虚空の指

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梗 概

虚空の指

<三行あらすじ>
ある日10歳の女子リンドウが、碑に文字を刻む着物の男と出会った。話を聞くと、男はむかし指を落としたため刀を握れずに出家した元武士で、今は俳諧士だという。実は師を失った後に生えたのだと、12本の指がある両手を見せる。指の生えた顛末を語り終えると男は現れた扉と共にリンドウを連れて去る。石碑だけが残った。

<梗概>

その日も、恐れ知らずの10歳、リンドウは死について考えていた。
じいじやばあば、姉やトオトにも死について聞くのだが、その度にうるさそうに払われるか、脅かすように言われる。あの高台では合戦で、たくさんの人が死んだのだと。だからリンドウは所在のない時、高台を往来する。

珍しく高台に人影が見えた。背の高い着物姿の男で、持ち込まれた碑に、文字を刻んでいる。しばらくして男が一息入れたため、リンドウは寄って行って話しかけた。

男はリンドウを追い払わなかった。リンドウの目をじっと見て、リンドウの質問に、律儀に答えた。
亡き師の句碑を建てているという。

リンドウは男の手を珍しげに見た。男の指が12本あり、なおかつその指が、手の根元から不自然に生えているように見えたからだ。

男は、元は、指を落としたため刀を握れず出家した武士なのだという。
出家の後に俳諧士となったが、師が亡くなり、師の墓を作った。瞑想した際、「師匠の句碑を作れ。」と声がしたという。

リンドウは警戒する。子供だましの物語かもしれない。
男が続ける。その後、どこからともなく12の扉が現れた。入ると人の形をしたものが出てきて、指にその世界の土をつけた。すると、指がまるで植物のように一本づつ生えてきた。
そのためこうして碑に、文字を穿つことができるようになった。と。

リンドウは男の目の前に座り、男の指を掴んで、ついていた石の埃を払った。男の話が本当だとすると、12本目の指がまだ、生えている様子がなかった。それでも、不思議がるリンドウの目の前で、最後の指が再生されていく。

この土地に「夢」にちなんだ師の句碑を建てたら、師の死んだばかりの墓がある世界へ戻る。

竹筒を飲み干して、俳諧士は立ち上がった。ゆらゆらと、その横に「夢」と正面に大きく書かれた扉が現れる。
その、人の形をしたものはどこに?リンドウが問うと俳諧士はこちらをじっと見て、「おぬしの事ではないのか」という。

リンドウは動きを止めた。俳諧士をよくよく眺め、少し、考えた。…すると、もしかして、死について考えていたのは、このためかもしれない。この、知らないことの、それを驚くように知る、その扉に、入るための。

リンドウは、俳諧士を見上げた。

「その師の墓に、私も行く。」

俳諧士は肯首すると、指が十二本ある手を差し出した。

風が吹き、二人と扉が消えた。後には碑だけが残った。
俳諧士が穿ち、その師が詠んだ石碑が高台に、うっそりと屹立した。

文字数:1173

内容に関するアピール

梗概を書いて驚いたのは、ラストです。日常に飛来したマレビトに話しかけているはずが、実は主人公もマレビトとなって時空を飛ぶ役割を持っていたことに気づく成り行きに、書いていて、そうだったのね。と思いました。
実作を書くことでは、師や句との出会いを驚く予定です。
実は扉は12あって、その名をオノ・ヨーコの12の言葉を意訳してあてています。(「忘」「開」「飛」「息」「感」「水」「想」「手」「肯」「憶」「触」「夢」)
扉と各指と六根六境を結びつける(それぞれ2〜6頁で書きます。)ことで、12の言葉と、おそらくその源泉となる仏教的なイメージを介した六根六境、体機能と心の配線を模索して人間の機能の発達をみます。それぞれの呼応が楽しみです。
また、俳諧士がどのような句を選び穿つのか。12の句と呼応する季節や和の世界のイメージを豊かに関連させたいと思います。

