飲鴆止渇

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梗 概

飲鴆止渇

貧しい農村の暮らしから脱却するために金峰国軍に入ったヤウダ・ウェンは、自由市場主義と腐敗政治の一掃を求めて広場を占拠するデモ隊を追い払うために出動する。ウェンにはデモ隊の主張は理解できなかったが、年寄りを批判する威勢の良い若者をなんとなく応援したくなった。しかし、待機している彼らに軍に発砲命令が下る。ウェンは不思議に思って隣りにいたミ・カルルワに「撃つってなにを?」と尋ねた。

「空じゃないか? ほら、祭りのはじまりみたいに」

「ああ、祭りか。たしかに祭りみたいだな」

と、突然空を覆うほど大きなちん鳥にようなものがあらわれ、民衆の体を切り裂く。デモ隊も軍も逃げ惑って崩壊し、ウェンは鳥に腕を跳ね飛ばされる。

後でわかったことだが、この鳥は軍の新兵器であった。その兵器によって受けた傷は一見きれいであるが、じわじわと腐る。腐敗を止めるには政府の提供する治療と年に一度の輸血を受けなければならないのだが、輸血される血液の中にはマイクロボットが入っており、行動がすべて政府に筒抜けになってしまうのだった。こうしてデモは失敗に終わり、腕を失ったウェンは故郷に帰る。

自国民を薙ぎ払った政府は国際社会から非難を浴びるもその後急成長し、金峰国は世界有数の先進国となった。ウェンの故郷にも先進化の波が押し寄せる。国名の由来となった金峰山よりも高い摩天楼群は宇宙からも確認できるという。しかし国内は厳しい情報統制体制が続き、反政府的なことを口にするとすぐに逮捕される。政治は腐敗したまま、摩天楼の周辺には自然とスラムができ、貧富の二極化が進んでいた。一度は輸血をやめてみたウェンだが肉体が腐るつらさに耐えられず、今は厳しい監視を受け入れ、不自由な腕をかばいながら村で田畑を耕し、裕福ではないがそれなりに幸せに生活している。

スラムに買い物に行った彼はカルルワと会う。カルルワは最近反政府グループと接触して真実、、に目覚めたという。「牛になりたくないって一番言ってたのはお前じゃないか」とカルルワはウェンを誘う。ウェンは確かに牛になりたくなかった。だから軍に入った。軍に入れば学校に行けると聞いたからだ。そして本が読めるようになった。でも今は牛のように田畑で働いている。カルルワは若い頃のように「人間になるためには勤勉に働いて、腐敗した年寄りを改革しなくちゃいけない」と言う。しかしウェンは不思議に思った。どうして政府を打倒しようとするのに、そちらの岸にいたときと同じ言葉を使うのか? ウェンの問いにカルルワは答えられなかった。彼は苦労して「そうしなくちゃ捕まるんだ」と反論したが、ウェンはカルルワの誘いを断り、また村へ帰った。

文字数:1108

内容に関するアピール

飲鴆止渇とは鴆の毒が入った酒を飲んででものどの渇きを癒すこと、転じて後のことは何も考えずに目先の利益を得ることの喩えです。最近「八九六四」(KADOKAWA/安田峰俊)という素晴らしい天安門事件ルポ本を読んでそんなことを思ったので書きました。元ネタが元ネタなので金峰国という仮想の国を舞台にしています。

文字数:151

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飲鴆止活(いんちんしかつ)

