天駆せよ法勝寺

梗 概

天駆せよ法勝寺

閻浮提(地球)から3.69e+13由旬離れた持双(じそう)星に仏法が伝わって既に千六百年。

閻浮提では、超宗派の法勝寺(ほっしょうじ)の祈念炉が四万六千日の祈祷の果てに臨界に達し、第一宇宙速度に必要な推力が得られた。

宇宙僧は、瞑想と呼吸法を鍛錬し、肉体と精神を制御することで宇宙での過酷な活動によく耐える。

蓮台から抜錨した法勝寺は、医僧・巌真に率いられ、学僧・照海、機械僧・慧眼(えげん)、尼僧エマヌエルらを乗せ、宇宙構造を示す曼荼羅を星図として持双星に向かう。

目指すは百八十年ぶりに開帳される紫釈院の大仏。法勝寺は、その開帳に合わせて転生仏候補のブリヤートの少女サルジェを紫釈院に送り届ける。転生仏は照海らの奉じる教義ではないため、照海らはサルジェに気楽に接し、サルジェは僧たちの人気者となる。

低軌道を超えた後、推進方法は宇宙仏理学に基づき巳今当(時間)を超越する共鳴漸動法に切り替わる。五重塔に似た飛塔内の本堂には、未来仏・弥勒如来が脇侍の文殊・普賢とともに安置される。読経により発生するごく微弱な空間振動をこれら駆動仏が増幅させ、巨大な回転輪構造体・転法輪が推進力に転換する。飛塔は、流体飛翔体である変成堂(へんじょうどう)と共に伽藍を構成する。

照海は、本山の大僧正から受けた秘密指令書を開封し驚愕する。

「忌まわしき持双星大仏を滅せよ」

持双星までの所要時間は四十九日だが、中有(空間)を渡る際は、三千世界に干渉し空間を仏理的に歪曲するため不可思議な現象が生じる。

ことに諸仏が受魂開眼し徘徊すると言われる。

動禅を修する尼僧エマヌエルは、堂殻を破壊せんとする未知の仏理仏と遭遇する。巌真はこれを偽仏と断ずる。

エマヌエルは護法神である金剛力士を装仏して偽仏を船外に排除する。

次にサルジェが、船外に大型の仏理仏が飛来接近するのを目撃する。三六四号と呼ばれるこの仏も巌真は偽仏だという。照海は仏眼仏母を勧請して三六四号を駆逐する。

だが照海は、これら偽仏が真に偽仏であったのか疑いを抱く。

苦難を乗り越えた一行は、大仏開帳の二週間前に持双星紫釈院に着陸する。

照海は、指令に逆らうことに苦悩するも大仏を破壊せぬことを決心した。

開帳の日、集まった無数の群衆の眼前で、大仏堂の巨大な扉が開く。

が、そこに大仏の姿はなかった。

変成堂から観音が歩みでる。サルジェの双子、ウニェンだった。変成堂は、異空間である中有に素仏たる生身を曝し、心身を変質させて醸仏する。持双星への旅程は醸仏の過程であった。ウニェンは、進んでサルジェの身代わりとなり、サルジェは事情を知らされずに予備として連れてこられたのだ。

観音は陶酔する人々の片腕を集めて長い蛇身に植え付け、万手観音と成り始める。

慧眼は、巌真のみが真相を知っていたことを暴露し糾弾する。そして制止を振り切り、観音を滅さんとするが巌真に遮られ共に爆死する。

サルジェは、ウニェンとともに人々の希望となることを群衆に示す。

文字数:1218

内容に関するアピール

梗概を書いて、仏SFが新ジャンルとなりうることに驚いた。宇宙僧の強靭な心身の可能性についてはNASA相手にプレゼンしてもよい。

かつては鑑真や玄奘のように僧こそが海や砂漠を渡る冒険者であった。

唐招提寺のように寺こそが国際的な場所であり時代の最先端であった。

大仏建造は月ロケット同様の国家事業であったろう。

キリスト教とそのアンチテーゼは頻繁にSFのテーマとなる。仏教もそこそこSFには登場する。『デューン』にも『ハイペリオン』にもZenが出る。だが表面的な扱いになにか納得できないものがある。

仏像は、その豊かな造形美から想像力を刺激する。

本作にはむやみに仏が出てくる。超人、ポストヒューマンとしての仏にフォーカスしてみたい。

などと当初は思っていたが、仏教に拘らずに仏飛(ぶっと)びSFを書いてみたい。

本作を読んだあとは、五重塔がロケットに見えてしかたなくなるはずである。

文字数:383

天駆せよ法勝寺

書式とレイアウトが正確なPDF版はこらちから

 

