように鼻側から反対に向かって一筋ずつの波を立ててめくれ上がると、それは瞼が持ち上がったのだとわかる。出来上がった眉と睫毛と目と鼻と口、恭子や実希と同じくらいかやや年長の女性の顔は一度、水面に潜るようにラップフィルムの表面から一度沈んで消えてなくなり、眼鏡をかけた状態でもう一度浮かび上がる。そのしっかりした鼻筋にかかった梁と横長の二つのフレームは眼鏡以外の他の名前では呼びようのない代物だった。

恭子が「実希ちゃん、これはなんなのかな。」と訊くと実希は「さっき話した、胤井知里さんです。」と答えた。

 実希が初めて、ラップフィルムの表面に知里を発見したのは知里が事故に遭った日の晩だった。もう、どうやって帰ったかは覚えていないが、家に帰ってシャワーを浴びて着替えて布団に入っても、なんとなく眠りにつけなくて、冷蔵庫にあった牛乳をマグカップに入れて砂糖を混ぜてラップで包んで、温めて飲もうとした。すると、例の唇の部分がラップフィルムの部分に出来上がるので、気味が悪くて、レンジを止めて一度それを捨てて、今度はラップフィルムなしで牛乳を温めた。すると今度はマグカップの中身が、電子レンジの中で全てぶちまけられてしまったので、一度中を掃除して、もう一度ラップフィルムで表面を包んで同じものを作った。その頃には夜も明けかけていて、実希の頭も疲労と寝不足でだいぶ混乱して判断力が鈍ってきており、時間が経ってもいつまでも回り続けるマグカップとその表面の突起のことを特に気にせず眺め続けた。突起は「口」で、「口」は何かを口ずさんでいた。

「1」「2」「0」「9」

「1」「2」「0」「9」

「1」「2」「0」「9」

気が着くと、実希も同じ数字の組みを繰り返していた。あら、私、なんでこの数字を知ってるのかしら?

 結局それは、知里の母親の誕生日で、その母親が作った知里の銀行口座の番号だった。一銭も持たずにコンビニに牛乳を買いに行った知里に届けるはずだった財布がまだ自分の鞄の中に入ったままだと思い出した実希は朝一で、ATMで銀行から知里の預金をおろしてきて、同時にそのラップフィルムの表面の何かが知里であると確信し、そのお金は今そこに大事に隠してあると今ここで押入れを指差して恭子にも報告し、警察にもちゃんと行って、眠たい目をシバシバさせながら、もう事件性がないとわかってそれほど切羽詰まった感じでもなくなった警察の残りの取り調べを受けて、午後はゆっくり寝て、夕方には知里の父親を迎えて彼女の私物を片付けた。父親にはラップフィルムのことは言わなかったが、取り立てて会話のない気の重くなるような荷造りだった。知里の母親は、ショックで寝込んでここまで来られないとのことだった。翌日が通夜だと言っていた。

 なんとなく気乗りしなくて実希は知里の通夜にも葬式にも出なかった。その代わり、葬式が終わったのを見計らって、式場に来ていた高橋を待ち伏せた。理学部で同学年の高橋は、生前の知里の恋人だった。何度も会ったことがあるはずなのに、きっと知里のいないところで会うのが初めてだから、実希は久しぶりに会う彼の顔をこいつこんな顔をしていたのかとまじまじと見てしまった。同級生の女の子たちが高橋をイケメンと言って、半分ふざけてちやほやするのを見たことがあったけど、身長が185cmもあるのに、ニキビひとつないつやつやの白い肌に長い睫毛の生えた目をぱちぱちさせる高橋は子どもが竹馬に乗ってるみたいだった。

「中里さん、なんで今日来なかったの?」

 実希の名字を呼んだ高橋の質問に実希はまったく答えず、彼の腕を引いて知里のいなくなった自宅に連れ込んだ。

 実希は電子レンジで回るラップフィルムの表面に浮かび上がる知里の顔を高橋に見せた。知里の顔を誰か他人に見せるのはそれが初めてだった。高橋はしばらくじっとそれを見た後、低い声で「帰る。」と言って立ち去ろうとした。実希は彼を玄関で引き止め、「私のこと、頭おかしいと思ってるでしょ。でもね、あれは知里だから。ちゃんと見てって。」

「中里さん、友達が亡くなって辛いのはわかるよ。でもさ、ていうか俺だって辛いんだよ。ねえ、だからせめてこんな悪ふざけってないんじゃないかな。はっきり言って最低だと思うよ。それか、本気であれが知里だと思ってるか、こんなんで俺が喜ぶと思ってるんなら、病院行ったほうがいいから。」

 というところまで話したところで恭子の携帯に恭子の母親から電話がかかってきた。時刻は23時30分を回っていた。実希は「帰らなきゃ、ね。」と言った。恭子は「電話出てくるね。」と言って立ち上がった。

 電気の付いていない廊下で恭子の話す声が聞こえた。恭子の母親は、中里さんのおうちにもご迷惑がかかるでしょ、と言い、恭子は、実希の両親は3週間もノルウェーに旅行に行って帰って来ないの、今ごろ同世代の大人と一緒に山小屋に篭ってクマになるまでワインとサーモンを頬張っている、と言い、なにそれ、いらっしゃらないからって迷惑がかからないわけじゃないでしょ、と言い、わかってる、もう帰るから大丈夫、いいよ迎えなんか、と言ってしばらくして電話が切れる。

 15分くらいして、すぐ近くに暮らしている恭子の母親が軽自動車に乗って彼女を迎えにくる。別れ際に、

「次来るなら明後日がいいよ」

 と言う実希には今まで見たことのないような影があったような気がしたと、恭子は思った。母親の車に乗って、母親が、こんな遅くまで何話すの? と聞くのを上の空で聞き流しながら、恭子はあの大きな家に実希を一人残してきたことが心配になった。

3

 2日後の14時。実希が指定したその時期の一番暑い時間帯にちゃんと恭子はちゃんと彼女の自宅を訪ねた。にもかかわらず、そこに実希本人の姿はなかった。

 膝の高さくらいまで下げられていたガレージのシャッターをガラガラとあげて、日傘をたたみながら中に入ると柱のようなものを組み立てている「子ども」がいた。天井の蛍光灯を灯したガレージの中で「He is a Risktaker, I am a great peanuts butter maker」と書かれた水色のTシャツを着た短パンを穿いて、コンバースのスニーカーを履いた、身長150cmくらいの「子ども」が何かプラスチック製のカメラの脚立のもっと太くて長い、3mくらいあるやつみたいなのを組み立てていた。恭子は一瞬、状況が掴めず「え?」と声を漏らす。「子ども」は全く無駄のない動作でしゃがんだ状態から立ち上がると、声変わり前の男の子みたいな声で「中里実希さんの、お知り合いの方ですか」と訊いた。