文字数:371

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龍田姫

その昔、日本の国の本州のある村に、恐れ知らずと言われる娘がいた。

娘の名を、リンドウという。

リンドウの父は変わり者で、放浪のくせがあり、村にはついぞ居つかなかった。
母は、リンドウの出産時に亡くなり、村には、逸話が残っている。リンドウの産まれた秋の一日、嗅ぎ慣れぬ潮の匂いがし、どこか遠くから、静かに、しかし確かに大きな水の音がひたひたと、繰り返し、聞こえてきたのだという。そして、次の朝、村の楓があらかた落ち、深紅の葉が水底に幾層にも沈んでいたという。


その日の朝、リンドウはいつものように裸足のまま、スズナと水車小屋へ向かっていた。
もう雨季も終わり、乾季に入る。水田に水をあげるために、水車を漕ぐのだ。
村から水車場までの道端では、リンドウが歩くと、おどろいた甲虫が、せかせかと足場を変えるように動く。面白がって足をおろした先では、草葉の陰で白い蝶がゆっくりと、はねを閉じたまま、眠ったようにじっとしていた。

見上げた空は群青から、わずかにむらさきがかった雲が後ろから湧いてくるところで、その雲のかげから入る朝の光に、先日植えたばかりの稲苗の列が映える。稲の列は鏡のような水に雲を背負い、スッスッと美しげに立っている。
振り向くと、雨が続いている間に村の家で一緒に編んだ草履を履いたスズナが、ゆっくりと足を運んできていた。その足元で鈴が、ちりんと鳴る。

水車小屋にも日は当たっていた。大川の澄んだ水の流れにこぼれるように咲く白い花たちの隙間から、濃い緑色の水草がゆらゆらと揺れているのが見える。今日の水も、朝のうちはまだ、すこし冷たく感じるだろう。

村を囲む山々からはそろりと、肌に冷たい空気がおりてくる。その後ろの小高い丘には、誰も刈らない青草が隆盛を誇って、夜明けの風にざわめきはじめていた。

後ろを振り向いたリンドウは、「さきに、漕いでる」と少し離れてついてくるスズナに伝え、裸足のまま駆け出していった。

スズナは手を上げて応える。線の細い体で、しかしゆっくりと確実に、道をふみしめてスズナは、小屋をめざす。
大きくなった。とリンドウについて、スズナは思う。

まだ伝えていないことを、リンドウにどう話したら良いか、スズナは抱えかねている。村の儀式に従えば、次回の橋は自分がその柱となることが決まっている。10歳とは、人間の種としてのリンドウの、変革が起こる生命の分岐点だ。リンドウの分岐の兆候はまだ、あらわれていない。だから、この話はまだ、早すぎる。だけど、時は待ってくれない。雨季の縄編みの最中には伝えようとしていたのだが、闊達なリンドウを見ているうちに、やはりスズナからは言いあぐね、とうとう伝えられずに終わりそうだ。

スズナはこの村の景色をもう一度眺めながら目を細め、静かに、ゆっくりとため息をついた。トオトにも頼もうと思っていたが、先だっての最後の儀式の終わりに聞かされたこの一件に対して、受け入れることを躊躇している様子が見えていた。
すこし、荒れているようだ。スズナの口元と頬がすこし上がった。でも、姉のときよりは…。スズナは明るさを増していく空を見上げる。姉の時より…良いだろう。あの時のトオトは、見ていられなかった。そしてだから、トオトは自ら水車小屋に、来ないのだ。
明日には村に、スズナによって橋が立つ。新しい、橋が。橋が立てば、西から来客がある。来客が、何をおこすのかは、スズナの知るところではない。けれど、スズナの役目はそこにいたるまでを、整えることだった。スズナの橋は、村に何かを持ち込んで、そして、その村人に変化を与えるだろう。スズナは顔を上げた。

それが、その変化がスズナには、みえるようだった。スズナもまた、いつか、この村にたどりついたマレビトだったからだ。
スズナがそこまで考えた時、スズナの見る前で水車小屋についたリンドウが、小屋のドアの閂をぬきさり、扉をひらいた。