八島游舷

法勝寺発進

  照海 ( しょうかい ) は、そびえ立つ巨大な九重塔を誇らしげに見上げた。
 いよいよ自分がこの飛塔で 持双星 ( じそうせい ) に飛び立つ日が訪れたのだ。
 かつて、ある寺のことを「時間の海を渡ってきた美しい船」と表現した作家がいた。だが、この飛塔は比喩ではなく、まさしく時空を渡る船である。
 本来、五重塔や九重塔は、佛舎利を納めるのが目的である。だが飛塔は、金堂を取り込む形で、修業の場と居住空間を内包する伽藍全体が一つの巨大な船――星寺であった。
 この 法勝寺 ( ほっしょうじ ) は、六勝寺と呼ばれる六山の筆頭星寺である。姉妹寺の五重塔、七重塔の飛塔と比較するとその威容は際立っている。
 九つの各層に展開された黒い屋帆は、天へと上る巨大な階梯となり、八角の白い壁と対照的である。
 だが、力強い垂木や太い柱などの部材は朱に塗られ、下から見上げると全体の赤さが際立つ。
 飛塔の先頭にある相輪と、そこに連なる九つの宝輪は、まばゆい 金色 ( こんじき ) に輝く。
 その最先端には佛舎利を収めた宝珠。この宝珠が中有を切り裂いて突き進むのである。
 相輪まで含めた全高は、百十丈(三百三十メートル)にも及ぶ
 照海は三十五歳。密教と 顕教 ( けんぎょう ) の双方を修めた秀才で、大学での佛理学の研究や指導を担う学僧である。佛理学とは、万物の 佛質 ( ぶっしつ ) から 佛性 ( ぶっしょう ) を引き出し、高次の存在に引き上げるか、エネルギーである 佛象 ( ぶっしょう ) に転換する手法を研究する学術分野を指す。
 照海のまとう墨染の法衣は、動きやすいように紐で各所を縛っている。とはいえ、飛塔の各層の空間には十分な余裕があり、多少ゆったりとした法衣でも問題はない。
 飛塔を見上げるその目は少年のように輝いている。
 持双星に佛法が伝わってすでに千六百年。
 大総本山である転輪山では、法勝寺の祈念炉が 四万六千 ( しまんろくせん ) 日の祈祷の果てに臨界に達し、第一宇宙速度に必要な推力が得られた。
 この年月、三千大千世界の善男善女が百十四言語による読経に参加し、祈念炉に祈りを捧げた。
 そしてここ三年は、他星に飛び立った延勝寺、円勝寺、成勝寺を除き、閻浮提に残った尊勝寺と最勝寺も遠隔 感応 ( かんのう ) で 合力 ( ごうりき ) 供養している。
 飛塔は、十六本の太い不空羂索で大地の蓮台に固定されている。
 発進供養は今や頂点に達していた。増幅された祈念の読経と熱は、効率よく祈念炉に封じ込まれ、内部で反射増幅を繰り返しているが、それが外に溢れ、轟いている。
 私もついに宇宙僧か。厳しい訓練の日々が思い出された。
 百七十種の儀式で使う、五百種に及ぶ様々な宝具の取り扱いの訓練。
 一週間にわたる断食と座禅。
 八時間連続の読経。
  大峯 ( おおみね ) 千日回峰行には及ばぬが、百日に及ぶ深山で生存を賭けた行。
 このときはあまりの辛さに疲労困憊して、正直、断念しかけた。
 数時間前の記者会見での巌真の法話を思い出す。
 巌真は、よく響く深い声で各国の記者たちに語りかけた。
「かつては法隆寺や唐招提寺のように、寺こそが国際的な場所であり、時代の最先端であった。かつては鑑真や玄奘のように、僧こそが海や砂漠を渡る冒険者であった。我ら宇宙僧は、肉体と精神を制御し、宇宙での過酷な活動に能く耐える。この旅でそのことを再び示そう。未来は佛とともにあり。合掌」
 それは法話というよりは演説に近く、記者のみならずその電視中継を見る三千大千世界の善男善女を魅了した。
 巌真の言葉は誇張ではなかった。
 深い瞑想と呼吸法を鍛錬することにより、宇宙僧は、冷凍睡眠などに頼らずとも、深い禅定、三昧の境地に入れば新陳代謝を平均で28%まで落とすことができる。大僧正ともなれば16%、伝説の法師・霊賢は7%まで到達したという。
 とはいえ、今回の旅ではその必要はない。
 最先端の佛理技術に基づく法勝寺の行程は、閻浮提(地球)から3.69e+13 由旬 ( ゆじゅん ) (三十九光年)離れた持双星まで二か月もかからない。
「照海どの。そろそろ時間です。方丈へお上りください」
 飛塔に見惚れていると係僧に声を掛けられた。
 飛塔の第九層、すなわち先端部が、司令部ともいうべき方丈である。
 昇降機はないので階段を上る必要があるが、これも修行の一環である。
 その階段で、巌真と鉢合わせた。
「照海どの、遅い」巌真がじろりと睨んだ。
 照海は赤面して詫びた。実のところ、遅いといわれるほど遅れたわけでもないのだが。
 法勝寺は、超宗派の寺であり、特定の宗派に偏らないようにしている。が、この旅では、医僧である巌真を住職としている。
「その子は?」
 巌真の後ろに隠れるように十三、四歳ほどの女の子がいた。一見、日本人と見えた。
「サルジェだ」
「ではその子が素佛の……」
「さよう。だが、宗雲山に上ってからゆっくり紹介する。今は発進準備を進めよう」
 方丈に入ると、宇宙僧の面々がすでに、円形操作台の周囲に車座となって蓮華座を組んでいた。
  慧眼 ( えげん ) 、エマヌエルらとは四か月の訓練を共に経てきた。
 尼僧エマヌエルは、緊張のためかかすかに頬を上気させている。黒に近い栗色の髪を御河童にしている。
 慧眼は機械僧であり、整った顔は、女性的というよりは中性的な印象を与える。
「祈念炉出力、117%」
 慧眼が、操作盤の表示を確認しつつ、地上の管制堂と最終確認を行い、報告している。
「最終確認を終了しました。各所問題はありません」
 巌真は頷き、告げた。
「全層の屋帆を縮退」
「全層の屋帆を縮退します」航宙僧である照海が復唱し、屋帆を操作する。
 緊張の一瞬。
「抜錨せよ」
「抜錨します」
 照海は操作鍵を押し込んだ。
「法勝寺、発進。合掌!」
「合掌!」
 すべての僧が唱和し、合掌した。
 他の状況であれば、第三者からは、必死の窮地から逃れる所作に見えたかもしれない。
 しかし、僧たちの合掌は確信に基づいていた。
 この瞬間を、三千大千世界の善男善女もまた見守り、合掌した。
 飛塔を大地に固定していた縛鎖が一斉に蓮台から排出され、巻き取られて収納される。
 飛塔は巨大な佛の手に引きずりあげられるように緩慢に蓮台から浮上した。
 そして、バランスを保ったまま速やかに加速し、上昇していった。
 地上からは、佛質から転換された純粋な 佛象 ( エネルギー ) が太陽の如きまばゆい光となって、飛塔の下部から吹き出しているのが見えたであろう。
 九名の宇宙僧が目指すのは、持双星で百八十年ぶりに開帳される紫釈院の大佛である。
 佛記によると、その佛は、無上の美しさであると伝えられている。
 しかし生ある者でその御姿を拝したことがある者はいない。
 半時の後、法勝寺飛塔は、閻浮提の低軌道に位置する周回寺院、宗雲山に接岸した。宗雲山は星寺の中継基地の役割を果たす。
 低軌道を超えた後、推進方法は、宇宙佛理学に基づき 巳今当 ( いこんとう ) (過去・現在・未来、すなわち時間)を超越する共鳴漸動法に切り替わる。
 祈念炉の取り外し、転法輪の装備など、推進切り替え作業は八時間で終える予定となっており、僧たちはその準備に追われた。
「四万六千日も待ったのに、なにを今更そんなに急ぐんだ」
 作業僧の一人が同僚に愚痴をこぼしたのを、作業を監督する巌真は聞き逃さなかった。
「愚か者め。今、この時間にも持双星で救いを求める衆生がおるのだ」
 巌真に睨まれ、作業僧は恐縮して退散した。
 照海も作業に忙殺されて、サルジェのことを聞きそびれていた。
 第二段階天駆の準備は、時間通りに整った。僧たちは飛塔の方丈に入り、蓮華座を組んだ。
 宇宙構造を示す球体 羯磨 ( かつま ) 曼荼羅 ( まんだら ) が、円形に座した僧たちの中央に据えられている。
 曼荼羅とは佛により表象された宇宙であり、それぞれの星辰を、大小無数の佛が表す。特に羯磨曼荼羅では、立体的な佛が立体的に配置される。
「目的座標を持双星に設定」巌真が指示を発する。
 慧眼が確認した。
「全層屋帆を展張」巌真が続ける。
「全層屋帆を展張します」照海が遠隔操作をした。
 大気圏離脱時は、空気抵抗を抑えるために一度縮退された屋帆は、各層で展開され、九重飛塔は本来の姿を取り戻した。
「第一から第七十転経機を始動」
「始動します」
 壁面にびっしり並び、ギアのように複雑に組み合わされた大小の 摩尼車 ( フライホイール ) ――転経機がゆっくり反時計回りに回転をはじめる。
 個々の摩尼車が、様々な固有音程の高速自動読経を開始する。これら転経機は、駆動僧の読経を補完する。
 飛塔内の金堂には、(かつては弥勒菩薩と呼ばれていた)未来佛・弥勒如来が脇侍の文殊・普賢菩薩とともに安置されている。
 推進読経により発生するごく微弱な空間振動を、これら機関佛が共鳴増幅させ、巨大な回転輪構造体・転法輪が推進力に転換する。先端推進物理学研究所で開発されたマイクロ波光子の作用による電磁駆動機関との類似性も指摘されているが、両者の関係は定かではない。
 駆動僧は、昼夜を問わず、二時間の交代制で推進読経を行う。
 佛理学によると、中有は空でありながら実体を持つ空間である。
 九次振動モードで九層の飛塔の各層が龍の如くうねり、中有を駆け抜ける。
 方向の微調整は、各層各所に配置された小佛の機関佛に読経して、スラスターとする。
 法勝寺は、宗雲山を離脱した。
 3.69e+13由旬離れた持双星までの所要時間は、わずか四十九日である。