「はい。佐久間恭子です。そちらは?」と訊き返すと、相手は、

「木村奈緒と言います。」と答えた。

 「子ども」は奈緒と言い、女の子で縁のない銀縁の丸メガネをしていて、実希の大学の工学部に通う一年後輩だった。つまり、実希と恭子とは一つしか年齢が変わらないだけだ。

 15年前。木村奈緒は、3歳の頃にシングルマザーの母親が新興宗教にはまって育児放棄し、児童相談所に預けられた後、特別養子縁組で大学職員をしていた当時53歳の木村秀子氏の養女となった。

 彼女の勤め先の国立大学に40代の研究者としてはまずまずの成果を残しているが、人とコミュニケーションを取るとなる極端に高圧的にか、挙動不審にしか話せない数学者の鶴田教授という人がいて、彼は熱心に大学の事務局に通い詰めて木村氏をいつも食事に誘っては断られていた。堪り兼ねた鶴田教授は、彼女が大学の託児所に奈緒を預けていること、木村秀子が独身で、奈緒は血縁のない養子であることを知ると、彼女に自作のパズルを与えて気を引き始めた。奈緒はそれを通じて偶然、数学の目覚ましい才能を発揮し、小学生になると手近な家電製品を勝手に分解したり、拾ってきたもので何かを作ったりするようになり、中学に上がる頃には大学院に行って研究職に就きたいと思うようになっていた。しかし、すでに定年を迎えようとしていた秀子に、奈緒を研究者にするのはおろか彼女を大学に進学させるだけの蓄えもなく、2人は途方に暮れていた。

 そこで奈緒は鶴田氏の懇意で彼が教える大学の入学試験を受け、優秀な成績で合格。奨学金を得て専門教育を受ける機会を獲得した。しかし、鶴田のゼミには馴染めず、入学するとすぐに寮から大学に通うのをやめてしまい、生協の本屋と食堂に通うのだけが日課になっていた。奈緒はある日、食堂で奇妙な話を耳にした。

 最近、交通事故で恋人をなくしたハンドボール部の高橋という男が、亡くなった恋人のルームメイトから嫌がらせを受けたと、チームメイトたちに話をしていた。そのルームメイトの女は、一緒に暮らしていたはずの友人の葬儀にも姿を見せず、葬儀の帰り際に高橋を待ち伏せて、自分と高橋の恋人が暮らしていた自宅に彼を連れ込んだ。そこまで、話したところでチームメイトの中で一番下品な奴が、

「で、ヤったの?」と聞き、一番良識のあるのが後ろからそいつの後頭部を叩いた。

 高橋はそこで、女が突然冷蔵庫から牛乳を出して、大きな皿に注ぎ、興奮気味に「よく見ててね」と言い、電子レンジに入れて温めは始めた。二人はオレンジ色の光に照らされて回る皿に目を凝らした。恭子は、

「それ、実希のこと?」と言った。奈緒は、

「そういうことになりますね。実希さんの話を聞いたのはそのときが初めてでした。今年の4月の終わり頃です。」

 その後のことは、恭子も知っていた。ラップフィルムの上に知里の顔が浮かび上がり、高橋は怒って家を出て行く。

 生協の食堂でその話を聞いた奈緒はまっすぐその自分の1.5倍くらいの大きさの体つきをした男たちの真ん中に歩いて入って行って、高橋に、

「その女の人は今、どこにいるんですか?」と訊いた。男たちはぎょっとして、全員黙った。彼らは奈緒を侮ってからかったが、高橋は彼女に実希の自宅の住所を教えた。

 突然、実希の自宅を訪れた奈緒は彼女に、

「サランラップの幽霊のことを教えてください。」と言った。

 どうしてそのことをこの子が知っているのだろう。そもそもこの子は誰なんだ、と実希は一瞬思ったが、ラップフィルムのことは高橋にしか話していないので話が漏れるなら彼からしか考えられず、どういうつもりか知らないがこんな子どもをけしかけてくるなんて、ふざけてからかっているのはどっちだよ、と腹が立って玄関の鍵を開けた。

 すると次の瞬間、待ちかまえていた奈緒は実希の部屋に飛び込み、1982年にワシントンに住む清掃作業員の恋人と電子レンジで通信していたら感電死したニューメキシコの女性や、1997年に強姦殺人にあった妹の幽霊を電子レンジに降霊させて裁判の証人にしようとした母親の話や、電子レンジを神殿に奉る中国の少数民族の話をした。

 奈緒によれば、最近の脳科学の研究によって意識や長期の記憶を貯蔵する器官が人間の脳には備わっていないことがわかっており、意識とはその都度脳内で「上演」される電気信号のパターンでしかないのだという。私たちが人格とか同一性だと思っているものはそうしたパターンの偏向とか癖でしかない。つまゆ、心や人格とはプラズマのような電気信号のパターンなのだ。彼女はそれは音楽の「曲」のようなものだと言った。しかしその「曲」は聴覚だけでなく、あらゆる五感を奏でることができるのだ。

 電子レンジの中に浮かび上がる知里の顔を初めて見たとき、奈緒は思わず感嘆の叫び声をあげた。実希はそのことが嬉しくて、彼女に自宅を出入りすることをすぐに許した。

 それから数日間、実希はすぐにでもその家を引き払おうと荷造りを始めたが、奈緒はその横でいくつかの発見をした。

 まず、実希の持っている電子レンジであれば他の家のコンセントやアース線を利用しても知里を降霊させることはできた。しかし、実希の家で他の電子レンジや他の電子機器を使って知里を降霊させようとしてもうまくいかなかった。

 次に一度、知里が降霊したラップフィルムを別の電子レンジにかけても知里を降霊することはできた。これを利用して、奈緒は2m四方のプラスチックのフレーム内部に電線を通し、フレーム内に張ったラップフィルムのスクリーンを温める装置を作った。それに、一度電子レンジで知里を降霊させたラップフィルムを貼り付けて家庭用の電源とアース線につないで稼働させた。するといつもと同じようにラップフィルムの上に知里の唇、鼻、目が浮かび上がるが、顔が出来上がると今度はそれが引っ込んで手が出たり足が出たりして、最終的には綿のスウェットにスニーカー、薄手のパーカーを身につけた、あの夜に買い物に行って事故にあったときと同じ格好の知里が再現された。恭子は、感心して、

「へー、奈緒ちゃんすごいね。」

「実希さんはもう少し感情込めて言ってくれましたけどね。」

「悪かったね。で、これがそれなの?」と目の前にあるガレージの部品を指差した。

「いや、もっとすごいやつ。恭子さん、組み立てるの手伝ってくださいよ。」

「いいよ。」

 奈緒に言われた通りに組み立てていくと、今度は正方形のスクリーンではなく、自立した立方体が組み上がった。そこから伸びたアース線とコンセントをガレージに繋ごうとして奈緒は配電盤を開いて、いじり始めた。恭子が驚いて、