小屋の中は、ゆっくりと律動していた。大川へと羽をだして水をとりいれている大車。それを使って、僅かながらもこの時期の水流を自動的に水田へと引く仕組みが作られている。

リンドウは、この場所が、好きだった。何も考えずとも、そのために作られたものがあるべき場所に収まり、誰も何もいわなくても、するべき時に、かくあるべきというやり方で、すべてが行われた。川の流れを汲んだ力が、適切に加工されたうえ、それぞれの器械によって各々の仕事に及んでいる。そして何よりここは、その温もりを知らない母や顔を見たこともない父を頼らずとも自分の仕事を果たしていると、リンドウ自身にそう思わせてくれる力。それがある場所だった。

リンドウは、小屋のほうぼうにある戸を引くと、明かりを入れた。
回し車の脇に寄り、杵を動かすため、回転車の軸を注意深くずらす。こうしておくと、羽を漕ぐ力が倍以上必要になるが、水あげと同時に精米もできるのだ。

そのときふと、「子供であるうえに女であるお前の力では無理だ。」と、この小屋へリンドウのみで入るのを、あくまでも良しとしないトウトの顔が目に浮かんだ。リンドウはこの水車の両軸を同時にかけるやり方を、2ヶ月ほど前からつづけていた。トウトの意向を、どこか聞こえないふりですませていたのだ。それに、先日おこなわれた相撲大会では、村の同い年の男の子たちを全部のしてみせた。

リンドウは光が差し込み明るくなり始めた小屋の中でひとり、頭を振る。そうだ。いまは、時を急ぐのだった。仕事を早めに片付けたい。それに、雨季からこちら、足腰がよわっているようすのスズナを、休ませてあげたかった。

漕ぎ台を設置して、リンドウは水車の羽へと足をかける。透明な水が、朝の土埃をかぶった足をいきおいよく洗い流しながら、小屋の水路を上っていく。新鮮な水と朝の匂いが、すこし淀みがかっていた水車馬の空気まで一掃していくようで気持ち良く、右足、左足、と羽に置く足に力を込め、リンドウは足元の重さをすこしづつ、スピードに変えていった。
しばらくすると、水車はぐんぐんと音を立てて回っていく。小屋の中が、さらににぎやかになる。ギィッ、ギィッ、と水車がリズミカルにまわり、バシャバシャと羽の動きに合わせて水しぶきが跳ねる。やがて噛み合わせた歯車から上に力が渡った杵が、ドンと音を立てて臼を打つ音が聞こえてきた。

開け放してあった扉に影が映り、スズナが入ってきた。

先ほどまで履いていた草履をかかげて、何か言っている。リンドウは聞こえないので大きな声をだすが、小屋の音にはかなわない。

スズナは首を振って笑い、しゃにむに羽根を踏むリンドウの姿に手を振りながら草履を掲げて指をさし、貯蔵庫へと入っていった。草履には空色の布が巻いてあり、真紅の鼻緒がすげてある。村の家で京から来た者から特別に分けてもらったものだ。スズナにはよく似合って美しかった。

一旦首を傾げたリンドウは水車をこぎながら、スズナが発した言葉よりもスズナに運ばせることになってしまった籾の袋のを気にした。一日分とはいえ、村人全員の米の量は、それなりの重さになる。しかし、しばらく経ったあと、危なげな様子もなくスズナが臼に籾を入れている様子が見える。リンドウは、ようやく安心した。前を向いて大車輪を漕ぐ。

ドン、と杵と臼が音をたてるたび、米から籾を、落としていく。この仕事のあとの朝餉を想像しながらリンドウは、しばらくの間うえを向きながら、足を動かした。熱く炊かれた米や、スズナが結んでくれる、粒が立ったふっくらとした、おにぎりを思い描く。横を向くと、スズナが籾を規則ただしく臼の中に入れ、そして籾殻のとれた玄米が、臼の上淵につけられた溝を通って袋の中へ届いていくのをみた。ぐんぐんと漕ぐ。もうすぐもうすぐ。横で見ていると、スズナの静かで確かなうごきは器械のように、そしてそれ以上に、美しかった。そういえば、トオトは川で、今朝の魚を、獲っただろうか。少しくたびれてきたリンドウは一瞬、車と一緒に床に降りそうになって慌てた。それを見ていたスズナが笑い、スズナの顔と髪についていた籾のからがたくさん、ふわふわと辺りに散らばった。