ブリヤートの少女

 宗雲山を離れて閻浮提時間で二日目。
 担当の推進読経が一段落して、照海は第七層にある 黒白庭 ( こくびゃくてい ) に向かった。
 縁側から見る庭の左手には、慈照寺の向月台を模した、「向星台」と呼ばれる円錐形の盛砂が大小と二つある。
 庭は白に近い灰色の砂利が敷き詰められた枯山水。平らに見えるが、ごく微妙な砂紋が施されている。
 庭の幅一杯に広がる巨大な窓からは、白の砂利と対照的な漆黒の中有(空間)が広がっている。
 僧たちは、その宇宙と星辰に面して瞑想する。
 彼方には、転法輪が土壁のように、水平線の位置に長く伸びている。実際、転法輪は地表では法勝寺を巡る壁の役割を果たす。
 転法輪の内側には、 変成堂 ( へんじょうどう ) が見える。
 変成堂は、飛塔とともに伽藍を構成する六丈(十八メートル)ほどの流体飛翔体である。
 発進時は飛塔に連結されていたが、今は分離している。全体が滑らかな磁性流体で覆われており、黒光りする巨大な卵のようであった。
 変成堂の目的は秘められており、巌真しか知らない。
 照海は、変成堂は何をする場所なのか巌真に問うたことがある。
「修行のためのものだ」とのみ巌真は答えた。
 謎めいた繭の滑らかな表面は、かすかに蠢いているようだった。
 照海は、縁側に先客がいることに気づいた。
 巌真が連れてきたブリヤートの少女。転生佛候補である。
 少女は、窓から広大な宇宙を眺めていた。
「 Здравствуйте ( ズドラーストヴィーチェ ) ……」
 照海はぎこちないロシア語で話しかけた。宇宙僧として基礎ロシア語は必修であり、照海も半年間、ロシアのヴォストチヌイ・コスモドロームで訓練した。
 ロシア佛教の流れを汲む持双星でも、三割はロシア語が話されている。持双星では最短でも十年、ことによると一生過ごすことになるので、法勝寺の僧は多かれ少なかれ、ロシア語を話す。
 彼女は、医僧である巌真の検診を定期的に受けており、共にいるのは何度か見かけた。
 しかし、考えてみれば照海が、彼女と直接話すのはこれが初めてであった。
 黒髪のおさげの少女は、はにかみながら挨拶を返した。
 法勝寺は、転生佛候補、素佛であるサルジェを紫釈院に送り届ける。以前、そのように巌真は説明した。
 だが照海は本人の意図を直接問わずにはおられなかった。
「サルジェどのは、なぜ持双星に行くのかな」
「観光にですよ」
 無邪気な答えに照海は一瞬、あっけにとられた。
「冗談です」少女は微笑んだ。はにかんではいても冗談をいう余裕はあるらしい。
「照海様は、大陸内奥の佛の教えにはお詳しいですか」
 いささかぶしつけな問いではある。
「いや。詳しくはない。よければ教えてもらえまいか」
「私も小さいころから佛の教えには接しておりましたが、恥ずかしながら詳しくはないのです。ただ……」
 少女は、当初のはにかみはどこへやら、ある種の自信に基づいて語りだした。
「巌真様に見せていただきましたが、このお寺にはずいぶん多くの摩尼車がありますね」
「うむ」
「摩尼車がそもそもなぜできたかはご存知?」
「いや、知らない」
「摩尼車は、文字の読めない者の代わりに経を唱えるために作られたと聞きました。私は、バイカル湖という、閻浮提でいちばん透明な湖のほとりの小さな村で生まれました。人々は不幸ではありませんが、それでも貧しい村です。乾燥した寒い土地で、冬には零下四十度になることもあります。その地方では、活佛が信じられております」
「トゥルクのことだね」
「ええ、そう呼ばれることもあります」
 照海の知るトゥルクはもっと幼い時期に選ばれるはずだが、選考基準もまた異なるのだろう。
「トゥルクとは異なりますが、近辺の国では生き神クマリという信仰もあります。私も、当初は生まれた地方での活佛となるはずでした。十分な教育が受けられたのもそのためです。しかし、そのままだと、村から一度も出ることなく一生を終えたでしょう。そんなとき、あるとき巌真様が村にいらっしゃったのです。巌真様が語られた持双星は、ひどい有様でした。そこでは佛の教えがありながら、長年、多くの人々が貧しさに苦しんでいると聞きます。首都は経済的に急速に発展しつつある一方、救われない人々があまりに多いと」
「そのようだな」
 幼さを残す外見からは予測できない大人びた語彙に、照海は戸惑った。ロシア語だから余計に難しく感じるだけかもしれないが。
「貧しくて教育を受けることができなかった親が育てた子が、また苦しみに満ちた哀れな生を送る。よくある話かもしれませんが。私の村は貧しいのですが、持双星ほどではありません。薬も買えず、医者に診てもらうことさえ満足にできないとか」
 サルジェは黒い目に涙を浮かべた。
 照海は、二年間修行したインドの寺を思い出し、末法の世を嘆息した。その地でも貧富の差が激しく、病んだ子どもたちを前に、何度も無力さを味わわされた。人身売買。幼児婚。相次ぐ暴行事件。性別やカーストによる根強い差別。釈迦の生まれた土地でありながら、数千年前と人の世の苦に変わりはない。
「巌真様は、私をこの旅に連れ出してくれたのです。私なら持双星の人々を救えると。いえ、私にしかできないことであると。それが私の 弘誓 ( ぐぜい ) であり、誇らしいことです」
「それがサルジェどのの願いか。ならば叶うとよいな」照海は微笑んだ。
 この少女は自分の使命をよく分かっている。
「どうすればよいのかは、まだ分かりませんが」と少女は笑顔で答えた。
 だが、巌真の宗派は真言宗であるはずだ。なぜ転生活佛なのだろう。
 転生佛は照海の奉じる教義でもない。
 というより、法勝寺の僧で転生佛を教義とするものはいない。
「僧の方のお名前には、意味があると伺いました。ショウカイとはどのような意味なのですか?」
「海を照らし、難船を救う灯台のようになれ、という意味で、師から頂いた名です。私には過ぎた名だが」
「サルジェとは『革命』を意味するそうです」
「ああ……」
「かつて大陸内奥では、そのような名が遙か昔、文化大革命にちなんで付けられたそうです。その時は議論を呼ぶ名であったでしょう。しかし、私の両親は、古い意味を乗り越えるため、あえてこの名を付けた上で、新たな意味を与えたそうです。私には革命を起こす力はないでしょう。でも巌真様は私でも役に立てることがあるとおっしゃいました。私はいつもウニェン姉様に頼りっきりでしたから」
「お姉さんがおられるのか」
「ええ。二つ上でとてもやさしいのです。あの村で、今も幸せに静かに暮らしています」
「お姉さんとは仲が良かったのだな」
「今生の別れと、これを餞別にもらいました」
 少女は、蓮華文様の 腕釧 ( わんせん ) (腕飾り)を見せた。
「ウニェン姉様も同じものを持っています。これを見て姉様を思い出していたのです」
 少女は微笑みながらその素朴だが優雅な模様をなでた。
「私ももっとしっかりしないといけませんね」
 少女は目を拭った。照海もそれを見て熱いものがこみ上げ、目をしばたいた。