   1

空が白く濁ると春がくる。金峰国きんぽうこくの首都、宝柳城ほうりゅうじょうの春である。
 小指の先ほどのかわいらしい黄色い花をつけた草が、白壁に色を添えている。内陸にある宝柳城ではめったに雨が降らないから、朝晩と道に水をまくのが住人のつとめだ。いま、ぬかるんだ道にはヤウダ・ウェンたちが通った跡がついている。重い革のブーツが濡れた土を踏み固め、前進する。
 まだ寒さの残る風に身をすくめ、ウェンはそっと指を握り込んだ。広場から聞こえる拡声器の声が路地の花を揺らし、彼らのそばを通り抜けている。若々しい、希望に満ちた声だ。確信に溢れる、熱い声だ。規則正しい靴音はその声を踏み潰そうとするが、声はひらりひらりと身を捩って逃げる。ウェンはそれをよいものだと思った。たぶん、きっといいものに違いない。なにを言っているのか理解できないが、みんなで声を揃えているのだから、きっとよいものなのだろう。
 宝柳城の議事堂前広場では民衆が腐敗政治の打倒を主とした政治改革を訴え、座り込みのデモ活動を行っている。似たような活動は各地にも広がっており、乱闘騒ぎの末に略奪と放火が行われた地域もあるそうだ。宝柳城でそんなことが起これば警察では対応しきれない。ということで、首都ではウェンたち金峰国軍がデモ隊の警備しているのである。
 おおよそほとんど、警備は楽で簡単な仕事だ。しかし民衆のなかのひとりかふたりが机の上によじ登って声を張り上げはじめると、きまってウェンは震えた。拡声器から飛び出す声は民衆の耳たぶをひっぱり、あるときは勇ましく、時に哀愁を持って、人々の心を掻き回す。力なく座り込んでいる民衆はその声が始まると勇気を取り戻し、立ち上がって声を揃えて叫び始める。声は高らかに鳴る靴音になって隊列をくむウェンたちの胸元に迫ってくるから、ウェンは恐怖を感じてぐっと腹に力を入れた。机の上から若者が去ると、民衆からは再び力が抜ける。彼らが座り込むとウェンはほっとする。ほっとすると、昼飯の時間だ。警備の仕事ではあたたかい野菜炒めと白飯にくわえ、ゆで卵と饅頭が出る。めいめい座り込んで飯を頬張りながら、彼らは何度も軍に入ってよかったなと話した。飯も食わせてくれるし、寝床は雨漏りしない。見ろよ、この卵。殻まで真っ白だぞ。すげぇな。そんな話をしている間も民衆は声を張り上げ、興奮して拳を突き上げていた。打倒せよ、打倒せよ、打倒せよ。彼らはなにを打倒したいのか?
 彼らの声は大きい。しかし言葉は難しい。例えば、「腐敗を打倒せよ」はよく使われるフレーズだ。腐敗とはなにか? 打倒とはぶち壊すことだ。しかしなぜ「腐敗」とやらをぶち壊したいのか? 「我々には健全な未来への責任がある」というのも多いフレーズだ。健全というのはだいたいちゃんとしていること、未来はこれからのこと、責任とは――よくわからない。仕事のことだろうか? ちゃんと仕事をしようと言っているのか? しかしそれなら、軍でもよく言われる。「勤勉に働け」というやつだ。勤勉は人民の火だ、高く掲げ前進せよ! 彼らは政府と対立しているはずなのだが、どうして同じことを言うのか?
 一度だけ、非番の日にウェンは議事堂前広場に足を運んだことがあった。広場にはテントが立ち、日陰に座り込んだ若者は食事をとったり水を飲んだりしている。その周りには若者だけでなく腹の出た中年の男や、誰かが連れてきたらしい子供や、世話を焼く女がいた。横断幕もたくさんかかっていて、賑やかで楽しそうだ。遠くから眺めていても民衆の熱気は感じられる。
「君も運動に参加しに来たのかい」
 スローガンを眺めていたウェンは、あやうく飛び上がりそうになった。声の主は、広場に足を半歩踏み入れて、薄い笑みとともにウェンをみている。口元に無精髭は生やしているが、目に痛いほど白い開襟シャツを身につけ、髪の毛を丁寧になでつけた若い男であった。メガネをかけているし色も白く、外国人のようだ。たぶん、ウェンには手の届かないところにいるエリートだろう。手にはいくつも袋を提げている。きっと広場の中に座り込む仲間に差し入れを持ってきたのだ。
「遠慮せずに入れば――ああ、君は」眼鏡の奥の目を細めて彼は笑った。「いつも隊列を組んでる兵隊さんか」
 ぎくりとしてウェイは手を握った。
 ウェンにはちっとも民衆の顔を覚えていなかった。彼らの上げる声や興奮や、なにかきらきらとした眩しさのようなものはわかるが、顔を思い出そうとしてもあるべき場所は空白だ。相手も同じようにウェンたちのことを見ているのかと思っていた。
「それじゃ中にというわけにはいかないな」
 男の声は不思議と優しい。声音を表すように目尻に少し皺がよっている。ウェンは小さくなって顎を引いた。裕福そうなこの若者と話をするのが許されるのかどうか、彼にはわからなかった。しかし勇気を振り絞ってウェンは、あのう、と声をひっぱりだした。
「腐敗っていうのはなんでしょうか」
 きょとんとした顔になった男は、しかしすぐに破顔一笑して胸をはった。ひょろりとした体型をした男であるが、そうやって胸をはると威厳がそこはかとなく漂う。ウェンとも歳がかわらないくらいなのに立派なものだ。彼は感心して腰をかがめ、頭を低くした。貧しい村で役人と話す時、彼も村の大人もみなそうしていた。だから無意識に体がそう動いた。
「腐敗っていうのは精神が堕落して悪がはびこっているということだ。これを国に置き換えると――」男の言葉はやはり難しい。ウェンは顎を引いて、一生懸命男の言葉を飲み込もうとしたが、なかなかうまくいかない。男は顎をそらし、とうとうと語っている。「端的にいえば、賄賂だ。たとえば職を得るにしても、学校に行くにしても、引っ越しをするのでさえ役人に賄賂を渡さなくちゃいけない。よい住居を得たかったらたくさん賄賂がいるし、よい学校に入るためにはもっとたくさん賄賂が必要だ。本来なら才覚を見極めなければならない職にも、金があるだけの愚かな者が居座って民衆を苦しめている。居座るだけでも許しがたいが、そういうは富をに還元しようなんて考えちゃない。還元するどころか上から押さえつけて、さらに搾り取る。一方貧民がをしようと思ったら、後ろ暗い道で富を収奪するか、もしくは軍に入るしかないだろう。軍隊の存在は僕もありがたいと思うがね、しかしそれ以外に方法がないのは明らかなる政治の怠慢だ。こんなことが許されてちゃいけない。君、出身は?」
 ウェンはじっと音に耳を傾けていたが、突然理解できる言葉が飛び込んできたのではっとして表情を引き締めた。
「えっと……山海郷の夕渓村です」
「山海郷! それはずいぶん遠くから……」
 ウェンは驚いた。山海郷は国名の由来でもある金峰山嶺の膝下にある小さな県である。聳立しゅうりつする山々の隙間には急峻な河がながれ、人間は僅かな平たい土地にしがみついている。夕渓村もその一つだ。山海郷で一番大きい街、玉魚洞へはかちに頼るほかない。さらに宝柳城まで行こうと思ったら、列車で五日以上の長旅になる。都会育ちの男が知っているような場所ではあるまい。
 口をあけて男は頭を軽く横に振った。
「どうして軍に?」
「あの」ウェンは必死で頭の中を探った。男のように難しい言葉を使えないものかと考えてみるが、ちっとも浮かばない。諦めて彼は彼の言葉を使った。「あの……飯が出るし……あと、勉強もできるから……」
「山海郷までいけば学校も少ないだろうに、君はすばらしいねぇ。実にすばらしい。勉学に励むのは良いことだ」
 ガツン、と頭の底に男の言葉がぶつかるような感覚があった。ウェンの驚愕をよそに男はにこにこと相好を崩して笑っている。それから二、三言、またよくわからない難しい言葉を吐いたかとおもうと、彼は短く挨拶をして辞去した。ウェンはしばらく放心していた。
 君はすばらしい。
 それは彼に初めて与えられた称賛であった。彼は有頂天になり、あわてて広場の前から走り去った。頭は真っ白で、足を動かしていなければ体が浮き上がってしまいそうだ。そのまま天に登ってしまわないよう、彼は宿舎の寝床に飛び込んで枕で頭を押さえた。ひととおり興奮が通り過ぎてからは、いままでにましていっそう読書に耽った。勉学に励むのは良いことだ。人民は勤勉でなければならない。勤勉はもっとも偉大な戦士だ。いかなる困難も越え、前進せよ。
 食堂前に積み重ねられた机の上で猫が隊列を見守っている。耳を立て、白い前足をちょんとそろえ、まるで広場から聞こえる言葉を傾聴しているようにもみえる。ウェンはまた先日の男の言葉を思い出した。勉学に励むのは良いことだ。故郷でウェンは学校に通えなかった。軍にはいってようやく文字を学ぶことができ、ウェンは本が好きになった。本を読めば新しい世界が見える。新しい世界の中でウェンはいつも腹いっぱいに飯を食って笑っている。泥の重さに歯を食いしばらなくていい。泥の中にいる彼は牛だった。しかし今の彼はひな鳥だ。新しい風に希望を膨らませ、空を仰ぐことができる。あの猫も広場の声をのか?
 と、その時である。
 列に号令がかかった。とまれの合図だ。猫のことを考えていたウェンはうっかり前の男の背嚢に突っ込みそうになったが、ぐっと足を踏ん張ってこらえた。すぐに隊形を横列に変更し、発砲の用意をせよとの命令がある。
 その日、二月十七日は除夕おおみそかであった。人民が無事に故郷に帰って新年を迎えられるよう、平和的に議事堂前から人を追い出すのが彼らの隊に与えられた使命であった。あらゆる路地を塞いで群衆を取り囲む網を作る。網に民衆がぶつかることもあるだろうが、驚かさないように。強固な網となり、民衆を漏らすな。穴ができれば人民はパニックになる。逃げ出す人民がいれば、そこから火が吹き出す。落ち着いて、命令を遂行せよ。
 銃を手にした途端、腹の奥底からじわじわと恐ろしさがこみあげ、ウェンは身震いをした。隣のミ・カルルワに肘で突かれたが、彼の震えは止まらない。数日前、南の別の都市でもデモ隊の追い出しがあったが、どこからともなく火炎瓶が投げ込まれ、それをきっかけに暴動が起こったそうだ。頭をレンガで殴られ昏倒した軍人もいたという。それを思い出してしまったのだ。
 鼻をならし、カルルワは大丈夫だよ、と言った。カルルワもウェンと同じく田舎から出てきた男であった。すぐに人の飯を盗み食いするのでしょっちゅう殴られているが、語り口に愛嬌があり、自信たっぷりなので、田舎からでてきた者たちはつい、カルルワを頼ってしまうのだった。ぎょろりとした大きな目を動かし、彼はビクビクすんなよ、と言った。あいつらだって無茶しねぇよ。どうせ爆竹を鳴らすくらいさ。爆竹で人を殺せるか? それにこっちには銃がある。銃なら人を殺せる。どっちが強いかなんてはっきりしてるじゃねぇか。
 ウェンは納得した。しかし腕はまだ震えている。肘の関節がガクガクと音をならし、少しも定まらない。変だぞ、と彼はカルルワに小声で訴えた。なんだか留め金が外れたみたいだ。ちょっと見てくれ。
 ばかいえ、留め金なんてどこにあるんだよ、とカルルワがぶっきらぼうに吐き出した時、机の上に座っていた猫がふと空を仰いだ。腰を持ち上げた猫は前足をあげて小首をかしげたかと思うと、体をくねらせてすばやく机の下に潜ってしまった。ウェンとカルルワがそちらをみやったとき、後ろから風と影が押し寄せてきた。
 ちんであった。
 ウェンのふるさとでも年に数度はその名前があがる。その羽根に毒を持っているとされる、伝説の怪鳥だ。赤いくちばしは闇を切り裂く炎、細長い首を折りたたみ、紫がかった黒い羽根をひろげて鴆が飛ぶと、その下の草木はすべて枯れてしまうと言う。金峰山の中腹にあるらしい巣の下には草もはえず、落ちた羽を酒にひたせば劇薬となる。村から死人がでれば鴆の存在が噂され、田畑の作物が枯れれば鴆の襲来に怯える。その鴆が、彼らの頭上を通り過ぎていった。
 禍々しいまでに赤いくちばしが風を切り、カタカタと高い音を鳴らしている。突然のことにウェンはぽかんと口をあけてその影を追った。鴆は黒い羽を広げている。風を切り、空を滑空している。方角は広場、かつて王侯貴族が暮らした遺跡だ。
 わあ! と広場の方角で悲鳴があがった。地面が音を立てて揺れ、土煙があがる。金切り声が空気を切り裂き、そしてぷつりと途切れる。誰かが怒鳴っている。なにかが倒れ、崩れる音がする。激しい砂埃が朝の空をかすませ、その中で鴆が鋭く旋回したのが見えた。
「発砲用意ッ!」
 ウェンはにわかに混乱した。広場から血相を変えて民衆が飛び出してくる。人々はわれさきに細い路地に飛び込み、飛び込めなかったものは彼らに向かって走ってくる。横隊では彼らを足止めすることになるが、どうすればいいのか? それに風を切る鴆は彼らに迫っている。羽毛がひらひらと風に揺れ太陽の光を吸い込んでいる。
 いや、よく見ればそれはよく鍛えられた刃なのだった。薄く、限界まで研ぎ澄まされた刃はわずかに波打って、それが光を反射しているらしかった。波打った刃に溜まった赤黒い液体が飛沫になって霧を作っている。その霧を引き連れ、鴆は逃げ惑う人間に覆いかぶさるように迫っている。
「撃てェーッ!」
 命令の語尾はほとんど悲鳴だった。隊列もばらばらと砕け、それぞれが異なる場所に照準を合わせている。パニックに陥った群衆は足音を響かせウェンたちの作る脆弱な壁へと突っ込んできた。その後ろにピカピカと真紅の眼をひからせ、鴆が――
 とっさにウェンは猫の隠れた机の下に飛び込んだ。しかし左腕は間に合わなかった。肘に熱い焼きごてを押し付けられたような錯覚があり、彼は絶叫した。
 毛を逆立てた猫が眼を金色にひからせて牙をむき出している。耳を小さな頭にぴたりと張り付かせ、猫は威嚇するように片足を上げていた。黒い斑模様に真紅の色が散り、金魚が蓮の下で戯れているようにも見える。猫は息をしていた。胸を膨らませてはしぼませ、確かに呼吸をしている。机の下は安全な薄闇だ。凶暴な風は入ってこない。
 ウェンは左腕を見た。
 肘の少し上あたりから先が豆腐を切ったようにすっぱりとなくなっている。少し離れたところに転がる彼の腕は、主人を求めるように痙攣して地面をのたうち回っている。指先は土埃と血で紅白に汚れ、ちぎれた脂肪と筋肉の層がひくひくとうごめいて主を探しているが、断面があまりにも鋭いためか血は滴らなかった。不気味な静けさの中で、彼の指はのたうち回っている。爪が石を弾き、石は音をたてて血溜まりの中に落ちる。
 血溜まりのそばには累々と肉にかえったからだが倒れていた。首から血を吹き出し、あるいはスプーンでえぐられたように頭を半分失い、逃げようとまだもがいている。そんな死体の下で声を押し殺してなく子どももあった。茫然自失として倒れている者も、ウェンのように体の一部を失って悶えるものもある。風は消え、鴆の姿はすでになかったが、街からは命の気配も失われていた。空に響いていた威勢のいい若者の声はない。春を撫でる風があるだけだ。
 風が。
 その時、突然彼の体が変化した。喉の奥から始まった反乱は熱となって体中を駆け巡り、胃がきゅうと音を立ててしぼんだ。たまらずウェンは嘔吐し、それから三日間、体から体液を吐き続けた。

 