太陽が、丘の上から照らしていた。
あのあと、スズナはいつものように、家の前でおむすびを用意してくれた。

外で魚を焼いていたトオトとリンドウは、菰(こも)の下がる入り口から見える忙しげなスズナの草履の足が、右に左に行き来するのを時折確認しながら、ふたりで火を起こし、魚を刺した。
朴の葉に味噌を塗り、火で炙り、それらが香ばしい匂いを立てるころ、スズナのおむすびが、でてきた。

焼けたばかりの魚をつまみぐいして急いで口に入れようとしたリンドウは、火傷しそうになって慌て、出てきたスズナがまた、くすくす笑った。おむすびは、ふわふわに、それでも崩れないようにしっかりと結ばれていた。空腹に押されて続いて手を伸ばしたリンドウがほおばると、新鮮な水の香気とともに玄米の香り、塩の旨みが広がった。

いつものように小言をいうかと思ったトオトは、リンドウの頭にぽん、と手をのせただけだった。

見上げると、ずっと反発しながらも父の代わりのように感じてきた暖かくて大きなその手首には、六角の印が刻まれていた。

 

そしてその昨日が、スズナと一緒に水車小屋で働いた、最後の日だった。
目の前の川に自分を映しながらリンドウは、おむすびを口に入れた。2羽のマガモが、水面にゆらゆらと水跡を残しながら、リンドウの前を横切った。自分で作ったおむすびは、焦げ臭いうえ、芯が残り、喉につまった。

リンドウは立ったまま下を向き、自分の裸足の右足を、左足で踏む。そうして、しばらくすると今度は逆に、左足で、右足を踏んだ。

踏みながら、爪を噛んでいた。おむすびを左手に持ったまま、時間を、全く感じなかった。一晩で組み上げられた真新しい橋の下に、空色の地に真紅の鼻緒がすげられた草履が、きちんと並べて、おいてあった。

朝にしか見ない白い蝶が草履にとまって、そして、ふわふわと、どこかへ飛んで行く。

リンドウのバラバラになった黒い前髪の間から、赤くなった目のよこに、幾筋も涙の枯れた跡が見える。リンドウは、自らの足元を踏みながら、その身をゆっくりと揺らしながら、川面をながめていた。

西からは、できたばかりの橋を渡って僧が来て、葬式は既に終わったのだと、村で耳にした。儀式の婆が、村の裏にある墓地に新しい墓をたてて、既に埋葬をすましたとも、どこかからともなく聞こえてきた。

死とは、何なのだろう。この村に一度も帰ってこないで、ただその不在だけ知る父の姿とは、どう違うのだろう。

墓など関係ない。リンドウは思った。

ここに、スズナの匂いがする。死の匂いが。

本物の、かすかなスズナの死の匂いが、この橋のある水辺とリンドウの周りから、消えなかった。そして、スズナはすでに死んでいるのだ。リンドウはそう知っていた。

この村では…。人が…なぜ、ある日突然いなくなるのか、

近くで、ザクリ、ザクリ、と、今日はいつもより静かな足音がして、リンドウの思考をさえぎる。足音が止まってもまだ、リンドウは下を向いていた。

「…トオト。」

まるで、じぶんではないような声と、口調なのがわかる。トオトを見上げる。見上げたリンドウの頬から今日何度目かこぼれた涙がつたい、足元の土におちる。

リンドウの瞳は、涙によるものだけではなく、虹彩まで真紅に変化していた。

トオトはそれを見たが、リンドウには何も、言わなかった。ただ、じっとリンドウをみつめた。

「あんたは、スズナを好きなんだと…、本当に、すきなんだと、…思ってた。」

スズナは一体どうして死んだのか。なんとか助けられなかったのか…。これまでのリンドウなら、口にしていただろう。しかし、そこから先は、何かがリンドウの口を閉ざしていた。