執金剛神との遭遇

 法勝寺の旅は、何事もなく過ぎていった。
 中有(空間)を渡る際は、三千世界に干渉し空間を佛理的に歪曲するため摩訶不思議の事象が生じる。
 ことに諸佛が受魂開眼し徘徊すると言われる。
 照海も先達の宇宙僧からその手の話をよく聞いたが、よく確認すると伝聞の伝聞で、噂の類と思われた。
 飛塔全体は法壁で中有の干渉から保護されているし、無論そのような現象に出くわすことはなかった。
 昼夜の区別は人工的なものであるが、僧たちは規則正しい生活を送る必要性からも、閻浮提時間での生活時間を継続していた。
 宇宙僧にとっても運動は健康維持に欠かせない。エマヌエルは二日に一度、動禅の会を開いた。
 動禅とは座禅と異なり、 瑜伽 ( ゆが ) の体勢で瞑想する。時には激しく体を動かすこともある。美容にも効果があるといわれ、今日の佛教の隆盛の一因でもある。
 事実、エマヌエルの肉体は磨き抜かれた美を誇っており、照海はあらぬことを考えぬように自制心を奮い立たせる必要にたびたび駆られた。
 照海他、動禅を普段から行っている僧はいなかった。エマヌエルにとっては専門分野であるので、住職である巌真もこのときばかりは不本意そうではありながらも、エマヌエルの指導を受けていた。照海は、体の硬い巌真がしかめつらで汗を流しているのを見て吹き出さないように苦労した。
 しかし、人間より可動域が大きい慧眼が動禅するのを見るのは、いささか不条理であった。
 エマヌエルによると、機械僧も機根を持ち大悟できるのであるから、動禅もまた効果あること間違いないという。
「それでも機械僧が悟りを開ける可能性は、人間の二十分の一だと」
 慧眼は悔しそうに言った。
「前例はあるではないですか」
 照海は慰めた。だがその前例は五指に満たなかった。

 

§

 