「おいおいおい」と言った。

「どうかしましたか。」

「それ、免許とかがいるやつでしょ。」

「実希さんの許可はとってます。」

「そういう問題じゃないと思うんだけど。」

17時頃になってやっと実希が帰ってくる。夕立が降り始めていた。実希は緑と紺色の柄の新品のレインコートを着ている。濡れて表面がツヤツヤに光っていたそれを脱ぐ実希に恭子は、

「やっと来た。どこ行ってたの?」と訊いた。

「ちょっと買い物など。奈緒ちゃん、やってる?」

「今から始めるところです。」

「ね、奈緒ちゃん面白いでしょ。」

「まあ、いいけど、事前にもう少し説明しておいてほしかったですね。」と恭子は不平を言った。

 次の瞬間、立方体の中で何かがばちばちと音を立てて中にプラズマの青い光が光り始めた。青い光は次第に線になり、しばらく線を作ろうとしては消えてを繰り返した。その間、配電盤のところで奈緒は何かを調整するみたいに、立方体の中を確認しながら配線をいじり続けていた。たまにそこから白い火花が出るので恭子は心配になった。やがて、立方体の中の青白い線は知里の輪郭を描き出し、あの電子レンジで見たような見覚えのある顔に、長い髪を後ろで束ね、薄手のパーカーに綿のスウェットを穿いて、スニーカーを履いていた。奈緒が言った通りの姿だった。

奈緒「像が安定したのでここで固定します。」

実希「奈緒ちゃんすごい。」

 彼女は辺りを彷徨って歩いているようだったが、私たちの方を向いても反応を示さず、音や光は彼女のところにはとどいていないようだった。

恭子「奈緒ちゃん、知里さんにはこちらのことは見えてないの?」

奈緒「なんとも言えないですが、これは電気信号なので、身体のない魂みたいなものだと私は思ってます。つまり、網膜とか鼓膜がないから私たちがするようには感覚というものが扱えないんじゃないでしょうか。」

実希「じゃあ、知里とは話せないの?」

奈緒「そうですね。」

恭子「じゃあさ、これは知里のイメージみたいなことなんだよね。私たちは今テレパシーみたいなものを見てるんだよね。」

奈緒「テレパシーというか、知里さんの剥き出しの脳の中に入ってしまった感じになりますね。」

実希「キモいな。」

奈緒「……。この家、いらないLANケーブルのモデムとかってあります?」

実希「奈緒ちゃんが今、いるところの後ろに倉庫があるから、その中にもしかしたらあるかも。」

 二人はガレージの奥の収納扉を開けて、その奥にある透明なプラスチックの箱の中身をごそごそとやり、奈緒は目当てのものを見つけると、立方体につなぎはじめた。

奈緒「時間かかりそうなんでご飯行くなら、行ってもいいですよ。」

 実希はもう少し、知里のことを見ていたそうにしていたので、恭子は自転車で勤務先のスーパーに適当にお惣菜と飲み物を買いに行き、帰ってきて、実希とそれを食べた。奈緒の分もあって、「冷めちゃうよ」と声をかけたが、彼女は一心不乱に作業をしていた。食事が終わって実希と恭子はうとうとし始めたが、その間もホログラムみたいな知里がずっとそこにいた。22時くらいに奈緒が、実希と恭子をあるライングループに招待し、グループには3人以外に「+/$@+0」というアカウントが入っていた。参加するとその見知らぬアカウントから、長文の怪文書みたいなものが送られてきた。疲れきった様子で、奈緒が「今日はここまでですかね。」と言った。実希は「奈緒ちゃん、炒飯あるよ。」と声をかけ、一度自宅に上がって、知里が出ないほうのレンジでそれをチンして持ってきた。奈緒は「ありがとうございます。」と言って食べ始めたが、箸を口に運びながらすぐに遊び疲れた子どもみたいに、ぐったりと眠ってしまった。

 異変はその後に起きて、立方体の中に知里と同じ見た目の何かが急にあと2人現れ、5人、8人とだんだん増えていった。今度は親指大くらいの小さな知里の人だかりや、立方体に収まりきらない巨大な知里のスニーカーとかが現れ始め、収集がつかなくなった。実希と恭子は奈緒を起こそうとしたが、彼女は朝まで起きず、一体何が起きているのか誰にもわからなかった。しかし、その知里たちは立方体の中から出てくることもなければ触れることもできないので大した害はなく、最終的に2人はコンセントを抜いて電源を落とすことにした。

4

 「+/$@+0」とは「tisato」、つまり知里のことなのだ。だから申し訳ないとは思いつつも、毎日その奈緒が作ったライングループに彼女から長文の暗号が送られてくるのは中々鬱陶しいので、恭子はグループラインの通知を切っていた。

 それは亡くなった同世代の女の子のこの世とのかすかな靭帯かもしれなかったが、実希や奈緒と離れて冷静に考えてみれば、単なる狂信的な、オカルトの、悪趣味の遊びかもしれないとも思えた。そもそも奈緒だって知里さんには会ったことがないのだ。なんであんなに熱心なんだろう。ちょっと器用な発明好きの女の子が、友達を亡くしたばかりの私の友達の弱みに付け込んで、からかっているのかもしれないし、そうだとしたら許せないと恭子はだんだん腹さえ立ってきた。

 その日の夜、駅前のサイゼリヤで、また実希と奈緒とに会うことになっていた。昼間には、奈緒に、これってふざけてやってるわけじゃないよね、と一度ガツンと訊いてやるべきだと思っていたが、午後からのバイトをしているうちに、恭子はまたあの早朝のおばあさんが軽トラにぶつかった事故のことを考えていて、あれは本当にあったことではないかもしれないけれど、どうしても自分には本当にあったことのように思える。もしかしたら、本当かどうかよりも信じられるかどうかのほうが大事なのかもしれない。なぜなら、自分の周りには思ったよりも信頼のできないことが多すぎるからだ。信じられるということ自体が稀有で幸福なのだ、と思うようになり、バイトを終えて、歩いて駅前のロータリーに面した雑居ビルの3階と4階にあるサイゼリヤに入り、4階の窓際の喫煙席で2人してタバコを吸いながらドリンクバーを飲んでいる、実希と奈緒を見つけた。2人は不良の中学生みたいだった。補導員にいたずらを見つかった子どもみたいに悪びれて、恭子のほうを見返している。