トオトの気配が沈黙する。そしてただ、しばらく、その場に立っていた。

そして、僅かに身じろぎする音が聞こえ、トオトはリンドウからすこし離れた道の先に何かを起き、黙ったまま、ただゆっくりと後ろに下がった。

夜の間じゅう、リンドウはその場に立ちつくしていた。

トオトの気配はしばらくたったあと、いつのまにか、消えていた。

夜明けからしばらく、丘の上から、音が鳴り出した。まるで杵が臼をつくようなリズムで、しかし、それとはまったく異なる音だった。

リンドウは、ふらりと草履を履いた。音のなる方へ向かおうとして、なにかに気づいた。トオトの置いていったは、小箱だった。漆で塗られ、螺鈿が嵌められており、絹の紐で結ばれていたはずの封印が、解かれた跡があった。

リンドウはしばらくじっとみて、小箱を袂(たもと)に入れた。

竹林と並行して流れている小さな冷たい川の流れに沿って、丘に向かって登っていく。リンドウは考えながら歩いていた。物心ついた頃から、リンドウは村からいつの間にかいなくなる人がいることには気づいていた。

しかし、大人になって儀式に参加するまでは、子どもであるリンドウが擬似家族であるトオトやスズナの他の人間と接する機会はそれほどない。この村の人々は固定された小集団を中心に生活しており、各仕事場もそれぞれ独立しているため、リンドウが儀式について多くを知る機会はなかった。

しかし、リンドウとて、意識的にも無意識にも、何らかの手がかりを得ようとはしてきたのだ。
母の死について語られている噂も知っていた。ただ、一番の核心を知ると思われる村の儀式をとりしきる婆は、まるでリンドウがそこにいないようにふるまった。
リンドウはこれまで、自分が子どもだからなのだと考えていたが、もしかしたら、そうではないかもしれない。

婆にはどこか、リンドウを特別に恐れている様子があったからだ。村の中心にいると思われる人物からそのような扱いを受けることに、リンドウは慣れていった。

他の集団との接触がないのも、村の子供達と行事のときにしか会うことができないのも、婆が決めているようだった。そのことについてはトオトに聞いてみたが、その度にうるさそうに払われた。何も知らせたくないのか、話題に出すことが嫌なのか、どちらかを問う間もなく、トオトはリンドウを追い立るようなふるまいをするのだった。

そうしてなぜかトオトは、唐突に「死」についての話をした。

村を見下ろす丘の高台の合戦では、たくさんの人が亡くなったのだと、そのときこそはまるで、リンドウを脅すかのように応えたのだ。どこかおかしかった。トオトにもそれが、わかっていたはずだと思う。一体、なぜ、村から人々は、唐突に消えるのだろう。

リンドウは仕事が終わったあとには、丘までの高台の道を往来するようになった。

合戦で死んだ武士などは、すこしも怖くなかった。
それよりも。じぶんが何も知らないことのほうが、怖かった。
ただ消えていなくなる。リンドウにとっては、見たこともない父ですら、そうだったからだ。

人間の死は、不在によってのみ、リンドウに知らされる。

竹林の道を横切った反対側。道と平行してその脇を流れている小川を遡って、丘への道をたどる。そのとき唐突に、リンドウが、「死の匂い」として嗅ぐ匂いがした。川での、スズナの匂いを思い出す。

下をむくと、自分の履いて歩いている深紅の鼻緒がリンドウの目に映った。匂いは…、リンドウが「それがそうだ」と思っている死の匂いは、唐突に現れる。

泥を墨のように、空気に溶いた匂いだった。川底の、さらに深い、奥底に。どこかで見たような森の中の洞窟の、光の届かない暗がりで、穿たれた穴にたまった雨水の、淀み。人間の死、それは、常に墓のそばにあるわけではない。橋の下に、リンドウが気づく頃にはただ姿を消してしまっている何か。
リンドウだけが、直面できない不在。くっきりと示すその匂いだけが、はっきりと感じられる、何か不快な違和感。