夕渓村に今年も春がきた。玉魚洞へいく季節だ。
 息子のツァカタが膝を叩いている。お父さん、お父さんとご機嫌な調子で彼は言った。金峰山の雲が晴れたから玉魚洞に行かなくちゃ。街は遠いから僕がついていってあげる。ウェンは笑って息子の頭を撫でた。そんなことを言って、ほんとうは玉魚洞の勇進楼を見たいんだろう、それとも天峰大廈で真珠紅茶をのみたいのか? ついてきたいなら父さんくらい足が強くなくちゃだめだな。母さんと結婚する前、父さんは毎日山を三つも越えて会いに行ったんだぞ! ぷくん、とつやつやした頬をふくらませてツァカタは不満そうな表情になった。今はもう歩いていかなくたっていいんだよ、と黒曜石のように輝く瞳の奥で彼は文句を言っている。慌ててウェンはさらに声を張り上げ、そんなことより宿題は終わったのか? と話題を変えた。宿題をしてない悪い子は金峰山の鴆に腕を取られるぞ!
 はっとツァカタは顔をこわばらせた。口ごたえもせずにすぐに寝床の脇の机に飛びついて、背中をそらして鈍く銀色に光る重いヘッドギアを持ち上げた彼は、上手にそれを頭にかぶって静かになった。半球体から飛び出す二本の黒いコードがあばら家の柱を登って屋根へとつながっている。屋根にはアンテナと発電棒が立っていて、ツァカタを仮想の教室へと連れて行ってくれるのだ。すぐに拙い外国語の復唱が始まったので、ウェンは息をついた。
 ウェンが軍に入った頃、玉魚洞へ行く手段は徒しかなかった。途中には危ない吊橋や、橋すらかかっていない源流があり、足を滑らせれば崖から落ちて死ぬ。それが今や村から玉魚洞へは滴飛機ヘリタクを呼べば事足りる。玉魚洞から宝柳城へは磁浮列車リニアが通っているし、燕と呼ばれる超音速旅客機も就航した。昔は五日もかかった距離が、今ではたったの二十分だ。金峰国は変わった。まばたきをするたびに町が変わり、人が変わり、建物が成長し、そのスピードが年々早くなる。そんな変化が一瞬だけおこることは、まあある。しかし十年ずっと続くのはなかなか稀だ。
 ウェンの結婚式の日、妻となるシアとシアの家族は誰が滴飛機の補助席に乗るかで喧嘩をした。補助席は誰よりも早く、一番広い席を独り占めできる特等席だ。だからみんな乗りたがった。家長は俺だ、とシアの父は主張した。この中で一番偉いのは俺だ。だから補助席の特権は俺にある! 彼は面子のためにどうしても村で一番に補助席に乗りたかった。しかしシアは譲らなかった。葦のように細く、色白で目元も涼しい美人だが、シアはとにかく気が強かった。自分の思う通りにならなければ、主張して、主張して、主張して、とにかく主張する。それで四度も結婚を断られたが、ちっとも懲りなかった。このときも彼女は、今日は結婚式よ、と声を高くして喚いた。結婚式の主役は花嫁でしょう。なのに主役が一番いい席に座ってなかったら笑いものだわ! お父さんが譲らないなら私、結婚しないから! 死ぬまでお父さんのせいでお嫁にいけなかったって言うわよ! これは激烈な脅迫だ。今までは父親は彼女の主張はなんでも聞き入れてやった。彼女の注文はつきないが、縁談というのは極めて繊細な事柄だ。シアにはシアの理由がある。幸せな結婚のためには納得できることが大切だ。ウェンを見た時、彼女ははじめて満更でもない様子でにっこりとした。ハンサムだし、文字も読めるし、声がすてきね。でも腕がないのは気になるわ。確かに腕がないのは気になる。娘はハンサムだと言うが、シアの父から見ればただの朴訥な青年にしか見えなかった。こんな夫では娘が苦労するのではないか? 今度はシアの父が乗り気ではなくなった。そこでウェンは毎日村を訪ねた。足が強く、健康で、しかも情熱があることを示したのだ。シアはますます強く主張した。私、結婚するわ。あの人を夫にする。
 そんな経緯があったというのに、よりにもよって婚礼の日に今度は結婚しないと言い出したのだ。これでは面子が丸つぶれだ。娘は美しさを鼻にかけた傲慢な女になってしまった。彼はカッとなって思わず声を荒げた。そんなことを言うなら一生嫁に行かんでいい。親不孝な娘だと笑われればいいさ! 腹をたてたシアはそのあたりにあるものを全部投げつけた。それでも気持ちがおさまらなかったのでわんわんと子供のように声を上げて泣いた。せっかくの化粧がはげ、目元に黒い水たまりができている。
 慌てたのはウェンである。片腕を失ったウェンの嫁はなかなか見つからなかった。苦労してどうにか結婚までこぎつけたのに、今度は滴飛機の席ごときで破談になりそうだ。もう先があまり長くない母親を安心させるために彼はなんとしてでも結婚したかった。彼はおろおろとして、まずはシアに説得を試みた。結婚式はお義父さんにとっても大事な日だ。確かに花嫁は主役だが、村に来たときに家長が一番に降りてこなくちゃお義父さんの面子が立たない。シアは納得しなかった。私が補助席に乗れるのは今日だけよ! 家長ならいつだって乗れるじゃない、だけど私はこれを逃したらもうないのよ、なのにどうしてお父さんの味方をするの? 私のことが嫌いなの? ウェンはますます慌てて、玉魚洞の病院に毎年行くから、そのときは補助席に座っていいと約束した。だからどうか今日は我慢してくれないか。シアはすこし沈黙してウェンの言葉を吟味した。ウェンの約束は悪くない。悪くなかったが、彼女は目元をハンカチでおさえて首を横に振った。だめよ。花嫁が一番いい席じゃなくちゃきっと笑われるわ。彼女の決心はかたく、龍の鱗を砕くよりも難しい。ウェンは観念して義父の説得にかかった。しかし年配者の説得は難しいものだ。下手なことを言えば面子を潰してしまう。ウェンはしばらく唸って顎を撫で、頭をなで、左腕の傷をなで、もう一度顎を撫で、それから言った。
 軍にいたときに読んだ本に――山間部の人間は本に弱い――こう書いてありました。老いて大器は語らず。これはたぶん、だまっていても器が大きいことはわかるのだから称賛を求めるなということです。権力者が力にしがみつくと人民は不幸になります。
 ウェンの口から思いもかけず教養のある言葉が出てきたので、村の人々は驚いて反射的に身をかがめた。ウェンは汗をかきながら一生懸命言葉を続けた。それにあなたは二回、滴飛機に乗る機会があります。一回目は私の村に行くとき、二回目はこの村に戻るときです。帰りはあなた以外に補助席にふさわしい人はいないのですから、行きは私の妻に譲ってやるのが大器を示すやりかたでは?
 この理屈はひとつの欠点もないように思われる。親子喧嘩は丸く収まり、結婚式は予定通りに行われた。シアの父親は称賛された。片腕はないが良い息子を持ったもんだな。まさかあんな知識人だとはね。あんたは見る目があるよ!

 