奈緒「恭子さん、座りますか。」

恭子「座る。」

実希「ごめん、禁煙席に移る?」

恭子「いいよ。ここで。」

奈緒「あ、すみません。」と奈緒は手元の喫いかけタバコを見て、灰皿に押し付けて消した。

実希「なんかごめん。」

恭子「いいよ。どうぞご自由に。」

奈緒「今、実希さんと話してたんですけど、今朝のラインの件なんですが、」

恭子「今朝の? 見てないかも。」

 恭子は慌てて例のライングループを見返した。今朝の4時から5時半くらいにかけて、「+/$@+0」と実希が会話をしていた。

+/$@+0「っっっkkk/chan」

+/$@+0「っっっkkk/chan」

+/$@+0「っっっkkk/chan」

+/$@+0「っっっkkk/chan」

+/$@+0「っっっkkk/chan」

+/$@+0「mっっっkkk/chan」

+/$@+0「m/っっっkkk/chan」

+/$@+0「m/っkkk/chan」

+/$@+0「m/k/chan」

実希「知里?」

+/$@+0「$00oだvo」

実希「本当に、知里? 証明できる?」

 その後に「+/$@+0」から送られてきた長文は読めそうで読めない暗号文で、少なくとも恭子にも実希にもお手上げ状態だった。奈緒が作った解析用の暗号表を経るとそれは、以下のようなことを言っていた。

 これが証明になるのかどうかわからないけど、1年生の7月に実希が一時期結構いい感じになりかけてて、もう半分好きだったっていう橘っていうバイト先のバーの先輩のバーテンダーが、実は別の女子大に本命の彼女がいて、しょっちゅういろんな女の子にちょっかいかけてるのを知って、私が一度、そうしてみるように勧めた通りに実希がバイトの後に橘の跡をつけて行ったら四ツ谷から中央線に乗って吉祥寺で降りて、そこで知らない女の人と待ち合わせてその女のアパートに入って行って今、気持ちがぐちゃぐちゃだからここまで迎えに来てって私に電話がかかってきて、30分後くらいに吉祥寺駅の地下の飲食店街のベンチで動けなくなってる実希ちゃん見つけて、駅前のカラオケでそのままオールしたっていう話をしていた。

 長い時間をかけて奈緒が翻訳し終えると、実希の元に興奮が遅れてやってきて、時限爆弾が破裂したみたいにどっ、と笑い始めて、店員から注意を受けた。そんなふうに、笑う実希をはじめて見たので、恭子ももうこれが嘘でも本当でもなんでもいいや、という気になった。

 改めて、グループラインに実希が、

「わかった。信じるよ。」と返信すると、

「@LEE峩+0o」と返ってきた。

実希「今、どこにいるの?」

+/$@+0「d0coh樽oo? 膿?」

実希「海?」

+/$@+0「UHん」

実希「元気?」

+/$@+0「gu#海キ佳奈?」

と、しばらく他愛のないやりとりをした。

「+/$@+0」によると、そこは水中のような上下も左右もない場所だった。電気信号のパターンである、彼女はそこに浮かんでいるという。そこには彼女のような電気信号が他にもたくさんあって、彼女と同じように亡くなった人間らしきものもいれば、動物や植物もあり、蝉の大群を見たこともあった。そうした電気信号はなにも生き物だけではなく、廃盤になったゲームソフトや、家電や、CMのキャッチコピーや、刑法の条項もあった。電気信号は眠ったり、何かを食べたりしなくても生きていける。それが生きているという状態だと本当に言えるかどうかは置いておいても、とにかくその状態を持続はできるようだ。しかし、信号同士には強弱関係があり、例えば「徳川秀忠」よりも「ハインリヒ・マン」は強く、「ラピスラズリ」よりも「クリスチャン・ディオール」は強く、「メタンハイドレート」よりも「おいしい生活」は強く、「日光東照宮」よりも「サンキュッパ」は強いのだ。そして弱い信号は強い信号に吸い込まれる。知里のいる場所は「州」によって、区分分けされており、その州で一番強い信号は「潮目」と呼ばれ、海の中に文字通り潮目となる渦を作り出して周囲のものを吸い込んでしまうのだという。彼女がいる「ロッシュの限界」という州では「多い日も安心」という名前の巨大な黒いヤギがいて、それが潮目なのだという。

 店を出て実希たちと別れた後、自宅に帰って眠った後に、恭子は夢を見た。彼女は真夜中のだだっ広い海岸を歩いていた。砂浜の砂は湿り気が多く、歩き続けないと足をとらわれてしまうので彼女は歩き続ける他なかった。海岸線の遠くのほうから青白いまっすぐな光線が周囲を照らしながら回転しているので、どこかに灯台があるのだろう。彼女はなぜか、その光に自分は照らされないようにと逃げていた。砂浜の遠くのほうから何かがこちらに向かって歩いてくるのに気がついた。それは真っ黒で巨大なキリンだった。そのキリンはきっと普通のキリンよりもひと回り大きかった。恭子はキリンに見つかるまいと海岸線を歩き続けた。きっとそのキリンこそが「多い日も安心」なのだ。油断すれば自分はすぐにその「多い日も安心」に吸い込まれてしまう。そう確信した瞬間に目が覚めた。

 次の週の金曜の夜、実希は恭子に今すぐ来てほしいと電話をしてきて、自分が今いる館山の飲食店の話をした。今すぐと言われても1時間以上はかかると言うと、それでもいいから来てほしいと言われ、急いで駆けつけると、テラス付きのお洒落な洋食屋さんに人だかりができていて、人だかりの中心には実希とあの立方体の装置があった。恭子が到着したとき、立方体は青白い無数の光を放ち、点滅し、すぐにそのまま大人しく光らなくなり、同時に人だかりが散らけていった。恭子は実希を見つけて、声をかけた。

「ちょっと、よくわかんないんだけど、とりあえず一緒にこれを担いで、あんたの家まで帰ればいいかな?」

「うん。本っ当、ごめん。あとで順番に説明する。」2人は、とりあえずそれを店の外に運び出した。会計はもう済まされていた。2人は、夏でもそこそこ冷たい海風が吹く、海岸沿いの道路の舗道で立方体の装置を片付けた。実希は店に一度戻り、大柄な料理人らしき男になんども頭を下げて謝っていた。男は大きな口を開けて笑っていた。それから2人は荷物を担いで、電車に乗って自宅に帰った。電車の中で、実希は途切れ途切れにその日にあったことを話した。

  知里の両親に知里を会わせようと最初に提案したのは奈緒だった。もしこれが本当に価値があることなら私たち以外の人にも見せるべきだ、と奈緒は言った。それは発明家としての自意識だったのかもしれない。実希は結局彼女に同意し、「信じていただけるかわからないけれど、私たちは知里と何らかのコミュニケーションを取れる状態にあります。もしも信じてくださるなら、私の実家に一度来ていただきたい。冷やかしではありません。私たちは確かに同じかけがえのない人を失いました。」と、手紙を書いた。