気づくと水に足を入れていた。スズナも、あの村の西にある川で最後に、こうしたのだろうか。

遠くと近くとで、同じ種類の鳥の声が鳴き交わすのが聞こえる。細く長く鳴き、それらしき影が一匹、水底に落ちる。川には誰が放したのか、鯉の稚魚の、まだ色づかない黒い影がいくつかあった。それが音もなく尾を振りながら、これからリンドウも進む川上の方向に登っていくのが、光のかげとなって揺れている。

しばらく登ると川の源流がついに湧水に変わり、水のしずかに湧き出す音が、小さく揺れるだけになった。

 

そして、明け方に聞いたあの、規則正しく何かを打つ音がふたたび、聞こえてきた。

 


丘の頂きに、人影が見えた。背の高い着物姿の男で、持ち込まれた碑に、鑿をあて槌をふるい、何やら刻んでいる。

噂にきいた西の端をわたってやってきたという僧だろう。リンドウは、しばらくその黒い石が穿たれる一定の振動を聴きながら、川から上がったその場に見つけた石に座り、木陰にて、空を見上げた。
うす闇を抜けてきた昼間の雲がまぶしくゆっくりと流れていく。先ほど鳴いていた鳥だろう。二羽並んで西から東へと雲を横ぎり頭上を渡って行った。

しばらくしてから、草の上に寝転ぶ。人影の動きに変事があったらすぐに動けるように、音のする方にからだを向けたまま、地面に意識を向けた。

そうして、目の前の草、からだを渡っていく風、近くを飛んで行く羽虫を見送った。そのままじっとして、世界を吸って吐いていると、ほとんどリンドウの意識はこの丘と一緒になってゆくようだ。

静かな時間が流れた。

そして、日が傾き始めた。僧が一息入れたのを見て、リンドウは起き上がった。
顔と頭、肩についた草を払いながらリンドウは、僧に寄って行って話しかける。

「鑿(のみ)…。」リンドウは言った。

「…その打ち方、好きだ。」

僧侶は表情を変えず、リンドウをじっと見ている。

「石の声を、聞いている、とわかった。」

言葉がわかったようで僧は、「亡き師の句碑を建てている」と説明した。
僧が座っていたので、リンドウは少し上の場所からゆっくりと見て尋ねた。

「どこから、きた?」

僧は、くぼんだ目と、村の男と比べて大きな鼻を持っており、全体的に大柄だった。
旅が長かったのだろうか。灰色の髪の色をして、すこし疲れている様子だった。
僧はリンドウを、追い払わなかった。
リンドウの目をじっと見て、リンドウの質問に、律儀に、答えようとした。

「来し方は…」僧はリンドウをじっくりと見て、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「おそらく、…ぬしにはわからぬ。」

リンドウは、なぜだか、素直にこっくりとうなづいた。「村の者も、よくそう言う。」
あっさりした言い方だった。この時のリンドウは、不思議なことに、この僧に対して、なんらの警戒心も、抱いてなかった。

僧が時折槌を休めたときに、二人は、少しづつ、話をした。

ここに来る前に、師の墓を作った。瞑想した際、「師匠の句碑を作れ。」と声がした、と僧は言う。だから、いく先々で、こうして石碑を建てているのだと。

リンドウは僧の手を珍しげに見た。僧の指が通常見る人間の指より多くあり、いくつかのその指が、関節から不自然に生えているように見えたからだ。

その不思議を問うと僧は、元は武士だったという。指を落としたため、刀を握れなくなり、出家したのだと。そうして、師の墓をたてた後その場で瞑想していると、どこからともなく扉が現れ、そこに入ると近くに人の形をした妖が出てきたのだという。