専飛機の補助席に座り、ツァカタはかぶりつくように外の景色をながめている。岩棚の壁がとぎれれば、眼前に玉魚洞の街並みも見えるだろうが、今はまだ山水しかない。とうとうとながれる青緑色の河が彼らのあとを追いかけてくる。そばだつ岩山には、松の木が群生して、険しい斜面にへばりついていた。彼らが横を通り過ぎるたびに松は大きく体を動かして手を振った。
 少しの景色も逃すまいとするツァカタを、操縦席にどっかりと腰を下ろした男は鼻を鳴らして笑った。首元が伸びたTシャツに短パン、サンダルという出で立ちは、かつて村人の羨望を一身に集めたパイロットとは真逆だ。たった六年でエリートの職は貧民のものに成り下がってしまった。山海郷では呼び出されることが多いので質はまだ保たれているが、他の地方ではトラブルも多いと聞く。
 俺にもこれくらいの子どもがいてさぁ、と騒音に負けないようにパイロット怒鳴った。でもこいつみたいに賢そうな面はしてないね! ウェンは素直に礼を言い、夕渓村は学校が遠いから、政府が仮想教室を用意していつでも授業を受けられるようにしてくれたんだ、と答えた。うちの子には俺みたいな苦労はさせたくないからね、小さいうちから外国語を勉強させてるんだよ。これからは外国語ができなくちゃ。
 たしかにね、と彼はシートに肘をのせてウェンを振り返った。そして顎で義手を指し、それはいつやっちまったんだよ、と問う。危険な問いだが、男はそれに気づいていない。ウェンは笑って、宝柳城で、と短く答えた。男ははっと顔をこわばらせ、咳払いをした。
「あー、じゃぁその義手も国からもらったのかね」
「そうだよ。なかなか使い出が良くてありがたいもんだ。もずっとしてくれるし」
「へぇ……ああ、おい、坊主。玉魚洞が見えたぞ」
 前方を指差して男はさりげなく話を切り上げた。
 霧せまるダムの向こうにそびえ立つ勇進楼が浮かび上がっている。ダムのアーチから放水される水しぶきが虹をつくり、埃っぽい景色に色を添えている。中心街の摩天楼、その中でもひときわ高い勇進楼は雲を突き抜けて今も伸び続けている。古い城壁の外には灰色のスラムが砂煙を上げ、上空からでも人でごった返しているのが見えた。かつてののどかな玉魚洞の面影――街で一番高い建物は二階建てで、河のあつまる湖のそばには木製の長い橋がかかっていた。水路の小さな橋では赤く塗られた欄干に身を乗り出して、子どもたちが釣りをした――はすこしも見られない。金峰国は奇跡と呼ばれる急速な発展のさなかにあり、年々その勢いは増している。レンガを積み重ねた古い住居が消え、代わりに地面から生えてきたのは強化繊維とコンクリートの高層ビルだった。街中をくまなく覆う交通網と、中心街から各地へ飛び出す磁浮列車、町外れには空港が整備され、医療の改善により街の成長よりも速く増える人口は街の周囲にスラムを形成する。貧民は摩天楼からこぼれ落ちる仕事を拾って生きている。
 この急進な発展は周辺国の思惑によるものだそうだ。かつて金峰国は見捨てられた貧しい国であった。金峰国の南と北にはそれぞれ大国があり、土地と民を無尽蔵に吸収して肥大化していたが、金峰国と国境を接した時にはたと歩みを止めた。二つの大国は気づいたのだ。金峰国をのみこめば、大国はすべての国境を接することになる。国境を接すれば、戦火を交えるのは必定だ。そうなればせっかく飲み込んだ土地を奪われるかもしれないし、脆弱な内部から崩壊するかもしれない。だったらふたつの国の間に緩衝国となる地域を残し、そこを自分たちの配下に置いたほうが楽ではないか? もし相手が緩衝国に手をだせば、助けに行くついでに相手の急所を攻撃できる。そのためにも緩衝国をどうにか手中におさめ、犬のように飼っておくのが賢いやり方だ。
 功を焦り、北の国は鴆を作った。金峰国の国内の情勢が不安定であることをいいことに、さらなる混乱を呼び込み、民衆のコントロールを失った為政者につけこもうと考えたのだ。しかしこの作戦は失敗した。のちに金峰国の英雄となる、クー・ザルカ・サンガズは彼らよりずっと賢かった。
 彼はすぐに未確認飛翔体による殺戮を世界に向けて発信した。しかしこれだけでは南の大国につけこまれ、北の大国を相手に代理戦争を挑まねばならなくなる。すかさず彼は言葉を続けた。首都で多くの無辜な市民が無残にも殺害された。これはテロである。金峰国に対するテロであり、全人類への攻撃であり、平和に対する敵対的挑戦である。人類は団結してこの暴力に抗議しなければならない。
 北の大国を面白く思わない国は多くあり、貧しい金峰国が直接手をくださなくても経済制裁が実施された。国際的な注目度も高く、南の大国につけ入る隙はなくなってしまったのだった。さらにクー・ザルカ・サンガズは、国民が北への怒りを爆発させないように、厳格な情報統制を行った。一連の事件はタブー視され、国内には噂と恐怖だけが残った。
 金峰国はその後、様々な国からの経済支援および技術支援によって急成長を遂げたが、金峰国がこれほどのスピードで成長をするとは誰も思っていなかった。気がついたときには金峰国はコントロールできない猛獣に変貌を遂げ、ふたつの大国に牙を剥いた。
 玉魚洞が改革都市となったのは八年前である。改革都市になったとたんに全国各地から動員で人が押し寄せ、あっという間に都会へと変身した。磁浮列車のレールの敷設は無茶な人海戦術でやりきり、勇進楼の最初の建設はたった半年しかかけなかった。
 クー・ザルカ・サンガズは用心深い男であったので、民衆の不満には敏感だった。彼は具体的な小さな不満にはすぐにこたえた。たとえば僻地への滴飛機がその端的な例だ。夕渓村の下流には朝渓村と昼渓村があったが、どちらも今はダムの底だ。ダムの上流にある村への陸路が寸断され不満がうまれると、クー・ザルカ・サンガズはすぐに滴飛機を整備し他より安く提供した。村人たちには様々な不満があったが、滴飛機の魅力は筆舌に尽くしがたい。すっかり骨抜きになってしまった。さらに彼は教育と医療にも力を注いだ。改革をおしすすめるのに人民が多すぎることはない。人民が賢くなり豊かになるのはよいことだ。
 一方彼は、大きな、漠然とした不満には注意深く目を凝らした。変革は彼の頭にある通りに実行するほうがうまくいく。危険にすばやく対処できるし正確だ。国際社会を渡り歩くには少しの失敗も許されない。改革にははっきりとしない不満がつきものだが、だからといって見逃してはいけない。国内の不満は他国につけ入る隙を与える。隙はダムに空いた蟻の穴のように国を崩壊させる危険をはらんでいる。彼は力をもってその穴を抑え込んだ。
 ウェンがシアと結婚して、まだ間もなかった頃のことだ。
 畑に出ていた彼はシアの悲鳴に顔をあげた。シアの声はよく響く。新婚時代、彼女はめったにウェンに喚いたりはしなかったが、村の習慣に馴染めないとすぐに癇癪を起こして言い返した。主張をするのが彼女であり、主張をしなくなれば彼女は彼女ではなくなる。彼女の声が聞こえたらウェンはすぐに彼女のもとへ駆けつけ、仲裁をしなければならなかった。しかし、その日のシアの声は少し様子が違っていた。声には確固たる信念がなく、語尾があやふやにゆらいでいる。主張でできている彼女にしては珍しいことだ。気に入らない事態は起こったが、なにを主張すべきか戸惑っているように聞こえる。ウェンはますます急いで坂道を下った。
 おかしいの、とウェンを見つけてシアはまた叫んだ。いきなり滴飛機が来て紙を貼っていったのよ。いったいなんだっていうのよ。
 ウェンは息を切らせて彼女の指差す紙に顔を近づけた。紙は紅い。平らなきれいな紙で、手漉きではない。こういった紙を官紙、すなわち役所でつかう正式な書類であることをウェンは知っていた。彼は目をこらし、注意深く不穏の正体を見極めようとした。紙にはこうあった。

〈玉魚洞公安八号通知:青石崖村にて不得字句を使用し人民を扇動した件について、夕渓村のヤウダ・ウェンに警告を与える〉

青石崖村とは、シアの故郷である。不得字句とやらがなにかはわからない。人民は人民だ。扇動というのは鼓舞して動かすことである。夕渓村はここ、ヤウダ・ウェンはウェン自身。文章は少し難しいが、注意すべき語句はあきらかだった。
 警告。
 これは不穏な雰囲気の言葉だ。なにか良くないことが起きている。村人たちがわらわらと集まってきて、一体なんだと口々に言った。紅い紙がはってあるぞ。新婚の印じゃないか? 役人がお祝いをしてくれたんだろう。文字が読めないのをいいことに人々は勝手な憶測をしている。ウェンは丁寧に紙をはがし、村の人々ににっこりと笑った。国家のために健康な子どもをたくさん産むようにって書いてある。村人たちは彼の言葉を信じ、和やかに笑った。シアもほっとした顔をして、それならそうと言ってくれればいいのに、とぼやいた。てっきり悪い知らせだと思ったわ。なにも言わないで貼っていくんですもの。
 ウェンは優しく彼女の背をおして家の中に入った。それから扉をしっかりと締め、窓もしめる。念の為あばら家の屋根も覗き込んで、眠っている母親の様子を確認し、彼はようやく一息をついた。警告の文字は瞼の裏でチカチカと主張をしている。主張。シアの声は主張するときにウェンの耳たぶを力いっぱい引っ張る。しかしこの張り紙の主張は違った。静かに人々の体に入り込んで彼らの出方を探っている。はっきりとした確信があるわけではなかったが、ウェンはそう思った。
 台所の壁には新婚を示す赤い布がかかっている。鍋から立ち上る湯気がその赤をかすませている。しかし張り紙の紅は喜びの紅ではない。ウェンは無意識にあの日を思い出した。濁った白い空、赤い霧をまとわせて飛んだ真っ黒な鴆、そのくちばしに燃える赤い火がこの紙と同じ色だった。
 たぶん――シアは鍋にかがみ込んであれこれともうおしゃべりを始めているが、ウェンは立ったまま思いを巡らせた。あの日のこと、巨大な鴆鳥、その鳥が蹴散らした民衆のこと。人々が集まり、熱い声を響かせていた広場のこと。人々の前にたち、声を張り上げてさけぶ活動の首謀者たち、今思い出せば、彼らはあどけなさも残る青年たちだった。難しい言葉をあやつり、主張は理解し難い。しかし群衆は彼らの言葉が理解できなくても言うべき言葉と叫ぶべきタイミングを知っていた。青年たちが叫ぶ。我々は未来への責任がある。群衆はその声にこたえる。腐敗を打倒せよ。青年たちは顔をあからめ、高らかに続ける。民主の道を切り開き、未来に百の花を開かせよう。民衆は興奮して叫ぶ。腐敗を打倒せよ。老人の世は終わりだ、祖国は若き血を求めている! 腐敗を打倒せよ!
 宝柳城の議事堂前広場の事件はタブーだ。なにがタブーなのかはよくわかっていなかったが、とにかく口にしないほうがいいと言われていた。いろいろな推察が行われた。鴆の実在を世界に知られたのがまずいのではないか? 実はあの事件は政府の仕業ではないか? 民は本当のことを知らない。デモの話はタブーだが、鴆のことはタブーではない。しかしどちらもタブーだと思われていた。たしかに極めて危険な話題であるのは確かだ。危険は口にしないのが懸命だ。しかし噂は人の口を好む。蛇となって這い回り、人々の口に巣を作る。
 ウェンは思案した。最近、鴆のことを口にしたか? 否。鴆が人を殺したことを誰かに話したか? 否。腕を鴆に飛ばされたと教えたか? 否。ではなぜ、公安は彼に警告を与えたのか? 彼の言葉が人民を扇動したとはどういうことか? 青石崖村ではこれといったことは起こらなかった。村人は興奮していなかったし、ウェンは興奮した義父と妻を鎮めた。これは扇動とはまったく逆だ。彼は確かに権力者が権力にしがみつくと人民は不幸になると言ったが、これが危なかったのか? しかしもし仮にそうだったとしても、役人はそれをどこで聞きつけたのか? 公安には千里耳でもいるのか?
 ねぇ、あなた、とシアが優しい声で彼を呼んだ。甘い響きのある声だった。どうしたの? もうすぐご飯ができるわ。どうしてそんな怖い顔をしてるの? また腕が痛いの? 病院に行くなら、私も連れて行ってね。補助席の約束、忘れたなんて言っちゃだめよ。あのね、わたし、玉魚洞でブラウスを買いたいの。ディホ村長の奥さんが見せてくれたんだけど、とっても素敵なのよ。どれくらいお米を売ったら買えると思う? ボタンが貝で、花模様のきれいなピンクの布で――シアのおしゃべりは止むことがない。ウェンは眉を持ち上げ笑った。そして彼女になにかある前に、この警告がなぜ行われたのか調べなければ、と決心した。