 閻浮提を離れて四十日め。
 照海は、その夜、第八層にある僧坊の自室にいた。僧には個室が与えられている。
 照海は、本山の照雲大僧正から受けた秘密指令書の封印を破って開封した。指定した日時に開封するよう指示を受けていたのである。
 その文面は信じがたいものであった。
「裏切り者に用心し、忌まわしき持双星大佛を滅せよ」
 そう記されているだけで、理由や説明はない。その達筆は間違いなく、師の照雲のものである。
 私は大佛を壊しに持双星まで行くのか? 参拝するのではなく。
 持双星大佛は、 雛僧 ( すうそう ) のころから空を見上げ、いつかは見たいと念じていた長年の夢である。
 その夢を果たしつつあるという実感は今でもなかなか沸かない。
 だが、なぜ持双星大佛が忌まわしいのか? 裏切り者とは?
 そのとき、開けておいた扉を叩く者がおり、照海は顔を上げた。
 エマヌエルだった。もともと白い顔をさらに蒼白にしていた。
「すぐに方丈まで来てください」
 照海はエマヌエルとともに方丈のある第九層に向かった。
 巌真、慧眼、サルジェらが無言で表示機の画面に注目している。
「第三層の堂殻付近です」
 画面には、人間よりは二回り大きい何者かが堂殻(外壁)に面しているのが映っている。
 眷属であるらしいが鎧を着けていない。
「 佛理佛 ( ぶつりぶつ ) ですね」と慧眼。
「倉に入っていた一躯と思われます」
 すると中有に佛理佛が顕現するという噂はまことであったか。
「なにをしているのだろう」照海がつぶやいた。
「分かりません」
「録映機を切り替えてみよ」と巌真。
 別の角度からの映像が映り、斜めからではあったが、眷属の顔が見えた。
 穏やかな顔であった。二つの 眼 ( まなこ ) が涙の滴をたたえたように光る。
「姉様?……」サルジェがつぶやく。
 佛理佛は腕を振り上げ、手にした三鈷杵を堂殻に叩きつけた。
 僧たちは、瞬時にその眷属の意図を理解した。
 堂殻の表面から小さな破片が飛んだ。
 二度、三度と三鈷杵は叩きつけられる。
 その刹那、穏やかな顔は、牙を剥いた怒面と化し、躯体に輝く金色の鎧が瞬時に顕現した。
  執金剛神 ( しゅこんごうじん ) である。
「これは偽佛だ」巌真は断じた。
「このままでは堂殻が破壊される」その額には汗が滲んでいた。
「隔壁は閉鎖したが、初層の金堂からもそう遠くない」
「私が行きます」
 エマヌエルが壁面の収納庫の前で合掌した。小声ですばやく小咒を唱えると、扉は解錠されて開いた。
 内には二躯の筋骨隆々たる金剛力士が収まっていた。
「金剛に対するには金剛にて」
 エマヌエルがさらに小咒を唱え、さらに
「 那羅延天 ( ならえんてん ) 装佛」
 と発すると、金剛力士は一瞬光を放って無数の小片に分解された。
 小片はエマヌエルの体を取り囲み、瞬く間に再度組み上がっていく。
 エマヌエルの全身は顔面を除き、金剛力士に包まれた。もともと筋肉質であったが、金剛力士の柔軟な筋肉で補強されている。
 しかし、体の線は女体のそれを保っていた。
「第三層に向かいます」エマヌエルはそう言うと、壁に掛けてあった小型通信機を装備して方丈を出た。
 執金剛神は、その間も金剛杵を揮って外殻を傷つけている。
「ヒビの状況からすると、後数十回で堂殻が突破されます」慧眼が報告する。
 だが生身の人間が佛里佛に直面して対抗できるすべなどない。法壁の内側では佛を脱魂するわけにもいかぬ。
 ややあって、表示機の画面にエマヌエルの金剛力士が見えた。緊急回廊を使ったせいか、第三層に達するまで、それほど時間はかからなかったようである。
 金剛力士は執金剛神に立ち向かった。
 二躯は、金剛杵を交えて激しく争った。執金剛神のほうが大柄で優勢に見えた。背中からは激しい炎を噴出している。
 エマヌエルは鍛えた柔軟な体を活かして、巧みに執金剛神の突きをかわす。
 動禅のみでなく、なにかの武術を嗜んでいるとみえる。
 両者は一瞬動きを止めて対峙した。
 やがて隙を見て、エマヌエルは独鈷を捨てると執金剛神に抱きつき、双腕を封じた。エマヌエルの金剛力士の肌が焦げる音がした。
「エマヌエルどの。第六気閘を開放する。そこから堂外に放出されよ」巌真は通信機で指示した。
「金剛力士を一躯失うことになりますが」
「この事態ではやむを得まい」
「承りました」
 壁面の映像では、第六気閘の内扉が開くのが見えた。
 映像は、第六気閘内に切り替わった。執金剛神は激しくもがき抜け出そうとしているが、エマヌエルの両の上腕は筋肉と血管が盛り上がり、抜け出すことができない。
 エマヌエルにじりじりと気閘内に押し込まれた。
「巌真どの、外扉の開放の準備を」
「できている。合図されよ」
「三……二……一……今!」
 外扉が開放され、二躯の両方が中有に瞬時に吸い出された。
 と見えたが、その刹那、金剛力士の背中が割れ、エマヌエルが脱皮をするように身を大きく反らせて半身を現した。
 手は合掌している。
 そして右足、左足をすばやく抜き出すと、金剛力士の背中を蹴り、合掌したまま、大きく後ろに飛び、宙を回転して堂内に戻った。瞬時に、内扉が閉じた。
 二躯は外扉から吸い出され、中有の闇に飲まれていった。
「エマヌエルどの。無事か」
「ええ。方丈に戻ります」
 一同は安堵のため息を漏らした。
「サルジェどの。ウニェンとは姉の名だろう。なにゆえその名を呼んだのだ?」慧眼が聞いた。
「顔が一瞬、姉のように見えたのです」
 サルジェは微笑みを浮かべた。
「でもきっと気のせいです。最近は姉のことばかり考えていましたから」
 だがその笑みはどこか自らを強いているようだった。
「なぜあの眷属は、堂殻を破壊しようとしたのだろう」照海は独りごちた。
「照海どの。あれは眷属ではなく偽佛だ」巌真が答えた。
「佛の働きはときとして我らの理解を超えるもの。本件は方がついたのだから、おのおの方も速やかに作業に戻られよ」
 だが、照海は執金剛神の顔を忘れることができなかった。
 堂殻を破壊するのが目的というより、必死に外に出ようとしているみたいだった。
 耐え難い苦しみから逃れるように。
 さらに奇妙なのは、エマヌエルと面したとき、一瞬、憤怒の相がほころんだように見えたことだった。
 あたかも人を見ることが嬉しいかのように。