その妖が、以前切り取られてそのままの指の痕に、その世界の土をつけると、指がまるで植物のように一本づつ生えてきた。僧は、両手の指を、広げて見せた。そのため、こうして師の文言を碑に穿つことができるようになった。と。

僧の指は、11本あった。

僧は、そんなおかしな話をしたが、リンドウには少しも不思議とは感じられなかった。むしろ、これまで村で起こった人間の喪失と、その後に出現した物事に、このことは関連しているようにさえ思えた。なんでも、11番目に現れた扉を経ると、目の前に、あの橋が、あったのだという。

僧が碑を穿つのを開始すると、リンドウは黙ってそれを見ながらまた、物思いにふけった。

二人の間で、草が揺れていた。そろそろ、日没の風が、起こるのだろう。

「私は、死ぬのか。」

唐突に、リンドウは聞いた。

意外な顔をして振り向いた僧は、「…さてな。」といった後しばらく、リンドウを見ていたが、やがて首を振り。「いずれは…。今ではないだろう。」と言った。

丘に風が吹いた。唸るような風だった。合戦で戦った武士たちの叫び。
武士たち…。リンドウが知らないだけで、彼らは龍とも、戦った兵士たちだったのだろうか。
龍……なぜ、急に龍のことなどを思いついたのだろう。リンドウは自分の考えを訝かりながら、

思いついたことがあって、僧に尋ねた。

「これまで通った扉で、どんなことがあったのか、聞かせてほしい。
人などが勝手に消えるようなことは、なかったのだろうか。」

僧は、あったかもしれぬ。といった。
あれは確か、三つ目の扉であった。
ある植物を、ある男に届けたが、その植物はまず、女であって、その女が死んで花になったものを、その一番ふさわしいであろう男に届けた。

それを聞いてリンドウは、興味を持った。

「その植物とは何だ?」リンドウが聞く。
「百合だ。女が死んで、100年経って、一人の男のために、百合になった。

その男も、太陽の神が登り、そして沈むのを、100年経ち、そのひざが苔むすまで、時を覚えず待ったそうだ。しかし、その男は百合の前身の女のそばにいることはできても、あまりにも芳しい植物となった女のそのままを慈しんで世話をするには自信がなかった。

だから、その道の世話に通じている男の元へ、扉と私を使って送ったのだ。」
僧はリンドウに、真顔でうなづいた。「確かに人が一人、消えている。姿を変えて…。」

「その女の名は、なんという?」リンドウが問う。
「…知らぬ。」僧は憮然として答えた。

そうしてリンドウは、ようやく、僧に言った。
「スズナという名を、知らないか。もしくは、スズナという花を。」
「いいや」僧は応える。リンドウは小さくうなづく。

「彼女はおそらく、百合ではなく、橋になったのだ。
お前が渡った、あの橋だ。100年かけてスズナに会えるものならば…、私も待ちたい。   私もまた、あえるのか。その、扉をくぐれば、もしくは…。」

気づくと、僧と石碑の横に、大きな扉が立っていた。
僧はまた黙って、鑿と槌を使い出した。リンドウは扉を見て不思議に思ったが、黙っていた。
それでも、しばらくしたのちに思い当たり、扉を指さしたリンドウが、僧に聞いた。

「これは…、だれの死だったのだ。」

僧侶は沈黙したまま、槌を振るう。
その扉には、六角の印が、刻まれていた。

「…トウトか。」

手を止めてこちらを見た僧の目を、リンドウはゆっくりと、見つめた。まっすぐな目だった。「これまで、私の近くの者が、いろいろな物に、変わっていった。おそらく母は、器械のある水車小屋に。先ほど申したスズナは、おまえが来る機会となった、西の川の大橋に。