   2

鴆が襲来したとき、ウェンは左腕を失ったが、カルルワはなにも失わなかった。誰よりも早く身を翻して逃げたからだ。
 横隊の網が破れたのは、カルルワというほころびがあったからだった。彼のいた場所から網は裂け、群衆の足音によってばらばらにちぎれた。しかしカルルワに罪悪感はなかった。彼が逃げなければ隊のものは全員命がなかったはずだ。命はどんな名誉でも贖えない。
 鴆が通り過ぎたあと、ごろごろところがってきた生首を足でけとばし、彼は仲間の名前を呼んだ。一歩踏み出すたびに血がズボンの裾をぬらし、ぬかるみが彼の足首をつかもうとする。濃い血臭にくわえ、鴆がまいていった赤黒い霧が彼の肺をくるしめたが、彼は腕で鼻と口を覆い、仲間の名を呼んだ。
 こたえたのはウェンだけだった。子供の頃から畑に出ていたというだけあって体の強い男である。農作業で鍛えた肩は強く、大きな足はドシンと音を立てて地面を掴むことができる。優しい性格が仇となって格闘技では相手を打ち負かすことができなかったが、勉強熱心でいつも本を読んでおり、カルルワが聞けば頬骨の高い面長な顔をすこし赤くして、なんでも答えてくれた。他の仲間とちがってカルルワのことをいぎたなく罵ったりもしないので、カルルワはウェンのことが嫌いではなかった。
 ウェンは机の下にいた。カルルワがそばまで這い寄り、腕を止血してやってもガタガタとふるえている。このままでは死ぬだろう。彼はウェンを背中に載せ、馬のように走った。彼が走る道には多くのけが人や死者がいる。うつ伏せになって動かない死体を足で押しのけ、紅い霧に沈む街を走るのは苦労する。そのうえカルルワにつっかかってくる群衆も少なくなかった。民衆はこの事件を政府の起こしたものだと確信していた。はやく首都を離れなければさらなる粛清があるのではないかと疑っていた。駅にはすでに人がごった返し、行き先も書いていない列車が赤い霧の中を出発しようとしている。その群衆にぶつかっても、彼の足はけっして立ち止まらなかった。ウェンの腕から垂れる血が、彼の胸元に真っ黒なシミを作っていた。
 カルルワが軍人病院にたどり着いたときにはもう人が溢れていた。あちこちからうめき声や喚き声が聞こえ、カルルワはおそろしくなった。しかしちらりとウェンの様子をみた軍医は冷たい目でたいしたことはないと断じる。カルルワはあやうく爆発しそうになった。息が切れ、汗が流れ落ち、彼の顔にまとわりついた血がポタポタと床に落ちている。彼は声を低くして、ウェンの所属と腕がないことを伝えた。軍医の答えは変わらない。少し声を大きくして彼は鴆に腕を取られたと主張した。あのクソみたいにでかい鳥が切り飛ばしていきやがったんだ、なんなんだよ、あれは。敵なのか? 軍医はカルルワの口の悪さをたしなめ、わからないと言った。とにかくあれはもういなくなった。とりあえず鎮静剤をやるからおとなしくしていろ。これがあれば体がちぎれても三日は生きられる。
 この軍医のいうことはめちゃくちゃだ。体がちぎれたら死んでしまう。そんな死体は外にたくさんある。カルルワは腹を立てた。いままでにないほど腹を立て、思わず声を荒げた。さては賄賂がないから診ないんだな? 腰抜けめ! お前みたいなやつが腐敗のもとなんだ! 打倒してやるぞ!
 平素からカルルワは自分の言葉の持つ重みを理解していない。しかし軍医は違う。言葉のひとつひとつに意識が通っている。彼はカルルワのこれからのために、少し忠告をしてやったほうがいいだろうと思った。それでスチールのボールペンでカチカチと腕時計をたたき、顔を真っ赤にしているカルルワの気を引いた。うっかりカルルワは黙ると、彼はその隙を逃さず、別に賄賂なんか求めちゃない、とできるだけ優しい声で諭した。わたしの仕事は命を救うことだ。こんなに患者がいちゃ、重傷の患者から見ていかなければとても全員を助けられない。それに打倒するという言葉は謹んだほうがいいぞ。これからはそういう言葉を使うとなにが起こるかわからない。これは君の未来を思ってのことだ。忠告は一度しかしない。
 カルルワはあまり頭が良くなかったのでまだカッカとしていたが、軍医がウェンの腕を少し持ち上げて様子をみたので黙ることにした。軍医はさらに言った。上手に止血してあるから、おそらくしばらくは大丈夫だろう。まだ若いしきっと助かるはずだ。とりあえず点滴をするよう頼んでおくから、仲間のためにも不得字句を言うんじゃないぞ。
 不得字句とはなにか? カルルワが尋ねる前に軍医は踵を返していってしまった。カルルワは急に不安になったが、ひとまずウェンを床におろして寝かせてやった。背嚢から毛布を引っ張り出してかけてやると、ウェンの表情は穏やかになったようだ。しかしカルルワは得体の知れない恐怖をおぼえ、ぎゅっと口を結んだ。そしてそのまま三日間、ウェンのそばを離れなかった。

 

三日間の空白が良くなかったのだろうか。ウェンの腕はなかなか治らなかった。何度手術をしても傷口にできものが出る。骨がもりあがったように固いそれができると、眠れないほど全身が痛むのだそうだ。カルルワは毎日病院に見舞いに行ったが、ウェンが安らいでいる様子はすこしもみられなかった。白いシーツの上に横たわる彼は棒きれのようだ。かろうじて息をしているが、老人のようにからからに萎れきっている。しかし、それでもウェンは故郷に帰ることを諦めなかった。はやく帰って母親と弟を安心させてやらなければ、と何度も言った。もうずっと手紙も書いていない。きっと心配しているはずだ。母は手紙を読めないが、でも来たか来なかったかはわかる。今頃不安に思っているに違いない。不安の埋め合わせをするには俺が帰るしかない。何日かかったとしても故郷に帰るんだ! 俺たちはなにがあっても前進しなければならない! そんなふうに話し始めるとウェンは珍しく興奮する。興奮すると傷が引き攣れて痛む。だが痛みがさらに彼の闘志に火をつけるらしかった。
 ウェンの容態が劇的に良くなったのはふた月後であった。気温があがり、時々暑い日もある中、彼の腕からほのかに甘い、鼻の奥を突き刺す腐った臭いが漂っていた。しかし軍医は顔色も変えずにウェンの腕に注射をうち、三日間経過を観察したら退院だ、と冷たい声で宣言した。にべもない口調だ。退院と同時に除隊になるが、手続きのやり方は窓口で教えてくれるから忘れずに行くように。ちょうど見舞いにきていたカルルワはまたもやカッとなった。しかし軍医はカルルワにも一瞥をよこし、いつかのようにスチールのボールペンでカチカチと時計を叩いた。カルルワがひゅっと息を吸い込むとかわりに軍医は、毎年輸血を受けに行きなさい。詳しいことは手続きのときに教えてもらえるだろうと続けた。
 不安そうな顔をしたウェンは輸血とはなにかとたずねた。血を売ることですか? 軍医はため息をつき、血を移し替えることだ、と答えた。新しい治療法が開発されたんだよ。血の中に良い働きをするものをいれて、怪我を治す。その血があればできものは出ないし、義手も動かせるようになる。ただし効き目は一年だけ、一年経ったら排出される。排出されるというのは良い働きをするものが外に出ていってしまうということで、また腕が痛むかもしれないし義手も動かせなくなる。だから毎年忘れずに輸血に行きなさい。ウェンはまだ不安そうな表情だ。つっかえるように息を吐き、彼は気まずそうにカルルワに視線をよこした。それからもっと不安そうな顔になって、お金はどれくらいかかるのでしょうか、と聞いた。カルルワは席を外さなかったことを後悔した。
 軍医はもう視線をそらしている。彼はあらぬ方向を見たまま言った。
「傷痍軍人ならすべて無料だ。義手はすぐには用意できないが、何年かしたら手に入るだろう。迎えにヘリも飛ばすそうだから安心しなさい、まったく費用はかからない。全部君の権利だよ」
 そして軍医は初めて少しだけ笑った。

 