有翼如来の飛来

 その二日後。
 照海が 黒白庭 ( こくびゃくてい ) で一人座禅を組んでいるときだった。
 最初は香りだった。嗅ぎ慣れた抹香と違い、滑らかで優しい。
 どこから漂ってくるのだろう。深く吸い込む。
 そして、「佛」が現れた。
 阿彌陀佛の顕現か?
  早来迎 ( はやらいごう ) の図を思い出した。雲に乗り、速やかに往生者を迎え来たる佛。
 だが、それは照海が知るどの佛にも似ていない。背中には二対の翼を備えている。腕はなく、シンプルなで幾何学的な顔も首も、優美な曲線の体躯も、人の姿とは異なる。
 枯山水は抽象化された表象だが、同様に、この佛も現在美術のように抽象化された概念が、再び形を取ったようだった。
 人間を超越し、動物を超越し、生命を超越した未曾有の超存在。
 そして優雅で美しい。
 観想の中での心象がここまでくっきりと見えたことはなかった。
 佛は、五色に輝く瑞雲に包まれている。
 これが浄土というものだろうか。
 瑞雲? 中有に?
 照海は、自分が半眼ではなく目を見開いていることにはっと気づいた。
 これは現実だ。
 大型の佛理佛が、飛来接近している。身の丈は四丈(十二メートル)はあろうか。
 ふいに右肩をつかまれた。
「照海どの」
 巌真だった。エマヌエルと慧眼も傍らにいた。
「黒白庭の近くで近接警告が出たので、ここに来たのだ」
「照海どの、あれはなんという佛ですか」エマヌエルが聞いた。
「分からない。如来であることは間違いないが、あのように美しい佛は……」
「しっかりされい、照海どの」巌真が叱咤した。
「外見に惑わされるとは僧にあるまじきこと」
「近接警告度が危険域に達しました」と慧眼。
「うろたえるな。飛塔は法壁に守られている。すぐに危険はないが……どうしたものか」
 巌真は腕を組んだ。
「羂索で動きを封じてみよう。慧眼どの、そのように」
 慧眼はためらったが
「西側第二錨および羂索を対象の進行方向手前に放出」と応じた。
 発進まで飛塔の強大な推進力を押さえ込んでいた巨大な鎖と錨が放出された。
 鎖は佛にからみついた。
 すると、有翼如来は飛塔に接近してきた。
 そして声を発した。これが 梵音 ( ぼんおん ) というものか。
 中有を伝わる清浄な妙音が、僧たちの頭蓋を震わした。中有が実体を持つ空間であるためか、それともこの音が特殊なのかは分からない。
 だがその声は確かに僧たちに聞こえ、その感情をかき乱した。
「第一鎧板に亀裂発生。伝感器からの警告です」エマヌエルが報告した。
「羂索放出。解放せよ」
 鎖が放出され、拘束が解かれると、佛は発声を止め再び飛塔から距離を取った。
「慧眼どの、佛理攻撃の用意を」
 慧眼はまたためらった。
「巌真どの、あれもまた偽佛といわれるのか」
「さよう。当山の航行を妨げるものはことごとく佛敵である」
 慧眼はやむなく従った。
「……第三番から五番まで、法塔に佛弾装填」
「近接法撃開始!」
 有翼如来は、緩やかに回転しながら、天女か迦楼羅が舞うように軽やかに回避運動を行う。
 法撃はことごとく外れた。
「やむを得ない。照海どの。あれを直接排除いただきたい」
「しかし!」
「偽佛は飛塔を離れました」慧眼が告げる。
 巌真は一瞬怪訝な顔をした。が、
「いかん。変成堂に向かう気だ」
 その言葉どおり、有翼如来は巨体を引き起こして変成堂に向かった。
「変成堂も法壁に守られているのでは」
「いや、あそこに法壁はない。照海どの、急げ!」
 照海は我に返った。
 使命を果たさずして、ここで果てるわけにはいかない。
「承知しました。エマヌエルどのは金堂へ」
 照海は通信機を装備し、蓮華座を組んだ。
「照海どの、金堂に着きました」
 通信機からエマヌエルの声が聞こえた。
 照海は、目を半眼にすると指示を出した。
「エマヌエルどの、全摩尼車を緊急停止」
「了解」
 金堂では、高速読経音が停止し、静けさが訪れた。
「第八、十四、二十二、二十三車を始動」
「了解」
 転経機の一部が、先ほどとは音程を変えて再び回り始める。
 照海は、瞑目合掌し、 佛眼佛母 ( ぶつげんぶつも ) の御姿を観想しつつ、般若理趣経の小咒を唱え始めた。
 氷が瞬時に凍結するように、精神が極限まで研ぎ澄まされる。
 (佛眼佛母に帰依し奉る。大難大苦より我らを救い給え。)
 先ほどは推進力を補助していた摩尼車の高速回転により、読経の念を佛質に転換するのである。
「佛質転換度75%……」エマヌエルが読み上げる。
 僧たちが見守る中、外部の中有にごく微細な小佛が現れ始めた。小佛は二つ、三つと集まり、次々と 結佛 ( けつぶつ ) して大きくなる。
 まずは準備段階として、小さめの 准胝 ( じゅんてい ) 観音が五体結佛され、小佛の発生と結佛速度がさらに速まった。
 (佛眼佛母に帰依し奉る。大難大苦より我らを救い給え。)
「佛質転換度116%……122%……」
 無数の佛が自己相似的に畳み込まれ、佛質の存在次元が高次化していく。
 (佛眼佛母に帰依し奉る。大難大苦より我らを救い給え!)
 ついに光に包まれた佛眼佛母が船外に顕現した。
 優雅な衣をたなびかせた女尊は、有翼如来に劣らぬ荘厳さを呈していた。
 この速度でこの規模の勧請ができたのは、照海の法力と法勝寺の強力な摩尼車群のなせるわざであった。
「大丈夫でしょうか」エマヌエルが不安げに聞いた。
「大丈夫だ。我らの願いはすでに届いている」
 照海には自信があった。
 佛眼佛母は、有翼如来と並行して飛翔を続けた。
 二躯は、牽制するように螺旋を描き、互いに距離を取っていた。
「照海どの、どうされる」慧眼が聞いた。
「 撥遣 ( はっけん ) を行う」
「しかし相手は、法壁の向こう側でしょう」
「私が直接はできなくとも、勧請した佛で撥遣すればよいだろう」
 撥遣とは、佛を脱魂する操作である。
 脱魂すると佛質も残さず消滅するであろう。
「佛で佛を撥遣。そのような複雑な操作は聞いたことがありませんが」
「私も初めてですよ」
 照海は額に汗を浮かべて微笑んだ。
 佛眼佛母と波長を合わせ、佛心を融合する。佛体の感覚が接続される。
 法悦の一瞬。
 これが佛の感覚か。宇宙に溶け込んだように果てしなく拡張される意識。
 だがこのような意識の広がりに応じ続けるには、照海の行は足らなかった。
 おそらく接続が維持できるのは四十秒が限界。即身醸佛でもせぬ限り、佛理佛を安定させることは至難の技である。
 照海は、 弾指 ( だんし ) し、真言を唱えようとした。
 その矢先。中有を渡り、弾指の音が響き渡った。
 先を越された。
 有翼如来により、勧請されたばかりの佛眼佛母はたちまち撥遣され、無数の小佛に分解し、小佛もまた消え去った。
「対象が法壁を超えてきています」
 さもあろう。偽佛であれど佛であれば法壁がなんの妨げになろうか、と照海は思った。
 偽佛は、黒白庭のすぐそばまで接近し、巨大な顔が覗き込んだ。
 巨大な眼が照海たちを見据えた。
 照海は、反撃を覚悟した。
 だが、法壁の内側に入れば、照海もまた直接撥遣できる。
 照海は、弾指し、真言を唱えた。
 有翼如来は光を瞬かせて崩壊し、消滅した。
 照海は合掌してその輝きが消え去るのを見送った。
 だが、照海は、疑念を抑えられなかった。
 巌真はあれを偽佛といった。
 偽佛はまことに偽佛であったのか。