そして、おそらく、いまひとりの供の者は、この扉に…。」

僧は、リンドウをみた。リンドウは尋ねる。
「お前は、この扉を通ってきた。そして、それほど変わった様子がない。
指が減ったり、増えたりしているだけのようだ。

今一度、ききたい。…この扉を通ると、私は、何になるのか、知っているか。」

僧はしばらく黙り、二人の周りを吹き抜けている風に、身を任せていた。
そして、おもむろに口を開いた。

「 …ぬしの姿から、我が師を思い起こす。」

リンドウは、白い顔をして僧を見る。
僧はためらいがちに、顔をふせた。リンドウは、僧の話を聞いた。

僧は、師が死んだ後の墓を作り、その前で瞑想していた。すると、先ほども申し上げた妖が、扉と共にどこからともなく現れ、この扉を開けて新世界を臨むなら、指を再生できるという。そして、碑石を掘りながら各扉を巡ると、貴殿から失われた姫への軌跡をたどれる。そう声が、師の墓の前で告げた。僧の身となれど、その声が「姫」と告げると、その忘れがたく、しかし、これまで浮かびもしなかった記憶がよみがり、目の前に突然、扉が現れた。

僧がおそるおそる扉を通ってみると、妖が待っていて、指を一本づつ蘇えらせた。
僧は師の墓のそばで師の読んだ句を石に穿ち、赴いた場所にて、その石碑を立てた。
扉が出るたびに、その向こうの世界で、師の残した俳句を刻んできたという。
「…お前の名は。」リンドウは尋ねる。

僧はゆっくりと、答える。「丈草。…今は、その名で通している」

「以前の名は。」

リンドウが尋ねると、丈草は首を振った。
記憶の中ではっきりしているその名は、自らの愚かさゆえ失ったものの象徴だ。

「今では武士として生まれ、僧侶となった。もう二度と、その名を名乗ることはない。」
「そうか…」リンドウは、小箱に触れていた袂からゆっくりと、手を抜いた。

丈草の顔色は変わらなかったが、槌を持つその手が、わずかに震えていた。
リンドウは丈草の目の前に座り、その指を掴んで、ついていた石の埃を払った。
リンドウの目の前で、丈草の最後の指が再生されていく。

「もはや、お前の力の及ぶところでは、ないのだろうな。」
そういいながら、リンドウは数少ない身支度をする。スズナの草履をしっかりと履き、トオトから受け取った小箱を今一度、しっかりと袂にたくしこんだ。

「トオトの。その扉に、入る。お前の師に。父に、会う。」

二人の間を、風が舞い、白い蝶の幻影が横切った。

扉の六角の印が青白い光を放ちだす。

「わたしを…連れて行け、ウラシマ。」

元武士で、今は僧侶、以前は漁師でもあった男がうなずき、この世界で記憶を経て改めて生まれつつあるリンドウに、その手を、差し伸べた。リンドウはその手を掴み、12本の指を見て不思議な笑みを浮かべた。

「この地で私は、蛇(オロチ)の落とし胤だと言われていた。…おそれ知らずだと」

そうしてリンドウは、海、川、そうして源流を遡って、時を超えた日々を思い出そうとするかのように、村の方へと目を凝らした。スズナと歩いた道、トオトがなんども魚を取りにがした川、そして、水の力を束ねる、元は母であったろう、水車小屋。その目が、虹彩まで赤くなった。

丈草がリンドウに手を差し出す。

リンドウが丈草を見ると、これまでとはちがう目をしていた。驚いたリンドウの意識は、一瞬その目に吸い込まれ、一律のリズムを見出した。
リンドウの赤くなった虹彩が、見る間におちつきを取り戻していく。

そして、織り成す時の中で姿を変えつつふたりは、黄昏の丘を後に、開かれた扉へと向かった。
扉が閉じる前に、リンドウの足元で、スズナのものであった草履の鈴が、ちりん、と鳴った。

そして、空が闇に沈むころ、丈草が文字を穿った石碑が風の中、さらに黒く、光った。

 


その昔、日本の国の本州のある村に、恐れ知らずと言われる娘がいた。

娘の名を、リンドウという。

リンドウは海から時と空を越えて飛んできた龍姫(乙姫)の魂だったのだと、現在では開かれた、そのとなりの村に伝わっている。

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