ウェンが除隊になってから五年後、カルルワも軍人をやめた。軍に所属するはもはや地獄にいるようなものだ。以前なら軍から支給される給金をためればそれなりの生活ができた。軍人恩給は十分とはいえなかったが、こつこつとためれば家を一軒買うことくらいはできたはずだ。それがいまではどうだ。半月家を借りたらすっからかんになってしまう。支給される食事の質はどんどん下がるし、軍人だと見るとそっと距離を置かれ、以前のように尊敬されることはなくなってしまった。ろくな休みもなく、将来の希望もない仕事にいつまでもついていられるわけがない。
 軍を辞めてはじめの一年、彼は故郷に帰らず宝柳城で建設人夫として真面目に働いた。給料はそれなりによく、すぐに暮らしは楽になった。しかしそこで仲良くなった仲間に寝ているだけで金が増えるとそそのかされ、彼はあまり考えずに全財産を株に投資した。たしかに金はすぐに二倍になり、三倍になり、四倍になった。しかしある日突然半分になり、さらに十分の一になった。慌ててカルルワが株を売るとふたたび三倍、六倍と相場が動いたが、カルルワが買うとすぐに急落する。彼は疑心暗鬼になった。みんなしてカルルワを騙しているのではないか?
 彼は仕事をかえた。次の仕事はゴミ収集だった。建設人夫よりも給料はよくなかったが、金はすぐにたまった。今度はカルルワも株には投資せず、流行り始めていた携帯電話を買った。ゴミ収集の仲間と連携して効率よくゴミを集めるために携帯電話による密な連絡は必須だったからだ。店で説明を受けてもよくわからなかったので、カルルワは一番高いものを買った。その当時としては珍しくインターネットにもつなぐことのできたその携帯電話は、案外カルルワの手に馴染んだ。庶民がまだそれほどぶら下がることがなかったためか、政府もあまりインターネット上を飛び交う文言に気を配っておらず、自由な空気がある。そこに書かれているを読み解くのは難しい。しかし家族もなく、仲間のこともいまいち信頼しきれないカルルワにとってみれば、それは世界の全てだった。
 たとえば鴆のこと。おおっぴらな調子で名も知らない人々が文字をぶつけ合っていることにカルルワは驚いた。宝柳城にあらわれた鴆の大きさ、被害者の数、目撃された場所。丁寧に地図にも印をつけ、議論をしているらしい。あの鳥は城外の北の方角に消えたが、軍の大隊がそちらへ向かっていたとの情報もあった。カルルワは首をひねった。大隊一つが消えていれば気づくはずだが、当時のカルルワは特に違和感を覚えなかった。しかしそういえば、前日の深夜に工兵の小隊が除夕の混雑に備えるために基地外活動をしていた気がする。彼は一生懸命その時のことを思い出し、文章を書いた。
 反響は彼が思ったよりもずっと大きかった。
 彼を批判するものもいた。大隊があったと信じて疑わない者もいるのだ。しかしそうでない声のほうがずっと多かった。一番多いのは彼が軍属であるかどうかを聞く声だ。その次は当時の所属を聞く者だ。しかし、頭は悪くても勘の良いカルルワは不安を覚えた。以前の建設現場で鴆を見たと豪語していた男が、突然公安に連れて行かれたことを彼は覚えていた。さらにその前に冷たい目の軍医に不得字句に気をつけろと言われたことも覚えていた。なにが起こるかわからないから書きたくないと彼が素直に申告すると、幾人かの親切な者が、君は賢明だとカルルワを褒めた。珍しい称賛だった。
 カルルワは気をよくして鴆に遭遇したときのことを書いた。友人の腕がちぎられたことも書いた。生首が足元に転がってきたことも、大路沿いに死体が連なっていたことも書いた。彼の発言は称賛され、「確証的発言」としてその後も引用される。疑り深いカルルワも次第に気分が高揚した。腕をちぎられた友人は存命か、と顔も知らぬ誰かが聞く。そういえば最近ウェンと連絡をとっていないとカルルワは急に思い出した。軍にいた頃は一月か二月に一度くらいは手紙が来て――ウェンはまめな男だった――、結婚したと言っていた。嫁さんのお腹も大きくなったといっていたから子供はとっくに生まれているだろう。
 カルルワがそう書くと、場は不思議な沈黙につつまれた。奇妙な驚きが、なにも文字は綴られていないのにカルルワのもとまで漂ってきた。彼は目をひらき、じっとことの推移を見守った。
 それはすごいな。鴆に怪我をさせられたやつはだいたい一年か二年で死んだ。そうじゃないやつはどれくらいいる? 俺の知り合いはみんな死んだ。かわいそうだったよ、傷口がすごく痛むらしくて、それで自殺したんだ。頭に自分で釘をうちこみやがった。俺の知り合いもちょっとした切り傷ですんで良かったって喜んでたけど、一年くらいして死んだな。鴆毒ってやつはすごいよ。さすがに見ただけなら死なずに済んだみたいだけど。
 これは奇妙な話だ。カルルワはしばらく考えた。最後の手紙をよこした時に、ウェンは新しい義手がもらえたと言っていた。毎年の輸血のたびに彼の義手は新しくなる。頭の中身を読み取って指先まで動かせるらしい。力はあまり入らないが、農作業が少し楽になった。もう少しで子供も生まれるし苦労させないようにがんばらないと。ウェンはそう書いてよこしたはずだ。
 ウェンの身に悪いことが降りかからないよう、カルルワは少し考えて文字を綴った。一度書いて全部消し、もう一度書いて半分消し、さらにもう一度書いて、よくわからない部分は消した。最も重要な一文が残った。
 そいつは毎年を受けに行ってる。
 これは新情報だ。文字越しにもにわかに興奮が伝わった。カルルワは呆然として興奮の奔流を眺めた。
 とにかくそんなふうにして、カルルワは情報社会に足を踏み入れてしまったのだ。

 

カルルワが提供した輸血の話題のおかげで情報は少しずつ整理され始めた。ちらほらと輸血によって命が助かったという話がでてきたのである。
 当事者であるという語る男は、年に一度の輸血が生命線だと語った。一年を過ぎて少しすると古傷にできものができる。できものができると骨までじんじんして、体全体が痛みに支配される。ものすごい痛みで耐えられないんだ。はじめの一年半我慢して、怪我をした右足を切れば良くなるって聞いたけど、ましだったのは二ヶ月だけだった。でもそれからすぐにいい治療法ができたらしくて、輸血を受けたらどうかって言われたんだ。医者の話じゃ血の中に特別な物が入っていて、それが体の調子をよくしてくれるそうだ。西洋医学だな。あの時たまたま怪我をしていて、血をかぶったやつもしばらくしたら怪我がすごく膿んで苦しんでた。それで病院に連れて行ってやったら同じ輸血を受けたよ。そいつも治ったけど、一年したら悪くなるから輸血に行ってる。
 しばらくすると鴆によって怪我をしたわけではないが、という男が出てきた。彼は二年ほど前に車に跳ね飛ばされて大怪我をしたらしかった。その時に両足を折り、輸血を受けたのだ。その血にも「特別ななにか」が入っており、二度と歩けないほど損傷した彼の体を元通りにしてくれた。そのかわり、毎年輸血を受けなければ膝に力が入らなくなる。歩けないのは不便だ。輸血は破格的に安く、年に一度通院するだけでいいので大した手間ではない。彼は医学の進歩に感激した。血の提供がなくなるのは怖いが、何年かすればきっともっといい方法が出てくるんじゃないだろうか。無根拠で無邪気な信頼だが、世の中は目にも止まらないスピードで成長しているのだから、彼の予測はあながち外れていないかもしれない。
 ゴミを集めながら、カルルワは残らず文章を読んだ。ごみ収集は台車から自転車に変わり、三輪車に変わり、いまやトラックだ。そのトラックも明日になれば引退して、自動圧縮機になるという。汚い水の垂れる袋を両手に持って荷台に放り上げる仕事は不要になり、カルルワは解雇された。彼は機械によるゴミ仕分けを監視する仕事についた。賃金は減ったが、文字を読む時間は増えた。
 カルルワの理解できる情報は日増しに増えた。輸血の話はおおかた出切ったかと思われた頃、ある者が極めて重要な情報を投下した。彼もまた、輸血を受けた張本人だった。事故で視力をほとんど失ったが、輸血によって光を取り戻したのだそうだ。しかしそのかわり奇妙なことが起こった。
 宝柳城に現れた鴆の話をするのが危険なのは広く知られた事実であるが、公的な場所以外ではそれほど神経質になる必要はない。だから宝柳城にいなかった者でも、宝柳城にあらわれた鴆が人民を皆殺しにしたことは知っている。彼もそんな一人だった。南の――はっきりとした地名を彼は書かなかった。なにかを恐れているのだ――そこそこの規模の都市に育ち、デモのことは知っていたが参加しなかった。とはいえ周囲にはデモに共鳴した人物が少なくなかったから、こうして金峰国が急激な発展をしていることについてどう思うかと言う話をすることはある。当時のアジテーションや鴆のこと、その後の政府のやり方を酒の肴とするのだ。宝柳城事件以後の金峰国の快進撃を見れば、あのときの死は残念ながら無駄だったといわざるをえない。それに国は彼に光を与えた。しかし彼らはまだ不満だった。今のような情報統制には賛同できない。人間の精神はもっと自由であるべきだ。自由の中にこそ真の豊かさがあるのではないか。そんなはなしを友人の家でした。
 友人はそれから三日ほどのちに公安に警告をうけたのだそうだ。どこから情報が漏れたかわからない、密告を疑われており辛いと彼は綴った。その後他の友人とも同様の話をするが、やはりすぐに公安が来る。もしや自分が目をつけられているのではないかと外国の友人と話していたところ、ついに彼のもとにも公安がやってきて警告を与えた。――公安は宝柳城の事件をそう呼ぶらしい――を海外に広め、祖国を貶めた件について警告する。なにかがおかしいと彼は一旦出国し、信頼できる友人のつてをたどった。事情を説明するたびに、彼のメールボックスには警告が届いた。国内問題を口にするな。これ以上口にすれば入国し次第拘束する! 二度とまともな暮らしはできないと思え! 彼はおそろしくなり、文字で友人に訴えた。俺は盗聴されている! でもいつ、どうやって盗聴されているかわからないんだ! 荷物は全部棄てたし電話も変えた。なのに警告される!
 結局、盗聴をしていたのは彼の血であることが後に判明した。体内に流れる血には、彼の視力を維持するために複数のMEMSが含まれている。このMEMSは確かに神経の伝達を補助したり増幅したりしているようだ。だが同時に微弱な電波も発している。さらに解析したところ、この機械電気部品には音に反応して振動する機能があった。マイクロフォンである。彼に光を与えた血は、彼の体内の音を収集し、外へ情報を送りつけている。治療をやめれば監視の目から逃れることができるが、そのかわり再び失明する。海外で同様の治療を受けるには莫大な資金が必要だ。
 この情報は海外から書き込んでいる。海外のメディアに流すことも可能だ。しかし金峰国では報じられないに違いない。医者はいまや当たり前の処置として輸血を提案するが、輸血は危険だ。いつの間にか俺は歩く盗聴器に変えられてしまった。にわかには信じがたいかもしれないが、どうか注意してほしい。文字であればいまのところは問題ないが、今後はわからない。問題ないうちに様々な人に広めてほしい。
 果たしてこれは狂人の叫びか、それとも真実の暴露か? カルルワにはわからなかったが、とりあえず広めれば良いらしいことだけはわかった。いくらなんでも人間を勝手に盗聴器に変えるなど常軌を逸している。人民に対する国家の暴虐だ。許されることではない。
 国というのはいつもそうだ、と彼は思った。彼が幼い頃は貧しい暮らしを強いた。飢饉が起きても知らん顔で、学校にも通えなかった。どうにか軍にはいって暮らしを安定させようと思ったら、いきなり珍妙な鳥で殺そうとするし、その後は安い給料でこき使い、金をだまし取る。たしかに昔よりはましな生活だが、夢に描いていたような暮らしにはほど遠い。いったいはどれだけ俺をいじめたら気が済むんだ? カルルワはちゃんとやっている。仕事は真面目にやるし、酒と煙草はやるが、バクチはやらない。ただ勤勉に生きているだけだ。だと言うのにみな、カルルワが悪いと言う。怠けているから金が逃げる、豊かになれないのは自己責任とやららしい。自己責任とはなにか? さらに少しでも怪我をすれば、輸血とかいう甘い言葉で囁いて、勝手に体を使う。どう考えたっておかしい。こんなことが許されるわけがない。もっといろいろな人に広めなければ。そして打倒するのだ。腐敗は打倒せよとかつて民衆は叫んでいた。あの頃のカルルワは軍の側にいたからその運動には加われなかった。でも国をかえたいという思いはわかったし、どちらかといえば彼らのようにさけびたかった。いまや彼は軍にいないのだから、死んだ彼らの分も叫べばよいのではないか? とにかく。幸いにも彼はまだ盗聴器ではない。いくら大声で話してもばれないはずだ。これは使命だ。彼に与えられた使命なのだ。
 それからしばらくして彼はゴミ分別監視の職を解雇された。