持双星大佛

 閻浮提より発して四十八日。
 ついに法勝寺は持双星のある 風輪 ( ふうりん ) 星系に入った。
 莫大な加速度に達していた法勝寺は、十二日前から方向を百八十度転換し、逆噴射して減速を続けていた。
 以前は虚空に瞬く一点にしか過ぎなかった風輪星が、しだいに肉眼ではっきり見えるようになる。
 さらに一日経つと、風輪星を回る第四惑星である持双星の姿も、刻一刻と大きくなり、ついには足元の視界を覆っていた。
 持双星の低軌道に入ると、法勝寺は、屋帆を縮帆し、初層を下にしたまま緩やかな大気圏突入の体勢に入った。
 法勝寺は、持双星を四分の三周した後、大陸の北部にある、雪を頂いた大山脈に接近した。
 紫釈院は、大山脈に囲まれた高地の宗教都市オラーンの中心寺院である。
 上空は鮮やかな紫雲で覆われていた。日の出を迎えようとしている。
 法勝寺は、雲の層に沈み込むように優雅に下降していった。
 雲を抜けると、紅い誘導法灯が小さな宝珠のように連なって瞬き、蓮台の位置を示しているのが見える。
 今頃は、地表の紫釈院でも供養が行われ、祈念が膨大な重量の構造物の下降を支えているはずである。
 法勝寺は、紫釈院の広大な敷地に接して専用に用意された広大な蓮台に、迎え入れられるように着陸した。
 大佛開帳の一週間前だった。
 紫釈院の僧たちは、母なる閻浮提から訪れた照海らを暖かく迎え入れた。
 照海たちは法勝寺で開帳の時を待った。
 法勝寺は、鎧板を開放し、今や建築物として機能していた。
 窓から見える細い道には、参拝に各地から訪れた人々がひしめいている。そしてその人々を当て込んだ出店や売り子も数多く出ていた。
 法勝寺に通じる道には、そこかしこに鮮やかな佛旗が立てられている。さらには、五色の花びらが撒き散らされ、高地の乾いた風がそれを吹き飛ばしていく。
 照海は、紫釈院の内外各所に点在する石化過去仏や、炭化四天王を訪れて日を過ごした。
 そのうちに、開帳の日が訪れた。
 一週間前にすでに人で満ちていた小都市オラーンは、今や完全に人で溢れていた。
 線香の煙と匂いがそこらじゅうに立ち込め、法勝寺の第八層の僧坊まで立ち上っている。
 着陸した今、転法輪は接地し、法勝寺を取り囲む壁となっていた。天駆の間は飛塔に連結されていた東西南北の四方門も今はすべて分離され、その巨大な扉を開放していた。
 紫釈院、飛塔、変成堂、それらすべてに、四方の門を抜けた人々が押し寄せ、取り囲んでいる。変成堂は依然として磁性流体にくるまれたままであった。
 照海がこれほど多くの人が集まるのを直接目のあたりにしたのは、二回目だ。一回目は法勝寺発進のときである。今は、明らかにそれより人が多く、数万、あるいは十数万人はいると思われた。
 そして人々のさざめきとは別に、開帳に備えて、紫釈院のすべての僧が徹夜で読経する声にもまた熱が入っている。
 照海はまだ迷っていた。
 照雲大僧正の指令に従い、大佛を破壊すべきか。
 だが、定めの時は近づいている。
 いや、やはり大佛は破壊すべきではない。
 臨済録では「佛に会えば佛を殺せ」と言う。実際のところは、無論、禅僧が佛を粗末にするはずもない。
 照海は大佛を無論まだ見ていない。大佛堂の巨大な扉は固く閉ざされたままだ。
 紫釈院の僧によると、大佛堂の高さは百二十丈(三百六十メートル)あるという。法勝寺の高さとほぼ等しい。
 あの扉の向こうにいかなる佛がおわすのか。
 大僧正の真意は図り難いが、まず見てからでも遅くないのではないか。
 照海はそれが言い訳であることを自覚していた。おそらく、大佛を目にすると、それがどのようなものであれ壊すことなどできるはずはないだろう。
 有翼如来でさえ、あれほど美しく荘厳だったのだ。これほど多くの衆生に渇望される大佛が壊せるはずがない。
 親のように育ててくれた大僧正の指示に逆らうのは心苦しいし、厳しい懲戒があるだろう。ことによれば僧籍を剥奪されるやもしれぬ。一生を掛けてきた僧としての人生を全否定されるのは耐え難い。しかし、ここまで来たのは、人生を掛けても大佛が見たかったからだ。
 照雲大僧正もこの熱気に満ちた群衆を見れば心を変えるに違いあるまい。
 定められた正午の時が、鐘楼の鐘により告げられた。
 法勝寺の僧たちとサルジェは、第二層の縁側に 集 ( つど ) っていた。この高さでも、周囲の様子はよく見渡せた。
 読経が高く低く流れる中、集まった無数の群衆の眼前で、大佛堂の巨大な扉がゆっくり開く。
 照海は、合掌したまま、目を開けた。
 が、大佛堂内に佛の姿はなかった。
 昏い 空 ( くう ) のみがあった。
 照海は混乱した。
 まさか私の信心が足らぬのか? それゆえ佛が姿を現さぬのか?
 幾多の苦難に耐え、星の海を渡ってきたのはこの 空 ( くう ) に面するためであったのか。
 心揺さぶられる疑いが生じた。
「ない……」
 群衆が大きく声を上げたが、それは失望の声ではなかった。
 群衆は、大佛堂には大佛がないことを知っていたようだった。
 鐘楼に上っていた紫釈院の大僧正が、飛塔からやや離れたそびえる変成堂を指差した。群衆は再び沈黙した。
 変成堂の黒い膜が、瞬時に地面に滑り落ち、灰色の地肌が覗いた。
 表面に縦に無数のヒビが走るや、変成堂の外壁は瞬時に四散した。
 何者かが進み出た。
 群衆からは大歓声が上がった。
「新たなる佛! 新たなる佛!」
 それは、照海が見る限り、一躯の小ぶりで華奢な観音であった。
 観音は、 天衣 ( てんね ) をまとい、豪奢な 瓔珞 ( ようらく ) を首に掛け、王女の風格であった。
 穏やかな微笑みを浮かべている。
「姉様? ウニェン姉様なの?」
 サルジェが語りかける。
 だが彼方の変成堂にその声が届くはずもない。
 サルジェは傍らの照海にいいつのった。
「今度こそ間違いありません。あれは姉です。姿が変わっていても分かります」
 観音は三対の腕を振り上げた。手はいずれも合掌している。
 歩み出たように見えた観音に足はなく、人々をかき分けるように蛇のように滑らかに進む。背中からは、白く、滑らかな蛇身のような胴が伸びていた。
 人々は、その観音に花びらを投げかけた。
 観音は人々をかき分けながら、腕を伸ばすと、傍らで合掌する若い女の右腕を摘んだ。
 女の右腕は、彼岸花の茎のように抵抗もなく摘み取られていった。
 観音は、滑らかな動きで、人々から次々に腕を摘んでいき、それらを長い蛇身に植え付ける。腕は一対が揃うと合掌する。
 人々は争って自らの腕を差し出した。腕が増えるたびに、観音の全体の大きさは徐々に増していくように見えた。
 蛇身から伸びた無数の腕は、胴の下部では長い胴を支え、百足の脚のように胴を運んだ。その腕は、最初から生えていたように滑らかに動いた。
 観音は微かにその佛体から光を放っていたが、腕の数が増すにつれ、その光輝も増していった。