 後日、知里の父親から電話がかかってきて、「一度、お会いしたい。」と言われた。知里の父親は、実希の自宅を訪れ、電子レンジとサランラップと奈緒についての大方のあらましを聞くと、例の立方体のスクリーンと対面し、ラインで知里と話せるように奈緒にセットしてもらった。その頃には奈緒がラインのバグを改善して、「+/$@+0」ではなく、「知里」と名前が表記され、ほとんど乱れのない日本語で会話できるようになっていた。知里は確かにそこにいた。実希は知里の父親に、別に信じてもらえるとは思っていないけれど、私たちはここで今起きていることについて大真面目で、迷ったけれど、胤井さんには知らせたほうがよいことだと思ったので、お呼びした、と伝えた。

 その日は何時間経っても立方体の中にあのパーカーにスウェットのただ一人の知里しか現れなかった。

 知里の父親は何十分か、うんうん、と唸った後、煮え切らない顔をして「ありがとう」とだけ彼女たちに伝えてその日は帰った。数日後、知里の父親からまた電話がかかってきて、彼らの自宅の近所の館山で会うことは出来ないか尋ねた。奈緒は、モバイルバッテリーを改造したので、アース線さえ確保できれば可能だと答え、胤井夫妻の友人が経営する近所のトラットリアで会食することになった。

 予定が決まると、奈緒は極端に長いアース線と、延長コード、予備のバッテリーを揃えてきて、あまりにも準備がいいので知里は驚いていた。この頃、奈緒は立方体のスクリーンフレームに細かなマイナーチェンジを加えるようになり、この知里をめぐる一連の流れに何か自分の楽しみというか、目的のようなものを見出しつつあるようだった。実希には、そんな奈緒が何を考えているのかわからなくなることが最近増えてきて、それがたまに怖くなることもあったが、もう奈緒なしではなにも立ち行かないところまで来ていた。

 当日、2人は電車を乗り継いで館山を訪れた。少し早めに現地に着いたこともあって、建物が大きく、背が低く、土地が広く、人通りの少ないその場所は2人を開放的な気分にした。

 胤井夫妻の指定した店は、海沿いのテラス付きのちょっと大きめの海の家みたいな建物の二階にあり、店は閉まっており、入口のドアを叩くと、若い実希たちと同い年くらいの女性が出てきて、胤井夫妻の知人だと説明すると、女性は奥に向かって芯の通っていない声で「店長」と叫び、白衣の背の高い大男がやってきて、「中里さん?」と聞いてきた。そうだと答えると彼は2人を店の奥に案内した。夜の部の開店までまだ少し時間はあるが、先に入って準備しても良いとのことだった。2人は案内された一番奥のテラス席に案内され、そこに立方体のスクリーンフレームを設営した。先に出てきた若い女性の店員や、海沿いを歩く人が時折彼女たちのことをちらちら見たが、とりたてて訝しがることはなかった。店長はその後、胤井夫妻がどんなふうに説明したのかわからないが、実希たちに何も尋ねて来なかった。

 実希は知里にラインをして、館山に着いて、設営も終わったので、一度スクリーンを起動すると伝えた。海沿いのイタリアンだと、伝えると「鈴木さん家か」と、知っているふうだった。「と、言っても私からはなんも見えんのだけどね。」とまた、通知が届いた。こうして普通にメッセージが届くようになると、知里は本当にまだどこかで生きているようにさえ思えるので、実希は感傷に浸りたくなった。潮風のせいかもしれない。立方体のスクリーンフレームを起動してもしなくても知里のいる世界にはなんの変化も起きないのだという。知里からはすぐに返事が届くこともあれば、何日も音沙汰がないこともあり、かと思うとときにはものすごい長文が送られてくることもあった。設営と、投影のチェックが終わる頃、店長が2mくらいの高さの間仕切りを持ってきて、「良かったら使って。」と言っていなくなった。日が暮れ始め、店内のテーブル一つ一つに置かれたガラスの中の蝋燭全てに火が灯され、開店の準備が整った。

 開店後、最初の客が来るまでの間に、奈緒が急に「私は帰る。」と言って、一人でもできる撤収の手順を説明し始めた。実希が動揺して理由を聞くと、彼女は急に子どもみたいにもじもじし始めて、「だって胤井さんの奥さんは多分、私に会いたくないと思う。」と言い始めた。しばらく、ちゃんと納得できる理由を説明するか、夜まで一緒に止まるかするように実希が求めたが、奈緒は結局逃げるようにして帰った。奈緒が帰り際に、立方体のスクリーンフレームを客席から隠す間仕切りを取り去ったことに実希は気がつかなかった。

 それからあまり時間が経たずに、胤井夫妻がやってきた。知里の母親は目が大きく、鼻と顎が小さく、背が低くてとてもおとなしかった。知里には全く似ていなかった。知里の骨格は完全に父親譲りだった。

 その日は、父親がほとんど全てを取り仕切り、適当にメニューを決めて注文すると、実希とのこれまでのやりとりについて細かく奥さんに説明し始めた。彼女はほとんど表情を変えず、小さな声でひくひく頷き、運ばれてきた料理を少しずつ口に運ぶだけでまったく喋らなかった。

 旦那が「それじゃ、」と言って合図を出したのをきっかけに、立方体に実希が触り電源を入れて、それが光り始めると、胤井夫人はかっ、と目を見開いた。そこからは実希にはもうお馴染みの光景だった。身体の部位が少しずつそこに現れ、最後に例の格好の知里の全体像結ばれる。写真や動画ではなく、知里は確かにそこにいて瞬きをして、なにかを探していた。

 実希は知里にラインを送った。

「電源点けたよ。お父さんとお母さん、来てる。」

知里「どっち向き?」

 知里からは実希たちのことは見えないが、通話と同時に彼女の姿をこうしてそこに降ろすことはできる。最近、それをやると「雰囲気を出すために」と言って知里は実希たちの方を向こうとしてくれる。そのときに、知里はいつもなにかを探るように手を出して、自分の体の向きを調整するようになった。今日もそうだ。実希は知里にラインで指示を出した。

「回れ右して」

「右」

「右」

「もっと右」

「あ、行き過ぎ」

「戻りすぎ」

「もうちょいだけ左」

「そこ!!」

 位置が決まると知里は両親に向かって恐る恐る手を振った。動く彼女を見ると、胤井夫人は声を出さずにどっと涙を流した。それを見て、感激した旦那のほうも思わず妻を固く抱きしめ、おいおい泣いた。