   3

玉魚洞に降り立ったウェンはパイロットに礼を言って、米を売りに行った。行き先は玉魚洞内にある市場でも、スラムの業者でもいい。でも、最近は直接買い主とやり取りできるプラットフォームを利用することも増えた。
 こういう時、ウェンの腕は便利だ。モバイルを持ち歩かなくても腕を動かせば人と連絡を取ることができるし、手の甲に地図を浮かべることもできる。義手の指を耳に突っ込むと電話ができ、しかも重い米をらくらくと担いでくれる。複雑な動きはできないのでイライラすることはあるが、頼もしい相棒だ。
 ちょうどプラットフォームに米を買いたいという人物からの連絡が入っていたので、彼はツァカタを連れて中央駅へと移動した。中央駅には専用ロッカーがあり、その中に荷物を入れて暗証キーを入力すれば、買い主に解除キーが送られる。買い主がそれを受け取ったら予め設定しておいた料金が自動的に振り込まれる仕組みだ。何度かやり取りをしたことのある買い主だったので、とりっぱぐれの心配もないだろう。直接顔を合わせてやり取りすれば手数料の分も浮くが、ウェンの義手を見て警戒する人間は少なくない。だったら顔を合わせないほうが余計な気苦労がなくていいというものだ。
 磁浮列車の発車をみたいと駄々をこねるツァカタにつきあって列車を一本見送ったあと、彼はいつもかかっている医院へと行った。ウェンがベッドに横になって輸血を受けている間、ツァカタはベッドの隣の小さなソファに収まって得意げにしている。余計な装飾のない緑色のファブリックソファを、彼は自分のためのものだと確信しているらしかった。お父さん、やっぱり磁浮列車はすごいね。全然音しなかったね。僕、大人になったら磁浮列車の運転士さんになるんだ。びゅんってどこでもいけるんだよ。ウェンは笑った。はたしてツァカタが大人になる頃まで磁浮列車は人々を引きつける魅力を放ち続けるだろうか。もっとすごいものができるかもしれない。たとえば空の彼方へ飛んでいってしまうとか、違う星に移住するとか――ウェンの生きた十年がこのまま続けば彼の想像力を軽々と飛び越えることも起こるだろう。
 ツァカタのことを生まれる前から知っている医者は、お医者さんになるなんてどうだろうと提案した。お父さんの腕をこんなふうにかっこよくできるよ。たしかにこれは魅力的な誘いだ。ウェンも運転士よりは医師のほうがずっといいと思った。医師はウェンが子どもの頃から先生で、いまも先生だ。しかし運転士はあっという間に貧民の仕事になってしまうかもしれない。ツァカタは下唇を噛んでおとなしくなった。しばらくして、僕が大きくなる頃にはお父さんは死んじゃってるよ、と眉尻を下げて言った。言った途端に悲しくなったのか、親指を口の中に突っ込んでしまう。ウェンは少し笑って息子の頭をなでてやった。お父さんは長生きするから大丈夫だよ。これが終わったら科学公園に行こうか。それで寿万ブランコに乗ろう。すっごく大きいやつだ、楽しいぞ。ツァカタはこの申し出に心を惹かれたようだ。ほんとう? と小さな、泣き出す前の声で言った。宇宙まで飛んでっちゃったらどうしよう。お父さん、迎えに来てくれる? ウェンはうなずいて、もちろんだと約束した。
 輸血を終え、ついでにツァカタの健康診断もしてもらって病院をあとにする。始めてきたときは石造りで薄ら寒かった病院はいつの間にかたてかわり、五階建ての立派なビルになっている。なかはピカピカで外国のようだ。昔なら街で一番高い建物だっただろうが、その背後に天まで伸びる勇進楼が雲を突き抜けて立っている。
 ウェンはツァカタの小さな手を握り、勇進楼へ向かう大通りをゆっくりと歩いた。いつの間にかツァカタの機嫌はよくなり、アスファルトの継ぎ目を見つけるたびに指で撫でる遊びをしている。歩道は広く、街路樹の影がちらちらと歩道の脇には自動で徘徊する球車が走っている。球車が通り過ぎるたび、ツァカタは無邪気に手をふる。彼の旅は忙しい。たくさんの決まりがあり、それをすべて完璧に消化しなければならない。ウェンがそれに付き合えるのは、ある程度生活に余裕があるからだ。夕渓村の暮らしは楽ではないが、無数の支援がある。ウェンが元軍人かつ宝柳城の事件をきっかけに除隊したことも今思えばラッキーだった。賄賂を渡さなくても病院にすぐに入れてもらえるし、治療も無料だ。いくつかの規制と、気をつけなければならない字句はあるが、普段の生活ではさして気にする必要はない。それに――
「おい、ウェンじゃないか」

 