 これはまさしく慧可断臂の図か。悟りを目指すために腕を斬って達磨に差し出したという。だが、人々は悲壮な決意というよりは恍惚の中で腕を次々に差し出していった。
「あれは、蓮華王……万手大観音……」エマヌエルがつぶやいた。
「あれが巌真のもたらした結果だ」
 叫んだのは慧眼だった。
「今こそはっきりした。いたいけな少女を加速醸佛するとは鬼畜にも劣る所業」
  大音声 ( だいおんじょう ) で法勝寺の僧と人々に呼びかける。
 照海は理解した。
 この万手大観音こそが持双星大佛なのだ。
 持双星への旅程は、醸佛の過程であった。
 だが、美しい観音の姿に陶酔し歓呼の声を上げる衆生に、慧眼の声は届かなかった。
「照海どの、エマヌエルどの、目を覚まされい! あの少女は、四十九日もの間、変成堂で独り異空間たる中有に晒され心身を変質させてあのような姿になった。執金剛神はあの少女に感応し、外へ出ようとしていたのだ」
 照海らは驚きのあまり呆然と立ち尽くしていた。
 されば有翼如来も少女を救わんと顕現したか。
「このような大佛は滅せねばならない」
 慧眼はつぶやくと、法勝寺内部に駆け込んだ。
 大佛を滅する司令は、おそらく慧眼もまた受け取っていたのだ。
 慧眼はすぐに初層から駆け出てきて、成長しつつある万手大観音目掛けて突き進んだ。
 我に返った照海らも、法勝寺を駆け下りて慧眼の後を追った。サルジェも一緒に走った。
 紫釈院の警備僧兵が四名走り出て、観音に向かう慧眼を地面に抑えつけた。
「放せ! 加速醸佛など、佛のありようであるはずがない!」
「慧眼。見苦しいぞ」
 巌真が立ち塞がった。
「この衆生の歓喜が聞こえぬか。いや、そなた、本当に慧眼なのか? 網絡攻撃でもされたか。確かにウニェンは佛卵で醸佛され、今や蓮華王万手大観音となりあそばされた。これも衆生救済にはやむを得ぬ方便。この地の愚昧な衆生をそうでもせねば救えようか。しかし、ウニェンは、進んでサルジェの身代わりとなったのだ。本来ならサルジェのほうが適性が高かったものを。まさしく大慈大悲の弘誓によるものよ」
「姉様……知らなかった……」サルジェがつぶやいた。
「巌真様、では私は何のためにここに?」
「サルジェよ。お前は予備の素佛として立派に役目を果たした。だが、ウニェンが醸佛した今、 安心 ( あんじん ) するがよい」
「しかし、これは人々の求める救いでしょうか」
「衆生は衆生自らが求める道でのみ救われる」
「私にはそうは思えません」
 そう言うと、サルジェはなおも人々の腕を摘み取り続ける蓮華王に駆け寄った。
 今や蓮華王は数百の腕を得て、その体躯は優に地上から二丈の高さに達していた。
 サルジェは両腕を広げて蓮華王の前に立ち塞がった。
 あたかも巨象の歩みを止めんとするほどその姿は小さく見えた。
「姉様、おやめください」声を張り上げる。
「サルジェ……」
「そのようなことをせずとも衆生は救えましょう」
「お前には分からないのです。ただの小娘であるお前には」
 蓮華王の言葉が周囲に響いた。
「私の美しい腕を見なさい」
 ウニェンが胴の一部を持ち上げると、無数の腕が、風に吹かれる稲穂のように滑らかに 戦 ( そよ ) いだ。
「姉様」
「これこそが衆生を救う美しい腕ぞ。だが、お前には分からぬ」
 蓮華王は眉をひそめた。
「お前に私の四十九日の孤独と苦しみが分かるものか!」
「お姉ちゃん……」
 サルジェは目に涙を浮かべた。
「おぞましい……」抑えつけられたままの慧眼がつぶやいた。
「いいえ、おぞましくはありません!」サルジェは声を上げた。
 そして蓮華王に抱きついた。蓮華王は動きを止めた。
 ウニェンの憤怒の相が緩んだ。
 一対の細い腕が降りてきて、サルジェの両肩に触れた。
 その腕には、サルジェと同じ腕飾りがあった。
 蓮華王の動きが止まったのを見ると、慧眼は隙を見て、ふところから宝珠を取り出し、すばやく遠隔操作した。
 法勝寺の砲門が開くと、佛砲がせり出し、立て続けに轟音を放った。
 蓮華王に目掛けて三連の佛弾が飛来する。佛理衝撃の異音が発した。
 黒い煙が立ち込めた。
 だが佛弾は蓮華王を傷つけることなく、三対の腕がそれぞれなんなく受け止めていた。
「慧眼よ、むだなあがきはよせ」巌真がたしなめた。
「お前の力など、高貴なる蓮華王に遥か及ばぬ」
「それはどうかな」
 慧眼は不敵に笑った。
「僧兵ども! 我が身を放さねば地獄への道連れとしてくれるぞ。我がすべて佛質を佛象へと変換すれば、半径三丈はたちまち涅槃となる」
 警備僧兵は顔を見合わせた。
 照海はささやいた。
「エマヌエルどの、金堂の第六番摩尼車の準備を」
 エマヌエルは肯き、金堂に駆け込んだ。
「虚仮威しと思うてか。見よ」
 慧眼が瞑目して念じると、慧眼の前方一丈あたりで、突如異音を発して地面が切り取られた。
 警備僧兵は一瞬ひるんだ。
 慧眼はその隙に僧兵の手を振り払った。蓮華王に駆け寄る。
「蓮華王よ、滅せよ!  逆流 ( ぎゃくる ) して涅槃に帰するがよい」
「そうはさせぬ」
 巌真が立ちはだかった。
「おのれ、巌真!」
 すべてを飲み込み消滅させる涅槃球体は、すでに慧眼の周囲に発現しつつあった。
 慧眼と巌真の両者のみは瞬時に飲み込まれた。
 涅槃球体は緩やかに拡大を続け、蓮華王すら飲み込むかと思えた。
 だが、不可視の壁によりその拡張は阻止された。
 照海が、印を組み、摩尼車の補助により法壁を発生させたのである。
 垂直に伸びた法壁は、球状を包み込んだ。
 涅槃球体はあがくように拡張を続けようとしたが、巌真が今一度両の掌を合わせて合掌すると、押しつぶされるように消えた。
 球体に削り取られ、蓮華王は数十本の腕を失っていた。
 傷ついた無数の腕の中には、菊の長い花弁に守られた花芯のように、サルジェが固く抱きしめられていた。

 

§

 

「照海様、行ってしまわれるのですね」
「このたびの顛末は、大総本山に戻って報告せねばなりません。民間の船では閻浮提まで五か月かかりますが」
 開帳の日から四日が経ち、一時は人で溢れたオラーンの街もふだんの静けさを取り戻していた。
 ウニェンの活動は鈍くなり、大佛堂でじっと動かなくなることが多かった。
 照海とサルジェは、黒白庭の縁側に座っていた。
 法勝寺の第七層は、地上とはまた別世界の静けさだった。
 だが、かつては漆黒の宙を映していた瑠璃は、高地の明るく澄んだ空を映し、光に満ちた別の庭のようだった。
 だが、サルジェの顔は憂いをたたえていた。
「不安ですか」
 照海は優しく尋ねた。
「ええ」
「あなたなら大丈夫」
「トゥルクはこちらか」エマヌエルが探す声が聞こえた。
「ほら。また転生佛への面会の希望でしょう。きっとうまくやれます」
「照海様はまた戻ってこられますか」
「ええ、きっと」
 サルジェと照海は笑みを交わすと、相対して合掌し、頭を下げた。

 (了)

文字数:18779

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