 何人かの客が、異変に気付き彼女たちのほうをちらちら見た。実希はこちらの様子を知里に報告した。

「お父さんもお母さんもめっちゃ泣いてる。」

「喜んでるよ。」

「よかった。実希、ありがとう。本当に。」

「こっちからも見えたらいいんだけど」

知里は少し涙を流しながら、一層強く手を振った。

 しかし、その時間は長くは続かなかった。

 知里の像はアイスクリームが水に溶けるみたいに突然、べちゃんと潰れた。その瞬間、胤井夫人の顔から表情が消えた。

 立方体の中で知里は、サイズの合わないズボンをずり上げるみたいに自分の体をこぼれないように押さえたが、今度は立方体の中に槍が降ってきて彼女を襲い、槍のうちの一本が巨大なハクトウワシに変わって彼女を連れ去った。次には、下から業務用の巨大な冷蔵庫がせり上がってきて、冷凍室が開くと中では小さなドラァグ・クイーンが誕生日パーティーを開いており、左のほうからやってきた遣隋使が、下の冷蔵室を開いて中から手品みたいに知里を引き摺り出した。しかし、奥から駆けてきた巨大なバイキンマンが、片手でその冷蔵庫を掴むとこちらに向かって思いっきり放り投げ、冷蔵庫は立方体の手前の部分で消え、バイキンマンはゴリラみたいにドラミングをして吠えたかと思うと巨大な高額納税者に変わっり、マセラッティに乗って走り去った。あとは立方体の中に蛾の大群だけかま残された。

 胤井夫人はパニックを起こして耳を塞ぎながら叫び回るので、夫は彼女を抱え込んで落ち着かせようとした。異変に気が付いた店中の客が集まってきて、中には写真を取り出す者もいた。すぐに店長がやってきて、「店の前にタクシーを呼んだ。」と胤井氏に声をかけると、「本当に申し訳ない。全部私のせいだ。あの子を責めるな。」と、言ったので店長が実希のほうを見た。実希は「胤井さん、私、こんなつもりじゃ、こんなこと、だって、ごめんなさい、ああ、どうしたらいいか。」と取り乱した。胤井氏は実希の肩をがっ、と掴んで「今日はありがとう。私も妻も来てよかったと本心では思ってる。リスクを冒してくれてありがとう。落ち着いたらまた話そう。そのとき、知里もいれたら、いいけど。じゃあ、ごめんな。」と、さよならの合図に手を上げて、もう片方の腕で泣き叫ぶ自分の妻を強引に引きずって、店を出て行った。今度は店長が、実希の肩を掴んで「なあ、怒ってないからよく聞け。君しか取り扱い方を知らない。なんとかしてくれ。」と言った。

 実希は慌てて電源を探したが見当たらなかった。アース線とコンセントを引き抜いたが、立方体の中の動きは収まらず、中に自立して稼働できる装置が入っているようだった。だから、その内蔵の電池が切れるまで数十分待たなければならなかった。

 恭子は「奈緒ちゃんなら、何かわかるかな。」と隣に座っている実希に訊いた。

 実希は「知らん。あいつ、あの後連絡付かんのだよ。」と言った。

 恭子は携帯電話をいじってSNSのタイムラインに流れてきた、その騒動を映したらしき動画を見つけた。そこには青白い電工に光る巨大なキリンが映っていた。

 電車の中で、二人は顔を見合わせて「多い日も安心」と口を揃えた。

5

それから、3人はしばらく顔を合わせなかった。8月の最後の日、グループラインに知里からとても長いメッセージが送られてきた。それは「ロッシュの限界 日誌」と題されていた。恭子が、それが知里が住んでいる「州」の名前であることを思い出すまでには少し時間がかかった。

「『ロッシュの限界 日誌』

 日の出のない、日没のない、温度のない、湿度のない、陸地のない、上のない、下のない、空腹のない、眠りのない、明日のない、昨日のない、前のない、後ろのない、右のない、左のない、あちらのない、こちらのない、向こう側のないここに来てからどれくらいの何が経ったのかはかる手段のない、ここに来てから私が初めて覚えたことは「留める」ということだった。それは同時に「送る」ということを覚えることでもあった。いや、むしろ「送る」は最初からできた。「送る」についてはもはや、今思うと恥ずかしいけれど垂れ流しの状態だった。正確には垂れ「送られ」っぱなしだった。今、実希ちゃんたちが読んでいるこれだって、私が送ると選んで送っている。でも反対に、私はここに書かれていないことも持っている。「書く」というよりは、「念じる」という感じに近いのだけど、というか私にはもう多分、その「念」の部分しかないのだけど、手も足も顔もないらというか必要ない状態になったけど、「これ」がきっとラインのメッセージという状態でそちらに届くのであれば、これは実希ちゃんたちには「書いてあること」になるんでしょ? でも、とにかく「これ」が全てではない。残りは私の側にちゃんと「留まって」いる。その「留まっている」部分がないと、「私」というのも多分、一緒になくなってしまう。今、私にはそれが「留まっ」ているとにかく、それがここに来て最初にできるようになったこと。

 ここは多分海みたいな場所なんだと思う。360度どちらにも広がる海。ここには呼吸もないので、窒息したりどこかに浮き上がることが必要になったりもしない。とにかくただ広がっている。

 ただ、ここは何かの場所ではあるみたい。その証拠にここには「州」というものがある。全部でいったいどれだけの州があるのかわからないけど、少なくともここは「ロッシュの限界」と呼ばれている。最初にそれを教えてくれたのは「使用済みコンドーム」だった。使用済みコンドームは、名前ほど汚らしいものでは決してない。むしろ平均より親切で、清潔で礼儀正しく、少し引っ込み思案だ。

 ここには時間が流れていないが、いろいろなことを知っているという点で使用済みコンドームは私よりもちょっとお姉さんだと言えるかもしれない。とにかく今思えば、使用済みコンドームに対して私は感謝することばかりで、悪口は一言も言えないような気さえする。

 私たちには時間が流れていないので、老いることもなく、もちろん死ぬこともないし、これが生きていると言える状態なのかどうかわからないけれど、この状態はこのままいつまでも続き続けるようだ。

 しかし、ここには「潮目」というものがあり、より大きな潮目に吸い込まれていつか消滅してしまうかもしれない、と最初に教えてくれたのも使用済みコンドームだった。それは巨大化した私たちと同じ種類の何かだった。生があるのかどうかもかなり危うい私たちにも、生態系のようなものがあり、より大きなものは比較的小さなものを吸収する。この広い海の中でそれは、そこに横たわる大きな渦「潮目」となって周りのものを吸い込んでしまう。