くるりと目を丸くしたツァカタはウェンの腰にしがみついた。口をすこしとがらせ、頬もふくらませている。歩いてきたせいか額に少し汗をかいて、こめかみに髪の毛が張り付いていた。ウェンは息子の後頭部にそっと手をおいて、声のやってきた方角を振り返った。
 黒いシミ。シミと表現するほかない。ウェンだってあまりきれいな格好ではないが、襟付きのシャツを着ているだけましだ。せいぜい茶色いシミといったところだろう。
 でも、平らなアスファルトの上で、彼は明らかな不穏分子だった。Tシャツ姿はともかくとして、膝丈のズボンは腿のあたりにシミがいくつもあり、膝の裏に深い横皺ができている。むき出しの脛は泥で汚れて白くなっているが、その人物はまったくそれを気にしていないように見えた。今にもばらばらになりそうなサンダルをつっかけ、親指をせわしなく上下させている。
「なにしてんだよ! まさかこんなとこで会うなんてなあ!」
 煤けて汚れたTシャツが動くと男の声がした。髭面に分厚い唇、輪郭はわからないが若くはなさそうだ。肌の色が黒いのもスラムに行けば珍しくはない。頬骨がやけに突き出ているのは痩せているせいだろう。ぎょろりとした大きな目を剥いている男にはどこか見覚えがあった。ウェンは顎を引き、頭の中身を探った。どこかで見たことはあるが、村人ではない。ということは、宝柳城にいた頃、軍の仲間だ。軍の仲間で親しげにウェンに声をかけるとしたら――カルルワだ!
 思わずウェンは両腕を広げた。カルルワも腕を広げ、ぱっと顔を明るくする。彼らは大声で挨拶をした。挨拶をしながら一歩一歩近づき、手が届く距離になってからがっしりと肩を組んだ。カルルワは記憶の中よりも薄くなり、しかも臭い。でも人懐っこい笑顔は相変わらずだった。大きな人を惹きつける声も、愛嬌のある言い回しもなにもかもそのままだ。彼らは肩をたたいて笑い、再会を喜んだ。
 ツァカタははずかしがってウェンの後ろに隠れている。背中を押してウェンは挨拶をさせた。カルルワ小父さんだよ、お父さんが宝柳城で働いてた時に仲良しだったんだ。ほら、挨拶しなさい。ツァカタは親指で唇をおしこんだ。しかしすぐに息を吸って胸を張り、にっこりと笑顔を作る。こういった仕草はウェンと違う。外国の情報を水のように飲んでいるツァカタ特有だ。カルルワは目をほそめてツァカタを褒めた。
 懐かしさをつむぎあっているうちに彼らは科学公園にたどり着いていた。まだカルルワを恐れるようにウェンの影に隠れているツァカタも、芝生の上に設置された遊具をみると歓声をあげ、すぐに遊びたいという。手首に覗糸を巻いてやり、落とさないようにと注意して遊戯場へと送り出せば、あとはベンチに座って待つだけだ。遊戯場の監視員もいるし、覗糸があれば居場所も常に特定できる。
 さわさわと涼しげな音を鳴らす木の下のベンチに二人は腰を下ろした。カルルワは上機嫌でツァカタのことを言っている。いくつなんだ? 前に手紙をもらった時は生まれる前だったのにな。賢そうな子じゃないか。お前にはあんまり似てない。今はこっちに住んでるのか?
 ウェンは、夕渓村に今も住んでいて、今日は輸血のために町に降りて来たと答えた。玉魚洞に出るつもりはないよ。ここには俺にできる仕事なんてないからな。俺は村で牛みたいに鋤を引くんだ。玉魚洞がこんなふうになって緑の芝生を敷きつめてたって、村はなんにもかわっちゃない。昔とおんなじさ。俺は毎日泥に足を突っ込んで、そうだな。牛だよ。牛になっちまった。昔は牛になんかなりたくないって言ってたのに。生活はね、まぁ、悪くないさ。悪くない。楽じゃないけど悪くはないよ。政府もいろいろとしてくれるしね。ほら、この義手、すごいだろう。強化繊維とかいうので作ってるらしくって意外と軽いんだ。一応指も動く。神経信号っていう腕とか指を動かす司令が頭から出てるらしくてね、それを血の中に入ったやつが義手に伝えてくれるんだよ。しかもすごいんだ。重いものも簡単に持てる。ツァカタを放り投げるのだって片手でできるんだからすごいよな。それを無料でくれるってんだからたいしたもんだよ。ツァカタの勉強道具も送ってくれたし、いい時代になったな。
 カルルワは奇妙な顔をしている。いつの間にか笑顔を顔から消して、ぐ、と太い眉を寄せている。ウェンは静かに笑った。若い頃のウェンなら、いまのウェンのことを理解できなかっただろう。もしかしたら怒ったかもしれない。俺はもっとに行くんだ。金持ちになってやる。いい服を着て毎日卵を食って、人を顎で使うんだ。商売をやるなら店長に、そうじゃないなら先生になってやる。追い立てられるだけの牛なんてごめんだ。勤勉は人民の火だ! 高く火を掲げ前進せよ!
 若い頃のウェンはよくそんなことを言った。彼の子供時代からスローガンは身近にあった。まだ貧しかった金峰国では強権的な政治家が席を取り合って争っており、政権が変わるたびに新しいスローガンが情熱的な声を響かせる。苦難を越えるには前進する以外ない! これではあまり民は鼓舞されない。良い戦士のみが苦難を越える! 全人民は戦士たれ! こういうスローガンのほうが効果的だ。戦士になればいいと理解できる。勇敢に倒れない敵はあろうか? 情熱を消せる水はあろうか? これはあまりよくない。なにを言っているのか考えなければならないからだ。恐れるな! 前進せよ! これはいいスローガンだ。とにかくなんでもいいから前にすすめばいい。現役時代のウェンはそんなスローガンをたくさん覚えていたし、軍もたくさんの勇猛な言葉で彼らを鼓舞した。しかし宝柳城の事件以後、この手のスローガンはほとんど消えた。稀に「手洗いは衛生の小さな一歩であるが、文明への大きな一歩でもある」のようなものを見かけるが、ウェンが子供の頃に比べればぐっと減った。おそらく元首は「打倒する!」と詰め寄られることを恐れているのだ。だから人々の記憶からスローガンを消し去ろうとしている。
 ウェン、と低い声でカルルワは彼を呼んだ。
 本当にそう思ってるのか?
 念のため、ウェンは左手を振った。
 カルルワにどれくらい知識があるか彼は判断できなかった。いまや金峰国にはありとあらゆる場所に盗聴器がある。たとえば人民の手にしているモバイル。たとえば電柱に備え付けられた監視カメラ。あるいは便利な情報の流れるインターネット。もちろん人間の密告もバカにはできない。静かな監視によって静かに人は消える。しかし一番恐ろしいのは血だ。ウェンの中を流れる血だ。
 はじめて警告を受けたあと、彼は情報を集めた。はじめはどうすればよいかわからなかった。玉魚洞に出たときに本をさがし、噂話に耳を傾けた。少し水を向けてみることもあったが、なにも情報はなかった。そうするうちにシアが故郷の村の女達と噂話に興じるために携帯電話を欲しがり、彼も情報を摂取するようになった。怪しげな情報をよみとけば、どうやら彼を救った血が密告をしたらしい。半信半疑のままその年、彼は夏になるまでなんとなく輸血に行かなかった。昔ほどではなかったが苦しみは彼を苛み、彼の妻と息子も悲しませる。
 彼は思った。今の生活は悪くはない。それに彼には守るべきものができた。彼の周囲にいる人間は不穏分子ではなく、金峰国は奇跡の発展を遂げ、だったらどうして血をおそれなければならないのか? なんでも聞かせておけばよいではないか。隠すべきことはなにもない。ただ清廉潔白に生きればいいだけだ。俺には後ろ暗いことなんてなにもない。
 俺は、とウェンは口を開いた。別にいいんだよ。たとえ思ってたとおりじゃなくたって真面目にやればそれなりに生活ができる。いいことじゃないか。腕だって便利だし、それにツァカタに良い教育を受けさせてやれるなら俺は満足だよ。
 一息にしまいまで言葉を吐いてウェンは左手に触れた。温度のない左手は死んだように眠っている。十年前、彼の体はすべて彼のものだった。目も口も、左手だってすべて彼だった。しかしいまはどうだ。左手は死んだ。新しい左手は頼りになる相棒だが、虎視眈々と彼の失言を狙っている。血も同じだ。彼を狙い、彼の生殺与奪の権を握り、静かに聞き耳を立てている。舌は血をおそれて縮こまり、耳はただの耳になってしまった。彼の声に力はなく、熱もない。もう誰も彼の言葉に耳は傾けないだろう。彼に語りかけることもないだろう。彼の左腕が人々を威圧するからだ。
「どうしてだよ」
 ぎゅっと眉をよせてカルルワは子供のような顔になった。ツァカタが駄々をこねるときと同じだ。しかし彼はツァカタとは違って大人だった。拳を握り、背中を伸ばしている。胸を張り、体を揺らさない。それは教練のときの姿勢だ。あるいは、彼らがまだ若かった頃、議事堂前広場で警備をしていたときと同じだ。彼らは銃を片手にそんな姿勢を一時間保った。
 踏み出せば。口をとがらせて彼は奮然と声を吐いた。踏み出せば、どんな苦難でも越えられる、だろ。前進は最良の武器だ、なんでもやってみなくちゃわからないじゃないか。困難だからって立ち止まってどうするんだ、俺は知ってるんだぞ。みんな知らないからこんなふうに騙されてるけど、こんなの全然いいもんじゃない、ぜんぶだ、ほんとうは俺たちからすこしずつ息を奪って最後にはさせるつもりなんだ。俺たちは真実を知らなくちゃいけない。目を覚まして戦わないと。だっておかしいじゃないか、なんでこんなことが許されてるんだ?
 ウェンは少しばかり感心した。カルルワにしてはうまく警告されそうな文言を避けている。しかし、違和感があった。カルルワはたしかに口のうまい男だ。その場その場で一番それらしいことを言う。単純で乗せられやすく、周りが怒っていれば一緒に怒るし、静かにしておいたほうがいいと思えば黙る。それでうまくやれるから、本質には興味をもたなかった。そんな彼が主張にしがみつくのはなぜだ? 真実を見ろというのはなぜだ?
「俺、グループにいるんだ。なんていうグループかは言えないけど、みんな本当のことを知ってる。ホントだぞ。すごく頭が良くていろんなことを知ってるし、海外のやつとも話をしてる。それで――戦ってるんだ」
 嫌な予感を覚えてウェンはぎゅっと指を組み合わせた。春の冷たい空気が上着の襟元を撫でる。ツァカタがはしゃいでいる声がやけに遠くに聞こえる。しかしツァカタの声であることはわかった。彼には守らなければならない子供がいる。これ以上危険に踏み込んではいけない。
「お前がさ、牛になりたくないって言ってたの、みんなに話したんだ。そしたらわかるって言ってたよ。でもいまのままじゃ俺たちはずっと牛だろ。お前だってほんとは嫌なんだろ。だって俺たちは人間なんだから。人間らしく扱われるべきだ。違うか?」
 ウェンは答えなかった。答えられなかった。彼の目の前には勇進楼の巨大な足がある。地面に食い込み、頭は空に向かって伸びている。しかし彼のまぶたにぼんやりと浮かびあがるのは毎朝見上げる金峰山の頂だった。天から降りてきた手が指を広げ、大地を掴んでいる。金色に輝く雲が雪冠を隠し、手の正体をおぼろげにしているようだ。その山を見上げ、彼は育った。早くに父を失った彼は、二年で学校をやめ、それからはずっと田畑の世話をしてきた。病床についている母と小さな弟を養うには彼が働くしかなかった。肩に背負うカゴの肩紐は擦り切れて固く、足を踏み出すたびにぎし、ぎし、ときしんで彼をいじめる。水を張った田に金峰山が逆さまに映り、空に手を伸ばしている。泥の中に立って水に映る金峰山をながめていると、まるで神が泥の中から天に向かって手を伸ばしているようにも見えた。九歳の彼は思った。いつかきっとここから這い出してやる。そして家族を――
「なあ、お前だって言ってたじゃないか。前進する戦士だけが良い戦士だって。あれだよ、改革だ。改革をするんだ。良き未来のために――」
「良き未来のためには、伝統の廃却を恐れるな、過去の亡霊は復讐をしない。我々はひとつの目的のために一致団結しなければならない」
 それだよ、とカルルワは手を打った。表情は明るく、口元は笑っている。しかしウェンは笑えなかった。全く笑えなかった。彼は落胆と失望を腹に押し付け、静かに言った。それはクー・ザルカ・サンガズ主席の演説だよ。語録に載ってたから、ツァカタがいま暗唱の練習に使ってる。
 はっとカルルワは顔をこわばらせた。彼の日に焼けた頬には小さな切り傷がある。にきびの芯が白く浮かび上がり、こめかみ辺りにうっすらと汗が滲んでいた。手入れのされていないもじゃもじゃの髭の奥でカルルワは少しだけ唇を開いている。ウェンは固く指を組み、カルルワから視線をそらした。前進は最良の武器だ、は軍隊の時によく言われたやつだよな。お前のいるグループってやつはの犬なのか? どうして倒そうとする相手と同じことを言うんだ? お前の敵は誰なんだ?
 そこで彼は口をつぐんだ。これ以上なにかをいうと彼の身も危なくなる予感がした。カルルワの顔からは血の気が引いている。なにがおきたかわからないという顔でカルルワは細かく目を左右に揺らしている。彼は呻いた。そうしないと。しかし彼の目は違うと言っている。そうしないと、捕まるから。しかし彼の表情はそうではないと言っている。俺にはあるんだ。ちゃんとした理想が。ホントだ。
 旋回木馬から降りたツァカタがはしゃいだ声をあげながらウェンのところに戻ってくるまで二人は黙りこくっていた。青々しい芝生の匂いが鼻孔をくすぐるが、二人が思い出していたのは濃い血臭だ。胸の中までべとつく血の霧の臭いだ。あの時、二人はともにいた。同じものを見て同じものに感化され、そして同じものに憤りを覚えていたはずだった。しかしウェンは腕を失い、カルルワはなにも失わなかった。
 お父さん、とツァカタが興奮してウェンの膝を叩いた。すごかったよ。ぐるぐる回った! もう一回乗っていい? ウェンは首を横に振った。だめだだめだ、もうそろそろ帰らないとお母さんが心配する。それに真珠紅茶を飲みに行くって約束だろう。お母さんにお土産を選ぶ時間もいるぞ! お土産を選んで、それから真珠紅茶を買いに行こう。お母さんの分も買うんだよ。どうだ? そうする? じゃぁカルルワ小父さんに挨拶をしようね。さようならの挨拶だよ。
 カルルワは腰をかがめ、恥ずかしがるツァカタの挨拶にこたえた。そして父さんの言うことを聞いていい子にしているんだぞと頭をなでた。
 以後、ウェンがカルルワを見たのは一度だけである。立体映像の中でうなだれているカルルワは、記憶の中よりもやせ細り、老人になっていた。目はうつろで髪の毛は軍隊時代のようにきれいに丸刈りになっている。顔に刻まれた皺に彼の苦難の軌跡が見えるようだ。首からさげた札には国家反乱罪とある。カルルワが口を開く前にウェンは目を閉じた。
 目を閉じてもやはり、金峰山のいただきは雲に隠れている。

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