 ロッシュの限界では、巨大な潮目から身を守るために、いくつかの個体で組を作って防衛に努める習わしがあった。私たちは、私と使用済みコンドームと「足利尊氏」と「クイックルワイパー」と「吾輩は猫である名前はまだない」の五体で組を作った。私たちが初めて集まったとき、みんなで「ヘアアイロン」をした。こうして初めて会ったもの同士でヘアアイロンするのは、ここではよくあることだとクイックルワイパーが教えてくれた。

 私は皆に、じゃあみんなは、自分より小さななにかを吸い込んだことはあるのかと質問をしてみた。すると、足利尊氏が、一冊も本が売れなかった小説家を数人、誤って吸い込んでしまったことがあると告白した。吾輩は猫である名前はまだないは、そういう破廉恥な質問は人前ではしないものだと、私を咎めたが、そのときも使用済みコンドームが私をかばってくれた。この子はまだ慣れていないのだ、と。

 この辺で一番強力な潮目は、「多い日も安心」という巨大な黒いヤギだと吾輩は猫である名前はまだないが教えてくれた。吾輩は猫である名前はまだないは、一度だけ、多い日も安心の信号を直接キャッチしたことがあるのだという。その瞬間、凄まじい吐き気とともに、目眩が訪れ、すぐに気を失いそうになった。実際にその時、吾輩は猫である名前はまだないの隣にいた「そのとき歴史が動いた」は一瞬で、多い日も安心に吸い込まれた。吾輩は猫である名前はまだないは、多い日も安心に吸い込まれるそのとき歴史が動いたを見て、一気に我に帰り、なんとか思いとどまったのだと話した。気絶すればそのまま吸い込まれて消滅してしまう。隣で他の誰かが吸い込まれる恐怖感だけが我々を生かすのだと吾輩は猫である名前はまだないは力説した。

 そのとき私は悟った。誰かと組になるのは、自分が吸い込まれるときに差し出す身代わりを作るためなのだ。そんな話を誇らしげにするなんて、吾輩は猫である名前はまだないは酷いやつだと思った。

 それからしばらくか間も無くか流れることのない時間のうちに、使用済みコンドームは私を「池」に誘った。池には誰も知らない魚の学名がたくさん泳いでいて、それを吸い込むと喉ごしが潤うのだという。私は完全に自分がモテているとわかった。肉体があったときはそういうことを意識するのに抵抗があったが、今は素直にうれしい出来事として認識できた。それに使用済みコンドームは気さくなやつなので、好かれて嫌な気はしなかった。

 「池」に着いてみると、それが信号の流れていないスポットのことだとわかった。私にはむしろそれは「穴」であった。これは「穴」だと言うと、使用済みコンドームは「穴なわけがない。これは池だ。穴というのはもっとびっしょりしている。」と言い張るので初めて価値観の違いを感じた。

 けれども、池で誰も知らない魚の学名を吸い込むのは本当に楽しかった。しかし、突然池は消えた。私たちはその時点で気がつくべきだった。すぐ近くに多い日も安心がいたのだ。私たちは同時にそれに気がついた。そして次の瞬間には使用済みコンドームはこの世から消えてなくなっていた。

 きっとそのとき、涙があれば私はそれを流していた。実希ちゃんたちには私が涙を流すときの像というのが見えるときがあるかもしれない。でもそれはあくまでも私のイメージで意図的に見せているものにすぎない。肉体のない私の体に自然と流れる涙はもうないのだ。きっと肉体があれば私は涙を流していた。使用済みコンドームの自決はそのくらい悲しいことだった。

 そして、そのとき吸い込まれることはとても勇気のあることだとわかった。私をこの場所に「留め」続ける自意識とは結局、恐怖なのだ。勇気のある者から順番に滅びていくなんて、なんて残酷な世界だと堪らなく辛くなった。とにかく私は目の前から使用済みコンドームが消え去る強烈な恐怖によって生き延びた。

 使用済みコンドームの代わりに、組には「確定申告」が加入した。確定申告は使用済みコンドームよりもずっと価値がないように思えた。

 そう遠くない未来、クイックルワイパーが私たちの元にやってきて多い日も安心が終助詞の「ね」に吸い込まれたのだと報告した。疑り深い足利尊氏は、すぐには信用しなかったが、私にはクイックルワイパーが本当のことを言っているように思えた。この世界では助詞が最も強力であると教えてくれたのも使用済みコンドームだったっけ。

 私は終助詞の「ね」になりたいと願った。どうせなるなら、終助詞の「ね」なのだ。そこには同意を示すときの愛嬌と、念を押す時の力強さが溢れている。

 お父さんやお母さん、実希ちゃんたちには申し訳ないと思うけれど、これは私の自殺宣言になる。私はこのままではいられないし、このままで居続けることも決して良いこととは思えない。あの、トラックに轢かれて事故に遭った日に私は消滅するはずだった。それなのにこうして、なにかの形で生き延びてしまった。実希ちゃんたちが私にしてくれたことには感謝している。でもいつまでもは続かない。終わりは必ずくるのだ。次に会うことがあるとすれば私は終助詞の「ね」だ。今までありがとう。さようなら」

 それが知里からの最後のメッセージだった。

6

 9月の頭に久しぶりに奈緒からグループラインにメッセージが届く。「格助詞の『は』を見つけました。」とそこには書かれていた。

 恭子は返信せずにその日の夜に実希の実家を訪れた。ガレージにはランドクルーザーが止まっていて、もう彼女の両親は旅行先から、帰宅しているようだった。ガレージでは、狭いスペースで立方体を組み立てようとしている奈緒と実希が喧嘩をしていた。実希は奈緒に立方体を組み立てさせまいとしていた。

「ねえ、やめてって。」

「なんで止めるんですか。」

「知里のメッセージ見たでしょ? 知里はもう消滅したの。今更、こんなことやる必要もうないでしょ。」

「必要ないかもしんないけど、やったっていいでしょう。実希さん、知里さんを探したくないんですか。」

「なに言ってんの?」

「なにがですか。」

「白々しい。」

「なんなんですか。」

「私、知ってるから。奈緒ちゃん、西麻布で変なことしてるでしょ。これ使って商売してる。『これは格助詞の『に』です。』とか言って、高いお金取ってお客さん集めてるでしょ。」

「なに言ってるんですか。私はこの前、これで格助詞の『は』を見つけたんです。このまま続ければ知里さんも見つかるはず。次は終助詞です。」

「奈緒ちゃんさ、知里のことなんか最初からどうでもいいんじゃん。最初からそれ使って商売したかっただけでしょ。珍しいから面白半分で私のところに近づいてきただけでしょ。」

「ねえ、なんでそんなこと言うんですか。」

「もういいよ。帰って。それ、持ってっていいからさ、出てってよ。それから私の前に2度と現れないで。それももう2度と私に見せないで!」実希は叫びながら奈緒を強制的にそこから追い出した。それまで、実希は恭子がそこに来ていることに気がつかなかった。気がつくと、

「恭子」

 と、弱々しく言ってきたので、恭子は実希の手を握った。実希は、

「今日、もう一人お客さん、来るの。それまでにちゃんとしなきゃ。」と言った。

 数十分して、ガレージに白髪の中年男性が姿を現した。実希が恭子にその人は知里の父親だと教えた。実希は、実質の遺書である知里の「ロッシュの限界 日誌」を彼に転送していた。それからもう知里は前みたいにはサランラップに降霊できないこと、あの装置も今さっきなくなったことを彼に告げた。

 実希の母親がガレージで話している3人を家の中に招いて、人数分のマグカップを出して牛乳を入れて、ラップフィルムで包んで温めた。3人は電子レンジの中で回るそれに目を凝らしたが、中の空気が熱を帯びて膨張するだけだった。

 それを飲みながら最初に口を開いたのは知里の父親だった。彼は、中里さんには本当に感謝している。館山の件は私たちにとっても貴重な体験だった。あの日まで、自分はわかっているつもりで、わかっていなかった。娘はもう、とっくの昔に自分たちの手の届かないところに行ってしまったんだ、と話し始めた。本人は感謝していると言っていたが、それは自分に言い訳しているみたいだった。まだ誰もなんの踏ん切りも付いていないのだ。

 胤井さんが帰宅すると、実希は恭子の前でわんわん泣いた。彼女が泣き疲れて子どものように眠ってしまうと、実希の母親が「恭子ちゃん、ごめんね。あとはこっちでやっとくから。」と言われた。恭子は「お言葉に甘えて。」と言って、その家を出た。おばさんは「また遊びに来てね。」と、手を振った。

 翌年の12月。恭子は丸ノ内線の車両でダウンベストを着て、イヤホンをしたままスマホでゲームをしている奈緒を見つけた。

 彼女が、「よっ。」と声をかけると、奈緒は「あ、」とだけ言って耳からイヤホンを外した。

恭子「この後、暇?」

奈緒「恭子さんは?」

恭子「暇なら、見せてよ。格助詞の『は』」

 2人が降りたのは西麻布ではなく、中野だった。恭子は、JRの駅から10分くらい歩いたところにあるアパートの、使われていない地下駐車場に案内された。

「実希さん、お元気ですか?」

「知らなーい。全然会ってないわ。」

「そうですか。」

 駐車場には隅っこにミニバンが数台停めっぱなしになっていて、どれも上からビニールシートがかかっていた。ビニールシートの一つを取り外すと、例の懐かしい立方体の装置があった。

「奈緒ちゃん。これで信仰宗教みたいなことして儲けてるんでしょ。今度おごってよ。パフェおごって。」

「見せるのやめますよ。」

「ごめんごめん。嘘だよ。」

 奈緒は何も言わずに装置に電源を入れた。ラップフィルムの表面は薄っすらと光り出し、外に向かって柔らかく膨らんだ。

「はい。」

「何これ?」

「触ってください。」

「どこを?」

 奈緒は恭子の手首を掴んでひっぱり、彼女の掌にラップフィルムの表面を触らせた。すると、恭子はすぐにそれが格助詞の『は』だとわかった。それは格助詞の『は』以外の何ものでもなかった。私たちは普段からそれを使いすぎているせいでひとつひとつの助詞を個別に意識していないだけなのだ。しかし、私たちは思っている以上に助詞が何かを知っている。実はそれは発音するときにはその人の舌を伝い、書くときや打ち込むときにはその人の利き手を伝い、いちいち助詞とは何かという感覚をその人の身体になじませている。恭子は今、格助詞の『は』が持つ力強い主体性に圧倒されていた。普段私たちは助詞を使いすぎるせいで、それがそんなにも強力で身近だと誰も知らない。恭子はそれに触れている間、助詞に圧倒されるという、馴染み深くも新鮮な感覚にたちまち魅了された。

 ほんの数秒触っただけだが、手を離すと恭子はしばらく喋れなかった。落ち着くと、

「終助詞の『ね』は見つかったの?」

と、尋ねた。

「全然。」

 「そうか。」

「満足したなら、もうしまいますよ。本当はお金取りますからね。無料で触れるのは恭子さんと実希さんだけです。」

「稼いでるね。」

「たまたまです。」

「実希も来たの?」

「いいえ。一度も。」

 奈緒は恭子を地上まで送ると、もう一度、

「これで、満足ですか」と訊いた。

恭子は「割と。」と答えた。

 それから何年か経った。

恭子は大学を卒業して、宅地開発の会社に事務職で就職し、3年後に同じ部署で働いていた2歳上の男と結婚して、自由が丘に部屋を借りて住み、子どもが2人できた。

 2人目の子の育休中の日曜日に家族で訪れた立川のショッピングモールのフードコートのベンチに2人の子どもと一緒に座って、キャンプ用品を探しに行った旦那が戻ってくるのを待っていると、そこで数年ぶりに実希と再会した。実希は髪を短く切って、眼鏡をかけて、少し痩せていた。彼女は一年留年して大学を卒業した後、プログラマーになっていた。長く付き合っている恋人がいるので、もうすぐ結婚するかもしれないし、全然そんなことはないのかもしれないと話した。2人とも知里や奈緒のことは全く話題にしなかった。ほんの数分だけ、この数年にお互いの身の上に起きたことを話すと、恭子の旦那が戻ってきて、簡単に挨拶をして、すぐに別れた。

 フードコートから駐車場に歩くまでに、恭子はなんだか、これが何かの予兆であるような気がした。車のある場所に着いて、2人の子どもをチャイルドシートに乗せ終えたとき、上の子がフードコートにおもちゃを忘れてきたと言い始めた。旦那に取りに行ってくると伝えると、彼が「俺が行こうか?」と言うので、「いい。私しかわかんないから。車のやつ。」と言って、店舗のほうに戻って行った。

 店舗に着く前に彼女は車に轢かれた。シルバーの軽自動車だった。駐車場での事故なので車のスピードはほとんど出ておらず、大事には至らなかった。横転した彼女の元に運転手が駆け寄ってきて、「あー、大丈夫ですか。」と言って、彼女に意識があることがわかると、すぐに車に戻って車のエンジンを切り、携帯電話を取り出した。

「弱ったな。ちょっと待ってて下さいね。今、警察呼ぶんで。」

 一瞬だけ見えた男の顔に、恭子は確かに見覚えがあった。誰だっけ、と思って数秒して、それが一度だけ会ったことのある胤井知里の父親だと思い出した。恭子は、そこで電話をしている男に声をかけた。

「胤井さん、胤井さんですよ

『ね』

。」

 胤井が恭子のほうを振り向いた。

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文字数:25037

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